母が、生きていた頃だ。
 伏目稲荷に、子供を浚い喰らう妖怪が出たことがあった。

「螺旋の封印が弱まっている徴か。妖怪が迷い込むなど」
「しかし幸い、それほどの大妖ではないそうだ。今は分家が、結界を作って閉じこめているとか」
「ならば、修行中の陰陽師に行かせてはどうか」

 もうその時に、罠はしかけられていたのかもしれない。
 陰陽師にとって、敵は妖怪ばかりではない。
 才あれば才あるほど、これを妬む同胞が敵となる。

 本家筋に生まれたゆらはともかく、居候の分際で、それも汚らわしい妖の血を引くリクオが、陰陽師たちが面白がって色々教えているうちに、真言を理解し、竜二と同じ言霊やゆらと同じ式神を、勝るとも劣らぬところまで操るようになると、中にははっきりと悪意の嫌がらせをする者まであったから。

「奴良リクオに行かせよう。花開院の陰陽師として生きていくつもりなら、いつかは一人で妖怪を滅しなければなるまい。分家の立ち会いの元なら、危険も少なかろうし」
「おお、それはいい。リクオならば、才ある者。幼いとは言え、末席の陰陽師など既に超えていることだし」
「リクオ、才を認めてもらって、ゆらの婿になったら、お前もめでたく花開院を名乗れるぞ」

 実際のところ、陰陽師として生きるだとか、妖の血が混じっているだとか、こういったものを強く考えたことは無かったリクオ、真言や言霊や式神の扱いを覚えれば、優しい秀元や秋房や、他にもよく顔を合わせる分家筋の陰陽師たちがよく誉めてくれるし、陰陽師として一人前と認められれば少しは母を楽にしてやれるだろうと、一心不乱に努力していただけなので、己が頭角を現している自覚も無いままであった。
 さらには、これまで己にあれこれ教えてくれていた陰陽師たちが最近遊んでくれなくなった上、秀元や他の兄たちの教え方が日毎厳しくなるに及ぶと、ここでようやく、教えに疑問を持つようになった。

 妖怪は黒、人間は白。
 黒く悪である存在を滅し、白く善である人間を守る。

 何度も何度も説かれる理屈を、兄たちも妹も、当然のように鵜呑みにしている。誰も彼もが当然の理屈と信じる中で、それは本当なのかとリクオが改めて問う機会は与えられなかった。
 彼の記憶の中で、奴良屋敷で己を囲んで守ってくれた妖怪たちは、陽気で愉快な良い奴ばかりであったのだ。
 もっとも、勢力争いなど、様々な思惑があったのであろう、同じ家の何者かが母と己を追ったが、しかしそれだって、あの陽気で愉快な奴等とは違う者がそうしたに違いない。

 人が白く善と言うが、鬼畜生、外道の謗りを受けるような、残虐非情な人間とて、たくさん居るではないか。

 こう悩んでいた頃だったので、リクオと、妹同然に育ってきたゆらの仲を冷やかす年上の陰陽師たちにも、苦笑いで虚ろに答えるしかなく、是非自分にお命じくださいと、勇ましく名乗り上げることはできなかったのだ。

 そのまま消極的に末席で顔を伏せていれば、少し聡いだけの半端者など、皆忘れてしまうだろうと思っていたのだが、

「いかがでしょう、二十七代目、これほどまでに皆の期待を集める若い修行者に、新たな陰陽師として名乗りを上げる機会を与えられては。伏目の山に封じてある百足妖怪は、幸い、我らの不動縛呪で弱っております。これを乗り越えれば、自ずと、自信も生まれましょう。我等も全力で、後ろ盾となりますゆえ。
 ………それとも、二十七代目は、分家のみを前線に立て、ご自分の懐に入られた縁者はかわゆうて、出したくない言うことやろうか。それが花開院の名を持たぬ、ただの居候相手にもそうなんやったら、当代の御当主は羽衣狐相手にどうやって戦うつもりなんか、お聞かせ願いたいもんですなぁ」

 他ならぬ、伏目の山を守護する花開院の分家がこう続けたので、何かがおかしいと思い始めた。
 物腰は丁寧ながら、言うことは挑戦的な分家の当主に対し、二十七代目は苦虫を噛み潰したような顔をしている。それだけではない、その周囲を固める、竜二や本家に養子に入り花開院を名乗る兄たちもまた、同様だった。

 陰陽師の中にも、権力闘争はある。
 螺旋の封印が弱まっているこの時代、本来避けねばならない内部の争いが、この場で起ころうとしているのだと、理解した途端、背中を押されるように口にしていた。

「………参ります。二十七代目、ボクに、お命じ下さい」

 二十七代目がリクオを行かせないと言えば、この分家に当主に付け入る隙を与える。やはり二十七代目は、己の懐で可愛がる者は贔屓し厚遇し、縁の薄い者や気に入らない者を前線に立たせているなどと、これ見よがしに責め立てるに違いない。
 あるいは二十七代目がリクオに行かせると言い、それでリクオが無事に帰ってこれたなら良いが、失敗した場合。これには、己のことを棚に上げ、陰陽師の実力と年若さを正しく見極められない老害であるなどと、舌鋒鋭く今代当主の判断力に疑いを持つような事を言い出すに決まっている。

 同じ失敗をするならば、リクオ自身が名乗り上げる他、なかった。
 強く望まれたとなれば、例えそこで修行者が命を落としたとしても、不幸な事故で済まされる。当主が謗りを受ける可能性は低い。
 そうなれば、伏目を守る分家にうま味は少なくなるだろう。まだ何かあるとすれば ――― ここでちらりとリクオは、例の分家当主を横目で見やり、確信した。

 ぎらつく目。野心の目。
 覚えがあった。
 奴良屋敷から、彼と彼の母を追いやった、古参幹部がこういう目をしていた。

 この男は、己等一族よりも才ある者を、廃するつもりなのだ。
 おそらく伏目には、小物どころではない、彼等が才ある者を殺すために用意した、大妖が舌なめずりをして待っているに違いない。
 ここで名乗りをあげるのは、虎の檻の中へ、挑むようなものだ。

 二十七代目は深く嘆息し、末席に沈むように座るリクオを、いたわるような目で見つめた。
 陰陽師等、一堂に会する本堂にあって、滅多に見せぬ優しい目、厳しい師の眼差しではなく、リクオをいたわる祖父の目だった。
 その隣で、小さな少女が、すがるように祖父を見つめている。
 この視線を受けて、二十七代目が頷いた。

「ならば、本家からも一人、初陣の陰陽師を出そう。花開院ゆら、奴良リクオ、この二名は本日さっそく伏目へ迎え。教えを良く思い出し、二名、力を合わせて事に臨みなさい。良いかな」

 事情を察しない者は、暢気に二人の初陣を言祝ぐなどしたが、二十七代目を含めた本家一家を残して、本堂からあらかた陰陽師たちが姿を消した後、竜二が半ば諦めたようにそういった者たちを鼻で笑うのだった。

「やれやれ、暢気な奴等だ。お家同士がみんな仲良しだと思ってる良い子ちゃんたちは、気楽でいいねえ。
 おいゆら、リクオ、お前等、分かってんだろうな。
 どんな奴が出てくるか、わかったもんじゃねえぞ。しっかり準備をしていけ。負けない準備をな」
「わかっとる。初陣に金星飾ったるわ」
「阿呆。お前はちっともわかってねぇ」
「えー?なんでやー。負けないってことは、勝つってことやろー?慈庵のおっちゃんなんて、ぎゃふんと言わせたるー」
「お前の脳味噌の単純構造が、たまに羨ましくなるぜ」

 リクオとしては、ゆらを道連れにしたようで後ろめたかったというのに、当のゆら本人は自分が売られた喧嘩のように両の手を握り拳に変えて燃えている。
 ぎゃふんと言わせたる、と言う割に、物言いはいつもの調子でのんびり、おっとり、今目の前をてふてふが横切ったなら、すっかり忘れてついて行ってしまいそうだ。
 いつもの兄、いつもの妹。
 つられてリクオも、いつもの笑みを取り戻した。

「わかったよ竜二兄、隠形の呪符は、多めに持っていくようにする」
「そういうことだ。負けなきゃいいんだ、勝つ必要はねえ。いざとなったら、隠れて助けを待て。妖怪相手の戦いで、負けってのは、死ぬってことだ」
「はい」
「そんなん、ぎおんやー」
「それを言うなら、欺瞞、だ。お前、ちょっと黙ってろ、アホ」
「アホって言った方がアホなんやでー」
「あーもう、うるさい!ゆら、最近お前、口答え多いぞ」
「竜二兄の教育の賜物だね、きっと」
「いいや、リクオ、これはお前の生意気の口真似だ」

 三人兄妹の口喧嘩を、眩しそうな目で見つめていた二十七代目、リクオと顔を見合わせてくすりと笑うと、まだ幼い二人の陰陽師見習いの頭に、両の手をそっと乗せ、言い聞かせた。

「唐突な初陣となってしまったが、今まで教えてきたことをちゃんと思い出せば、なに、お前たちならば大丈夫だ。竜二が言ったとおりにしなさい。おそらく、伏目では分家の力添えなど、ほとんど望めないであろう。だが、一晩経ってもお前たちが御山から戻らなければ、今度は熟練の陰陽師たちが山へ入る。これは私が命じることになるから、分家も決して拒否はできない」

 血のつながった、孫娘に対して、

「良いか、ゆら。お前は剣として天賦の才を持っておる。リクオの言うことを良く聞き、心穏やかにして臨みなさい。退くことと、負けることは違う」

 花開院の血を引かぬ、縁のみ紡いだ孫息子に対して、

「リクオ、苦労をかけるが、花開院の家に居る以上、これはいつかは越えなければならぬ試練。お前たち母子が門前に倒れていたのを見つけてからの四年、お前は目覚ましい進歩を見せた。まずは一人前になって、お母さんを安心させてやりなさい」

 それぞれに、当主自らの言葉を手向けた。

「わかりました、おじいちゃん」
「わかっとる、たまには逃げるが勝ちや言うんやろ」
「ゆら、お前、さっきと全然言ってることが違う」

 不安もあったが、程良い緊張へ変じて、二人はかなう限りの準備を整え伏目へ臨んだ。
 二人、ともに初陣ではあったが、確かな才を認められた者である。
 滅多なことでは命までは取られまいと、その場の誰もが、そう思っていたのだが。



+++



 分家がそれだけ本気であったのか、それとも、結界の中に立ちこめた妖気が、何かしら作用したのか。

 二人の前に立ちはだかったのは、大妖の中でも凶暴かつ残虐、加えて、大変に腹を空かせた大百足であった。これが伏目の高い杉の木に、梢までぐるりととぐろを巻いて、森に入り込んだ二人を、突如上から襲いかかり、ゆらの式神もリクオの真言も、肥大した毒の尻尾で振り払ってしまった。
 妖気は見えるほど濃く、足下に立ちこめている。
 大百足の追跡から逃れつつ、流れ出している場所を捜し当ててみれば、なんと螺旋の封印の要石の根本の方が、ぽっかりと虚ろに欠けているのだった。

「封印が、弱まっとる。まさか、あの分家がやったんか?!」
「まさか。そんなこと、いくらなんでも」
「すさまじい濃さやで。結界の外には出てへんみたいやけど、こんなんが御山の外に出たら」
「いくらか、妖怪たちも誘われてくるだろう。あいつ、こんなに濃い妖気を、閉じこめられた結界の中でずっと浴びてたもんだから、あんなに強くなっちゃったんだ」

 隠形の呪符で妖怪から気配を隠しながら、これを突き止めた後、二人は予め決めてあったように、勝つよりも、負けな戦い方をすることにした。
 すなわち、ありったけの隠形の呪符と守護石を使って、己等の周囲に結界を張ったのだ。
 あとは、残りの時間をそこで過ごす、それだけで終わるはずだった。
 終わるはずは、無かった。

 夜明けはまだ遠く、約束の刻限はさらに遠いと言うのに、二人を隠す呪符も石も、質量を増すばかりの妖気に耐えられず、一つまた一つと炎をあげて失われ、二人は腹を空かせた大百足の前に、再び引きずり出されたのである。
 二人は互いを庇いながら補いながら、よく戦い、逃げ、一度は山の中で大百足を振り切りもしたのだが、結界に囲まれた山の外へはたとえ人間であろうとも出ることかなわず、ついに大百足のとぐろの中へ招かれてしまった。

 妖怪の力の前で、人間など非力なもの。
 陰陽師だとて変わりはなく、子供であれば尚更に、濁った目にぎょろりと睨まれ、震えぬはずはない。
 リクオは一瞬、死を覚悟した。
 しかし相手を気丈に睨みつけながらも、頬を涙でぐしゃぐしゃにしたゆらを背に庇い、また、病がちの母が自分の帰りを待っていることを思えば、覚悟は簡単に覆った。
 いいや、死ねない。
 死ねるものか。死んでたまるか。

 今はまだ。この背に、守るべきものがある。


 強くて優しい総大将に、なってくださいね。


 耳朶に残っていた守役の声の欠片が溶けて心に染み入り、あの日の約束を思い出した刹那、リクオは、百足の固い甲殻に弾かれるばかりだった刀を再び握り締め、大百足がついに大きな口を開けて飛び掛ってきたのとすれ違いざま、ただの刀の一振りで、大口から尻尾までを真っ二つに斬り伏せていた。

 どくどくと昂ぶる血が、いつもよりアツく体を巡り、なのに頭は冷えていた。
 あれほど苦戦を強いられた大百足が、真っ二つになって足元に転がり、風に浚われるようにさらと黒い塵となり霧散しても、当然の事としか思えなかった。
 勝った。
 それがどうした、当然のことだ。
 子供をさらって喰らおうとする救い難き妖の者、こうでもせねば救ってもやれぬ。
 さらなる業を積ませぬために、またその業に巻き込まれる哀れな魂を増やさぬ為に、必要な、祓いだ。
 はらりふわりとどこからか、頬をかすめるものがあったので、目で追うよりも先に、桜だと判じた。
 桜舞う花霞は、指先一つ動かせば、リクオの意志を受けて風に巻かれ、辺りに溜まっていた濃い妖気を払い、青白い炎となって天へ向かう。
 雲が晴れ、西の空へ霞む月が、顔を出す。
 なんと、風情のあることよ。
 ぽつり呟き、そこでようやく、ゆらを思い出した。

 振り返ると、妹は、そこに居た。

 少し怪我をしている。驚いたような顔で、己を見ている。
 先ほどまで泣いていたが、今は濡れた頬でそれがうかがえるばかりで、恐怖を上回る驚愕で涙すら忘れ、目を見開き、見入っていた。
 ともかく、無事らしい。

 安堵したのも束の間、ゆらに伸ばしかけた己の手に、違和感を感じて目を落とした。
 なんだ、この手は。
 まるで悪鬼のように、赤く尖った爪は。
 それにこの、桜の花弁は。桜などとうに終わっている。
 どこからか、ちらちらと降るあやしの花弁は、一体。
 どこから。

 あたりを見回して、視界に入ったのは手水鉢。
 見えぬ手に招かれ、夢の中のようにふらふらと、寄ってのぞき込んでみると、そこには。
 一人の、妖がいた。

 しろがねの髪は長く、立ち上る妖気に吹きあがって輝き、さらに身を包む青白い妖気は立ち上った先で、ちらちらと、桜の花弁のように、舞い上がるや辺りに四散する。
 リクオと同じように、波紋一つたたぬ水面を見つめる瞳は、あやしの紅瑪瑙。
 体こそ小柄、まだ幼さを残すおもてであるが、既に一体の、大妖の風格。
 これが己と同じ、狩衣に身を包み、こちらを見つめている。
 この妖は、水面の向こうで何をしているのかと、リクオが首を傾げ、水面に手を伸ばすと、右と左、鏡合わせながら全く同じ所作を向こうもする。目を見開けば、同じようにあちらを見開いて。
 ひゅ、と、息を飲み込むところまで同じ。
 リクオ、リクオと、ようやく我に返ったゆらが、己の肩にすがりついたゆらが、どうしてかあちらの妖の肩にもしがみついた。
 いいや、ここまで来れば、いやでも思い知らされる。
 喉の奥からうなり声がひとりでに上がり、足下から力が抜け、リクオはその場に座り込んでしまった。

「大丈夫や、大丈夫やから、リクオ。こんなところに居たからあかんのや、夜が明けたら、夜が明けたら、きっと元通りやから。せやから、大丈夫や、大丈夫やから」

 情けないことに、体はぶるぶると震え、声も出ない。
 それでも、確かめなければならないと、己をきつく抱きしめるゆらをどうにか引きはがし、目と目を、合わせた。

「ゆら。オレの姿は、さっき、水面で見た、妖になって、いるのか?」
「違う、違う、リクオはそんなん違う。悪い妖なんかやない、違う、違う」
「ゆら」

 宥めて、答えてくれと願って、ようやく、ようやく、ゆらは、リクオの頬に濡れた頬をぺたりとくっつけながら、こくりと小さく、頷いた。

「………そうか」

 天を仰ぎ、嘆息一つ。
 叫んで吠えて喉を裂いて絶えてしまえたら、どんなに楽だったろう。
 追い出すのなら、どうして己の中の妖の血もそうしてくださらなかったのだと、父か祖父か、あるいはその二人の目を盗んで己等母子を追いやった誰かへ向けて、恨み言を一つ。
 これまで慈悲をもって接してくれた兄妹たちや祖父を思えば、彼等が調伏する妖怪どもを見る目が己に向けられるなど、到底耐えられそうになかった。それならいっそ、あの大百足に身を引き裂かれでもした方が、よほど楽であったかもしれない。

 ゆらが必死に、リクオの袖にしがみついていなければ。
 行ったらあかん、行ったらあかんと、リクオが何も言わないうちから心の内を読み取って、子供らしい少ない言葉ながらも、確実な言霊でもってリクオを引き留めていなければ。
 もしこの場でただ一人であったなら、あるいは病がちの母が心残りでさえなければ、間違いなく、リクオはそのとき、姿を消していただろう。

 ともかくこの時は、しがみついて泣きじゃくるゆらを突き放せず、リクオは途方に暮れて天を仰いだまま、動かなかった。
 動けずに、いた。

 結界が解かれるのは夜明けよりも少し先、二人が中へ入った時刻から、時計の短い針がちょうど一回りする頃と定められていたはずだが、外で控えていた花開院の陰陽師たちが入ってくるのは、これより少し早かった。
 結界の中に突如現れた二つ目の大きな妖気が察知され、加えて、二つがぶつかり合い一つに減ったとなれば、中にいるはずの幼い二人の陰陽師の手に余る何らかの事象が起こったことは想像に難くない。
 夜明けを待たずして、結界はほどかれ、間もなく二人は寄り添い合った姿で、花開院の陰陽師等に見つけられた。
 彼等がリクオを見るや、即座に印を組んで呪符を投げつけ、ゆらと引き離しその場にその場に押さえつけたのは、陰陽師として当然の、正しい始末であったろう。いかに子供の姿をしているとは言え、ゆらがしきりに庇う様子を見せるとは言え、妖怪は黒で、疑わしきは滅するのが花開院の流儀。何度打たれても蹴られても、まるで抵抗する意志を見せない妖に、これ幸いとばかり退魔の剣を振り降ろす。
 ゆらが、己を捕まえる大人の手に噛みつき、我が身を省みずリクオに覆い被さるようにして庇っていなければ、さらに自らの式神をことごとく呼び出し、己等を囲む多くの陰陽師たちを蹴散らしていなければ、ただ目を瞑ってその時を待つばかりのリクオなど、この場で幼い命を散らしていただろう。

「逃げるんやリクオ、ここにおったらあかんよ、あかん!」
「ゆら」
「早よう、早よう、逃げるんや。逃げて。こんなんいやや、うち、絶対いややん」
「ゆら、いいから。もう、いい」
「なんにも、ようない、ようないわ!」
「式神を戻せ。皆が、怪我をする」
「いやや、いやや、いやや、いやや、いやや、いやや」
「ゆら」
「絶対絶対絶対いやや、いややったら、いややん、いやや!」
「ゆらッ」
「ひぅ」

 ゆらはいつも末妹の我侭をのたまう時のように、ぶんぶんと首を横に振り続け、彼女の癇癪をそのまま反映した式神もまた、本来妖相手に奮われるはずの力でもって、周囲に集まっていた陰陽師たちを次々薙倒していたのだが、一喝され息を呑み、恨みがましい目でリクオを睨み、それでもリクオが彼女の目を見つめ続け、もう一度、「ゆら」、今度は優しく呼びかけると、視線を落とし、唇を噛み、大きく鼻をすすって、ようやく、

「……攻撃中止。守護徹底。蟻一匹、近寄ることは許さへん。絶対、絶対や」

 鼻息も荒く暴れ回る、数多くの式神の動きを、小さな指先一つ天を指しただけでぴたりと止め、しかし尚も己等の側から消すにはいたらず、今度こそぴったりと、リクオを抱き寄せた。
 その周囲を、式神等が取り囲む。
 既に、二人の幼子を見つけた陰陽師たちの中には動くものなど無く、失神するか、折れた足や腕をおさえて唸るかするかの有様だ。
 彼等以外にも山に入った陰陽師がいるのなら、妖の仕業だと考えるに違いない。
 ゆらの息づかいにも、限界が来ているのがわかる。
 どちらにしても、次が己の最後である、だから母の事だけは頼んでおこうと、「なあ、ゆら、母さんのこと……」リクオは口を開こうとするのだが、

「言ったらあかん。あかんのや」

 リクオの声をかき消すように大きな声で、打ち消してしまう。

「言ったら本当になる。悪いことは言ったらあかん、だから絶対、言ったら駄目やもん。駄目なんやもん。おじいちゃんなら、きっと何とかしてくれる。きっと悪いようにはせぇへんよ、きっとリクオだって、わかってくれる。だからそれまでの辛抱や、我慢や、もう少し、もう少しやから」

 言ったら本当になる。
 そう言われてしまえば、リクオはもう何も口にすることはできなかった。

 母を頼む、とも。
 頼りの祖父が、忙しい花開院当主の身の上が、孫娘の初陣とは言え、こんなところに姿を現すだろうか、とも。
 例え現れてくれたとしても、己ですら己を認められないほどの化生を果たしたリクオを、そうと認めてくれるだろうか、とも。
 実を言うと、最後の一つが一番に不安であり、あの優しい祖父の顔が嫌悪に歪み、祖父が直々に調伏を指図するところを目にするぐらいならば、ここでさっさと終わりにしてくれた方がいいとさえ思っていたリクオである。

 だが、そうはならなかった。

 花開院家二十七代目当主は、伏目の山に足を踏み入れていた。
 加えて、全ての式神を出し切り、息も荒く立ち尽くすゆらと、居心地悪そうに守られている、小さなしろがねの妖を一目見て、

「ゆら。……それにお前は、リクオなのか?」

 老いた目を驚愕に見開きはしたものの、流石は当主になるほどの陰陽師、見目に騙されることなく本質を見抜いた。
 全ては、ゆらが言った通りになった。
 悪いことは言ったらあかんのや、と、得意そうに胸を張った小さなヒーローは、リクオの前でにっこり、花のように笑うと、式神を消し去ると同時に意識を手放したのである。



+++



 とは言え、全てに決着がついたわけでは、ない。
 リクオに妖の血が流れているのは、それとなく皆に知らされており、心ない仕打ちや、あるいは憐れみの類をリクオに向けさせる要因になっていたが、実のところ何の妖の子なのかは、リクオの母から当主へのみ伝えられていたことでもあり、リクオ自身も己の生まれなど、こだわるものでもなかったので言い触らしはしなかったため、誰もが、よく耳にする出来事であるように、どこの者とも知れぬ妖が、たわむれに人間の女をかどわかし、孕ませ、捨てたのだろうとしか思っていなかった。
 これまで、妖の血を引いていると知れるのは、稲穂色の髪に琥珀の瞳の異相のみであったし、現代ではその異相も、外国の人の血を引いているのだと言えば紛らわせることでもあったし、妖力らしきものを見せるでもないのでは、皆が次第に気にしなくなったとしても、仕方のないことだったろう。
 ところが、ここに来て、これは何の妖の子かというのが、問題になった。
 見事に立ち上る妖気と、人も妖も引きつけ魅了する、幼いながらも妖艶な、冷えた美貌。
 隠す前に、山に入っていた陰陽師が目にしたのだ、人の口に戸はたてられず、リクオがこのような妖に化生したという話は、夜が明ける頃には花開院本家に勤める陰陽師等全員の耳に入っており、そんな強い力を持つ妖を、例え人の血が入っているからと言え、野放しにしておいてよいのかと言うものさえあった。

 ともかく、何の妖であるのか、今後の沙汰をどうするのか。
 夜明けとともにリクオの姿は人のものに戻り、本当に妖へ変化したのかは、実際に見た者しかわからない。
 ならば、宵の過ぎに今一度、リクオが妖へ化生した姿を見定めてから詮議いたそうと当主が定め、螺旋の封印を守る分家等が、一同に介することとなった。

 それまで人の姿で宵を過ごしていた頃は、なんだか無性に体の中に熱がこもって仕方なかったのが、一度化生するを覚えると、全ての熱を外へ出してやれる気がして心地よく、皆が厳しい目で見守る中でさえなければ、リクオももう少し、のんびりできただろう。
 もちろん、そうはならず、本堂の真ん中にぽつんと、当主と向かい合うように座らされたリクオは、四方を数多くの陰陽師等に囲まれ、妖の姿で居心地悪そうに身じろぎした。

 どよめき。ささやき。
 怯え。敵意。悪意。
 己等と違うもの、調伏するべきものを目の前にした、狩る者の視線。

「さて、当主、これまでリクオがどういう経緯でここへ来たか、私どもは、妖に追われた母子を匿っているとしか知らされておりませんでした。しかし、子供ながらこれほど見事な妖気を持ち、その上、あの結界の中の大妖を、ただの一撃で討ち滅ぼしたと聞けば、もはや黙ってはおれませんぞ。陰陽師の総本山へ、妖を招き入れたとあっては末代までの恥。螺旋の封印が弱っている今、あの羽衣狐の間者が既に放たれていたとしてもおかしくはない。この子供が、あるいはあの母が、そうであったとしてもおかしくはないのです。こんな危険なものを懐に隠しておかれた責任を、当主、どう取るおつもりか」

 まず口を開いたのは、伏目稲荷の守護に当たる、例の分家の男であった。
 不惑を過ぎ、当主の座を狙いたいところなのだろう。
 ぎらつく野心をむき出しに、ついに当主へ矛先を向けた。
 さざなみのように本堂を覆っていた囁き声も、当主の答えを待ち、凪いだ。

 当主は瞑目し、深く一つ息をついたまま、さて、何から話したものか、目の前のいたいけな子を、どうしたら傷つけずに話を進められるものかと思案すればするほど、沈黙は長く続いた。

「当主、お答え願おう」
「……ならば、オレが答えよう、慈庵殿」

 しびれを切らし、催促をかけた男に、思わぬところから、答えはあった。
 本堂の誰もが目を見開き、少年を見た。
 妖の猛々しさではない、どこか思慮深ささえ匂わせる声は、実に耳朶に心地よい響き。これまで、妖と言えば人を騙す、拐かす、喰らうものとしか思っていなかった陰陽師どもには、それだけで、金槌で殴られたような衝撃だった。
 当主に詰め寄っていた男本人すら、一瞬、誰が口を開いたのか、声の主を捜したほどだ。
 そればかりか、本堂の中心、円座の上で行儀よく座していた少年の、紅の光彩がじっとこちらを見ているとわかると、得体の知れないものに鷲掴みにされたように、びくりと体を奮わせ、黙ってしまった。

「オレの父は、関東大妖怪一家、奴良組二代目だと聞いている。祖父は、四百年前に羽衣狐を討ち倒し、洞院家の最後の姫君を娶って人と交わった、魑魅魍魎の主ぬらりひょん。オレの父も人間の娘である母の若菜を娶ったが、人間をよく思わぬ輩がいたのか、それとも別の理由でか、オレたち母子は家を追われた。父や祖父の意志だったのか、それとも別の誰かの意志だったのかすら、オレにはわからなかったが、母は、父や祖父ではない、と言っている。……オレの記憶の中でも、父や祖父は優しいばかりで、嫌な気持ちは無い。
 いずれにしても結果は同じ、追っ手は執拗で、家から追い出しただけではあきたらず、どこまでも追って、命を狙ってきた。中には呪いを放つ者まであって、本当ならオレを狙ったはずのその呪いを、母は全て身に被り、床から離れられぬようになった。母と二人、大妖が派手な動きを封じられるという、この京都の花開院の門前にようやくたどり着いたのが、あの四年前の冬のこと。
 羽衣狐の話は、ほんの小さな頃、祖父から昔話に聞いたくらいで、間者になろうにもお近づきにすらなった事はない。花開院を頼ったのも、母が祖父から十三代目の話や、螺旋の封印の話を聞いていたからだそうだ。この街ならば、あるいは陰陽師たちの中に紛れ込んでしまえば、どんな妖怪どももそうそう追っ手をかけられまいと踏んだんだろう。
 オレを隠そうとしたのは、子を思う母の業。それが悪いと言われてしまえば、それが多くの陰陽師たちの命を危険にさらす所業だと言われてしまえば、そうなのかもしれない。そうなのかもしれないが、慈庵殿、オレは、あの母の子だから、母を悪いとは、言いたくない。ましてや、門前で行き倒れていた母子を心広く迎え入れてくださった当主に、恩を感じこそすれ、陥れようなどと仁義にもとる行いを、するつもりは無い。追われたとは言え、一度は奴良家の跡取りとして育てられた身、カタギに手を出すほど、落ちぶれちゃいねえよ」
「ぬらりひょんの、孫だと?!」
「魑魅魍魎の主の、血脈………」
「四分の一の血ですらあの妖気。しかもまだ、子供だぞ」
「ただの、障りある女が孕んだ子ではなかったのか」

 騒がしくなり始めた陰陽師等を、静まれ静まれと、彼等の指導役たちが窘めるが、彼等にとっても寝耳に水の報せだ。
 この場がどう転ぶのかを見定めたい気持ちの方がより強く、一度騒ぎだした陰陽師等も敏感に感じ取るのか、なかなか静まらない。

「ならばやはり当主は、知っていてコレを迎えられたのですな。魑魅魍魎の主の血脈を、この、陰陽師の総本山に。問題ですぞ、当主。これは、大問題です。何故その時に、分家一同に相談いただけなかったのか。その時にこそ、我等を召集して、可否を定めるべきだったでしょうに、何故この時まで先延ばしにしたのです」
「それは当主の慈悲だ、これ以上オレがとどまるのが問題ならば、オレはここを出る。どうかそれで、おさめてはくれまいか」
「黙れ!慈悲の何たるかも知らぬ妖風情が、いっぱしの口をきくな。我等が三日がかりでようやく山に縛ったあの大百足を、ただの一晩で、いや、ただの一太刀で滅したと聞いたぞ。貴様の力は邪道だ、黒い力だ、ただの駆逐であり、花開院が是とする破邪のものではない!断固として私はこれを許さない、許すものか!貴様の力が黒でなくなんだ?!貴様は許されざる血を引く禁忌の子よ。せめてあの大百足に引き裂かれて殺されていれば、貴様も貴様の母も、陰陽師とその母として名誉を守れたろうに、なまじ生き延びたために、貴様は……。
 羽衣狐の復活が近いという今この時、ほんの少しでも不穏分子は減らしておくべきだと言うのに、当主はこんな恐ろしいものを、我等の懐に招き入れていた。これが裏切りでなくなんだ?!出ていくだと?!許すわけがないだろう、ここを何処だと心得る、花開院本家、その本堂だ。妖怪を見て、調伏こそすれ、黙って見逃すわけがあるまい!当主、いかがするのだ、当主!」

 年端もいかぬ幼い妖に気圧された反動か、跳ね返すように声を張り上げ、両目を血走らせて、伏目鎮護の任を預かるその男は、当主に迫る。
 既にこのとき、リクオは当主に深く頭を下げながら、母のことをくれぐれもよろしくとだけ申し上げ、円座から立ち上がり、本堂を去ろうとしていたのだが、これを誰も止められない。声をかければ呪われるのでは、肩に手をかければ手が炎をあげて腐れ落ちるのではと思えば、その場の誰もが、リクオを止められなかった。

 ゆらが、いよいよ耐えられなくなって祖父の隣から立ち上がり、リクオ、と呼んだ。
 しかしこれは舌打ちしつつ既に立ち上がっていた兄に、止められた。
 俺が連れ戻す、と一言呟いた兄を、しかしさらに止めたのは。

「リクオ、待ちなさい」

 待ち望まれた、当主の一声であった。

 それだけで、しん、と、静まり返った。
 長い白髭に隠れた口元が、静かに言葉を紡ぐのを、現のものを見るには衰えた目が何かを見据える軌跡すらも、当主の一つ一つの動作をつぶさに皆が追いかけ、成り行きを見守る。

 あれほど、目上の者が諫めてもざわめいていた堂内が、水を打ったように、静まり返った。

 リクオはもう、本堂を出ようと戸口に手をかけ、一歩闇夜へ踏み出しかけていたのだが、祖父が時折、襟を正してくれるときと同じ、優しい声色で呼んだので、怪訝に思いながらも、ゆっくりと、振り返った。

 祖父は視線の先に居た。

 いつもと同じように、穏やかな目で、こちらを見ていた。

 リクオ、ほれ、忘れもんじゃぞ。
 学校へ行く前に、こっそりとお菓子や小遣いを手渡してくれるときと、同じ顔だった。
 まさに今、そう言おうとしていたという顔で微笑み、

「お前自身がお前の心に誇れる行いをしたのなら、去る必要は無い。リクオ、お前は相手を駆逐して、己が強いということを示したかったのか、それとも、破邪を成したのか?」
「決まっている、妖など、互いに滅し合うことしか考えぬ不届き者、そいつも所詮……」
「慈庵殿、私は、リクオに訊いているのだ。どうかな、リクオ」
「一人なら、あの場で死んでいたと思う。でも……」
「でも?」
「あの時は、ゆらが、居た。守らなくてはと、思った。母の事も思い出した。オレが死んだら哀しむ、だから死ねない、そう、思った」
「そうさなぁ、お前はゆらを助けてくれた。ありがとうよ、リクオ。おかげでワシは二人の孫を、失わずにすんだ。
 ならば、どうじゃ、そんな所におらんで、こっちにおいで」

 リクオ、迷った。
 多くの陰陽師等が、自分を見ているのがわかった。
 知っている顔も、知らない顔も。
 敵意も、憐れみも。

 踏み出しかけた、広く深くよこしまに己を迎えようとする闇と。
 振り返った先、あたたかな光が浮かぶ、本堂と。
 それぞれ見比べ、リクオは今一度、引き返すことにした。

 五、六歩も歩けばそこがもう、先ほどまで座していた本堂の真ん中であったのだが、座り直そうとすると、祖父がもう一度己を呼ぶ。
 何かと思えば、

「リクオ、そこでは無い。こっちじゃ」

 己の隣を指し示す。
 すぐ脇には竜二が、その隣にはゆらが座している、そこは本家の上座である。今までは、例え家族同然であったとしても、分家等が同席する場所では上下を示すため、リクオは上座から遠く離れた末席で、身を小さくしているばかりだった。
 流石に気が引けて立ち尽くしたままでいると、ゆらが傷だらけの顔に嬉しそうな笑みを浮かべてやってきて、リクオの足下に敷いていた円座を持ち上げ、ずるずると上座へ引きずり、竜二とゆらに挟まれる場所でこれを落とすと、また己の場所へ座り直した。

 ぽんぽん。
 犬猫を呼ぶように、その円座を叩いたのは、表情一つ変えぬままの、竜二。

 おそるおそる歩みを進め、居心地悪そうに座ると、すぐ隣の兄に容赦なく襟元を引っ張られ、丸くなった背筋を咎められた。
 意を決して顔を上げれば、これまでは末席から背を見るばかりだった陰陽師等の視線が、いっせいにこちらへ向かってくる。

 その中に、慈庵の姿もあった。
 己こそが次代の当主と息巻いて、目を血走らせている男は、真っ正面から見てみると、不思議と、小さく見えるのだった。

「生まれがどうあれ、門は叩けば開かれるもの」

 ぽつりと、当主が考え抜いた言の葉の一枚、老いた唇からこぼれ落ちた。

「お主はリクオが羽衣狐の間者であることを憂いておると言っておったが、血筋から見ればむしろ羽衣狐の仇敵の家柄。
 だが、そんな計算づくで子も人も育たぬし、助けられんよ。母子が花開院を頼って門を叩いたときから、ワシは二人を娘と孫同然に見守ってきた。リクオが妖の血を引いていようがいまいが、これは変わらん。慈庵殿、行き倒れを招き入れるかどうするか、あれこれと相談している間も、門の外では倒れた母に子がすがりついて、泣いておるのだ。己の力不足に、泣いておるのだ。それで、相談しようがしまいが、ワシはその母子を門の中に入れようと、決めてしまったのだよ。慈悲と言うてくれるも、浅慮と責められるも、どちらでも構わんがのう、そのとき、あいにく門のすぐそばに居たのはワシであった。たったそれだけの事、それだけの巡り合わせじゃよ」
「ただそれだけで……ただそれだけで、妖を花開院の中に入れた責任を逃れられると、お思いか?!」
「ふむ、困ったのう。しかしワシは、人としてあれを見殺しにはできんかった。お主の言うことは、是と言っても否と言っても、必ず落とし穴があるように思えてならん。
 ではこうしよう。リクオの中に流れる妖の血がいかんと言うならば、このリクオの姿は、妖の姿ではない」
「なんだと……?」
「妖とは、人を騙し、拐かし、殺し、喰らう、極悪の限りを尽くす救い難きもの。怨霊の類もまた同じ。しかしリクオは今、己の意志でこう言うた。守らねばならぬと思ったと。妖の血を引いているとは言え、人の心を持ったまま、相手を上回るためでなく、後ろに庇うもののために使った力は、破邪の力と呼ばずして何であろう。リクオは間違いなく、花開院の教えを体現して見せた。
 ならばこれは妖ではない、明王姿じゃ。
 如来が己の教えだけでは救えぬ悪鬼どもを、慈悲を内側に隠して調伏しながら救うように、これはリクオのもう一つの姿が具現しただけに違いない。ゆえに、妖ではない。それならば、よかろう?」
「へ、減らず口を……!当主、このような世迷い言で、皆が誤魔化されるとお思いか!おい、貴様等、何とか言ったらどうなのだ、おい!」
「のう、慈庵殿。冬の門前に倒れた母子を見殺しにしろと言い、さらにはご自身でどうやら大妖だとご存じであった場所へ若く才ある陰陽師を誘い出そうとした、その所業こそ、ワシには怨霊の類に魅入られた所業のように思えてならぬがのう。
 聞き間違いかのう、つい先ほど、お主はこう言った。《我等が三日がかりでようやく山に縛ったあの大百足を、ただの一晩で、いや、ただの一太刀で滅したと聞いた》とな。ワシはいつ勘違いしたのかのう、それほどの大妖ではないはずだから、若い陰陽師の初陣にはちょうど良いと、お主がそう申し出てくれたとばかり、思っていたのだが。お主はどうやら、その大百足とやらを、知っていたようではないか」
「………ぐ、ぬ………それ、は………」
「いやなに、ワシの勝手な勘違いじゃろうから、咎めはせぬよ。すまなかったのう。誰にも、ついうっかりはあるもんじゃ。もしもそれすらお前さんの企みであったなら、ワシはお前さんこそ、才ある陰陽師を潰そうとする、羽衣狐の間者かと疑わねばならんところだもの」

 さあと血の気が引く音が聞こえるほど、慈庵の顔色は真っ青になり、唇はぶるぶるとふるえ、助けを求めるように周囲の陰陽師等を見回すのだが、もはや誰一人、彼の味方はいない。
 己の危急ではない、背中に庇った妹や、病がちの母のためにこそ化生して妖を討ち滅ぼした幼い妖と、先日より当主に舌鋒鋭く切りかかる、次代を狙っているらしいと噂の俗な分家当主と、どちらが同情を誘うかと言えば、言わずと知れている。

 あわよくば、才ある者として目される、本家の花開院ゆらともども、末席の分際で頭角を現し始めたリクオを葬る良い機会であったと、混乱の中で自ら白状したような彼に、冷ややかな視線こそ集まれど、哀れむようなものは一つもなかった。
 また当主は、己に刃向かうだけでなく、幼い命を狙った薄汚い野望の持ち主を、ただ寛大に許してやるだけではなかった。

「しかし、困ったことになったのう」

 あくまでぼんやりと、老体を気取って長い髭を撫でながら、少し思案するように目を伏せ、

「初陣の陰陽師二人で調伏せしめた妖怪を、お主のような経験ある陰陽師が、弟子たちを率いて束になってもかなわなかったとなると、伏目稲荷の鎮護の任、慈庵殿には少々、重いのかもしれん。ご隠居されては、いかがかな」

 きっぱりと、沙汰を申し渡した。

 崩れ落ちるようにうつむいた男には、言い返す気力もなく、この場のお開きが言い渡されてもしばらくそのままであったので、しまいには弟子が数人がかりで、彼を引きずるようにして、本堂を後にしたのだった。

 残ったのは、上座に座していた当主、竜二、ゆら、そしてリクオ。
 さらには、事の次第を察した、螺旋の封印を守る、残る分家の当主や跡取り息子たちばかりである。
 見知った顔ばかりになって、さすがにリクオがほっとした様子を見せると、表情を読むのに長けた秋房が、そっと近くに寄ってきて目線を合わせ、にこりと笑った。

 つられるように、小さく微笑むと、

「ああ、やっぱり、その姿でも、笑うとわかるよ。リクオくんだね」

 笑みを深くして頭をくしゃくしゃと撫でてくる。
 何だかそれが嬉しくてされるがままになっていると、堅苦しい話の間は思案顔の振りをして眠っていた雅次が茶々を入れた。

「え、何だよ、《ソレ》、撫でさせてくれるもんなの。なら俺も撫でる。秋房、貸しや」
「雅次、犬猫じゃないんだから」
「でもさっき、竜二が犬猫みたく呼んでたろ。アレ、見てて可愛かった。ちょっと羨ましかったんだわ」
「ちょっと兄ちゃんたち、リクオかて疲れてんのやで、引っ張り回さんといてー」
「何だよ、いっつも二人でじゃれ合ってるじゃないか。たまにはホレ、リクオ、ゆら、どっちでもいいぞ、雅次兄ちゃんの隣はどうだ。ほーらこいこいこっちこーい……」
「どっから出したんその猫じゃらし?!」
「……おい、灰吾とっつぁん、そわそわしてないで、撫でたいならとっとと撫でる、離れるなら離れる、はっきりしろよ」
「わ、私は別に……妙な勘ぐりはやめてくれたまえ、竜二君」
「ふぅん……」

 いつもながら、多くの陰陽師等を見送った後は、親戚会の様相を示す本堂で、しばらくはリクオは、あっちに撫でられこっちに呼ばれて目を白黒させていたが、ふと、秋房の優しい目がまっすぐこちらを見て、もう一度にこりと笑ったので、一番聞いておきたいことを、聞いておくことにした。

「なあ秋房にいちゃん」
「うん、なんだい」
「オレは、今まで通り、ここに居て、いいのかな」
「……当たり前だろう。居たいだけ、居ていいんだよ」
「だいたい、どこに行こうと言うんだね。子供は妙な心配などせず、真面目に勉強していればいいんだ」

 年嵩の、灰吾らしい意見であったのだが、逆に単なる子供扱いされたのが、リクオの緊張の糸をぷつりと切ってしまった。

「………あ。灰吾のおっちゃん、リクオを泣かした」
「あーあ、泣ーかしたー泣ーかしたー。おらリクオ、あんな大人になっちゃダメだぞ、竜二兄ちゃんの言うこときいて真っ当な大人になれ。いいかわかったな、よしこっちに座れ」
「わ、私は別に……!私の一体何がいけないと……?!」

 ほろり、大きな瞳から一粒だけ、涙が溢れたそれだけだったが、心をしくしくと痛ませていた棘を洗い流すには、充分な量であり、ようやく、リクオは頷くことができたのだ。

 彼等の様子を眩しそうに見つめていた二十七代目は、彼らが自然と、己を中心に円を描いて本堂に座り直すのを見て、誰が声をかけるでもなく己の言葉を望むようになるまで座して待っていた。
 やがて、そうなった。
 誰もが当主の意を汲んで、リクオを円の中心に据え、当主と向かい合わせた。

「奴良リクオ。初陣にして見事な調伏であった。このまま日々研鑽を怠らぬように、励みなさい。その身に宿った力に溺れることなく、奢ることなく、力に振り回されぬように。
 如来があってこその明王。ならばこそ、その姿の力が使えぬときの修行こそが本領であると心得るのじゃ」
「心得ました、当主」
「……とは言え、お主の力でもって、孫娘も救われ、身中の憂いも吐き出すことができた。改めて、礼を言うよ。リクオ、そしてゆら、お前たちは立派な陰陽師だ。これからは二人にも、何かと力になってもらうことがあるだろう。仕事があれば代価も手に入る。リクオ、今度、母さんに胸を張って報告に行こうな」

 今までは、施しを受けて生きながらえる身であった母子であるが、これからはリクオが得て当然の金で、母を心おきなく養生させてやることができる。
 安堵と誇らしさで胸がいっぱいになって、これ以上のものはもう望めないとさえ思えたのだが、当主は、尚、続けた。

「……さて、ここから、相談なのだが、各々方。跡取りの皆々様にも聞いていただきたい」

 じゃれ合っている跡取り息子同士を、微笑ましく見つめていた分家の当主たち。分家と言えども、封印を預かる身となれば、ほとんどは本家の血を強く引く。彼等にも早世の呪いは等しく降りかかり、そんな中で、戯れあう跡取りたちは、まさに希望の象徴だった。
 これを見守っていた、螺旋の封印の、伏目稲荷以外を鎮護する者たちが、蝋燭の火から隠れるように息を潜めていたところから、浮き出るように、膝を送り出す。

「伏目稲荷があきましたな、その事でしょうか」
「よろしいと思いますよ、当主。若い力を入れるのは、悪くない」
「足りぬ分は、我らが補えば良い。そういうことなのでしょう」
「話が早くて助かりますわい」
「何を仰せやら。そのつもりで廃したのでしょうに」
「何とも可愛らしい明王様だが、心に宿した如来の光、確かに、見届けましてございますよ」

 何が何やら分からぬうちに、灰吾を含めた大人組が頷き合って、事は定められた。

「それでは、封印鎮護の我等満場一致により、奴良リクオに、以後、伏目鎮護の任を与えたい。尚、リクオが成人するまでは、鎮護の任にあたる家の跡取りを一人ずつ、合議制での相談役として据え、リクオの一存で定めることはならん。よいかな」
「おじーちゃん……それ、どゆこと?」
「リクオは花開院以外で初めての鎮護の任、しかも最年少の守護者ってわけだ。花開院レコード更新だな。で、結局は俺たち若いモンに話し合わせて、あとの事を決めろって、そういうことか。チッ、面倒な仕事を増やしやがる」
「確かに、第一に破られる可能性のある伏目稲荷の当主が、次代の当主を狙うばかりの俗人では心許ない。花開院が一枚岩になる必要があるのなら、今までのように己に与えられた場所だけを己の一存だけで守り続けるのではなく、分家が合議制で事を運ぶ前例が必要。だからこそ、まずは私たち、次世代の者たちの間で、よく話し合い伏目を守れと、そういうことですね、当主」
「……秋房の言う通りだ。花開院家は羽衣狐とは深い因縁のある家柄。四百年続く螺旋の封印も、近いうち、破られよう。伏目の要石が欠けていたというのも、何かの兆しであるのかもしれん。いや……兆しは、リクオ、お前がこの門前で、母にすがりつき泣いていたあの冬の朝こそが、兆しであったのかもしれん。
 どうだ、リクオ。伏目鎮護の任は重いぞ。螺旋の封印の一として、まず狙われるのはあの場所だ。命の危険にもさらされよう。受けるか、否か」

 幼い顔立ちを引き締め、リクオは紅瑪瑙の瞳に決意の光をともらせ、これに応えた。

「謹んで、お受けいたします。皆々様にはこの若輩者へ、どうかよろしくご叱咤、ご叱責、ご教授のほど、よろしくお願い申しあげます」

 重い任に誇らしげに胸を張り、背筋を伸ばした奴良リクオ、この時、八歳。

 この日、当主から言祝ぎと共に、祝いの品で望みのものを与えようと最上の言葉を賜った彼は、花開院の《花》の一文字を賜り、それまでの奴良の姓を捨て、以後、花霞を名乗るようになった。

 一人前の陰陽師として、伏目の屋敷を使うことを許され、夏の日に病院から長い外泊を許された母を誇らしげに案内する様子や、初めて己の明王姿を、少しだけ不安そうに、当主の後ろから顔だけ出して母に見せたり、あら可愛いと認められてそのまま母の胸に抱かれて嬉しそうにしていたところなどは、久しぶりに年相応の彼だったが、伏目での母子の幸せは、そう長く続かなかった。
 我が子が花開院の兄妹たちに迎えられ、陰陽師としても立派にやっていけると見て、ようやく安堵したのか、この一年後、母は安らかに息を引き取ったのである。

 危機の場所としても、甘く切ない想い出の場所としても、伏目稲荷は花霞リクオにとって、この上なく縁深い場所であった。