世界というのは、何も、見えているその場所のことだけでは、ない。 己の目に見えていなくても、遠くの土地で風に揺れる枝があるように。 己の耳に聞こえていなくても、遠くで誰かが笑ったり、泣いたりしているように。 重なり合ういくつもの世界で、己とは違うものを目にする己が、また違う世を生きていたりもするのかもしれない。 こちらで当たり前のように在る何かが、あちらでは失われ。 あちらで当たり前のように在る何かを、こちらでは失いながら。 「だから、もしかしたらどこかに、奴良組の若様、なんて呼ばれてる、リクオがいるのかもしれないわね」 「そんなの、想像つかないよ」 「そうかしら、ふふふ。お母さんにとっては、どっちでも、リクオはリクオに違いないわ。きっと同じことを言って育ててたと思うから、どれだけ世界を重ねても、きっと同じリクオになってたと思うの。威張りん坊さんには、したくないものね」 「ボクも。………ボクも、別の世界でも、きっとお母さんのこと大好きだと思う」 小さな手が、母の手を握る。握り返してくる力は、弱々しい。 「違う世界だったら、お母さん、病気になんてならなかったかな。違う世界だったら」 「そうねえ、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもどちらにしても、お母さんはお母さんだし、リクオはリクオよ。そうよね」 「………うん」 「数ある世界の中で、ここにいるリクオは、ここにいるお母さんの子供になったの。これってすごいことよ」 「………うん」 「どこか違う世界のリクオは、奴良組の若さまだったかもしれない。その代わり、何か別のものを失っていたかもしれない。だから、見えない何かを羨んだり、妬んだり、決してしないこと。 同じ世界の人だってそうよ。リクオよりたくさんのものを持っているように見える人が、いるかもしれない。 リクオより、たくさんものを知っているように見える人が、いるかもしれない。 でも、その人がなにを持っているかより、なにを持っていなくて困っているのか、そちらを見つけられる人になってほしいの。 これ、お母さんとの約束。ね」 「………うん」 「守りたいものを、正しく見つけられるひとになってね、リクオ。守りたいものを守れるように、強くおなりなさい。 なれるはず。皆が、側にいてくれるんだから。約束、できる?」 「………うん」 「じゃあ、指切り」 白いシーツの上で、母は優しく笑む。 窓から、切ない夕陽が優しく差し込んでいた。 母が横たわっていた寝台を、今はもう誰も居ない寝台を、リクオは見つめながら動けない。 奴良組の若様として育っていたリクオは、同じ切ない想いをしたんだろうか。 同じ悲しさを知っているんだろうか。同じ悔しさを知っているんだろうか。 そんな風には、思えなかった。 世界にはたくさん、母も父もある子供がいるのに、どうして己はただ一人なのか。 羨まないこと。妬まないこと。 「………難しいよ、お母さん」 約束をした小指に、ぽたりと涙が落ちた。 「だって、寂しいよ」 小さな拳を握りしめて、ふるふると、肩を震わせているところへ。 「リクオ、こんなところにおったのかい」 優しい声がかかって、おそるおそる、振り返った。 後ろから優しく己を見つめていたのは、スーツに身を包み杖をついた祖父、少なくともそう呼ばせてくれる老年の男と、それにしがみつき、えぐえぐとしゃくりあげながらこちらをのぞき込む妹のゆら。 少し斜に構えて、二人の後ろから病室をちらりとのぞき込んでいる、兄の竜二。 いずれも、血の繋がりの無い家族だが、三人の姿を見たとき、リクオはようやく声を上げて泣いた。 母がこの病室で息を引き取ってから、葬儀を済ませて小さな骨壺におさまってしまうまで、凛と前を向いて口上を述べていた大人びた姿はなく、年相応の、母の面影を求めて通いなれた病院にやってきた、ただ一人の少年となって。 「リクオ、さびしかったやんなあ。つらかったやんなあ」 しゃくりあげながら、ゆらがしがみついて来たので、リクオも同じように声を上げて泣きわめきながら、彼女にしがみついた。 「ステレオ兄妹かよ。うるせぇなあ、ったく」 言いながらも、病室のドアを閉めた竜二が二人の頭を少々乱暴に、がしがしと撫でて、それでも二人が泣きやまないので、 「しまいに窒息させるぞ、こら」 二人を腕の中に閉じこめてしまった。 そんなことを言いながら、兄の言霊も普段より、鋭さを欠いているようで、少し掠れている。 強く抱いてくれる兄の腕にしがみついて、さらに泣いた。泣いて泣いて泣きくたびれるまで泣いて、眠ってしまった帰り道、その兄に背負われて帰りながら、ようやくリクオはわかったことがある。 これが、在るということだと。 己が欲するものは、ここにすべて在るのだと。 家を追われて以来、どこか、拗ねた気持ちを持っていた。 母子で家を追われることなどなかった、奴良リクオ。 ぬくぬくと若君として育っていたに違いない、奴良リクオ。 母を失わなくてもよかったかもしれない、どこかの世界の別のリクオ。 そんな風に、奴良家の若君をしている奴良リクオには、きっとこの兄も、妹も、祖父も、いないのだろう。 己に在るものがあちらには無く、あちらに在るものがこちらには無い。 比べる必要は無いのだ。だから。 奴良リクオが何を持っていて、何を持っていなかったかなどに、もう金輪際、目は向けまい。
ここに在るのは、
人であり 妖の血に目覚め 人も妖も友として 陰陽師であり 小さな一家ながら 百鬼を率いる大将でもある 三千世界のいずれかで 若君として育てられなかった ぬらりひょんの孫 花開院より一文字賜り 姓を花霞と称す その 生き様 ...三千世界の鴉を殺せ...
三千世界の境を越えて、ほんの少し色違いの綾が混ざれば、同じように見えても全く別の世界となる。 それでも、尚、交わされる約束があった。 「つらら、ボク、きっと妖怪の総大将になるからね」 「はい。その日まで、いいえ、その日がきても、きっとつららは、若のお傍でお守りします」 「違うよ、つらら」 「え?」 「ボクが守るんだい、つららを!」 「若……リクオさま……」 「ボクは、つららが大好きだよ。あのね、ボクが例え《若》じゃなくなっても、ボクは、つららが好き。だから、ボクはつららを守れるくらい強くなる。きっと、強くなるからね」 「何を仰せです、若は若です。でも………私も、リクオさまが例え、ただの妖だったとしても、いいえ、ただの人の子だったとしても………私も、リクオさまが好きですよ。強くて優しい、総大将になってくださいね」 けれど色違いの綾が、二人を、遠ざけて。 絡んだ小指が無情に、引き離されてから、十年。 羽衣狐が四百年の眠りから目覚め、蠢き始めてから、京都はおよそ、人が住める場所ではなくなった。 四百年の封印がついに解け、辻という辻から妖怪どもが溢れ出し、人を襲い、喰らい、羽衣狐に続けと唸りをあげれば、瞬く間に黒雲が空を覆った祟り場と化してしまったのだ。それまで人々に秘されてきた妖怪という存在が、人が築いて来た文明を打ち壊し、人々はわけもわからず逃げ惑うのみ。 テレビ局の報道車が、電波に乗せて映像を送り、焦ったような声のアナウンサーが、フロントガラスに大挙して迫り来る人ではないものについてまくし立て、やがて、この映像と音声すら、砂嵐に覆われて悲鳴を残し、消えた。 魑魅魍魎の主の座をかけて、関東奴良組と、京都羽衣狐一派の争いは避けられず、二つの百鬼夜行は、暗い霞が漂う洛中で、ついに激突した。 西、転生妖怪、他人の肉を借り、妖の魂で時代を巡る、羽衣狐。 東、この依り代の娘を取り戻さんとする、人の心と、妖の力を併せ持つ半妖、関東奴良組二代目総大将、奴良鯉伴。 二つの軍勢の争いは、敷かれた布陣同士、二人の大将から遠く離れた場所でも、激しくぶつかり合った。 両者の力、拮抗。激しい鍔迫り合いの中、目覚しく活躍する集団があった。 洛東の一端、二つの軍勢が一番激しくぶつかり合う場所の端で、輝かんばかりの力の持ち主たちが、舞うように襲い来る妖怪どもをなぎ倒す。 わあっと走り来て、木の葉が渦を巻く小路に迷い込んだ妖怪たちは、はたと気がつけば全く心当たりの無い森に迷い込んでおり、力任せに斬り伏せようとする妖怪たちを、十尺近くはありそうな大鉈が竜巻のように張り飛ばし、それでも怒涛のように前方から攻め入ってくる大群を、 ――― ふわり。 どこかから桜の花弁が、美しくはらはらと舞い込んだかと思えば、次には青白い炎が舞い上がって天を焦がしこれを巻き込んで、彼等を眠りのうちに浄土へ導く。 息の合った妖術でこれまで支えあってきた三人の若い妖怪たちは、次の一波に備えて尚も身構えたが、この三人と彼等に従う妖怪たちの強さは、同じ前線でも他の場所を守る者たちと比べて群を抜いている。 何度も押し寄せた軍勢だったが、今のが最後だったらしい。 遠く離れて土煙を上げて戦っている場所もあるようだが、少なくとも、彼等が守る場所として割り当てられた、銀閣寺周辺に敵の姿は無かった。 ふう、と、三人のうち一人が安堵の息をついた。 「おいリクオ、ここ等はあらかた片付いたみたいだぞ。次はどうする」 「羽衣狐からは、まだ命令が来てない。どうやら、他の連中はまだちんたらやってるみてーだし、オレたちだけ突出するのもまずい。待機だ」 「いいのか?他の連中に、加勢は?」 「猩影、あの女狐に尻尾振ってたって、良い事ねーぞ」 「馬鹿、そんなんじゃねーや。ちいっと、遊び足りねぇって言ってんだ。関東最強の奴良組ってのはこんなモンかよ、あっけねぇ」 「 ――― ふ、そうか。頼もしいな」 「全く、肩で息をしながら、何を言ってるんだか。乱戦で不安なら不安だと、言ってしまえばいいじゃないか。いいんだよ仔猿くん、君は後ろに下がっていても。あとは僕が引き受けよう」 「はぁ?目ェ開いたまま寝言かァ、玉章ァ?てめーこそ、ご自慢の白い毛並みがずいぶん薄汚れてるじゃねぇか。チビはどいてな、仔狸さんよ」 「仲良いな、お前等」 「誰が!」「誰と!」 同時に目を剥いた大猿と大狸の息は、まさしくぴったりである。 三人目の、長いしろがねの髪を妖気に吹き上げた青年は、たまらず破顔した。 三人の中では、人の青年の姿をした彼が一番小柄だったが、銀閣寺を守る軍勢の大将は、間違いなく彼だった。それまで張り詰めた顔をしていた彼が笑うことで、彼等が率いていた軍勢に笑いが伝播し、束の間ではあるが戦いの収束に安堵が広がる。 また時折、彼の身から立ち上る更紗のような紫の妖気が、身から千切れて離れるや、はらりはらりと桜の花弁になって消えるのは、人にあるまじき怪異である。さらには紅に燃える瞳が、何とも言えぬ妖艶な様子で、人に似てはいても人では無いことを知らせていた。 「そんじゃ、仔猿さんと仔狸さんよりタッパのねぇおチビな大将は、遠慮なく下がらせてもらうとしましょうかねぇ」 「あ、いや、リクオ、そういう意味じゃ。気にすんなって」 「そ、そうだよリクオくん、背なんてすぐ伸びるよ。……怒ったかい?」 「気にしねーし怒ってねぇ。つかそう気を使われると、逆にむかつくからやめろ」 むすっと不機嫌顔になった大将に、今度は二人の副将、ぷっと吹き出した。 人間と並べば、大人の男と並んでも見劣りしない美丈夫が、二人に囲まれるとまるで子供のように見えるのを気にしているらしいのが、何とも可愛らしく感じられたのだ。 大将のくせに器の小さい、とは思わない。今まで、この男の器の大きさを、いやというほど見せつけられている二人だ。 今の表情は、子供がちょっとしたことで唇を尖らせるのと、同じこと。二人に心を許しているからこそ見える、甘えに他ならなかった。甘えられれば、大将に惚れ込んでついて来た者として、嬉しいに決まっている。 「それじゃ、我等の大将がお休みのうち、僕はこの辺りを木の葉の《畏》で囲むとしよう。入ってくる奴は問答無用で鞍馬にでも放りこんでおくよ。余程の大物でない限り、破られることはないはずだ、安心して休んでくれたまえ。何かあったら知らせよう」 「おう、頼む。配下の奴等も、三交代で休ませてやれよ。これは命令だ」 「僕の四国妖怪たちは、これしきの事でへばりはしないんだけどね。でも、わかったよ」 「それから、犬神の頭、たまには撫でてやれ」 「……それも命令かい?」 「いいや、忠告だ。友人としてな。この乱戦だ、次の戦いの後、誰が残ってるか、わかったもんじゃねぇ」 「……なら、きいておくとしよう」 玉章は一つ頷くと、舞台役者がするように、大きく両袖を広げ、途端、ざあと木の葉があたりを包み、聞こえていたあちこちで妖怪たちがぶつかり合う喧騒、怒号、悲鳴、怨嗟が、嘘のように静まり返った。 「俺は、猿どもを使って他の前線の様子、確かめておく」 しかし副将たちは、まだ気を緩めない。女形の紗を被った猩影が、手下の猿どもに口笛で合図をすると、玉章が囲んだ《畏》の境界の外へ、小猿たちが敵の様子を見定めにたちまち走る。 今東からこの京都に攻め込んでいるのは、そこらの新興集団ではない、古くは江戸時代から続く奴良一家の中でも、選りすぐりの戦闘集団。勝って兜の緒を締めるのも当然だ。 その上、後ろに居る羽衣狐は必ずしも、味方であるとは限らないのだ。 「ああ、頼む。ついでに、あの女狐の様子もな。そこに、奴良組の大将は既にいるのか、いないのか」 「羽衣狐も?」 「ああ。敵大将の姿が見えねぇのは不気味だ、居所が知りたい。ま、軍勢だけ真っ向から向かわせて、てめぇは既に女狐の元へまっしぐらって言うんなら、それでいい。オレたちが標的になる心配はない。だが、あの女狐も一筋縄じゃいかねえ奴だ、そんなヘマはしねぇだろう。だとすると、次に東の総大将が取る手は何か。もしオレなら、余力があるうちに、前線の一番強ぇ奴を叩く」 「強い奴を?弱いところを一点突破じゃなく?」 「一点突破して、抜けた後、本陣を攻め落とせればそれでいい。しかしもし、攻め落とせなければどうなる?一旦退却するとなったら、今度は後ろに羽衣狐、前に手ごわい前線部隊。だからこそ、相手との力が拮抗してるとき、退くことを考えて手堅い布陣を敷くなら、余力のあるうちに出る杭は打っておくさ」 「……俺たちが、一番狙われやすいってことか」 「だから、オレたちは、奴良鯉伴がオレたちを目こぼしするかもしれない程度には緩慢に、羽衣狐の忠実な幹部どもに付け入らせない程度には迅速に、この戦で活躍する必要があるんだ。できるなら、皆が怪我で済むくらいの痛い目を見せてもらえて、退却させてもらえりゃ、いいんだけどな」 「難しいな。厄介な約束事をしちまったもんだ」 「仕方ねぇさ。京都で一家を持つんなら、いずれ羽衣狐の奴等に目はつけられただろう」 「やっちまえば良かったんだよ、どうせ、『この戦いに協力すれば花霞一家が独立したままであることには目を瞑る』なんて約定、あいつら絶対、守る気ないぜ」 「だが、今、羽衣狐と戦えば、犠牲が大きい。なるべくなら、避けたい」 「勝てない、とは、言わないんだな」 「愚問だぞ、猩影。戦うとなれば、勝つ。奴等が約定を破るなら、それが、その時だ」 「わかったよ、御大将。俺たちはアンタについて行く」 象牙色に輝く毛並に、色彩鮮やかな歌舞伎衣装を纏う、隠神刑部狸・玉章。 深灰に沈む毛並に、紅蓮の被りを纏う、大狒々・猩影。 彼等二人も、それぞれが大将となって、百鬼夜行を率いておかしくない実力の持ち主である。 しかし彼等は、己等より少し華奢で、少し人間に近い姿形の、しろがねの大妖を大将と仰ぐ。 化かし合い、騙し合い、掠め合うばかりの浮世において、尊い信頼の絆で結ばれながら。 綺羅星のごとき輝きの噂は、夜となく昼となく続く妖怪たちの戦場で、敵味方問わず口にのぼった。 「まず、ここを守る連中を叩く」 奴良組二代目の判断は早い。 卓の上に広げられた京の地図を見ながら、その日真っ先に指したのが、銀閣寺であった。 首無が、胴体の上に浮く頭を、僅か斜めに傾けた。 「二代目、ここの連中は確かに強いですが消極的です。おそらく、もともと羽衣狐一派の者では無いのでしょう。捨て置いては?」 「忠義を尽くす必要が無いのに戦う必要がある。それはつまり、守らなくちゃいけねーもんがあるってことだ。今はまだ大丈夫だから立て篭もっているのかもしらんが、羽衣狐どもがそれに気づいて、奴等の大事なモンを手中にして、言う事をきかせるようになってみろ。奴等、死に物狂いでかかってくるぞ」 「その時はその時に、露払いをしては……」 「あのな、そうなったら、おれ、そいつ等に勝てる自信、ないよ」 「そんな、馬鹿な」 「あんだけ強い奴等が、守りたいものを守るために戦おうって思ったら、お前、そういう奴相手に戦えるか?腕が千切れても足が吹き飛んでも、尚向かってくる相手にどうやって戦う。今ならまだ、ちょいと痛い目に合わせてやりゃ、奴さん、こりゃいい機会だってんで、頃合見て退いてくれるよ。おれには、奴さんの大将が、それを望んでいるように見える。怪我ですむくらいの戦いで済むうちに、退かせてくれって、誘ってるように見えるわけよ」 「誘ってますかね」 「おうよ。花魁が赤い襦袢をひらひらさせて誘ってるように見えらぁ」 戦装束の陣羽織を纏った二代目は、人好きのする笑みでからからと笑うと、次に一変、表情から一切の熱が消えた。 ぞくり、《畏》が、軍議の場に集った大物妖怪たちを包み込む。 四百年生きて尚、青年の若さを保つ二代目は、そうなると一切の人間らしい温かみが消えうせ、髪や瞳の黒と、白い肌との陰翳の中、凄絶なほどに整った面が際立った。人と妖、本来交わらぬはずの血が、彼の中で等しく巡り、不均衡な天秤の上でようやく一つの美貌として形作られているために、一度目にすれば視線を逸らし難くすら感じる。 笑みが消えた二代目の表情は、既に敵の前に立ったときと同じもの。まだ見ぬ敵を脳裏に描き、艶やかな漆黒の瞳を、地図上の銀閣寺に向けていた。 「行くぜ、おめぇら。今夜の出入りは銀閣寺、花霞一派。彼奴等が逃げ出す前に、大将の顔、きっちり拝んでおけよ。もしかすると、羽衣狐の次に京都の主になるのは、そいつかもしらんぜ」 つらら、ボクは強くなるよ。つららも、つららが好きな皆も守れるくらい、強くなる。 ボクは、つららが大好きだ。 つららの身も、心も、守ってあげたい。 きっといつか、立派な妖怪の総大将になって、つららを守るからね。 ボクが、《若》じゃなくなったとしても。 私も、リクオさまが例え、ただの妖だったとしても。 いいえ、ただの人の子だったとしても。 私も、リクオさまが好きですよ。 強くて優しい、総大将になってくださいね。 優しい手の感触を、浅い夢の中に見て、うっすらと目を開けた。 辺りが、騒がしい。 「 ――― 来たか」 動きやすい袴姿で刀を抱いたまま、壁にもたれてうとうとしていただけだったが、寝覚めは良かった。 こんな良い夢を見たのは久しぶりだ。幸先が良い。 ざわざわと大きな《畏》が近づいてきていると気配でわかっても、ぼやけた夢の輪郭の方が大きく己を包み込んでくれているようで、何の引け目も、恐怖も感じない。 「リクオ様、御大将、大変です!奴良組大将が来ました!」 「来ました、来ました、ずんずん来ました!すごい音!」 「んーっ、んーっ、んーっ」 猩影の使いの三猿が、耳や手や口をそれぞれ押さえながら、彼の前に転がり出た。 「起きてるよ」 「さあさ、早く、早く!」 「皆、号令を待ってます!」 「んぅーっ、んぅーっ、んぅーっ」 うーんと一つ伸びをして、それから緩慢に立ち上がり、ふと見上げた空には何とも美しい満月が浮かんでいた。 「おぉ、いい月じゃねえか」 一言呟いて、ひらりと障子から外へ身を躍らせた。 銀閣寺の庭では、既に彼が率いる鬼どもが身構えていて、ふわりと花のように軽く着地した大将を向かえ、一際大きな歓声でこれを迎えた。いまだ、奴良組の姿は見えないが、空が、土が、ぴしりぱしりと音を立てているところを見ると、木の葉の《畏》もそう長くは持たないようだ。 「来るぜ、リクオ」 「ああ」 「頃合を見て、退却。ほうほうの態を装う。それで、いいんだね、リクオくん」 「ああ。足止めの役目は果たした、それでいい」 「なら ――― そろそろ一声、頼むわ」 「皆、君を待っている ――― 御大将」 ぴし。ぱし。 迫り来る鬼の気を受け、玉章の《畏》が剥がれ落ち始める。 身構える鬼たちは、これを迎え撃つべく足を踏ん張り、いまだ見えぬ敵の姿を思い描きながら、鼓動を昂ぶらせていた。 その、彼等に。 「よぉ、お前等。空、見てみな」 え ――― と、誰もが一瞬、緊張を忘れて肩から力を抜き、言われるままに空を見やれば、そこには見事なお月様。 「いぃ、お月さんだよなぁ」 「おぉ……ほんに」 「あれまぁ、この前まで、空なんて真っ黒だったさかい、気ぃつかへんかったわ」 皆、ぴしりぱしりと音を立てる空気になど、もう全く恐れを感じなくなった。 皆が、しろがねの髪に瑪瑙の瞳の大将の姿にかぶせるように、曙光の中で慈悲深く微笑む、一人の少年の姿を思い出し、何とも言えぬ安堵に、硬くなった体をほぐしたのだった。 かなわないな、と、玉章は呟く。 猩影などは大将の背を見つめながら、ここになだれ込んでくる大妖の気配にではない、まさに目の前の大将の大きな《畏》に、ぶるりと身を震わせた。 「一仕事終わったら、今夜はあれを肴に盃を交わそう。お前等の武勇、手柄、それからやっちまった失敗の話も、楽しみにしてるぜ。 だからこれだけは頼む、誰一人、欠けてくれるな。 さぁ行くぜ野郎共!相手は関東大妖怪奴良組一家だ、相手にとって不足はねぇ、花霞の名、二度と忘れねぇように額に刻んでやれ!」 +++
ぴし、と、ついに《畏》が壊れ、鏡のように辺りの風景が粉々に砕けて、向こうから怒涛のごとき鬼たちがなだれ込んできたが、その時丁度、銀閣寺の足元に集る鬼たちが空に手を掲げていっせいに鬨の声を上げたところだったので、逆に敵方の先鋒は怯んで足を止め、そこへこちらの先鋒がくらいついた。 空を縦横無尽に翔る炎、これを迎え撃つ水柱。 花のように咲き乱れる光、包み込み消す木の葉。 旋風を起こすほどの正拳突き、これを受けて払う大鉈の一撃。 この中で、二代目はゆらりと水面の月のように気配を揺らがせ、敵方の大将を探るべく、軽く土を蹴って背の高い松の木の梢に立った。 すると。 「よぉ、奴良組二代目、いらっしゃい」 真正面に、先客があった。 それだけなら、度肝を抜かれたとしても表情には出さず、にたりと凄惨な笑みを浮かべるだけで済んだろう。だが、できなかった。相手の姿を見てしまえば、できなかった。四百年生きてきて、何度も死線を潜り抜けてきたが、戦いの最中に今ほど目を見開いたことは、なかった。 隙が出来た。 ――― まずい、呑まれた。 思う間もない。瞬間、あちらの梢の上で、ゆらり、ゆらめいた月の影は、瞬時に目の前に現れ、握った刀を抜いていた。 迷う間もなく、祢々切丸を抜く。咄嗟のことだった。 妖に関わるものすべてを、妖気、妖力、妖術、妖具、全てを切り裂く祢々切丸だ、生かしておきたい相手に使う代物ではない。抜いた瞬間に後悔したが、二代目の腕は止まらない。 相対する大将の刀など、その身ごと切り裂いてしまうと思われたが ――― 違った。 ガツリ、音がして、激しく鍔迫り合い。 足場の頼りない梢の上で、二つの軍勢の大将同士、押し、押される。 得物は、それぞれがただの刀であるかのように、どちらがどちらを上回る力を見せることも無かった。 「祢々切が……拮抗している、だと?」 「妖刀作りの名人は、何も十三代目だけじゃねーんだよ。この《鶯丸》、平成生まれ。オレもまだ手に馴染んでなくてな、せっかくだから、慣れるまでちょいと付き合ってくれ。……秋房義兄め、試験品だから使い勝手教えてくれとか言って、すげぇ手に馴染むじゃねーか、これ。ははっ、おもしれぇ」 「お前 ――― 」 祢々切丸。四百年の間奮われても尚、水晶のごとき美しさで月を映す。 鶯丸。言葉を信じればこの平成の世に打たれたというのに、既に幾千年も経た大樹のような安らかさで、使い手の掌におさまっている。 二つを扱う大将の一人、奴良組二代目は明らかに狼狽していた。 狼狽は、配下の鬼たちにも正しく伝わった。いつになく二代目の動きが緩慢である、どうしたのかと梢を見上げて、二代目の相手を視界に入れれば、二代目の狼狽を理解して目を剥いた。 「お前、一体、何者だ。その姿は、何だ」 若々しさに溢れる青年の身は、祢々切丸と鶯丸が弾きあった拍子、今の梢を諦めると、風に乗った花びらのように五間ほどの距離をとって、杉の梢に舞い降りた。 吹き上がる妖気に遊ばせた、しろがねの髪。 二代目の視線を真っ向から受けた、紅瑪瑙の瞳。 「そ、総大将?!」 「い、いや違う、毛並みの色が違う。なんだ、あいつは?!」 奴良組の狼狽も当然である。 小物たちのみならず、二代目の側近までもが梢を仰いだ。 「オレが、京都花霞一派の大将だ。ここを任されている義理の分だけは、邪魔をさせてもらうぞ、奴良鯉伴。青二才と思って甘く見れば、痛い目を見ることになる。お前が、お前より年経た妖怪どもに打ち勝ってきたように、お前だっていつかお前より若い妖怪に負ける日が来るかもしれないんだ。ああ、そうとも、今日かも知れねぇ」 声は朗々と響く。形の良い唇は甘露を含んだように、微笑みをたたえている。 満月を背に、どこからか桜の花弁を従えて、凛と立つ姿も、声も、若き日の初代に瓜二つ。 違うと言えば、初代の金の彩に対して、この妖は銀。そして瞳は紅。 さらに、二代目は花霞大将が鶯丸を奮う腕の、袖口にちらりと瞬いた紅瑪瑙の数珠を見た。 「 ――― お前、それは」 刀を受け流し、懐に入って、数珠で飾られた手首を掴んだ。 二代目はこれを見て、似ている、ではない、虎牙天珠とあわせたこしらえに、間違いない、と判じた。 「おれが、若菜にやったもの ――― ?」 鏡のような澄んだ瞳で、よく魔を惹きつけていた、縁ある娘に贈ったはずの数珠である。 縁ある娘 ――― いや、妻だ。妻だった。ほんの一時だが。 離縁した覚えは無い。だが、かつての妻が、苦しめた女が、まだ生きていると聞いて、ほんの一瞬そちらに気をとられた隙に、何者かに隠されてしまった。 聡い娘だった。優しい妻だった。聡さと優しさに甘えて、辛い想いをさせたに違いない、女だった。 もっとよく確かめようと月明かりに目を凝らし、触れようと指を伸ばしたところで、慌てたように、子供が大事なものを取られぬよう、威嚇するような大袈裟な所作で、振り払われた。それまでは、うっすら口元に笑みを浮かべていたのが、怒りに任せて冷えた妖気を纏わせ、睨みつけてくる。 二人、瞬間、視線を交わしたが、はっと気づいた。 ばりばりと空を破って、入ってくるものがある。 「は、羽衣狐様の、御為にぃいいぃぃぃぃvvv」 巨大な髑髏がいつの間にか迫り、銀閣寺ごとこの場を叩き潰してしまおうと、敵味方問わず、大きな腕を振るいはじめたのだ。 「がしゃどくろか!」 「チッ、あンの女狐、なりふり構わず、ここを捨て駒にしやがったか!おいお前等、あとはいい、奴の目的は奴良組だ、退け!」 大将の号令を、副将が違わず聞いて繰り返す。 「聞いたか、退け!退け!」 「退け!もう奴良組には構うな、がしゃどくろに巻き込まれないように気をつけろ!」 がしゃどくろに続いて、羽衣狐の一派が奴良組に奇襲をかけんとなだれ込み、乱戦に次ぐ乱戦であった。敵か味方か判じられず、闇雲に刀を振り回す輩もあって、恐慌をきたした妖怪どもは戦列を保てず、中には、前と思って後ろに向かって炎を吐く妖怪もあった。 これに、羽衣狐の一派も乗じ、辺りは途端、炎の海。 きゃあと悲鳴を上げた、女怪があった。 炎の真ん前に居た小物たちを庇ったは良いが、乱戦ですっかり息が上がり、炎に押し返された、奴良組の雪女だ。 「まずい、首無、毛倡妓!雪女を ――― !」 二代目が口にするより、二代目の側近が彼女を救い出すより、花霞大将が早かった。 つらら、ボクは強くなるよ。つららも、つららが好きな皆も守れるくらい、強くなる。 強くて優しい、総大将になってくださいね。 激しい妖気の炎に身をまかれ、目を瞑った雪女は、次に襲い来るはずの灼熱に細い体を打ち震わせていたが、一向に己の身が灼ける気配が無いので、顔を隠した袖を、そうっと下ろして、様子を見てみた。 炎はいまだ、目の前で逆巻いていた。 逆巻いていたが、壁にぶつかったように目の前から天に吹き上がっている。 雪女の目の前に居たのは、たった今まで彼女の大将と刃を交わしていたはずの、敵方大将であった。その背が、目の前にある。視線の先にある。彼女に背を向け、隙だらけで。 そうまでして、片手に鶯丸を、もう片手には懐から取り出した鉄扇を広げ、両の妖具で糸を手繰るように、吹き荒れた炎を操っていた。 今、雪女が斬りかかれば、その傷を受けるしかないだろう。 吹き荒れた炎は、やがてつぶらを描き、広げた扇に吸い込まれるように、荒れ狂っていた炎の龍は、ぱちんと閉じた扇に吸い込まれてしまった。 「無事か、つらら」 花霞大将が、肩越しに問う。 「え、あ、うん……どうして」 「守ると、約束した」 「え?」 ぽつりと呟いた大将の言葉は、風に消えてしまい、雪女は聞き返す。 聞き逃してはならないことを、闇の狭間に落としてしまった気がして、雪女はひどく心が急いた。 案の定、二度と同じ言葉を大将は使わず、肩越しに見せていた横顔すらもう前を向いて、盛大に舌打ちした。 「とっとと、お前はここを離れろ。雪女なんぞがどうして前線に居る。こういう騒ぎは武闘派にまかせて、お前みたいな女怪は賄いでもやってりゃいいんだ。二度と、戦場には出るな」 「な、なによ、私だって奴良組の一鬼なんだから!なんでアンタなんかにそんなこと、言われなきゃなんないのよ!」 「つらら」 「 ――― なによ」 「頼むから。……今も、肝が冷えた。じゃあな、もう二度と、出てくるなよ」 「だから、私は、アンタなんかに言われる筋合い……」 ふわ、と、雪女の答えを待たず、大将は己の手勢を追って、一足飛びに戦場を駆け、行ってしまった。 暴れまわるがしゃどくろに、二代目が盃の青い炎を浴びせかける。炎の向こう側で、大将を待っていたのは二人の副将らしき影。 己の手勢のしんがりとなった、艶やかなしろがねの大将は、一度だけ雪女を振り返り、副将二人を従えて、木立の闇に消えた。 「氷麗、大丈夫?!」 「無事か。怪我は?!」 「あ、大丈夫……平気」 一足遅れてかけつけた首無と毛倡妓に支えられて立ち上がってから、ようやく、膝までへたり込んでいたのを知る。かあと頬に熱が上がった。大将に言われた言葉が、いやでも思い出され、何故あんな奴に口出しされねばならぬのかと、再び怒りが湧き起こりそうになったところで、我に返った。 「あやつめ、敵ながら、見事。しかし、初代に似たあの姿は一体 ――― ?」 「姿を真似る妖怪なのかしらねぇ?ま、どっちにしろ、助かってよかったわね、氷麗」 「あの、ひと ――― 」 「ん、どうしたの、呆けちゃって。さ、ちょっと下がるわよ」 そう、周囲はまだ戦場なのだった。 雪女は、震える足を叱咤して、奴良組百鬼のもとへ走る。 今は忘れよう、忘れよう、考えるな、考えるな。 言い聞かせれば言い聞かせるほど、何故、どうしてが、胸に膨れ上がる。 (あのひと、私の名前、知ってた ――― ) つくんと、どうしてか胸が痛んで、あの背を追いたくてたまらなくなった。 追いかけて、追いついて、抱き締めてあげたくなって、たまらなかった。 +++
銀閣寺から南へ離れ、花霞一家は己等の根城にようやく落ち着いた。 羽衣狐一派はまだ奴良組と戦っているのかもしれないが、義理分は働いたのだ、あとは根城に篭って次ぎの召集に備えるのみである。もっとも、戦の準備よりも酒盛りの準備の方にこそ、小物連中は余念が無いのだが。 中庭にまだ小振りな枝垂れ桜を抱えた、寝殿造の瀟洒な屋敷は、ここ最近構えたものだ。 リクオが望もうと望むまいと、その類まれな妖力は、同じ妖怪を惹きつける。戦いに勝った後も、何故か誰もがリクオの傍に留まりたいと願う。願われれば邪険に断るのも可哀相で、一匹、また一匹と懐に抱えてみたならば、妖の血に目覚めてから僅か六年で、一家を構えるほどの数になっていた。 適当に根城を見つけろと言っても、京都は陰陽師の大家、花開院のお膝元。たちまち誰かしらに見つかって滅されそうになり、涙目になってリクオを頼ってくるものだから、仕方なし、リクオは祖父に願い出て、己が守護を任されている山に、せめて己を慕ってくる妖怪を隠す屋敷を建ててよいかと願い出たのだ。 これが許され、一家は伏目の山のすぐ傍に、己等に住みよい屋敷を造り上げた。 屋敷の造りには何一つ口出ししなかった一家の大将だが、中庭に植える木だけは、桜なんかがあればいいなと珍しく自身の望みをぽつりと呟いたところ、一家の連中が奮起して、何とも風情のある、枝垂れ桜を植えてくれた。 幼い頃、僅かの間に住んでいた奴良屋敷にも、見事な枝垂桜があった。 あれに比べれば小振りだが、優しく腕を揺らす桜を見ていると、母が居て、父が居て、あの守役の娘が傍に居た頃を思い出し、充分に心が慰められた。 京都に逃れてきたばかりの頃は、己等母子を追った者や、母を守ってくれなかったひとへの恨みなどで目が眩み、思い出したくないと顔を背けることもあったのだが、恨みや妬みを母が一緒に連れていったらしく、今となっては、ただ、ただ、懐かしい。 その庭を望む濡れ縁に、大将と副将、三人が腰かけ、各々が化生も解かず妖怪姿のまま、香の物を摘みながら月見酒と洒落込んでいた。 リクオは時折、利き腕をぐるぐるとやり、首を傾げながら。 「……あンの馬鹿力、まだ腕が痺れてやがる」 「強いね、君の父上殿は」 当然のように、玉章が受けた。 リクオの父とはもちろん、たった今、足止めをしてきた関東奴良組二代目、奴良鯉伴その人だ。 「何言ってんだ玉章、お前が中国をすっ飛ばしていきなり関東に出てたら、オレじゃなくてアレが相手だったんだぞ、他人事のように言ってるんじゃねえ」 「そこのところは、自分の英断を誇らしく思っているよ。おかげで君と出会えた」 「言ってらあ」 「にしてもよ、リクオ、いいのかよ。親父さんに、名乗り上げなくて」 「名乗りなら上げた。花霞大将と。オレにそれ以外の何を名乗れと言う」 「それは……」 「今は、敵だ。それを言うなら猩影、お前こそ奴良組の奴等に顔を見られちゃまずいんじゃないのか。親父さん、あっちに居るんだろ?」 「家を出てきた身で、親父も倅もねぇよ」 「そう、肩に力を入れるなよ。奴良組に勝ってもらえりゃ、そのうちお前が奴良組に帰れる日も来るさ」 「帰りたいなんて、言ってねえ!」 「へえ、そうかい。オレは今でもたまに帰りたいって思うぜ。叶わぬ夢だがな。……追われたことは、もう過ぎたことで何のわだかまりもないが、だからこそ、あの屋敷にもう一度足を踏み入れてみたいなという気はする。 お袋が立ってた台所、今はどんな風になっているのかとか、あの枝垂れ桜は記憶にある通り、化け物みたいにでかいのかとか、柱の傷はどうなってるのかとか。奴良組が勝ったら、京都の敗残処理で入れるかなってちょっと期待してるんだけどよ」 「なるほど、敗軍の将として、ケジメをつけに行くわけだね」 「おいおい、縁起の悪いこと言うんじゃねーよ。まるで腹切りに行くみてえじゃねーか」 「いや、そん時ゃ、切るだろう」 「切るだろうねえ。カッコいいねえ」 「おいおいおいおい、二人とも、やめろって。今時ケジメつけんのに腹切りとか」 「冗談や、本気にすな」 「君をからかったんだよ、仔猿くん」 「お前等……」 他愛も無い話をしながら、盃を干す。 冗談を言い合い、涙が出るほど笑い、時折拗ねて見せながら、周囲でも妖怪たちがにぎやかに歌い踊り楽器を爪弾いている中で、酔いがほど良く全身を巡る。 「そう言えば、あの雪女」 無粋を好まない玉章が、面白そうにそんな事を言い出したのは、果たして酔いのせいだけだったのか、それとももしかすると、酔いの仮面の向こうで、何らかの思惑があったものか。 「君、ずいぶん気にしていたねぇ。もしかして、昔、奴良家で何かあったのかい」 「あれ、つららの姐さんだろ。本家仕えの。昔、若様の守役だったんだよ」 「はあ、なるほどね。僕はてっきり初恋の女か何かかと」 当てが外れたようで、玉章、はっきりと嘆息した。 「近いうちに花霞二代目が望めるのかと、思ったんだけどねえ」 ごふっと猩影が噴いたせいで、玉章の傍らで眠る犬神が尻尾を濡らし、責めるような目で猩影を睨んだ上、今度は玉章の背中に回って丸くなった。 「初恋の女ってのは、当たってる」 「お、それなら」 「だが二代目の線はねえよ。だいたい、オレはまだ十四だ」 「妖怪なら立派な成人男子じゃないか。ねえリクオくん、いや御大将、それぐらい望んだって、バチは当たらないと思うよ。 君の寛大さは強みだが、執着の無さは、時折、見ていて危うい」 これには返事をせず、リクオはただ、盃を干した。 |