鳴かずの森のしだれ桜は、一年を通して狂い咲いている。 どれほど昔から、そこにあるのかは知らないが、百年か、千年か、それとももう万年か、とにかく昔から、それこそこの辺りの村のお爺やお婆が子供の頃から、そこに桜はあって、一年を通し咲いていて、子供の頃にやはり己のお爺やお婆に尋ねてみたところ、さらにそのお爺やお婆が子供の頃から桜は一年中咲いていた、ということだ。 この辺りには、他にも桜の木があるが、春夏秋冬、花を落とさず咲き続けるのは、この桜だけだ。 冬などは、他の木々が花どころか葉すら全て落としてしまう中、このしだれ桜だけがこんもりと咲き誇り、見るからにあたたかそうなのだが、だからと言って、ここが鳴かずの森であれば、踏み込む者は人には無い。 森を抜けたところに、しがみつくようにしていくつかの村がある。 村に住む者は、子供たちですら、この森には絶対に踏み込んではならないと知っている。 鬱蒼と木々が生い茂る暗い森では、獣たちすら息をひそめ、何者かに怯えたように決して声を上げない。 鳴かずの森には、龍が棲む。 この辺りに住む者なら ――― いや、今ではこの名は遠く、日ノ本の国全土に及んでいるから、鳴かずの森と聞いただけで、震え上がるものもいる。 だから狂い咲くしだれ桜も、鳴かずの森にある限り、この龍のものなのだろうと思われる。 この二つがそれぞれ因縁あるものなのか、どちらがより古くからあるものなのかは、誰も知らない。 村のお爺もお婆も、もちろん知らぬ。 森に棲む龍の生餌としてのみ、生かされることを許された、近隣の村の者どもは、万事に対してあまり興味を持たず、数十年、あるいは数年に一度、気まぐれに訪れる龍の沙汰に、怯えながら暮らすだけだ。 村を出て逃れることは、龍が許さない。 何人か企てた者があったらしいが、龍は抜け目無く、己の千鬼の一にこれを捕まえさせ、八つ裂きにし、それから喰った。喰われたのがそいつだとわかるように、必ず咎人の首だけは村に返され、また裏切りの報いに、一人の咎人に対し三人もの犠牲を求められた。 このしきたりは続けられ、今では村人同士が互いを見張っている。 少しでも不穏な様子を見せる者があれば、かりそめの平穏を乱す者として別の者がこれを咎めるようになり、また、仮に逃れられたとしても、今や日ノ本の国のどこへ向かおうとも、結局は龍の《畏》が届かぬところなく、龍の息吹がかかった鬼や妖や怨霊どもが顔をきかせているので、卑小な人間どもは、諦める他に生き続ける道を、見出せなかったのである。 どこへ行こうと、日ノ本の国は人にあらざる者たちによる戦国乱世。 空気は重く、渡る風はべっとりとしていて、獣はいじけた視線を彷徨わすばかり。 鳥は自由を忘れて枝に縛られ、飛び立てば腹をすかせた空妖の餌食となった。 水は汚れ、大地は腐れ、実りもわずかにしか望めない。 まさしく此の世は苦界。それでも生きねばならない。 遥か昔の神代の頃は、人間の祖が山や雲よりも高いところに住まっていたことも、妖など畏れずともよいように、夜になっても真昼のように明るい街を作り上げていたこともあるらしいが、今を生きる人々にとっては、神話など子供たちへの寝物語にしかならない。 子供のうちは、きっともう少ししたら神代の頃のように、妖どもは調伏され、人にも獣にも優しい時代が訪れるに違いないと望みを持つこともあったが、やがて現の厳しさを思い知れば、嫌でも大人になるしかなく、また大人になるまでの時間は、そう多くは望めなかった。 ところで、しだれ桜の根元には、鎖で繋がれたままの老女がいる。 ただの老女ではない、これも妖怪だ。 何の妖怪であるのかなど、もう気にするような者もない。 いつから鎖で縛られているのかなど、気にするような者はさらにない。 そこに座し、風景の一部と化しているような、醜く哀れな老婆だった。 龍が棲む屋敷は、しだれ桜のすぐ傍にあり、龍は時折戯れにここを訪れて、この老婆を面白そうに眺めたり、気まぐれに話しかけたり、意味も無く殴ったり蹴飛ばすこともあった。 かと思えば、老婆のことなどすっかり忘れてしまったように、数年訪れないときもある。 「まだ死んでいなかったか、お前もがんばるねえ」 龍が老婆の元を訪れたのは、久しぶりだった。 嬉しい邂逅ではない。老婆はその姿の岩と化したように、じっと黙って膝を見つめている。 ころころと、手の中の大事なものを撫でながら、訪れた災厄が過ぎ去るのを待っている。 「まだ持ってやがんのか、ソレ。いい加減、捨てちまったらどうだい」 龍はその名が示すとおり、正体は雲を纏い雨を降らせる、天まで届きそうな蛟なのだが、こうして老婆の前に姿を現すときは、人の形を取る。 忌々しいことに、これがなんとも立派な男君の姿であらせられるから、全てを忘れ去った老婆も、この姿が悪戯っぽく瑪瑙の目を細めて笑い、己の顔を覗き込むようにして現れると、忘れることでしか絶望から救うことができなかった己の心を再び痛めて、ううう、ううう、と唸り、しきりにかぶりを振る。 「ははは、それがいい、それがいい、お前はそうやって苦しんでいるのがいい。見ていて清清するわ、醜い婆め」 長いしろがねの髪が妖気に吹き上がり、着流しに羽織を纏った姿は、まさしく龍の名に相応しき美丈夫である。 一目見れば、男であろうと女であろうと魅了される。 妖艶、そして残酷。心を縛る言霊を操るに相応しきお声。 配下の千の鬼たちのほとんどは、この姿こそが、龍が人に化生した姿であると信じている。 蛇というものが時折脱皮して、あらたに身を造る生き物であると知りながら、この龍もまたそれと同じであるなどとは、夢にも思わない。龍の方でも、もう百年か千年か万年かほど、この同じ皮を気に入って被っている。 老婆はううう、ううう、と唸る。この姿を知っているからこそ唸る。 忌々しや、忌々しや、ううう、ううう。 深い皺だらけの醜い顔を、溢れた涙が幾度も洗う。 ううう。ううう。 「 ――― そんなに泣くんじゃねえよ。胸が痛くなるだろう」 と、思いがけず優しい声色で、そっと龍がよれた髪を撫でてきたので、はっと老婆は泣くのをやめて、おそるおそる顔を上げた。 これまでには無かったことだ、老婆はこの龍が ――― いや、蛟がどんなに姑息で醜悪な奴かをよく知っていたから、決して信じることなく、かたくかたく心を結んで、岩と化して座しながら、さめざめと泣くばかりであったのに。 「可哀相に、そんなに汚れちまって ――― でもそんなに汚れちまったお前は、要らねえなあ」 ばしり。 容赦なく頬を打たれて、力なく老婆はそこに横倒れになった。 ううう、ううう、悔しや、悔しや。 老婆は泣く。さめざめと泣く。龍は笑う。老婆を見下し、一つ腹を蹴ると、気が済んだか、老婆に触れた片手を「おお、汚え」とぷらぷらさせながら、踵を返した。 そこで、気づく。 足元に落ちた、山茶花、そして水仙の花びら。この山のものでは、ないもの。 土に還ろうとしているそれらを見て、龍は顔色を変えて今一度老婆を振り返った。 今度は気まぐれのからかいではない、罪人を見咎めた支配者の顔であった。 「おい婆、この花はどうした、どこの誰が持ってきた。言え、言わねえか!」 「知らぬ ――― 知りはせぬ ――― ああ、その姿を見せるな、その声で語るな、忌々しい、忌々しい……」 「知らないはずがあるか!ここに誰が来た。オレが気づかぬうちに、この鳴かずの森を訪れて去ったのはどこのどいつだ!配下の鬼や蛇どもは、何も言ってはいなかったぞ!」 「ホ、ホ、ホ、くちなわが気色ばんでおる、肝の小さいことよ。何者かが己の寝首をかくのではないかと、びくびくしていてとぐろも巻けんでおるわ。それほど気になるのなら、人どもがすなるように、鳴かずの森の周りをぐるりと堀でもって囲んで、関所でも設けてはどうか。ホ、ホ、ホ」 「言わぬか、婆め!痛い目に合わせてやる!」 懐から出した長刀を見ると、婆は大きく体を震わせ、嫌々と子供がするように首を振り、背後の桜にすがった。けれど老婆の足首を戒める太い鎖の先は、他ならぬ桜の大木の根が握っていて離さない。 じゃり、と冷たい音が鳴り、逃れられぬと知った老婆は、大事に抱えていたものを、痛みをこらえるときに握りつぶしてしまわぬように、そっと桜の根元の洞へと逃した。 桜が優しくこれらを迎えた刹那、ばしりと狭い背中が打ち据えられ、二度、三度と繰り返された頃には、鳴かずの森に老婆の悲鳴が轟き渡った。 鞘に収めたままの長刀とは言え、何度も何度も力任せに打ち据えられ、老婆が息も絶え絶えになった頃、もぞりもぞりと身をくねらせ、森の奥の屋敷の方から、龍の家来がやってきた。 「皇龍様、総会が始まりますよ、お戻りを。おや、またその婆が何か口汚いことを言いましたので?」 「こいつ、何か隠していやがる」 「何か?」 「見ろ、ここに落ちている花々を。この鳴かずの森のものではない。こいつはここに縛られているから、自分で見つけて持ってきたものでもない。ここに出入りした奴がいるのだ」 「そんな気配は露ほども感じませんでしたぜ。獣か鳥に持ってこさせたのでは?汚く老いたとは言え、こやつにもそれくらいの力はありましょう。凍りついた桜にも、そろそろ飽いたのでは」 「そんな可愛い女かよ、これが」 「仮にそんな奴がいたとしても、我等の目を盗んでこそこそと潜り込んでくるような輩だ、妖気も小さく、隠れるしか能の無い、木っ端妖怪がいいところでしょう。もしそいつが皇龍様に刃向かってこられるようなことがあっても、いつものように捻り潰しておしまいになればよいのですし、祢々切丸とて、皇龍様のお手元にそのように納まっているではありませぬか。その刀の持ち主をいつかそうしたように、全身を針の穴ほどにまで細切れにし、ばら撒いておしまいになればよい」 「 ――― フン、お前に言われるまでもねえ」 最後にもう一度、ばしりと老婆の背を叩いた長刀の、鞘にはぶらりと垂れ下がるものがある。 人の手だ。鞘を握ったそのままで、手は肘のあたりで千切れている。 「このアマぁ、忌々しいと呪いごとばかり言いやがるが、それはこっちの台詞だぜ。いつまでたってもこの手ときたら、骨になるまで焼いても離れやしねえし、焼いてもいつの間にかまた肉を纏ってやがる。刀を抜こうとするとしっかり鯉口のところを握りやがって離れねえ。鞘も丈夫で剥がれ落ちてもくれねえし、この女を打つときくらいしか役にたたぬとは、全くとんだナマクラだ」 「それでも、我等のような人でないものにとって、祢々切丸は脅威に他なりませぬ。皇龍様がお持ちであることで、他の者どもは畏怖をさらに強くされましょうし、我等にとっても安心で ――― あ、いやいやお気を悪くされますな、皇龍様が祢々切丸をおそれるとは思っておりませんとも、へ、へ、へ」 祢々切丸。人でない、妖に属するものどものみを斬る刀。 龍にひれ伏す妖怪どもは、龍がこれを抜くときは己が身を滅ぼすときと思い、なるべくこれが抜かれるところは見たくないものだと思うし、またこの刀を使わずとも、龍の妖力は傍にいるだけでびりびりと感じ取れるほどに強大であったので、誰も気にするものがなかった。 手に入れて以来、龍がこの刀を抜いたことが無いと。 怒りはやがて静まり、たしかに家来の言う通り、花を持っていたのが誰なのかなど気にするのも馬鹿らしく、婆が冷やかしたとおり、鳴かずの森に関所などを置いていちいち訪れる者を調べるなどしては、なんと肝の小さきことよと、陰で笑われぬとも限らない。 捨て置くことにして、龍はこれを忘れた。 老婆が背中から血を流し、さめざめと泣いているのを見て、いくらか気分をよくしたせいもある。 長い髪をぐいと引っ張り、無理やり老婆の身を起こさせると、鼻先が触れ合うほどまで顔を寄せ、老婆にだけ聞こえる声で、龍はこう囁いた。 「お前の元に通ってくる物好きがいたとは、驚いたな。よほどお前を哀れんだのか。そうだな、オレも長いことお前をこうして不遇にしてきたが、そろそろ許してやろうか。醜く変わり果てたお前だが、今後はオレに尽くすと言うのなら、屋敷の掃除女としてくらい、置いてやらんでもない。こんな風に老いてしまったお前だ、外で暮らすのももうつらかろう、一度は側女にしてやろうと思った女をこうして鎖に繋いでおくのも心苦しいことだし、どうだ ――― 」 「触れるな、下郎」 ぎらりと老婆の瞳が、金色に輝いたかと思うと、ぷっと唾を吐いた。 ぺちゃりと龍の頬にかかると、ここが凍りついたので、龍は顔をしかめて払い、ついでに老婆の体を払いのけて、二三度蹴った。 「おい虹、森の見張りを増やしておけ。斥候の話では、最近、人間どもがよからぬことを企んでいる様子があるとも言うし、呼応してオレに刃向かおうという木っ端妖怪が、勇み足でやってきているのかもしれん」 「は、承知つかまつりました」 いつもなら、これで二度と振り返らず、老婆など最初からいなかったかのように行ってしまう龍だったが、ふ、と ――― 背後が気になって、振り返り、見上げた。 しかし、視線の先、しだれ桜はいつものように、咲いたままの姿で凍りついているばかり。 老婆と同じように、季節を忘れてそこにあるだけの凍りついた花を、龍は一つ鼻で嘲り、今度こそ、もう省みることはなかった。 |