螺旋の封印の一、伏目稲荷神社。
 二代目とその側近たちのさらに後ろ、最後尾に、雪女の姿があった。

 弐條城の鉄壁の守護に辟易とした二代目が、戦線を後退させて銀閣寺の宝船に戻ってきた後、雪女が花霞大将の一件をお話すると、少し考え込む様子はあったが、螺旋の封印を施した花開院という陰陽師には、初代の頃に浅からぬ縁があった上、他に弐條城の怨念による壁を崩す方法もなかったので、二代目は伏目稲荷へ向かうことにされた。
 一度は後方へ下がることを受け入れた雪女だが、しかしどうしても己が守役となるはずだった守子を忘れられず、洛東よりもさらに少し離れた伏目あたりなら、残された人間たちがいるかもしれない、その中に若様がおいでになるかもしれない、どうか後生ですからもう一度、連れて行ってくださいませ、足手まといになるようならば、捨て置いてくださって構いませんと、床に額を擦りつけて願い出たところ、これを許されたのである。

 二代目も、己の知らぬところで姿を消してしまった奥方と、その間に生まれた我が子を忘れたことはない。
 今までも何度となく、探して来た。
 けれどこの京都勢との戦いでは、人探しよりも戦いの方こそへ意識を向けなければならず、彼としても歯がゆい想いである。どちらがより大事な女であるのかなど、瞬きの間にも崩れゆく京都の街を前にしている今は定めている余裕もなく、むしろこうしている間にも失われているのではと思われる方が怖ろしい。
 そのため、雪女にはむしろ、人探しの方をするよう申しつけ、何か気づいたことがあったなら、遠慮なくその場で申すようにと仰せくださった。

 ありがとうございますと、さらに伏そうとした雪女を、二代目は止めた。

「頭なんぞ下げるない、雪女。それは本当は、おれこそがやらねばならんこと。てめえの妻と息子ぐらいてめえで守らんかと、ここへ来る前に久しぶりに親父にぶん殴られたことでもある。それをさらにお前に頼むのは、おれの力不足以外の何物でもないが、どうか、この通り、こちらから頼む。リクオを、若菜を、探してやってくれ」

 そのようにしてやってきた、伏目稲荷。
 雪女のすがるような想いをあざ笑うかのように、辺りに人影は無い。
 人が住んでいた家屋は無惨に壊され、木や電柱も力任せに根こそぎ倒されており、目を凝らしても耳をそばだてても、人の気配は感じられなかった。
 けれどどこかに、もしやすると神仏の加護を頼って、千本鳥居の奥の神殿にこそ居るかもしれないと、二代目が率いる百鬼夜行の末尾にいながら、辺りを油断無く見つめていたところ、ふと、子供の泣き声を聞いた気がした。

 ひっく………うう………。
 お母さん、お母さん、どこ?
 お母さん、お母さん、こわいよ、こわいよ。

 いや、たしかに、聞こえる。
 どこかから。心細さに震えて泣いている子供の、声がする。男児か女子がわからなかったものが、次第に耳にはっきりと、男児のものであると判じられるようになると、まさか、まさか、そうであってほしい、そうであってほしいという想いがそうさせるのか、聞こえてくる声があの、かつての守子にそっくりに感じられてきてならない。
 よくよく考えれば、十年も前に別れた幼子が、そのままの声であるはずもないのに、先行する二代目や側近たちを呼び止めるより前に、気が急くままに声の主を探したのは、既に相手の術中にいたためであろう。

 振り返ったそこに、屈み込んですすり泣く、子供の背があった。
 一目見て、違うと判る。
 男児らしいが、髪が黒い。奴良の若君は、陽の光を浴びれば軽やかな金褐色に輝く、稲穂色の髪だった。
 頭が冷えた。
 何年経っても同じ年頃であるはずがないと、ようやく気づいたのだ。

「何をやっているのかしら、私。……ねえ坊や、迷子かしら。ほら、泣かないで、お母さんとはぐれたのなら、一緒に探しましょ」
「……っく、ひっく……誰?」
「私もここに、大事なひとを探しに来たの。きっと坊やのお母さんも、坊やを捜しているわね。さ、おいでなさい。連れていってあげるから。
 あの、二代目、この坊やを連れて、一度戻っても……?」

 お伺いをたてようと、階段の先にいるはずの奴良組一行を仰ぐが、しかし。

 視線の先では、あやしの紅鳥居が整然と、立ち並ぶのみ。
 さらにどこからか、えーんえーんと、子供たちの泣き声が聞こえてくるのだ。

「お姉ちゃん、誰に話しかけたの?」
「……今、たった今までそこに、一緒に来たひとがいたのよ。見たでしょ?」
「ううん、ぼくの側に来たのは、お姉ちゃんだけだったよ」
「そんな……まさか」

 えーん、えーん、おかあさーん。
 ひっく……っく……誰か、誰かぁ。
 ままああああ、ぱぱああああ。

 よくよく耳を澄ませてみれば、泣く子供の声は一つではない。あっちから、こっちから、迫るように子供の泣き声が雪女を取り巻いて迫ってくる。
 雪女の袖を、きゅっと握った男児が、一度はおさめた涙を、再び、ひっく、と滲ませ始めたので、ともかく気持ちを落ち着けようと、彼女は男児に視線を合わせ、小さな頭を袖で撫でてやった。

「大丈夫よ、坊や。迷子がちょっと多いみたいだけど、きっと皆をここから出してあげるから。道は一本だもの、先に行けばきっと皆に会えるわ」
「お母さんに、会える………?」
「一緒にお母さんを捜しましょう。さ、おいで。まずはここを去らないと」






 行 か せ る も の か
  会 え る も の か 






「 ――― !」

 刹那、鬱蒼と続く鳥居から飛び出し、雪女の前に立ちはだかった大きな影。
 百足を纏わせた、千手観音。否、千手観音を模った木像に、妖気を纏わせた百足がぎちぎちと纏わりついて、思い思いにうねりながら、つるりと黒い目玉でぎょろりとこちらを睨んだのだった。
 血が滴る武器を持った無数の手を背負い、さらにぬめった舌のようにべろりと百足を口から幾つも生やして。

「う、うわああああああああっっっ!!!」

 子供の叫び声が鳥居の森にこだまして、遠くの子供たちの声が共鳴し、うわあ、うわあと泣き叫ぶ。

「……何奴!羽衣狐の手下か!」
「私は」「俺は」「羽衣狐様の」「伏目稲荷の」「封印」「御為に」「弱き女怪よ」「迷い込んだが」「運の尽き」「「「滅せよ」」」

 子供等の声に共鳴して、手を合わせた観音の体が、偽りの神々しさに輝き膨れ上がる。鳥居を壊し、空に届かんばかりに大きくなると、豆粒のように小さな雪女と側の子供を、鳥居ごとぐしゃりと踏みつぶした。
 あわや、というところで、子供を抱きかかえて飛び退いた雪女、ともかくこの場を離れるために石段を転がり降りるが、はっと気づいたときには、四方に無数の朽ちた鳥居が並んだ、鳥居の墓場に迷い込んでいた。

 怖いよ、怖いよと、すすり泣く子供を側に呼び、己の冷気で怪我をさせぬように気をつけながら抱き寄せる。

「大丈夫よ、坊や。必ず守ってあげるから。だから泣かないで。きっとお母さんのところに、連れていってあげるから。二人で一緒にがんばりましょ」

 たかが人間の子供だなどと、思えはしない。打ち捨てるなどもってのほかだ。
 そんな彼女を、同じ妖怪の仲間たちは、おかしな奴だとあざ笑うのだが、彼女が守り慈しむいとし子として育てるはずだった若君は、人の血を濃くしていらしたのだ。
 人の男児であろうと、全くの他人のような気はしない。

 笑いかける雪女を見て、男児は泣き止み、こくんと頷く。

「うん。……うん、わかった。がんばる」

 大きな瞳に涙はたまっていたけれど、幼いながらも、己を庇う美しい娘にばかり戦わせてはいけないと思え、体中の勇気を振り絞って涙を払った。
 この男児がしっかり頷いたとき、山ほど大きくなった千手観音が、一瞬ぐらりと傾き、たしかに一回り、小さくなった。
 偽りの神々しさに輝く身から、汚い垢がべろりと一枚剥がれ落ち、黒い怨念の文字を描いて空に消える。
 子供を庇いつつこれを見届けた雪女、合点した。

「そうか。あいつ、子供たちの恐怖で身を大きくしているのね。だとしたら、この山に他の子供たちが」

 ええん、ええん、おかあさーん、おとうさーん。
 うわあん、うわあん、こわいよう、こわいよう。

 伏目の山にこだまする、子供たちの切ない泣き声を耳にして、雪女は心を決めた。

「聞こえる、坊や?他にも泣いている子たちがいる。みんな独りぼっちで寂しくて、怖がってる。みんなを助けてあげましょ、ね」
「うん」

 子供の手が己の冷気で凍り付いてしまわぬよう、袖に手を隠してこれを優しく引きながら、千手観音が目眩に苦しんでいる隙に、鳥居の墓場を抜け、再び鳥居の森へと入った。
 今度ははっきりと、聞こえる泣き声を探すためだけに、歩を進める。

「泣いてる子、どこ!どこにいるの!」

 呼びかければ、応えはすぐにあった。
 それまですすり泣くばかりだった子供等は、母の声と錯覚して声を張り上げ居場所を知らせたり、あるいはあちらからこちらを探して大声をあげながら走ってきたりもしたので、次から次と子供等を捜し当てて声をかけてやれば、幼子等は母親でなかったことに一瞬きょとんとするものの、雪女の顔立ちがどこかまだ少女の面影を残して親しみやすく、白い着物に包まれた身についと流れる汗までが、白い氷の霧となってかすむ様などがまるで、お伽草紙から抜け出てきた姫様のようなので、微笑まれ守ってあげましょうと言われると、女子は不思議と安心し、男子は逆にこのお姫様を守って差し上げねばという気になって、泣くのをこらえ、次なる泣き声の主を我先にと捜し初めて雪女を手伝うのだった。
 一人幼子が泣き止むたびに、見かけ倒しの観音は、するすると空気が抜け出るように体が縮み、ついには小柄な雪女と真っ正面に対峙して、ようやく少し上背があるほどにまでなった。

 似非観音はついに怒り狂って手にしたあらゆる武器をいっせいにふり上げ、ふり下ろし、雪女は己の冷気で作り上げた薙刀でよくこれを防いだ。
 相手の手が多くとも、雪女がふうと息を吹けば氷の帯がたちまち腕を凍らせ、力任せに氷の呪縛を解いて斧や剣を降りおろしても、もうそこに雪女の姿は無い。
 雪女の氷の呪縛が、千ある腕のいくつかを体から剥がし、ただの木っ端に戻るたび、彼女が背に守る子供等から歓声があがった。

 しかし、足りない。
 応援の声までが上がる中、泣く子供は誰一人いなかったが、ただ一人雪女だけが己の力の限界を悟っていた。
 いくつかの腕をもぎ取り、武器を取り上げても、千手観音像は新たな手で新たな武器を握り、やがて雪女はじり、じり、と、鳥居の森を追われて、少しずつ、少しずつだが、例の鳥居の墓場に近づいていた。

 あそこは、いけない。

 追い込まれていることを、はっきりと悟って、冷たい汗が額に浮かぶ。

 あらゆる方向に、大小様々な鳥居が並んだ不気味な場所にこそ、一番大きな畏を感じ、どうにかその場所から離れようとして、千本鳥居の向こう側から、じり、じり、と追いつめてくる観音の後ろに回り込もうとしたり、押し返そうとするのだが、手がいくつもげようと、観音は決して後ろに下がらない。
 やがて、にたりと、三つの顔が同時に笑った。
 雪女自身が、追いつめられているのを悟り、あがいているのを知っている笑みであった。

「おまえは」「そなたは」「逃げられない」「逃がすものか「おまえは」「貴様は」「鳥居の」「我が畏の」「既に術中」

 ついに千本鳥居から追い出され、雪女が尻餅をついた先は鳥居墓場。
 子供等もその周囲に寄って、どうにか娘を抱き起こそうとするのだが、刹那、子供等の前から雪女の体はさらわれて、宙づりにされてしまった。
 背の高い場所にあった鳥居から、ぬっと腕が不気味に突き出て、雪女の腕を掴み、宙づりにしたのだった。

 目の前にいたはずの千手観音像が、腕を一つ、全く違う鳥居に入れたところ、これがあらぬ方向の鳥居からぬっと出てきたのである。

「あ、ああぁ、うぅッ」

 無理な体勢でひねられた腕が奇妙な方向へ曲がり、ぱきりと軽い音が響く。
 白い衣がじわりと赤く染まり、目にした子供たちは再び、恐怖の叫び声をあげかけたが。

「だ、いじょう、ぶ!だいじょうぶ、だから!」

 痛みの中で笑おうと顔を歪める雪女の声に、泣きかけた幼子等は涙をこらえ、誰かが誰かと目を合わせると、あちこちにある鳥居に散らばり、転がる石でこれを壊したり、棒きれを逆に鳥居の中に突っ込んで、似非観音の頭をぽかりとやったりし始めたからたまらない。

「あいた」「いて」「やめぬか」「やめろ」「ええい、うるさいガキどもめ」
「お姉ちゃんを放せ!」
「やめろよ!はなせよ!」
「おまえなんか、全部壊してやる!」

 逆に違う鳥居から、子供らの足をつかんでぽいと投げ飛ばしても、雪女の吐息がたちまち転がった先にやわらかな新雪を作りだして受け止めた。
 鳥居のどれかから、石つぶてがポカリと観音の頭にあたった拍子に、つい雪女を掴んでいた手で額をおさえてしまったので、雪女の体は宙に放り出されて。


 あわや、鳥居が乱立する石畳の墓場に真っ逆様。


 衝撃に備えて受け身をとり、痛みに耐えようと歯を食いしばるが。




 ふわり、と、強ばった体を誰かに受け止められて、宙に浮く感触に、戸惑った。




 品の良い、白檀の香りが鼻孔をくすぐったと想えば、すとんと、危なげなく、己を抱えた誰かは石畳に着地した。




 この様子を、子供等はぽかんと口を開けて見つめていた。
 無理もない。
 突如、なにもないはずの空が斬り裂かれ、切れ目の向こうから現れたその人が、桜の花弁を従え、姫様を守るように抱いて降りてきたのだから。

 恐る恐る目を開けた雪女も、同じようなものだった。
 奴良組の誰かがここへかけつけてくれたとしても、これほど驚きはしなかったろう。

 彼女を抱えていたのは、

「おうじさま?」
「ばか、サムライって言うんだよ、ああいうの。刀持ってるし。着物だし」
「でも、でも、お姫様を助けたんだよ」
「お姫様の家来なんだよ、きっと」

 子供等の勝手な言葉に、肩を震わせてその男は笑った。
 雪女の無事を確かめ、一瞬肩越しに振り返って子供らに向けた紅の瞳は、どこか優しく。形の良い唇には、甘露を含んだような笑みを浮かべ。

「人の子等よ、我が姫御前を助けてくれたこと、感謝する。御礼に、この迷い鳥居から出して差し上げよう」

 芝居っ気たっぷりの口上を述べながらしかし、雪女の肩口を染めた紅には、何とも獰猛な光を同じ瞳に宿らせ、似非観音を睨みつけると、彼の覇気が背からぶわりと吹き上がって、しろがねの髪を揺らせた。
 巻き上がった氷と桜の妖気に、子供等はすっかりはしゃいだ声を上げて笑い合う。

「おまえは」「きさまは」「何故」「裏切るか」

 戸惑いながら、桁違いの畏を前に、観音は体裁を取り繕えず、まとわりついた拍子に燃えだした桜吹雪を払いのけているうちに、関節や口などから、ぎしりぎしりと音をたてて、木彫観音に住み着いた百足が顔を出した。

「どうして、貴方が」

 同じ戸惑いを、その腕に抱かれながら、雪女が問うも、

「雪のおひめさまを、桜の家来が助けに来たんだ」
「サムライさん、あんな奴、やっつけちゃって!」

 子供のはやし立てる声の方に、男は便乗してしまうらしかった。

「裏切る?何を言っているのやら。子供等が言ってるだろう、オレは雪の姫御前を守る家来なのよ」

 芝居がかった口調に、やっぱりそうだったんだと子供等は納得するのだが、雪女の困惑は、続いた彼の呟きに、ますます深くなった。





「………昔からな」






 花霞大将は、雪女を片腕に抱きながら、同じ陣営の妖怪相手に、妖刀《鶯丸》を抜いた。






「この」「こやつめ」「こいつめ」「「「裏切りおった」」」

 穏やかな顔をしていた千手観音菩薩像の、木彫の体のあちこちから、染みと思っていた黒い点が浮き出るように大きく広がり、たちまち表面を覆った。
 無数の、百足であった。
 百足が、一匹ずつぎちぎちと組み合って、すっかり木彫りの表面を覆ってしまうと、それまで穏やかな顔をしていた三つの顔も、百足の黒の向こうに木彫りの淡い色合いが透けて見えて、これはくっきりと、修羅の表情と化しているのだ。観音にあるまじき憤怒の形相で、いっせいにばらりと千の手を広げると、すいと、異界の黄昏の空に浮かび上がる。

「八つ裂きなどでは飽きたらぬ」「貴様など生きたまま」「千に引き裂かれ永劫の時を「苦しめ」「苦しめ」「苦しめ」」

 同時に宙に現れたのは、無数の幻の鳥居。
 ほんのり淡く紅く染まった鳥居を、千の腕が各々武器を手に貫くと、なんと、花霞大将と雪女だけではない、辺り一体を囲むように、中空から呪われた忌み文字を刻んだ幻鳥居が現れ、そこから、一つが花霞大将など握りつぶしてしまえそうな巨大な手が、ぬうっと現れ出たのだった。
 雪女が氷の息吹を吹きかける間も、子供等が悲鳴を上げる暇もない。

「滅びよ」「滅せよ」「花霞」

 無数の手が、いっせいに彼等に放たれた。

 衝撃、爆風。

 あまりの重量に、辺り一体に広げた似非観音自身の畏に、うっかり亀裂が入るほど。びしり、ばしりと空気が音を立て、欠けた空の隙間から異界の外の群青の空が、ぽっかり目に見えてしまったほどである。
 辺りを敷き詰めていた石畳がはがれ舞い上がり、粉々に砕けて塵と化し、不気味に立ち並んでいた赤い鳥居すら、爆風に耐えきれず軋んで根っこから折れ曲がりあるいは砕け散った。
 一体ニ体の妖怪など、これほど強い力の前では嵐の海の木の葉のごとく、流されるとも押しつぶされるとも判じられぬまま、結果消えて無くなるものと思われたが。

 似非観音も己の勝利を信じて疑わず、弱小一家を率いる成り上がり風情が、古くより羽衣狐に使える我が身に刃を向けたことをあざ笑い、にたりと笑った。
 ぎしぎしと、似非観音を黒く覆う百足どもも皆、一斉に笑った。

 だが。
 違和感。

 たたき潰したゴミどもが、無数の手のいずれにべったりとはり付いているか確かめてやろうと、似非観音が己の手を引き戻そうとしても、不思議と、何かが引っかかって鳥居の向こうから出てこない。
 確かめようにも、眼下に広がる異界の墓場は土煙に覆われ、何が引っかかっているのか、判じられぬ。

 力任せに押しつぶした拍子に、異界を突き抜けて、どこか違う世界をこじ開けでもしたろうかと、最初は暢気にぐいぐいと己の手を引っこ抜こうと力を込めた似非観音は、己の手が、己の鳥居の向こう側で、ぎゅ、と握られた感触に、背筋をさあと寒くした。
 一本、二本ではない。
 物の怪と化したとは言え、千手観音像である。
 もちろん、像として生まれたから、文字通りの千本ではない。
 無いが、数えるには億劫になるほどには多くある。

 それがことごとく、向こう側から、ぎゅ、と、握り返された。
 加えて、握り返す手だけではない、手首あたりを、二の腕あたりを、そっと、優しく、掴むものが、あった。

 ぎし……。
 笑いは引っ込んだ。
 ぐい、と手を引いても、抜けない。
 焦りが生まれる。
 何だ。何が、この手を掴んでいる。

 何だ。

 土埃が、一陣の風に、晴れる。

 花霞大将が、そこに居た。雪女も居た。子供たちも無事だ。
 誰一人欠けてはおらず、誰一人つぶされてもおらず、それどころか、あれだけの風、あれだけの衝撃であったのに、巻きあがった石つぶてのただの一つも彼等を脅かしはしなかった。

 子供等は、泣くよりも前に、己等の周囲に突如巻き起こった竜巻が、すっかり鳥居を片づけて伏目を禿げ山にしてしまったのを、きょとんと見つめるばかりである。
 彼等を取り巻くようにして宙に浮いた十ニの札は、風や石つぶてを別の世界へ切り取ったかのように、中へ入れるを決して許さなかった。
 さらに彼等を中空から襲ったはずの似非観音の巨大な無数の腕を、これまた輪をかけて多くの優しい白い腕が、子供等を守るためにこれも中空から現れ出でて受け止め、優しく見えて決して離さぬのである。

 白く優しい、その腕は。

「なんだ」「なんだ」「これ「これは「これは何ぞ」」」

 焦った似非観音は、気づかない。
 札が綺麗な円を描いた結界の中、呆気にとられて己等の頭上を見上げる雪女と子供等の姿はあれど、花霞の姿が無いことに。

 ぐい、ぐい、ぐい、と、己の手を抜こうと必死なために、気づかない。
 己の手を握る、優しい未知の手を、己が既に《畏れて》いることを。

「ソレが何か、てめぇは知ってるはずだぜ、千手百足よ」
「 ――― ッ」

 片手に抜き身の妖刀、もう片手では口元で印を結び、裏切った手先は文字通り、似非観音の鼻先に居た。
 彼の体を中空で支える、やはり優しい手の上にすっくと立って、花霞は似非観音を見下ろしていた。
 その後ろに、ぼんやりと、大きく空に透けるのは。彼の後ろに在るのは。



 うっすらと浮かぶ、菩薩の顔が卑小な千手百足を見つめ、さらには菩薩が背負うまさに那由他の手が、鳥居の向こうから優しく引き寄せようと、ぐい、ぐい、ぐいと、引くのだ。  己の姿をぼんやり模っただけの、できの悪い木像を、それに取り付いた悪鬼を、救わんとして千の手を持つ菩薩が、優しく引くのだ。



「花霞」「貴様」「お前」「まさか」「真言」「馬鹿な」「何故」「妖が」

「お前が造り損ねた《畏》の形、今度生まれ来るときは、しっかり作る腹構えをしておきな」

「よせ」「やめろ」「救いなど」「いらぬ」「そんなところへ」「招くな」「嗚呼」



 身動きできぬ千手百足を、脳天から一閃、花霞がただ一度振り下ろした刀の軌跡は、もがき足掻く黒い百足どもを、見事に真っ二つ。
 嗚呼、と呟くが早いか。
 空に透き通る、慈悲の存在の手が、鳥居ごとぐいと似非観音をついに強く引き寄せ、抱きしめ、その手の中で、木の洞は粉々に砕けるや、百足は塵となって風に、消えた。
 片膝を地についた格好のまま、カチリ、花霞が刀を鞘へおさめれば、それが合図であったかのように、焦土と化した辺りは、昼も夜も無く常に切ない黄昏の結界の中から、突如、夜明け前の群青の闇に覆われた、紅鳥居の森へと、元通り、変わっていたのである。



「 ――― オン・バザラ・ダラマ・キリク」



 刀をふるったのと同じ手で、花霞が今度はしっかりと印を組むと、彼等を空から見下ろしていた大きな畏れの存在は、現れたときと同じ様に、空に溶けるように、消えた。

 誰かが悲鳴を上げる間も、無かった。

 雪女など、終始、息をするのも忘れていたほどだ。

 無理もない。
 妖怪ならば当然のように、恐れて当然の存在が、こんな小さな世界の瑣末な事象など歯牙にもかけぬと思われていた、尊いと言われる存在が、まさに今目の前に現れ、そして消えたのだから。
 これを顕す真言を、妖であるはずの者が、神格さえ帯びた様子で唇に灯らせているのだから。



 しばらくの間、誰も声を出せず、動けなかった。



 ただ一人、花霞大将はその後もしばらく、いくつか印を組んで歌うように朗々と真言を紡いでいたが、それが済むとようやく振り返って、呆れたようにこう言った。



「後ろに引っ込んで、賄いやてしていろとゆーたやろう」



 子供等の緊張がようやく解けて、歓声が沸き起こったのは、言うまでも無い。





 東の空が白んできている。
 百足観音の畏が消えて、雪女や子供等を呑み込んでいた異界が消え去り、淀んでいた空気が解放されて、久方ぶりに清廉な風の香りを嗅いだ気がした。

 昼も夜もない、永遠の黄昏の中に捕まえられていた子供等は、雪女と花霞大将にすっかりなつき、ともかくこのひとたちの側に居れば、父母の元へ帰れると思って離れない。
 袖口にまとわりつく子供等を宥めながら、騒ぎの中で、花霞大将は今度こそ盛大なため息をつき、きりと細めた目で雪女を咎めるように見つめた。

「妖怪のくせに人間のガキを守って痛い目に遭うとか、意味が分からん」
「だって、放っておけないでしょ。みんな、逃げ遅れた子たちなんだろうし」
「奴良組ってのは、ずいぶん余裕があるんだなあ、おい。羽衣狐相手に戦ってるってのに、人間のガキの心配したり、こんな足手まとい以外の何物でもない雪女なんぞを戦列に加えてみたり。お前がついてこなけりゃ、あの百足野郎は別の奴を異界に引き込んだはず。その方がいくらかマシに、戦えたんじゃねえのかい。雪女なら雪女らしく男だけ助けてりゃいいもんを、女も混じってるし」
「アンタには関係ないでしょ!こっちにはこっちの事情があるの、放っておいてちょうだい!」
「へええ。放っておいたら今頃、お前、あの百足野郎にいいだけ辱められてただろうに、そっちの方が良かったと。そりゃあ悪かったなあ、お楽しみのところ邪魔しちまってよ」
「いやらしいこと言わないでよ、あんな奴にそんなこと、許すもんですか!」
「あのなあ、雪女。冗談で引っ込んでろと、そう言ってるわけじゃねえんだ。いいか、ここは戦場だぞ、お前ごとき弱い女怪、腕の一振りで消し飛ばせるような奴らがうようよしてる、それが今の京都なんだ。奴良組二代目についていくなら、それ相応の実力って奴が必要だろうが、お前にはそれがない。非力で弱くて格下の女怪を、無理して二代目が連れてくるはずもない。大方、お前が無理して頼んだんじゃねえのかい。腕試しか酔狂か名をあげたいのか知らんがよ、こんなこと繰り返してたらそのうちお前、本当に死ぬぜ」
「ううぅ……わかってるわよ、弱い、なんて」
「だったら、二度と戦場には出ないことだ。本当は賄い所だって、戦場にあるには違いないんだから、関東に引っ込むとか、本気で考えた方がいいんじゃねえの。その方が、あんたの大将のためでもあるだろう」
「だから、そんなの、関係ないでしょ……」
「……何だよ、何がそんなに好きなんだ、こんな戦場の」
「好きなんて言ってない。むしろ、賄いの方が好きだし、京都は怖いばかりだし」
「だったら」
「でも、若様はもっと、怖い想いをしているかもしれないし」
「……………………は?」
「何でもない」
「何でもないじゃないだろ、そこまで言っておいて。誰が、何だって?」

 咎められ、叱られた子供のように一瞬萎れかけた雪女だが、根気強く花霞が尋ねてくれるので、敵とは言え、ここに何をしに来たのかわからぬとは言え、ともかくこれで三度も助けられた相手であるし、話しても差し支えはあるまいと、一つ小さな息をついてから、意を決して口にした。

「奴良組の、若様。十年も前に、姿を消したっきりだけど、最近、京都にいるんじゃないかって噂がたったの。奴良リクオ様という方よ。十年前、私はその守役だった。妖の血より、人の血の方が濃い御方だから、この騒ぎに巻き込まれてたらきっと、怖い想いをされてる。そう考えたら、捜し当てるまで下がってなんてられないのよ。ここに迷い込んだのだって、若様がどこかにいるかもしれないって思いながら探していたら、子供たちの泣き声が聞こえてきて、そうしたらいつの間にか異界に入り込んでいて。よくよく考えれば若様はそんなに小さくは無いけど、別れたときにはまだまだ小さくて、それを思うと、人間とは言え、泣いていれば他人事ではないの」
「その、奴良の若様とやらを、捜して、どうすんだよ。お前等の目当ては、羽衣狐と、その依代じゃなかったのか」
「どうするって……突然姿を消されたのよ。どうしてかもわからないまま、いなくなっちゃったんだもの、捜すに決まってるでしょ?それからどうするなんて、見つかった後に決めるわよ。だから、もう、放っておいて」
「……今の京都、見たならわかるだろ。人間で、動いてるのは陰陽師どもばかりだ。あとはこういうガキどもみたいに、餌として生かされているか、死んでいるか。そいつが生きてるなら、京都にはもう、いねえよ、きっと。お前等を頼りたいと思うなら、お前等が来たときに、自分から名乗りだってあげるだろう。それが今でも音沙汰なしだって言うんなら、捜すだけ無駄なんじゃないのか」
「そんなの、わかんないじゃない。もしかしたらいるかもしれない。助けを待ってるかもしれない。会うか、それとも京都の騒ぎが終わるのを見届けるかしない限り、おちおち下がれはしません」
「強情だな。どういう事情があるのか知らないけどよ、十年も見つからなかったんだろう。今になってこの、関東関西の大抗争の中で人探しも無いもんだ。
 お役目が若様の守役だからって言うんなら、なんだ、アンタ等の大将が生きてりゃ、次の若様を育てる機会だってこれからいくらでも恵まれるだろうよ。だから今は、お前は」
「若様だから捜してるんじゃないの、あの子だから、あの方だから捜してるの。二代目だって、自分は抗争の方に集中しなくちゃいけないから、だから捜すのは私にって、一任くださったんだもの。あの方がいなくなったら次の若様になんて、そんな単純な話じゃないことくらい、アンタにだってわかるでしょ?」

 ついに雪女は、満月のように美しい金色の瞳からはらはらと、大粒の霙の涙を溢れさせてしまった。
 泣くつもりはなかったので、まるで女を利用するような己の涙が心の底から嫌になり、何度も袖で払うのだが、姿の見えぬ若様を思えば、やはりここには居ないのか、それともどこかに隠れているのか、奴良組が京都に侵攻していることは流石にそろそろ聞こえているだろうに、どうして名乗りを上げて頼ってくださらないのか、それとももう、どこかで冷たくなってしまっているのか、考えないようにしようと思えば思うほど、次々と嫌な予感が頭をかすめ、十年前の幼子が無惨な姿になっている様が、瞼にありありと浮かんで、また雪女を苦しめるのだった。

 桜のお侍さんが雪のお姫様を泣かしてしまったので、二人を囲んでいた子供等は、大人の話の内容が全くわかっていなくとも、口々に「お姫様を泣かせちゃいけないよ」と、花霞大将に謝るよう、唇を尖らせる。

 致し方ない。
 花霞大将は肩をすくめて、悪かったと、つぶやいた。
 何とも優しい、心を包み込むような声色だった。

「……悪かった、言い過ぎた。わかったよ、奴良リクオとやら、オレの配下にも探らせる。あの女狐どもが封印を破って溢れかえるまでは、洛中は花霞一家の庭だったんだ、今でも情報くらいは集められるさ。何か判ったら奴良組に報せると約束するから」
「……うん」
「だから、お前は戦列を離れて、大人しくしてろ」
「……アンタに言われる筋合いは無いもん」
「いいや、オレが協力するのは、お前が戦列を離れるならっていう条件付きでだ。お前みたいな弱い奴に、目の前をちょろちょろされると目障りなんだよ」
「…………ううぅぅ」
「あー……はいはい、言い過ぎました、申し訳おまへん。はあ、こりゃかなわんわ……。でもな、約束してくれねーと、オレは動かんぜ。どうする」

 迷った末、雪女は小さく頷いて涙を払うと、ぺこり、礼儀正しく頭を下げた。

「よろしくお願いします。どうか、若様を捜すのに力を貸して」
「承知した。じゃあ、お前は関東に帰って……」
「ううん、私は、宝船で賄いをしてるから。ちゃんと、私のところに、アンタが報せに来て」
「……………………は?」
「約束通り、私は戦列を離れます。でも、関東には帰りません。京都で待ちます。この前の宝船、アンタ、簡単に入ってきたわよね、だったら次もできるでしょ。いいこと、使いの者なんかじゃ、本当か嘘か見極めるのも大変なんだから、ちゃんとアンタが報せに来てちょうだい」
「はぁ………確かに、関東に帰れとは約束させなかったか。わかったわかった、それでいい。だがオレだって忙しいんだ、報せだったら適当に、配下の猿だの狸だのを使いにやるから………」
「だめ」
「……………………」
「怖い顔してもだめ」

 注文の多い雪女に、流石に花霞は剣呑な目でちろり、睨みをきかせたが、雪女は小兎のように身を震わせたものの、可愛い唇を咎らせて必死に食い下がった。

「そうやって、若様や奥様の行方を知ってるって輩が二代目をおびき出して命を狙ったこと、今までに何度もあったもの」
「…………わかった、オレの命がある間は、そうしてやる。こう条件がつくのは当然だろ、オレだって抗争の中に身を置いてるんだ、いつ首を穫られたっておかしくねぇ。そん時は、副将の玉章ってヤツに伝えさせる。銀閣寺で見たろ、象牙色の毛並みをした、歌舞伎狸だ。それで承知しろ」
「…………うん。あの、無理言って、ごめんなさい。ありがとう」
「おう。ま、その分、そっちが勝ったらウチの一家のこと、融通してもらうだけさ。後から知らぬ存ぜぬはなしだぜ。お前が雪女で、嘘はつかねぇだろうと思うから、信じるんだ」
「わかってる。ちゃんと、花霞大将が力添えをしてくれるって、二代目にお伝えします」
「交渉成立だな」

 二人が穏やかに笑って頷いたと同時、夜が明けた。
 花霞大将が白む空を忌々しそうに見上げ、片手を上げるだけの簡単な挨拶で、雪女に背を向ける。
 途端、名残惜しくなった雪女は、

「ねえ………花霞大将?」

 最後に一つだけ、気になっていたことを確かめるべく、呼び止めた。
 返事もなく、肩越しに振り返っただけの花霞は、夜明けを恐れるように、木陰に身を寄せて雪女の言葉を待つ。
 早くしなければ、行ってしまう。
 急いてたので、言葉を選んでいる暇は無かった。
 なぜ、どうしてを、そのまま口にするだけで。

「どうして私を、助けてくれたの?」
「妖怪の同士討ちが、そんなに珍しいかい。ここの似非観音含めて、羽衣狐の忠実な配下とやらは、オレにとって邪魔なヤツだ。討つ機会を伺ってた。それじゃいけねえのかい」
「今回だけじゃない、初めて会った時」
「あの戦場は花霞の持ち場。茶々を入れてきたのはがしゃどくろ。がしゃどくろの風情の無さのおかげで、せっかくの花霞の見せ場が台無しだ。火事に巻かれた観客を放って、役者が先に逃げるわけにはいかねえだろう」
「それだけじゃないわ、どうしてあの時、私の名前、呼んだの?どうして、知ってるの?」
「え?」
「呼んだわ、確かに。私の名前。憶えてない?」
「 ―――― ッ 」

 大将、そろそろ。と、木陰の向こうから、花霞を急かす声があった。
 まるで気配を感じさせず、声があるまで雪女は、その存在に気づかなかった。それほどの大妖がすぐ側にいるというのに、花霞の存在があるからか、全く恐れが無い。

 雪女の視線の先で、花霞は既に口から出てしまった言葉を取り返そうとでもいうかのように、そっと口元を押さえた。
 言われるまで、彼女の名前を呼んだ己に、全く気がついていなかったらしい。

「ねえ、どうして。初めて会うはずの私の名前を、アンタは、どこで知ったの。正直に、答えて」

 カツ ―――― ン。
 カツ ―――― ン。

 斧で木を切るような、どこか懐かしくも聖なる音が辺りに響きはじめ、瞬く間に、濃密な霧となって漂っていた妖気が晴れ始めた。
 光の嵩が増し、辺りを覆っていた闇が潔く晴れていく。

 時間が無いよ。花開院が、楔を施し始めた。

 木陰の誰かが、大将を促す。

「答えて」

 光が苦手らしい花霞を、しかし雪女は許さず、言霊で引き留める。
 己の口元を押さえ、しばし打ちのめされたように立ち尽くしていた花霞は、やがて、雪女の目を見てこう答えた。

「昔、お前に恋をした」

 焦がれ狂うような目を雪女に向けながら、しかし一指たりと触れようともせずに。

「綺麗で潔くて、見目と心がぴったり同じ形でできている、そんなお前に恋をして、進んでお前の虜になった。それじゃあ、お前を助ける理由にも、お前の名を知る理由にもならねぇかい。雪女ってのは、弱い自分を守るために、強いヤツを虜にする、そういう生き物じゃなかったかい」
「え。で、でも私、貴方と会ったこと、なんて」
「お前が憶えてる、憶えていないは別として、それでいいだろう。今も好きで、今も恋をしている、それがオレにとっての理由じゃ、いけないのかい」
「どうして、私、でも」
「答えはいらない。応じる必要もない。ただオレが、お前を恋しいと、いとしいと、想うだけだ、つらら」

 カツ ―――――――― ン。

 一際高く清廉な音が響きわたり、ぶわりと暖かな、次元を渡る風が伏目の山頂から吹き降り、二人の髪をさらってなびかせた。
 木の葉が舞い、光が眩しくきらめく。
 雪女を見つめる花霞の瞳が、苦しげに歪んで、彼はその場に膝をついた。

 どこで手傷を負っていたのか、噎せ込み、激しく咳をして、しかし雪女が駆け寄るより先に、木立に隠れていた彼の副将・玉章が二人の間に入り、纏う木の葉で己等をすっかり隠してしまった。
 嵐のごとく舞い上がる木の葉に遮られ、雪女が身動きできないでいるうちに、すぐに突風は過ぎ去り、その時にはもう、その場には花霞大将と玉章の姿はなく、花霞が膝をついた場所に、不吉な血の痕があるばかり。

 手傷なのか、病なのか。
 光が辺りを覆い始めた頃から苦しみ始めたところを見れば、羽衣狐が望む、闇に覆われた世界の方こそ彼にとっては都合が良いのであろうに、奴良組に荷担するような真似をするのは、彼が言うように、本当に日和見な理由からなのか。

 それに、なにより。

「……………恋」

 雪女は、はっきり、自覚してしまった。

 出会った夜から、彼の面影が瞼から離れぬ理由。
 再び会えたそのときに、うっかり庇ってしまった理由。
 名を呼ばれて、いとしいと微笑まれて、頬に熱が上がる理由。
 彼が苦しむ様を見て、胸が引き裂かれそうに痛んだ理由。

 会えば会うほどに、離れがたく想う、その理由。

「そうか、私……………恋をしているんだ」

 初めて恋を知った心は舞い上がるほどあたたかく、しかしこの土地のどこかで苦しんでいるかもしれない若様を想えば、うしろめたさに、いたたまれなくなった。

 子供等に囲まれ、立ち尽くす雪女を、奴良組一行が見つけたのは、それから小半刻ほどしてからである。










「………死ぬかと思った」

 悪い血を吐くだけ吐いてしまった後、リクオが一心地ついた布団の中、深く息をつくと、かいがいしく世話をしていた仔猿や仔狸たちもまた、桶や手拭いなどを抱えたまま、布団の脇でほうと息をついた。

 小物ばかりではない、脇に控えていた猩影も玉章も、傍目にはわからないが、互いに一瞬視線を合わせて、小さく息をついた。

「死ぬかと思ったのはこっちだぜ。無理はほどほどにしてくれよ。ったく、心臓に悪ィ」
「悪かった」
「悪いと思ってねえだろ、絶対。俺のこと置いていきやがるし、玉章には手出しさせなかったって言うし、どういうつもりだよ」
「花霞一家が全員で羽衣狐に謀反の意ありだなんて、誰かに見咎められてみろ、しょうけら辺りがさっそく気取ってブンブンうるさく飛んでくる。そん時は、大将一人が似非観音とタイマンで撃ち合いましたと、言える方がいいだろう。妖怪同士は滅し合って力をつけるものと、羽衣狐様は同士討ちにご寛容だ」
「それは、そうだけど」
「……僕はもう一つの方を聞きたいね、リクオ君。あんな約束して、どうするつもりだい」
「あんな約束?なんだよリクオ、奴良組相手に何か、厄介ごと引き受けたのか」
「厄介も厄介の極み。聞いておくれよ猩影くん。あの雪女、十年前に姿を消した奴良組の若様を捜して前線をふらふらしているらしいんだが、それを知った我らが花霞大将殿は、雪女の代わりにその若君を捜すから、お前は後ろに下がっていろと約束させたのだ」
「十年前に姿を消した奴良組の若様って………リクオ、おまえじゃねーか。何考えてんだ」
「ああでも言わないと、黙って下がるような女じゃなかったろう。かと言って、名乗り出れば色々、厄介だ。奴良組の目的がぶれる。ぶれて勝てる相手じゃないだろ、羽衣狐ってのは」
「ぶれるって、何だ。ここに来て若様ご帰還となれば、士気は上がるだろうし、しかもそれがこんなに立派な御大将となれば」
「で、その御大将が祟り場以外では、花開院の呪いを身代わりに受けた瀕死の人間になります、となったら、奴良組二代目はそれでも、花開院と手を組んで螺旋の封印を再び施し、羽衣狐を倒して依代を取り返そうと侵攻を続けるだろうか。一旦退却、となれば、羽衣狐は出産の刻限を迎えてしまう。花開院は根絶やしにされ、京都は羽衣狐どもの手に落ちる。リクオくんが厄介って言うのは、それなのさ」
「まあ、確かにそれじゃあ、花開院どもはもちろん、この辺り一帯の人間どもも終わりだろうなぁ。それが嫌だってのは、まあ、わかるけどよ。だからって、リクオ、それじゃあこっちで捜しますって、知ってて知らん振りをするってのか?」
「この抗争が終わるまでだ。終わったら、名乗り出る。それでいいだろう。その時に名乗り出られない状況だったら、見つかりませんでしたでも何でも、お前等に任せる。上手く立ち回れそうな方を選べ」

 抗争が終わった後、生きながらえれば敗残処理も含めて名乗り出る。
 生きていなければ。
 骸を引き渡すなり、何なり、一家として立ち回れそうな方を選べと。

 言いたいことだけ言い捨て、疲れたように息をつき、リクオは枕元で心配そうに己を見つめていた仔狸を引っ掴んで抱き寄せると、半ば布団に潜り込んでしまった。

「疲れた。少し、眠る」

 休んでくれと言っても動き回る大将が、自分から休むというのに言葉を続けられるはずもなく、副将たちは大将の身の回りの世話を小物たちに任せると、各々、戦時下での互いの役割を確かめ合い、手下どもの持ち場での情報を交換し合うなどして、努めて、京都の祟り場が全て払われた後の事を考えぬようにした。
 後のこと、先のことを考えるより、目下の問題の方が、一家にとっては大きな障害であったし。
 また、己等の大将へ面と向かって、自己犠牲などと面倒くさい真似はやめろと進言申し上げたところで、鼻で笑われるのがオチであると、二人ともが知っているからだ。
 自分さえ犠牲になれば皆が助かるなどと、少年らしい健気な自己犠牲精神と、彼等の大将は大変遠い位置に居るのを、二人ともが身をもって、知っているからだ。

 命を賭して戦う価値があるものを、既に花霞リクオは見出している、ただ、それだけの事。
 全てを守る、それが彼の悪行。
 神にも仏にも、一度己の懐へ入れたものは、決して渡しはしない、それが花霞大将の妖たる所以。

 その、守るべきものに含まれている仔狸は、大将に捕まえられ懐に抱かれてしまった後、しばらくの間は畏れ多いと暴れて這い出ようともしたのだが、まさにその大将が、

「そないにびびらんへんで、こっちおいないな」

 甘えるように他の仔狸や仔猿もまとめて布団の中に招くので、皆も大将を嫌っているどころか、むしろ傍に寄っていいならいくらでもくっついていたい御方であり、ただ直属の頭である二人の副将が、彼等が大将に安易に甘えるのを厳しく戒めているだけであるし、このように大将自ら近う寄れと招かれれば、あたたかく優しい御大将の傍は大変に魅力的で、一匹、また一匹と、お互い顔を見合わせながら、遠慮がちに大将の周囲に集うのだった。

「御大将、大丈夫ですか、もう苦しくない?」
「お寒いなら、湯たんぽ持ってきましょうか」
「それより、何かお食べになった方が」

 皆、可愛らしく小首を傾げ、かいがいしく御大将の世話を焼きたがる。
 これにも、かまへんかまへんと、少しうとうとしながら、御大将は、リクオは、無上の幸福に酔いしれる。

 守るべきものがあり、守る力があり、手段がある。

 これ以上の幸福が、あろうか。

 ――― 今までならそれで、リクオは安らかに眠りに落ちたのだろうが。

 ちくりと、胸が痛んだ。



 若様だから捜してるんじゃないの、あの子だから、あの方だから捜してるの。
 あの方がいなくなったら次の若様になんて、そんな単純な話じゃないことくらい、アンタにだってわかるでしょ?
 よろしくお願いします。どうか、若様を捜すのに力を貸して。



 嬉しくてたまらない言葉であったのに、自分がそうであると応じる前に、十年の間に積み重なった立場や、背に負ったものがそうさせはしなかった。
 あの優しい雪女が捜す奴良家の若君は、いまやどこにも居ないのだ。
 騙すつもりは無かったが、ともかく安全な場所にいてもらいたかった。致し方ない。
 そう、致し方ない。なのに ――― もう会うこともあるまいと、想っただけで、胸がやはり、痛む。
 たまらなくなって、溜息が出た。