「なあリクオ」
「ねえリクオくん」

 副将二人が、にやにやしながら詰め寄って来る。
 こういう顔が、リクオはあまり得意ではない。如来姿のときには、見るからにまだ子供なのが判るからか向こうも遠慮してくれるのだが、今のように明王姿でいるときには、物事をよく知らぬ弟をからかうような気持ちでだろう、こうして遠慮なく詰め寄ってくるのだった。

「何だよ、揚げ物してるときは危ないから、ふざけるんじゃねーぞ」

 本日の夜のメニューは天麩羅である。
 シャツをまくり上げエプロンをした銀髪の美丈夫が、茶釜狸たちを従えて料理に励む様は、百鬼の主と言うより園児たちを従える幼稚園の先生のようだ。
 一家の大将が下ごしらえした天麩羅を、お手伝いの小物たちと一緒に次々と揚げては、足元に控えた小物たちが捧げ持つ、天紙を敷いた大皿をこれまた次々と山盛りにしていく。

「手伝いもしねぇ野郎が、賄い処なんぞに入って来るんじゃねぇ。あっち行ってろ」

 またどうせ、からかうネタでも思いついたのだろう、この二人は。
 リクオの側に雪女が居ないときは、すぐこれだ。
 腹ペコらしい仔狸が、リクオの足元で恨めしそうな顔をしながら天麩羅を睨んで皿を持っていたので、その目の前にサツマイモの揚げたてを突き出してやると、はふはふほふほふしながら嬉しそうに食い始めた。

 そんな小物どもに向ける優しげな視線とは裏腹に、じゃれてくる副将たちには冷たい視線をちらとくれてやっただけで、リクオは再び天麩羅を揚げ続けるのだが、目の前で猩影にあーんと口を開けられ甘えられれば、甘やかさずにはいられない性分である。
 こちらには南瓜の揚げたてを詰め込んでやると、あちあちとやりながら美味そうにたいらげた。

「ちょっと話があるんだよ。雪女ときたら、夕飯前の大広間のしつらえ以外、ほとんど君にぴったりで、中々君を一人にしないだろう?あれから一ヶ月、どんな具合かと思って聞きにきたんだ」

 玉章があろうことか、一人一つの小皿用と決まっている大海老に勝手に手をだそうとしたので、これはぺしりと手を叩いて咎め、かわりに好物の舞茸を突き出してやると、妥協に応じたらしく食らいついた。

「よく眠れる」

 正直な答えであったのに、二人だけではなく、傍らで耳をそばだてていたらしい茶釜狸の口からも溜息が漏れた。

「そうじゃなくてだね、リクオ君」
「んー、まあ、なんだ、ほら、わかるだろ?」
「わからん。お前等、何の話だ?」
「わからないは無いだろう、毎日ぴったりくっついて寝ておいて」
「それは、あいつが、その。まぁ、助かってるけど」
「助かってるねぇ。それだけかぁ?ちょいとばかし教えてくれたっていいじゃねーか。どんな具合よ。ほら、例えば、胸の感触とかさ」
「む、胸?感触?」

 感触を思い出せば、否が応でもリクオの頬に熱が上がる。
 火を使っているからだけでは理由にならないほど、耳まで真っ赤になってろくに話もできなくなる姿は、有事の際にあれほど頼りになった大将とは思えぬほどなので、盗み見ていた小物どもも、くすくす笑う。
 大将を軽んじているわけではない。
 常に己等を可愛がってくれるそのひとが、こういう話題には逆に可愛い少年に戻ってしまうので、致し方ないところだ。
 仏頂面が基本の鬼童丸でさえつい昨夜、「まだまだ、ねんねよなぁ。とにかく雪女に教えてもらって、慣れろ」と無体な申しつけをしては、見放された仔犬のような顔で己を見上げてきたリクオの顔を見るや吹き出して、慌ててそっぽを向いたほどなのだから。
 本当は、何があったやら女が侍る閨をほうほうの態で逃げ出して、数年ぶりに己の寝所に潜り込んで寝ようとした息子など、一つ蹴り飛ばして追い出してやろうと思っていたのに、できず仕舞いで結局そのまま夜を明かした、図体だけは立派だがまだまだ子供だと、今朝方玉章にぽつりと愚痴をもらしたらしい。

「そーそー。そろそろ教えてもらわないと」
「お、教えるって、何を」
「巨乳か微乳か中くらいか、とかさー。それくらい、いいだろ?」

 きょにゅーとかびにゅーとかチューくらいとか。
 ここまでくると既にリクオにとっては異星人の言語だ。

 だがとにかく何か言わなければならないと、ひたすら手元だけはせかせか動かしながら、

「……びにゅー?」

 己の異星語が合っているのかどうかわからないまま、口にしてみた。
 昨日の夜、ふと眠りの淵から浮かび上がったところで目の前に見つけた、はだけた寝巻きの奥で見つけたあれはそれとしか言えないように思えたから。

 玉章がそれ見たことかと、にやり、笑う。

「ほら、やっぱり貧乳じゃないか。僕の見立て通りだ」
「えー。そうかなあ、華奢だけどそれなりにありそうな感じだぜ、姐さんは。おいリクオ、ほんとか?ちゃんと揉んで確かめたか?」
「……誰も、貧乳とは言ってねえ」
「え?」
「だってお前、『微乳』って」
「びにゅうはびにゅうだろ」
「…………」
「…………もしや、リクオくん、『び』は『美しい』方かい?」
「うん」
「なんだよ惚気かよ、ったく、つまんねー。すんげーつまんねー。つかすげーなんかむかつく」
「奇遇だね猩影くん。僕も今、そこはかとなくこの大将を鬱陶しいと思ったところだ」

 何か間違ったことを言ったらしいが、何が間違っていたのかわからず、ひたすら、賄い処に満ちた皆の溜息を、お前等聞いてたのかと恥ずかしく思いつつ、別に悪いことなど何一つしていないのに、むしろ何もしていない事の方こそを責められているような ――― まさしくその通りなのだが ――― 申し訳ないような気持ちになりながら、最後の大皿を一杯にしたとき。

「アンタたちッ!なんて話してんのよッ!」

 噂の雪女の一喝が轟いた。

「おやおや、見つかったか、じゃあ僕はこれで。お膳、もらってくねー」
「茶釜狸、天汁くれ。おぉ、今日の飯もうまそー。リクオ、いただいてくな。飯かっ込んだら、バイト行ってくる」
「おう、行ってらっしゃい」
「ちょっと、玉章、猩影、逃げるんじゃないわよ!ってもー、いないし!」
「つらら、そう目くじら立てるなよ」
「だ、だって、アンタたち、わ、わ、私の、胸のこと……!」
「どうせ冗談だ、気にするな。俺のことからかって、遊んでんだよ」
「あーもー、だから、男所帯って嫌なのよ。汚いし、臭いし、エロ雑誌多いし、カップ麺ばっかり食べるし」
「オレは読まんし、食わんぜ」
「アンタの事を言ってるんじゃないの!アンタがちゃんと躾しないから、手下どもが増長してるんでしょうが!ちゃんとしてよね!だいたい、他のどこに大将が自ら台所に立つ組があるっていうのよ、おかしいでしょ!」
「そうかい」
「そうよ」
「オレはここ、好きなんだ。みんな、なんでも美味い美味いって食いやがるから」
「逆でしょ、普通」
「お袋が昔、台所に立ってたこと、思い出すし」
「………そういう事、言わないでよ。怒れなくなるじゃない。もう仕度は終わったのよね?なら、もういいでしょ、あんまり立ちっぱなしは良くないわ」
「わかってる。もう終わった」
「明日は病院で検査なんだから、早いところ夕飯食べて、お湯を使って、休みましょうね、リクオさま」

 守子への愛しさも、恋する男への愛しさも、別々に育っていたはずの想いを、たいして戸惑いもせずに雪女は一人への感情として纏い変えてしまい、ちょっとアンタと怒鳴ったと思えば、こうして優しくリクオの前髪をかきあげていたりするので、伏目屋敷の者どもとしては、もうじれったくて仕方が無い。
 とっとと二人、祝言を上げておさまるところにおさまってくれれば、雪女は姐さんとして迎えるに相応しい女傑であるし、一家の先も安泰であるのに、この二人だけが全くその気が無いというか、あつかましくもまだまだ淡い想いのつもりであるらしいのだ。


















...三千世界の鴉を殺せ...




















 そろそろ帰ろうと、病室からエントランスへ歩いていたときです。
 視界の端に何かがよぎったような気がして、私はそちらに目を向け、すぐにやめておけばよかった、気がつかない振りをして通り過ぎてしまえばよかったと、軽い後悔を覚えました。

「久しぶり。お前もどっか悪いのか?」

 そちらを見た瞬間、あちらも私を見つけてしまい、目が合った途端にそのひとが、こちらに軽く手を上げたので、もう見て見ぬ振りをすることもできなくなってしまったのです。
 同じ高校に通う、同級生でした。上級生の不良たちと喧嘩しているだとか、そういうチームを率いているだとか、良くない噂も、聞いたことがあります。
 話をするようになった今だから、噂だけで判断するのはどうかとも思いますが、今このときはそのひとの事を、私はあまり良く思えませんでした。
 銀色に染めた髪は派手ですし、背が高くて少し怖いし、それに。

「ううん、母さんとこからの帰り。猩影くんは?」
「ああ、お前のお袋さん、ここに入院してんのか。俺は付き添いだよ。連れが今、色々検査してる。お袋さん、その後どうだ?」
「何も変わらへん。良くも、悪くも」
「そうか。……早く良くなると、いいな」

 こんな時に、やはり彼は私のことを何も知らないのだなと想い、嫌になってしまうのです。
 折角、話をするようになったのだから、嫌いになどなりたくないのに、嫌になってしまうのです。
 通り一遍の優しさなんて、何の意味もないものなのに、彼は学校の教師や多くの同級生がするような、ありきたりな同情しか私には向けてくれない。でもそれも当然なのです、私は本当に平凡で単純な高校生で、特別美人でもなければ、特別頭が良いわけでもないし、彼にとっても教師や同級生たちにとっても、ただの通りすがりのような者に過ぎないのですから。
 小説ならば、登場人物の欄に名前も乗らない、名前をつけるほどの存在でもない、それが私です。

 彼を通して私が嫌いになるのは、彼自身ではなく、きっと彼の目に映る私自身なのでしょう。

 彼は本気で心配してくれているらしいのに、私は彼がいうように、あの女が早く良くなればいいなんて、ちっとも思ってはいないのです。
 学校帰りにここへ寄り、あの女が横たわるベッドの脇で一人抱えた本の頁をめくりながら、時折、あの女の顔を見やるたびに、今度こそ死んでいないだろうかと期待し、変わらずぼんやりとした視線を己の足下に投げている女を確かめて失意を覚えているのですから。

 私は嫌な人間です。
 それは私がよく知っています。

「今度弥生とかほかの奴等も混ぜて、帰りがてらどっか行こうや。たまには気晴らしも必要だろ?」
「うん、おおきに」

 そこで話を切り上げ、私がいよいよ離れようとしたときです。

「そこに居るのは誰?」

 声変わりを終えたばかりのような、まだ少し幼さを残す少年の声でした。
 声そのものが見えるものであったなら、その声はそのとき両手で私を包み込んでいたに違いありません。普段街で呼びかけられても、自分へかけられた声だとは思えない私なのに、この声だけは不思議に、私に向けられたものだと、わかったのです。

 声の主の方へ目を向けると、そのひとはさっきまで猩影くんが立っていたあたりの廊下に、車椅子に小さな体を預けて、じいと虚ろな視線をこちらへ向けているのでした。
 視線が合いません。
 そのひとの視線は、私を捜そうとして、でもかなわずにすり抜けていきます。
 もどかしい感触でした。
 なぜか、少し悲しくなりました。
 同時に、そのひとが私を捜すのを諦めて、使えない目を閉じてしまったときには、つめていた息をほっと吐き出すほど、安心してもいました。

「リクオ、もう検査、全部終わったのか?」
「……弟さん?」
「あー、まあ、そんなモンかな。下宿先の奴でさ。リクオ、このひとな、俺の同級生で、弥生の親友の本の虫。ほら、お袋さんが……って、前に話したことあったろ。でもこいつすげぇんだよ、学校の図書室の本、全部どこに何があるのか知ってんだぜ」

 少し驚きました。
 猩影くんが私のことを、そんな風に思っているとは。
 本なんて興味がなさそうなひとなので、私は彼とは、話せるようになった後も仲良くはなれないだろうと最初から思っていましたし、逆に彼も私になど興味はないだろうと思っていたのに。

「ああ、弥生さんのお友達の、あのひとか。こんにちは、猩影くんの下宿先の保護者です。よろしく」
「おいおいおい、誰が保護者だよ。てめ、生意気言うな」

 二人の言い分に、私はくすりと小さく笑いました。
 笑ったのは、本当に久しぶりでした。
 途端に、誰彼へも向けていた警戒が解けていき、リクオくんが、小さな手をそっと持ち上げてこちらに握手を求めてきたときも、何の警戒心も持たずにその手を握り返してしまったくらいです。
 リクオくんも、私の手を握り、ふうわりと微笑んでくれました。
 何だか、あたたかい心地になる、優しい笑みでした。
 中学に上がったばかりくらいでしょうか、まだ細い首をかしげた拍子に、金褐色の髪がやわらかく覆います。
 ふわふわとした髪は、やわらかそうです。

 でも、その時間は、そう長く続きませんでした。
 私がリクオくんの手を握り返し、その手の小ささや腕の細さに不安を覚えたのと同時、それまで気にならなかった車椅子の後ろの人影が、私を警戒する視線をぶつけてきたのを、感じ取ったからです。

 弾かれたようにリクオくんの手を離して、今度はそちらに目を向けてみると、車椅子の後ろから冷たい妖気を纏わせて、着物姿の綺麗な女のひとがにこりともせず、私に冷徹な視線を向けているのでした。
 車椅子を押しているので、リクオくんのお姉さんか何かなのでしょうが、近づく者がリクオくんの味方かそうでないかをまず判別しているような、尋常ではない視線でした。
 そうして、私はどうやらそのひとに、味方ではない、と思われたらしいのです。
 ぞくりとしました。

「姐さん、こいつは悪い奴じゃねぇですよ」
「うん、わかってる。でも、ねぇ、その鞄に入っているものは何?」

 鈴を転がすような声でした。
 同じ女であるのが嫌になるような、立ち姿も声も、本当に美しいひとでした。
 狐様も美しい御方でしたが、同じ黒髪でもこのひとは、妖しげな艶やかさというよりも、誰に触れることも許さない、真白な冷徹さ、潔癖さが際立つ美しさでした。

 そのひとの、これまた綺麗な指が、ついと私の鞄を指すので、私はこれを庇うように胸へ抱き寄せ、いやいやをするように首を横に振り、

「猩影くん、私もう行くね。それじゃあ」

 挨拶もそこそこ、彼等に背を向けて立ち去ったのです。
 そうすると、雪のように清く無慈悲なそのひとの冷たさは、己が守る尊いものから遠ざかるのであれば深追いはしないとばかり、張り詰めていた気を緩めたので、私は、凍えそうな寒さから、夏の暑さの中へ生還できたのでした。

「あ、待って」

 すがるような、リクオくんの声が背中から追ってきました。
 柔らかであたたかな大きな手、そう思わせる声が、私を包もうとして、けれど彼は目が見えないから、私をつかまえられません。
 それでも、彼は私を追おうとしたのか、車椅子から立ち上がろうとしたのが、肩越しに振り返った先で見られました。
 危ない。
 どう見ても、生死の境目からこちら側へ戻ってきたばかりなのだろう小さな体が、己の体すら支えられない足のせいで、床に崩れ落ちそうになりましたが、とっさに猩影くんが支えて抱え上げたので、事なきをえました。

 無事であることを確認してから、私はリクオくんをもう少し見ていたいと駄々をこねる自分の目を、ちぎるようにして前を向かせ、いよいよ病院を後にしたのです。

 病院のエントランスから外に出て、駐車場を横切り、じりじりとした太陽の熱に照らされながらバス停まで、全速力で走りました。
 ずっと、鞄を胸に抱えたまま。
 取り上げられぬよう、抱えたまま。

 息を切らしてバス停にたどり着き、まもなくやってきたバスに乗ってしまってから、私は、自分がおそれているものが一体何なのかを考え、そして、不可解だと感じました。

 私はあの着物姿の女のひとを、怖い、と思いました。
 リクオくんを守ろうとする真っ直ぐな気持ちが、痛いほど伝わってもきました。

 でも、いちばんにおそろしいと思い、座席に座ってからぶるりと体をふるわせる原因になったのは、どちらかと言えば、リクオくんの視線、さらにその声、そして触れた手の方だったのです。

 浮かべる笑みも、落ち着いて考えてみれば、子供が見せる表情ではありませんでした。
 泣いているような、憂いているような、許しているような、悲しんでいるような。

 もしもあの目が開いていて、私をちゃんと見つめたなら、私は逃げられずにあの場で全てを話してしまっていたかもしれません。
 母が早く死ねばいいと思っていることも、汚濁にまみれた此の世界なんて、先日弐條城にあらわれた闇の渦に飲まれて消えてしまえばよかったと思っていることも、そして、私をとらえて離さない、あの闇の世界への入り口のことも。
 話せば、リクオくんはあの小さくて華奢な手で、私が放り投げたもの全てを拾い上げ、私に必要なものだけをより分けてくれることでしょう。あの柔らかな笑みを向けて、それでいいよ、大丈夫だよと、赦してもくれることでしょう。
 でも駄目です、いけません。
 私は。私は、そんな赦しなど。
 求めてはいけない。求めてはいない。
 だって、母が死ねばいいと思うことを、願うことを、やめられはしないのですから。
 反省などできないのですから。
 毎日毎日、母のベッドの側で、今はもう暴れることもない代わりに、何も語らず何も見なくなってしまった生きる屍を前に、今この口に毒薬を流し込んだら、全て終わるのではないかと、想い描いているのですから。

 ともかく、私は彼の手から逃れられたようです。

 抱えていた鞄に力を込め、きゅ、とさらに抱き寄せました。

 狐様。
 いけないと思いつつも、あの妖しく美しいひとに想いを馳せました。
 此の世は汚濁に満ちている。
 あのひとが言ったとおり、今も、此の世は汚濁に満ちています。
 私も、そのうちの一つなのです。

 おそろしいと感じたのは、リクオくんがもたらす光に照らされてしまうと、そんな汚濁全てを、自分のものすらもそこに暴かれて、隠しておけなくなることなのです。

 彼の目が見えなくてよかった。

 思った自分を、また、嫌いになりました。










「あのひと、何かに憑かれてる」

 車椅子から立ち上がろうとしただけで、全速力で走ったような息づかい。
 その奥から声を振り絞る少年に、雪女が柳眉を寄せたのも仕方がなかったろう。

「ええ、何か憑いてたみたいです。のこのこ近づいてくるから焦りました。あの女、全く憑かれてる自覚が無いのでしょうね。それとも、わかっていて憑かれているのか。リクオさま、妙なものを伝染されてやしませんか?握手なんてしてましたから、帰ったら念入りに手を洗わなくちゃ。あんまりばっちい物に触っちゃいけません」
「そんな事言っちゃだめ、それに、あんまり人間を驚かしちゃいけないよ、つらら。あのひと、あのままじゃ取り殺されちゃう。急いで追いかけなきゃ」
「あいつ、そんな妖気漂わせてたか?俺、全然気づかなかったけど……」
「ほんの小さなものだったから、猩影くんはわからなかったんでしょうね。大妖になればなるほど、負けるはずもない弱い気配には疎くなるもの。鞄の中からとくに強く感じたから、付喪神か何かだと思うわ。
 付喪神の類なら、手にした人間次第で手放すことも簡単でしょう。リクオさまが心を砕く必要は一切ありません。そんな人間とすれ違うたびに手を伸ばしてたんじゃ、いつまでたっても休めやしませんよ。ろくに立ち上がれもしないのに、どうやって追いかけようって言うんです。今はまず、ご自分の体のことだけ考えて下さいな」
「でも……」
「でも、じゃないの。聞き分けなさい」
「……はぁい……」
「いい子ね。今日は一日検査だ何だとお疲れになったでしょう、早くお屋敷に戻って、お夕飯前に少し眠りましょうね」
「うん……」

 リクオ以上に大切なものは無い、他の人間が悲しんでも苦しんでも知ったことではない、残酷なまでに愛し子に一途な雪女だから、このように無理にでもうんと言わせられるのだろう。
 守られる側も懐かしい己の守役だと思えば、ぴしゃりと叱られてしまうとそれがどんなに大人げない叱り方だったとしても、自分の方こそが聞き分け無い駄々をこねているように思えて、いつもは通していたはずの無理でも引っ込めてしまうらしい。
 この場に彼女がいなければ、目も見えず一人で歩けもせず、座っているだけでようやっとの体であったとしても、今頃猩影はリクオを連れて彼女を追っていただろう。そう思えば、雪女が京都に残ってくれて本当に良かったと、思わずにはいられない猩影である。
 伏目屋敷には、大将へ駄々をこねる子供にするような物言いができる妖など、いやしないのだから。

 渋々諦めたらしいリクオを安心させるため、猩影は自らこの仕事を引き受けることにした。
 雪女が言ったように、朝から一日検査だなんだと病院の中のあちこちを出たり入ったりしていたことから、今は疲れからの睡魔に目を擦っているリクオだが、一眠りして夜姿になれば、やはりあれは放っておいてはならないと、厳しい顔で言い始めるに違いないのだから。

「リクオ、あいつのことなら、猫たちに頼んで見張っておいてもらうよ。何かあったら報せるし、俺の同級生でもあるからさ、任せといてくれや」
「うん。お願いするね、猩影くん。あのひとのこと、前から気にはなってたんだ。お母さんもあんな事になっちゃって、まだ目を覚まさない原因はきっと、ボクにあるはずだから」
「あの場はああするしかなかったんだ、お前が気に病むことじゃねぇさ」
「あら、お知り合いには見えませんでしたけど」
「こっちの姿は初めて見せるひとだから、あのひとは気づかなかったんじゃないかな。前に会ったのは、夜だったんだ。あのひとと、あのひとのお母さんが、羽衣狐に生き肝を取られそうになってて、その時にちょっとね」
「その時にも、自ら手を差し伸べられたのですか?」
「そりゃあ姐さん、見るもの聞くもの放っておけねぇのがこいつだもん。わかるでしょ、俺達の苦労」
「あきれた。それなら尚更に、命を助けただけで充分な御利益ではありませんか。いいえ、これ以上は無いほどの恩恵ですよ。あんな小さな付喪神程度、払ってやる必要もありません。気分を変えて持ち物を変えれば、付喪神の方から別の宿主を探しに行きますとも。何でもかんでも助けてやろう、救ってやろうとなさるのはご立派ですが、リクオさまは強欲すぎます。わきまえなさいませ」
「ボク、欲張りなんだ」

 食べたいものはと訊かれて答えられたためしすら無いくせに、同じ口でふふふと笑いながらそんな事を言うので、雪女の目尻がちょっぴり上がった。

「ご自分が食べるものにこそ、それくらい欲張って下さったらいいのに。にくらしいこと。……つららとの今朝の《約束》、覚えてくださってます?」
「ええと……夜に食べたいもの、何か一つ考えておくこと、だっけ」
「そうです。決まりましたか?」
「うんと……つららのご飯なら、なんでも」
「それは駄目だと最初から申し上げたはず」
「あの。もうちょっと、考えてもいい?」
「いいですよ。帰りがけにお買い物を済ませてしまおうと思ってますから、そのときまでに考えておいてくださいね。必ずですよ」
「けけけ。姐さんにかかっちゃ形無しだなぁ、大将」
「うぅぅ………」

 幼くして伏目稲荷鎮護の任を預かり、人としては陰陽師として多くの相談事を持ち寄られ、妖としても異界の者どもに頼られ一家を構える花霞大将が、雪女にかかるとまるで小さな子供のように宥められ世話をされているのが面白く、猩影もまた小さく唸るリクオの頭を、大きな手でがしがしと撫でてやった。
 ただの悪ふざけではない、撫でる感触はやわらかで優しいものだ。

 もう少し頼ってくれればいいのに。もう少し弱くあってくれたらいいのに。
 甘えてくれたら、せめてもう少し狡くあってくれたなら。
 花霞一家の誰もが思い続けていたことで、猩影もまた、昼だけとは言え、己の大将がこうして己の力を頼みにしてくれるのが例外無く嬉しいのだ。

 早世の呪いは消えたらしく、昼姿で雪女の看病を受けながら横になっているだけで、日毎に咳は減り、血を吐くことも今はない。
 二、三年前から花開院家の呪いを引き受けていたので、その間はまるで成長しなかったように、華奢というよりやせ細った痛々しい姿であったけれど、これも雪女が根気強く、こまめに一口膳を用意するなどしたおかげで、目覚めたばかりの頃より、顔色もずいぶんよくなった。
 何より伏目屋敷の者たちが嬉しく思うのは、大将が母君を亡くされて以降、昼の如来姿でもその名の如く、胸が痛くなるような大人びた笑みか、何かを懐かしむような灯火のような微笑しか見せてはくださらなかったのが、雪女がそこにいると、彼女のちょっとした悋気や悪びれぬ過保護ぶりにいちいち困った顔を見せたり、たまらず笑ったりと、年相応の少年に戻ってしまうことである。

「姐さんは茶釜狸みたいに適当な返事で許しちゃくれねーからな、せいぜい悩んで食いたい物、考えとけよ。
 そんじゃ姐さん、俺そろそろバイトだから行きますけど、この後、花開院のおっさんがひとり迎えに来てくれますんで。陰陽師だけど、医師免許も持ってるっておひとだから、大抵のこたぁわかるでしょ」
「花開院灰悟さんよね、たすかるわ。正直、検査の結果を私一人でちゃんと理解できるか不安だったの」
「……そんな風に、ひっきりなしに付き添いなんてなくても、ボク大丈夫なのに。結果くらい、ちゃんと聞けるよ。耳はなんともないんだから」
「ちゃんと聞くってのはな、治る方法まで聞き出してくるって事を言うんだ。結果だけ聞いた後、ふうんそうですか、で終わらせそうな奴が何を言ってやがる。姐さんがいなかったら、医者にすらかからず目が見えないことも隠し通してたくせに」
「呪いの後遺症だから、放っておけば治るだろうって思ったんだもん」
「リクオさま、いけません。呪いが消えた後に傷を癒すなら、人間の御体もお持ちである以上は、人間のお薬を飲んだり、お医者にかかったりして少しずつ治しませんと。夜の間だけ傷を癒すのではなく、昼の間も癒せるのなら、治りもより早いものでしょう。ね、つららの顔を陽の下で見て下さるんでしょ?」
「……うん」

 お熱いことでと冷やかしつつ、今度こそその場を後にした猩影は、エントランスのところで二人をもう一度振り返った。
 土曜の午後、人気のない病院の待合いで何か言葉を交わしたついでにくすりと互いに笑い合ったり、長くかかった検査に疲れたリクオが眠そうにこくりこくりと舟をこぎ始めると、雪女が己を支えにして長椅子に少年の体を横たえさせるなど甲斐甲斐しく世話をしているところを見れば、あまり心配は無い様子だった。

 玻璃の桜が咲き続けることを、願わずにはいられない。
 父は、あれが自分たちにとっても奴良組であると言ったが、父と自分は違う。
 しかし、自分はちゃんと、父と同じものを見つけたはずだ ――― 抗争の始末がついたら、リクオの言う通り、実家に顔を出して報告をしようかと、ふと思った。
 ともあれ、今は、バイトと役目の方だ。

 氷の棺が溶けるほどに回復したと思ったら、昼姿の方では目も見えず一人で歩けもしない体であったので、これほどまでに神仏を厚く信ずる我等が大将に、どうしてどの神仏もまるで見向きせずにいるのか憤ったものだが、今考えてみれば、これは働き過ぎの大将に、慈悲深い御仏が少し休めと仰せなのかもしれない。

 エントランスを出た後、猩影は少し考えて、やめた。
 考えるのは不得手だと心得ている。
 だから花霞一家にはもう一人の副将、参謀役の玉章がいるのだ。
 けれども猩影はそれを、御大将が己を軽んじるゆえだとは思っていない。
 玉章の不得手が、己は大得意だからだ。

 エントランス脇の花壇で遊んでいた仔猫をつかまえ、ビスケット一枚で猫又どもへの言伝を頼み、次に携帯でメールを ――― と、これも途中で面倒になり、直接電話をかけてみた。
 相手は間もなく出た。

「弥生、今、ちょっと頼んでもいいか?その……今、京大病院でリクオの付き添い終わったところでさ、そこであいつに会ったんだけど。何か様子がおかしいんだ」

 誰彼にでも頼って力を借りることを、玉章はよく思わないために何でも一人でやろうとするが、猩影には逆に、力を借りられるのなら誰のものでも借りようとする人懐っこさがある。
 この役目には自分が向いているだろうなと、少し自信もあった。