戦いに向いていない。奥へ下がって、賄いでもやっていればいい。

「そんなこと、わかってるわよ。最初から」

 奴良組はがしゃどくろを下し、羽衣狐一派の洛東の布陣を抜けたものの、雪女をこの先には連れて行けないと、きっぱり二代目に言い渡された。呟いた今は、先日のあの、しろがねの妖に言い渡されたとおり、宝船の中で戦時下の賄いをする身である。
 それだって立派な仕事だ、馬鹿にするつもりは無いし、初代の頃に総大将に付き従った先代の雪女と違って彼女は奥向きの仕事の方こそを好む女怪であったので、やはり血のにおいや戦いの喧騒に身を任せているよりも、炎に少し気をつけなければならないが、包丁を握ったり鍋でことこと煮たりしている方が安堵するのは、確かだ。

 なにせ、二代目の周りには、側近として古来から付き従ってきた、頼れる武闘派の妖怪どもが多くある。
 彼女のような、雪と氷をようやく纏わせるに至った女怪など、出る幕では無かった。

 理解はしている。頭では、わかっているのだが。
 しかし、彼女がわざわざ東京から京都に、二代目に無理を承知で頼んで連れてきてもらったのは、奥に守られて、安全な場所で飯炊きをするためではない。

「リクオさま……本当に、ここに居るのかしら。こんな危ない街に……」

 思い出されるのは、もう十年は昔の、幼子の顔。
 今はきっと、もっと少年らしくなっているだろうが、雪女が思いだす守子の顔は、いつまでたっても幼いままだ。
 太陽に煌めく稲穂色の髪に、無垢な琥珀の瞳。
 小さな小さな若君は、少女のように優しい顔で笑い、雪女によく懐いてくださった。

 奴良組二代目と、人間の娘の間に生まれた和子さまは、リクオさまと名付けられ、大事な跡取りとして育てられるはずだった。生まれて間もなくして彼女が守役としてお傍にあがり、以来、雪女は四年を若君の守役として過ごした。隠居された初代も、二代目も、人間との間になされた子であったとしても何の区別もなく、若君をいつくしみ、人間ながら妖怪任侠一家へ嫁いできた母君にも心からの愛情を注がれていた。
 状況が変わったのは、二代目と夫婦として過ごした後、古歌を残して姿を消した前妻の行方が知らされてからだ。

 二代目は表面上、何の差し障りも無いように振る舞い、妻と息子をその座から廃するつもりは見せなかったが、過去に愛した女への未練、恋情、後悔は、眠れぬ夜を増やしていき、さらにはまるで妖力を見せない、ただの人間としてお育ちになる若君に業を煮やした古参幹部たちが詰め寄るなどして、人間の妻を妾とし、若君を妾腹としておいて、かつての妻を正式に離縁したわけではないのだから、ともかく体裁だけでも妖怪任侠らしく迎えてはどうだなどと言うものだから、悩む表情を見せる機会はおのずと増えた。
 それでも、二代目は人情深く義理堅い御方である。
 やはり人間の妻と息子への愛情は切り離せないでいたのだが、そのうち、突然、奥方の方が若君を連れて出奔された。

 いや ――― 煙のように屋敷から、掻き消えてしまった。
 同時に、二代目の前妻、山吹乙女さまの行方も、再び掴めなくなった。

 浮世絵町中の烏たちを使ったが、全く行方が知れなくなってしまったのだ。
 守役であった雪女は、それまでも若君がかくれんぼをするたびに、どこへ隠れたか探しあぐねて困ったものだが、その日ばかりは泣き濡れて、一晩中探した。喉が枯れるまで呼んだ。そうすれば、悪戯者だが優しい若君が、物陰から、ごめんよと言って出てきてくれるのではないかと、そう思って。
 若君は、出てきては下さらなかった。
 母君と二人、屋敷から消えてしまわれた。
 守るべき子を失った雪女は、虚ろな心を抱えながらこの十年を過ごしてきた。
 あの面影を、決して忘れることの無いままに。






 ところが。
 今になって、この若君が京都に居るという噂が、奴良家に届いた。
 二代目の前妻、山吹乙女さまこそが、羽衣狐の依代であるとの報せと、同時である。

 瞬く間に抗争が起こり、若君がおわすはずの京都は、人が介入できぬ妖の都へ染め替えられた。
 文明に縋りすぎて、実際の京都がどのようになっているのかを伝える映像が無ければ、人は天変地異が起こったとしか思えない。肉眼で確かめるには遠すぎる土地に住む人々には、実際にその土地に住む人々の声は、天変地異に苛まれ恐ろしい想いをした人が、何かを錯覚したのだろうと判じるしかない。
 京都周辺に人は近づけず、京都に住んでいた人間たちも、逃げられる者は街を出て、残っているのは陰陽師や修験者など、退魔の力を持つ者たちばかりなのだと言う。

(もしかしたらリクオさまも若菜さまも、もうとっくに、京都の外へ出ているのかもしれない……)

 洛東での、京都入り前哨戦において、京都の町並みを見た。
 昔ながらの趣深い寺や神社は残っていたが、近代になって目立つようになった背の高い塔や建物などは、見る影も無く打ち壊され、アスファルトは抉られ、電柱は折れ、電線は引きちぎられて、およそ、現代の人々が暮らしていける街ではなくなっていたのだ。

( ――― リクオさまは、人の血が濃い御方だから)

 妖力の発現が全く無いために、古参幹部から妾腹としてとっておくだけで良いなどと謗りを受けていたほどだ。
 幼くはあったが、どこか聡い若君であったので、初代も二代目も居ないところで交わされるこそこそとした噂話を耳にすると、そうっと足音をたてぬようにその場を後にしていらした。
 若君があんな事を言ったのは、きっと、そのためだ。



 ボクが例え《若》じゃなくなっても、ボクは、つららが好き。



 幼子とは思えぬほど真剣な目で、雪女を切なくなるほど射抜いてこられた。
 若君と母君が姿を隠されたのは、あの約束の、僅か七日後のことだった。

(リクオさまは、一体いま、どこに ――― )

 鍋をかき回しながら物思いをしていると、ふと。



 つらら。頼むから。……今も、肝が冷えた。



 何故か先日の、羽衣狐の手先らしい、花霞大将の言葉が脳裏を過ぎり、ぼむと雪女は脳天から湯気を噴いた。
 しろがねに輝く毛並み、白皙のおもてに通った鼻筋。涼しげな容貌の中で唯一、瞳だけは紅蓮の炎。
 彼は実に見事な、美丈夫であった。

(どどどどどうしてあんな奴を思いだすのよ私、しっかりしろ私、全然違うじゃないの、全然ッ)
(そそそそそうよ全然違う違う違う、リクオさまはあんな不良みたいに育ってるはずないじゃないッ)
(だだだだだいたいリクオさまは人間、そうそう人間なんだから妖怪じゃないんだからッ)
(ごごごごごめんなさいリクオさまつららはあんな奴になんて全然ッ、これっぽっちもッ、一瞬たりともッ、見とれたりなんてしませんでした絶対ッ、だって敵の将どころか使い捨ての駒扱いされてましたもんがしゃどくろにまとめて踏み潰されそうになってましたもんがしゃどくろを倒したのは二代目ですもんあいつは尻尾巻いて逃げていきましたもんッ)
(あああああでもでもちゃんと自分で捨て駒にされてるのをどうやら最初から見抜いてて自分がしんがりを勤めてたのが敵ながら見事って首無も毛倡妓も二代目も言ってて私も少しばかりそんなこと思っちゃったりしましたごめんなさいリクオさまのお住まいかもしれない街を蹂躙している奴に向かってそんなあああああ)

 ともかく宝船の中でじっとしていると、思考が病んでくる。
 瞳の螺旋が申し訳なさにぐるぐると輪を描き始め、蓋が外れた醤油がとぽとぽと鍋の中に注がれていることにも気づけず、つららは嗚呼、と天を仰いだ。そのついでに、鍋に肘をぶつけて、大鍋が不安定にぐらぐらと揺れる。
 取っ手の熱さに飛び上がって、ふうと息を吹きかける間もなく、鍋は大きく傾いた。

 あっ、と思う間もない。
 傾いた大鍋からざばりとお湯が溢れて、熱湯が床にそそがれ、雪女はこれを全身に浴びて大火傷、となるはずだった。

 誰かがぐいと後ろから雪女の腰を抱き、ふわりと後ろに飛んでいなければ、鍋を避けたとしても、床に広がるお湯に爪先を火傷してしまったろう。
 鍋は釜の上でひっくり返り、がらん、ごろごろと、鈍い音がした。

「はあ、びっくりした……。誰だか知らないけど、ありが……ふううえぇえぇッッッ?!」

 雪女が驚愕に目を見開いたのも、仕方の無いことだったろう。

「しー……ここには誰もいない。そういうことで、一つよろしく」

 彼女の腰をさらって、後ろの樽の上に飛び乗ってこう笑い片目を瞑ったのは、他ならぬ、あの花霞大将だったのだから。
 雪女が目を丸くしている間に、まさにその目の前で、すいと姿を消してしまう。
 鍋がひっくり返った音を聞きつけた小物たちが台所に顔を出したが、雪女があたふたとしているのはいつもの事なので、とにかく大事が無くてよかった、気をつけろとだけ言い残すと、また行ってしまった。

 こいつが居るのが、ばれなくてよかった……。

 じゃなくて。

「どうして私が、アンタを匿わなくちゃならないのよ!」
「そうだな、おかげで助かった」

 再び樽の上、姿を現した花霞は、ひょいと飛び降り、勝手に辺りを探って雑巾を見つけると、床に広がる熱湯を、手馴れた様子で拭いてしまう。
 雪女が熱湯に触れられないのを知って、気を使ってくれたのだろう。
 そう思えば、先ほど冷まそうとして失敗した頬の熱が、さらに上がる。

 その上、どうしてかこの男の笑みを見ていると、探す少年に重なる。
 眼差しも、瞳の色などまるで違うのに、やはり探す少年に重なる。

「敵情視察ってところかしら。早いところ出て行かないと、いつまでも見逃し続けはしないわよ」
「敵情視察なら、場所が違うだろ。二代目は短期決戦を狙って、弐條城に真っ直ぐ突入するつもりだ。そっちに本陣を移してるし、羽衣の奴ももう草は入れてあるらしい。それにこんな外れにとめてある船に、羽衣狐はいつまでも執着しねーよ。あいつはやや子さえ産めればいいんだと」
「アンタは何してんのよ。それがわかってんなら、弐條城にでも行ったらどうなの」
「義理分の人数は出してる。頃合見て逃げ出すのが得意な奴等だ、任せてるさ」
「へぇ〜、それでアンタは、一人でこんなところに遠足ってわけ?ずいぶんな大将ねぇ、下僕のところに行ってやらないわけ」
「ああ。二代目が螺旋の封印に気づかない限り、いきなり弐條城へは入れないからな。短期決戦の作戦は無駄だ。二代目が順番を踏んで、ちゃあんと弐條城にたどり着けそうになったら、その時はオレも行くよ」
「……螺旋の、封印?」
「おっと、喋っちまったか。いけねぇなあ、オレは口が軽くて」

 喉の奥で笑う花霞と対峙し、雪女は急速に心の温度を下げる。
 この男は敵だ。一度は助けられたとは言え、羽衣狐の軍門に在る者なのだ。

「アンタ、何しに来たの?」
「お前の顔、見に」
「嘘を仰い。こっちにそちらの内情を教えて、一体何をさせるつもりかしら、ストーカーさん」
「聡いな。流石に、ドジなだけじゃないか。こっちにも色々、都合や事情があるんだよ」
「そう言えばアンタ、さっきから羽衣狐のこと、呼び捨てにしてるわね。忠誠心も感じられない。捨て駒にされた腹いせ?」
「それは逆だ。忠誠心が無いから、捨て駒に廻されるんだ。あんな女狐に尻尾振ってたって、良いことねーし。できるなら二代目に、とっとと討ち取ってもらいたもんだ。だがそうなると、今度は京都が奴良組に牛耳られることになる。これは、面白くねぇ。ここはオレたちの街だからな、他所モンに牛耳られたくはない」
「……恩を売っておいて、取り入ろうというのね」
「そこはどうとでも。弱小組には弱小組の生き残り方がある。抱えた子分どもの身の振り方くらいは、考えておいてやらねーとならんのよ」

 それは、判る。
 雪女とて、一家を率いる母に育てられた身だ、取り入るにしても相手を選ぶ必要がある、その理屈はわかる。

 よく見れば、花霞は今この時、胸元はだけた着流し姿で、袖にも懐にも、得物を隠している様子は無い。今この場で雪女が氷の薙刀を振りかざせば、逃げるしか無いだろう。この宝船は前線から遠いとは言え、中には多くの奴良組妖怪たちが残っている。
 少し思案したが、雪女は首を縦に振った。ただし、告げた声には氷点下の冷たさを纏わせて。

「わかりました。二代目へお伝えしましょう。但し、嘘であるなら容赦はしないわよ」
「雪女のお前に、嘘をつく男があるなら、余程の阿呆やな」

 僅か、上方訛りが出たのは安心からか、どこかほっとしたような顔をして、どきりとするような無垢な笑みを浮かべ、

「だから、顔を見に来たってのも、本当なんだぜ」

 その後するりと、桜の群雲を纏わせ、花霞は消えた。

 二代目のご帰還の報せが入ったのは、その後、小半時ほどしてからだ。



+++









 紅い部屋 ――― 壁も天井も床も板張りなのに、何故だか彼女には、そう思えてならなかった。
















(この部屋は、悲しいほど、紅い)










 吐いた血は拭き取っても床に生々しく残り、とっさに口元を押さえたのであろう、そのまま苦しさのあまりにすがったのかもしれない、手の形をした赤黒い痕が、床に、壁に、いくつもいくつも散っている。
 壁にも天井にも、何かを封じるようにか、入ってこないようにか、部屋の主が書いたのだろう札が、数え切れないほど貼ってあったが、これもいくつかは血に染まり、引きちぎられ、またその上から札が貼られている。

 隅に畳まれた布団にも、茶色に変わった染みが残っている。

 最初は布団に吐く度に換えていたが、いつしか毎日のように吐くようになり、半日に一度吐くようになり、しまいには静かに呼吸をする回数よりもせき込んでいる回数の方が多くなったので、本人がもう換えなくていいと言ったのだ。
 もちろん、それを許す彼女や兄弟たちではなかったが、京都の街を不穏に騒がせる妖の気配が昂ぶってきたのも丁度その頃であるので、彼はしばらく身を潜めることにするとだけ言い残し、ここへ帰ってこなくなった。



 死の気配が、四方からじわりじわりとにじみ出て、部屋の主を押しつぶしてしまいそうな ――― そんな部屋だった。



 今はここに居ない部屋の主を想いながら、部屋の中心に座す。
 きっと、部屋の主がここに居たなら、妖との争いの前に血の汚れを呼び込むなんて言語道断だと、あの優しい顔で烈火の如く怒るに違いない。

 それでも彼女は、ここに来なければならなかった。
 勝たねばならぬ理由を、今一度確かめるために。
 己の内側からこんこんと湧き出る泉が、その理由に触れると、今まで以上に大きく強く脈打ち、体全体に流れゆく。
 目を閉じればはっきりと、額の上の方に大きな光が在るようになったところで、瞑想をやめた。

 彼女の緊張が解かれたのを見計らったように、足音が近づいてきて、戸の外で止まった。

「 ――― ゆら、いいか」
「うん。もう、いつでも行けるわ」
「いや、出発にはまだ間がある」

 ゆらと竜二。
 京都を霊的に守護し続ける花開院家本家の、兄妹だ。

「今ようやく、伏目稲荷に奴良組一派が向かったという情報が入った。少し待たんと、妖怪同士の抗争に巻き込まれるだろうからな、少し様子見だ。入るぞ」
「え、でも、血の汚れが」
「負けを血の汚れのせいにするような奴は、最初から負けて当然なんだよ」

 見れば、例の如く口の悪い実兄の、いつものように寄せられた額のしわが一本多い。
 苦々しい想いをしているのは、ゆらばかりではないのだ。いや、誇り高い兄のこと、ゆら以上に苦々しく想っているのかもしれない。

「だいたい、この全部が本当は、本家の血を受け継ぐ男子が吐くはずだった血だ。本当なら自分が吐いたはずの血に、汚いもなにもないもんだ」
「………お兄ちゃんも、ここに瞑想しに来たん?」
「こんな趣味の悪い部屋で集中なんざできる阿呆はお前くらいのもんだ、一緒にするな。お兄ちゃんはな、この部屋の染みの数を数えて、愚弟を連れ帰ったらその数の分だけ花開院秘伝の丸薬を飲ませるために、下調べに来たのだ。毎日の分、用意しなきゃならん」
「あの苦いやつか。あはは、そりゃいい、ぎょうさん飲ませてやらないかんなぁ。うん、そうしたらきっと、きっとようなる。そうしよ。早う封印をして、羽衣狐を倒して、連れ帰らんと………。
 ………なあ、お兄ちゃん、でも」

 その先は、言えない。
 言霊が宿ったらと想うと、怖くて言えない。

 こんなに血を吐いて。
 己には、病など燃やす妖の血が流れているからいくらか時間を稼げるはずだと、花開院が受けるはずだった末期の呪いを、一族全員の分、肩代わりして。
 たとえ上手く狐を倒し、呪いが消えたとしても。

 呪いに痛めつけられた体は、あと、どれだけ生きられるのだろうか。

 勇ましき明王に化生している間は、全く匂わせぬ死の香だが、明王と如来は表裏一体。
 明王が負った傷は、夜明けとともに優しい如来が全てを受ける。

 祟り場と化した京都では、昼も夜もなく、常に明王へ化生したまま、飛び回っているのだと聞く。
 再び螺旋の封印でもって京都が祓われた後、どれだけの負荷がかかるのか。呪いが消えたとしても、負荷に体が耐えられるのか。
 それ以前に今このときも、彼が受けた呪いは現れるのが遅いだけで、裏の姿の明王をも、蝕んでいるのではないのか。

 消えたゆらの語尾をさらって、竜二が壁によりかかったまま、深刻な顔で続けた。

「お前等ももうすぐ高校受験だから、こんな妖怪大戦争なんぞにかまけてる暇は本来、ないんだ。受験戦争の方こそが大事だぞ。高校受験が終われば安心というわけでもない、次には大学受験が控えてる。
 そろそろ二人で、将来の進路を考えておけよ。ったく、いつまでたってもお前等ときたら、目先のことばかりにとらわれやがって。
 もっと先を考えろ、もっと、先を」
「もっと、先」
「そうだ。もっと先」
「うん………そうやね。考えんといけんね」
「お前のことだから、あいつの回復をどうしたらいいのかとか悩んでるのかもしれんがな、花開院の秘術は幅広い。妖怪退治専門のお前と違って、呪いで受けた傷や病を専門的に研究してる分家もある。回復が追いつかない期間は、しばらく暗室にでも放り込んでおくさ。明王姿は可愛げが無くて好きじゃねえが、背に腹は代えられん」
「うん………」
「治ったら、さぼった分、しっかり勉強させるからな」
「うん………」
「今こうして話してたことなんざ、いずれ笑い話になる」
「やっぱりお兄ちゃんは、言霊が上手いなあ。そうなる気ぃしてきたわ。早うそうなってほしい。早う、早う」
「………なら、涙を拭け、ゆら」

 本家仕えの陰陽師が二人を呼びにきたのは、それから間もなくのことだった。



+++



 錆の浮いた鎖が、じゃりと嫌な音をさせて、ふと意識が浮上した。

 現の体は、眠ったままだ。
 ここは夢。何度も見る、囚われの、夢。

 暗く紅く深い闇の底へ、四肢をしっかり鎖で縛り付けられている。咎人のように。囚人のように。
 ご丁寧に、墓場の空気がした。
 ひんやりとして、黴臭い。
 夢だというのに、毎度のことながら演出が凝っているなあと、喉の奥で笑ってみるのだが、喉はこの前に見た同じ夢で、狐に喰い破られていた。
 だから今は喉のあたりに空いた風穴から、ひゅうひゅう、ぜいぜいと風が漏れる音がしただけだ。

「喰いに来たぞよ」
「喰いに来たぞよ」
「さて次はどこを喰らおう」
「さて次はどこを痛めつけよう」
「足指は全部喰ろうた」
「手の指は半分残っておる」
「こわいかえ」
「おそろしいかえ」
「つらいかえ」

 現れるのはお決まりの、九匹の仔狐だ。
 輪になって踊りながら己を取り囲み、けたけた笑う。
 けたけたけた、けたけたけた。

 口にはしないが、あと半分の手は最後まで取っておきたいなと、思った。
 この夢で喰われた場所は、現の体に何か作用するらしく、爪先はしびれて動かなくなり、はらわたをやられた後には血を吐く回数が増え、喉をやられて上手く声が出なくなり真言を紡げなくなった。
 人間の身に降り懸かるべきであった呪いだから、妖怪の身にはまだ表だってはいないけれど、現れるのが遅いだけで、やがては昼も夜も、己の全てを覆うようになるだろう。どちらの姿であろうが体も心も魂も、一つしか無いのだから。

 彼の体は、あちこち喰い破られて、鎖で繋がれているというより、鎖にぶら下がる端切れのように無惨であった。
 夢を見るたび、仔狐が喰い荒らしたためだ。

 その仔狐たちは、今日もまたやってきて、どうやらどこを喰うか決めたらしい。

「そうだ、目がいい」
「目をくり貫け」
「引きずり出せ」
「やれ、生意気な目だ、睨んできおる」
「こやつは叫びもしないから、面白うないのう」
「何、味は同じよ」
「左様。観念した人間など、こんなものよ」
「我等が狐の呪いを軽く見た、うつけ者の末路よ」
「ほれほれ、生意気な目ン玉がぽろりと取れたぞ」

(ああ、これで人の身では、お前の姿を見られなくなったかな)
(陽の光の下で笑うお前を、もう一度、見てみたかったけれど)

 ぐちゅぐちゅと足下で、仔狐等が取り出した目玉を喰らう音がするのを耳にしながら、彼はそんな考えを抱いた己を笑うのだった。
 自嘲でも、諦めでもなく、少しの発見をした、そんな嬉しそうな笑みだった。

(こんな風に何かに執着するなんて、久しぶりだ)

 これまで何かを欲しいと思うことも、自分のものにしたいと思うことも無く、ただ、皆が笑って暮らせる世界なら、それで良いと思ってきた。
 それだけで、己も笑える。それだけで、己も幸せになれる。
 しかしどうやら、そうではなかったらしい。
 己には己の望む幸せが、ちゃんと別にあったようだ。
 たった今、消えてなくなったのは残念だけれど。

(片手だけでも、最後まで残っていたらいいな)

 印を組むためでも、呪符を使うためでもなく。

(これは指切りをした手だから)



 母と。それから、



 ――― 強くて優しい、総大将になってくださいね。



 そのとき、はたと、目を覚ました。
 残っている小指が、ぴくりと震えた気がした。










「まだ、時ではないよ」

 いつでも動けるよう袴姿で、刀を抱え壁に寄りかかったまま、身を休めていた花霞大将が、ピクリと小さく体を震わせ目を開けたのを、座敷の対の端から、目敏い玉章が咎めた。

「もう少し、休んでいるんだ」
「ああ………奴良組の動向は、どうなった」
「そろそろ、仔猿くんの使いがつく頃だよ」

 まさにその時、玉章の言葉尻にかぶせるようにして、

「ご報告申し上げます」

 例の三猿のうち、見猿が天井から転がり出た。

「奴良組一行、伏見稲荷に到着。また、花開院一派と思われる陰陽師も、封印の準備を整えて伏見稲荷周辺に待機している模様」
「よし。異界を守るのは、百足観音だったな。誰が入った」
「それがその、一番ドンくさそうな、あの雪女でした。大丈夫ですかね」
「………大丈夫なわけがあるか!」
「ヒッ」

 一喝して、花霞大将は立ち上がり、その前に玉章が腕を広げて立ちふさがった。

「一体どこへ行くつもりだい」
「伏目稲荷」
「それは奴良組に任せるんだろう?君の出る幕じゃないよ、休むんだ。幸い近い場所だ、何か異変があれば判る」
「あいつが危ない」
「またあの、雪女かい?あんな格下の女怪を、どうして君が守ってやらなくちゃならない」
「約束した」
「止めても、行くんだろうねえ」
「ああ」
「なら、ご一緒しよう。やれやれ、初恋ってのは厄介だ」
「いらん世話だ。これはオレの問題。花霞一家に関わりはない」
「僕は君についていくだけだよ。花霞一家の副将としてではない。それに、もしあの辺りに封印が施されたら、君は人の身に戻る。ここまで戻って来られるのかい。君には君を運ぶ者が必要だ」
「………世話をかけるな」
「まったくだ。ところで、仔猿くんはどうする」
「見猿、猩影をここに呼び戻せ。副将の一人もいねえと、しまらねぇ」
「は、はいでありますっ」
「気の毒に。彼、自分だけ置いてけぼりをくらったって、きっとひどく拗ねるだろう」

 この場にいない、もう一人の副将をねぎらう言葉には、一つ笑みをくれてやって、花霞大将は夜風に乗ろうと窓に手をかけたが、途端、こみ上げるものがあって、一つ、咳をした。
 手の平に受けて、目にして、やれやれと天井を仰ぎ、何事もなかったかのように再び窓の外に目を戻す。

 同じものを玉章もちらと目にしたはずだが、もう休めとは言わなかった。

「刻限が、近いようだね」

 誰より側に在る副将なのだ、本当は判っている。
 二代目を望むには、花霞大将に残された刻限は少なすぎる。
 それでも、本人が望むなら何とかしてやりたいと思うではないか。

 だがこの時の玉章は、確かめるように、訊いたのみ。

「まあ、もった方だろ」

 花霞大将の方も、口元をぐいと拭っただけだった。

「人間の姿のままじゃ、そろそろ死んでる頃だ」

 二人、怨念が渦を巻く京の都を背に、風に乗って目指すは伏目稲荷。
 夜風に運ばれながら、それにしてもと、花霞大将は呟いた。

「伏目稲荷には、よくよく縁があるな」