「……行こう」

 若菜は一歩、歩みだした。

 ざわり、と、あたりの空気が変わる。
 目の前に現れた異物に、あの目玉どもが一斉にこちらを向いた。
 ぎょろり、ぎょろり、ぎょろり。
 不審者が敵かどうか見極めようとする彼等の間を、少年たちを引き連れ、廊下の先を目指して。
 他の子供たちにはそんなものが見えなかったとしても、あるはずのない廊下は十分不気味だった。
 赤い廊下、赤い壁、赤い天井はどこか薄暗い。
 窓硝子も赤いので、向こう側から差し込む太陽が本物なのかどうかもわからない。ただひどく暗く感じて、その闇に隠れる目玉たちにうっかり躓いたりしながら、若菜を追う。

 どこかで、誰かが廊下を駆ける音がした。
 目玉が見たものが何者なのか見極めようとでもいうのだろう。
 待合室などを徘徊していたストレッチャーが見張り兵なら、視線が斥候部隊、次に現れるのはきっと、武器を持った兵士のはずだ。
 見つかる前に、追い出される前に、いいやあるいは、武器を持って追い詰められる前に。

「美奈子ちゃんを捜そう。病室の前に名前がかかっていないかどうか、ちゃんと見て」

 ナースステーションを挟んで左右に廊下は枝分かれし、そのどちらにも多くの病室がある。
 気が進まなかったが、後ろを振り返れば互いに互いの位置がわかる場所だ、二手に分かれて美奈子を捜したところ、すぐに、

「あった!若、いたぞ、こっちだ!」

 と、声がかかった。

 声を聞いたのは若菜たちばかりではない、どこかの足音も、ついに己等の腹の中に何者か怪しい奴が紛れ込んだらしいので、いよいよ廊下中に気配を響かせばたばたとこちらへ走ってくるのだった。
 ともかく急ぎである。
 捜索隊員たちには、反響する足音を自分たちのものが大きく聞こえているだけだよと、いつものようににっこり笑って安心させてやったが、こうなると後は時間との勝負だ。ここは紅い闇が強すぎて、太陽の日差しが届かないのだから。

 もし病室の扉の先が、さらに長く続く廊下であったりしたなら、踵を返してここから逃げ出さねばと思っていたが、果たしてそうはならなかった。
 そこはこじんまりとした、紅い病室であったのだ。
 紅い天井、紅い床のタイル、紅い壁、紅いベット、紅いカーテン。

 紅いカーテンの向こう、紅いベットの中ですやすやと眠っていたのは。

「……美奈ちゃん、美奈ちゃん!」

 ふわふわ巻き毛をシーツに波打たせた、フランス人形のような少女である。
 転校前、若菜の後ろをよくついてきた、クラスの中でも一番小さな少女が、無垢な寝顔を見せていた。
 駆け寄って強く揺する。
 起きないのでは、このまま永遠の眠りについてしまうのではと誰もが冷や冷やして見守る中、若菜がぺちぺちと頬を叩くと、ううんと甘ったれた声を出して、数回、瞬きした。

「美奈ちゃん、起きて!わかる?!ここから出るの!」
「……あれ……若菜ちゃん……」
「よかったぁ。美奈ちゃん、みんなで捜してたんだよ」
「みんな……?……ほんとだ……みんなで、お見舞いに来てくれたの?」
「見舞いって、何言ってんだよ。お前、こんなところで何やってんだ。さっさと出るぞ」

 捜索隊の少年が、ぐいと彼女の腕を引っ張ってベッドから引き出そうとするが、美奈子はぐずるようにふるふると首を振った。

「いや。ママとパパが二人でお見舞いに来てくれるまで、ここにいるの」
「はぁ?!何言って……お前のママとパパは、家にいてお前のこと心配してるんだろ!」
「ママとパパが二人でお見舞いに来てくれるまで、美奈、退院しないの」
「だから!」
「タカシくん、ちょっと待って。……ねえ美奈ちゃん、じゃあさ、ママとパパのところに、一緒に外泊しに行こうよ。一緒に迎えに来てって言いに行こうよ」

 若菜の言葉には少し考えたが、じっと天井を見つめる美奈子はやがて、これにもふるふると首を振った。

「……駄目。家にはママしかいないもん。パパがどこにいるか、しらないもん」
「え?」
「パパ、いっつも会社から美奈に電話かけてきてくれるけど、家には帰ってこないもん。別のところで一人で住んでるんだって、言ってたもん。パパとママ、もうすぐリコンっていうのするんだって」
「…………そうだったんだ。ごめんね、知らなくて」
「ううん、いいの。でも、美奈、退院しないよ。美奈が病気のときは二人とも、一緒にお見舞いに来てくれたんだよ。だから、二人が一緒にお見舞いに来て、リコンなんてしないって言うまで、美奈、退院しないの」
「ううん、美奈ちゃんは退院するよ」
「しないよ」
「ううん、する」
「しないったら。……若菜ちゃんのばか。美奈はパパとママのどっちと一緒にいるか、選ぶなんてできない。退院したら、選ばなくちゃいけないの。退院しなければ、選ばなくていいの。何もわかんないくせに、お見舞いになんてこないで!」

 金切り声を上げシーツの中に潜り込んでしまった美奈を、捜索隊員たちは困ったように顔を見合わせたが、若菜は容赦なかった。

「起きなさいッ!お天道さまがあんなに高く上ってるのに、ごろごろ寝てる人がありますかッ!」

 べりッ、と音がしそうなほどに激しくシーツを引っぺがし、足元に放り投げてしまうと、丸まってくすんくすんとすすり泣く美少女を抱き起こし。

 ぺちん。

 泣き濡れた頬を、さらに平手で打った。

「……ぶった。若菜ちゃんが、ぶった」

 じわり。ぶわり。
 どこか夢見るようだった瞳が、若菜のはしばみ色の眼に焦点を合わせ、ぼろぼろと涙が溢れ溢れて。

 ぶったというのに悪びれなく、ぶった相手を嫌う様子も全く無く、若菜は逆ににっこりと笑う。

「うん。ぶちました。美奈ちゃんが大好きだからぶちました。美奈ちゃんは、若菜を嫌いになりますか?」
「……よく、わかんない。美奈のこと大好きでいてくれるなら、どうしてぶつの?」
「美奈ちゃんが悪いことを言ったから。退院しなければなんて、そんな事、寝惚けてても言っちゃだめだよ。本当に退院したくない?本当にもうお日様を見たくない?ママとパパを選ぶより、会えなくなっちゃった方がいい?」
「……それはやだ」

 次第に、次第に、美奈子の瞳が夢うつつから、現実に引き戻されて、正気を取り戻し始める。
 夢の中ならば不思議に思わない壁や天井の不気味さも、そうなると気になり始めて、辺りを見回した美奈子は、ぽろぽろ涙を流しながら、初めて気味の悪い建物の中に己が居ることに気づき若菜の服の裾を掴んだ。

「ねえ、若菜ちゃん……。これ、夢じゃないの?」
「うん、夢じゃないよ」
「ここ……どこ?」
「クラヤミ街」

 ひっ、と、美奈子は息を呑んだ。
 彼女は外遊びより家で本を読んだり絵を描いたりお人形遊びをしたり、つまり女の子らしい遊びが大好きな少女で、今まで若菜や他の子供たちがここへ探検に来たときも、ついてきた事はない。
 話に聞いただけで耳を覆う怖がりようだった。
 そこに自分が居ると聞いて、しかもそれがいつの間にか連れてこられてらしい、夢の中で声を聞いて、美奈子ちゃんは入院しようかと言われたような気もしたが、あれもこれもそれも全部、夢ではなく本当であったのかと思えば、がたがたと仔兎のように体は震えた。

 今やはっきりと夢から美奈子に、若菜はやはり、どこかぽわっと日向の野原を思わせる柔らかな笑顔を向けて、もう一度問うた。

「美奈ちゃん、ここから出ようか」
「うん。うん、すぐに出る、こんなとこ、居たくなんかない!」
「……お、おい、若」


 美奈子が説得に応じて、裸足のままベッドから飛び降りたまさに、そのとき。


 捜索隊員たちは、入ってきた扉を、じっと見つめて固まった。
 他ならぬ美奈子も、ひっと息を呑む。


 横開きの扉は、入ってきたときの勢いがそのまま跳ね返って、今は閉まっていた。
 その扉の一部が縦長に磨り硝子になっており、そこには何も映っていないのに。




 もう一つ、足元に入った空気取りが、横の格子になっているそこからも、廊下の様子がうかがえる。
 そこからぼんやりと、二本の足だけが見えるのだ。




 子供たちが、何も言えずにそこに立ち尽くす中、若菜だけは当たり前のように、扉の向こうのその人外の者に向かって、こう言った。




「先生、美奈子ちゃんはどこも悪くありません。だからこれから退院します」




 沈黙。




「先生、美奈子ちゃんは退院します。だからそこを、退いてください」




 カツン。
 威嚇するような、足音。




「美奈子ちゃんは退院します。今から扉を開けるので、お引取りください」




 ガツン!




 怒ったように、扉を殴りつける。




 おかしいな、と、若菜は少し不安になった。
 ついと冷や汗が首筋の後ろ辺りを伝う。
 ちゃんとお話すれば、ここから出ますと言えば、夜の闇に棲む者ども、そうそう悪意を直接こちらにはぶつけてこられないはずなのに。

 はたと気づいて腕時計を見たときに、しまったと思った。
 階段のところで十分しか経っていなかったので、油断した。
 四階には太陽の光が届かず、どれくらいの時刻なのか計れなかったのも災いした。

 約束の一時間は、とっくに過ぎている。
 一時間どころではない、いつの間にか、ここに入って三時間が経っていた。
 こういう場所では、時間の進み方など感じ方とはまるで違うなど、知っていたはずなのに、完全に若菜の失態だった。

 もう、外は日が暮れているはずだ。




 ――― あの階段室の扉は、まだ、開いているだろうか。




 若菜が不安に想い始めたところで、

「先生、美奈子ちゃんは退院します」
「美奈子ちゃんは退院します」
「美奈子ちゃんは退院します」

 その言葉を、勇気を振り絞って少年たちが口々に唱和した。
 ここから出ます。出て行きます。だから邪魔をしないでくださいと、握りこぶしを作って扉の向こうに言いかけると、気圧されたように、扉の向こうの足は一歩下がり、戸惑ったように二歩下がり、やがてカツン、カツンと足音を響かせ、扉の向こうから消え去った。

 誰もが肩から息をついたのも束の間。

「 ――― 行こう。もうずいぶん時間が経ってる。早く、階段へ行かなくちゃ」

 扉を開けて、左右を伺う。
 何も居ない。誰も居ない。何の気配も無い。
 おそろしいほどに紅い、紅い闇が、溢れるような濃密な敵意を孕んで彼等を胎内に迎え入れようとしている。

 あちこちに居たはずの目玉、視線、そんなものも全て消え去り、かわりに病院全体が生き物になってしまったかのようだった。

 とにかく急いで階段室へ向かって走ると、重い非常扉がゆっくり、ゆっくり閉まり始めている。

「もっと早く!滑り込んで!」

 若菜は足が速い。学校ではリレーの選手を毎回任されるほどだ。
 けれど隊長は誰より後ろを走るもの、転びそうになる美奈子を支えながら、すすり泣き始める少年の誰かを叱咤しながら、やけに長く感じる廊下を駆けて、駆けて、たどり着いたときにはもう半分も扉は開いていなかった。
 どれだけ力を込めて押してもびくともせず、子供たちの体でも苦慮するくらいの隙間に、隊員たちは体をねじ込んで抜け出した。
 最後に残った三人のうち、タカシは「若、行け」と男らしく先を促したが、若菜は首を振って美奈子を彼に託した。
 若菜の転校先まで調べて美奈子を助け出そうとした彼、いつも美奈子にちょっかいをかけて泣かせてばかりいたが、実はその美奈子のことを好きだと思っていると、若菜は知っていてこっそり応援もしている。

「美奈子ちゃんを連れてって」

 腕に抱かせて、どんと階段室に押し込んだ、それが最後だった。

「若!」
「若菜ちゃん!」

 若菜が入る余裕もついに失われた扉は、ズシンと重々しく音を響かせ、此方と彼方を閉ざしてしまったのである。


<後編へ続く>






アトガキ
夜中トイレに行けなくなったらごめんね第二弾。
若菜ぴーんち。