こんな真っ昼間のうちからリクオが起きて外出したのは、あの京都抗争以来、初めてのこと。
 おかげで、検査が終わった後は疲れてしまったらしく、結局は検査結果を聞く前に人気のない待合いの隅のソファで、雪女の膝を枕に身を横たえて眠ってしまった。

 すうすうと、穏やかな寝息をたてるリクオに、幼い頃の若様の面影がたしかにあって、この髪をそっと撫でてやっていると、雪女は十年前に時を遡ったような錯覚に陥るのだった。





 明王姿の方では、奴良組二代目を巻き込んだ京都杯以降も、陽が落ちたと思ったところで目覚めては、咳をしながら起きあがり、あれこれ細々した用事を片づけようとしては、雪女のヒステリックな一喝に気圧されたり昨日のように宥められて寝床へ追いやられていたものだが、昼間の少年の姿のままで目覚めたのは、明王姿に遅れること一周間後のことだった。

 しかもこちらは流石に妖の体とは違い、咳込むだけでは終わらず、氷の棺から生還したはいいものの、高い熱とあちこちの痛みはそのまま、おまけに目も見えないままであったので、しばらく入院した方がいいのではないかと、花開院の義兄や副将たちが彼を囲んで相談し合ったほど。
 その方が、良い治療も受けられるだろうし、食事の心配もない、この屋敷に想い入れがあるのはわかるが、しばらく養生すれば帰ってこられるのだから。
 それがいい、やむを得まい、ではそうしよう、と、一時は当人の意志を訊くことなく決まりかけた。
 伏目屋敷の主たる少年が、己の体のこととなると全く頓着しなくなるので、周囲がより気を使ってやらねばならないためであったし、また、周囲がそうするべきである、そうしなさいと定めた事柄に対しては、およそ反論というものをしたことがない聞き分けの良い少年だから、いつものように、お義兄さまたちの仰せの通りにいたしますと、頷くに違いないと思われていたためでもある。

 しかし、この時は違った。
 床から上半身だけを起こし、脇息にほとんど身を預けるようにしてこの話を聞いていたリクオは、蚊が鳴くような声で、「入院は、ちょっとだけだけど、嫌だなぁ、しなくちゃならないかなあ」と、俯きながら呟いたのだ。

 反論ではなかった。

 決定であると申し渡せば従ったろう。

 だがそうはならなかった。

 珍しい末弟の呟きに、目を丸くするばかりの義兄たちの中で、竜二は即座に、わかったやめようお前が嫌ならそんなところになど行かなくていい、ちょっとでも嫌だと思うことは何一つしなくていいと、表情一つ変えずすぐに決定を翻したのだ。
 ゆらももちろん、一も二もなくこれに賛同し、そうや少しでも嫌なら、無理することあなんてあらへんわ、そんなとこに放りこんだりせぇへんから、安心しぃと優しく笑った。

 秋房は、何を馬鹿なことを言っているんだ、こんな状態で家に置いておいたら死んでしまうかもしれないぞと竜二の胸ぐらをつかみかけたが。

 雅次が、でもリクオが自分のことでちゃんと嫌って言うの珍しいやん、一年に一度あるかどうかやん、よっぽど嫌なんだろうな、そんなトコ追いやって心が参った方が難儀と違うか、と至極まともな意見で竜二の肩を持った。これを聞いた玉章も、うちの大将の場合はとくに心の力が治癒力の強さに比例するからねぇと頷くので、秋房は最後に、花開院家で唯一、医者の家系である灰悟に、年長者として、また医者としての意見を求めた。

 灰悟がリクオには外科的手術が必要とは思われないことを前置きした上で、まだ混乱がおさまっていない中で病院に移したとしても、さしたる治療は望めないだろうし、むしろリクオが安心して眠れる場所で、滋養のある食べ物と薬で養生を続けた方が効果があるだろう、病院が正常に機能するようになるまでは、自分が血液検査と薬の処方くらいは行うからと約束したので、秋房もいくらか安堵し、雪女に、弟をくれぐれもよろしくと何度も念を押した上で、渋々、リクオの処遇に頷いたのである。

 この時の雪女は、陰陽師たちが集まっている座敷というのが恐ろしく、けれどリクオの側を離れるのもためらわれて、少年の小さな背に隠れるように身を小さくしながら様子をうかがっているばかりだった。
 本当に病院へ行かなくて良いのか、ここで満足な治療などできるのかと心配もあった。
 どうして、子供のわがままのような一言、行きたくないの一言で、まとまりかけた話が翻ってしまうのかも、理解しかねた。
 大事な大事な若様を、この人間たちは見殺しにしてしまうのではないかとも、疑った。

 違う、とは、すぐに分かった。

 次の日から、灰悟は朝と晩に一度ずつ、己の勤めの傍ら伏目に通い、点滴治療や内服薬の処方を行い、熱を計り、口にして良い食べ物を茶釜狸や雪女に教えてくれたのだ。
 他の義兄たちも代わる代わる入れ違いに顔を出し、伏目周囲の螺旋の封印が正常に勤めを果たしているのを見届けたり、そろそろ人間どもが町に戻ってくるらしいから気をつけろなどという警告までしてくれもした。

 雪女は、その後数日のうちに、思い知らされることとなった。
 何か口にされたいものはと訊いても、リクオは笑うばかりで首を横に振り、何でもかまわないよと言う。お寒いですか暑いですかと訊いても、大丈夫だよとしか答えない。痛いところはありませんか苦しくはないですかと訊いても、柳に風が吹くようなもので、なんともないと答えては、すぐ後に血を吐いていたりする。
 何かを嫌だと首を横に振ったり、あれが欲しいと指を差す、当たり前のことがまるで、ない。
 いつも微笑んで、時折、部屋をのぞき込む仔狸たちの気配に気づいては、身を起こし、こっちへおいでと手招いて、花札やおはじきなどをして遊んだりもしているから、体の調子は良いのかしらと勘違いしそうになってしまうほどだ。実のところ、灰悟が言うには、簡単な血液検査に見られる限りでも、とてもじゃないが身を起こして笑っていられるはずはなく、身を横たえていても苦しいだろうとのことで、事実を聞いた雪女は慌てて仔狸たちを追い払い、リクオを叱りつけてやや強引に寝かしつけねばならなかった。
 眠れば眠ったで、光溢れる魂にすがろう群がろうとする亡者どもの気配が彼を取り巻き、陰陽師なれば己に群がる者どもなど、滅する術も持ち合わせているだろうに使わないので、つねに雪女がぴったり寄り添い、身をなげうってしまいそうなリクオを、守ってやる必要がある。
 肉体を喰われれば血を流し痛むのと同じで、夢の中であっても魂に噛みつかれ喰いちぎられれば弱るに決まっているのに、昼の御姿の方は夜のそれに輪をかけて慈悲深く、己が立つ蓮の葉の下に沈みゆく亡者どもが恐怖におののき狂ったようにもがきながら伸ばす手を、一人ずつ大事に引き上げてやっては、狂っていた魂が光に溶けて昇華されるまで、傷つけられるのを厭わず腕の中に抱いてやっているのだ。

 こんな風に、昼でも夜でも自分自身にまるで無頓着なリクオが、例え一言でも、嫌だなぁと呟いたのは、なるほど、とてつもない自己主張で、特に本家の兄妹にとってはそれがどんな無茶苦茶でも、尊重しなければならないわがままだったに違いない。
 利他心の赴くところへはどこまでも貪欲になるくせに、利己心を丸ごとどこかへ落っことしてしまってきたらしい彼が、眠りに落ちる間際や夢の中で、誰に聞かせることも無く胸の中で呟いただけの言葉が、どれだけ大切な意味を持つのかも、このとき初めて、わかった。

 もう少しだけ、つららを、見ていたい。

 己の生死にすら無頓着、軽い足取りでうっかり彼岸に踏み入れてしまいそうな彼の、この小さな呟きは、蜘蛛の糸ほどに頼りなくも確かな、此の世への執着であったに違いない。

 十年前にも、己や母に向けられる冷たい視線に気がついていたからか、少し遠慮がちなところはあったけれど、遊びの延長で、屋敷を訪ねてきていた牛鬼に肩車をねだったり、青田坊や黒田坊を巻き込んで悪戯をしてみたり、母や雪女に構ってもらいたくて、台所の入り口から中を覗いては、ねえまだお仕事終わらないのと、可愛らしい唇を尖らせていたことだってあったのに。
 このまま十年前の奴良屋敷へ、この方を連れ帰れたらどんなにいいだろう。
 あのまま奴良屋敷でお育ちになったなら、どんな若様になっていただろう。
 とりとめもない想いはいつも、あの時歌っていた子守唄になって、雪女の唇から溢れるのだった。

 そのときばかりは、眠るひとの魂はただの守子になって、御自分のための眠りについて下さるから。





 結局リクオが目覚めたのは、黄昏時、雪女の腕の中で眠っている間はどうしても気が緩んでしまい、うっかり明王姿へ変じてしまったところでだ。
 目覚めてから、己がいるのが伏目の外だと思いだし、一瞬、ひやりとする。
 起きあがって辺りを見回そうとする前に、しかし目の前で満月のような大きな瞳が、ふわりと笑ったので無条件で安堵してしまった。

「やっと起きた。どこだかわかる、お寝坊さん?」
「……つららの膝の上」

 とりあえず頭の位置について答えてみたものの、これは彼女の羞恥と、別の人間の失笑を誘ったにとどまった。

「灰悟さんの車だよ、リクオくん。今さっき、病院からでたところだ。ぐっすり眠っていたから、私が背負って車に乗せた。本当に一日かかってしまったね、お疲れさま」
「秋房義兄……、あれ、検査結果ってのは?」

 助手席から顔を覗かせた秋房と目が合ってから、自分が雪女に頭を預けて、後部座席のほどんどを使い身を横たえていると知る。
 慌てて起きあがろうとするも、その前に他ならぬ雪女に額を押さえつけられ、横になっていなさいと言われてしまったので、ちょっと身じろぎをしただけで、そのまま体の力を抜いた。

 彼女に甘やかされるのは、嬉しいが、くすぐったい心持がする。

「結果は私がかわりに聞いたよ」

 答えたのは、運転席の灰悟だ。

「経過は概ね順調だった。あとは、伏目についてから話そう」
「うん。ありがとう、小父貴」
「それじゃ、買い物を済ませたらすぐに帰りましょうね、リクオさま。食べたいもの、決まった?」
「………………桃ゼリー」
「よろしい」

 氷の指が髪を梳いてくるのが心地よく、離れていくのが少し寂しい。
 そんなリクオの心の機微を読んでいるのか、雪女は最後に、宥めるように彼の額をぽんぽんと叩いて、そっと席を立った。

「じゃ、お買い物を済ませて来るから」

 まだ道路のあちこちに立ち入り禁止の柵が設けられ、人通りも車通りも常より少ない京都の町だが、さすがに京都駅直結のデパートは一番最初に息を吹き返した。
 駐車場から雪女は灰悟と連れ立ち中へ消えたが、秋房はリクオとともに残った。

 花開院の兄たちが代わる代わるに伏目を訪れ、封印鎮護の術を施してくれる最近なので、雪女はすっかり秋房がそのために同行していると思っている様子だ。
 リクオには、そうは思えなかった。
 少なくとも今日は、わざわざ封印鎮護の一を担う、螺旋封印の筆頭が足を向けてくださるほどの厄日ではないはずなのだから。
 起き上がり、居住まいを正して、

「………何かあったのか、秋房義兄」

 問えば、バックミラー越しの目は、安心させるように柔らかく笑んだ。

「これから依頼人のところに行くついでだよ。何もなければ弟の顔も見に来てはいけないかい?」
「いや、そういうわけじゃないけど、何か勤めでも任せられるのかと思って」
「僕はいつも損な役回りだな。当主は君に直接任務なんて言いたくない、甘やかしのお爺ちゃんをまだまだ気取りたいみたいだし、竜二とゆらに至っては当主の決定すら覆そうとするし、雅次は聞いてない振りがうまいし、おかげで弟の顔を見に来ただけで身構えられるし嫌がられる」
「嫌がってないって。……確かに、少し身構えるけど」
「きっとこれからも、そうなっちゃうんだと思うと兄としては寂しい。今日だって、君に任務を伝えに来たわけじゃないけど、他の連中はそんな事を伝えるのは嫌だって逃げてたからなぁ。まあ、損な役回りを受ける分、当主にはちょっと譲歩してもらったけれど。はい、改めて、君に渡そう」
「……これって」

 布に包まれた長物を、無造作に渡されて握った途端に青ざめる。

 リン、と、結わえた朱の紐に括りつけられていた、鈴が鳴った。

「これ、こんな風にこんな場所で、気軽に渡していいもんじゃないだろう。オヤジさんは、自分の刀と一緒に社に封印されたって言ってたのに。こいつは妖刀通り越して、宝剣の類じゃねーか、受け取れねぇよ」
「自分で作ったものだもの、こればかりは好きにさせてもらうよ。それに、これから君には必要になるはずだ。君は近いうち、奴良組の招きに応じて関東へ行かなくてはならない。玉章から聞いたろう、君の傷が癒えたら、君は花霞一家の大将として奴良屋敷へ赴くと約束したから、奴良組は引き上げたのだと」
「……ああ」
「十年前に君と君のお母さんを追いやった奴等が、君を待ち受けていると思った方がいい。君が妖の血に目覚める前には、それを理由に追い出した輩が、今度は復讐を恐れて逆に、陰陽師であり妖の血を引く君を害そうとしてくるかもしれない」
「なら、余計にこいつを持って行っちゃ、挑発にならないかな。できれば穏便に済ませたい。羽衣狐の草に踊らされていたとは言え、御家のためにと思ってそうした奴等だってあるだろうに。それに、オレが行くのは表向き、あくまで敗軍の将としてのケジメをつけにいくんだぜ。妖を斬る刀なんて……」
「おや、おかしいな。僕は奴良組がちゃんと君を若様だと内輪だけなりとも認めていて、君が十年ぶりに故郷へ帰るのを迎えたいと言うから、君の関東行きに承知したんだ。いいかい、奴良組にとっての穏便だとか、君のお父さんと山吹乙女のことだとか、そういうのは一切、考えないように。君は螺旋封印の八を担う、花開院の中でも要の陰陽師なんだ、軽々しく拾った命を捨てるような真似だけは、しちゃいけない。関東に入ったなら、君は君の身の起こったことを、正直に皆に話せばいい。その上で、何者かが君をさらに害そうとするなら、君自身がその刀を抜くときを決めるんだ。当主や、僕たちが許したものに従うんじゃなく、君自身が自身を守るために。それはそのための刀だ」

 戸惑いながらも戒めを解けば、待っていたように覗いた柄頭には翡翠の宝玉。
 再会を喜ぶように、きらりと一度、煌めいた。

 鶯丸。
 花開院の血脈に、平成の世になって生まれた妖刀鍛冶の天才、秋房が、心血を注いだ最高傑作。
 羽衣狐との戦いにおいては花開院二十七代目当主の名において、花霞リクオに貸与されたものだ。

 本来、花開院家に属する法具や術具は、いくら陰陽師といえども己のものにはならない。
 用があるかどうかは当主が判断し、危急のとき、必要に応じて各人の能力に見合ったものが委ねられるのみ。

 危急とは、すなわち京都やそこに住む人々の危急であって、決して己のものではない。
 リクオの戸惑いを先回りしたように、秋房が続ける。

「元々僕は、そのためにその刀を打った。妖を討つためでも、羽衣狐を倒すためでもなく、君に使ってもらうことだけを考えて、その刀を鍛えた。だから名前も、《鶯丸》とした。いつか鬼童丸が自分の身を、桜の若木を見守る年経た楠なんて言ってたからね、だったら君の枝にあるべきは、美声の鶯だろうと思って。誰かに使ってもらうことを考えながら刀を打ったのは初めてだったから、それは《試作品》としか言いようが無い。そうして多分、私が今後、誰かに持ってもらうために刀を打つことは、もう無いと思う。
 リクオくん、それは君のためだけに打った、君のための護り刀だ。抜かずに京都に帰ってこられるのなら、もちろんそれが一番いいのだけれど、必要なら、迷わずに抜いてほしい。鶯も君の手によるのなら、きっと美しく囀るだろう。
 私が君に、兄としてできることは、これくらいだ」

 リクオには元々、関東へ帰る、というつもりは、無かった。
 奴良屋敷に対しては懐かしい、帰りたいという気持ちもある。
 けれど、近いうちに奴良屋敷へ向かうのは、幼い頃を過ごしたあの屋敷への、故郷への、帰郷が目的ではない。
 あくまで表向きは敗軍の将として、筋を通しに行くためのつもりだった。
 新たに封印が施された京都が、妖怪どもが好き勝手には歩けない聖域となるとは言え、関東を支配下におく奴良組の手下どもが、それでも手に入れようとしないとは限らない。
 日本の首都が東京になってから久しいと言えども、日ノ本の国の中心は、やはり京の都なのだ。
 羽衣狐という驚異が消えたところを狙い、我こそはと先走る者があるかもしれない。

 そういった輩に、この京都は羽衣狐のものではなく、新たに生まれた者どもと、新たな秩序の元に集うものたちが静かに暮らす場所であり、花霞一家は花開院に京都守護職を任されてもいると、初代と二代目を通してしらしめにいく必要がある。
 ありがたくも二人が己との血の繋がりを未だに大切に想ってくれているらしいので、シマ争いをせずとも、多分知恵を使って京都への手出し無用を、手下どもに周知してくれるだろう。あつかましい願い事と承知しつつも、そこは京都の妖たちのためにも頼らせてもらうつもりだった。
 そのついで、昔懐かしい顔ぶれに二言三言挨拶をすれば、早々に退散しようと考えていたのである。
 そう長くは、預かっている封印の土地を開けられはしないし、伏目屋敷の全員を連れては行けない以上、早く帰ってこなければ皆も寂しがろう。
 自由に動き回れる夜のうちに日帰りで行って、己の帰郷を喜ばぬ者、復讐を恐れる者どもが動かないうちにすぐ帰って来るつもりだったのに、秋房の言葉はリクオに少しの混乱をもたらした。
 だが混乱しているのは、秋房もどうやら同じ様子だった。

「羽衣狐はたしかに消滅した。花開院の早世の呪いも、奴良家にかけられていた狐の呪いも消えた。鵺は生まれなかった。羽衣狐が消えたのなら、今後生まれてくる危険も無い。だが私には、それで全てが終わったとは思えないんだ」
「それは、どういう……?」
「四百年前に十三代目当主が考案したという螺旋の封印は、再び施された今、確かに淀んでいた地脈をおさえる栓の役割を果たしている。施した後、弐條城の鵺ヶ池は日を追うごとに色を変えて、今では鈴の音が聞こえてきそうなほどに清らな、澄んだ池になった」
「京都一帯を、聖域にする。それが螺旋の封印なんだから、それが正しいんじゃないのか?秋房義兄が守護する弐條城は、螺旋の中心、一番に気が集まるところなんだから、あの地下の水だって清らにもなるだろう」
「そうだね。私も、最初はこれでいい、これが正しい姿なんだと思った。清らな池の姿こそが真の姿、ここが聖域の中心なんだって。……でも、本当にそうなんだろうかと、ここのところ、不安でならないんだよ。京都の真の姿とは、本当はこうではない、どちらかと言えば、螺旋の封印を消去したあの、禍々しい姿こそが、真の京なんじゃないかって。封印は真の姿を捻じ曲げている、だから定期的に施さなければ壊れてしまう、後付の道具なんじゃないかと」
「考えすぎだよ。竜二兄がいつも言ってる。秋房義兄は真面目過ぎるから、もう少し楽観的になった方が疲れないだろうにって」
「まさか、あいつが私を気遣ったりするもんか。本当は何て言ってたんだい」
「……自分と考え方が被るから、鼻について余計に疲れるって。竜二兄が折角黙っていることを、空気を読まずに口に出すって」
「ふふ、そうだろうね、それであいつとはいつも喧嘩ばかりだ。同じことを同時に考えているくせに、あいつは嘘ばかりついて気づいていないふりが上手い。周囲に無駄に危機感を与えるべきではない、悪い予言をする者は予言が当たろうと当たらなかろうと嫌われるとあいつは言うし、私は、悪いことならばなるべく早く告げるべきだと思うし。その竜二は、君に何か言ったかい」
「いや。伏目周囲に祓えの術を施していってくれたり、学校の事であれこれ手続きとってくれたり、あの抗争の中で見失った、側溝にはまって身動きできないでいたウチの小物を見つけて落とし物だって届けてくれたり、あとはいつも通りさ。仏頂面で、さっさと昼の姿の方で過ごせるようになれ、そうじゃないと可愛くない、そうなるまでしばらく関東で奴良家に、伏目の奴等ごと厄介になっていたらどうだ、なんてことも言ってた。破戸もこれから地球の裏側に留学するってときに、オレまで封印を長く離れるわけにはいかないって、言っておいたけど………秋房義兄?」
「やっぱり、あいつも気づいているのかもしれない。私も、全く同意見だ、リクオくん。君はしばらく、姿を隠した方がいいと思う」
「どうして?」
「鵺が……鵺としての安倍晴明が、生まれなくなった。それはいい。けれど、鵺を生みだそうとした者は、それをどう思うんだろう。もしかしたら今頃、それを阻んだのが何者なのかを、探っているんじゃないかと思うんだ。探り当てたら、今度はそれを取り除こうとするかもしれない」
「鵺を生みだそうと、したもの?でも、羽衣狐は、もう……。羽衣狐がいなければ、鵺は、生まれないだろう」
「鵺としての安倍晴明は、生まれなくなった。では、ねぇ、リクオ君。安倍晴明はいつから、鵺となったんだろう。母親を権力者に殺されたときからと言うけれど、ではその母親を殺させたのは誰だったんだろう。母親を慕っていたらしい晴明が、人間に見つかりやすい場所に母親を放置しておくだろうか、何の術もかけずに、野放しにしておくだろうか、大事なひとならばそれこそ腕によりをかけて、結界で守るんじゃないだろうか。なのに、羽衣狐は見つかった。時の権力者に、彼女の居場所を教えたのは、誰だったんだろう。隠された彼女を、誰が、どうやって見つけだしたんだろう。当時から希代の陰陽師として朝廷に知られていた安倍晴明を、誰が出し抜けたというんだろう。
 そもそも鵺とは、何なんだ。僕たちが知るのは、得体のしれぬものをそう呼んだのだと言うことだけだが、彼を鵺と最初に呼んだのは、誰だったんだろう。得体が知れないのではない、安倍晴明が狂気に落ちたというなら、わざわざ別の名で呼ばなくてもいいじゃないか。
 それに、螺旋の封印が初めて施されたのはたった四百年前だ、ならば四百年より前の京都は、螺旋の封印がない状態がデフォルトだったはず。安倍晴明の時代にはもちろん、螺旋の封印などなく、京都は人よりも妖にとって住みやすい、妖が生まれやすい場所だったはずだ。こんな風に、あらゆる気が集まりやすい場所だもの、新しい妖は次々生まれたろう。つまり、この京自体が、昔は大妖を生み出すシステムとして、利用されていたんじゃないかと、私は最近、そんな物騒なことを考えてしまう。
 自分が守っている場所も、本来は聖域なのではなくて、人の愛憎や怨念が集う場所として構築されたシステムの、終着地点なんじゃないか、と。螺旋の封印はその要所に便宜的な栓を、無理矢理施すことで、負の流れを反転させているだけではないか、と。
 だとしたら、この京という都の闇を作ったのも、考えたのも、安倍晴明ではないはず。都は彼が生まれる前に造られたんだから。だったら一体誰が、何のために。決まっている、大妖を生み出すためだ、生み出してどうする、何が目的だ。別の目的があるんだとしたら、鵺はあくまで、その手段でしかないんじゃないか。
 ならば、鵺は、安倍晴明でなくとも、良いのではないだろうか。
 これまで、安倍晴明が一番の候補であっただけで、それが生まれなくなったとしたら、今度は別の何かを、鵺に仕立てあげようとするんじゃないだろうかと………」

 考えてはいても、訪れた平和に喜色満面の皆の前では、流石に話すに話せなかったのだろう。
 秋房は、堰を切ったように話し出し、話の途中でまた己の思索に沈み、そんな己にやがて気づいて、かぶりを振った。

「いや、あまりに突飛な話だよね。今のは忘れてくれ、ここ数年ばたばたしていたから、平和に慣れていないんだと思う」
「……鵺を、生みだそうとするもの、か」

 秋房の言葉を、リクオは今一度、呟いた。
 初めて聞いた言葉ではない。

 窓から駐車場の中を眺めていると、親子連れが少し向こうを横切っていた。
 響く子供の笑い声。

 守ったはずの平和の中に、きっと次なる脅威は潜んでいるはずだ。それは当然だ。だから守り続けるつもりだ。
 けれど今となって、新たな脅威ではない、羽衣狐と安倍晴明を利用した、姿を見せぬ何者かの気配が、忘れかけていた不思議な夢が、現の中でたしかな存在感を放ち始めた。
 不吉な、存在感を。

「そんな奴がいるかどうかもわからないんだ、杞憂かもしれないさ」
「実を言うと、秋房義兄、オレはそれ、初めて聞いたわけじゃないんだ」
「誰か、同じことを?」
「ああ、確かに聞いた。誰かはわからないが、声は男のそれだった」
「どこでそれを?」
「狐の呪いの夢の中だ。墓場の匂い、手足をもがれる痛み、目玉を抉られて何も見えない夢の中で、耳だけは無事だった。そこで、そいつがそんな事を言っていたのを訊いた。夢の意味を判じるのは苦手だから、そのうち、布義姉にでも判じてもらおうと思ってたんだが」
「今夜にでも、すぐに伏目に向かわせよう。どうしてもっと早くに言わなかったんだい」
「竜二兄には、詳しく話したんだ。そうしたら、思春期に見る夢なんか必要以上に気にする必要はない、忘れてしまえって」
「ただの夢、って、そんな無責任な……」

 そんなはずは無い。
 非公式な、噂の域にとどまっているとは言え、リクオは既に伏目明王として信仰の対象となっているほどの通力の持ち主である。
 夢を通じて語りかけてきた者があるというなら、何の意味もないはずは無い。
 竜二の名が出たことで、つい声を荒げかけた秋房だが、バックミラー越しに姿を認められるのは彼の好敵手ではなく、どこかばつ悪そうに鼻の頭をかいている末弟であったので、毒気を抜かれた。

 竜二の嘘つきはいつものことだと、思い直す。
 もしも竜二がそう言わなければ、きっとこの末弟のこと、己の体など二の次に、あれこれと動き回っていたかもしれない。
 それに、竜二に伝わっているのなら、もしかすると本家では既に、夢判じの手配などがされているかもしれない。
 気分を落ち着け、きっと竜二も尋ねただろうと悔しく想いつつ、秋房は口にした。

「それで、その夢でそのひとは、何て?」
「オレの目が夢で開かないのは、無明であるからだそうだ。明かりを見つけてみろと、そう言われた。目を開いてすべからく見よ、そうすれば気づく、とも。そいつが誰だったのか、声が出せずに念じただけのオレにそいつは、まだ名乗れないとそう言った。おれの考えを読んでるみたいだった。鵺を生みだそうとした者に、気づかれてしまうからって。あとはそう……羽衣狐は、今までよりはよほど正しい形で、生まれ変わった、だから狐の呪いは解けたと。とにかくそういう夢だった」
「その後、同じ夢は?」
「見てないよ。最近はつららがどこに行くにもあの調子で、眠りについたらひたすら、朝までぐっすり。あいつ、夢の中にまで連れ戻しにくるんだぜ」

 珍しく拗ねた子供のように「いつまでガキ扱いするつもりだ」と文句を言うリクオが、窓の外に買い物を済ませたその雪女の姿を見つけると、言葉とは裏腹に目を細める。

「妖の世界では、子守も徹底してるんだねぇ。夢路も一人歩きはさせてもらえないんだ」
「だから、もうガキじゃねぇってのに」

 ふてくされたような語尾には、リクオが起きあがっていることを咎める雪女の声が被さって、やがてまた末弟が雪女の膝に頭を預けて横になったのを、秋房は一つ、くつりと笑うだけにとどめてやった。

 桃ゼリーをのぞかせた買い物袋を足元に、またも雪女の膝に頭を乗せてうとうとし始めたリクオを乗せて、灰悟が運転する車はすみやかに駐車場を発進した。
 緩慢に訪れる宵闇に、ぽっかりと白い月が浮かんでいる。
 見えぬ不吉の気配は背に感じるものの、今日という日はかろうじて安らかに過ぎ行くかと思われた。
 帰り着いた伏目屋敷の前、気を失った少女を背に負った猩影と、一行がばったりと出くわすまでは。



+++



「……どうしても、試さなければならないだろうか」

 あれほど、もう一度聞きたいと思っていた、明王さまの、声がしました。
 ぼんやりとしたところを彷徨っていた意識が、それで急に目覚めましたが、どうしたことか、何も見えません。
 起き上がって辺りを見回しますが、辺りは真暗闇のままです。
 私は、目隠しをされていました。慌てて外そうとしましたが、両腕が後ろで縛られているので、それもできません。

「ここは、何処?……どうして、目隠しなんてするんですか?」

 そこにおわすのですよね、明王さま。
 何がなんだかわからないまま、声が聞こえてきた方に目を向け、そうお呼びしました。
 やはりこれまでの、悪夢だと思っていたことは全て現実に起こったことで、あの狐様の館で巻物の化け物にでくわしたことも本当で、明王さまは弥生ちゃんと私を、あの大猿の妖を遣わしてお救いくださったのに違いないのです。
 そうだ、弥生ちゃん。
 思い出して身を起こし、私はさらに問いかけます。

「弥生ちゃん……弥生ちゃんは、無事なんですか。怪我をしていたんです。今、どこに……」
「無事だよ。安全なところにいるから、心配しなくていい。それより問題になっているのは、アンタの方だ」
「私の、こと、ですか?私が、何か……」

 何か言い難そうでした。
 御姿は直接は見えませんが、心を落ち着けてみると、真暗闇の中でも明王さまの優しい銀色の光は、瞼の裏で大きく、柔らかな鼓動を見せていらっしゃるのです。
 その光を見ているだけで、私は少し、安心していました。
 明王さまが、酷いことをなさるはずはない、そう信じていました。

 けれど、私の疑問に答えたのは、明王さまではありませんでした。

「お主が二度に渡り伏目明王の暗示を解き、あやしの記憶を夢と片付けなかったのは、お主に只人とは違う力があってのこと。そういった力を野放しにしておくのは、由々しきことなのでな、それが本当ならば、我等はお主を試さねばならぬ」

 男の人の声でした。あまり若い人ではありません。堂々としていて、立派な声でした。
 そんなつもりは無いでしょうに、私は叱られたように感じてしまいました。

「……試す、ですか?何を……?」
「何、簡単なことだ、そのまま、見える光を数えて御覧なさい」
「当主 ――― しかし、まだそうと決まったわけではない、暗示が深くなかったのかもしれない。こんな風にだまし討ちのように、日常を奪うような真似には賛同いたしかねる。少し《視》えるくらいの人間など、他にも多く在るだろう ――― オレの母のように、花開院に知られぬままだった力の持ち主も、この国にはたくさんある。このひとも、この年までそうやって生きてきたんだ、何も、今から引きずり込むような真似をせずとも良いのではないか。身を守る術を持たないために危機を招いたが、それは弥生を通して、札や祈りの使い方を伝える程度で良いはずだ」
「この娘をあわれと思うのはお主らしいが、我等もな、才ある者は捨ておくわけにはいかぬ。身を守る術を教えてやるのは、この娘のためにもなろう。
 それに、のう明王よ、ワシはこれから厳しいことを言うぞ。なるほど、たしかにお主の母は類まれな《天眼》だった。だからこそ魑魅魍魎の主に魅入られお主を産み落とし、身を守る術を持っていなかったがゆえに呪いを受け、お主の代わりに若くして命を落としたのじゃ。そのとき、僅かばかりでも身を守る術を知っていたなら、そうはならなかったかもしれぬ。どうじゃ、異論、あるか」
「 ――― いいえ」
「ならば、下がれ。お主のような月がぽっかり出ていては、眩しくて数えられるものも数えられぬ」
「 ――― 手荒な真似は、どうか」
「下がれ、花霞リクオ」
「 ――― はい」

 何が何だかわからないでいる私を庇うように、明王さまは私の側で男の人に何か言い返してくださいましたが、その男の人は、明王さまよりも目上の人で、どうやら痛いところを突いてしまったようです。
 苦い返事をして、明王さまが小さく嘆息なさるのが聞こえました。
 リクオさま。その名前は、昼間に病院で聞いたものと同じでした。
 不思議な偶然なのか、それとも ――― 混乱する私の側から、あの銀色の大きな光が離れ、去っていくのがわかりました。
 しばらくして、襖が開き、そして閉まる音。

 しんと、静まりました。

「さて ――― 娘さんや、仕切り直して、数えてごらん。ここに光は幾つ、見える」

 私は途端に、怖くなりました。
 ここは一体、どこなのでしょう。弥生ちゃんは、どこにいるのでしょう。

 光がいくつ見えるのか ――― そんなこと、ぼんやりしていて、わかりません。

「わかりません、そんなの、私、超能力とかそんなもの、持ってないです」
「ほう、昔から幽霊を見ると言っていたそうだが?」
「そうだけど、でも、それとこれとは」
「同じじゃよ。そういった《目》の持ち主は、素質がある」
「私 ――― でも、私、そんなの ――― わかりません。もう、家に帰してください。嫌だ、怖い」

 目が覚めたなら、日曜日だとばかり思っていたのに、そうではありませんでした。
 狐様や明王さまが、夢ではなく本当におわす方々だと確かめたかったのは、こんな怖い目に合わなければならないほど、悪いことだったのでしょうか。
 それとも、母親の枕元で、母親の存在に絶望し続けるのは、そんなに悪いことだったのでしょうか。
 悪いこと、だったかもしれません。
 それでも、いざ罰が下さるそのときには、押しつぶされるような暗闇と静寂が、何より恐慌をもたらしました。
 私は悪人です、救いようが無い、此の世の汚濁の一つ ――― 。

「これこれ、今からその調子でどうするね。何もお前さんを取って喰おうとしているのではない。落ち着いて、数えてみなされ。これが終われば、きっと明王さんも誉めて下さるぞ」

 今までと同じ男の人でしたが、少しからかうような声でした。
 恐怖にかられていた私でしたが、人間味のある声に少し安堵して、この奇妙な儀式が終わればまた明王さまに会えるのだと信じ、言われた通り、目隠しをしながら、見える光を数え始めました。

「どこに幾つ光が見えるかね」
「 ――― その、合ってるかなんて、わかりませんけど……私の前に、三つ、並んでいます。右手側には………十三。左手側には、十二、見えます。……でも、あの、こんなの、きっと私の思い込みですから……」
「ほう……驚いた」
「これで何の修行もしていないとは、喰って下さいと言わんばかりだな」
「羽衣狐が目をつけたのも、偶然ではなさそうだ」

 合っていたのかどうか、正解など誰も教えてくれないまま、私を囲んでいた光たちがざわめきました。
 光だとばかり思っていたものは、それぞれが人であるようです。
 混乱する私を置いてきぼりに、彼等は好き勝手に私を評価し、中には楽しむような声色もありました。
 場はすぐに落ち着き、再びあの男の人が、私に話しかけてきました。

「なるほどのう、《天眼》に違いない。では次はどうかな」

 ばしり。頬を叩かれ、たまらず私はその場に転がりました。
 そこへ次は容赦なく背といわず腹といわず、蹴られ痛めつけられました。

「やめて、お願い、痛い、許して!」
「ほれ、抵抗してみせよ。何でもいいぞ、蹴るのでも、殴るのでも、噛み付くのでも」
「やめて下さい、やめて!」

 一体どうしてこんな目に、合わなくてはならないのでしょう。
 私が一体、何をしたというのでしょうか。

 抵抗するにしても頭を庇うにしても、両腕は縛られたまま、目隠しもされたままです。
 せいぜい足をばたつかせますが、途端にずきりと痛みました。
 狐様の館で私たちを襲ったあの巻物の化け物が、噛んだところです。
 やはり、夢ではなかったのです。

 私は再び恐慌をきたしました。唸り声を上げて、私の髪をひっぱり、襟首を鋭い爪で切り裂き、背を踏みつけしてくるのが、あの巻物の化け物のように思われてなりませんでした。

「いや!いや!やめて、助けてください、助けてください、明王さま、助けて、助けて ――― !」
「明王は来ぬよ。お主は自分で自分を助けねばならぬ。さて、どうするね」

 獣たちが私に群がって、あちこちを好き勝手に叩き、噛み付き、引き裂いてきます。
 中には大きなものもあるのか、掬い取るようにばしりとやられて宙に舞い、背中から床に叩きつけられてしまいました。
 母親に酷い折檻を受けた記憶までがよみがえり、私は、大声で泣きました。
 子供のように泣きじゃくり、床を這いずって、できるだけ体を小さくして蹲りました。

 もっと小さな頃、母親の癇癪が過ぎ去るのを待つたびに、私はそうやっていました。
 誰も助けてはくれませんでした、私には抵抗する力も、一人で家を出て行く力もありませんでした。
 今も同じです。
 私に味方はなく、過ぎ去るのを待つしかありません。

「娘さんや、このまま黙っているつもりかね。悔しくは無いのかね。このままお主はもしやすると、嬲り殺されてしまうのかもしれんぞ。そうやって蹲って、それを待っているつもりかね。抗ってみなさい、何でもいいから、やってみなければわからぬだろう。お主はもう、力無き幼子ではないのだから」
「できません ――― 私 ――― 私、そんな力なんて、持ってない ――― 何もできない ――― 何も ――― 助けて、助けてください ――― 」
「やれやれ、聞き分けの無い」
「たすけて ――― たすけて ――― 明王さま、明王さま、助けて、助けてください、お願いです、助けて」
「じゃから、あやつは来ぬと ――― 」

 その人の声に、スタンと、戸を横に勢い良く開く音が被りました。

 続いて、私に纏わりついていた小さな獣たちが、はらりと紙のように簡単に力を失って床に落ち、あれほどひっきりなしに私を打っていた大きな獣も、一声大きく鳴いかと思うと、気配も全て消え去ってしまったのです。
 最後に一つ、カチンと、刀を納める音がしました ――― 目隠しは相変わらずされていましたが、はっきりそうだとわかりました。

 明王さまでした。
 明王さまが、私の前に立ちはだかり、私の周囲の獣たちを払った鶯と目を合わせて、微笑んだ御姿までが、はっきりとわかりました。

「 ――― 来て良いと許した覚えはないぞ、リクオや」
「当主の許しは得ていないが、この娘がオレを呼んだ。何度も呼んだ。助けてくれと言われた。理由など、それで充分のはず。望んだ助けが得られたときのあたたかさを、当主、オレはアンタから教わったつもりだ」
「今はその娘の素質を判じておる。殺すつもりなど無い。いちいち助けておっては、埒があかぬ」
「やはり、修行をさせるのは反対だ。暗示をかけるだけでは心もとないと言うのなら、このひとはオレが伏目屋敷で預かりたいが、どうか」
「伏目屋敷に連れて行くというか。その娘は人間だぞ」
「そういや、男所帯で側女が足りないって言われてたんだ。賄いなぞさせながら、護身術くらいは学ばせると約束する」
「またそのような、御伽噺じみたことを。努力が全て報われたなら、助けてと叫んで助けてもらえたなら、誰も苦労はせんわい」
「御伽噺だっていいじゃねーか。一つくらいそういう話が、あったっていいだろう」

 深く深く溜息をついたのは、どうやら当主と呼ばれた男の人の方でした。

「やれやれ、一度言い出したらきかぬ。お主の好きにせい。……娘さんや、お主の腕を縛っているのはボロ縄じゃ、少し引っ張ったら、簡単に取れるぞい」

 言われてみると確かに、いつの間にか腕を結んでいた縄は緩んでいて、少し力を込めて引っ張ると、ぷつりと切れました。
 簡単に切れた縄を、あんなに怖がっていたなんて。
 自分で自分が嫌になりました。

 さぞ明王さまも呆れられたことでしょう。
 そう思って、気落ちしながら自分で目隠しを取ろうとすると、それより先に優しく覆いを取り払って下さったのは、他ならぬ明王さまでした。

 はらりと目隠しが取り去られたその前に、とろりと甘そうな紅い瞳があって、目が合うと小さく笑ってくださいました。
 頬に熱が上がったとしても、仕方ないことだったと思います。
 私は男性と言うと、どうしても背の大きさや声の違いが、怖い、と思ってしまうのですが、明王さまは銀色の光も笑うやわらかさも異性を感じさせず、どこかほっとする御方です。それでいてお美しいのですから。
 と、銀色の睫に縁取られた瞳が、そっと伏せられました。

「アンタの母親は、オレがあの場で皆にかけた幻術を本気にしちまった。自分の心臓を抉られて、自分が死んだと思い込んでるんだ。そのせいで、傷が癒えた今もあの調子。アンタが闇の淵を覗き込みたがる原因を作ったのは、いわばオレだ。申し訳ない」

 片膝をついて頭を下げられ、私は混乱しました。
 あの時も今も、助けてもらったのは私です。
 それに、私はこんな風に誰かから謝ってもらうことに、慣れていませんでした。
 いつも母親は私を打っては平然と、お前が悪いと言い放ちましたし、お金を貸しても御礼を言われたことだってないのです。

「あやまらんで下さい、その、私……何度も助けてくれはったんに、御礼も言えへんで」
「そう言ってもらえると、気が楽になる。皆のことも、どうか嫌わないでやってほしい。アンタに陰陽師の素質があるかどうか、本当ならこうして判じるのが倣いなんだ」
「陰陽師の素質……?」

 促されて見てみてると、そこに居た人たちは全員、明王さまと同じように平安の人たちのような出で立ちで、私たちを囲んで座っていました。
 明王さまに呆れたような視線を投げる人も、困ったように笑っている人も、少し怒って眉間に皺を寄せている人もいましたが、とにかく全員が人間でした。
 さらに不思議なことに、あれほど多くの獣たちがまとわりついていたように思えたのに、私の周囲に散らばっているのは獣の死骸などではなく、人の形に切り抜かれた、いくつもの紙片なのです。

 私たちを囲んでいる人たちの数は、目隠しをされていたときに数えた光の数と、全く同じでした。

 そしてその隅っこから、心配そうな視線を私に送っている人の姿を認めて、私は思わず声を上げていました。

「弥生ちゃん……!」
「あの人も、花開院に連なる神社の巫女。陰陽師の修行を少しばかり齧ってる。アンタが言っていた《霊感》とやらで、これまでは少しだけ覗いていただけの世界が、オレたちが実際に生きる世界。あの人も、さっきみたいな素質判じは受けてる。痛くて、辛くて、助けなど無い、辛い修行さ。だから夢だと言ったろう ――― 目を瞑っていろと言っただろう ――― アンタは、それができなかった。もう、引き返すことはできない。此の世の秩序を守るためにも、《力》ある人間を、野放しにしておくわけにはいかない。選択肢は無い。無いが、アンタの心積もりは訊いておきたい。伏目屋敷はオレの護法たちの住処、いわば妖怪屋敷さ。アンタが怖がる魑魅魍魎どもがわんさか居る。それでも、来るか。それとも、今一度この花開院で、素質判じを願うか。ここで土下座して非礼を詫びれば、当主は甘いからな、もう一度、やってくれるかもしらんぜ。その方がいいなら、オレからも頼んでやる」

 夢の中に迷い込んで、そのまま出られなくなったみたいです。

 今日のお昼までは、悪夢の尻尾を名残惜しく感じていたのに、いざその中に放り込まれてみると、途方もない現実に眩暈がしてしまいそうです。
 このまま気を失ったら、やっぱり明日の朝には私は家のベットで一人目を覚まし、憂鬱な朝とともにこの夜の悪夢がもう少し長く続けばよかったのにと、胡乱に天井を見つめているのではないでしょうか。

 もしここで、明王さまの手を取って悪夢の中を進んだとしたら、私は明日、何処で目を覚ますのでしょう。

 おそろしさに慄きながら、私は、明王さまの着物の袖に震える手を伸ばし、掴みました。

「明王さまと一緒に行きます。行かせてください。お屋敷のお手伝いなら、何でもいたします」
「そうか。ならばアンタの身柄、この花霞リクオが預かる。預かったからには、悪鬼羅刹はもちろん、神にも仏にも手出しはさせない。各々方、あしからず、ご承知おきいただきたい」
「 ――― なんか、そうなる気ィしたんよ、うち」

 明王さまが周囲の人たちを見回して、よく通る声で仰せになると、正面に座っていた少年が、諦めたように肩をすくめて胡坐をかきました ――― いえ、声は少女でした。
 その子が、ぶすっとした顔で頬杖をつき、私を睨みつけて言います。

「ネエさん、リクオのお荷物になるような真似、あかんよ」
「は、はい。その……私、ちゃんと働きます」
「ほんまかいな。せやったら、なきめそやめにして、名前くらい言いはったらどうなん」

 そうでした。私は明王さまの ――― リクオさまのお名前は聞いたのに、自分の名前をまだ名乗ってもいないのです。
 狐様とは、あだ名だけで呼び合う戯れをしていましたが、明王さまはそういう方ではなさそうです。

 私は自分の名前が、あまり好きではありませんでした。
 カタカナの名前なんて、古臭いと、昔誰かに言われたのがきっかけだったと思います。母親があまり私の名前を呼ばなくなったのも、理由の一つだったと思います。
 それでも、この方に呼ばれるなら、ちゃんと自分自身の名前がいい。そう思ったので、私は痛む足を庇いながらも座りなおし、明王さまに目を合わせました。
 泣きじゃくっていたせいで、まだ目元が濡れています。
 これを拭って、しっかり御顔を見つめました。



「家長カナと、言います。どうか、よろしくお願いいたします」



 多分この時から、私は明王さまがおわす物語の、登場人物になったのだと思います。