「約束していたのを、憶えていてくれて、礼を言うぞ、氷麗」
「え?」
「いつか桜の下で、約束をしたな」
「 ――― はい。嬉しゅうございます。その……だんな様も、憶えていてくださったなんて」
「あれから、どれくらい年月が経ったか知らないが、オレの気持ちは変わらなかった」
「はい。……ふふふ、あのときは、とてもいとけない、お可愛らしい若君でしたのに、今は本当に立派におなりです。桜も、あの頃から大きくありましたけれど、まさか、これほど山のように大きくなるとは思いもしておりませんでした」
「本当に、でかくなったもんだよ。これじゃあ木登りするのも楽じゃねえ」
「まァ、まだ木登りなんて、なさるおつもりなんですか?もう立派な総大将であらせられるのですから、お控えなされた方が」
「あの枝から見る月や街の灯は、格別なんだ。 ――― 枝も大きくなったから、今度はゆったり、二人で座って見られるな。そん時は、酌をしてくれ」
「はい」
「氷麗」
「はい」
「この桜が、あのときも証人だった」
「はい。……『若様が大きく立派におなりあそばして、元服などなされた頃に、もしこの雪女めをそう想ってくださるのなら、リクオ様、貴方様に全て、この身を形作る氷雪の一片までをも』と、そう申し上げました」
「お前の爪の先、髪の毛一本、他の男に渡すんじゃねぇ、とも言った」
「はい」
「……全く、オレとしたことが、本当にガキだった。くれくれとねだるばかりで、お前に簪一つ、櫛一つどころか、花一つ約束しなかった。だから、今ここで約束しよう。
 これから幾度、季節が巡ろうとも、オレは、お前のものだ。オレが出かけることがあったとしても、帰る先はお前のところ。一度出かけたなら、帰ってくるときはお前が喜ぶ土産は何かと考えながら、帰ってこよう。ったく、お前ときたら奥ゆかしいにも程があるぜ。お前はオレの好きな飯から色から燗の程度まで、何でもかんでも知ってやがるくせに、オレはお前の好きなもの、まだ一つしか教えてもらってねーんだから。だがまあ、それはこれからの楽しみだ。オレが土産を選ぶ時間も、お前のものなんだからな」

 春告げの名を持つ雪女は、はい、と笑んで、それから嬉しそうに申し上げた。

「そう仰っていただけるのが、私にとっては、何よりの睦言でございます」

 それは、いつか桜の下で、つつがなく執り行われた、婚礼のお話。






 そして、また幾年か、歳月が流れた。














 深い森を行く、一人の僧形の男がある。

 名を、花開院由龍[よしたつ]という。

 古代より今も尚、連綿と続く陰陽師の血筋に連なる者であり、幼い頃から高野山で修行し才能を認められた退魔師でもあり、今は諸国を行脚し、人々を苦しめる妖怪や魔物、怨霊の類を、調伏してまわっていた。

 彼が行くのは、かつて鳴かずの森と呼ばれていた、今も妖怪どもの巣窟と評判の場所だ。
 一昔前まで、この森を行くのは森の主に召された生贄か、あるいは配下の妖怪どもばかりだった。
 由龍は若いので、それほど昔のことは知らないのだが、何でもここに棲んでいたのは、海を渡ってやってきた残忍残虐な龍の妖魔で、この妖魔は日ノ本の国を丸呑みにするような勢いで支配し、千の鬼を従えて、人間を生餌として飼っていた、らしい。
 この妖魔を退けたのが、今のこの森の主、だということだ。

 妖怪の巣だと聞いていたので、どれと思って軽い気持ちで入ってみた。
 様子を探るだけのつもりだった。邪悪な妖怪と判じれば、容赦はしないが、無理も禁物だ。あちらの実力を探り、今の己では無理だと思えば、尻尾を巻いて逃げるも良策だろう。

 だが、どういうことだろう。森の様子ときたら、一切陰気な様子が無い。
 鳥たちは気ままに空を飛び交い、梢を渡る風はさわやかで、時折、兎が茂みから飛び出したり、栗鼠が枝の上でもぐもぐやりながら、由龍を見ると首を傾げてどこかへ行ってしまう。
 かと思えば、鶯が春告げの練習をしていて、ホー……ホケ!と、失敗したところを聞かれて、そこで由龍の気配に気づき、恥ずかしそうに飛び立つ。ケキョケキョケキョ、と鳴きながら飛び立った様が、まるで、「そこで聞いているなら一言声かけてよオニイサンああもう恥ずかしい」と小娘が背を向けて逃げていくようである。
 まるで森全体に見張られているようだが、恐ろしい気はまるでしない。
 誰かの屋敷の庭先と知らずに入り込んで、がさごそしているような、居心地の悪さだけがある。

 めげずに先を行くが、先刻、目印に落としておいた白石が足元にあったのを見つけて、由龍はついに座り込んだ。
 ずいぶん長いこと歩いている。引き返そうと思って歩き始めても、ここがどこだか見当がつかない。長閑に思えてもたしかに幽玄の森らしく、方向を全く見出せなかった。

「あかん ――― 迷ったらしい」

 網笠を取り、手ぬぐいで額や首の汗を拭いた。
 長いこと旅をしているし、還俗する予定なので、もう頭は丸めていない。伸びてきた前髪を、、手甲をしたままかき上げた。性格の割りに目つきが悪い、と言われる目をさらに細めて、ぼんやり空を見上げる。

 ホー……ホケキョ。

 先ほどの鶯だろうか。

「今度は、上手いやん」

 聞こえてきた長閑な声に、一人呟き、はははと笑った。
 と、そこで、はっと気がつき振り返ると、そこに、二人の童がいた。
 今の今まで全く気配がなかったのに、ぱちくりと大きな瞳でこちらを見つめている様は、二人が遊んでいたところに、突然由龍が現れたので、びっくりしている、というかのようだった。

 一人はしろがねの髪を長く伸ばし後ろで一つにくくり、瑪瑙の瞳を燃やす異相の童子であり、袴姿の小さいながら立派な若様で、もう一人は、長い黒髪を後ろで一房、桜色の紐で蝶々結びにした童女、こちらも小さいながら打掛姿の愛らしい姫君である。
 若様は姫君を庇うように立ち、姫君は若様の後ろから、そっとこちらをのぞいていた。
 人の気配のしない森の中で出会ったこの二人に、おやもしかしたら、と思いつつ、にこにこと由龍は笑いかけた。

「 ――― なんや、坊主、嬢ちゃん、いつからいたん?」
「さっきから、ずっと居たよ。ねえお坊さん、どこから来たの?どこへ行くの?迷ったの?」
「あんな、質問は一個ずつしてもらわんと、坊さんあんまり頭よくないから憶えられへんで。ええと、なんやて、どこから来たって、そら、あっちや。西の方。どこへって、そら、決めてへんわ。どこへでもや。迷ったかって、ああ、迷っとる。そらもう盛大にぐるぐるぐる〜っと、さっきから同じとこぐるぐるしとるわ。もうええわ、ええ加減かえろ思うて、来たばかりの道を引き返したところやけど、全然出口は見えてきいへんし、かえって奥へ奥へ入ってる気ィするわ」
「 ――― ぷッ……くすくすくす」

 童子の後ろに隠れていた童女は、由龍のひょうきんな物言いに、上品に袖で口をおさえて、ころころと笑った。
 庇っていた童女がそのように笑って警戒を解いたので、童子の方も少し安心したのか、小さな獣が背中の毛を逆立てて威嚇するように立ち上っていた妖気も、少しかおさまった。

 まだ定められないが、悪いものではないらしい、と、由龍はとりあえず判断を保留にした。

 命惜しさに見逃すのではない、花開院家の家訓にこういうものがある。
 神代の昔から、これだけは守らんとあかん、と、連綿と続く花開院家当主の部屋の床の間に掲げられた掛軸には、《みんな仲良く》。誰やこれ書いたん、と小さい頃に馬鹿にしたら、当時の当主である曾爺さんに、目から火が出るような勢いでぶったたかれた。
 なんでも、苦境の時代に、たいそう才在る女当主が書き残したものであったそうだ。

 動くモンだと思って滅するだけなら、そこ等の流しの退魔師にでもできる。花開院家に必要なのは、それが邪悪なものか、そうでないものか、これを見極め、邪悪なものだけを滅すること。悪を名乗っていたとて、それが真に邪悪とは限らへん。正義を名乗るモンが正義の皮をかぶって悪いことをしているのなら、これを討つモンが己を悪だと名乗る潔さは、邪悪とは言い切れへん。
 滅する技はあとからナンボでも磨き上げられる、しかし人として大事な心は、一度失うと、二度と取り戻せへんのや。
 
 ――― 陰陽師らしからぬ真っ直ぐすぎる家訓が、花開院家の柱に刻まれている。

 そしてその柱の下に、代々の当主が隠している、アレが……。

 ぐ、きゅるるるる〜〜〜。

 これを思い出した途端、由龍の腹の虫が盛大に鳴いた。
 童女の笑いが、いっそう大きくなった。

「坊さん、腹減ってんのかい?」
「ああ……昨日は森の外で野宿やったし、森はちょっとだけ見てすぐ帰るつもりやったし……いや、三日も食べへんかったことあるから、まあ死にはせえへんけど、そうやなあ、腹へったわぁ……」
「……お坊様、おうちへおいでなさいな」

 ここで初めて、くすくすと笑うばかりだった童女が、愛らしい声で手招きした。

澄麗[すみれ]、外の人をあんまり招いちゃいけないって、母上がいつも仰せだろう」
「でも、あにさま、困っている人を放っておいてはいけないとも、ととさまは」
「うーん……仕方ないなあ。お坊さん、おいでよ。大丈夫、取って喰いやしないから。ちょうど夕餉前だし、何かあると思うよ」
「あったかーいご飯。これさえあればええ……。これに卵一個を、こう、ぽとーんと落として、そこに、ちょろーっと、深みのある醤油を……」
「そんなのでいいの?変なの。まあ、いいや、おいでよ」
「いやいや、坊ちゃん、嬢ちゃん、えろうすんまへん、世話になります」

 こうして二人に招かれた由龍が十歩ほど歩くと、もうそこに大きなお屋敷があったから驚きである。
 由龍は冷や汗を流した。これは、格が違う。
 結界が張られていたことにすら、気づけなかった。修行中の身ではあるが、由龍とて、次期当主と目されている男だ。そこそこの自負はあった。なのに、いやはや、これはと、素直に脱帽した。
 もっとも、ただの人間であれば、おそらく由龍のように、こんな奥にもこられなかったろう。森に入ったつもりが、十歩も歩いた頃には外へ導かれて、おや思ったより浅い林だったねえなんて、思ったものだろう。

 立派な門を潜ると、玄関は書院造りのこしらえ。
 ここに招かれるのかと思いきや、脇から水を撒く音が聞こえて、童子童女がそちらへ向かったので、由龍もこれに続いた。

「父さん、父さん、お客さん!お坊さんが、森の中でお腹へって、困ってた!」
「あのね、たまごかけごはん、食べたいんだって ――― くすくすくす、変なの」
「森の中で?へえ、珍しい。いらっしゃい、お坊様。こんな辺鄙なところへ、ようこそいらっしゃいました」

 柄杓で桶から水を撒いていたのは、二人の父親であろう、袴姿の青年であった。水を撒いている先は、植木などではなくて、何故かそこは池である。水場に向かって水を撒いていた。栗色の髪が首筋までを覆い、優しげな琥珀の目元に、銀縁の眼鏡。やんわりとした物腰を裏切らず、口元には微笑がたたえられていた。
 若い。だが、見かけどおりの年ではないだろうと、由龍は考える。
 この二人の父親ならば、おそらくは ――― ならば、こちらから礼を失してはなるまい。網笠を抱え、居住まいを正すと、腰を折って一礼した。

「花開院由龍と申します。高野山での修行を終え、全国行脚の修行中の身でありまして、この森の近くを通りがかり、子供の頃に寝物語に聞いた御伽草子の舞台だと思うと、年甲斐もなく心がはしゃぎまして、ほんのちょっとだけ中をのぞいてみようとしたらば、帰る道を失ってしまいました。そこを、通りがかられたご子息、ご息女に助けられ、こちらに招かれたのでございます」
「花開院の ――― そうですか。それは懐かしい縁です。私は、奴良リクオと申します。この屋敷の主です」

 やはり。と、ついと由龍の背を、冷たい汗が伝った。
 この、物腰柔らかな青年こそ、この屋敷の、そして森の主であり、残忍残虐な龍の妖魔に対し、人間と妖怪の軍勢を束ねて立ち向かったという、魑魅魍魎の主なのだ。
 しかし、懐かしいとはどういうわけか、と、由龍は首を傾げた。
 これに、主は笑って付け加えた。

「昔、友人に花開院家のご息女がおられました。その子も好物をTKGとか呼んでいてね、何のことはない、ただのたまごかけごはんなんですよ。ああ、すみません、腹がすいているんでしたね、すぐ用意させましょう。これから日も暮れるから、一晩泊まっておいきなさい。明日、この子達にでも森の外へ案内させましょう」
「過分なもてなし、ありがたく存じます ――― 拙僧には経を上げるくらいしか御礼申し上げる方法がございませんが、さて ――― 」

 妖怪屋敷で経など、眉を寄せられるだろう、しかし何の礼も出来ないのは心苦しいと思っていたが、主は顔色も変えずにこれに応じた。

「それはありがたい、祖母や母には私の拙い般若心経程度しかあげられないので、寂しいことだと思っておりました。どうか、経をあげてやってくれませんか。花開院の方であるなら、祖母もゆかりある京都を久しぶりに思い出して、嬉しく思うに違いない」

 さあと中へ招かれ、立派な座敷で明るい庭を眺めながら、夕餉前のできあいとは思えぬ膳立てされた食事で腹いっぱいに満たし、その後仏間で経を読んで、広々とした風呂まで使わせてもらい、さらに夕餉までいただいて、由龍は恐縮することしきりであった。

「いやあもう、えろうすんまへんでした、高野山で煩悩断ちとかしてたぶり返しかもしらんけど、ホント、ホントにちょっぴりだけのぞいて、帰るつもりだったんですわ。好奇心っちゅー煩悩が一番断ちにくい。妖怪の巣窟とだけ聞かされて育ってきてたもんで、だから入ってはいけない言うし、それじゃあさぞかし強い妖怪がおるやろう思って、修行じゃーと先走ってしまいましたん。
 でも今考えると、森の外の村の連中は、別に森のことを怖がってもなんでもおらんかったですし、ただ、あそこには入っちゃいけねえ決まりだべ、とこう言われただけで、はあ、すんません、そりゃあかんわ、人ンちに勝手に上がり込んだらあかん。そういうことなんやろ、主さん」
「オレは別に、あいつ等に入っちゃならねえとは一言も言ってねえし、だから入ってこられてもいいように、ここらを《畏》で ――― あんたが言う結界っていう奴で囲んでいるんだがね」

 夕餉の後、濡れ縁で月を愛でながら、屋敷の主と差し向かいで飲む酒の、美味いこと、だが気まずいこと。人相が悪いくせに情けなくお喋りする奴だ、しかもその中に上手く嘘と本当を混ぜるから嫌らしい、と高野山では嫉妬深い同宿の坊主どもからよく言われていて、その度にへらへらかわしていたが、今の由龍は心から申し訳なく恐縮して、ただひたすら言い訳するのであった。
 これを、屋敷の主は、うとうとする童子を膝に抱きながら、面白そうに眺めている。

 まるで人間のようであった屋敷の主は、黄昏時を過ぎるや由龍の目の前で、なんとも妖艶な妖怪へと化生した。主は別段隠す風もなく、ただ鬱陶しげに銀縁眼鏡を取り払い懐に仕舞うと、ちろりと、瑪瑙の瞳で由龍を見て、「風呂の用意が出来てるぜ、坊さん。屋敷の奴等が起き出す前に、入っちまいな」ときたものだ。この父親と童子は姿形が似ていないなあと思っていたが、こっちの姿は瓜二つだった。
 薄々正体に感づいていた由龍だったが、こう言われて、「あ、はい、お先にいただきますー」と返事をしてしまったときは、やられたと思った。知っていたと、告白したようなものだ。

「まァ、そうやってこっちの都合に合わせてくれるうちは、そうさせてもらうさ。また季節が巡って、人間がオレたちを忘れ始めたら、そうも言ってはいられなくなる。それまで、せいぜいのんびりさせてもらおう」
「……妖怪の主さんらしからぬ、弱気な発言やないですか。これだけ妖怪が跋扈している世の中で、どないして妖怪を忘れろ言うんや。うち等かて、今やからこんな風に全国行脚の旅なんかしてられるけど、爺さん婆さんは、何かあるたびに『昔は旅なんて…』って、こうやで。人間は妖怪の生餌として生かされておって、花開院家はかろうじて、京都で時の帝をお守りするんが精一杯やった。
 今かて、あちらこちらの辻では、妖怪どもが狼藉を働くことがある。主さんはそんなことせえへんかもしれんけど、そういう妖怪ばかりではない。闇は深いし、人は闇が怖い。闇がある限り、妖怪はおるモンやろう」
「その闇もやがて、薄くなる。夜も明るいままになる。人は妖怪も闇も《畏れ》なくなり、忘れ去る。そういう日がまた来る。必ずな」
「またまた、そりゃあ神代の昔、そういう場所があったとか言う話があるけど、ホントかどうかもわからんのに、また、見てきたように、主さんたら」
「 ―――― 」
「 ―――― マジ?」
「ずいぶん、昔の話だがな。妖怪は、居ないものだと思われていたぜ。それが当たり前だった。たまーに、ほんのたまーに、姿を現して人を浚って食ったとしても、人の世では妖怪の仕業とは思わず、どの人間が殺したのか、血眼になって探したりしてな」
「まっさかー。人間が人間殺したら、すぐわかってまうがな。そんな大きな街なんてあらへんのやし、どこになにがしが住んでるかなんて、村中町中の連中が知ってるし。怪しいやつはすぐお縄や」
「 ――― 日ノ本の国の、今の人間の数は、せいぜい五百万がいいところだろう。あの頃は、それが一億を越えていた。陰陽師は、追い込まれた妖怪を、それでも最後の一匹まで淘汰するために、技を磨いていた。オレも、命を狙われたことがある。花開院に」
「 ―――― 」

 今の花開院家とはまるで様相を違えている有様に、ごくり、と由龍は喉をならしたが、主がこちらにまた視線をちろりと流して、盃から酒を含みながらにやりと笑ったので。

「な、なんや、嘘かいな!」
「信じたかい」
「あーッ、びっくりしたぁー。うっかり信じるとこやったぁー、あっぶなー。まさか主さん、その頃から生きてるんかと思ったわぁ。いやまさかなー、あはははは」
「ああ。信じなくていい。それでいい ――― こんな話は、すぐ忘れるさ」

 眠りこけた童子を優しくあやしながら、月と桜を愛でる主が、しかしどこか寂しそうなので、由龍はぽりぽりと頭を掻き、まさかと思いつつ、今度はこちらから話すことにした。

「 ――― 神代と言えばなあ、うちの家系は、それよりも昔から続いとるんやけどー」
「うん……?」
「ぶわあっと地獄の釜の蓋が開いたように妖怪が増えたって言う頃の、当主の走り書きが残っとるんよ。と同時にな、こんな家訓がうちに在るの。
 《その妖怪が正か邪か、真に見極め、邪のみを滅すること。そうするために、心眼を磨くこと》。妖怪は黒のみにあらず。灰は黒にあらず。悪を名乗っていたとて、それが真に邪悪とは限らへん。正義を名乗るモンが正義の皮をかぶって悪いことをしているのなら、これを討つモンが己を悪だと名乗る潔さは、邪悪とは言い切れへん。滅する技はあとからナンボでも磨き上げられる、しかし人として大事な心は、一度失うと、二度と取り戻せへんのやから、と、なんというか、甘ちゃんやろ?
 あは、僕もそう思うんやけど、まあ、嫌いじゃないわ、コレ。
 正義とか、悪とかな、そんなん、それぞれやもんな」
「なんか、昔とずいぶん、変わってるな、花開院」
「これ、家訓にしたんがな、僕の、えーと、ヒーヒーヒーヒーヒーヒーヒーヒーヒーヒーヒーヒー……あとはしょってええ?お婆ちゃんなの。おかしいやろ、妖怪が増えたっちゅーときに、それでも、手当たり次第はあかんて、陰陽師を戒めたんよ」
「………ゆら」
「お?」
「花開院ゆら、だろ、そのお人好し」
「ああ、うん、知っとんの?花開院ゆら様。僕な、直系なん」
「直系。道理で。坊さん、アンタ、中身そっくりだよ ――― 人間ってのは、やっぱりたまにすごいんだよな。忘れているだろうと思うことを、きっちり伝えていて、時代が巡っても、憶えている」

 さっきの話、一瞬嘘だと思いかけた話が、本当の本当に本当だったのだと、由龍は確信した。
 主が、眠る童子の背を袖であたためる素振りで、そっと顔を伏せたのは、きっと顔を見られたくないからだろうと、わずかに霞みがかかる良い月をじっと見上げて、酒を含んだ。




 夜が明けて、早々に由龍は山を降りることにした。
 ひょうきんで面白い話をたくさん知っている坊さんを、森から出たことのない童子と童女はもう一晩泊まってお行きよと引き止めたが、「いやぁ、こんなイイところに長居しとったら、じーさんになってしまうかもしらん」と、由龍はやんわりと断った。

 門まで主の見送りを受け、お世話になりましたと深く一礼すると、なんと土産に蛇酒まで貰った。
 主は今、朝陽を受けて、あの物腰柔らかな青年の姿になっている。
 にこにこと笑っているが、こっちの方が食わせモンやな、と、由龍は正しく判じた。

「まだたくさん余っているんです。滋養の薬ですから、お持ちください。旅を続けるのなら、役にたつでしょう」
「へえ、蛇酒!この辺、毒蛇なんぞおるんですか」
「いいえ、もう出ませんよ。それはね、私と家内が祝言をあげたときのものなんです」
「ほお、そりゃあ芽出度いモンやなあ。わー、嬉しい。じゃ、遠慮なくいただいていきます。主さんも、京都に来ることがあったら、僕んこと、思いだしてやー、そんでたまごかけごはんでも一緒に食べよー」
「ありがとう。そのうち、この子等を連れて伊勢にお参りにいかなければと思っているので、その折にでも、ご挨拶させていただくかもしれません」
「にしても、自慢の奥さん、見られんかったんが残念やわー。澄麗ちゃん、そっくりなんやて?」
「あれはね、陰陽師が苦手で……。しかも貴方ときたら、その姿だから」
「へ?僕?」
「貴方の中身はゆらちゃんにとても似てるんだけど、外見はその……ゆらちゃんのお兄さんに生き写しで」
「ほうほう」
「……その人というのが、私が若い頃に半殺しの目に合わせられた人で。いやあ、あれは痛かった。だからその、あれは気性が激しいし、貴方はただの人間だから、肺まで凍っては生きていられないでしょ?」
「その節はえらいすんませんでした。奥さんにもよろしくお伝えください」

 陽が暮れる前には、次の村に足を運びたいからと、由龍はしきりに礼をすると、童子と童女の導きを受けて、ゆったりと坂を下っていき、森の外へと歩んでいった。
 平坦な森を歩いていたつもりだが、裏手は少し急な斜面になっていたらしい。
 脇の木立の向こうに、田畑と、これに囲まれた村が見えてきたが、これがずいぶんと斜面を下った先なのだった。
 しかし、村が見えれば安心であるし、童子童女をあまり遠くまで連れ歩くのも心苦しい。

「ありがとさん、もう村がそこに見えとるし、ここまででええわ。お父さん、お母さんによろしく言うといてな」
「うん、お坊さん、また来てね!」
「お坊様、お気をつけて」

 童子と童女に手を降り返し、由龍は斜面を下って、森の外へ出たのだった。

 ふ、と、視線を感じて、たった今下ってきた斜面を振り返り、由龍は、あっと声を上げた。

 斜面の上には、あの屋敷の濡れ縁から望んだ、見事なしだれ桜を背に、あの魑魅魍魎の主がすっくと立っている。
 桜が放つ霊気を帯びて化生したか、今はしろがねの髪を風に遊ばせ、瑪瑙の瞳が見守るようにじいとこちらを見つめていた。
 この脇に、絹糸のような長い黒髪の、目を見張るような美しい女が、百合のようにしなやかな身を、そっと寄せていて。
 童子童女は二人の前から、由龍に大きく手を振っている。
 そして、この一家を守るように、百鬼が思い思いの姿で取り囲んでいるのだった。
 由龍が滞在している間、屋敷の中で、じっと息を殺していた妖怪たちに違いなかった。

 手を振り返した。あの主が、己の中に流れる血を懐かしんでくれるのが、嬉しかった。
 わかり合える。それが嬉しかった。

 旅を続けるため、網笠を被って先を急ぐ。
 足は軽い。この行脚が終わったら、由龍は花開院の若き当主である。

「 ――― 《みんな仲良く》か」

 なるほど、良い家訓だ。由龍は納得した。


<了>











...い つ か 桜 の 下 で...
鳴かずの森は、常春の森と呼ばれるようになり、それからみんな、なかよくしあわせに、ずうっとしあわせに、くらしましたとさ。めでたし、めでたし。