「 ――― 痛かったろう。本当に、すまないことをした」

 それからどれだけ時が経ったろう、差し出されたのは、待ち望んだ菫だった。
 背の痛みなどすっかり忘れ、老婆は少女のように目を輝かせると、倒れ伏したまま両手でそっと捧げ持ち、小さな花弁を飽かず眺める。

 この菫の色が見難いので、妖怪戦国乱世といえども、もう少しお天道様も気を使って、今だけでも明るく照ってくれればよいのにと顔だけ空を見上げれば、とっぷりと陽はくれているのだった。

 それで、陽は昇り、また沈むものであったというのを、老婆は久しぶりに思い出した。

 次に、己が両手を使って菫を捧げ持っているのにようやく気づき、泡を食ってあの大事なものを探した。片手に菫を持ったまま、ひどい背中の傷から血を噴出すのもかまわずに、桜の根元に洞に隠したあれを、手を伸ばして ――― 一つ、二つ、懐に抱え込んだものがちゃんと揃っているのを確認して、ほう、と息をついた。

「よかった、あった」
「あったのかい、そう、よかった。……ではそろそろ、お前の傷を癒してもいいかい」

 ひどく打ち据えられるを繰り返し、風月にさらされ、老婆が纏う襤褸からは、背骨が浮き出た丸い背が覗いており、ここには所狭しと痛々しげな傷が溢れ、じくじくと膿んでいる。
 傷口にわいた蛆を優しく払い、男子の手がそっと撫でると、不思議なことにここから、あたたかな光が零れてたちどころに癒してしまうのだ。

 むくりと老婆は起き上がり、男子の隣に横座りになって、手の中の菫をくるくる回して戯れる。

「もう少し、ボクが気をつけるべきだった。ごめんよ。その菫も、お前の目を愉しませたら、ボクが持っていこう。そうして、次に来るときはまた、新しい花を持ってくるから」

 これに、老婆は子供のようにぶんぶんとかぶりを振り、いじけたように俯くと、取られると思って、さっと菫を懐に隠してしまった。

「また見つかってしまっては」

 と、男子が心配しても、ふるふる、とかぶりを振る。

「それほど、気に入ってくれたのは嬉しいけれど、お前が打たれるのはもう嫌だよ」

 やはり、ふるふる、とかぶりを振る。

「困らせないでおくれ、いい子だから」

 ふるふる、ふるふる。

「 ――― お前は、そんなに菫が好きだったの?」

 これにはしばし考え、こくり、頷いた。

「そうなのか、初めて知ったよ。……初めて、お前が好きなものを教えてくれたね。前は、『若さまのお好きな方』ばかりだった。そうか、菫がねえ。でもお前、それは春告げの花じゃないか。相変わらずだ。いや、責めているんじゃないよ、お前らしいと言っているんだ。そうだね、お前は昔から、春が好きだった。『冬は過ごしやすくて良いですが』と、必ずその後に続いたっけ」

 ははは、と笑う、男子の声が優しく、耳に心地よかった。
 あの、忌々しい龍の嘲りを聞いた後だったので、老婆の胸に染みて、ようやく乾いた頬が、今度は優しく濡れた。

「春が、一番、好きなのです。雪の褥の下で眠っていた草花が目を覚まし、冬眠していた獣も巣穴から顔を出して、南風が吹き始め、白一色であった此の世が極彩色の浄土に変わる。これを見るために生まれてきたのだ、ここへ続くための道を作るために我が身はあったのだと、思える季節なのです ――― 冬にとって雪にとって、終わりであり死である季節だからこそ、その季節がそれほど美しいことを、喜ばずにはいられぬのです。だって、万物流転は世の習い。永遠の冬などあってはならぬもの。いずれ終わることを約束された命なら、最後にそれほど美しいものを約束されているのは、喜び以外の何でありましょう」

 これほど長く語ったのは久しぶりだったが、不思議なことに、話せば話すうち、老婆のしゃがれた声が、堰き止められていた清水の流れが塞いでいた石を取り外すとまた滾々と湧き出すかのように、若々しい声へ甦っていく。
 瞳もきらきらと輝き、涙をたたえながらもうっとりと微笑む表情も、その一瞬だけ、なんとも美しい妙齢の女へと変化した。
 襤褸から覗く皺だらけだった肌は、しっとりとなめらかな肌へ生まれ変わり、ざんばらの白髪も、艶やかなみどりの黒髪と変わり、月光を映しきらめく。

 男子はこれを知っていただろうか、やはり目元は、例の布で覆われたままだった。
 先日訪れたときよりも、またあちこち完成されてきて、いまや洗練された立ち振る舞いなどが、どこか身分の高貴さを感じさせる。少年の面影を残した、立派な若君だ。
 しかし両眼と片腕だけは、まだどこかに落としてきたままらしい。
 また、着物の片袖だけが所在なげなのが、かえって寒々しかった。

「ボクは、夏が好きだった。憶えているかい、うだるような炎天下や、風も吹かず、黙っていても汗が伝うようなあの寝苦しい夜」

 龍が支配してから、日ノ本には季節の移ろいが無くなった。今日は真夏のように暑くなったと思えば、翌日には雹が降ることもあり、あるいはこの鳴かずの森のように、かろうじて春夏秋冬を数える慣わしはあれど、一年を通してひんやりとしている場所もある。
 若君の言葉が示したのは、こうなる前の、それこそ神代の昔の美しき日ノ本の国であった。

 美しい女は、己が老婆から化生したことを知っているのだろうか、ぼうっと夢見るような瞳を、男子へ向けた。小首をかしげる所作は、今の彼女に大変似合っていて、可愛らしい。

「その季節は、お前に抱きついていても、心地よいばかりで心配されないし、叱られなかったから」

 男子が微笑んで言うと、女はぽっと頬を染めた。
 この素敵な男子は何者だろう、何が目的でこの婆のもとへなど通ってくるのだろう、こんな素敵な贈り物をしてきて、代わりに何を寄越せと言ってくるのだろうと、今更ながらおそろしくもなった。

「こわがらなくていい、お前から何かを奪おうとも、これ以上お前から何かをしてもらおうとも、考えてはいないのだから。ボクはお前に惚れているんだ、昔から」

 昔。
 と考えかけて、胸が苦しくなった。きゅうと痛む胸をおさえ、女の息があらくなる。
 月が翳り、また雲が晴れたときには、ううう、うううと、元のように老婆がさめざめと泣いていた。

 これを、男子は優しく胸に抱いて、老いた額や頬に、口付けをくれている。
 目に見えずとも、触れればどれだけ醜いかわかるだろうに、届く声色で、どれだけの老婆かわかるだろうに、しかと片腕に抱いている。

「またお前をここに残していくのは、どうしても心苦しい。季節がいくつか巡り、ようやくボクも、いくらか力を取り戻した。しかし、体のあちこちと、散り散りになった残りの百鬼を探す旅を、あともう少し続けなければならない。お前を連れて行きたいが、どうか」

 問うと、老婆は迷い、泣き、しかしそっと己で涙を拭いて、ほんの僅か、男子から身を離した。
 大事なものをふところに二つ、抱えたまま、凍りついた桜の下に、再びうずくまる。
 じゃらりと鎖が鳴った。

 行けない、と老婆は判じた。行きたいが、行けない。
 ここは彼女が守ると決めた場所なのだから。

 月が、再び、翳る。真暗になった。

「 ――― お帰りを、お待ちしております、リクオ様」

 闇の中から聞こえた声は、若く毅然とした女のものだった。

 男子は、振り返り、振り返りしながら、去った。

 そうだ、守らなければならないのだと、これを見守りながら、女はようやく自覚した。
 そうして泣いた。うれし泣きにむせび泣いた。

「嗚呼、帰ってきてくださった。あれからどれだけ時が流れたのかは知らないが、帰ってきてくださった。よかった、この場所をお守りして、本当によかった。これでまた、お守りできます。ああ、よかった、若、若様、リクオ様 ――― 」

 女は思い出していた。全てを思い出していた。何を待っていたのか、どうしてこの場所を守っていたのかを、思い出していた。




 この乱世は、妖である彼女からしても、ずいぶん長いこと続いていて、人の世などではあの平和だった頃のことを、神代の昔などと称しているらしいが、思い出してみると、あの頃のことはつい昨日のことのようだ。
 日ノ本の国の東側、つまりこの辺り一帯を統べる一族の三代目として、あの若様がお生まれになり、女は守役に任ぜられた。若様はすくすくとお育ちになり、やがて目を見張るような立派な男君にもなられて、守役としても誇らしく、うっとりするような日々であった。

 平和はそのまま続くかと思われたが、あの龍の奴めが、全てを砕いてしまった。
 砕かれたのは大切な日々、大切な人々、人も妖もなく、世界は嘆きに満ちた。
 以来、此の世は乱世へと変わった。
 龍の名の下に恐怖でもって統べられていようと、それがどうして太平の世と言えよう。草木も獣も萎縮して、田畑は満足な実りをもたらさず、獣も人も痩せこけて常に飢えている。

 弱い奴を虐げて何が悪い、弱い方が悪いのだ、負けた方が悪いのだと、龍は言った。
 話し合いの場を設ける、戦いはしないと主を呼び寄せておきながら、その場で討つなど卑怯な真似をしたくせに、騙される方が悪いのだと、女の主を、大切にお育て申し上げたいとし子を、女の目の前で八つ裂きどころか細切れにし、必死でこれをかき集めた女を、嘲笑い無理やり連れ去った。
 女が若く美しいのを見て、あろうことか、己の側女になれなどと言い渡したのである。

 決して心を許さず、牢に入れられていた女は、己の命を絶とうとも考えたが、どうしても、できなかった。
 必死にかきあつめた、ばらばらになった主の身は、龍に連れ去られたときにほとんど落としてしまったが、大事に懐に入れた二つの目玉だけは、なんとか守りきって、これが瑪瑙から琥珀へ色を変じはしたものの、いつまでたっても萎びず、まるで生きているようにつややかで、こちらを見つめてくるものだから、その前で命を絶つことなど、できなくなってしまったのだ。
 もしかしたら、生きておられるのではないか。
 ふと、そんな考えが頭をよぎった。
 目の前で、主の体が引き裂かれるのを見ていたのだが、しかし、若君は妖怪の血も引いておられる。妖怪なれば、時間はかかろうが、体さえ取り戻せば、あるいは。

 その夜、牢をあの龍が訪れた。
 あろうことか、若君が夜に化生したときの、妖艶な姿を真似て ――― 姿を奪ったのだ。
 もう要らぬだろうから姿を借りたぞと、龍は笑った。声色も、若君が化生した男君そのままだった。
 しかし違った、全く違った。
 女のばたつかせる足をおさえつけ、胸元をぐいと引っ張り力任せに愛撫をするなど、全くありえぬ話であった。

 激しく抵抗を見せた女は、隙をついて牢から逃げ出し、この、桜の下にすがった。
 大事に抱えた二つの目玉は、守らなければならない。
 この場所も、守らなければならない。ここからは離れられない。
 何故なら、この場所は、若君の家だから。帰る場所だから。
 あの枝に登って、主は風情を楽しみ、夜風に銀の髪を遊ばせながら、うっとりと微笑んでおられた。
 美しき日ノ本の国を、愛しておられた。
 人にも妖怪にも、等しく心を砕いておられた。
 人も妖怪も、主が二つの姿を持つ架け橋と知っても、驚きこそすれ、結局は受け入れた。
 いつか、あの方は帰ってくる。きっと、きっと、帰ってくる。

 しかし、目の前の妖怪は強大で、姑息で、とてもではないがかなわない。
 ならばどうする、肌を許すのか、こいつに。
 いいやできない、そんなことはできない、したくない、しかし死ねない。
 どうすればいい。

 余裕の笑みを浮かべ、男君の姿を盗んだ龍が、一歩、一歩と近づいてくる。
 襦袢姿にまでなった、しどけない女を、ねっとりとした視線で見つめてくるので、女は己がこんな若い姿であることを、心から呪った。

 だから、声の限りに叫んだ。
 呪われてしまえ、呪われてしまえ、この髪も、肌も、すべて呪われてしまえ、桜の霊木よ、お前がもし少しでも、この庭先で遊んだ若君を親しみ、また私を哀れんでくれるのなら、私を今すぐ、腰の曲がった老婆にしておくれ。
 決して元の姿に戻れなくとも構わない、若さなど要らぬ、主がお戻りになるそのときまで、桜よ、お前を守れるのならそれでいい。
 さあ、早く ――― !

 ざ、ざ、ざ、と風にしだれ桜の枝が揺れ、女は不意に眩暈がして倒れ伏した。
 次にぱちりと目を開けると、己にああもしつこく迫っていた龍が、顔をしかめそこに立っており、己の手元を見れば、そこにあったのは皺のよった土気色の肌。

 そんなにオレに下るのが嫌なのか、と、底冷えするような声で龍が言ったので、すかさず、老婆に姿を変えた女は、これに平伏した。その姿で、命だけはと懇願した。みっともなく額を土にこすりつけて、どうか命だけはお助けください、お助けくださいと哀願した。
 醜くなった女から興味を失った龍は、汚らしいものを見下げるように一瞥した後、これを許した。
 だが、いつまで経っても桜の根元から去らず、またこのしだれ桜を害しようとすると、決して許さぬ雪の結界を張って人も妖怪も阻むので、ならばお前はそこで桜守でもしていろと、足に鎖をつけて根元に縛りつけてしまった。
 女の雪の結界は、龍にとっても、辺り一帯を他の妖怪どもから守るのに都合がよかったのだ。

 女は、それでよかった。
 その後、座して待った。ひたすら待った。季節は巡り、心は灰色に染まっていく。
 桜が散り、咲き、また散ってを繰り返すのが嫌になったとき、女は次に来た春、このしだれ桜が満開になったのを見計らって、すべての桜をそのまま凍りつかせてしまった。

 桜の花は凍りついた姿のまま、枝を離れず、以来、どんな季節の中でも散ることなく、咲き続けていた。

 氷の棺の中で、咲いた姿を、保ち続けていた。




 思い出した。全てを思い出した。己が大事に抱えている二つが何かも、ちゃんと思い出した。
 なので、女ははたと気づいた。

 若君は今、女のもとを去ったが、今日もまた、目元にはあの竜胆色の布を巻いたまま旅立たれた。

 そこにおさまるべき二つの目玉は、あの日から変わらず、きらきらと琥珀のように、女の手の中で輝いていた。