あれは本当に、夢だったのでしょうか。

 夢でも見たんじゃねぇのか、と、猩影くんには言われてしまいました。
 本ばかり読んでいるから、空想の魔物とやらが夢の世界で襲いかかってきたんだろう、たまには書を捨てて街にでも出やがれと、大笑いまでされました。

 怖い夢を見たんだねと、弥生ちゃんは慰めてくれました。
 お母さんがあんな事になっちゃって、辛い想いをたくさんして、だからきっと、怖い夢を見ちゃったんだよと、夜通しのお喋りに付き合ってもくれました。
 弥生ちゃんのおじさんもおばさんも、いつでもご飯を食べに来てねと言ってくれて、お風呂は広々としていてあったかくて、私は久しぶりにお腹いっぱい食べた上に身綺麗にもできました。
 弥生ちゃんの部屋で、弥生ちゃんの隣に敷かれた布団は、とてもいい匂いがしました。
 猩影くんに馬鹿にされたときには少し腹がたったのですが、弥生ちゃんに言われると、やっぱり夢だったんだと少し納得もできました。
 昼間のうちに猩影くんに笑われて腹をたてたのも、信じてもらえなかったことへの苛立ちではなく、自分の子供っぽさを笑われた恥ずかしさ、つまりは安心からであったのかもしれません。

 しばらくは、それで良かったのです。
 疎遠になっていた弥生ちゃんとも、仲直りができました。
 猩影くんのように、本を読まないひとでも、優しい心を持っているんだと、知ることもできました。
 けれども、毎日のように意識を取り戻さない母親の側にいると、次第次第に、私はこう思うようになってしまったのです。

 あれは、本当に、夢だったのだろうか、と。
 夢でよかった、一度はそう安心したはずなのに、やはり夢だったとわかると、欲が出てしまうのです。
 特に、病院から帰るときには、強く、強く。
 男と二人で自動車事故に逢った母親が、怪我が治った後も魂を抜かれたようになって一言も話さなくなり、今も病院のベッドで虚ろな目をじいと己の足先に投げかけている様を、夜が明けるまで忘れることはできず、夜が明ければ明けたで、今日もまた学校に行き、夕方にはまたその光景を見なければならない、そんな生活を繰り返していると、どんどん、そんな欲に溺れてしまいそうになります。
 そんなときに、夢なんかじゃなければよかったのに、と、そう思ってしまうのです。
 夢ではなくて、本当に狐様が実は闇夜に棲まう人知を超えた御方で、母親を、夜毎にいちゃいちゃしている男ともども、殺して下さっていたならよかったのに、と。

 暴力をふるい。
 酒を飲んで暴れ。
 私がバイトで稼いだ金を奪い。
 男を次々連れ込んでは、汚らわしい声を上げる。
 そんな女など、死んでしまえば良かったのに、と。

 夢の中では、確かにあの女、死んだはずなのです。

 あの日。私の悪夢の中では。

 悪夢。
 そうだったのだろうと、思います。

 でもどこからどこまでが夢だったのか、よくわからないのです。

 私の手元には、狐様からお借りした御本が、まだ残っています。
 読むのが勿体無くて、一頁ずつ丁寧に読んだというのに、それでも一週間もしないうち、すべて読みきってしまった後も尚、御守のように手放せず、毎日鞄に入れて持ち運んでいます。
 狐様が薦めてくださったので、特別な想い入れがあります。  詩集なので、それほど重いものではありません。
 この一冊の本が、狐様の存在が夢でなかったことを、教えてくれます。

 では、どこからどこまでが、夢だったのでしょう。





 あの日、私が学校から帰ると、いつものように母親は、リビングのソファの上で、男と絡み合っていました。

 その男は、父ではありません。父になる予定もありませんでした。
 父がどういうひとだったのか、私は憶えていません。
 母親は、女を作って出て行ったと言うけれど、本当にそうなのか、私は知りません。
 父が居なくなったのは、私が本当に小さな頃だったので、どういう事情があったのかを私は知らず、ただただ、毎日のように、どうして今日も父が帰ってこないのかを不思議に思うばかりでした。尋ねるたびに母に打たれたので、幼い私もやがて、理由を尋ねなくなりました。

 何故出て行ったのか、理由はどうあれ、父が私と母親を捨て、今も迎えにこないことは事実です。
 この母親が、私から金を巻き上げ、さらには私など産まなければ良かったと、男にしなだれかかりながら言うくせに、私が帰らなければ打ち、帰れば帰ったで何かと難癖をつけては打ちするので、私の心はすっかり疲れ、どんどん狐様に傾倒していきました。
 狐様は、お優しい言葉をくださいました。
 優しく、私の心を癒してくださいました。
 此の世は汚濁に満ちている、私の母親もその一滴であり、母親となる資格がなかった女だと、断じてくださいました。
 ええ、そうですとも、あんな母親なんて。
 死んでしまえばいい、死んでしまえばいい、死んでしまえばいい。
 そう願い続けていた相手を、汚濁だと言い切って下さった狐様は、私にとって女神のような御方でした。

 高校で一番の友達の弥生ちゃんが、狐様を怖がってしまい、家に強盗が入る事件があってからは、まるでそれを、何の関係も無い狐様のせいにするような事を言って、私を狐様から遠ざけようとしたので、それからしばらくなんだか疎遠になってしまいましたが、逆に私はさらに狐様をお慕いするようになり、あの日も、私は母親の男に乱暴されそうになって飛び出した後、まっしぐらに狐様の元へと向かったのです。
 狐様なら、狐様なら、助けてくださる、私に触れた汚濁を清めてくださる。
 中学校からの友達である弥生ちゃんではなく、最近知り合ったばかりの狐様を、私は頼ったのです。

 狐様は、私を、狐様の館の娘にしてくださると仰せくださいました。
 そんな家に戻る必要はない、この屋敷の娘になるが良いと、迎えてくださいました。
 必要なものだけを取りに戻ろう、そう仰って下さって、わざわざ、家までついて来て下さいました。
 あんな野蛮な男の目に、美しい狐様をさらすなどと、心配する私を宥めて、ついた先の家で ――― 。

 母親が、私が男をたぶらかしたと罵りました。
 男は、何もなかった、未遂だったとけらけら笑いました。
 母親が、男を罵りました。子供に手を出すとは何を考えていると罵りました。
 男は、子供ではない、体は立派な大人だが、お前の方はいつまで女のつもりだと笑いました。
 世界は汚濁にまみれていました。
 ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
 私は耳を塞ぎ、しゃがみ込み、それでも続いていた言い争いが、不意に止みました。

 ごとりごとりと何かを落すような重い音がして、次に絶叫が。
 それもすぐに止みました。

 私が目を開けて、何事かと辺りをうかがうと ――― 家の中の光景は一変していました。

 男の首が、ごろりと床に転がっていました。
 母親が腹から血を流し、恐怖に目を見開いて、腹にぽっかり開いた虚ろな穴を見つめて、口をぱくぱくさせていましたが、声は出ず、ひゅうひゅうと、こちらもぽっかり喉に開いた穴から、風が漏れ出るばかりでした。
 世界の汚濁の色は、深紅に変わっていました。

 穴を開けた凶器は、狐様の九尾でした。
 美しい漆黒の御姿の背に、ゆらゆらとゆらめく狐様の尾が、見えました。 
 ああやはり、やはり、この御方は、裁きの力を持つ御方であったのです。

 その綺麗な尾で、汚濁の一滴を、払って下さったのです。

 私は呆然としていたので、狐様が何を仰せであったのか、よくわかりませんでした。

 ただ、狐様の手が私を招いたように見えましたので、ふらふらと、誘われるように一歩二歩と近づいて ――― 。

 夢の中のことですので、場面が突然変わるのはよくあることです。
 その次の瞬間、私の体は仮面をつけた、深灰色の毛皮の、大きな化け物に抱かれていました。
 目の前に、狐様がいらっしゃいました。
 あんな御顔を、見たことがありません。
 いつも慈愛深く微笑んでいらした狐様が、その時見せていたのは、おそろしい御顔でした。

「何故、邪魔をする、花霞」

 怒りは、私ではなく、私の前に立つひとに、向けられていました。
 明かりの消えた部屋の中でも、月光のように輝く長い銀色の髪が、見えました。

 綺麗。
 そう、想いました。
 狐様も、汚濁をすべて飲み込んでくださる、深い闇の美しさがあるけれど、この銀色は ――― 世界にもまだ綺麗なものがあると、こんなに疲れきってもまだ信じたがる往生際の悪い私の心に、無言で寄り添ってくれるようでした。

「畏れ多くも、羽衣狐様に申し上げる。こう立て続けに摘み食いされたのでは、陰陽師どもが騒ぎ立てして煩わしくてたまらない。もうすぐ《その刻限》だというのに、警戒を強めさせるようなもの。さして興味もない娘でしょう、ここはどうか、御静まり下さらないか」
「フン、陰陽師どもなど、貴様等が悉く狩ればよい。妾が気にかける必要など無いわ」
「仰せはごもっとも。しかし中には既に、お屋敷の妖気に気がつき、探りを入れようとする輩もおります。蟻や蛆虫のごとき卑小な奴等とは言え、数にはいささか辟易とする。鵺様がお生まれになり、業火で地上の穢れもろとも卑小な者どもを焼き尽くして下さるまで、どうか今しばらくご辛抱いただきたい。余興の始末なれば、この花霞にお申し付けいただければいくらでもいたしますゆえ、どうか」

 その、銀色の髪のひとは、狐様の前に膝をつき、深く頭を下げました。
 首にかけていた水晶の数珠が動きを追って、はらりと床を撫でたのが、お月様が流した涙の滴のようで、何だかとても綺麗でした。

 その様子を、狐様は、厳しい目で見つめていましたが、やがて。

「余興か。確かにそうさのう、多少《霊感》があるというだけでは、お主が持ってきた生き胆のような濃厚なもの、甘露のようなものには中々行き着かぬ。そろそろつまみ食いにも飽いていたところじゃ、お主に免じて、この場は預けてつかわそう」
「お気遣い、ありがたく」
「お主の生き胆選別の妙技を、知りたいような気もするがのう。どうじゃ、そこな男、女、そしてこの娘 ――― あのように濃厚な味となるような者がおらぬか、嗅ぎ取れはせぬか。深い闇を抱えた生き胆を、まずは選別するのであろう?」
「選別にはそれ相応の時間を要します。恥ずかしながら、この身の通力は貴女様のように強くはございませぬ。選ぶにしても、この場では、とても」
「なに、間違えたとて咎めはせぬ。伏目明王殿の通力で、この三人の内、誰が一番、絶望という闇に染まった胆を持っているか判じて見せよ、その胆のみで免じてやる。お主がその手で抉り、妾に献ずるのじゃ」

 狐様の言葉に、夢の中で私は震えました。
 絶望という闇 ――― 私が、それに囚われていないはずはない。
 私の毎日は絶望だらけです。
 母親、暴力、汚濁、逃れられぬ恐怖、そればかりです。
 私は、私が選ばれるだろうとばかり考えていたので、狐様の前に伏していたそのひとが、一つ嘆息した後、諦めたようにすっくと立って振り返ったそのとき、夢の中で、死を覚悟したのです。

 そのひとが振り返ったので、そこで初めて御顔を見ました。
 そのひとが纏っていたのは、平安時代のひとたちが纏っていたような着物で、手にしていたのは一振りの杖。
 伏せた目元が、銀色の光を散りばめた陰を纏い、それがすいと開くと、アガットのような真紅の瞳が、こちらに向けられました。
 妖しのひとたちは、どうしてこうもおそろしく、美しいのでしょう。
 私はいつしかガタガタ震えながら、そのひとから、目を離せなくなっていました。

 でもそのひとは、私の横を素通りすると、腹からどろどろと血を流して座り込んでいる、母親の方に近づき、その側へ膝をついたのです。

「この三人の中で選別するならば、一番に絶望に染まっているのは、この女でしょう」
「ほう。何故、そう思う」
「この酒の量。酒で絶望からの逃避を望み、しかし酔いが醒めればつきつけられる現実。酔っている間にしでかした咎を、己で受け止めきれるほどの器などなく、再び酔いの中へ逃げる。そのくせ一人ではいられない、死のうとも思えない、誰が悪いのか、己以外に理由を求めて、己の身から生まれた娘に咎を着せ、自己嫌悪のすべてをぶつけていたというあたりでしょう。やり直そうと考えたことも幾度かあったかもしれませんが、その度に挫折し、深く沈み、信心を失った、そういうニオイがいたします」
「そちらの男はどうじゃ」
「その男も同様のニオイはいたします。しかし、この女を食い物にする側であっただけに、食い物にされていたこの女を上回る闇色は、《視》られませぬ」
「では、この娘はどうじゃ」
「論外です、羽衣狐様」
「ほう………何故、そう思う。その娘は《霊感》とやらの持ち主らしいぞ」
「人間も、若いうちはそういった力を持ちやすいもの、さして珍しいことではございますまい。そういったただの《勘の良さ》と《通力》は、似て非なるもの。それに若い娘が絶望するのは、先にある希望の大きさゆえ、裏返しの闇が濃く現れ出でるようなもの。表向き項垂れていても、それは鳥籠の中で羽を広げられぬと涙するだけのもの。一度籠から出れば、おのずと、光を見出しましょう。その種を内側に秘めているうちは、まだまだ、喰い頃とは言えませんが……お試しになりますか?」
「ほぉう、なるほどのう ――― 伏目明王の名は伊達では無いということか。衆生をよう見ておる」
「いずれは羽衣狐様と鵺様がお治めになる世の民草を、飼い慣らすための手段の一つと御思いいただければ、光栄に存じます」
「可愛いことを言うわ。どれ、ならばその女の肝を持て」

 悪夢の中では、粛々と事が行われました。
 そのひとは、私の目の前で、私の母親の ――― 死んでしまえと思い続けたあの女の ――― 胸に白い腕を突き刺すと、取り出したピンク色の肉の塊を、懐紙の上にぼとりと落とし、恭しく狐様の前に献じたのです。
 私など、狐様や彼にとって、そこらに転がっている酒瓶や、ひっくり返った屑籠と同じでした。
 意志などなく、あったとしても、溝鼠の意志など誰も気にしないように、彼等にとって私は、そういうモノでしかなかったのです。
 なのに、不思議でした。私は変わらず、多分、あの明王さまの使い魔でしょう、深灰色の大猿の腕に抱かれているのです。
 まるで、守られるように。

 その私の目の前で、狐様は、ぺろりと私の母親の肉の塊を、おそらく心臓を、食べてしまわれました。
 少し目を細め、ふむ、と仰せです。

「なるほど、確かに、ぎゅうと濃いものがつまりかけたあの味はするが、それほど、良い味ではないのう」
「この三人の中では、一番に濃いものであるはず。しかし足りぬのでしょう。肉は腐る寸前が美味いと申しますが、生き胆は、人が外道に堕ちるその寸前か、あるいは菩薩如来に昇華されるその寸前が美味いらしい。この三人は、外道に堕ちるにはまだ遠い。もちろん菩薩如来の気配など、微塵も感じられない」
「ククククク ――― なるほどのう、面白いものを見せてもらった。お主は中々良い《目》を持っておるなぁ、伏目明王殿。お主の胆はどのような味がするのか、興味もあるが……まぁ良い、妾は帰る。任せたぞ」
「御意にございます」
「おお、そうじゃ忘れておった」

 狐様は踵を返そうとされ、その直後思い出したように振り返りました。
 途端、背後でうねっていた尻尾の一本が、明王様を横から張り飛ばし、壁にたたきつけてしまいます。
 あの、お優しかった狐様が。
 いいえ、これは悪夢です、悪夢なのです。

「妾の前に立ちふさがった無礼は、これで許してやろう」

 ぐしゃりと奇妙な音がしましたが、銀色の髪のその人は何事もなかったかのように、床の上で居住まいを但し、深く一礼しただけでした。

 その後がどうも、判然としません。

 夢の事ですから、場面が突然変わったりするのは当然なのですが。



 ――― 夢だよ、全部。悪いものは連れて行くから、だから、目を瞑って、もうお休み。



 あの、銀の髪のひとが、立ち上がって優しく私の目をその手で覆ったのも、夢だったのでしょうか。
 その手で、母親の胸をえぐったはずなのに、血の臭いも一切させず、ただ桜の花が、瞼の裏で綺麗に舞っていました。

 ともかく、私は気がつくと弥生ちゃんの家の客間に寝かされていて、目を開けると、弥生ちゃんと、弥生ちゃんのお父さんとお母さんが、顔を覗き込んでいました。
 よかった気がついて、と、弥生ちゃんが私に抱きついて、わあわあと子供みたいに泣き出してしまいました。

 聞くと、私は弥生ちゃんの家 ――― 神社の境内で、泣き伏して眠っていたらしいのです。
 裸足のままだったのは、あの男に乱暴されそうになったとき、無我夢中で家を飛び出したせい。
 悪夢の内容があまりのものだったので、私の心は少し麻痺していて、恥ずかしいとも信じてもらえないかもしれないとも思わず、男に乱暴されそうになって家を飛び出したことから、母親が銀色の髪の伏目明王というひとに、生き胆を抉られたことまで、すっかり話してしまいました。

 おじさんとおばさんは、困ったように顔を見合わせ、やがておじさんが、それは夢だよと言いました。

 それは夢だけれど ――― 悪い知らせがある。君が家を飛び出した後、お母さんと、その男のひとはどうやら車でどこかへ行こうとしたらしい、そこで事故にあったんだ。

 聞いたとき、ああ、あの二人はやはり死んだのだと、納得しました。
 夢のように思えたけれど、狐様はあの男を片付けてくださり、あの母親は、銀色の髪の明王さまに、胸を抉られて死んだのだと。
 しかし、おじさんが言うには、男の方は即死だったけれど、お母さんは病院に運ばれて、命はとりとめたというのです。

 だから、私は、やっぱり夢だったのだろうかと、思うしかなかったのです。

 夢だったのか、夢ではなかったのか ――― 。

 私は家を飛び出した後、狐様のお屋敷に行かず、弥生ちゃんの神社に行って、そこで泣きながら眠ってしまった、そういうことなのでしょうか。





 そうだと言い切れないのは、あの日から間もなくして訪れた、京都の異変のためです。
 今はもう、避難していた街の人々も戻ってきましたし、ニュースでは、原因不明の広範囲に渡る地盤沈下が原因だと、あれこれ頭の良い人たちを解説に招いて特集していましたが、私にはどうしても、そうだとは思えないのです。

 私は、街に漂う黒い気配が何か、うっすらわかっていました。
 人ではないもの、多くの人には見えないものの気配が、日を追うごとに満ち満ちていくのを、これまでの日常が、非日常と入れ替わってしまうのを、感じ取っていたのです。
 学校は休みになりました。
 多くの友人たちが、親戚を頼って京都の外へと避難しました。
 でも、私には、頼れる親戚などありません。
 行く宛てもないまま、私が毎日通っていたのは、母親が入院する病院でした。
 別に母親のことが好きなわけではありません。
 ただ、母親が家に居た頃、帰りが少し遅くなると打たれていたので、癖がついているだけなんだと思います。
 幸い、病院には他にも、動かせない患者さんたちがいるからという理由で、お医者さんや、看護婦さんたちが残ってくれていました。

 家の周囲の方が危険だと言われたので、しばらく病院に寝泊りさせてもらったのですが、あの夜、私は病院を取り巻く気配に目を覚まし、再びあの、銀色のひとを見たのです。
 伏目の明王さま。
 初めてこの方の夢を見た後に、気になって調べてみると、ここ数年でその噂は広まったといいます。
 いつからか伏目山に住まうようになった明王さまが、京都に蔓延る悪人どもを慧眼で見定め、警告を受けても尚、悪事を続けるようであれば、その悪人は三日後に、《神隠し》に合うというのです。
 逆に、警告を受けて心を入れ替えれば、明王さまのお導きか、それまで八方ふさがりであったように思えたことが上手く行って ――― 働き口が見つかったり、激しい借金の取立てをしてきた闇金業者がいつのまにか潰れていたり、遠くの町に住んでいた親戚から数十年ぶりに手紙や電話が来て気にかけてくれたり ――― 人生をやり直せるのだと。

 その明王さまが、病院を取り巻く黒雲のような蝗の群れから、病院を守るように、病院の庭の木の梢に、ただ一人、立っていらしたのです。
 バチバチと、稲妻のような光が、闇夜のあちこちに散っていました。
 私はいてもたってもいられず病室を飛び出し、屋上目がけて駆け抜けました。
 外へ出ると、空一面が、黒よりも黒い闇色になって、星一つなく、ざわざわとしたあの気配が、周囲を取り巻いていました。

 火花を散らしていたのは、よく見れば、多くの御札です。
 宙に浮いた数多くの札が、病院を囲んで、黒雲から守っているのです。
 しかし、長くは持ちません。蝗が群がるとほどなくしてはじけて火花を散らし、宙に霧散してしまいます。
 稲妻のような光は、御札が散るそのときの光でした。

 明王さまはその度に、新たな札を袖から放っておられるのでした。

 私が屋上から、明王さまの姿を目で追っていると、あちらもやがて私に気づき、風に乗った花弁のように、ふわりと空を翔けて、私の目の前に舞い降りました。
 言葉など、出てくるわけもありません。
 目を見開いたまま、私はそのひとを、見つめ返すだけで精一杯です。

「病院の中の奴等は全員、眠らせたはずなんだが ――― アンタの《霊感》とやら、本物みたいだな。身を守る術も知らないのにそんなにフラフラ出歩くなんて、喰って下さいと言わんばかりだ、もう少し気をつけた方がいい。アンタは、実に美味そうなニオイをさせる。外の奴等がここに群がる理由がわかったよ」

 灯火のように小さく笑いかけてくださったので、私はそれだけで胸が一杯になり、ろくに話すこともできませんでした。
 怖いことを言われたようですが、朦朧としながらここへたどり着いた身分では、恐怖すらろくに感じられず、私は明王さまの、お優しい瞳を見つめ返すしかできませんでした。
 狐様もお優しい方でしたが、前回の悪夢の中では、私にとって怖ろしい御方となっていました。
 この明王さまは、その悪夢から私を助けてくださった御方です。
 元々、何を訊きたいわけでも、何を言いたいわけでもなくて。
 そう、御礼を申し上げるべきだったのに、それもその時は口に出てきませんでした。

 目の前で黙ってしまった私を、明王さまは安心させるような、柔らかな声色で続けられました。

「もうすぐ助けが来る。結界の中を、あいつ等は見ることはかなわない、アンタが見つかる心配もない。ここに居れば安心だ、心配することはない。目覚めればアンタと、アンタの母親は、もう安全な場所にいる。だから目を瞑ってな」

 そうしてまた、私はその手で目を覆われて ―――

 気がつくと、今度はどこかのお寺の広い座敷で、そこには私だけではなく、病院に居た人たちが移されており、座敷のあちこちで、お医者さんや看護婦さんが忙しそうに動き回っているのでした。
 母親も、私の隣で、座布団の上で変わらぬ虚ろな瞳を天井に向けており ――― 。
 夢。
 こんな夢を何度も見るものだろうかと思いつつ、そう思わざるをえませんでした。
 私を捜しにきてくれた弥生ちゃんが、同じ学年の猩影くんと一緒に、座敷の入り口から泣きそうな声で私を呼んでくれたので、現実に連れ戻されたような気もしました。

 このお寺には、重い病気で病院から逃げられなかった人たちがたくさん居て、私のような付添い人が居ても、お邪魔になるだけだからと、私はそのまま、弥生ちゃんの家にご厄介になることになりました。
 前日の晩に見た伏目明王さまの話や、その前に見た母親が心臓を抉られる話を、道すがら二人にしたのですが、そこで猩影くんに、大きく笑い飛ばされてしまったのです。

 弥生ちゃんも、少し迷って、人ではないものがいるということも、それを《視》る不思議な力のことも嘘だとは思わないし、明王さまの噂も知っているけど、でも、それは夢のままでいいんじゃないかなあと、戸惑いながら言いました。

 だから、私の中で、これ等のことは夢だと、そういう事に片付いたはずだったのです。
 そう、しばらくはそれで、良かったのです。





 一度は、悪夢であったことに安堵もし、悪夢のせいで狐様のお屋敷を訪ねることをやめてしまった私なのに、最近は疲れのせいでしょうか、やっぱり、夢じゃなければよかったのにと、思ってしまうのです。
 あれが夢ではなかったのだとしたら、狐様は怖ろしい御方だったということになります。
 あれが夢ではなく現実であったのだとしたら、狐様は私の心臓を、食べようとしていたということになります。
 でも ――― あれが夢ではなかったのだとしたら、明王さまが助けてくださったのも、本当だったということになります。

 此の世に、人ではない妖の世界があって。
 妖の世界がほんの少しだけ、こちらの世を侵食してしまった ――― それが、世間では原因不明の大規模地盤沈下だ何だと騒がれていることの、本当のところだったとしたら ――― 本当に、彼等が存在するのだとしたら ――― 。
 ――― 。
 だからと言って、私の生活に何か変化があるわけではないのに、私は、狐様のような方が、あるいは明王さまのような方が、おわすことを望んでしまうのです。

 重荷でしかない母親を、汚濁だと一蹴してくださる狐様。
 狐様の厳しい仕打ちから、私をたすけてくださった明王さま。

 その方々を前にして、無知で無力な私に、一体何ができると言うのでしょう。

 何もできやしません。何もできやしないけれど。

 毎日毎日、再開した学校へ通い、バイトへ行き、病院へ寄って、変わらず、ベットの上で物言わぬ肉塊と化した母親の側にいるよりも、いっそ、この生活が終わってくれた方が、よほど。
 罰当たりな考えです。
 この前の、京都異変で、多くの方々が亡くなったことも知っています。
 でも思ってしまうのです。
 どうして、生きていたかった人たちが死んで、惜しまれる人たちが死んで、私のように、さして生き続けることに魅力も感じない、死んでもたいして惜しまれもしない人間が、生き残ってしまったのだろうと。

 私も、汚濁の一滴なのです。

 あのとき、狐様に手招かれるまま近づいていたら、狐様は私を、此の世から払ってくださったかもしれません。
 明王さまさえいらっしゃらなければ、私はあの場で、終わっていたかもしれません。
 終われたかもしれません。
 折角、助けていただいたのに、素直に感謝できないなんて。
 明王さまもきっと今頃、不甲斐ない私を助けてしまったことを、後悔しているに違いありません。

 明王さまに救われたひとは、人生をやり直せる ――― それはその人たちが、そうなるべくしてそうなった人たちだからでしょう。
 行くあてもなく、やり直せるような人生も無い、未来など見えない、私は気がつけば今日もまた、狐様がお住いだった洋館を訪れているのでした。

 狐様がお住いだった洋館は、京都異変以降、無人の館となっています。
 立派な門の鍵は開いたまま。
 両開きのエントランスドアもまた、鍵がかかっていません。

 あの悪夢を見た以降、私は狐様の洋館を訪れるのが怖くなり、そうこうするうちに京都異変に巻き込まれてしまったので、狐様が今頃どうしているのかもわかりません。
 近々、休学のご予定があるというお話はされていたので、もしかしたら海外などへ留学されているのかとも思いましたが、それにしても、館に住んでいた人全員で向かうということなど、あるのでしょうか。

 しかも、無人の館はまるで、何年も前から人など住んでいなかったかのように、あちこち朽ち、錆び、狐様が私を招いて下さったときの煌びやかさなど嘘のように、侘しいものとなっているのです。


 狐様の出会いそのものも、夢であったかのように。



 夢だよ、全部。目を瞑って、もうお休み。



 その言葉を思いだす度、もうここへ来るのはやめよう、夢だったかそうでなかったかはともかく、何か悪いものを見たには違いない、だからもう、夢だったことにしてしまおうと思いました。
 けれど結局、その後も私はこうして、この屋敷に足を運んでしまうのです。

 目的は、エントランスの奥にある、地下への階段にあります。
 この屋敷があることを、誰も知らないかのように、無人になった後で荒らされた様子はありません。屋敷のいたるところが朽ちているだけで、以前にも見たことのある銀の食器や書斎の立派な机や、壁にかけられている宝飾の類はそのまま、主が姿を消したと同時に眠りについてしまったかのように、無言で在るべき場所におさまっています。
 地下にある書庫の本棚も、整然と並んだままです。
 私の目的はいつも、この書庫にありました。
 狐様も読書が好きだと仰せでした。私が本を買うお金が無いことを知って、ならば自分の屋敷にある本をいくらでも、好きなときに持っていくといいと、仰ってくださったのです。
 もちろん私は、泥棒なんてしません。
 いつも一冊だけお借りして、読み終わったら、ちゃんとここへ返していました。
 この館が、無人になってからも。
 狐様が、自ら薦めてくださった、鞄の中にある詩集を、除いては。
 おかしなことだと、わかっています。無人の屋敷に、本だけが以前と同じように在るなんて。
 ――― 私の、普通の人たちより鋭いらしい勘も、ここは少しおかしいと感づいています。
 ここが、他の場所よりも暗い場所に近い、闇への入り口。
 夢だったはずの、夢であったに違いない、狐様や明王さまとの、唯一の接点でした。

 今日の私は少しばかり急ぎ足で、鞄を抱き締めたまま、この書庫に駆け込みました。
 もう病院を出てから、ずいぶん経っているはずなのに、言い知れぬおそろしさが追いかけてきているような気がして、たまりませんでした。

 書庫へ入り、耳が痛くなるほどの静寂に包まれて、ほうと息をつき、またいつものように、読み終わった本を書棚に戻し、読みたい本を一冊だけお借りする作業へ入ろうと、気を取り直した、そのとき。



 パタン。



 音がしました。

 本を閉じたような音です。

 その後僅かに、何かを擦るような音もしました。
 馴染み深い音なので、それが本を棚に仕舞う音だと、すぐにわかりました。
 誰か、いるのかもしれません。

「………誰か、いるの?」

 最初は、私と同じように、狐様にこの書庫に招かれていた人が過去にもいるのかもしれない、狐様を懐かしんで、ここを訪れたのかもしれないと思い、そっと声をかけてみました。
 しかし、返事はありません。
 次に思ったのは、これだけ立派なお屋敷なのですから、泥棒が目をつけて入り込んだのかもしれない、あるいは無断でここに住み着いた人でもいるのかもしれない、ということです。

 けれど、どちらでも、ありませんでした。

 パタン。パタン。パタン。

 本を閉じる音がします。近づいてきます。

 パた、パた、パた、パたたたたた……。

 やがてこれに、頁を捲る音が混じり、私にもこれが人がたてる音ではないと、わかってしまいました。
 これは、違います。いけません。
 純粋無垢な悪意が、近づいて来る音です。
 本当におそろしいときは、悲鳴などあげられません。
 すぐに引き返そうと思っても、足など動きません。
 私は、この音の正体が良いものではないと感づいていながら、否定したい気持ちに騙されて、その場に立ち尽くしているだけでした。

 パたたたたたたたたたたたた……!

 音は足音にも似て、近づいてきます。近づいてきます。
 やがて私の目にも、それが見えました。

 向こう側からこちらへと、書棚の本が一冊ずつ飛び出しては元の位置に戻ったり宙を舞ったりしながら、例の気配は近づいてきます。
 見えない何かが、風のようにそこを駆け抜けながらこちらへやってきているのです。
 大きな気配に圧倒されて、僅かにつんのめった拍子、二歩三歩と後ろへよろけていなかったら、私はそこで終わっていたかもしれません。
 実際のところ、私は書庫の重い扉に背をまかせ、半開きのドアが私の体重に押されて向こう側へ開いたのを気づけずにいたので、最初は重さで耐えていた扉が、やがて勢いをつけて外側へ開いたところで、背中から倒れこみ転んでしまいました。
 目の前に迫っていた何か大きなものの気配が、仰向けに転んだ私の上を、突風のように通り抜けたのは、その時です。

 見えました。
 半透明ながら、腫れあがったような歯茎から鋭い牙を生やした ―――― 巻物、のように見えました。
 マントかカーテン、いいえ、それよりももっと大きな大きな、緞帳のように大きな巻物でした。
 黒い気配を纏いながら私に飛び掛ってきた巻物は、私がそうだと断じたところで、はっきりとした姿を模りました。
 手足を生やし、さらに大きな牙を生やした口までくっつけた、薄気味の悪い、此の世のものではない、悪夢そのもの。

 そうです、私が、夢だろうか、夢かもしれない、夢であってほしい、でももしかしたら、夢ではなかったのかもと、思い続けたものが、目の前にありました。

 私が倒れていなければ、大きく広がった口に、ばくりとそのまま食べられてしまっていたことでしょう。
 倒れたことで、命拾いしました。
 しかし、それで終わりではありません。
 通り過ぎたはずの巻物は、私のかわりに重い扉をがぶりとやってひしゃげさせてしまうと、空中で反転し、再び私に向かってきたのです。

 やはり。
 ええ、やはり、そうです、そうなのです。
 夢では、なかったのです。

 恐怖。ただただ、恐怖。絶望。なのに、その底にあったのは ――― 歓喜。

 そう、ここで終わるのね。
 私の絶望はここで終わるのね。
 虚ろな母を見つめるだけの日々が、これで終わるのね。
 やはり夢ではなかった。狐様も、明王さまも、やはり夢ではなかった。
 世界の汚濁を払う御方も、赦す御方も、此の世におわす。
 最後にそれがわかったのなら、もう私には、何も、何も、ありませんでした。

 何も、無いはずだったのですが。

「 ――― 危ない!」

 うっすらと笑みさえ浮かべて、自分の死を見つめていた私を、横から突き飛ばした人がありました。
 あやうく、引き返してきた巻物が、またも私をとらえ損ねて、すぐ脇を掠めていきます。

「……ううっ」

 痛みをこらえる声が、私の鼓膜に届きました。
 その声は、私がよく知る人のもので、途端に私は我に返りました。

「や……弥生、ちゃん……?」

 私に覆いかぶさるようにして突き飛ばしたその人は、私がよく知る人。
 一時は疎遠になってしまいましたが、中学の頃からの親しい友達です。
 その人が痛みを堪えて歯を食いしばっているのです ――― 鋭い刃が掠めたのでしょう、弥生ちゃんのカーディガンの肩口が、真っ赤に染まっていました。

 私は我に、返りました。
 先ほどまでの歓喜が途端に、このままでは死んでしまう、死にたくないなどと、あまりに身勝手なものへと裏返りました。
 言葉になる前の上ずった悲鳴ばかりを漏らして、弥生ちゃんの名を呼び、助け起こし、先ほどの妙なものがまたこちらに飛んで来る前にこの場を離れなくてはと、二人で走れるだけ走りました。
 エントランスドアまでの、僅かな距離です。
 けれど、素早く動き回り自由に宙を舞う巻物の化け物にとっては、獲物を捕らえるに充分な間隙だったのでしょう。
 すぐに追いつかれ、ふくらはぎに、焼け付くような激痛が走りました。
 引き倒され、弥生ちゃんから手を離して、ずるずるとまた書庫へ引きずられます。
 もう自分が何を言っているのか、どんな声を上げているのかもわからず、遠くで誰かが、助けて、助けてとみっともなく泣きじゃくっているようでした。そうやって泣きじゃくっているのは、泣きじゃくるしかなく、助けて助けてと言うしかないのは、そんなに無力なくせに絶望しきれない駄々っ子は ――― 私でした。
 弥生ちゃんがすぐに追いついて、私の手を掴んでくれました。
 持っていた巾着から、何かを取り出しました。白い砂です。
 これを手掴み、容赦なく私に足元に投げつけると、巻物の化け物はたまらず怯み、私の足を離しました。

 私はもがくように立ち上がり、痛みなど忘れて弥生ちゃんと二人、再びエントランスホールを横切ります。
 背後から、もがいていた巻物の怒りの声が追いかけて来るのが聞こえました。
 振り返りたくなどない、振り返ればきっと絶望が口を開いて待ち構えていることでしょう。
 なのに、すぐ背後から耳に吹きかけられた臭い息にたまらず、私は振り返り、目にしてしまったのです。

 腐れた息の奥、私たち二人を一飲みにしてしまいそうなほど大きく開けられた口の中には、きっと巻物に綴られた人の念が地獄となって、渦巻いていたのです。
 その中にある一人の女と目が合ったとき、私は、今度こそはっきりと大きな悲鳴を上げました。
 嫌。嫌。嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌。
 死ぬのは嫌。

 そうです。私は今更、そんな当たり前の事を。

 でも駄目です、私たち二人には、こんな化け物に抗う力なんて無く ―――

 私は、きっとここでこの化け物に喰われて ―――

 毎日のニュースに流れる、行方不明リストの中に、私の名が連ねられて ―――

 やはり私は、何者にもなれないまま。
 誰にとっても、特筆すべきと想われる人でないままに。

 ――― そんなのは、そんなのは、嗚呼、嫌なのに。

 嫌。嫌。嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌。
 そんなのは、嫌。私はまだ、生きてすらいないのに。

 私は弥生ちゃんが掴んでいた巾着を奪い取り、それを、巻物の口の中に放り込んでやりました。
 いくらか時間稼ぎにでもなれば ――― とさえ考えぬままの、苦し紛れの行動でしたが、効き目がありました。
 妙なものを飲み込んだ巻物は、皺の部分の怒るような目を見開き、途端に噎せたのです。
 塩辛い息が、私たちの背を押しました。
 巾着に入っていた白い砂は、お清めの御塩だったのです。
 またも命からがら、救われた私たち二人ですが、この巻物は、塩を飲み込んでもせいぜい少し立ち止まるだけでした。
 何度も阻まれたために、今度こそ、真っ赤に燃えるほどに怒りを孕んで、唸りを上げて私たちに襲い掛かってきました。
 弥生ちゃんと二人、エントランスドアの両脇に組みついて、せいのでドアを開きます。
 あんなに簡単に私を招いた扉なのに、出るときには岩のように硬く、ぎぎぃと蝶番が軋んだのも、大きな生き物が口の中に飛び込んだ獲物を逃がさないための歯軋りに聞こえてなりませんでした。
 二人で力を込めて、ほんの少しだけ開いた扉、希望の光。
 背には、迫る化け物の牙。
 私は、私は、もう死にたくなんか、ありませんでした。
 誰でもいい、誰か、誰か助けて。

 呼応するように、開いた扉から躍り出た大きな影が、私の髪を掴んだ巻物の手を、大きな鉈でごっそりと切り落としてしまいました。
 大きな影は、深緋のフードにすっぽりと顔を隠していました。
 顔には、不動能面。
 大きな手は毛むくじゃらで、その手に握った大鉈は、その人の背丈ほどもありました。
 そのひとは、そうです、見覚えがあります。
 伏目明王さまに付き従い、私を狐様から守ってくれたひとです。
 そのひとが、あれほど私たちを執拗に追いかけた巻物が、今度は素早く身を翻し逃げようとしたのを許さず尻尾を捕まえ、えいやと大鉈を一閃させると、巻物はぴたりと動きを止めて、なんと、空中で灰のように消えてしまったではありませんか。

 私は、助かりました。
 助かってしまったのです。
 ああ、よかった ――― よかった、明日は日曜日だから ――― お買い物へいくついで、お母さんの病院へ行って ――― きっとまたあの母親は、目なんて覚まさないのだろうけれど ――― ああ、夢ではなかった、狐様も、明王さまも ――― 明王さま、明王さま、どうかお救いください、私は此の世の汚濁です、汚濁なのに、何の意味も無いのに、生きていたいと願ってしまったのです、あさましい、卑しい、汚らしい、何の価値も無い人間なのに、あんな母親なんて死んでしまえばいいと何度も願うような、嫌な人間なのに ――― 今、こうして、ほっとしてしまっているんです ――― 夢ではなかったことに恐れおののきながら ――― 明日は日曜日であることに安心して ――― 。
 目の前の、不動能面のそのひとが、仮面を外して振り返ったのを、ぼんやり滲んだ視界に認め、私はそのまま、気を失ってしまいました。