枝垂れ桜も今は緑の葉をしげらせて、渡る風にざわざわと、空や風や鳥どもと密やかに、何かしら秘密めいた囁きを交わしているようだった。
 奴良屋敷が浮世絵町に居を構えて四百年。
 今の主とちょうど同じ年を数える枝垂れ桜の下、屋敷の庭を見つめ、隠居された初代総大将はこじんまりと座って茶を啜り、それで、と、口を開いた。

 促されたのは、初代の前、庭に膝をついて控えるカラス天狗と、その長男、黒羽丸である。

「……鏖地蔵と言うたか。そやつに内応した奴等は、今どうしておる」
「は、京都抗争を生き延びた者は、ある者は逃げ、またある者は関東へ逃げ帰り屋敷へ閉じこもるなど様々です。己のシマへ帰りついた者については、カラスを使ってその周囲を見張らせております。中には既に、事の次第を記した陳情書をしたため、二代目の慈悲を請おうとしている者もおり、これの沙汰は二代目がお戻りになってからの方がよろしいかと」
「うむ」
「逃げ出した者も、日ノ本におるのであればそのうち逃げてばかりもいられなくなりましょう。見つけ次第、捕らえ、ケジメをつけさせるつもりでございます。幹部衆の中には、此度の内応、あるいは浮ついた輩を一掃するに良い機会かもしれぬと申す者もおります」
「ふむ。まあ、そこんところは、倅に任せるさ。あいつがここまで大きくした奴良組だ、抱え込んだ子分どもの始末をどうするかは、帰ってからあいつが頭を悩ませればよいことよ。敵地での内応による謀反、奴さんがたの仲間割れに助けられたとは、運に助けられたな」
「はぁ、確かに、そうなのですが」
「なんじゃい、歯切れが悪いのぅ」
「は、何分、私も報せを聞いた程度ですので詳しいことはまだ判らないのですが、どうも京都の花霞一家は、最初から奴良組に内応せんとしていたとか、どうとか。いや、羽衣狐の末端組織であることには間違いないのですが、ここ数年名を聞くようになった者どもゆえ、それほど羽衣狐への忠節も感じていないようでしてな、どちらが勝ってもよいように、そつなく日和見をしていたようなのです」
「ほおう、政の得意な奴がやりそうな事じゃ、気に食わんのう、男なら信じたものを一本貫くのが本当じゃろうが。なんじゃ、そいつが、どうした」
「は。先に帰りついた者どもが言うには、内応した者どもが宝船を取り囲んだとき、僅かな手勢ではあるがすぐに駆けつけ奴良組に加勢したのは、その花霞一家の大将であったと。
 その口上ときたら、それまで、花霞大将を日和見を決め込む臆病ものと軽んじていた者どもも見直すほど、まこと道理をわきまえ筋の通った、気持ちのよいものであったそうで、内応しかけた者どもの中には、これを聞いて思い直した者もあったそうです。宝船を乗っ取られはしたものの、二代目の元へ内応者どもを近づけさせなかったのは、そやつの尽力があったからこそだとか。日和見者であるのか、うつけの皮をかぶった任侠者であるのか、実際のところはわかりませぬが、聞くと見るとでは大違いであったと。その花霞大将がですな、そのう」
「歯切れの悪い奴だのう、申せ」
「はあ。それがそのう、皆が申すところでは、さすがは初代の落胤を名乗るだけのことはある、とか」

 ぶふーーーーっ。

 すすったばかりの茶を吹いた総大将の顔を、カラス天狗も、黒羽丸も、表情の伺えぬ顔で見つめ続ける。
 しかしカラス天狗とは長い付き合いだ、視線の投げ方一つで何を考えているかはあらかた判じられる総大将は、息を整えるのもそこそこ、目の前で手を振った。

「馬鹿を言うんじゃねぇ、なんじゃ、落胤だとぉ?!ワシとお珱の息子なぞ、後にも先にも鯉伴一人、どこの馬の骨じゃ、そいつは。また大きく吹いたもんじゃのう!捨て置け捨て置け、偽物贋作の類なんぞ、放っておけば気がついた頃に無くなっておるわ。そやつが奴良組の名を利用してシマを荒そうってんなら、別だがな」
「はあ、それが妙なのです。そやつが初代の名を出したのは、西方願寺において、二代目と争い合ったそのときが初めて。二代目をコケにされて頭に血が上った百鬼どもは、破竹の勢いで攻め上がり、逆に花霞大将は羽衣狐配下しょうけらとともに花開院本家へ攻め入り、そこで、調伏された、はずだったのです」
「うん?妙だな、鏖地蔵って奴が内応者どもを率いて宝船を攻めたのは、その後じゃなかったかい」
「そこなのです。滅されたと聞かされていた花霞大将が、これまた同時に滅されたはずの鬼童丸とともに、宝船において奴良組に加勢し、結果、羽衣狐に弓引いたことになります。事の次第を二代目にお伺いしているのですが、詳しくは帰ってから話す、と、そればかり。ならば早いお戻りをとお願い申し上げても、御自ら西方側の地固めに赴かれているようでして、いや、内応者が雲隠れせぬ間にシマ回りをするのは、効果的であるのですが、おかげで我々はカラスどもを使って、先に帰りついた者どもからあれこれと、人伝に聞いたものでも噂でも、何でも良いから話せとしつこく聞いてようやく得たものを、こうしてお話申し上げるしかない次第でして」
「それで、その花霞って奴は、二代目が勝った後、どこでどうしてやがるんだ」
「それも、詳しくは。なにしろ京都は再び聖域となってしまいましたし、我等の羽が届くのもせいぜい捻目山まで。そこから先、さらに京都へ入るには、どうしても人に紛れなければなりません。今の京都は人がほとんどおらず、紛れるにしても目立ちます。ですが、変わらず京都には居るようです。元々、京都の片隅、伏目のあたりを根城にしていた者どもらしく、隠れ屋敷でもあるのでしょう。おとなしくしておる分には、強いて京都を追い出す必要もないかと存じますが、気になりますか」
「……なんだか色々と、ごたごたとした抗争だな。倅が鉄砲玉のように飛び出していくのはいつものことだが、なにも、てめぇで内応者にいちいち噛み付く真似をせんでも、いつものように炙り出しゃあいいものを、何を焦っておるかよ」
「はい。気になる噂ばかりが飛び交っております。総大将の落胤を名乗っていたと思ったら、次には、花霞大将こそが、十年前に姿を消された若様であったらしいという噂を聞きつけていた者もおりまして……」
「なに?」
「あるのです、そういう噂も」

 それまで、馬鹿げた噂ばかりを耳にして笑うか眉を寄せるばかりであった初代は、はっと目を見開いた。
 喉元がかたいものを飲み下したように動き、視線の先で、枝垂れ桜が揺れる。

「……リクオが、京都におると?」

 何処でどうやって暮らしているやらと、あえて死に顔を考えぬようにしていた愛孫。
 利発そうな、大きな琥珀の瞳も、ふわふわとした金褐色の髪も、その姿は今でも簡単に思い描ける。

 この庭先で遊んでいたのが、もう何百年も昔の事のようだった。

「倅は、それについて何と言っておるのじゃ」
「それもまた、『着いてから話す』と仰せで」

 ならば居たのだ、と、初代は合点した。

 骸を抱いて来るのでもない、粉になった骨をかき集めてくるのでもない、内応者どもを自ら猟犬のように追わねばならない理由など、その一つしか思い当たらない。
 倅は、孫が安全に通って来る道を作るために、自ら足場を確かめているのだ。

 目頭が熱くなり、熱い塊が喉元に生まれるなど、妻を失って以来、もう無いだろうと思われていた。
 なのにこの十年間、何度こういった事があっただろう。
 死んだ、生きているらしい、骸が見つかった、いや違ったと、繰り返されるたびにこみ上がって来たものだが、今ほど嬉しく感じられたことはない。

「お珱、お前が、黄泉から守ってくれたのかのう ――― 」

 目が疲れたような振りをして、そっと目元を指先でおさえる初代から、控えるカラスたちはそっと視線を外し、西の空を見つめるのであった。
 群青に染まりつつある空に、白い月が真綿のように優しく浮かんでいた。



















...三千世界の鴉を殺せ...




















 式神は、主命に忠実に従うしもべであり、陰陽師の剣とも盾ともなる。
 術を私的な理由で行使する罰当たりな術者どもは、自ら子供を浚いこれを殺し、その魂を縛って使役する。子供のうちであれば、魂も騙しやすく縛りやすいためだ。子供等は己を殺した術者に魂を縛られ、成仏もできず使役されるのである。
 もちろん、こうした術者が長寿に恵まれるわけはなく、だいたいの者どもは、己の業に押しつぶされるようにして短い生を終える。

 花開院家が、このような外道術式を許すはずがない。
 外道に鉄槌を下すことはあれど、門下に伝えるはずはないので、ゆらやリクオが使うのは、正式に契約を結んだ式神である。
 そのためか、少しばかり扱いにくい。
 最近ゆらの喚び出しに応じるようになった、《破軍》は、歴代花開院当主を召喚し、己の精神力を限界まで高める補助術であるが、この中で十三代目秀元は、何故か用のあるときに勝手にするりと出てきて、ゆらの肩を叩くと言う。
 危機が迫っているときに報せてくれるのは良いが、修行や役目や勉強でくたくたになって泥のように眠っていたところで真夜中に夢枕に立って起こされ、「見たい深夜番組があるから、テレビ、つけてもらっていい?」とあっけらかんと言われたときは、本気で滅してやろうかと思ったそうだ。
 これは極端な例としても、ゆらの式神《武曲》は、主命に従うばかりでなく、無理と思ったことであれば丁寧にそう伝えてもくるし、主の身を案じて、己を使うのを諦めるように進言することもあると言う。

 勝手に出てくる式神はたしかに困るが、リクオは、喚び出してもなかなか出てこなくなってしまった式神というのも、困りものだなあと思うのである。

 リクオはゆらや竜二とは違い、式神を一つしか持っていない。
 本当なら、魂をゆり起こし此の世にしばりつけてしまう術など、一つたりとも使いたくはなかった。
 縁者ならば力を貸してくれるはずだからと頼んでごらんと諭されても、成仏しかけている魂を呼び起こすのは忍びなかった。母にはゆっくりと休んでいて欲しかったし、父は生きている。祖父も健在だ。あとの縁者となれば、面識のある者はない。
 しばらく式神を持たずに、真言を学んで神仏の加護を求め、さらには己の血が呼び起こす妖術で陰陽師として立っていたリクオの元に、ヤタガラスが舞い降りたのは、ほんの偶然からだった。

 任に赴いた先で、死を覚悟したことの無い陰陽師など、無いだろう。
 リクオも、何度と無く、これが己の死だろうかと思う相手と対峙し、危機に陥ったことがある。
 妖気弱まる昼のうちに倒そうと、多くの陰陽師たちと囲んだ妖怪が暴れ、結界を引きちぎって逃げ出したついでに、新米の陰陽師にばくりと食らいついて、手みやげにせんとしたことがあった。
 空妖であったので、空へ逃げられては手も足も出ない。
 皆で組み付き、今一度結界で地に封じようとしたが、駄目であった。

 リクオはすばしっこく木の枝にあがってこれに飛びつき、空妖の目玉を潰した。
 妖怪は痛みに呻いて、食らいついていた陰陽師をぼとりと木の梢に落とし、さらに舞い上がったが、リクオは飛び降りようとして、着物の袖を空妖の鱗にひっかけてしまった。

 妖怪はこれに気づいてぐんぐんと空高くに舞い上がり、雲の上まで上がると、リクオの体を摘んで、ぽいと捨てたのである。

 ここで殺されるのも、ただ殺されるだけならば、花開院の仇敵である羽衣狐に一矢報いることもできないのは悔しいが、さだめと諦めもついたろう。
 しかし、己を捨てた妖怪が再び空を泳いで人里へ向かうのを認めたリクオは、諦めるわけにはいかなかった。
 ここで初めて、神仏でなく、己を助けようと思ってくれる縁者があるのならと、翼ある式神を求めた。
 すると、それまですぐ背後に居て彼を抱きしめていたかのように、すぐさま、羽音が響いた。
 現れたのは、三本足のヤタガラスであった。
 リクオを乗せてもまだ余裕のあるヤタガラスは、母の魂ではなかったが、母のように優しく、母より少し口うるさかった。
 これを連れて、リクオは空妖怪と再び対峙し、月の力を借りて姿を変じ、これを調伏したのである。

 とまあ、本来の通過儀礼を色々省略したためかどうか知らないが、このヤタガラス、ゆらの破軍とはまた違う意味で、本当に扱いにくいのだ。

「ねぇヤタガラス、ボク、本当に反省してるよ。ごめんよ。だからそろそろ、機嫌直してよ」

 しん、と、ヤタガラスに変じるべき札は、紙きれのまま、畳の上。
 これが今日だけならまだしも、あの日から一月経っても続いている。
 あの日とはもちろん、異界の者どもの間では妖怪レース京都杯と噂される、抗争終わって間もない京都を舞台にした、バイクレースがあった日だ。

 あの日、ヤタガラスはおおいに働いてくれた。
 打ち掛けをかぶったような白い桜模様の斑点がある、大きな翼でもって京都を駆け抜け、花霞一家の手勢を集めた後、さらにリクオの元に駆けつけて凛子を助けてくれたのだ。
 最後にヤタガラスは、タンクローリーに残っていたリクオも連れだそうと運転席に飛び込んで彼の腕を掴んだが、リクオとしては無人のタンクローリーを放って行けるはずもなく、ヤタガラスの腕に逆らって、ハンドルを握り続けた。
 そこで、ちょっとした言い争いになった。
 ヤタガラスがまるで、ほんの小さな幼子に言い聞かせるように、いい加減になさいだとか、あとはお父さんに任せなさいだとか、あなたの足取りは危なっかしくて本当に見ていられないだとか、あまつさえ、大怪我をしたらどうするの、あっぷでしょ、などと、彼女も相当焦っていたためだろうがリクオの腹に据えかねるような幼児語まで出てきた上に、何度印を切っても消えようとしないので、リクオもついつい、年寄りのばあやは引っ込んでろ、と、何代前の縁者か知らないが女性らしい彼女に向かって暴言を放ち、彼女が衝撃を受けて動きを止めたところで、強制帰還の印を切ったのだ。
 これは後で心底反省し、翌日の黄昏に目覚めたリクオは真っ青になってヤタガラスを喚んだが、気配はするのに手元の札は彼女に変じる様子もなかった。
 ただ、リクオの元を去る気は無いようで、ひらり、と、薄い桜色の千代紙に小筆の女文字が綴られたものが天井のあたりから一枚、落ちてきた。
 そこに書かれていたのは、「年寄りはしばらく引っ込んでいます。貴方はしばらく休養なさい。貴方のことだから反省はしているでしょうが、思い詰めるあまりに年寄りとの契約解除など、決して考えないように。毎日一つ、桜餅をお願いします。追伸、ちゃんと休養しないと、めっ、ですからね」という業務連絡。
 年寄り、というところの文字だけが、異様に強調されていた。

 安心と後悔が交互に襲って、こんな子孫の側に縛られてしまった彼女を思えば、やはりあの空の上で死んでおくべきだったかとため息も漏れたが、思い詰めるなと手紙にあったし、数年来の付き合いでお互いに甘えが出てしまったこともあるだろうと、彼女の希望通り、形白の札の側に桜餅をお供えして詫びを言い続けることにした。
 これが親子喧嘩というものだろうかと思いつけば、少し面白いようなこそばゆいような気もしたけれど、そろそろ機嫌を直して出てきてもらわなければ、いつまた彼女の力が必要になるかわからないところへ行くのに、心許ない。

 そう思い立ち、夜明け前にこしらえた桜餅をお供えし、座敷の真ん中、ヤタガラスの形代を畳の上に置いて、今日こそ完全な仲直りをするつもりで、リクオは座していた。

 しかし、返事は無い。
 天井から返事が降ってくる様子も無い。いや、目は見えぬままだからどうかわからないが、少なくとも、畳の上に何かが落ちたような気配は無い。

「ヤタガラス、ボクね、もうすぐ京都を離れるんだ。東京に行くんだよ。ヤタガラスも、ついてきてくれる?」

 かさり、と、式神の形代が揺れた。

「本当は半日くらいで帰ってこようと思っていたんだけど、おじいちゃんもお義兄ちゃんたちも、ゆっくりしておいでって言うんだ。せっかくだから、一泊くらいはしてこようかなと思うけど、でも、ボクにとってはあまり知らない人たちだから、何だか緊張するんだよね。お土産に、伏目のお酒だとか京友禅の反物だとかを用意しようと思うんだけど、ねえ、何か他に持った方がいいもの、あるかなあ」

 やはり、口出ししたいような雰囲気が、部屋中に立ちこめたけれど、そこまでだ。
 御簾の向こうで貴人が息を潜め、そっとこちらを伺っているような気配がするのに、今一歩、こちらへ渡ってこられないらしい。術者の危機でもないのに渡っては来づらいのだろう。加えて、先だっては己の術者に失礼な物言いをしたという遠慮が、あちらにもあるようだ。
 リクオに愛想を尽かしたわけではないのは最初から知れているので、きっと有事にはまたいつものように、羽音も高く現れてくれるのだろうが、リクオはどうしても京都を発つ前に、彼女と仲直りをしておきたかった。

 外道な真似はしなくとも、式神をただの道具として扱う術者は、花開院にも多い。
 中には、あまり情を交わしては、使役に支障が生じると言う者もある。
 それでも、リクオにとっては、彼女はただの道具ではないし、喧嘩をしてしまう程度には身近な家族だ。これから己と共に行く先くらいは伝えておきたい。

 どうやったら姿を現してくれるだろうと少し考えたが、結局良い案は浮かばず、リクオは、座布団の上の形代、その前に桜餅の皿、これ等を前にして、何度目かのため息をついた。

「……あんなこと言われたら、そりゃ、怒るよね。ボクも、ヤタガラスが赤ちゃんみたいにボクのこと扱おうとするから、何だかカッとなっちゃって。夜のボクって、どうしてあんなに短気なんだろう、すごく反省してる。本当にごめんね。ヤタガラスが心配してくれてるのは、わかっていたんだ。でも、あそこで逃げるわけにはいかなかった。心配してくれて、ありがとう。だから、ねぇ、仲直りしてよ。……………寂しいよ」

 最後にぽつりと呟いたのは、かき消えてしまいそうな本音だった。

 ばさり、と、羽音がした。
 いや、羽音と思われたのは打ち掛けが畳の上をこする音であったのかもしれない。

 なにせ、リクオの目の前に現れたのは、なんとも可憐な、白小袖に赤袴、その上に桜模様の打ち掛けを纏った、妙齢の女性であったのだから。

 おばあちゃん?
 とんでもない。
 記憶にある母親よりもずっと若い、リクオより少し年上の、まだ少女の柔らかさを顔の輪郭に残した姿である。
 みどりの黒髪は長く足下にまで届き、ふわりと座布団の上に座すと、扇のように打ち掛けの上に広がった。

 どこからどう見ても、公家の姫であった。
 しかし、この姿を認めたリクオは、目が見えないはずであった。

 ぽかんと口を開けて彼女を迎えたリクオは、己の目が使えていないのを忘れていたわけではないし、瞼も閉じたままであったので、これが直接己の心に映る、彼女の姿なのだとすぐに合点した。

「ヤタガラスって、お姫さまだったんだ」

 美しい少女がそっと目の前に座したのを、リクオが素直に歓迎するので、彼女は少しはにかんだらしい。
 さらにはその姿で、目を伏せ頭を下げるので、リクオの方が恐縮してしまう。

「リクオさん、先だっては、過ぎたことを申しました。どうか、許してくださいね」
「ううん、ボクこそ、酷いこと言っちゃって、ヤタガラスが怒るのも無理ないよね。ごめんね」
「怒っていたわけでは、ないのです。ただその、主命に背いて式神らしからぬ振る舞いをしたことが、気にかかっていたものですから」
「仲直り、してくれる?」
「もちろんです。一緒に、東京へ参りましょうね。十年ぶりに帰れるんですもの、遠慮なんてしないで、一日と言わずもっとたっぷりお父さんとお爺さまに甘えていらっしゃいな。お爺さまはさぞかし喜ばれるでしょう。お土産なんて、そんなもの気にしなくていいんですよ、リクオさんが立派に育った姿をお見せすれば、それでいいのです」
「でも、ほら、ボク、抗争の中で、妙な噂作っちゃったでしょう。ちゃんと謝らなくちゃと思って。二代目も、初代には不義の子なんてなかった、怒られるぞって言ってたし」
「ちゃんと理由があってしたことですもの、判ってくださいますよ。むしろ誉めてくださるかも」
「まさか」
「いいえ、貴方が立派に生き抜いてきたことを、まずは誉めてくださるに違いありません。それよりも、その初代、二代目というのはどうかと思いますよ。御自分の父上様とお爺様なのですから、おじいさま、おとうさまとお呼びするべきです。昔はそうしていたのでしょう?初代だとか二代目だとか、そんな呼ばれ方をされたほうが、きっと悲しく思われてしまいます」
「本当に小さな頃、もう十年も前なんだよ。冗談ならまだしも、許しもないうちからそんな馴れ馴れしいこと、言えないよ。あちらは魑魅魍魎の主、それも二代続けて羽衣狐を下した妖力の持ち主なんだから、失礼のないようにしなくちゃ」
「そんなふうに畏まらないで、素直に甘えていらっしゃい。十年も、と言いますけど、たった十年ではありませんか。貴方のお爺様は五百年、貴方のお父様はもう四百年も生きている大妖なのですから、十年なんてほんの少し前のことでしかありません。お二人とも、首を長くして貴方の帰りを待っているに違いないんです」
「うん。……そうだったらいいなって、思うよ。桜餅、食べないの?今日のは自信作だよ」
「まぁ、わざわざリクオさんが作ってくださっているのですか?そんな、私、こんびにさんが売っていらっしゃると聞いていたので、それで構いませんでしたのに」

 自分の肉親に会いに行くというのに、嬉しがるどころか畏まって、まるで初めての依頼人のところへ訪問する前準備のような物言いの主を前に、ヤタガラスは少し気落ちした様子を見せたが、目の前の小皿に乗った品の良い桜餅をさらに勧められ、とりあえず今のところは、これ以上踏み込むのはやめておくことにした。
 そっと手に持って行儀よく、もう片方の袖に隠して美味しそうに一口食み、それから少し考えるような素振りで、話を改めた。

「お酒はきっと皆さんお好きでしょうし、せっかく伏目から行くんですから、持って行ったなら喜ぶでしょうねぇ。でも、反物はちょっと控えた方がいいのではありませんか、確かに山吹さんにはすぐ必要になるかもしれませんが、臣下が主に礼を尽くしに行くような、他人行儀な気がします。それよりも、食べ物や嗜好品の方が、孫がお爺様に持っていくお土産物として、素直に喜ばれると思いますよ」
「食べ物や嗜好品かぁ……。この辺なら、おいしい饂飩とかあるけど」
「それもいいかもしれませんが、あのお二人はほら、煙管を吸いますから」
「ふぅん、そうなんだ。うーん、そういうの、よくわからないなぁ……。バイト先で、吸ってる人はよく見かけるけど、どれがいいものなのかさっぱり。バイト先に顔を出すついでに、店長に教えてもらおうかな。あ、凛子ちゃんにお願いしたらいいかなぁ、目利きとかすごく頼りになるし、いい物を選んでくれるし」
「それは…………………あの、リクオさん、お爺様やお父様の好みなら、きっと雪女さんの方がよくご存知なのではないかしら」
「つららには、これ以上頼めないよ。ただでさえ、慣れない土地であれこれ色々やってくれてるのに」
「頼んでもらえない方が辛く切ないということが、世の中にはあるんですよ。それに、妖が長く使うものなら、きっと異界の方にこそ都合の良いものが多くあるでしょう。白蛇さんにお店を教えてもらったなら、そのあたりを雪女さんと遊歩ついでに、色々覗いておいでなさい。あの辺りは抹茶ぱふぇが美味しいお店もあることですし、きっと雪女さんも喜ぶでしょうから。東京へ行くまでに、まだ余裕はあるのでしょう?いつ出立のつもりなのです?」
「あのね、二代目が」
「リクオさん」
「うん?」
「『お父様』です。ね?」

 これこの通り、ヤタガラスは時折、自分が式神だということを忘れてしまうのか、主に対して大変口うるさい。
 行儀良く桜餅をたいらげた彼女は、座布団にきちんと座して、優しげな顔でせいぜい鋭い視線を作り、リクオを睨みつけていた。

「……『お父様』が、まだ、お屋敷に帰り着いていないんだって。奴良組の内応者たちがてんやわんやしているうちに、ご自分の領土巡りをなさって、改めての地固めをしようとしているみたい。今お伺いしてもお邪魔だろうから、こちらの学校の夏休みの期間をお伝えしておいたんだって。その頃、あちらから、いついつ来るようにって報せが来ることになってるよ」
「また、呪いつきの嫌なものが、来たりしないでしょうか」
「表向き、花霞大将が敗残処理で東京へ行くって事になってるし、大丈夫じゃないかな。『お父様』にお任せするよ」
「確かに、そこで気を揉んでいても、仕方ありませんよね。そうですか、夏休みの頃なら、まだ少し間があるから、ゆるりとできますね」
「うん。今から少しずつ、準備をしていかなくちゃ」
「準備、ですか?お土産だけではなく?」
「今まで寝込んでばかりいたから、そろそろお得意さんたちのところに、顔出しもしなくちゃいけないし、バイトも休みがちだったからクビにしないでって店長に泣きつきに行かなくちゃいけないし、この通り目が見えなくて学校にも行ってない分、勉強が遅れてて怖いから、そろそろお兄ちゃんたちに教科書の内容、レコーダーに吹き込んでもらおうかなって思ってるし。そうだ、伏目を留守にするんだから、稲荷さまにその旨ご挨拶申し上げなくちゃ。明王の留守の間によからぬことを考える妖たちがないように、護法たちの見回りルートも考えておかないとなんだけど、まだ皆、誰がボクと一緒に行くかでもめてるみたいだから決められないし、最近サボりがちだった稽古も父さんにお願いしなくちゃ、体がなまっちゃうし………やる事は色々あるんだよね。ゆっくりしすぎたかな」
「やる事が多すぎるんです。はぁ……ちょっと前まで死人だったのですから、ちょっとは欲張りも加減なさい」
「うん。……ふふ、ヤタガラスって、口うるさい」
「まあ、酷いことを仰いますのね」
「なんか、お母さんとはまた違うけど、でも、お母さんみたいな感じがする。仲直りしてくれて、ありがとうね、ヤタガラス」

 リクオにとっては、本心からの感謝を伝えたに過ぎなかったのだが、ヤタガラスは何だか痛みを堪えるように目を伏せて、身を乗り出し、そっとやわらかく、両の腕に少年を抱き寄せたのだった。

「こちらこそ、ありがとう、リクオさん。寂しい想いをさせてごめんなさい、私はいつも見守っていますから、安心してくださいな。一緒に東京へ、懐かしい浮世絵町へ、帰りましょうね」

 光の沫に包まれ、人の姿の境界を失っていく彼女に、己の祖母に当たり二代目の母であったという、洞院家の姫が重なったのは、その時だった。

「……ヤタガラスは、ボクのおばあちゃんなの?」

 くすくすと、消える間際に、姫君は袖口で口元を隠し、桜のように可憐に笑うのだった。

「そちらの方がよほど、『年寄り』よりはよほど嬉しいですよ、リクオさん」



+++



 今宵も賑わう異界祇園。
 梅雨の長雨に辟易と、料亭の格子窓から空を眺める者もあるけれど、闇に潜み雨を好む者が多いのが京妖怪。
 柳の下で枝と一緒になって揺れている者もあれば、人の明かりが届かぬ町家の隙間に潜んで人間が通りかかるのを待って驚かそうとたくらんでいる小物もあったりと、羽衣狐が居るも居ないもそう変わらず、以前と同じ暮らしが続いている。
 その中に小粋に紅の和傘をさす者があり、この下に一組の男女があって、そのどちらもがあやしの者どもの目をもはっと見張らせるにあたう、うるわしき様をしているとなれば自然と、ひそひそと妖どもの口に噂を呼んだ。

「ほら、花霞大将だよ。羽衣狐と奴良組の戦いの中で、大怪我したって聞いてたけど、治ったんだね」
「前にも増して艶めいた様子じゃないか。ついこの前まで、ほんの小童だったのにさァ」
「横を行くのは、あらこの辺り珍しい、雪女じゃないか」
「大将に、寝ずの看病で尽くしたらしいよ」
「へぇ、いつの間にそんな出会いがあったんだろう」
「いいじゃないの、いつだって。京都は花霞大将が居れば安泰、奴良組の奴等に好き勝手は許さないだろう。これを看病してくれたってんなら、あの雪女だって敵じゃないだろうさ」

 噂がだいたいにして好意的なのは、祇園界隈の主である白蛇さまが花霞大将を贔屓にしているのも、町の者たちが彼を安心して受け入れる理由の一つではあったが、それだけではない。
 荒ぶる主の元で己の力をしらしめんとする、武闘派どもが京の街を我が物顔で闊歩していた少し前まで、これに虐げられて泣かされていた、戦う意志を持たぬ弱い妖怪たちを、花霞一家が矢面に立って守ってくれていたからだ。
 羽衣狐は同士討ちに寛容であったので、弱い者どもを虐げる武闘派たちを咎めはしなかった代わりに、弱い者どもを守る花霞大将が、弱き者どもの代わりに武闘派どもと戦ったとしてもさほどに咎めはしなかった。
 もっとも、幹部たちのうち、茨木童子やしょうけらは、花霞大将を良く思っていなかった。
 なにかにつけ、弱い者たちなど役にたたぬのだから放っておけ、庇うような真似をして滅するのは裏切りではないかとやかましかったが、花霞大将は表向き従うふりをしておいて、のらりくらりと責めを交わし、やはり弱い者どもの味方をしたのである。

 中には花開院との繋がりを察してか、陰陽師の飼い犬などと悪口を言う者もあるにはあるが、それは陰陽師の中にも花霞リクオを、穢れた血を引く半端者と呼ぶ者があるのと同じ。
 対抗意識や嫉妬を持たず、素直に感謝感心を寄せる者は皆、今や花霞大将こそが京都守護職の名に相応しき、京の異界の主だと、暗黙のうちに認めている。

 その立派な御大将が、いつもはバイト先の使い走りだからと、元服前からお馴染みの動きやすいだけで粗末な洋服に身を包み腕まくりをした姿で、この辺りの店に届け物をしたり注文を取ったりしているのに、今日はよそゆきの大島紬に羽織姿で、何気ない所作からして堂に入っていた。
 好いひとと連れだって歩いているとあって、二人が店先で足を止めるたび、店主が奥から顔を出して何くれと世話を焼きたがる。
 二人が今、ふと足を止めたのは、とある呉服屋の軒先だ。
 店の奥には、豪華な打ち掛けが広がり、反物が山と積まれているが、そぞろ歩く二人の目に留まったのは、店の手前の壇上に揃えられた巾着や帯や簪、など、小物の類である。

 二人が他愛もない言葉を交わし、何か話がずれているらしいと思っていたらお互いが相手に似合いそうなものを選んでいるので、道理でと笑い合った。
 雪女は男物の扇子を指さし、花霞大将は雪女の白い肌に際だって似合いそうな紅玉の簪を指さししている。
 何とも微笑ましい二人は、結局そのどちらも買い求め、店主に見送られてまた歩き始めた。

「これでだいたい、お土産物は買い揃えたんじゃないかしら」

 あまりに大荷物なので、他に買い求めたものはほとんど、屋敷へ届けてもらうように手配してある。
 雪女は、覚え書きのすべてに横線を引いたメモ書きに今一度上から下まで目を通すと、うんと頷いて満足げな笑みを浮かべた。
 隣を行く花霞大将の腕を借りながら、跳ねるような足取り。
 これを見つめる大将の方も、女の足取りに合わせて、ゆっくりと歩んでいる。

「女衆たちへの細々としたものは、気づかなかったな。お前に訊いてよかった」
「殿方は使わないでしょうからね。でも、椿油やあぶらとり紙は必需品よ。奴良屋敷は伏目よりずっと女衆の数が多いし、京の品は今でも人気なの。みんなきっと喜ぶわ」
「色々と付き合わせたが、選んでもらえて助かった。そろそろ、その辺で休むか。抹茶パフェが美味い店があるとか、ヤタガラスが言ってたんだ」

 仲睦まじい様子の二人ときたら、誰の目から見ても妬ましくも微笑ましい。
 こっそり大将に憧れを抱いていた女たちは、どれだけ袖を捕まえてもなびかなかったのはこういう理由かと、気落ちしつつも納得し、邪魔立てしようなどと考える者はない。
 二人は誰が見ても、深い仲に見えた。
 連れだって入った甘味処の下女も、縁起の良さそうな丸い顔に輝くような笑みを浮かべて二人を迎え、大将に世辞の一つ二つを言いながら、上客向けの奥座敷を、わざわざあてがってくれた。

「はあ、涼しくていい気持ち」

 夜といえども、京の夏は早い。
 草木はしとしと降り続く雨に、瑞々しく緑を濃くしていた。
 反面、雪女にとっては過ごしにくい季節が刻一刻と迫っている。
 昼日中よりましとは言え、あちこち歩いて汗ばんだのだろう、雪女は席について注文を終えると、ほっとしたように表情をやわらげた。

 座敷から望む坪庭に、薄紫色の紫陽花が咲いている。
 ぽつんと置かれた火の無い幽玄の行灯が、ぼんやり光を放ってこれを照らしていた。

「東京の方がこちらよりいくらか、涼しいんだろうな」
「そうだといいんだけど。あちらも最近は、妙に暑いのよ。暑い中で川に船を浮かべて花火を見ると、ああ夏なんだなぁと思うけど」
「へえ、船遊びとは、豪勢やな。さすが奴良組」
「こちらではしないの?」
「花火はあるし、見に行くけど、さすがに船まで浮かべないな。去年は川床貸し切ったが、それだってちょっと政治的な理由でだった。羽衣狐をもてなさなきゃならなくて、伏目の奴等はあんまりゆっくり出来なかったんじゃないかな。その後、屋敷の庭で花火遊びをしたけど、そっちの方を喜んでたよ」
「うわぁ、殺伐としてそうだこと………」
「そうでもない。しょうけらが一番最初につぶれたのは笑ったな。眠った奴の体から抜け出て、天に告げ口しに行くのが役目だろうに、すっかり忘れちまってんだから。茨木童子は機嫌が良くなると雷を呼ぶんだ。春の雷は縁起がいいというが、夏の雷も、潔くて嫌いじゃなかった。狂骨娘なんか酔いが回ってへべれけになって、呂律が回らなくなって可愛かったよ。内心どうあれ、みんな楽しんでたんじゃないかな。鵺復活が近いとあって、あいつらの気が緩んでたこともあるんだろうが……もう少し、話し合う時間があったなら、あるいは色々と違った結果だった、かもしれない」
「ふぅん……京妖怪って、暗くてじめじめしてるってイメージあるけど」
「そこは訂正させてもらおう。行儀が良くて風情を好むの間違いだ」
「ずいぶん肩を持つのねぇ」
「オレかて京妖怪やし、地元やし」
「まあ、総大将は関東の方よ?」
「祖母は京都生まれの京都育ち、生粋の姫君だと言うじゃないか。江戸っ子だって三代住んでようやくそうだと言うだろう。オレにとってはどっちも四分の一ずつ血をもらった方々だが、だったら、育ちの分だけ京が近いや」
「ふぅん……それもそうか、私も今更遠野妖怪って言われても、ピンとこないものねぇ」
「そういうこと。……オレ等に言わせりゃ、東京モンこそちょっと短気がすぎていけねぇや。お前もな」
「あれは粋でいなせって言うんですー。回りくどいのなんて、面倒なんだもん」

 最初の頃こそ、大将が京に根付いていると知らされる度、気落ちした様子を見せていた雪女だが、もうすっかり慣れたもの。
 お互い、離れていた間に別々の土地で感じてきたうつろう季節を、こちらはどうだった、そちらはどうであったか、など交えながら語るだけで、二人きりの時間は楽しく過ぎていく。

 やがて運ばれてきた甘味を一口やって、雪女が抹茶のほろ苦さとアイスの甘さと白玉の冷やっこく柔らかい感触の絶妙なハーモニーに、少女のように幸せを満喫すれば、この顔を前にしただけでも大将としては胸いっぱい、わざわざその顔から視線を外して甘味を食おうとする気もおこらない。
 目の前に、もう一度会いたいと思っていた女が居て、お互いにあれこれと、今までの時間を埋めるように話しているなどと、それだけで夢見心地だ。

 つくづく、虜である。
 厄介な執着だとわかってはいても、やめられない。

 雪女も雪女で、視線に気づかぬはずもないのに、気づかぬふりを続けている。また見ているなと思いつつ、手を出すつもりもないのにそんなにジロジロ見ないでよと、拗ねてやれるほど視線は色事を感じさせないのだ。
 まるで、明日には遠くへ旅立つ人が、瞼に此の世の風景をしっかり焼き付けておこうとしているだけのように。

 そんなに想ってくれるのなら、それが守子の独占欲であろうと何であろうと、一言、側に居てほしいと望んでくれさえしたなら、二代目にお誓い申し上げた通り、未来永劫にこの男に侍り守ってみせるのだが、目の前のひとは物腰柔らかにおおらかに何でも受け入れてみせるくせに、流されるのをよしとしないところがある。
 ついこの前も、雪女を花霞家の奥方と勘違いしたカナが、出会い頭に彼女を奥方様と呼んだ騒ぎがあったが、彼女の誤解は後でしっかり解いていたし、はやし立てる小物たちを、いつになく厳しい口調で叱ったりもしていた。

 勘違いしてくれたままで良かったのに、と唇を尖らせた雪女には、どこか困ったような口調で、「でもお前は奴良組からの預かりもので、噂であろうと傷物にするわけにはいかないから」などと言うものだから、そこでもまた一悶着、あったばかりだ。
 なんとここまできてもこの男、東京へ挨拶参りをした折りには、預かっていた雪女の身柄を、返すつもりでいたのである。
 帰るの帰らないのという話の前に返す返すも口惜しく、むしゃくしゃとする雪女だ。
 せめてもの意趣返し、気づかぬ振りをしてやりながら、目の前で形を崩していく抹茶アイスをスプーンですくい、「アンタも食べなさいよ、ほら」と鼻先につきだしてやると、昼間のうちにあれこれ世話をしている成果か、黙って口を開けるようになった男を見て、このまま体の方を先に絡めとってやりたいような、妖ならではの悪行に心を染めてしまいそうになる。
 親鳥から雛が餌を与えられるように、無垢な彼が自分から執着だの欲だのを、ついでに啄んでしまうことを全力で望みつつ、一見表向きは穏やかな顔を作っておいて、帰郷の日を待っているのだった。



+++



「あいつ、本当にタマついてんのか」

 話す前は全く気乗りしない素振りで、「どうして俺がお前の愚痴なんざ、聞いてやらなくちゃならねえんだ。愚痴りたいほどそんなに京都が嫌なら、最初から残るなんざ言わなきゃ良かったじゃねえかと」と厳しいことを言っていた牛頭丸であったのに、いざ雪女の話が始まると、運ばれてきた茶を一口啜っただけで真剣に聞き入り、最後にはげんなりと評した。
 裏腹に、せっかくだから聞いてみようよと牛頭丸を宥めた馬頭丸は、今もせっせと白玉黒糖餡蜜を口に運ぶ方にこそ忙しく、話を聞いているのかどうかも怪しい。

 京都抗争以来、久方ぶりに顔を合わせた三人は、異界祇園の先日の茶屋で、他の客たちとすぐ背中合わせの大部屋を使い、向かい合って座していた。

 牛頭丸と馬頭丸は、関東奴良組において最も西、捻目山 を中心とした土地をシマとする、牛鬼組の若頭とその補佐である。
 西に睨みを利かせながら、常にぴんと張りつめた空気の中で過ごしてきた牛鬼組は、奴良組きっての武闘派だ。組長牛鬼不在の際は、組はこの二人の裁量に任せられる。見目こそまだ若く、少年の面立ちを残しているが、彼等二人が奴良組の名代を名乗るに値する人材なのは間違いない。
 二人が京を訪れたのは、奴良組が花霞一家を東京へ招くための前触れとしてだ。
 奴良組からの報せや使いの類はカラス天狗たちが行うのが常だが、今までカラスたちが捻目山より西に向かったことはない、訪ね歩くことになるのは必定だ。それに下手な者を向かわせたとしても、そこに内奥者どもの息がかからないとも限らない。その点、彼等ならば雪女とも面識があり、万が一にも奴良組の裏側で良からぬことを企む者があって二人を傷つけようとしても、よほどの事で倒れる者たちではない、というのが、二人に白羽の矢がたった理由である。

 二人が捻目山から遙々と、この京都に降り立ったのはついさっき、今日の夕暮れ時のこと。

 二代目が御自らの足で、東京よりも西は改めたので危険は無いと思われるが、まずは奴良組にとって関西との境界である、捻目山にお越し頂き、そこから空路を使って東京に入るがよろしかろう、その方がぎりぎりのところまで、花霞の手勢も大将を見送れるだろうからとは、他ならぬ牛鬼の思慮だ。
 内心どうあれ、奴良組の名代として赴いたからには、牛頭丸は己の直接の主、牛鬼に心服しているので、己に隙があっては主もまた軽んじられると知っているから、よもや使い先の大将の前で粗相を見せるはずもない。招かれた座敷が大座敷や客間ですらなくただの控えの間であり、上座に座していた花霞大将に、よく参られたと労われた折りには、物腰こそ柔らかいものの招かれた場所と互いの位置で相対する大将の無言の主張を読み取り、たかが敗軍の将が何をと眉尻を上げかけたが、ぐっとこらえて、歩む際には畳の縁に足をかけることもなく、座してはするすると口上を申し上げた。
 副将玉章が奴良組と取り付けた約定、つまり花霞大将が後日奴良組へ、敗軍の将としてご挨拶に向かうという表向きのあれこれについては、大将は素直に頷いたので、これで牛鬼組二人の役目は終わるはずだった。
 今日はこの屋敷で休んで行かれるといい、と口では優しく言うのだが、牛頭丸は大将の無言の言いようが口惜しく、癪に障ったので、すぐに辞して帰るつもりだった。

 奴良組の名代を、客間ですらない臣下の控えの間で迎え、己が上座でもって出迎えるなど、早速奴良組の若様として返り咲くつもりであるのか、それとも花霞大将として奴良組と対等になるつもりであるのか、いずれにしてもよくも臆面もなくそんな事ができるものだと、腹立たしくもあった。
 帰るという己を、引き留めることもあるまいと思っていたら、ところが、花霞大将はここで、「それは困る、預かっている雪女が、きっと寂しがる」と言い出す。
 どういうことだと席を立たずに怪訝な顔をしていたら、事前に二人が来ることを聞いた彼女が、会いたがっていたようだから会って行ってやってくれなければ困ると、しきりに引き留めてくる。

 どうやら悪意は無いらしい、むしろ歓迎されているようでもある。しかし………。
 牛頭丸が答えあぐねていると、花霞大将も彼の困惑を正しく理解しており、少し申し訳なさそうに、「オレがここに座っているのは、京都の皆の意志なんだと思ってほしい。京妖怪が全員羽衣狐に与していたわけではないし、羽衣狐が下されたからと言って、京妖怪が全員奴良組を信奉するかというと、違うんだ」しかし毅然と、こんな事を言う。
 負けたのは羽衣狐一派であって、京妖怪の中にも今まで通りの生活を営みたい者があり、奴良組が介入することで京都の秩序が壊れることを、生き残った妖怪たちは望んでいない。
 目の前の年若い大将はきっと、ぬらりひょんの孫でなかったとしても同じことを言うに違いない。
 そう思わせる何かがあった。
 それで奴良屋敷で命を落とすことになったとしても、そうかの一言で済ませてしまいそうな空気が、初対面でも感じ取れる。
 説明されれば理解できる内容であったし、となれば、京都で唯一、一つの勢力として体裁を保っている花霞一家が、易々と奴良組に下るわけにもいかない事情は飲み込めて気の毒にも思えてくる。奴良組の若様を気取るつもりも、唯一残った一家の長だからと言って、京都の次の主を名乗るつもりもないらしいと知り、牛頭丸は少し警戒を解くことにした。

 それに、あくまで喧嘩相手として、仲間としてと強調してはいるが、牛頭丸は雪女を憎からず想っている。
 会いたいと言われて、悪い気がするはずもない。

 そうして実際に会ってみると、雪女は二人を花がほころぶような笑顔で迎え、ねぎらい、客間へ案内した上で、二人を茶屋へと誘ったのである。

 若様のことで相談したいことがあると言われ、もしやコイバナという奴ではあるまいなと嫌な顔をした牛頭丸に、雪女は言い返さず、そこで牛頭丸はなぜだか、もやもやとしたものが胸に広がるのを感じた。
 聞きたくないような、聞いてやりたいような。
 俯く雪女と、彼女を睨みつける牛頭丸の間に、あっけらかんとした口調で割って入ったのが馬頭丸だ。

 かくして、二人は雪女のひそやかな悩み事を、耳にすることとなった。

 あの抗争の中で出会ってから、僅かな期間の間に何度か重ねた偶然の逢瀬の結果、多分両想いであるとはわかったが、いかんせん花霞大将は柳のようにぬらりくらりとしており、それ以上の本心がわからない。
 供寝をしていても守役と守女以上のことはないし、いやそれを期待して侍っているわけではないが、ないにしても、挙げ句、いつまでも奴良組からの預かりもの扱いをされて、引かれた線の内側に入れてもらえないような気がするのは寂しい。

 このような事を話し終えた雪女がふうと一息ついたところで、ぽかんと口を開けた牛頭丸が、例の一言感想を述べたというわけだ。

「下品なこと言わないでよ!」

 そこは厳しく窘めたものの、それ以上の文句も言わず、雪女は溜息を繰り返すのみだ。

「カナはね、あ、カナって、最近屋敷で留守役をしてる、人間の娘なんだけど、リクオさまが物事に執着が無いのは、明王であろうとしているからじゃないかって言うの。私はよくわからないけど、人間にはそういう教えがあるんですって。執着は悪って」
「悪行結構、それをやらかすのが俺たち妖怪だろうが。なんでまた、人間ごときが吹聴する教えとやらに拘る必要がある。だいたい、あいつのその京都を守りたい、助けを求めている者を助けたいっていうのだって、立派な執着なんじゃねーのか。俺はそういうの、まるでわかんねえがよ、何にも執着がねぇなんて考えられねぇな。案外、雪ん子、お前の魅力が足りないだけなんじゃねーの?」
「そんなことあるかもしれないけど、言われたら傷つく!むかつく!」
「……そういう事は氷を吹く前に言え。前髪凍ったぞ」
「フン、いい気味。ぽっきり折れちゃえばいいのよ、そんな触覚前髪」
「せっかく話を聞いてやったってのに、何だよそりゃ、聞き損か!ひでぇ女だな!」
「だって。リクオさまの悪口言うし、また雪ん子って言ったもん。………魅力ないのなんて知ってるもん。どうせ本家の味噌っかすだったんだもん。守子の無い守役なんて、辛くないカレー、坊主の居ない国の袈裟、私なんてどうせ雪の降らない西日本の雪ん子がお似合いだもん。うううぅぅぅ……」
「だからおめぇは雪ん子だって言うんだよ。いちいち本気にすんな、そんなもん。だいたい、京都にだって冬になりゃ雪は降る。そんなに気にしてるんなら、それこそ《虜》を増やせばいいだろう、そんなぬらりくらりとしたはっきりしねぇ野郎なんざ、すぱっと捨てちまったらどうなのよ。案外、お前が自分から東京に残るって言えば、寂しくなって東京に頻繁に来るかもしれねぇぜ。手に入れてたはずの女が自分に興味がなくなった様子を見せりゃ、慌てるもんだ。押してダメなら……って言うじゃねえか」
「自分から、奴良組に帰す、東京に送り届けるって仰せなのよ?追いかけてなんて、来てくれるわけがないじゃない。もう本当に、暖簾に腕押し柳に風って感じなんだもん。追いかけてくれなかったら、私、離れ損だもん」
「それが《教え》とやらだから、従ってお前に執着の無いふりをしてるとかじゃねえの?」

 牛鬼組は、人を惑わし迷わせる術にも長けている。
 人の迷いの心をよく知っているから、人がどうすれば堕ちるのか、どうすれば迷い、悲しみ、苦しむか知っているから、牛頭丸もあれこれと口にしてはみるのだが、そのどれもに雪女は首を振る。

 牛頭丸はたしかに人の薄暗い心や妖どもの執着に深く通じており、裏をかくのに秀でている。
 修行に熱心な僧侶であれ、子煩悩な父親母親であれ、真面目で真摯な商人であれ、必ず心のどこかに付け入る隙があったものだし、過去にはこれを利用して、山や森に分け入る人どもにおそろしを与えていたのだから、雪女が言う人間が居るなど、信じられるはずもない。

 こうしてはどうだ、ならばこれではどうだ、あれこれ知恵を出してみては雪女は寂しそうに首を横に振るので、そうなると牛鬼組若頭は面白くなくなってくる。
 次第に、雪女の話を聞いてやろうという気持ちより、どうしたらその男を籠絡してやれるか、自分が道を外れたと知ったときに、その聖人面がどんなふうに歪むのか見てみたいなど、妖怪として当然の興味もわいてくる。

 牛頭丸が知恵を出し尽くして、ふうむと唸ったとき、それまで餡蜜と格闘していた馬頭丸が、最後の白玉をたいらげてようやく口を開いた。

「嫉妬させてみる、ってのはどうかな。羨ましいっていう気持ちって、持ちやすいものでしょ。そこから欲や執着は見つけやすいはずじゃない?」
「うん、まあ、よく使う手だよな。昔はよく、山に入り込んだ人間の夫婦に別々の幻術を見せて、お互い相手が別の男や女と深い仲になったように錯覚させて、仲違いさせて遊んでたっけ」
「まぁ、アンタたち、そんな事してたの?子供ねぇ」
「もうずうっと昔だよ。それこそガキの頃、馬頭が操り糸の練習するついでにさ、男をこう、操り糸で動かして、幻術の女に抱きつかせたりして。だがよ、馬頭丸、あの若様は昼は陰陽師だって言うぞ、ただの人間のように簡単にひっかかるかね」
「そこは信憑性を持たせて、一芝居打つんだよ。雪女にも協力してもらってさ。何も、操り糸を使う必要なんて無いよ、雪女はただ、自分が欲しがられてるって実感したいだけなんだもん、ちょっぴりだけ嫉妬してもらえたら、それでいいんじゃないの?」

 ちょっぴりだけの嫉妬。
 それは、何とも甘美な響きをもって、雪女の心を簡単にからめとった。

 頼ってくる者を分け隔て無く受け入れ、身支度が整い去って行く者の旅立ちを言祝ぎする花霞大将が、僅かにでも嫉妬を覚えてくれたとき、彼はどんな顔をするのだろう。
 去って欲しくないと、言葉少なにでも告げてくれるのだろうか。
 眉を寄せるんだろうか、視線を落とすんだろうか、あの穏やかな瞳に、一瞬だとしても苛烈な光は宿るんだろうか。

「うん……そういう、ことなのかもしれない」

 見返りが欲しくてお世話をしているのでもなければ、好いてほしくて侍っているのでもない。
 それでも、ほんの少しだけ余分に自分の方を見てくれたなら、求めてくれたなら。
 女ならばそういった気持ちが育ってしまっても致し方ないところを、雪女なならば尚更余計に抱いてしまったとしても、誰がどうして咎められよう。

 ほんの少しだけ、試してみたい気がした。
 ほんの少しだけ、ちょっと悪戯するくらいなら、構わないんじゃないだろうか。

 それでも雪女は、己の性にあのひとを巻き込むのはどうかと、昼の清らな姿も夜の艶やかな姿も等しく思い浮かべて考え込み、やはり良くないと判じた。
 けれども彼女が首を横に振るより先に、もうすっかり花霞大将を一泡吹かせるつもりの牛頭丸が、相棒の話を促す。

「一芝居って、何するんだよ」
「簡単さ、まずは雪女と牛頭丸が、好い仲だって事にすればいいんだよ」

 えええええ。ちょっと待ってよ何でこんなのと。
 おいこら馬頭丸もうちょっと真面目に考えろよ。

 二人が同時に立ち上がり大声を出して、周囲の客等が振り返る。
 馬頭丸は二人を宥め座らせると、餡蜜を食べている間にじっくり巡らせた蜘蛛の糸を、小声で二人に告げるのだった。

 乗り気ではなさそうだった牛頭丸も、聞いているうちにその方法ならば、あの大将が昼の姿でも奴良組三代目としてふさわしい腕を持っているのか試すこともできるし、あの抗争の中で直にぶつかり合うことはできなかったので諦めかけていたが、一体一でやり合ってみたいという気持ちに、武闘派として再び火もついてくる。
 雪女の方は、元々が嘘をつくのに長けた妖ではないのでやはり気乗りしない様子を見せていたけれど、はっきりと二人に断るのも悪い気がして、結局馬頭丸の策に牛頭丸がやる気を示し頷いた後、「雪女もそれでいいね」と念を押され、戸惑いながら、こくんと頷いていたのである。



+++



 牛頭丸と馬頭丸の二人は、翌日には捻目山に帰って行ったが、二人が居なくなってしまった途端に雪女は後悔した。
 やはりやめればよかったろうか、今からでも手紙でそれを知らせようか、いやそれよりあらかじめリクオに、こんな悪ふざけをされるかもしれないけれど、これはくだらない悩みを抱いたつららのせいなのですと、謝罪とともに伝えておいたらいいだろうか。
 悩んでいる間に準備は整い、出発の日はあっと言う間にやってきた。

 昼の間は人間だから、学校や役目があると言っても、目が開かぬのではできることなどほとんどない。
 義兄たちに、早く終わらせて早く帰っておいでと助言されたことも手伝って、もうすぐ夏休みだという頃だったが、予定を繰り上げてリクオは関東へ出立することに決めたのだ。

 土産のあれこれは、献上品として先に送り届けておき、直接渡したい品々やリクオの身の回りの荷は、供をする猩影に任された。
 誰が供をするかでもめにもめた花霞一家だが、結局奴良組の心証が悪い者はやめておいた方がよかろうと、鬼童丸は京都へ残ることになり、玉章もまた、「あまり東に行こうとすると、パパが心配するから」と留守役を申し出たので、ならば奴良組大幹部を父に持つ猩影ならば過不足あるまいとなったのだ。

 茶釜狸や一路猫など、リクオによくなついていた小物たちは大変寂しがったが、「永遠の別れでもあるまいし。いい子にして、待っててね。おみやげ期待してて」などと、目を瞑ったままであったとしても、己等一匹ずつを包み込んで下さるような声でなだめられ、こっくりとうなずいたのである。
 もしも捻目山で何事かあったとしても、そこならば花霞の手勢も駆けつけやすい。「何かあったなら、遠慮なく喚ばぬと、逆に恨むぞ」とは、リクオの頭を撫でながらの鬼童丸の言葉だ。
 かくして、一行は京都駅からまずは捻目山へ向かうこととなった。

「どうしてわざわざ寄り道せにゃいかんのだ。東京へ新幹線で真っ直ぐ行きゃいいじゃねーか」

 これまで何度も繰り返した文句を、竜二は駅のホームでもう一度繰り返した。

「仕方がないだろう、電車の線路に沿って奴良組のシマがあるわけじゃないんだろうし。あちら側で安全を確かめたところ以外の場所を通ったときに、乗っていた電車ごと襲われちゃそれこそ一大事だ」
「にしても、乗り換えだなんだって、そっちの方が疲れるだろ。……リクオ、疲れたら猩影に背負ってもらえよ。そのための居候なんだからな」
「ちょっと竜二サン、居候とは聞き捨てならねぇスよ。俺だってバイトして屋敷に金入れてんだし」
「雀の涙」
「ぐさっ……」
「焼け石に水」
「ぐさぐさっ……」
「リクオの陰陽師の仕事の時給に比べりゃ、お前のバイト代なんてガキの小遣いにもならん。それをぜーんぶ湯水のごとく使ってやがんのは、お前等伏目屋敷の居候どもだろうが。それがなけりゃこいつはわざわざ自分の学費を別に稼ぐ必要なんてねーんだから。こんなときくらいせっせと働きやがれ」
「…………容赦ねぇっス」
「竜二兄ちゃん、そんな、護法たちを悪く言うたらあかんよ。猩影君が無駄に大食らいなだけなんやから」
「おおそうか、それもそうだな、茶釜狸なんてせいぜい一日に林檎二つ分くらいしか食わんものな」
「一路ちゃんなんか、林檎一個も食べたらおなかいっぱいや言うてはるわ」
「というわけで、大食らい、食った分は働けよ」
「吐いて戻すとか、なしやで」
「…………あの、なんか打ち合わせしてきたんスか、あんたら」
「にしてもなー、ホント、羽衣狐がいなくなったからいいけど、リクオと破戸、封印鎮護の内、二人が留守にするってちょっと心細いわ。早く帰ってこいな、リクオ。俺のノミの心臓が凍りつかんうちに。ほんと、頼むわ」
「うわぁー、雅次兄、相変わらずスルースキル高いね。猩影くん、元気出して。頼りにしてるから」
「…………俺、荷物持って席で待ってる」
「うん、ごめんね、お願い」

 猩影がホームの電車の中に姿を消すと、ホームには、リクオにとって馴染みある、三人の兄と一人の妹、そしてリクオの一歩後ろで控える雪女だけとなった。

「まぁ、封印をし直してしばらくは、妖たちも派手な動きはできないだろう。そんな風に帰りをせっつくなよ、雅次。リクオがゆっくりしてこられないだろう」
「ゆっくりなんてしてこなくてええて。びゃーっと行って、ぱーっと兄ちゃんトコに帰ってきなさい。ううぅ、こんなかわいい弟が怪しげな妖怪屋敷に行くなんて。魑魅魍魎の主の屋敷とはすなわち妖怪どもの巣窟、悪行淫行、業深そうな奴等が雁首並べて待ちかまえてる。そこであんなこととかこんなこととか繰り広げられたらどうしよう萌える」
「黙れ変態」
「リクオに変な言葉教えるな」
「あー……リクオ、雅次義兄の事は気にしたらあかんよ。早めに始まった夏休み思うて、ゆっくりしてきたらええわ。うち等が、伏目のことはしっかり守っておく」
「ありがと、ゆら。破戸がイギリスに行くの、見送ってからにしたかったんだけどな。もうすぐ行っちゃうんだもんね」
「向こうでなくちゃ揃えられん学校指定の色々なモンがあるんやて。大鍋とか、杖とか、ローブとか、箒とか、流石に日本では売ってへん変なものばっかりやわ。今日も見送りに来たいて言うてたけど、おばはんが許さなかったらしい。留学前の大事な時期だから、やて。本人、残念がってたから、かんにんしてな」

 兄一人が他の兄二人にボコスコにされ終えた頃、電車の出発を告げるアナウンスが流れたので、それじゃあと一言告げて、リクオは雪女の声と手に導かれ、電車の中へと歩んだ。

 猩影が戸口のあたりで待ちかまえており、わずかな段差に手間取っているリクオをひょいと抱えあげて中へ引っ込んだので、これを雪女も追おうと足をかけたが、彼女の袖をくいくいと引っ張る者がある。

「なぁ雪女、リクオのこと頼むわ」

 ゆらだった。
 真摯なと言うより、どこか睨みつけるようなそれなので、雪女はほんの少し戸惑ったが、言われるまでもないことだ。
 軽んじられたと想い、言い返す。

「もちろんよ。陰陽師などに言われるまでもないわ。リクオさまに危害を加えようなどとする輩があれば、永久凍土の中に魂までをも閉じこめて苦しめてやります」
「ちゃうわ。そんな、危害とかそんなんちゃう。心の方や。あいつな、一人だと泣くんよ。寂しがるんよ。平気そうな顔して、なきめそやから。なきめそな分だけ、強うなったけど、でも寂しがりやから」

 いつもどこか柳のようにふわふわと、およそ荒ぶることなど考えられない花霞大将の姿を、雪女は不意に思い出させられた。
 平気そうな顔をしてはいるけれど、己を東京へ返すと言い張っているけれど、彼の本心は、もしかしたら別のところにあるのだろうか。
 己はちゃんと、真っ正面から、あなたの本心はどうなのと、訊いたことがあったろうか。

 ゆらと雪女、二人の間で電車のドアが閉まったが、雪女は彼女の姿がドアの向こうに見えなくなっても、戸惑いの中でしばらく、立ち尽くしていた。