面妖な出で立ちの、奴だった。




 指の数、関節の数、爪、耳、いくらか足りないものがある。
 着物の中の腕も、もしかしたら無いのかもしれない、袖から一切出さぬまま。

 歩くにしたって関節も足の指も足りない。
 深く土を抉る木々の根に足を取られながら、体を引きずってくるのが精一杯だ。

 顔にも色々足りないのかもしれない、顔を竜胆色の布でぐるぐる巻いており、これに目のかわりか鬼が使う絵文字が六つの吊りあがった視線を表しているくらいで、表情どころか人相すらうかがい知れなかった。
 すっかり襤褸になって元の色などうかがい知れない着物から、あちこち肌が覗いていて、乾いた土色をしている。こちらもあちこち、肉が足りないらしく、こいつが動くたびに時折着物の隙間から、白い骨が見え隠れする。
 それだって、骨があるうちはまだいい。中には骨も肉も両方足りない部分もあるらしく、ぷらぷらと皮ばかりで折れた枝のように揺れるばかりの部位もある。

 これが、己のすぐ傍まで襤褸切れのような体を、それこそ襤褸の中に詰めて引きずりながら、そこの木陰のところで止まって、こちらをじいっと見ている。
 いや、こちらの方を向いて、立っている。
 立っている、ように思われる。
 なにせ、目があるのかどうかすらわからないのだから、こちらを見ているかどうかなど、知れたものではない。
 だが兎に角、面妖な出で立ちの、奴だった。
 少なくとも、ここら一帯を根城とする者どもではない。
 そういう、恐ろしさは感じなかったし、また彼奴には、時折ここに送り込まれる、生贄の人間どものような怯えた様子もない。

 どんな姿の者であれ、この場所へ客が来るなど大変珍しいこと、これまでになく、またこの後にも絶えてないだろうと思われることだったが、しかし老婆はしばしこの面妖な奴をしげしげと眺めつくした後、少しだけ身じろぎしておさまりの良い場所を見つけると、また元のように、大樹の根元の柔らかく冷たい土の上で、きちんと正座した膝に骨と皮ばかりの指先を置き、こちらの方が大事と定め、己が指先こそをじいっと見つめるのであった。

 ここに座るようになってからどれほど経っているのか、老婆はもう憶えていない。
 どうしてここに座るようになったのか、老婆はもう憶えていない。
 こちらも垢と泥にまみれた襤褸切れを纏い、伸び放題のざんばら髪が白いすだれのように視界を覆っているが、これを鬱陶しいと想う気持ちすら、老婆はもう憶えていない。
 ただ待っている。けれど何を待っているのかすら、老婆はもう憶えていない。
 ただ待っている。大事に大事に掌の中、隠し持ったものを大事に大事に撫でながら、待っている。

 しかし、自分で何を大事に持って撫でているのか、これも老婆は憶えていない。

 万事は虚ろで、何も真のものなど存在していないかのように、すだれの向こう、ぬばたまの闇を宿した瞳は、何も映してはいない。己の瞳の色が何色であったかすら、そもそも己という境界線が此の世に存在していることすら、老婆は憶えていないのかもしれない。

 そのうち、面妖な奴は、いつの間にか姿を消していた。





「花なら、お前は何がいい?」

 面妖な奴は、また現れた。
 あれから、どれくらいの時が経ったのか知らぬが、老婆はこの面妖な奴を、あのときの奴だ、と憶えていた。

 今度は、顔の全てを覆ってはいなかった。
 目の部分だけをやはり竜胆色の布で多い、ここに描かれた鬼模様だけが、おどろおどろしく踊って目の代わりをしている。

「花なら、お前は何がいい?」

 老婆は不思議だと首を捻った。
 この面妖な奴、顔が少しできかけてきた。ついでに以前と何か、違うような気がする。
 何が違うか ――― ああ、己に話しかけてきたのだ、こいつから声が出ているのだ。成程。
 それで、この面妖な奴は、ちゃんとここを鳴かずの森と心得ていて、その上で何かをほざいているのだろうかと、言葉など忘れ去っていた老婆は気が向いたので、向けられた言葉をいま少し考えてみようかと思った。
 獣の鳴き声を、戯れに、哀しそうだ嬉しそうだと判じるようなものだった。

「花なら、お前は何がいい?」

 同じ鳴き声を、この面妖な奴は、三度たてた。
 よほど重要なことかもしれぬ。しかし、そんな重要なものが、此の世に今も残されていたろうかと、大事な手元のものをいとしそうに撫でながら、老婆は僅かに首を傾げる。
 いいや、無い。何も無い。
 だから、老婆はまた、膝に目を落とした。

「南へ行ってくるから、山茶花を土産に持ってくるよ。もらってくれるかい」

 四度目の鳴き声は少し先ほどまでとは変わっていたが、それに気づいても老婆がもう顔を上げることはなかった。

 面妖な奴は、去った。





 来るたびに、色々なものが足りていく。本当に面妖な奴だと、少しおもしろくなった。

「山茶花を摘んできたよ。この辺りじゃ咲かないだろう」

 新しく手に入れたらしい片手を出すと、面妖な奴の手から、風をつかまえたか、ふわりと舞った紅が、老婆の膝先へ落ちた。ぽとり。
 深紅の花びらが、ただ黒々とするばかりの凍った土の上にあらわれたので、老婆は驚愕に目を見開いた。なんと、こんな色が世界に生まれたのか。これは何と言うものなのか。
 はたから見て、老婆の様子は先日からずっと変わらず、風景の一部と化したように、じっとこの場所へ座り続けていて、目を見開いたと言っても、目の端のあたりがぴくとしただけなのだが、それでも老婆自身にとっては、これは発見であった。

 ついでに、膝の上から骨ばった指が動いた。
 大事なものから少しだけ手を離して ――― それでも、もう片手ではしっかりとこれをおさえたまま ――― 落ちたものを、取った。

 なんと、面妖な ――― いや、これは ――― ああ、そう、うつくしい、と言うのだった。

「気に入ってくれたかな。次も、花でいいかい?」

 老婆はやはり答えない。ただただ、うつくしい、紅の花に見入るばかりだ。
 気を悪くする様子もなく、面妖な奴は去った。

「次は、水仙にしよう。もらっておくれよね」

 やはり、目元は布で覆われたままであった。





 白い水仙を、震える指が拾ったとき、思いがけぬことが起こった。

「 ――― 嗚呼、なんて、うつくしい ――― 」

 老婆の口から、しゃがれた声が出たのだ。
 それまで老婆は、己が言葉を操れるなど、すっかり忘れてしまっていた。
 このように華奢なものを、潰さずそっと持ち上げる手加減など、すっかり忘れてしまっていた。

 面妖な奴は ――― いや、もう面妖ではない。どうにか人の形をしていた。着ているものも襤褸ではない、継ぎ合わせた単衣を纏っている。
 ちゃんと頭があり、支える首があって、肩、腕、胴と腰、脚、脛、かかともつま先も、一通り揃っているようだった。
 とは言え、着物に隠れない部分を優先させたのだろう、近くで見ると、着物から時折のぞく胸元には、どくどくと脈打つ生き胆がそのままであり、これが真っ白い肋骨で覆われていて、本来ならそこを覆うべき肌や肉はなかった。
 しかし老婆にとってそんなこと、どうでもよいことである。面妖な客人の、少しずつ色んなものが足りていくのに、どこか微笑ましい気持ちが生まれ、遠い昔、これと似たような気持ちを、どこかで抱いたような気がするのだが、これを思い出しかけるとすぐに気が狂いそうになるほどの哀しさに見舞われて、うううと唸り、かぶりを振ってこの気持ちを追いやった。

 まずは、花だ。

 老婆がねだるようにおずおずと手を差し出したところへ、今度は風に任せず手ずから水仙を渡してきたこの手には、爪や指の本数が足りなかったようだし、袖から出すことができた腕は一本だけだったが、些細なことだ。
 面妖な奴は、どうやら男子であった。
 声の様子からして、元服して数年たったか、といった頃合か。

 とまで思って、ああ、元服。そんなものも世のならいにはあったことである、と、古くあった今はもう無用となったであろう事などを、なつかしげに思い出す。そしてまた、うううと唸り、かぶりを振るのを繰り返す。
 誰が見ても、時を忘れて座し続ける老婆は哀れな存在であり、風景と同じ、やがて朽ちていくばかりのものであると思われた。
 しかし、この男子は全くそう思っていないようで、少し考えるような所作で、東の空を見た。

「次は、」

 と、面妖な ――― いや、人の男子が言いかけるので、老婆は答えた。

「菫が、見たい」
「わかった、菫だね。きっと咲いているよ、そろそろこの辺りも、春だから」

 人の男子は去った。やはり、目元は布で覆ったままだった。

「 ――― 春」

 老婆は、大事なものを片手で撫でながら、もう片方の手では水仙を持ち上げ、じっと見つめていたが、呟いてから応えるものが無かったので、はじめて、次はあの男子はいつここを訪れるのだろうと思った。

 なんというのだったか、これは、そう。

「 ――― 寂しい」

 そう思うと、途端に花などには興味がもてなくなって、老婆の指先から滑り落ちた水仙は、ぽとりと寒々しい土の上に落ちた。そこでは、先日の山茶花が、鮮やかな色を失い土に還ろうとしていた。水仙もやがて、同じ道をたどるだろう。
 膝の上に抱えた大事なものを、老婆は再び、両手で撫で始めた。





 あの男子が、またも訪れた。少し背が伸びたように思えた。きっと体のどこかが足りなかったのを、今度の旅で補ったのだろう。
 そうだ、この男子は旅をしている。
 ここでようやく、老婆は思い当たった。
 旅先で得たのだろう、今は粗末な単衣ではなく、こなれた様子の紬に袴を召している。

「ごめん、菫は持って帰れなかった」

 老婆の隣に腰掛けると、ふうと長い息をつき、男子はそのまま黙ってしまった。
 長旅だったのだろうか、ひどく疲れた様子で、以前よりも痩せこけている。花の心配などしてはおられぬ旅だったのではないだろうか。この男子が、己でした約束を果たせなかったのだから、よほどのことがあったのだろう。

 男子を疑いもしていない己があることにすら、老婆はもう、気づかない。

 と、手が届くところにあったので、膝から手を持ち上げ、この男子の頭を一つ、かすめるように撫でてやった。ああそうそう、頭に毛が生えている。栗色の髪の毛がふさふさとして、首筋までを覆っている。これが足りるようになった。

 関節が目立つ、かたいばかりの手だろうに、男子はこれにとても嬉しそうに微笑むと、花が綻ぶように笑った。とは言え、目元はやはり覆われている。

「ありがとう。今度こそ、菫を持ってくる。あとは、何にしようかな。何か、ないかい?」
「 ――― に」
「え?」
「 ――― どうか、無事に」

 帰ってきて。

 言うと、男子は笑おうとして、顔を伏せた。泣くような所作だった。

 老婆の手を逃れるようにして、男子は去った。