明王が己が腕の中に匿ったものを、どうして人が取り戻せよう。
 彼が幼い日から見守ってきた花開院当主と言えどもこの理は覆せず、当主が諦めたならば、他の陰陽師たちがさらに手を伸ばせるはずもない。《天眼》に似た目は修行でいくらでも開けるが、生まれつきの《天眼》ならばさらに磨けば尚更良い使い手になれたろう、そう残念に思ったとしても、溜息一つで諦める他なかった。

 伏目屋敷の前で気を失ったカナを見出した秋房と灰悟も、顔を見合わせ一つ苦笑するしかなく、上座でゆらの横に座した竜二も、弟の荷物が増えた分だけまた眉間の皺を増やし、しかし、数年前に逝った母とこの娘を重ねた弟の気持ちを慮れば、何が言えるわけもない。

 当主が席を立ったのを皮切りに陰陽師たちが本堂を後にすると、残ったのは、渦中の娘とこれを庇っていたリクオ、これに駆け寄ってきた巫女装束の弥生と、柱の陰からのっそりと姿を現した猩影だった。
 そこで初めて、カナはあの仮面の大狒々が、己の同級生の彼だと思い当たったのである。

「ごめんね、カナちゃん。私、騙してたわけじゃないの、嘘もつきたくなかった、でも、結果的に、そうなっちゃって。本当に、ごめんね」
「今まで自分の《霊感》が人に信じられなかったからって、逆に《霊感》あるだけじゃ、普通信じないだろ、同級生が半妖だとか、本当に巫女だとかさ。興味半分で足つっこまれても困るし、花開院の奴等は素質がある奴を放ってはおかないから、お前、お袋さんの事でかなり参ってるってのに、そこでさらに血反吐を吐くような修行をさせられたら、もう死んじまうかもしれねえって思って、弥生と二人で相談したんだ、夢だったことにしようって。ウチの大将も、その方がいいって言うし、お前の身の回りが落ち着くまでは、俺等二人が気をつけてりゃいいって思っててさ、弥生の事、悪く思うなよ」

 カナが家に戻っていないことを不審に思った弥生が、すぐに猩影に連絡を取ってこれを知らせ、自らは心当たりのあの狐の館へ走ったので、危ういところでカナは命を拾ったのだ。彼女を庇ったときの傷のためだろう、白小袖に包まれた腕の動きは、少しぎこちない。
 猩影もまた、京都中の手下にカナの行方を探させたところ、鼠と猫が連れ立って、丘の上の洋館に向かった女子高生が居たと報せに来たので、バイトを返上し駆けつけることができたのである。

 二人の同級生が陰から己を見守り、助けてくれていたのを知り、カナは怒るどころか涙してしきりに礼を言った。
 己が《視》るものを誰にも理解などしてもらえない息苦しさ、目覚めぬ憎き愛しき母を待ち続ける苦しさ、そんな悩みすらも、もっと大きな枠に守られていたと知れば、目を覆っていた暗闇が晴れて次々流れてしまうようだった。

 落ち着いたところで弥生と別れ、伏目屋敷の主は副将と、新たな側女を連れて己が預かる土地へ戻ったのだが、そこで少し、問題が起こった。
 この問題に、カナが気づけるはずもなく、主の方に気づけというのも無理な話。
 本当なら猩影が気づかなければならなかったところだが、すっかり大団円のつもりだったので、不覚にも、玄関を覗くまで修羅場には全く気づけなかった。





 いくら明王姿ならば呪いの後遺症が表だって現れないほどに回復したとは言え、昼の如来姿の傷が癒えるまでは横になって安静にしてもらいたいのが心情として当然なのに、猩影が連れてきた一人の少女について花開院の義兄たちと何やら深刻そうな相談を行い、そのまま三人だけで花開院家へ行ってしまったかと思えば、夜半過ぎに帰ってきたときにはその少女を連れて来て家に置くと言い出すのだから、雪女の機嫌が良いはずもなく、つられて足下から吹き出す氷花の鋭さときたらおして知るべし、である。

「その女を、アンタ、どうするつもりなの」

 伏目屋敷の玄関先でリクオを迎えた雪女は、少女がぶるりと身を震わせてリクオの背に隠れたのをまるで気にせず、凍りつくような眼差しで少女を上から下まで値踏みするように睨みつけ、最後に、こうリクオに問うたのだった。
 二人の後ろから屋敷に入ろうとした猩影は、この雪女の姿と、廊下で既に氷柱と化している小物たちや凍り付いた廊下を認めるや、何事も無かったかのようにカラカラピシャリと音をたてて外から戸を閉じ、そそくさと勝手口へ向かっていった。

 この場合、彼の判断を誰も咎められまい。
 勝手口で彼を迎えた茶釜狸も、賄い処を覗いて次第を聞いた玉章も、致し方なしと断じた。
 と言えば聞こえは良いが、「わかった、落ち着くまで放っておこう」と、こういうことだ。

「側女が足りないって、お前、言ってたろ。鉤針女も人間の客の相手ができる奴がもっと欲しいって常々言ってたし、ちょうどいいかと思ってな」
「ふぅん、その女に、自分の世話をさせたいと思ったわけ」
「いや、それは今まで通りお前に頼みたいけど……だめか?」
「あら、そうなの。それでいいの」

 どうして雪女の機嫌が悪いのか判らないリクオだから、どうしてそこで機嫌が好転するのかも判らない。
 目が見えぬ昼の間に彼女がなにくれとしてくれる世話は、己が手を伸ばそうとする前にあれこれとしたものが手中に入ってくるように行き届いているので気持ちが良いし、それに雪女とともに寝床につくのも、恥ずかしさに慣れてしまうと彼女の柔らかさや何ともいえない良い匂いが心地よいので、今となってはもう手放せないし、ともかくこういった気持ちを、背後で少女が赤面しているのも気づかず真正直に述べてみたところ、雪女の表情は、敵を見つけたようなそれから、誉められて嬉しそうに微笑み、勝ち誇ったようなそれになり、しかし寝床でどうのという話になった頃には今度は慌ててリクオの口を塞ぐのだった。

「こっちのひとには、台所の仕事とか、訪問客の相手を頼みたいんだ。前々から人間の客が来たときに相手をする奴がいなくて、気配はするのに誰もいない、なんて、依頼人に不気味がられてたりして、誤魔化すのが面倒だった。家に一人でいれば魔が寄ってもくるし、最低限の護身術くらいは教えようと思っているし、かと言って花開院のやり方じゃ、才能があったとしてもカタギの人間やその気の無い人間にはちょいとキツい。不憫に思って、連れて来たんだよ。ああ、そうそう、お前が気にしてた悪いモノとやら、付喪神じゃなくて、本に封じられてた《念》だった。このひとを羽衣狐の館に引き寄せる術みたいなものが込められててな、そいつは本家に置いてきたから、ばっちいものはもう持ってない。……なぁつらら、そろそろ上がらせてもらっていいか。何だか腹が減ってきた」
「お夕飯時に全部ほったらかして行ってしまうからよ。皆は先に済ませるように言っておきましたからね、それでいいんでしょ?」
「うん、いい」
「アンタのお膳は別に取っておいたから。お客様の分は、まあ、一人分くらい何とかなるでしょ」

 ゆるんだ寒気に、リクオの後ろで震えていた少女、家長カナはほっとつめていた息を吐き、意を決して雪女を見つめ返すと、ここでお世話になるために、まずはご挨拶を申し上げることにした。

「家長カナ、と言います。明王さまには何度も命を救っていただきました。御礼なんてどれだけ申し上げても足りませんが、これからは、このお屋敷で一生懸命働きます。どうかよろしくお願いいたします、奥様」

 この口上を申し上げた途端、花霞家の玄関先は雪解けを迎えた。

 ぽっと頬を初心な朱色に染めた雪女は寒気を解き、ぼんと音がしそうなほど耳まで真っ赤になったリクオの方は、一瞬だが妖気を押さえきれずに幾つか夢幻の桜花を散らしたので、凍り付いていた小物たちは息を吹き返したのである。

「………な、なんだって?」
「………ええと、家長と言ったかしら。何ですって?」
「カナとお呼びください、奥様。いたらないところは、たくさんあると思いますけど、あの、うち、がんばります」
「ホホホホホ………よく見れば見目の良い娘じゃないの。でも何だか、見栄えのしない着物ねぇ」
「これは、花開院さんのおうちで、傷の手当をしてもらったときにお借りした着物なんです」
「あらそう、道理で借り物みたいと思ったわ。ここで働くなら、早いうちによそゆきを一着、仕立てましょうね。来客をもてなすならなおのこと、必要だわ。にしても良かった、私、ここに来たばかりでこちらのしきたりだのそういうの、疎いから。ちょっとアンタ、いつまで突っ立ってるの、ほら、履き物脱いで。まずお湯を使ってしまってくださいな。ふふふふっ。
 ちょっとそこの小物たち、空いている部屋、カナにあてがってやってちょうだい」

 雪女がリクオを引っ張って引っ込んでしまったので、カナは息を吹き返した小物たちに目を落とし、これ等がやはり人外のものであるには違いないけれども、恐怖をかきたてるような牙も爪も持ってはいない、小さな狸や猿の姿をしているので、しゃがみ込んで首を傾げ、尋ねてみた。

「あの……私、何か間違ったこと、言ったかな?」

 対して、小物どもはにかりと笑い、いっせいに親指をたててつきだしてきた。

「「「ぐっじょぶ!」」」





















三千世界のいずれかで 縁があったか《天眼》の娘
誰も彼もがあと一押しと願っていた
御大将と雪女の背中に なんと天然体当たり

伏目屋敷にあってただ一人
純粋なる人の娘として 明王に仕えることとなったこの娘
さっそく『奥様』のお気に入り


いまだ目覚めぬ 憎さ余って愛しさ百倍の母親が
目覚めぬのは母自身の業か それとも京都抗争の傷痕か
今の平和は これから訪れる嵐の前の静けさか


やがて訪れる嵐を語るは この先のこととして
伏目屋敷が留守居の娘を迎えたあらまし


まずは ここまで















...三千世界の鴉を殺せ...

<幕間編・了>