関東奴良組は、二代目になってから勢力を増したと言われている。
 流石はその二代目、京都抗争を終えてすぐ、引き返しつつ自ら内応者どものシマを巡り、従う者は許し、そうでない者は容赦なく滅すなど、瞬く間に地固めを行った。

 中には西へ北へと逃れる者があったが、これはひとまず放っておいた。
 二代目の目的は、京都から奴良組の屋敷まで、己の腹心で固める道を一つ作り、これをたどっていつでも京都と密なやり取りができるようにすることで、刃向かう者の手打ちは二の次だったのである。
 素早い動きが功を奏して、内応者の多くは蜘蛛の子のように散り散りに逃げ去り、首謀者と見られる大幹部、三ッ目ヤヅラは己の屋敷に火を放ち、その中で自害し果てた。
 こうして、奴良組を内部から喰い荒そうと企んだ者の芽は、潰えたのである。

 流石に疲労困憊の二代目が、奴良屋敷へ帰りついたとき、待っていたのは初代の容赦なき足蹴りであった。

「遅いわ、馬鹿息子!」

 ただいまの「た」の字も言い終わらぬうち、見事な足蹴りを顎にくらって吹っ飛んでしまったのは、うっかり畏を解いていた油断からに他ならない。
 己の屋敷でまさか玄関にたどり着いたところを狙い足蹴りを食らうとは思ってもおらず、幻影ではなく生身でこれを受け止めた二代目は、疲労の上にとどめの一撃を受け、ううむと一つ唸ると、その場にばったり倒れてしまった。
 常のおおらかな笑みをしまい、西からわき起こった黒雲のような禍々しさを帯び、憤怒の赴くままに裏切り者どもを斬り伏せ、一族郎等を滅しながらやってきた、強く恐ろしい奴良組の総大将も、一度己の屋敷に入ってしまえば、古株大幹部にとってはいつまでたっても鯉の坊。
 初代にしてみれば、いつまでたっても甘え癖の残る困った倅である。

 ああ、若菜、なんだそこに居たのか……と呟く二代目に、慌てて首無が駆け寄り、毛倡妓がすぐに奥へ床の準備をするよう言い放つが、初代には容赦など無い。
 二代目の胸元をひっつかんで揺さぶり、魂を無理矢理にこちらへ呼び戻す。

「孫はどうした!リクオはどこじゃい!」
「……あれ、親父」
「あれ親父、じゃねぇ!飛び出して行ったと思えば、ちんたら道草食いながら帰って来おって。その上情報もろくに寄越さんとは何事じゃ!おい、見つかったんじゃろう、一体何がどうなって見つかったんじゃ。孫は今どこで何をしておる。花霞とやらがリクオだと、そんな噂があるというが、それは本当なのか倅ェ、ん?!」
「そんな話まで漏れちまってんのか。青や黒の奴が随分騒いでたからなァ。ああ、そうだよ、リクオは居た。玄関じゃなんだから、とりあえず中で話そうや」
「見たところ連れて来てはおらんようじゃが……?」
「ちょいと込み入った事情があるんだよ」
「………ううぅ………早いところお前が孫を連れてこんと、ワシ、死ぬかもな。ゲホッ、ゴホッ」
「嘘つけ、ぴんぴんしてるじゃねーか、今の足蹴り、絶対本気だったろ」

 いつもなら飄々と話をかわすか、取っ組み合いの父子喧嘩になるかのどちらかなのに、このときの息子が妙にしんみりしているので、初代もそれ以上は詰め寄らないことにしたものの、まんじりともせず明かした夜を思えば、もう一時も無駄にはしたくない、早いところ孫を抱き寄せて安堵させてもやりたい。
 見つけたのならばどうしてそのまま一緒に連れてこなかったかと、息子を恨む気持ちさえ生まれかけた。

 しかしやがて座敷に上がった二代目が、事の次第を全て初代に話して聞かせたときには、いとけない孫が追われた上に、母親まで失ってどれほど心細くこれまで過ごしてきたことだろうか、十年の月日は己等にとってこそ瞬きのようであったが、十四の孫にしてみれば人生の大半でもあるから、すぐに関東へと言われても、逆に今度は慣れ親しんだ故郷を離れるような気持ちがして、不安にもなることだろうと、一つ二つ頷き納得もした。

「………犬のように追われ、母親まで殺されて、さぞかし妖怪を、ワシ等を、恨んだことだろうのう」
「見た目さっぱりしてたけどな、大人びるついでに恨みだとか辛みだとか捨てちまったみたいだ。首無が言うには、奴良組を継ぐ意志も無いとか」
「そりゃあなあ、己を追った家の跡目を、どうして自分から継ぎたいと言うかよ。嫌いもする、警戒もする、それが当然というものよ。てめぇの父御が母親じゃねぇ女に未練たらたら、そっちの女がこれから奴良組の姐さんになるとわかってて、どうしてのこのこ帰ってこれる。これから自分はお呼びじゃなくなるってことくらい、誰にでもわかることじゃ」
「あはははは、耳に痛ェや」
「笑って済む問題かい、こンの馬鹿息子が。そんでその諸悪の根源、裏切り者どもの始末は、つけてきたんじゃろうな」
「ああ。三ッ目ヤヅラが主犯。連判状もあったから、そいつを元に一掃してきた。……してきた、つもりだ」
「歯切れが悪いじゃねぇかい。何か、あったか」
「いや何も。何もなかった。奴さん、てめぇの屋敷に火まで放って見事に散った。何か、不気味なほどに丸く収まってな、気味が悪いのよ。さーっと幕を下ろす準備をしていた誰かさんが、こりゃあいけねぇ引き時だって声をかけたような素早さよ。逆に、なァんか、きな臭くてな」

 父子二人、差し向かいの酒の席に、どこか重苦しい沈黙が落ちる。
 羽衣狐を倒し、鵺復活を妨げ、かつ、己の女を取り返す。
 念願は叶ったはずなのに、どうしてか二代目の心は晴れない。
 何故なのかなど、決まりきっている。
 この帰り道に随行した者の中にも、何故にそんなに浮かぬ顔をされるのですなどと、呆けた問いをする者は居なかった。
 むしろ、二代目に輪をかけて気落ちしたような顔で、落ち込みそうになる分いつもよりも激しい気迫でもって、裏切り者どもと切り結び、踏み潰し、殴り飛ばし、粉みじんになるまで斬りつけたりと、通った後はぺんぺん草すら生えぬ焦土と化した。
 平成の世にあって尚もとどまるところを知らぬ奴良組の威光に、跡目があろうとなかろうと、やはり魑魅魍魎の主とは奴良組総大将の事であると、あの宝船の上、内応しかけて花霞大将の言葉に諭され踏みとどまった者どもは、己のシマを奴良組が通り抜けるまで、頭を垂れじいと息を潜めてやりすごしながら今度こそ思い知らされたものである。

 そこまでしておいて、しかし二代目は、「……何だかな、黒幕ってのが居たんだとしたら、そこに手が届いた気がしねぇ」などと言う。
 そんな己の胸に残るもやもやとした理由を、ここで、二代目は懐から取り出した。
 取り出されたのは、ふくさに包まれた、一枚の白い羽であった。

「 ――― こりゃあ、天狗の羽か。三ッ目ヤヅラめ、天狗と通じておったか?」
「いいや。天狗なんざ、連判状にも名前など無かった。三ッ目ヤヅラの屋敷でも京都でだって、ついぞ姿を見せなかったぜ。だいたい白い羽の天狗なんぞ、おれぁ生まれてから目にしたことねーや。今回の抗争だって、天狗なんて一匹も飛んでなかった」
「なに?あいつは羽衣狐の参謀じゃろう。常にぴったりくっついておらんかったか?」
「はぁ?常にぴったりくっついてた参謀と言やぁ、でかい目玉が頭にくっついた鏖地蔵ってジジイだろ、それに狂骨娘、しょうけら、茨木童子。土蜘蛛はちょいと厄介だったが御業でなんとかなったし、がしゃどくろは的がでかくてやりやすかった。そんだけだ」
「ふむ、狂骨娘とやらも知らんのう。四百年前とはめんばぁちぇんじしたんじゃろうか」

 言いつつ、初代も解せぬ顔である。
 ふくさに包まれていた羽は、炎に炙られいいだけ乾いていたのだろう、風も無いのに行灯の炎のゆらめきが引き金になったか、ぼろりと崩れて灰と消えた。

「天狗の奴め、雲隠れしおったのじゃろうか。あやつも鬼童丸と同じ、古くから《鵺》復活を宿願としていた輩だったからのう、そうなるまではまさか果てるようなことはないと思っていたのじゃが」
「でもそんな奴が居たって話、誰もしてなかったぜ。鏖地蔵は、最初からそこに居たみたいに扱われてた。結局そっちの方は、リクオと鬼童丸のおっさんがやっつけちまった。まぁ、とっ捕まえて事情を聞くとか、そんな事もできない状況だったしなぁ。案外、本当に宿願半ばで果てちまったんじゃねぇの?親父だってそんだけ老けたんだしサ」
「はッ、奴等がワシのように、粋やいなせを理解できるようになれば、老けたふりもできるようになるかもしれんがなァ。まだまだ、ワシのところへ達するとは思えんのう。そうじゃ、鬼童丸はどうじゃった、あやつめワシの倍以上生きておるはずじゃぞ」
「あれ、マジで?妖怪さんたちの外見ってホントおれ、わかんねーわー。ロマンスグレーの素敵なおっさんだったよ。正直、親父っぽさだったら負けるわ、出る幕無いって感じ。リクオの兄貴って言っても通じるんじゃねーかな、おれ。……髭生やそうかな。どう思う」
「馬鹿言っとらんで、少しは真面目に親父として十年分、取り返す算段でもしておいたらどうじゃ。もうすぐ帰ってくるんじゃろう、リクオが、ここへ」
「でもよ、かなわねぇよなぁ。おれは総大将やりながら、若菜の旦那さんもやりながら、あいつの親父もやりてぇなって思ってたのにさ、いや、それが当然だって思ってたのにさ、あのおっさんてば、今やリクオの親父以外はやってねぇって言うんだもん。そこへいきなりおれが親父ですってツラして近づいても、逆に気ぃ使わせるんじゃね?」
「……どうすんじゃい、その溝は。よもや三代目は別の奴に継がせる、とでも言うかよ」
「どうするもこうするも、おれはあいつが生まれたときから、あいつが三代目のつもりだからなァ」
「……それを聞きゃあいくらか安心だ。ワシぁ折角お珱との間にもうけた子が、血も涙も無い人でなしになっていたかと心配でよ。にしたっておめェ、今のいざこざした奴良組をそのまんま押しつけるわけにゃいかねぇぜ、そこんとこのケジメは、ちゃんとつけるんだろうな。山吹乙女のことも含めて………ん、そういや、山吹さんはどうした、一緒じゃねぇのか」

 当然の話題をここまで失念していた。
 二代目の隣にあるはずの美しい娘の姿がないのを、ここで初めて初代は気づいたのである。

 対して、二代目は落ち着いたものだ。
 香の物をつつきながら、さも当たり前のように言い放つ。

「おう、ケジメつけるなら、最初が肝心だからな。……遠野で預かってもらうことにした。あそこなら結界に守られてるから下手な奴等にゃ手は出せねぇ。平和に暮らせるだろうし、山吹もその方がありがたいってよ」
「あン?」
「元々手習いだのを小物どもに教えるの、好いてたしな。もしかしたら、そこでいい男、見つけるかもしれねーしよ」
「………おい鯉伴、そらぁ、どういうこった」

 膳の上の酒や肴はあらかた片付き、二代目は煙管に火を入れると、ふうと長くため息にも似た息をついた。

「順番が前後したが、山吹とは正式に離縁した。若菜はおれの最後の妻、リクオの他に奴良組三代目候補はいねぇ」

 一呼吸置いて、座敷の膳がひっくり返る音、初代の一喝が屋敷中に轟いた。
 様々あったが奴良屋敷がこうも賑やかになったのはなにせ十年ぶりのことであるので、あわや刃傷沙汰の父子喧嘩を、台所の女衆たちも控えの間の近侍たちも、その夜は笑って聞いているばかりで誰も止めに入らなかった。

 もうすぐ、もうすぐ、あの若様が帰ってこられる。

 二代目が最後の妻と宣言したそのひとは、魂すらもう何処にも見当たらなかったけれど、彼女が命を賭して守った若様が、十年ぶりに帰ってくる。
 京都へ向かうを許されなかった賄い処の女衆たちも、今日は毛倡妓を囲んで彼女の土産話に聞き入り、ちょっぴり、酒を過ごしてしまった。



+++



 奴良屋敷で起こった前夜の騒ぎなど露知らず、京都を早朝出立した花霞リクオ一行三名は、電車を乗り継いで昼過ぎには、捩目山の麓付近にたどり着いていた。
 ところで、リクオは目覚めてから今までを、これまでの十年を埋めてあまりあるほど、雪女と互いにこれまで己のことや己の知人友人や、それぞれの屋敷で起こったおもしろきことからもののあはれを感じさせることまでを、次から次と話しては寄り添いあっていた。
 今日も同じように、リクオが少し風が強いなと思えば、雪女は彼が何も言わずとも電車の窓を閉め、日差しが強いのか少し暑いなと思ったところで、サンシェードを降ろし火照った肌を濡れ手ぬぐいで拭いてくるなど、細々とした気がつく世話をしてくるので、目が見えなくてもまるで不便を感じない。けれども、今日は何故だか雪女の口調が少しかたいような、言葉自体も少ないような、しかもいつもより元気が無いような気がして、何度か電車に乗っている間に、リクオは雪女に何事か悩みでもあるのか訊いたのだが、彼女はいいえなんでもと優しく笑うばかりで答えてはくれない。

 彼女がちょっと席を立ったときに、猩影に何事かあったんだろうかと訊いてみるものの、対する猩影は答える気さえおこらない。あんまりにも雪女があわれなのと、我等が大将にして我等が手のかかる可愛い弟分に、頭痛さえ覚えながら、ああとかうんとか、女ってほら体調とかも色々あるからとか、適当な言葉を返しておいた。
 雪女が、このままリクオの側に留まっていたいのは明白だろうに、当のリクオは彼女を奴良屋敷へ返すつもりでいたなどと、伏目で聞いたときには玉章とつい顔を見合わせて頷きあった(視線訳:「コマンダー玉章、作戦の練り直しを要求する」「アタッカー猩影からの要求を受諾する。了解した。……エネミーは予想以上の朴念仁、いや、難攻不落の要塞のようだ」「外堀埋めただけじゃ足んねぇよ、全方位にシールド展開されてんよ!」)。

 以降、玉章が難攻不落の要塞を切り崩す知恵を出しかねているので、これまで何の手も打てずにいるが、そろそろ限界だ。雪女は気丈にも、それならそれで奴良屋敷に帰るその日まで、心を込めたお世話をと決めたのだろう、けれどその奴良屋敷へ帰る日がこうしてついにやってきてしまった。何か手を打たねば、このままでは、リクオは本当に奴良屋敷へ魑魅魍魎の主への挨拶を申し上げ、内輪の者どもと再会を祝った後で、雪女を残して引き上げてきてしまう。
 そろそろ限界だ至急援護求む( ノД`)、とケータイで玉章にメールをしても、\(^○^)/、としか返って来ない現在では、引き止めるのを半ば諦めかけ、古風だが手紙などでの遠距離恋愛を二人に勧めてみるしかないかもしれない、などと思い始めている猩影だった。慣れない思案で頭が目一杯なので、自分にとっても久方ぶりの帰郷であることなど、既に頭から吹き飛んでいる。

 リクオについて少し言い訳をしておくと、何しろ彼は幼少時から修行に明け暮れ母の心配ばかりをして過ごすという日々を送ってきた。母が死んだ後は後で、羽衣狐打倒をただ一つの目的としながら、傍若無人なる振る舞いの武闘派妖怪どもにしいたげられし、おとなしくもはんなりとした京妖怪たちを統べたり、陰陽師たちとあれこれ話し合ったりしながら、実に忙しく過ごしてきたのである。
 小学校でも、放課後の時間を友人たちとの遊びに使ったことは無く、一人前の陰陽師として大人を相手にあれこれとした悩み怨み辛みの類を聞き届け、それが本当に妖のなせる業なのか、あるいはというものを判じては勤めとなしてきた。何度遊びに誘っても、やんわり断られるのが続いてしまえば、級友もまた次第にリクオを誘うことはなくなり、そうこうするうちに、今度はリクオ自身が呪いを引き受け出歩ける体ではなくなったので、中学校には体調が悪いという理由から、ろくに通えてさえいない。
 平らで安らかな京の日々は、リクオの外側にだけあって、そこでは毎日のように誰かが誰かと恋をしたり告白したり振られたり泣いたり逆に二人で川辺を歩いてみたり笑ったり、繰り返されているというのに、そんなありきたりの初々しくも微笑ましい話題にリクオが接する機会はこれまで、皆無に等しかったのだ。
 痴情のもつれ、愛憎の末の悲劇、苦界の底に淀み溜まった汚泥には職業柄、接する機会はいくらでもあったのに、年相応の恋愛術となると蚊帳の外。クラスの中でも、病気がちで、稀にしか塞がらない席の主など、がつがつとした恋の対象としてはあまり見ないものだし、逆に淡い想いを寄せる少女があったとしても、リクオの方は全く気づいていなかったに違いない。
 異界祇園でのバイトの最中などに、からかい半分で年上の女怪に袖を引かれることはあっても、あしらいもまた水商売の内、本気で口説かれたなどと勘違いすることも決してなかった。本気を本気と取ることも無かった。

 このように過ごしてきた彼は、やはり同じように修行一筋で過ごしてきた花開院ゆらと同様、どこか己の性別や惚れた腫れたに無頓着なのである。

 リクオとって、雪女は幼い初恋の相手だ。
 真白で美しい彼女は、心の方もやはり優しく、しかし毅然としていて、許さぬ者を相手にはどこまでも冷徹になる。雪のようにやわらかく、冷徹で、美しい彼女が、昔に見たそのままであるのを心から嬉しく、加えて尚更いとしくも思っている。
 だが彼女が己をどう思っているのか、こちらの認識は、彼女自身が持ち合わせているものと、ややずれが生じていた。

 彼女の前から姿を消したとき、リクオはたったの四歳だった。
 たった四つの幼子を前に、恋など生まれようはずもないし、今だって世話をしてもらっているのは、かつて守子が姿を消した反動で、ともかく甘やかしたいのだろうとばかり考えている。
 彼女にとって己は、《虜》の一人。
 時が満ちれば永久凍土の氷の中、閉じ込められて醒めぬ夢の眠りにつくのも致し方ないところ。
 けれども逆に彼女は、これからいくらでも《虜》を増やせるだろうし、いつかは好いた相手と一緒になるのかもしれない、と。

 ここまで一度も、あの宝船の戦い以来一度も、いやあの時だってちゃんと告げていたかどうか定かではない上に、ともかくリクオ本人を相手に貴方を好いていますと言っていない雪女にも非はあるのかもしれないが、彼女だって全身で愛情表現をしているのだし、今更恋愛の教科書のように木陰に呼び出して想いを告げるなどと思いつくはずもないのだから、やはり彼女をも責められはしない。

 誰をも責められはしないのだが、この捩眼山まで来て、掛け違えたままのボタンが、軋んだ音をたてていた。

 その音の果て、バス停で降り立ったときに雪女の溜息を聞いたリクオは、はたと思い当たってしまったのだ。

 もしかしたら雪女は、あの牛鬼組の若頭か、その補佐か、どちらかを好いているのではなかろうか、あるいは既に好い仲なのではないだろうかと。
 こういった思案は、彼の経験から導き出されたものだ。
 経験とはすなわち、積み重ねてきた陰陽師の仕事の中で見た、悲哀溢れるどろどろとした愛憎劇であり、そうして彼が間違いに気づけないのは、彼自身は常にその劇を判じる側の人間であって、舞台で踊る役者であったことがないからだ。
 とうの昔に舞台に引きずり出されているとは思いもせず、そうだそうかもしれないなと、勝手に納得してしまうに至った。

 ちくりと、した。
 理由はわかっていた。嫉妬の種だ。手に入らぬものへの、飢えだ。
 これを抑える術にも、リクオは長けていた。諦めには慣れていた。
 許せぬものでないのなら、許容すればいい。
 己はそういう、愚かな人間の一人なのだと、わかってさえ居れば心は乱れない。
 彼女の幸せが許せぬものであるはずがないのだし、元より自分など、論外なのだから。

 小さな嫉妬は嫉妬と呼べぬものに育つ前に、誰にも悟られぬうちに、窓から差し込む光のあたたかさへの、微笑みになった。

 三者三様、想いを巡らせながら降り立った捻眼山登山道前のバス停で、しかししばらく迎えを待ってみたものの、誰が訪れる気配も無い。

「……おかしいですね」

 常ならば決して、自ら守るべきひとの側を離れたりなどしなかったろうに、長旅に疲れた様子のリクオを早く休ませてやりたいのと、やっぱり馬鹿げた悪ふざけはやめようと牛頭丸馬頭丸に伝えたいのとで、気が逸る雪女は意を決して、

「少し様子を見て参りますので、リクオさま、木陰にベンチがありますから、そこで休んでいてくださいませ。こんなところまでご足労いただいて、しかも本当ならすぐに迎えが来るはずなのに、行き届かず本当に申し訳ありません」
「牛鬼組のお屋敷は、山の上にあるんだよね?ボクもまだ歩けるよ、一緒に行こうよ」
「いいえ、なりません。灰悟さんもあまり激しい運動はしてはならないと仰せだったではありませんか。すぐに戻って参りますから。……猩影くん、その間、リクオさまをお願いね」

 言い残すと、それまでただの人間のように瞳の色をおさえ、人の女が纏うようなワンピース姿であったのが、いつもの真白き単衣に一瞬で姿形を変じて、冷たい風を吹かせて一飛びに、森を飛び越え行ってしまった。

「甲斐甲斐しいよなぁ」

 自分もリクオの隣にどっかり座りながら、猩影は空を仰いで呟いた。
 心なし、拗ねたように唇を尖らせる。

「花開院のにいさんたちも、姐さんならって安心してるみたいだし、あの竜二サンが舌鋒をおさめてるってのがすげぇよ。俺なんて会うたびにこてんぱんにやられてんのにさー。今日だってアレだもん。あー、事実なだけにヘコむー。……焼け石に水は事実だもんなァ、バイト少し減らそうかなぁ」
「猩影くんが勉強もしないで、バイトバイトって明け暮れてるから心配してるんだよ。竜二兄は嘘つきで、嘘で相手を思い通りに動かすのが得意な言霊使いだよ。ああ言えば猩影くんがそうやってやる気なくして、バイトをちょっと控えると思ってるんだよ」
「………うおおぉ、思うつぼだったじゃねーか俺!」
「竜二兄の言い方はきついから言い訳させてもらうとね、他のお兄さんたちも優しいけど、竜二兄は一番優しいんだ。黙ってようかなとも思ったけど、猩影君の場合は別のことまでやる気なくしそうだから、ボクからも言うね。自分のお小遣いはともかく、うちにお金なんて入れなくていいから、もうちょっとバイト少なくすればいいと思う。ボクだって、仕事のたびに皆の力を借りてるんだし、おあいこでしょ?」
「そういうわけにいくかよ。……まァ、でも、東京に帰るついでに、学費くらいは親父からせびろうかって思ってるんだよなぁ、今回。あーそうだった、そうするつもりなのに全然、これまでの家出の言い訳とか考えてなかった!」
「言い訳なんてしなくても、正直に言えばいいじゃない」
「そういうわけにいかねーの。俺の親父、頭まで筋肉でできてやがんだから、まず吹っ飛ばされる覚悟はしとかねーと。その後だって、うまい言い訳考えておかねぇと何回ぶっ飛ばされることか。ああぁぁ……憂鬱になってきた」

 空を仰いでしまった猩影に、くすりと笑って、リクオも空を仰いだ。

 なにも見えないけれど、鳥の声は耳で、光のあたたかさを肌で感じ取る。
 時折、肌に触れる光が弱まるが、またすぐに強い光。
 かさこそと、葉を揺らす小動物か、小鳥か、可愛い気配もする。

「後のことは、後で何とかなるよ。せっかくいい天気なんだし、悩むのは後にしようよ」

 誰のせいで悩んでいると思っているのかと、猩影がじと目でリクオに目をやったところで、あっと声を上げた。

「どうしたの?」
「あいつ!あの野猿、俺のケータイ取りやがった!」

 なんと、猩影のポケットからのぞいていたケータイを、この辺りに住む野生の猿だろう、ひょいと取り上げて瞬く間に側の木にあがるや、しげしげ眺め始めたのだ。
 猩影が、おいそれを返せと憤慨しても、猿は歯を剥きだしにして、きしきしとせせら笑うような表情を見せる。それだけではなく、枝の上で猩影を挑発するように、ぴょんぴょんと跳ねて見せるのだ。

「てめぇ、待ちやがれ!」

 リクオが止める間もなく、猩影は一足飛びに猿を追って枝の上に飛び上がったが、既にそのとき猿は別の枝にひょいと飛び移り、そこでもまた、きしきしとせせら笑うのだ。
 待て、待ちやがれと叫ぶ猩影の声が、やがて遠のいていく。
 辺りには陽の気配が強く危険は無いと思われたので、リクオも止めはしなかった。そのうち取り戻してくるだろう。雪女が先に戻ってくるかもしれない。それまでひなたぼっこするのも悪くはないだろう。
 今の自分にはどうせ荷物番くらいしかできることはないし、土産物のほとんどは先に東京へ送ってしまっているので、奪われて困るような貴重品も無い。
 時折聞こえる、慌てたような猩影の声に笑いつつ、リクオはそこに留まって、やはり空を仰いでのんびりと、二人が戻るのを待つことにした。

 しかし、ふと気づけば。
 ひやり、とした空気が周囲に満ちている。

 足下から這いあがってくる濃霧のような霊気が、足首のあたりをひやりひやりと撫でてきて、あれほど溢れていた獣たちの気配が、やがてしんと静まり返ってしまった。

「……猩影くん?」

 今の己は戦うに向いていない。
 副将を呼ぶが、来ない。

 己等は、見えない壁の力か、それとも無数に重なり合う次元のいずれかを使ってどちらかがどちらかの元から切り離されたかして、遮られたらしい。
 向こうでも今頃、リクオと離されたと悟って探しているのかもしれないが、こうなればお互いが背中合わせに立っていたとしても、気づくことはないだろう。

「……誰か、居るね」

 己等に術をかけた誰かに、問う。

 今もなお、こちらの体はあまり言うことをきかない。気が進まなかったが、術中に落ちているのかどうかをたしかめるためにも、立ち上がった。
 立ち上がってからやはりと思ったのは、手探りで今まで座っていたはずの椅子を探しても、そこには何も見あたらず、春の雨に生い茂った背の高い草の先が、手のひらをくすぐったためだ。

 さやさやさや、揺れて擦れる森の木々。
 小声で何事かを囁き合って、招かれざる客への仕打ちを、煮て食おうか焼いて食おうかというようなことを、あれこれ相談しているようだった。
 どこまでも静けさばかりがある森の中で一人、耳を澄ませていたリクオは、不意に己に向けて放たれた一閃に、気づくより先にまず体が動いていた。

 後ろへ飛んだ。剣戟だと察したのはそれからだった。
 人ならざる者の手による剣戟に、風が逆巻き己の喉元を狙って伸び上がってくる。
 次に懐から呪符を放ったのは、短くはない季節の間に培った経験がなせる条件反射だ。
 試すような一閃、ついでに放たれた追い風の切っ先を紙一重で交わした先で、ガッキと鈍い音をたて、剣と独鈷杵が合わさった。

「へぇ、昼の間は盲いた陰陽師で戦えないと聞いていたが、こちらもそこそこには使えるらしいな」
「君は、牛鬼組の……?」
「牛鬼組若頭、牛頭丸。花霞リクオ、あんたと話がしたくて、お供とは引き離させてもらったぜ」
「……じゃあ、さっきの野猿は、君が操っていたのか」
「猿が猿に騙されてちゃ、世話ねぇな。ああいう力馬鹿は、俺の得意分野だよ。なに、不安がることはねぇ、話が済んだら俺がきっちり山頂の屋敷までお供してやるよ、奴良の若様。殺しはしねぇ。案内つかまつる前に、こうしてゆっくり話をさせてもらいたかった。まぁ、お前には個人的な理由でちぃと腹がたっててな、さっきのをかわしていなかったら、少し痛い目には合ってもらってたかもしれねぇ」

 リクオの前で、カチリと刀を鞘に納める気配がした。
 戸惑いながらも、リクオもまた仕掛け独鈷杵を、再びパーカーの隠しポケットに仕舞う。

 牛頭丸が怒る理由に心当たりと言えば、彼が伏目屋敷を訪れた際の待遇くらいだが、あれについては理解してもらえたと感じていた。
 真意をはかりかねて首を傾げる牛頭丸は、もったいぶるつもりも無いらしい。
 一つ息を吸い込んで、

「あの雪ん子は、つららは、俺の許嫁だ。聞けばお前、寝所までともにさせているらしいじゃねえか。京の奴等は、あいつがじきにお前の嫁におさまるとか、ふざけた事を言ってやがったな。てめぇ、ひとの女に手を出そうとは、どういう了見だ」

 吐き捨てるように言い放つ。

 木の上で気配を消しながら牛頭丸の様子をうかがっていた馬頭丸は、たった今、例の猿から操り糸を切り離したところだ。
 あとは牛頭丸とリクオの話の行方を見守るばかり、リクオが少しでも雪女に未練を持つようなら、それでちゃんと雪女の目的は果たされるというのに、牛頭丸のあまりの棒読みっぷりに、あちゃあと顔を手の平で覆った。
 さてどうなるだろうか、昼の姿の花霞リクオは、小柄で華奢な少年で、にこにこ笑っているしか能がないようにも見えるから、騙されてくれるんじゃないかと期待しつつ、成り行きを見守る。

 ここで上手くリクオを騙せたなら、牛頭丸は許嫁たる雪女へよくも恥をかかせやがったなと怒る振りをする。リクオはそんな事実は雪女から聞いていないと言うだろう、それはそうだ、そんな事実など無いのだから。そこで牛頭丸はさらに怒る振りをする。どんな理由があろうと、元服まで済ませておいて女に供寝をさせるとは、己の女にしようという魂胆があったからではないのかと、厳しく追及する。答えがどういうものであれ、牛頭丸は、そういうつもりがあったものだと言い切り、少しでもあの女を好いているのなら、一体一でどちらがあの女にふさわしいか決めようじゃないかと剣を抜いて迫る。
 聞いた限り、リクオもどうやら雪女を憎からず想っているのは、間違いない。ならば、そこに付け入る隙はあるはずだ、切羽詰まれば、リクオも剣を抜くだろう。
 というのが祇園の茶屋話した馬頭丸の案で、聞いている間、砂を吐くような顔をしていた牛頭丸と、ちょっと頬を染めた雪女の顔が対照的だった。

 馬頭丸にとって意外だったのは、牛頭丸のあまりの演技力のなさだ。
 あいつあんなに人を騙すの、下手だったっけ、と思うほどの大根役者なのである。
 仮にも。牛鬼組の。若頭が。

 本人も自覚があるのだろう、なんだか自分でも調子が出ないと思っているらしく、言い放ってから首をちょいと傾げた。
 どうせ相手は盲だ、かまわないだろう………そう考えてのことだったが、リクオはそこで、牛頭丸の所作が引き金になったかのように、ぷっと吹き出した。

「何がおかしい」

 わざと怒ったような声で取り繕うも、リクオの笑いはおさまらない。

「だって。あんまりにも棒読みなんだもん。ふふふ、これはどういう筋書きなの?」
「す、筋書きって、なんだよ」
「三人で、祇園茶屋で何か相談してたんでしょ。あの辺りの猫たちは、皆、ボクの護法の息がかかってる。壁に耳あり障子に目あり、卓の下には、にゃんこありってね」
「………がーーッ、なんだよ、筒抜けか!」
「それに、お芝居するなら、もうちょっと練習が必要なんじゃないかな」
「うるせぇな、いつもはこんなんじゃねーんだよ!何か今日は気分がのらねぇんだ!ああくそ、そうだよ芝居だよ、ったく、笑ってんじゃねぇよ俺だってこんな……あいつがあんな顔しなきゃこんな事なんて誰が……ッ。おい、じゃあ単刀直入に聞くが、お前、あの雪ん子と寝所までともにしておいて、まだ奴良組に返すとかぬかしてるらしいが、恥ずかしいと思わんのか。お前はあの雪ん子に、《虜》になるぐらい好いていると言ったらしいがよ、それでしまいか、その先のああだこうだはどうした、それがねぇから俺だってこんな茶番に付き合わされてんだ!」
「雪ん子って、つららのこと?」
「他に誰がいる。てめぇはあの女に惚れてんじゃねーのか、えぇ?!」
「うん。ボク、つららが好きだよ。昔から。君は?」
「………なんで俺が関係あんだよ、俺が訊いてんのは、お前の」
「だったら牛頭丸もどうして、ボクの気持ちなんて訊くの」

 目を瞑ったままなのに、視線が、己を捉えた。
 牛頭丸は不思議に、そう感じた。
 居心地が悪い視線にさらされてまで、どうしてこんな茶番に付き合ってやらねばならないのか、むしゃくしゃとしてくる。
 今日に限って、芝居にも興が乗らない。あの雪ん子がお前を好いているんだぞと、ここで言ってやるのも癪に障る。知らぬのなら目の前の男はとんだうつけだ、教えてやるに値せぬし、知らぬ存ぜぬで通そうとしているだけの男なら、そんな男にあの女を渡してなるものかという気が起こってくるのだ。
 そう、渡してなるものか、と。
 はたり。
 牛頭丸、雪女から相談を受けたときから感じていた、なんだかもやもやとする、癪に障るような気持ちを、ついに自覚してしまって、ぽかんとした。

 そうなると、新たな怒りがふつふつとわいてもくる。
 どうして己がこんな茶番の、しかも女を寝取られた男なんぞという情けない役どころをしなければならないのだ。己が本当にあの女を許婚にしたならば、決して、決して、腕の中から逃がしはしないのに、この男は一体何をしているのだ、と。
 言ってやりたい。あの女が四六時中、お前の事を考えているのを知っているのかと。
 聞かせてやりたい。末席でも良いから京へ上る宝船に乗せてくださいませと、額を畳にこすり付けて二代目にお願いして、彼女が京都へ来るに至った顛末を。
 しかし、タダでは教えてやりたくなどない。

 相反する感情がぐるぐると渦巻いて、牛頭丸の口から唸るような声が漏れた。
 そうして唸りは、ついに、

「ああ、ああ、好きだとも。俺はあいつが好きだ。雪女のつららが好きだよ。ドジで弱いくせに一途で、女怪のくせに毅然と戦おうともしやがる。笑うと可愛い。からかったときの顔もいい。許婚?おうとも、いつかそうしてやりたいさ、畏れ入ったとまでは言わせなくてもいい、あいつに、『まァ、アンタならいいか』と、そこまで言わせられりゃあ御の字だろうよ。だからお前の気持ちを訊いたんだよ。それがどうした!」

 枝の上の馬頭丸をして、「え、牛頭丸、アドリブ?すごすぎ」、思わず手に汗握るほど鬼気迫る、一世一代の大告白に姿を変えたのである。
 本人が目の前に居たのなら、絶対に言わなかっただろう言葉を、ぜいぜいと肩から息をするほど力を込めて言ってみれば、なんだか胸のつかえが取れて、すうっとした。

 さてどうだ、お前はどんな顔をするか、気づいた瞬間に失った恋へのせめてもの手向けにじっくりと、どんな情け無いところも見逃してはやるまいとばかり、牛頭丸はリクオの顔を、人の心の隙間を絶対に見逃さぬ鋭い視線で睨みつけるも、嫉妬の欠片すら見当たらない。

 リクオは例のごとく、ほわりと微笑んで、

「そうなんだ。牛頭丸もつららが好きなんだ。よかった。君たち二人が帰った後から、何だかつららが ――― 雪女が、元気なくて。君たちのどちらかを、好いてるんじゃないかなと思ってたんだ。特に牛頭丸には、ボクにしないような軽口とか言い合って、すごく楽しそうだったから」

 牛頭丸が呆気にとられるようなことを、平気で言う。

「 ――― は?!いや、ちが、それは口喧嘩相手というか」
「牛頭丸も、こんなに強いのに、雪女がどんなにからかうようなことを言っても、手を上げないでしょ」
「意味もなく、女ァ子供、小物の類を手にかけるような趣味、持ち合わせてねぇだけだよ!なんだてめぇは、気持ち悪ィ奴だな!てめぇも好きだと言ったそばから白旗宣言かよ、情けねェ!あいつが俺を好いてたら、てめぇは潔く身を引こうとでも言うのか、あぁン?!てめェも男なら、ちょっとは格好いいの悪いのと考えねぇで、てめぇの方を向かせようたぁ思わねぇのかよ!」
「心は、縛れないでしょう」
「それを縛るのが妖だ、手に入れられぬものを絡め取るのが妖だ。てめぇだって魑魅魍魎の主になろうってんなら、それぐらい ――― 」
「ボクは、魑魅魍魎の主にはならないよ」
「な、に?」
「奴良の姓は捨てた。花開院から花の一文字を賜った。羽衣狐の呪いは解けて、二代目の元にはかつての妖の妻が戻った。ボクが戻る理由は何もないはずだ」
「だったら、何で、お前、これから奴良屋敷に帰ろう、凱旋しようってんじゃねぇのか」
「ボクが赴くのは敗残処理。京で仮にも一家を立ち上げて、刃向かう輩と小競り合いはあるけど、それでもまぁ、皆を従わせる力があるのは花霞くらいだと思っている。この前にも言ったよね、ボクは生き残った京妖怪たちの身柄を保証してもらうために、奴良組に詫びに行くんだよ。生まれを利用して、ボクを大切に思ってくれるひとたちの心を利用して、汚い交渉をしに行く。本当なら奴良組が手に入れられるはずの京都を、そうはさせないために。……東京へ来るのは、これが最初で最後になると思う。以降は奴良組には、一切立ち入らないつもりだ。
 それまではと思って、ちょっと雪女に甘えすぎちゃった。牛頭丸、君には悪いことをしたよね。ごめんね」

 なんだこいつ、日本語通じねぇという脱力感も束の間、奇妙な感覚が、牛頭丸の足元から頭のてっぺんまで駆け抜けた。
 嫉妬の欠片も見当たらない。
 ほんわりと笑う表情は、どこか泣いているようにも見えるが、しかし。
 いくら陰陽師であったとしても、人間ならば付け入る隙が必ずあるはずだと、あれこれ考えていたものが何も無い。

 何かを望む気持ち、認められたいという欲、人間ならば誰しも持ち得るはずの僅かな隙間を、牛頭丸の目が見逃すはずはないのに、どれほど目の前の人間を心の内を探ってみても、まるで見当たらない。まさかそんな奴が在るはずがと、さらに注意深く見ても何も無い。
 俺は一体今何を目の前にしているのだろうと、気づけば全身の毛穴からぶわりと冷や汗が出た。

「 ――― 菩薩にでもなろうってのか、てめェは」

 駆け抜けた《畏》を、認めたくなくて牛頭丸は無理矢理口の端を吊り上げた。
 どうにか笑いの形にしたところで、フンと鼻で笑ってやった。
 高僧や陰陽師という者の中には、菩提心という厄介なもので心を満たしているものがあって、それ等は少しばかり喰いにくいと、彼の主、この捩眼山の牛鬼が言っていたことがある。それを思い出した。喰いにくいどころではない、歯がたたない。
 せいぜいが、皮肉にせせら笑うので精一杯だった。

「なろうと思ってなれるものじゃないのは、わかってる。なりたいなんて、軽々しく言うものでもない。でも、なろうと思わなければ、いつまでたってもそうはなれないとも思う。だから、それなれればいいって、いつも思いながら修行をしているよ。そうすればボクが寿命を終えた後も、ボクの想いが伏目を守るだろう。螺旋の封印の八を担う陰陽師が要らなくなるし、いつか封印の意味を知る人が絶えたとしても、祈りの形なら、きっと残せる。無意味かもしれないけれど、ボクにできるのは、ここまで育ててくれたおじいちゃんやお兄ちゃんや、伏目の皆に少しでも恩返しができるとしたら、そんなことぐらいなんだ」

 牛頭丸は言葉を失った。皮肉は、皮肉になり損ねてしまった。
 見たことの無い生き物を見れば、これをじろじろと見つめてしまうのは当然だろう、今の牛頭丸が、まさにそういう心境だった。

 対して、リクオはやけに晴れ晴れと言うのである。
 全ての未練を断ち切ったように、ふうわりと笑うのである。

「よかった。牛頭丸だったら、何だか安心だな。敗軍の将を相手にしても、表向きはちゃんとわきまえてくれるし、強くて優しいもの。この役目が済んだら、ボクも安心して、京へ帰れる」

 何か言い返すべきだ。なのに言葉が出てこない。
 牛頭丸は目を見開いたまま、目の前の生き物をじろじろ見つめる以上できずにいる。

 静けさの中に囚われ向かい合った、リクオと牛頭丸の足下に、ひやりとした空気が霞のように這い、絡む。
 これまで、牛頭丸が操っていたはずの妖気はしかし、いつしか操りの糸を離れて、ゆっくり、ゆっくりと、その濃度を増していた。

 はたと二人が気づいたときには、辺りはすぐそこの木の向こう側がもう判じられぬほどの、濃い霧の中に包まれていたのである。

 もっとも、リクオにはこの様子など見えるはずもない。
 肌寒いほどに妖気が濃くなってきたのを感じ、脆弱な人の肌が寒気に泡立ってきたので、何か周囲の気配がおかしいようだと牛頭丸から瞑ったままの視線を逸らし、辺りを探るように顔をめぐらせただけだ。
 牛頭丸は、リクオがふるりと身震いしたところで、そうだまずはこやつを山頂の屋敷に連れて行かねばと我に返った。

 と、そのときである。
 ばさり、どこかで、羽音がした。
 二人、弾かれたように、同時に互いの背と背を合わせる。

 羽音は一度だけ、すぐ近くだった。
 鳥か。いや違う、ここは牛頭丸と馬頭丸が作った迷いの森の中、鳥獣がまぐれで入り込めるような場所ではない。

「………何者だ?」
「牛頭丸、静かに。……来る」

 静かであったはずの森に、ざわざわと風が渡る。
 四方から、山頂から、麓から、ありとあらゆるところから、ざわりざわりと気配が満ちてくる。
 なにも無いところに湧き出づる泉のごとく、ある日突如として訪れる不幸のごとくに、どろりとした白い霧の向こで、今度こそ間違いない、ばさり、ばさりと、多くの羽音が響いてくる。近づいてくる。

 一羽二羽ではない、群れだ。

 これは。

 牛頭丸の背筋を、冷たいものが流れゆく。

「百鬼夜行……?!」

 ざわざわと近づいてくる、妖しき者どもの気配に圧され、牛頭丸の手が思わず腰の刀にのびるが、その腕をリクオががしりとつかんで諫めた。

「しッ。喋らないで。すぐ隠れよう。三人じゃ埒があかない。馬頭丸、もうちょっとこっちへ」

 枝の上に取り残されたまま、やはりただならぬ気配に気づいて右往左往していた馬頭丸は、己の居所を知られていたことに驚くよりも今はこの呼びかけを救いの手と取って、素直に枝から飛び降り二人の側へ駆け寄った。
 空が、静かな蒼の空が、轟々と鳴っている。
 一点の曇りもなかったものを、瞬く間に黒雲がわき起こり、白い霧と黒い雲の合間を、輪を描くようにして風が通り抜ける。

 天にも地にも、どこにも逃げ場は無い。
 既に彼等は、何者かの百鬼夜行に出くわしていた。
 三人では埒があかない、しかし隠れると言ってもどうやって ――― 。
 焦る牛頭丸の背後で、リクオが素早く印を切った。

「オン・アミリティ・ウン・ハッタ ――― 軍茶利明王、悪しき者どもの目から我らを隠し給え。南方にあって結界の一となり、我らに加護を」

 何かと思えばこんな時に念仏かと、牛頭丸が苛立ちを覚えたのはほんの一瞬だった。馬頭丸がぐいぐいと袖をしきりに引くので何かと思いそちらを見やれば、白い霧の中にぬうと立ち上がった、大きな背があった。
 微笑みを浮かべていた顔に、今は緊張を漲らせて、細く優しい声を紡いでいた口からは、今は朗々と歌うような真言を、リクオがさらに紡ぐ。



 オン・バザラ・ヤキシャ・ウン ――― 金剛夜叉明王、北方にあって結界の一となり、我らに加護を。
 オン・ソンバ・ニソンバ・バザラ・ウン・ハッタ ――― 降三世明王、東方にあって結界の一となりて……。
 オン・シュチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソハカ ――― 大威徳明王、西方にあって結界の一となりて……。

 四方の明王よ、我等に加護を。



 呼ばれた明王は三人に背を向けて、それぞれの方角を厳しい顔でぎょろりぎょろり、風色の眼で睨みつける。
 彼等の存在は透明で希薄なように思われたが、囲まれてしまうとあれほどざわりざわりと騒いでいた気配が遠くへ去ってしまったかのように、彼等の透明な背を通して向こう側を見てみると、一枚の硝子に映った別の世界のものであるかのように、次第に荒れ狂う風が、霧が、雲が、渦を巻いて草を踏み倒し、枝を折り、土を踏みならしてやってくるのがよく見えた。
 三人には、荒れ狂う風など届かず、髪の一本すら揺れぬというのに、外側は大嵐だ。
 やがてこの大嵐からこぼれるように降り立ったのは、修験者の出で立ちをした男だった。
 ただの男ではない、背には白い翼が生えている。
 天狗であった。
 さらにこれに続いて、一羽、二羽と、同じように白翼の天狗たちが、空から舞い降りてきた。

「この辺りから気配がしたはずだが」
「隠れたか。いくらか妖気が残っているようだ、近いぞ」
「辿れるか」
「いや………拡散しているのか、うまく辿れぬ」
「探せ」
「探せ、探せ。《神器》を手に入れるに、またとない機会ぞ。この機を逸せば、また守られてしまう」
「探せ、探せ、《神器》を探せ」
「探せ、探せ、悲願のために」
「探せ、探せ、草の根分けても探し出せ」
「いたか」
「いや、こちらにはおらぬ」
「そちらはどうだ」
「いや、こちらにもおらぬ」
「どこだ」
「どこへ行った。どこへ隠れた」

 なんと天狗どもは、すぐ目の前に居るはずの三人に気づきもしない。
 長い鼻をすぐ目の前につきつけられて、馬頭丸はごくりと息を呑み、牛頭丸もまた、どんどん数を増す天狗たちに知らず息を殺しているのだった。

 天狗の数たるや、十羽二十羽ではない、空から地上を探す者、地上すれすれを滑空する者、地上に降りてがさがさと草むらを杖でつついている者、併せて百はいる。
 まさしく天狗どもの百鬼夜行、この土地が牛鬼組のものだと知っていてのことならば、惨殺を持って報いるに値する狼藉に他ならなかった。

 もっとも、一体ニ体でかなう群れではない、今見つかれば、袋叩きにされて下されてしまう。
 理屈をわからない牛頭丸ではない、陰陽師の術にすがるなど本意ではないが、今はひたすら、耐えるしかない。

 不思議なことに彼等は、すぐ目の前にいる三人を、見つけ出せずにいる。
 草むらをかき分け、木の枝を見上げ、辺りをじっくりと睨みつけているくせに、目を凝らしてリクオの鼻先に己の顔を近づけても、まだ見つけられない。
 どれだけ近づいても、辺りを踏みならしても、三人が立つ場所だけは空間を切り裂いたようにぽっかりと、周囲をぐるぐると歩き回るだけである。
 実際は、そう長くはなかったはずだ。
 それでも、堪え忍ぶ時間というのは長く感じるもの、天狗の群れが周囲をうろつく時間は、一時間にも二時間にも感じられた。

 やがて、天を唸らせる風の音が、一際大きくなったかと思うと、雷がそのまま舞い降りたかと思うほどの轟音そして稲光とともに、探索を続ける天狗どもの中心に、背の翼も雄々しく大きな年経た天狗が、軍配を手にして立っているではないか。
 頭髪は後ろを残してはげ上がっており、残った髪もまた真っ白に色が抜けている。
 険しい表情の顔にも、幾本もの皺が刻まれている。
 にも関わらず、率いた天狗たちのどの者よりも大きく頑健そうな体を、重たげな武者鎧に押し込めて尚、身軽そうな足運びを見せた。
 鎧の重さか、頑健な体のためか、着地の瞬間にずしんと地響きがしたのは、まさしく大天狗たる貫禄だった。

 この姿を認めた天狗たちは、その場に整然と片膝をついて迎えるのだった。

「おったか」

 老人の顔であるが、声は雄々しく、精力的な男を連想させた。
 ぎょろりとこの視線に射すくめられ、脇に控えた一人の天狗が「はっ」、と返事をして畏まる。

「この辺りに先ほどまで居たことは、間違いありませぬ。しかしどこへ行ったのかは、依然調査中にて、大天狗様には今しばらくお待ちいただきたく」
「……何か気配がするな。術の気配がしおる」
「は……?」
「おそらく、彼奴はどこへも行ってはおらぬ。すぐ側で、我等を見ているはずだ」
「馬鹿な。一体どこに」
「すぐそこよ。おそらくな、彼奴め、ワシ等に気づいて結界を張ったのだ。だとすれば、いくら探しても見つかりはせぬ。すぐ目の前にいたとしても、ワシ等には決して見つけられはせぬわ」
「ならば、向こうから出てくるよう、炙り出せばよろしいのですね」
「ようわかっておるではないか。山頂に牛鬼の屋敷がある。まずはそこを焼き払うぞ。そうなれば正義面の花霞め、自ずと顔を出すであろう」
「……よろしいのですか。牛鬼殿は我等の……」
「滅多なことを言うでない。どこで奴が聞いておるかわからぬぞ、それ、すぐそこに、例えばこの軍配の先に」

 風を切った軍配が、リクオの鼻先でぴたりと止まり、前髪を揺らした。

「そう、ここにおって、我等の話を聞いているやもしれぬのだからな」
「はッ……」
「それに、あれもワシ等といつまでも仲良うしたいとは、思っておらぬはず。聡い梅若丸はわかっておるはずじゃ、望む道具が同じものであったとしても、道具の使い道について我等はそれぞれ違うことを考えていると」
「牛鬼殿は、お気づきの様子はありませんでしたが」
「気づいておらぬならば、ワシの見込み違い、加えて我等にとっては僥倖よ。手強い敵が今日、一人減るだけのこと。行け」
「御意にございます。者ども、聞け!これより山頂の屋敷へ奇襲をかけ、牛鬼組々長・牛鬼を討ち取る!ぬかるなよ!」
「応!」

 舞い上がった天狗たちは、空で待機していた同胞と合流すると、軍隊のように統率の取れた隊列を組み、まっしぐらに山頂へ向かって飛び去って行く。
 これを見上げて得意げに頷いた大天狗は、辺り一帯に轟く大声で、

「聞いておるか花霞、魑魅魍魎の主の血族よ、ワシ等はこれより牛鬼組へ攻め入る。貴様ならば奴良組に義理を感じて参戦するであろう、心より楽しみに待っておるぞ。いやなに、もちろん尻尾を巻いて逃げてもらっても、いっこうに構わんがな」

 挑むような口上を述べるや、哄笑と、一際大きな羽音をたてて、悠々と飛び去ってしまった。

 今や黒雲は山頂を覆い、稲光を幾つも轟かせている。
 突然のことに言葉を失っていた牛頭丸だが、立ち直りは早い。
 山頂には、己の主が従える妖怪どもが、わんさといる。己等の主がそう簡単に討ち取られようはずもないし、ましてやこの襲撃に気づいていないはずもない、ならば己のなすべきことは、すぐにも馳せ参じて奴等を迎え撃つことだ。

 大天狗の姿が、まっすぐ山頂へ向かって見えなくなってしまったところで、牛頭丸は馬頭丸と頷き合う。
 彼等の前でいまだ明王への真言を紡ぐ、少年の華奢な肩に手をかけた。

「若様よ、奴等、行っちまったぜ。ともかく、お前は一度ここを離れて京へ帰った方がいい。来てもらったばかりで悪いがな、これじゃあお迎えも何もあったもんじゃねェや、今この隙に雪女と大猿を連れて」
「しい……。牛頭丸、馬頭丸、まだだよ。奴等、手勢を少しそこ等に残してる」

 いまだ印を結んだまま、声を落としてリクオが応えるので、牛頭丸も訝って今一度妖気を辿ってみるのだが、辺りはすっかり通り抜けていった天狗勢の妖気に気配が乱れてままならぬ。それでも言われてみれば、山頂へ向かった振りをして、木々の後ろに隠れてこちらを伺っているらしいのが、数羽、あるらしいとわかった。
 なんだ、ただの少数ではないかと、牛頭丸、鼻で笑う。

「百鬼夜行じゃねぇんだ、あれくらいなら俺たち二人で何とかなる。おい馬頭丸、やっちまおうぜ」
「待ってよ牛頭丸、他の奴等だって引き返してくるかもしれない。何が狙いかもわからないのに、迂闊に動くのは」
「だったらシマがとられるところを、このまま指くわえて見てろってか、ああッ?!」
「違うよ、せめてここ等を囲む奴等がもう少しここを離れるのを待ってからって……」
「俺はお前の百鬼じゃねぇ、お前に従う義理はねぇ。こちとら牛鬼組の若頭、ただ隠れて奴等をやり過ごすわけには行かねェんだよ。お前はここにいな、若様」

 己等を囲む明王をすり抜けんと、牛頭丸は勇ましく足を踏み出すも、不思議なことに東から出ようとすると西からやはり牛頭丸の足が出てくるといったことが起こり、行くに行けない。
 馬頭丸は、目の前で牛頭丸の足がちょんぎれて、反対側からにょっきり出てきたのを見て、己も試してみようと腕を外へ出してみたところ、これも反対側の空間からにょっきりと出てきたので、今がどんな場合かをすっかり忘れ、子供のように笑い出し、「遊んでる場合か」と牛頭丸にぽかり、やられてしまった。

「出るなら、一度術を解かなくちゃ。でも一度居場所を知られたなら、その後同じ術を使っても意味がないんだよ」
「何だよ、使い勝手悪ィな。俺たちだけ出すわけにいかねぇのか」
「無理だよ、一緒に部屋に入ってドアを閉じたのに、そのドアを開けずに出ていくわけにはいかないでしょ」
「そんじゃあ、さっさとその術を解け」
「あと十分も待てば、奴等だってここにボク等がいるって確信があるはずないんだ、少しずつ数も減ってるみたいだし、もう少し待ってから……」

 リクオが言いかけた、そのときである。
 森の向こう側から、異変の中で許される限りの声量で、リクオ様、どこにおいでですかと、女の声がする。
 者どもに気づかれぬようにだろう、囁くようにだが、それが実にもどかしそうである。
 声の主はすぐに、目の前に現れた。

 黒雲に覆われてしまった空の下、彼女は焦りを隠さず走っては、しげみの裏、木のかげなどを覗いている。
 雪女だった。

 別の者の姿であったなら、牛頭丸ももう少し考えたろうが、これを見ていてもたっても居られなくなった。なにせすぐ側には、少数とは言え天狗どもが息を殺して隠れているのである、なのに、雪女ときたら山に溢れる妖気に邪魔されて気づかないのか、そこかしこを覗いては泣きそうな声で、叫ぶのだ。

「リクオ様。……どちらにいらっしゃるのです、返事をしてください、リクオ様!」

 渋っていたリクオはすぐにでも印を解くだろう、牛頭丸はそう考えて、来る争いに備え、剣を抜いた。
 だが。

 リクオは表情一つ変えず、やはり印を組んだままだ。

 牛頭丸が怪訝に思ったのも束の間、すぐに辺りに隠れていた天狗どもが姿を現し彼女を取り囲み、「雪女か」「あの神器の主の連れではないか」「捕らえて人質にせよ」などと、当然の相談をし始めたので、ついにこらえきれなくなった。

「おいお前、すぐに術を解け、解かねぇか!」
「でも、あれは……」

 リクオの静止など聞く耳持たず、無理矢理にでも解かせんとして、牛頭丸がリクオの手に手をかける。
 かたく結ばれた印は、術者と使役される者とを繋ぐ、絆の糸。かたく結ばれていれば結ばれているほど、無理に断ち切れば術者に痛みがあると知らぬ牛頭丸ではないが、構ってなどいられない。
 見目こそ少年だが、牛頭丸は身の内に溢れる妖力を込めて、リクオの制止も悲鳴も聞かず無理矢理に、両の手の印を、ほどかせた。

 指がほどかれる間際、我慢強いリクオの口から呻くような悲鳴が漏れて、ばちん。
 両方に引っ張られた太い綱が真っ二つに割かれるような音がして、リクオの両肩が跳ね上がりそこから血が吹き出す。
 同時に、四方を囲んでいた大いなる気配も、去った。
 紅いパーカーの両袖が、見る間にどす黒く染まっていったが、もたもたしているからだと毒づきこそすれ、血を見慣れた牛頭丸に罪悪感は無かった。

 天狗どもがこちらに気づいた。
 囲まれて悲痛な顔をしていた女の顔に、喜色が浮かんだ。
 牛頭丸は既に抜刀しており、馬頭丸もすぐさま操り糸を手繰って手近な天狗を二三匹絡め取り、同士討ちを狙う。

 天狗どもを押し退けて、まっしぐらに捜し求めたリクオの元へと駆けてくる雪女とすれ違いざま、「おい雪んこ、てめぇの若様は任せたぜ」と、天狗どもの元へと向かったが、牛頭丸が気づいたのはそこでのことだった。
 すれ違った女が纏う妖気が、違う。

 氷雪の、残酷なまでに真白いそれではない。
 今のは何か、違うそれだった。

 気づいたが、遅かった。

「かかったな、うつけ者め!」

 目の前に迫った天狗の哄笑は、牛頭丸の力任せの一刀で斬り伏せられ、次に飛びかかってきた二匹目も返す一太刀で横薙ぎにしたが、引き返そうとしたところで目の前に、空から振ってきた三匹が立ちはだかった。

 舌打ちする。焦りが生まれた。
 すれ違った女は、雪女と同じ姿形をしてはいたが、全く異なるそれで、今はもう餌としての役目を果たし終え、ついに探し出した獲物を喰らう補食者としての醜い顔を、隠しもせずにリクオへ飛びかかっていたのである。
 すなわち、美しかったおもてはめりめりと割けて牙が生え、理性を失った瞳は瞼から飛び出して、涎や胃液をほとばしらせながら、両腕をだらりと落として痛みをこらえるリクオへと、雪女の姿を捨てた化け物が、奇声をあげ飛びかかったのだ。

 万事休すか、全ては己の責だと、その場で自害も考えた牛頭丸だったが、そうはならなかった。
 リクオの細い喉笛に、鋭い牙がまさに食い込もうとした、その時。

 リクオに覆い被さった格好から、女は、ずるりと、横に滑り落ちるように倒れた。
 女の背から、剣の切っ先が生えていた。

 かはり、女は血反吐を吐く。
 女の懐にもぐりこんだリクオに、びしゃりびしゃりと雨のように、鮮血が降り注いだ。

 両腕を使えぬはずのリクオが、どこからか取り出しどうやってか抜きはなった刀は、誰に握られもせぬまま自らの主を守るように、女の胸に刀身を吸い込ませていたのである。
 柄飾りの翡翠が、きらり、瞬きのように瞬いた。

「しくじったか……」
「もしやあれが神器か」
「この人数では不利だ、神器の在処さえわかればよい、ここは一度退くぞ。大天狗さまへ、神器の在処のご報告だ」

 牛頭丸と馬頭丸それぞれに数を減らされていた天狗たちは、女を貫いた刀を目に留めると、何やら頷き合うや、いっせいに飛び去ってしまった。
 追う必要は無かった。彼等が向かったのは、黒雲と稲妻、さらに炎の帯に彩られる山頂、牛鬼屋敷だ。
 いまだ山頂では、激しい争いが続いているようだった。
 対して、森には静けさが戻る。

 返り血を雨のように浴びたリクオは、術の返しを受けた痛みに今も両腕を脇へ垂れ下げたまま、その場に座り込んでいる。
 息が荒い。
 その目の前には、彼の喉笛を噛みちぎらんとした女が、どうと倒れていた。

 今ならば、牛頭丸にもわかる。
 これは雪女では、なかった。

「どうしてわかった」

 問いは、己の焦りによる早合点への、裏返しだった。
 むしろ牛頭丸は、己にこそどうして判らなかったと、問い詰めたかったのだ。
 女を使って獲物を誘い喰らうのは、己等牛鬼組の妖怪たちの十八番。
 猿真似を使われたとあっては、いくら想う女を象られたからと言って、それは目の前の陰陽師も同じはずと思えば、納得できる理由となるはずもない。

 天を仰いで転がる女の骸は雪女に似せてはあるが、急拵えの不出来な人形だった。どこかの墓場から死骸を寄り集めて糸で手繰っていたのだろう、妖気の糸が切れた今はあちこち腐れ、爛れ、異臭を漂わせながら目に見えて急速にしぼんでいく。

「声も、魂の色も、全然違ったもの。つららは、雪女はあんな耳障りな声で、ボクを呼んだりしないよ。彼女は歌うみたいにボクを呼ぶ。どんなときでも。それに、もし本当に雪女の危機なら」

 そこで初めて、牛頭丸はリクオの心が、人間的な怯えを持つのを感じた。
 ただの恐怖とは、少し違う。
 宝物を奪われるのを怯える子供のような、相手の無い怯え。
 その背に隠したのはなあにと問われて、ふるふると首を振る子供と同じく、ただただ、誰かにそれを奪われるのを怯えている。怯えると同時に、いつかその宝物を、大事に隠しておいたはずの宝物を、誰かが見つけてしまうだろうとも覚悟している。

 けれど今だけは、今だけはこれは己だけのものだと、決して誰にも教えてなどやらぬと、そっと己の手を握って何かを隠すような所作をした。所作の理由など牛頭丸にはわからないが、リクオが理由を教える気が無いのはすぐにわかった。

「ボクには絶対に、それがわかる。今は、ボクだけが」

 呟いた声は場違いにも、嫉妬を通り越したひどく泥臭い独占欲にまみれていたから。

 気づいた瞬間に失っていた恋ならば、次は取り戻してやろうかと妖の仄暗い性に従いそうになっていた牛頭丸は、今度は燃え広がる前の対抗心が、己の中で萎えていくのを感じていた。
 燃やそうと思えばいくらでも燃える。
 リクオの一滴の独占欲など、その炎の前ならばすぐに飲み込まれ消えてしまうに違いない、だから、できなかった。