扉を一枚隔ててしまっただけなのに、若菜の耳には、皆の声は聞こえなくなってしまった。 扉、一枚であろうとも。 浅い川、一つであろうとも。 畳の縁、一線であろうとも。 境目とはそういうもの、ここが異界ならば尚更だ。 若菜だけが取り残された紅い廊下は、望み通りになったと哂うように、窓や扉をいっせいにガタガタ言わせた。 風も無いのにガタガタと窓が揺れ、扉が揺れ、ドアノブが震える。 ちかちかと照明が点滅し、パシンと浮かれて割れて火花が飛び、もはや人間の世界の振りすら忘れて、新たな得物をどう料理してくれようかと舌なめずりしているのだろう。 今一度、目の前の扉を試しに押してみたが、びくともしない。 思い立って逆に引いてみると、今度は簡単に開いたが、先ほどまであったはずの空間はそこになく、ただ、他と同じように紅い壁があるだけだ。 出口は、失われてしまった。 冷や汗。瞼が震える。 怖い。 思わないわけが無い。若菜とて子供だ。美奈子や他の少年たちと同じ年だ。 怖い。 目元を拭って、いつものように笑おうとして、失敗した。一人きりで笑うのはなかなか難しい。 怖い。怖い。怖い。 目元を拭う。歯を食いしばる。 ガタガタとまだ震え続ける窓やドアノブに、キッと強い視線で睨みつけると、臆したように、彼等は沈黙した。 ついでに、壁にかかっていたものが、ガタリと外れて若菜の足元に落ちてきたのでこれを拾うと、両手で持てる程度のプレートだ。 ご丁寧に、このフロアの案内板である。 現在地、と書かれている赤い矢印のマークのところには、あったはずの階段が指で擦られたように削られているが、病室やナースステーションなど、間取りは細かく書き込まれている。 おかしいな、と、若菜は首を傾げた。 どうしてこんなものを、自分に見せてくれるのだろう? ううん、と、首を傾げて、前にもこんなことがあったなあ、どこでだったかなあと記憶を手繰り、ずっと前に居た学校のことを思い出した。 何度も転校を重ねている若菜なので、中には苛められっ子というものを経験したこともあった。 朝に行けば上履きがびしょ濡れか、隠されているのは当然のこと。 黒いランドセルを笑われたり、身なりが粗末であるのを詰られたり、汚いんだから汚したっていいだろうと掃除当番を一人でやらされたりと、過激なものはなかったにせよ、少しだけ困ったなあと思うようなことがあった。 表立って庇えば、今度は自分が苛められっ子になる。 そうなるのを怖れて、誰もが若菜を腫れ物のように扱ったが、一人だけで掃除当番をしているときは、何も言わずに手伝ってくれるクラスメイトが一人や二人はいたものだ。そういう一人や二人は、苛めっ子の中心人物を、少し嫌っていたりするものである。 こういうのを、何と言うんだったか。 子供だけではない、大人の世界にもある。 ああそう、派閥。 きっとこのクラヤミ街にも、そういうのがあるんだ、と、若菜は思い当たった。 深呼吸する。今度こそ、微笑んだ。うまくいった。 だって、こっそり味方してくれるひともいると、わかったから。 一人じゃないとわかったから。 プレートにふうと息を吹きかけてやると、埃が舞った。 探し物は、隅っこの方にこっそり埃に隠れていた。 それは《非常口》、の文字。 病室が並ぶさらにその向こう、つまり廊下の両端に、それぞれある《非常口》。 その片方は階段と同じく擦られたように消えていたが、もう片方の《非常口》は、忘れられたように残っている。 プレートを小脇に抱え、若菜はまずナースステーションに入った。 罪人のように縛り付けられたぬいぐるみを、おそらく、愛情を注いでくれた持ち主を最後まで守ろうとしたぬいぐるみを、そのまま打ち捨てて行く気にはなれなかったのだ。 床に落ちた頭を拾い上げ、椅子に縛り付けられた胴体を引っこ抜き、急いでそこを出る。 出たところで、息を呑んだ。 《非常口》へ繋がるはずの、廊下。 紅い闇の中。 明かりの届かぬ、闇の先。 居る。 ごくりと、喉が鳴った。 プレートを取り落とし、抱えていたぬいぐるみを、庇うように抱く。 今度は若菜が下がる番だった。 ここは闇の棲家。陽の光が差さぬ場所。若菜は招かれざる客だ。 若菜が一歩下がると、闇が動く。 はっきりと、人の形をして、動く。一人や二人ではない。病室から全員が出てきたようだった。 ゆっくり、ゆっくりと、こちらへ向かってくる者どもを避けるように後ずさっていた若菜は、目の前の者どもに気を取られて、後ろから忍び寄る影に気づかなかった。 ぬ、と背後から突き出た、焼け爛れた手に首を絞められ、ひゅっと息を呑む。 そのまま、もう片方の手が持っていたメスが、子供の柔肌に滑るかと思われたが。 ――― バチィッッ。 見えぬ壁に弾かれたように、若菜の命を奪うはずだったメスは弾かれ、その場の者どもにどよめきが走った。 『なんだ』 『なんだ』 『この子供、なんだ』 そうこうするうちに、若菜は背後の手を逃れ、正面で立ち尽くしている者どもの間を素早く潜り抜けて、廊下を駆けた。 若菜にとっては珍しいことではない、この見えない壁には、今までも何度か助けられたことがある。 主に若菜に命の危機があるときに、それを阻む絶対的な盾として、見えない壁は現れた。 加護だと人は呼ぶかもしれないが、若菜にとっては、忌々しい徴が自分に寄り添って離れない証拠でもあり、命が助かって息をついた次に訪れるのは、数年先の約束された絶望である。 今助かっても、どうせ数年後には。 考えかけて、いいや、と首を横に振る。 ここで死ぬのは嫌。ここで死ぬのは嫌。ここから出るの。 ここから出て ――― ここから出て ――― 。 楽しいことを考えようとする。いつものように笑おうとする。 でも、笑えない。考えないようにするので精一杯だ。 助かった先にある、ぽっかり開いた絶望の口が、今日に限って若菜へ実に楽しげに笑いかける。 美奈子を、羨ましく思った。 思っても詮無いこととは知りながら、妬ましくも思った。 どちらを選んでいいかわからないなんて、父母に縁の無い若菜には最初から、無縁の悩みだったから。 今まで引き取ってくれた人たちも、とても良い人たちばかりだったけれど、経済状況がどうとか理由をつけて再び若菜を違う場所へ見送るときには、気味の悪い出来事を引き連れてくる娘が居なくなってくれるので、どこかほっとした顔をしていたものだ。 誰と一緒に行くかを決めるなんて、そんな贅沢な悩みは若菜には最初から、用意されていなかった。 若菜ちゃんなら大丈夫よ、本当にしっかりしてるから。 悪いね、本当はずっとうちにいてもらいたいんだけど………若菜ちゃんなら、わかってくれるだろう? 若菜ちゃんなら、一人で立派にやっていけるよ。 いや。いや。一人はいや。一人にしないで。 去来する別れの想い出の数々に、蹲って泣き叫んでしまいたくなった心持ちを、ぐっと、唇を噛んで、耐えた。 でもそれは違う、それは違う。だからと言って、ここで足を竦ませ何もしないのは、違う。 ここから出た先に、今の若菜には《視》えていない出会いや、選択や、幸せが、あるかもしれないのだから。 他のひとたちより多く《視》えるのは、まだ見えない何かを、信じない理由にはならないのだと、そう祖母は言っていた。 他のひとたちより多く絶望を《視》るのなら、その分、多く笑い飛ばせるはずだと、そう祖母は言っていた。 だから若菜は駆けて、やっとのこと、非常口に取り付いた。 今ではない、明日笑うために、暗い考えを押し出して、歯を食いしばって扉に小さな体でぶつかった。 動きの遅い、闇纏う人影をすり抜けて、たどり着いた先の非常口は、しかし若菜のほんの一瞬の絶望を、目敏く見つけ出したのか、すうと目の前で足元から消えかけていくではないか。 力任せに押しても引いても、壁に解けかけた非常口は、若菜の手ではもはやびくともしない。 恐慌にかられてガタガタとドアノブを引いたり押したりしていた若菜の背後で、群集がゆうるりと振り返った。 ぴんぽんぱんぽーん、とアナウンス前の、普通のものよりややフラットな音階が、群集を促すように、フロアに響き渡る。 『 ――― スキャン完了。その子供、何かの《徴》が在り。何者かの贄である確立100%。直接命を奪うことは不可能。弱らせて死なせるべし。死肉を喰うべし。生食は不可能』 ぞくりと若菜の肌があわ立った。 そう。直接命を奪うような強い力は、若菜の徴は頑丈な壁のように弾く。 真っ向から来る物の前では強いその力は、しかし、壁を回りこんで少しだけ殴るとか、少しだけ蹴るとか、そういう痛みに対してはむしろ、痛みに苦しむ生贄を笑うように無抵抗だ。 若菜が痛みや苦しみに泣いたり、呻いたりするのを、甘露のように味わう何者かは、他の誰かが少しやりすぎて若菜をしまったとしても、殺そうとする一撃ではなく苦しめようとする一撃の果てにそうなってしまったのなら、おや勿体無いことをしたと、飼っていた生餌の一匹を失った程度にしか、残念に思わないのかもしれない。 ああ。と、溜息。 消えていく非常口に背をつけて、若菜はずるずるとそこに座り込んでしまった。 息はあがっている。足はがくがくと震えている。伸びてくる腕をかわすにも、抵抗するにも、怖ろしくて、心が疲れてしまって、もう何も、何もできない。 ああ。と、吐息。 こんなとき、以前に美奈子から借りた漫画だと、不良に絡まれたヒロインを、ちょっとカッコいい一匹狼の男子生徒が、絡まれたヒロインを助けるために来てくれるのだが、生憎、若菜にはそんな男子は全く心当たりが無い。 こんな格好をしているせいもあるし、自分から一線を引いていたからかもしれないが、仲良く遊ぶことはあっても、好きだとか嫌いだとか、そういう恋愛経験は無かった。 片想いすらない。 恋かあ、しておけばよかったかなあ、と思った瞬間。 ふと、へらりと笑う男の顔を思い出し、若菜の頬に熱が上がった。 妖よりも人に近い姿形のせいか、妖気を帯びていなければ人かと勘違いしただろう。 物憂げに空など眺めているところなど、一枚の絵のような美丈夫であるのに、表情がつくと懐っこい猫のようなのだ。 でもあのひとは人間じゃない。 ううん、でも、イイひとだ。 でもあのひとは人間じゃない。 ううん、でも、関係ないな、そんなこと。 そうか。わたしは。あのひとに。 気づいた瞬間、若菜の目にいよいよ大粒の涙が湧きあがって、拭っても拭っても、次から次から零れておさまらない。 「 ――― 鯉伴さん。死にたくない。会いたいよう、鯉伴さん、鯉伴さん、助けて、助けて、助け ――― 」 「ぅおっしゃあ、任せとけッ!」 瞬間、消えかけた非常口が吹き飛んだ。 そこに立っていたのは。 ころりと後ろに倒れこんだ若菜を抱きとめ、ひょいと頼もしく担ぎ上げた着流しの男が一人。 ぱちくりと大きな目をさらに見開いてぽかんと口を開けた若菜に、片目を瞑って見せる。 「総大将、その子が、言ってた《若菜くん》ですかい」 「おうよ。おれの大親友だ、見知りおけ、青」 「はぁ……」 「大親友って。小学生じゃーん。鯉伴って相変わらず変わり者だよねー」 「お前が池にウーパールーパーを放してほしいとか言ってたのよりは常識的なつもりだぞ、河童」 「新しい友達が欲しいなーと思ってー。てへ」 「まぁ、可愛らしいお顔をしてますこと。……男の子?」 「毛倡妓、変な気起こすんじゃねぇぞ」 「ンま、いけずを仰いますのね。そういう意味じゃありませんよ」 「 ――― それで、総大将、この者ども、いかがいたしましょう」 末尾に控えた網笠姿の若い僧侶が、錫杖をしゃん、と鳴らして話を本筋に戻した。 若菜を腕に抱えた二代目は、それまで相変わらずへらへらと笑っていたのだが、その一言ですうと笑みを消し、両手で若菜を抱えなおすと、己の胸元に子供の顔を押し付け汚れ仕事を目にせぬよう視界を覆い、底冷えするような声でこう言った。 「撫で斬りだ。慈悲などいらねぇ ―――― もっとも」 くくく、と、喉の奥で笑う男こそ、一番おそろしく一番こわがるべき者であることに、若菜は思い至った。 「てめェ等はハナからそんなモン、持ち合わせちゃいねぇだろうがな」 胸元からこっそり上目遣いに盗み見た、奴良鯉伴の表情は、若菜が二度助けたあの彼とは大違いだった。 調子の良い猫のような笑みを消し、弧を描いた月を背に、爛々と輝く金色の瞳で百鬼を従える彼は、まさに魑魅魍魎の主の風格。 おそれるべき、こわがるべき。 なのに何故だろうか、腕に抱かれ寄り添っていると、全てを預けたくなる安心感。 主の一声を受けていきり立った鬼どもは、若菜を追い掛け回し子供等を恐怖に陥らせたクラヤミ街の住人たちに飛び掛り、若菜の後ろでは阿鼻叫喚の宴が繰り広げられているというのに、若菜はもうちっとも、恐怖を感じていなかった。 恐怖も、絶望も、何も。 ただ、ただ、その日の美しい月を、若菜は何より《畏れ》た。 +++
ぺちん、と、今度は若菜の頬が鳴った。 出入りが終わり、真夜中の病院跡を出て、二代目の腕から解放された若菜が、向き直って御礼を言おうと思った矢先、鯉伴が若菜の頬を軽く打った。 「なんで打たれたか、わかるよな」 片膝を地につけて眉間に皺を寄せ、若菜に問いかける表情はまるで、道理をわきまえぬ子供を叱る大人の表情だ。 事実、二代目はそうなさるおつもりだった。 「飛んでくるって言ったろう。待っててくれりゃあ、それで良かったんだ。お前は他の子供よりちょいと大人びてるし、他の人間より、ちょいと目がいいらしいが、それでもお前はただの子供だ。それでもお前は、ただの人間だ。カタギ連中を獲物にしか見ねぇ妖怪どもにかかっちゃ、お前はまるで無力なんだ。あのままおれの名前を呼んで居場所を知らせなきゃ、喰われちまってたかもしれねぇんだぞ。 いいか、こんな危ないこと、二度とするんじゃねぇッ。わかったな」 「心配……してくれた、の?」 「当たり前だろう。何言ってんだ、お前。……ん、あれ、泣くのか。痛かったか。加減したんだけどな、悪かったな、叩いて。でもお前のこと、心配して大好きだから打ったんだぞ」 それまで凛とした表情をしていたのに、ぽろぽろと若菜が涙を零すと今度は慌てて懐を探り、手ぬぐいでごしごしと顔を拭ってくるので、若菜はくすりと笑った。 「違うの。……心配してもらったの、嬉しくて」 「へ?え?あ?」 「そんな風に、ただの子供って……言ってくれたの、初めて、で」 「わ、わかった。とにかく、ほら、泣くなって。みっともないだろ。若菜くん、男がそうやすやすと、涙なんて見せるモンじゃねぇ。あー……とにかく、家、送って……行くにしても、ひでぇ格好だな」 「総大将、ここで立ち話もなんですし、ここからならアーケード街よりも屋敷の方が近うございます。御友人の身なりを整えるにしても、一度屋敷へ招かれては。衣服も洗濯した方がよろしいでしょうし」 「うん。そうだなぁ、そうするか。若菜くん、とりあえず今日は、おれん家に泊まれよ。セツ子おばさんには、おれから電話するしさ。いやちゃんと、しっかりした声作るって」 「あのぅ、総大将。お電話は私からした方が良いと思うんですけど………」 「ん?何だ、変なこと言うな、毛倡妓」 「だって、そのぅ………」 「ま、いっか。ぉら、てめーら、帰るぞ」 出入りを終えて夜陰の風に乗った二代目を、百鬼が追う。 首無と毛倡妓は互いの顔を見合わせ、示し合わせたように首を傾げた。 言いかけて言えなかった二人の疑いは、屋敷ですぐに明らかになる。 頑として風呂は一人で使うと言い張った若菜を、「何言ってんだ男同士は裸の付き合いだろー」と風呂場へ引きずっていった二代目。 勢い良く若菜のシャツを脱がしたまではよかったが、顔を真っ赤にした若菜が娘らしい悲鳴を上げ、恥らって肌を隠すより先に、しっかりと、ふくらみかけた胸を目にしてしまい、その後すぐに情けない声で脱衣所前から毛倡妓を呼ぶはめになったのだ。 「どうなさったのです。まあ、殿方がそのような格好で……んもう、前をちゃんと隠してくださいなッ!」 「だ、だって、だってよぉ……。風呂、一緒に入ってやってくれ。……若菜《ちゃん》だった……」 「あらまァ、やっぱり」 「おれとしたことが……嫁入り前のカタギの生娘、剥いちまった…………! 6rz 」 二代目と、何の因果を隠してなのか男装の娘。 もう一波乱の予感はあれど、とにかく二人はこうして縁を紡いだ。 この二人が夫婦の契りを結ぶのは、もう少し、先の事。 <縁紡ぎ編・了>
...躓く石も縁の端... たすけに来てくれたのは、一匹狼のカッコいい男子生徒ではなく、百鬼夜行を率いた、カッコよくて優しい魑魅魍魎の主でした。 アトガキ ようやく女の子だと判明。え。もしかしてまだ続くのかコレ。 どうしても鯉伴さんには二枚目半のイメージが付きまとう。 やっぱ「夢、十夜」で子供の頃から追って書いたのがまずかったか。甘ったれイメージが抜けません。 原作がえらいカッコヨイらしいからこんな二次創作もたまにあっていいんじゃないかと言い訳を一つ。 |