「奇襲をかけたつもりだが、逆手を取られ囲まれるとはのう。さすがは比叡山の神童、梅若丸。わし等の動きを読んでおったか」
「そろそろ来る頃と思い、もてなしの準備をしていたまで。お前はいつも前もって知らせておいてはくれぬのでな、こちらも上等の肴を用意するしかなかった。案の定、若がおいでになる日を狙ってやってきたな」
「ふふふ………なるほど、全てに気づいているわけではないか。にしても、お前たちが守りたがっているはずの若様を餌に使ってわし等をおびき寄せるとは、これはまんまとしてやられたわい。お主を甘く見ておったようじゃ」

 炎迫る仏堂において、座した仏が見守る中、影二つ。
 いや、三つ。
 そのうちの一つは、炎を厭い片方の背に守られるようにして身をすくめていた。

 向かい合った二つの影は、そのどちらも己の得物を抜き、既に何度か刀を合わせていた。
 どちらが有利か、見た目にもすぐにわかる。
 屋敷の主たる牛鬼は、屋敷に火をかけられても尚、微塵たりとも揺らがない。
 背後に雪女を庇いながら、襲いかかってきた天狗どもをすべからく一刀の元に斬り伏せるや、己の首を狙った大天狗の首を狙って斬撃を放ったのだ。
 大天狗が率いていた天狗たちは皆、彼等の足下で羽をひしゃげさせ、ごろりごろりと転がっている。
 さすがに大天狗は紙一重で斬撃をかわし、肩口をかすめさせただけにとどまったが、老体にはこたえたのだろう、むうと一つ唸り、今は片膝をついている。
 揶揄するように、その天狗が笑った。

「しかし牛鬼よ、大事な若様が餌に使われたと知ったなら、お前の大事な奴良組の二代目が黙っておるかな。お前もただでは済まぬぞ。厳しい沙汰もあろう。どうじゃ、お主がまだ《鵺》の力を手に入れんとしているならば、ワシとともに来ぬか。ちょうど、羽衣狐の次の神器に心当たりもできた。悲願は絶えておらぬぞ、お主が望むのなら次の《鵺》に、お前こそがなれるかもしれぬ。さすればお前が次の主ぞ。以前お前は、奴良組のためになどと言うておったが、本心では、己こそがと思ったこともあるだろう、どうじゃ」
「……先刻、お前たちが山へ入った折りに、私は若を餌にしてお前たちをおびき寄せる由、奴良組本家へ知らせた。間もなく、ここは奴良組の百鬼に囲まれるであろう」

 天狗の語り口調は、まさに、内応者へのそれだ。
 しかも、これが初めての誘いではない、口調から、これまでこの二人が何度も密談をかわし、二人にしかわからぬ話をしてきた様子がありありと思い浮かび、これまでわけもわからぬまま騒ぎに巻き込まれていた雪女は、己を庇う男の横顔を、はっと黄金の瞳を見開いて見つめるのだった。
 対して、天狗は苦い顔だ。
 目の前の男が、これまで密談を持ちかけ、応じかけていたと思われた相手が、内応すると見せかけこちらの情報をうまいこと引き出していたにすぎぬと、気づいたためだ。

「同時に、これまでの全てを書状に認めておいた。お前を葬るにあたって、私だけが生き残ろうとは思ってもおらんのでな、全てが終わったとき、語る者がなくとも真実がわかるように、全てを記した。お前が三ツ目ヤヅラに持たせていた、表向きの連判状などとは違う、十年前からの企みも、お前が私に話したことも、全てを。
 そうさな、沙汰は厳しいものとなるだろう。当然だ、貴様の甘言を鵜呑みにし、《鵺》の力を得んがための画策を行い、結果、幼い若を母君ともども追放するような真似に手を貸してしまった。だが、だが天狗よ、それも全て、私が愛した奴良組のため。十年前、《鵺》復活の兆し高まるあの時代、もしも《鵺》の力を前もって奴良組が手に入れる方法があったなら、《鵺》を形作る力のみを手に入れる方法があったとしたなら、迫る京都抗争に対しても奴良組は盤石。そう考えた私を、お前は利用したつもりかもしれぬが、私とて此度の羽衣狐出産を認められぬと言うお前を利用した、ただそれだけのことだ」
「なれ合うつもりはないか、ふっふっふ、まこと、惜しい若造じゃ。だが頭が堅すぎていかん、だからお主は嫌われるのよ」

 力を振り絞った大天狗が、刀を捨て、軍配をふるって大風を起こす。
 たちまち轟々と風が渦巻き竜巻が生じて、内側から膨れ上がったような仏堂は、やがて屋根を壁を吹き飛ばされ、木片が舞い飛び、すぐ側の林の木々が根こそぎ倒されてしまった。
 この大風の中で、雪女はたまらず袖で顔を覆い、必死で足を踏ん張るだけで精一杯だったが、牛鬼は違う。
 外の大風などまさしくどこ吹く風とばかり、涼しい顔のままで、切りかかってきた大天狗の太刀を受け、激しく斬り結んだ。

 重い一撃がぶつかり合い、ぶつかり合ったところで生まれた火花が、あたりに漂う大きな妖気に燃え移って、火花を咲かせる。

 大将同士の斬り結びは、牛鬼に分があった。
 じり、じり、と、天狗の大風に立ち向かいながら、牛のように遅い歩み、しかし決して踏み外さぬ歩みで、一歩、また一歩と牛鬼が天狗ににじり寄る。
 空には多くの天狗が風を味方に、地上で迎え撃つ牛鬼組の妖怪どもを相手どって戦っているのだが、この二人の斬り合いに荷担しようとする者は、無い。

 太陽はまだ中天にあって、じりじりと彼等を照らしている。
 まだ陽も高いうちからの襲撃のためか、どちらの陣営もいまいち精彩を欠く。

 いや、天狗たちは何かを、待っているようであった。
 同時に、牛鬼もこの斬り合いに割って入ってくる何かを、待っているようであった。

 牛鬼が待つのはもちろん、報せを受けた二代目が、己を討つためであれ何であれ、ここへ駆けつけてくることだ。
 裏切った配下の元への出入りであれば、奴良組総大将が敗軍の将を迎えに出向いたことにもなるまい、リクオの意志も尊重し、かつ、ここから先は父が子を守りながら東京へ行ける。
 同時に、十年抱えていた重荷を、牛鬼はおろすことができる。

 どちらもがどちらも、己への風が吹くのを待ちながら斬り結ぶ。
 そうして、その時、吹いた風に笑ったのは、

「大天狗さま、見つけました、すぐそこの森に、花霞リクオがおります!翡翠の柄飾りの見事な剣が一振り、彼奴を守るように、側に……」
「もしやあれが、神器ではないかと!」

 大天狗であった。

「良き哉、良き哉。ワシ等に良い風が吹いてきたわ。やはり神器は花霞リクオの元にあった。情にもろい今代秀元のことだからのう、そうではないかと睨んでおったら、やはりそうであったか」

 駆けつけた天狗の一人が、翡翠の柄飾りのこと、またその剣が独りでにリクオの懐から飛び出して、主の意のままに敵を貫いたことを話すと、大天狗は満足そうに笑みを浮かべた。
 牛鬼の太刀を受け流すや、これ以上の争いはせぬのか、すいと宙へ逃げる。

「逃げるか、鞍馬天狗よ!」
「欲を言えば手に入れたいところだが、ここで奴良組総大将を相手にするのはちぃと分が悪い。ワシも年でのう、無理が利かぬわ。まあ、今はアレがどこにあるか、分かればそれで良い。時が満ちたときに使えば済む話。それまで牛鬼、お主等でせいぜい、今度こそ、例の若様を守うてやるが良いぞ。いやそれとも、その頃にはお主、奴良の二代目に手打ちにされて、此の世にはおらぬやもしれぬのう。
 さぁて皆の者、引き上げじゃ!」

 羽音も高く、訪れたときと同様、黒雲を引き連れて西へと去っていく天狗たちを、牛鬼は苦々しい想いで睨みつけていた。



+++



 一連の騒ぎに、雪女が怒りを感じなかったはずはない。
 己で安全だからと招いておきながら、あろうことか牛鬼はリクオを餌に使い、リクオを狙うだろう狼藉者を呼び寄せたのだ、約束よりも重い忠誠の盟約を裏切るような行いである、これに怒らず何に怒れと言うのだろう。
 牛頭丸と馬頭丸に、悪ふざけはやはりやめておこうと、ただ一言だけ言うつもりで訪れた牛鬼屋敷では、瞬く間に騒ぎに巻き込まれ、文字通り降り懸かる火の粉を払うだけで精一杯であったし、リクオの元に戻ろうにも来た道を大勢の天狗で塞がれてしまったし、そこで右往左往するばかりであったところを、リクオの元へは既に牛頭丸馬頭丸を使わせてあるからと宥めてくれたのは、正直ほんの少し安堵もしたし、思慮深い牛鬼のすることならば、きっとのっぴきならない事情があってだろうと思われもする。しかし、それを差し引いても尚、雪女は己のかけがえの無いひとを、牛鬼にとってもそうであるべき存在を、餌にするような行いを、決して許せなかった。

 牛鬼だけではない、馬頭丸に簡単に誘い出されたという猩影にも、こちらはリクオが隠形の結界を解いた後はすぐに駆けつけて以降は大鉈を振るい、逃げ遅れた天狗どもをことごとく滅したと言うが、あれほど、自分の居ない間はお願いすると言ったのに、仮にも一家の副将である彼が、大将の許しも得ずに簡単に側を離れるなんてと、許してやれる気はしなかった。

 リクオもリクオだ、彼の優しさはもはや病気だ。
 理不尽を受け入れるばかりで跳ね返そうとしないのは、己の身を守る気など無く、死に急いでいるように思われてならない。
 雪女が森の中で見つけた彼は、猩影の片腕に抱えられ、牛頭丸や馬頭丸に守られてはいたが、そうなる前に何かが彼を傷つけただろうとは、肩口から広く血に染まった衣服が、さらに頭から血を浴びたような無惨な汚れ方をしているのを見ればすぐにわかる。
 何があったのですと訊いても、内緒と笑うばかりで答えない。これも腹が立つ。こちらは本気で心配しているのに、こんな時ばかりはこの方も脈々とぬらりひょんの血を引かれているのだと思い知らされるような、ぬらりくらりとした受け答えをされては、たまったものではない。
 それとなくリクオが話を逸らそうとしたところで、牛頭丸が肩の傷について、作法に則らず術を解いたためで、そんな風に無理に解かせたのは己だと言わなければ、きっとリクオはどうでも良いことだと己が思っているように雪女にも刷り込ませ、雪女もきっと、それくらいの傷ならば、明王姿になればすぐ癒えてしまうからと、天狗どもに囲まれたときに、何かしら傷を追ったのだろうと、深追いはしなかったに違いない。
 痛みは痛みだ、癒えようとも傷は傷だ。負わされた痛みの咎を、傷の報いを、全く求めようとしないリクオが腹立たしかった。雪女は彼を害する者など何一つ、彼の魂にすがり夢に訪れる亡者どもにすら一片の憐憫も感じられないと言うのに、当の本人はにこにこしているばかりだ。もっと己を大事になさってくださいと、この二月ばかり言い続けてきたというのに、まるで気にとめられていないらしいのが、本当に腹立たしい。

 牛頭丸も牛頭丸である。理由は深くはわからないし、すまないと言葉少なに、それでも彼にしては実に珍しく素直に謝ったので表向きそれ以上責められはしなくなったが、無理矢理術を解かせるなど、剣を向けるに等しい。詳しいことを話さないのも卑怯だ。視線を逸らすのも卑怯だ。

 けれども一番に雪女が怒りを感じている相手は、紛れもなく己自身へのものだった。
 僅かとは言えリクオのもとを離れ、知らずとは言え、餌になるような真似を黙認して、ついばまれるままにされてしまったのは、己が彼の元を離れたからだ。彼は己を守ろうとはしないのだから、雪女が側で見張っていなければならないのに、そんなことも忘れてただの女のように心を乱して彼の元を離れてしまった己が、なんと言っても一番に許し難く、腹立たしい。

 けれど、これ等の雪女の腹立たしさをもっても、二代目のそれときたら簡単に上回ってしまったのか、すぐに捻眼山に駆けつけた二代目に足蹴にされてひれ伏した牛鬼を見たときには、そこまでしなくても良いのではと、怒りよりも憐憫が心を満たすのを感じた。
 もちろん、煌々と月のように燃える瞳の前では、雪女など身を小さくして、怪我を負ったリクオを今度こそ離すものかと腕に抱えてひれ伏している他、なかった。二代目は、去った天狗どもの尻尾に噛みつく勢いですぐにやってきたので、リクオの傷に満足な手当を施す暇もない。
 またリクオが頑として、どれほど二代目が雪女に優しく、これを連れて他の座敷に下がっていろと言っても牛鬼の元を去ろうとせず、同じ咎めを受けるかのように牛鬼の隣に座り続けるので、ろくな手当もできない。

 二代目の怒りときたら、それはそれは大変なものだった。
 牛鬼もそこは流石に初代の頃より奴良組に与する古参幹部である、殴られても蹴られても、次にはまた畳の上にひれ伏して、次の責めを待つのである。
 望み通りのものを与えてやろうとばかり、二代目は何故このようなことをしたの一言もなく、いいだけ打ち、蹴った後に、何の気負いもなく当然のように刀を抜き放った。
 これも、元より覚悟の上であったのだろう、牛鬼はただひれ伏したまま目をつむり、その時を待つ。
 やがて間もなく、太刀は振り降ろされ ――― 。

「お待ちください」

 打つ蹴るの咎めの間中、己がそうされているような顔で雪女の腕の中、身をすくませていたリクオがその時、二代目と牛鬼の間に割って入った。
 二代目が操る切っ先は、僅かにリクオの前髪を揺らして止まった。
 本当なら、すぱりと額を切ってしまっていた位置だったし、それほど唐突にリクオが雪女の腕から、牛鬼を庇うように飛び出してしまったのだ。
 大事なかったのは、刀が妖のみを切る、祢々切丸であったからこそ。
 今のリクオの姿が、昼の人の姿であったからこそ。
 もっとも、二代目の意表を突き、我に返らせるには充分であったようで、切っ先をぶるりと振るわせ、そこで二代目はこの座敷で牛鬼と向かい合ってから初めて、口を開いた。牛鬼相手にではない、あくまで、己と牛鬼の間に入った息子に対してではあったが。

「……危ねェ真似はやめろ、リクオ。雪女、こいつをどこか違うところへ連れて行けと言っただろうが、まだちんたらしてやがったか。ほら、早く行け。
 リクオ、そこを退いて、雪女と一緒に別の場所で、ちょいと待ってな。おれぁ、この悪い鬼を退治してから行くからよ」

 目の前にするまで、二代目は同じ座敷にまだ息子が居るとは知らなかった御様子であった。
 それほど頭に血が上っておられるということであろう。
 我が子が、京では肌に霜を纏わせ眠るところしか見ていなかった昼姿、こちらは確かに生き別れになる前の面影をありありと残す顔立ちをして、痛々しい怪我をしたままであるので、できる限り甘ったるい声を出される二代目、怒りはその後ろの牛鬼へと、注がれたままだったが、我に返ったところで、瞳の色が濡れた黒曜石のそれに変じた。
 両眼が開かぬままであっても、目の前に立つ魑魅魍魎の主の怒りの色に、ほんの少し変化があったのに気づいてか、雪女が若様下がりましょうと少年の肩を抱いても、リクオはそこを下がらずに、いいえと首を横に振ると、言葉を重ねる。

「いいえ、行きません。二代目、どうか刀をお納めください。何があったのかは存じませんが、今の貴方は正気ではないようです」
「正気だあ?おうよ、これが正気でいられるかよ。こいつはな、奴良組を裏切った。おれは奴良組の親分だ、だからこいつにはケジメをつけさせなきゃならねぇ。それだけだ。こいつは組の問題だ、お前の出る幕じゃねぇ」
「組の問題と仰せなら、奴良組への裏切りが死をもって償うほどのそれだと言うのなら、ボクも同罪でしょう。ならば東京のお屋敷に赴くまでもありません、此の場で、御沙汰を」

 いつしか陽が落ち、座敷の行灯がほんのり炎を浮かび上がらせたところで、変化は起こった。
 華奢な少年が、銀色の明王に変じる。

 目の前で己を庇った小さな背が、見る間に一回り大きなそれへ変じ、ふうわりと伸びた髪も色を変じてしろがねとなったのが、強い妖気に花びらのごとく吹きあがるのを認め、牛鬼は伏したまま、目だけを見開く。
 総大将、と、夢の譫言のように、唇が動いた。

 瞑っていた瞳が開き、甘そうな紅の瞳で二代目を見上げる。
 肩口の傷もたちまち塞がり、堂々とした所作で胡座をかいて、両の拳を床につき、頭を下げた。

 血塗れの衣が一瞬にして、水晶の数珠を首にかけた藍の狩衣姿となり、その様たるやまさに、一家の大将たる堂々としたもの。

「……此の場で御沙汰を、オレも恭しく頂戴いたします」
「おい。つまんねぇ真似はやめろ。今回のは、それとは全く違う話だ。こいつはな、組の内応者どものさらに後ろで糸を引いていやがったと、てめェで白状したんだ。事の次第は全部、律儀に文に認めてあると、これ此の通り受け取りもした。それによれば、こいつは、十年前にお前を追い出す騒ぎにも荷担していらしい。お前は昔、こいつに遊んでもらっていたからなァ、多少、情も移っているかもしらんが、それを聞いてもまだ庇うようなことを言うかい」
「それが本当なら」

 顔色を変えるでもなくあくまで淡々と、リクオは隣の牛鬼にちろりと視線を移す。

「是非にも理由を、訊いてみとうございます」

 たいして興味もなさそうなくせに、陥れられた当人がそう言うのでは、二代目がならぬと言う道理も無い。
 すっかり毒気を抜かれてしまったこともあり、憮然とした表情で、広間の上座にどっかり腰を降ろし、傍らの脇息をたぐり寄せて頬杖をついた二代目は、少し疲れたように溜息をつかれた。

「………話してみろ、牛鬼」

 雪女が知る限り、一度、怒髪、天を衝くほどお怒りになった二代目が、こうして我を取り戻し、下手人の前で座すのも初めてならば、口上を許すのも初めてのことだ。

「理由もなにも……その文に認めてあることが、全てにございます」

 初めて、牛鬼の顔に戸惑いが浮かんだ。
 二代目が打とうとも蹴ろうとも、ふてぶてしいまでに毅然としながら声もあげずじっと耐えていたくせに、このような場は予想していなかったらしい。
 初代の頃より奴良組に与してきた牛鬼だ、初代も二代目も、人となりはよく知っている。
 狼狽えるのは当然だった。
 初代であろうが二代目であろうが、このような裏切りを許すはずが無い方々であると、牛鬼はよく知っているのだから。

「文を拝見しても?」

 ところが牛鬼の前で、若かりし日の初代に良く似た面立ちをしたリクオは、怒るどころかあくまで物静かだ。
 二代目が懐から取り出した文を、恭しげに押しいただく様などは、己ではなく誰か遠くの世の人のことを判じるような静けさがあり、指先にまで気を使った動きがどこか育ちの良さを伺わせ、面立ちこそ初代に似てはいるが、物言いににじみ出るはんなりとした心根の方は、初代とも二代目ともまた違うひとに連なるを想わせる。
 例えば初代のところへ嫁入りされた心優しい公家の姫、二代目が嫁取りされた心根明るい人の娘の血を、色濃く匂わせるような気がした。

 視線の行き先一つをとっても、文字を追う様や時折思案するように小首を傾げる様などをとっても、揺らめく炎と言うより、波紋一つない静かな湖面を連想させる。
 これまで、烈火のごとく燃え上がっていた二代目の妖気に、びりびりと屋敷中が震えていたのが、いつしか場の空気はこの湖面に移されてしまったかのように、今度は屋敷全体が、しんと静まりかえって、行灯の芯が燃ゆる音までが、鼓膜をふるわせるかのようだった。

 長い沈黙だった。
 その長い沈黙の間に、じり、じり、と、二度、行灯の炎が揺らめいた。
 果てに、ふうと一つリクオが息をついて、長い文を畳んだときには、二代目も牛鬼も、いつしか詰めていた息をふうと吐いた。
 煙管に火を入れた二代目は、その頃には怒りの矛先をおさめ、怒ると言うより膨れたような顔で、憮然と脇息によりかかり、だらしなく両足をのばしていた。
 対し、リクオはゆっくりと文を畳み、二代目にお返し申し上げてから、背筋をのばして座り直し、牛鬼に向かって居住まいを正す。

「文を要約すると、この捻眼山に初めて天狗が現れたのは十年と少し前。
 羽衣狐復活の兆しが高まると同時に、天狗がこう話を持ちかけてきた。
 《鵺》の力を手に入れたくはないか、その力を己のものにしたくはないかと。
 牛鬼殿はこれを無碍にはせず、昔のよしみで、話を聞くだけは聞いた。その時の天狗は、牛鬼殿の目からしても力の多くを失っており、供もないようだった。一人はぐれたようであり、天狗自身もそこにははっきりと触れなかったが、何者かに陥れられ居場所を奪われたのか、自分の目の届かぬところで《鵺》を生み出すことはならない、認められないから阻止したい、その代わりに、協力したならば《鵺》の力のなんたるかを開示してみせると約束した。ここから、牛鬼殿と天狗のつながりは密かに始まった。
 時を同じくして、奴良組の二代目と人の娘の間に生まれた子が、四つを数えても何の妖力も示さないことから、三ツ目ヤヅラを中心とした古参幹部に不満が募り、その人の娘を離縁させ、新たな妻を迎え入れるを進める動きがあり、牛鬼殿はこちらにも顔を出している。さらには、二代目のかつての妻、山吹乙女が生きているという噂がたったのもこの頃。この噂や古参幹部衆の動きに、草の気配が感じられた。奴良組を狙う輩や、二代目を恨みに思う輩は多い、牛鬼殿はこの輪に入りながら、その草が誰であるのか探り続けたが、そこであの、廃嫡騒ぎが起こる。二代目の留守を狙って子供の方を奴良家から遠ざけようとするものだったが、牛鬼殿はこれを母に知らせ防ごうとするもならず、結果、母子は二人追われることとなった。
 他にも《鵺》の力がどういうものらしいとか、《鵺》が異形となった安倍晴明を指す言葉ではなく、逆に安倍晴明が《鵺》の力を手に入れただけであるだとか、様々綴られてはおりますがそこはさておき。
 二代目が裏切りと仰せになるのは、このあたりの仕組みのことだろうか」
「どこをどう見ても裏切りだ、馬鹿馬鹿しい。今更口上を聞くまでもねぇ、さっさと終わりにしてやりゃあいいんだ。つまり、《鵺》の力を手に入れようとして、天狗が近づいてくるままにしていた上、三ツ目ヤヅラどもが廃嫡計画を決行しようとしたときに、親切面で若菜に報せて母子両方ともを追い出した、そういうこったろ?」
「………仰せの通りです。私はあまりに多くのあやまちを犯した。死をもって償うのは元より覚悟の上のこと。若、この牛鬼、貴方様に再び生きてお目にかかれるとは思っておりませんでした。こうして、ご立派になられた貴方様のお姿を目に映した今となっては、いよいよ心残りはございませぬ」
「裏切り者が、下衆な口で綺麗事ぬかしてんじゃねーぞ」
「いちいち、ごもっとも」

 三人の男のやりとりを、リクオの後ろに控えて見ているしかなかった雪女は、牛鬼が脇差しをすらりと抜いたのに、あっと声を上げる間もなかった。
 止めようにも、僅か一瞬のこと。
 脇差しを抜きはなった牛鬼は、眉一つ動かさぬ二代目の前で、己の腹を抉ろうと迷わずこれを突き立てたのだ。
 千年を生きた捻眼山の主は、ここで果てる、そのはずだった。

 ぴくり、と、二代目が鋭い目尻をふるわせ、聞き分けのない子供の可愛い悪戯を咎めたものか、見て見ぬふりをしてやるべきか、どうしたものか困ったようにやれやれと肩をすくめ、あのなぁリクオ、と、この場には少しそぐわぬ、甘ったるい声を出した。

「……死なせてやれよ。いい加減、かわいそうだろ?」

 牛鬼が己に突き立てようとした刃は、いつしかリクオの手に握られていた刀に叩き折られて、鴨居に切っ先を突き刺し琴の弦のようにふるえていたのだ。
 役目を終えると、《鶯丸》はするりと形を溶かして、リクオの手の平に吸い込まれるように消えた。

「何故……何故、死なせてくれぬのです。己のあやまちを死をもって詫びることすらお許しいただけぬか。このまま生き恥をさらせと、そう仰せになられるのか……!」
「死など、詫びとは認めない。理由を訊いてみたい、オレはそう言った。まだ満足のいく理由は、聞いていない」
「何度訊かれようと答えは同じ、全てはこの牛鬼のあやまちだと……」
「間違いがおこったときは、誰が間違ったかではなく、何が間違いだったのかを明るみにすること。受け売りだけどな、オレは十年、オレを育ててくれた人たちから、そう言われて育ったよ。なぁ牛鬼殿、あやまちを犯したというが、それは奴良組を裏切ったことか」
「左様にございます」
「だがそれは結果だ。最初はどうだったんだ。天狗が初めてこの捻眼山に現れたとき、《鵺》の力がどうのという話だったな。このときから、奴良組を裏切ろうと頭にあったのか、どうだ」
「それは、この話とは何の関わりもございますまい」
「いいや、ある。裏切ろうとして裏切った者と、結果的に裏切りとなってしまった者と、それ等の働きは天と地ほど違うだろう」

 屈辱に打ち震え、床に手をついたまま顔を上げられぬ牛鬼の隣で、リクオはあくまで淡々と、言葉を重ねる。
 二代目の怒気がゆるみ、牛鬼がもう手持ちの得物は無いと見て、懐から取り出したのは先日雪女と祇園をそぞろ歩いた際に求めた男扇子である。
 夜になって暑さが和らいだとは言え、ほっと息をつけばしっとりと肌が汗ばんでいるのに気づいたのだろう。
 涼風に紅の瞳を細めながら、思い出すように。

「オレも京では護法なんて名付けて妖どもを従え一家を構えていながら、昼は陰陽師なんてやっているからな、何となくわかるんだが、そうやって一家を構えていくためには、つかなければならない嘘ってやつがある。
 妖どもとうまくやっていくためには、がちがちの陰陽師の考え方じゃ駄目だ。
 軽い悪戯程度は可愛いモンだってくらいに考えて、目こぼししてる必要がある。
 例え花開院が金払いのいい依頼人の頼みで、これこれだけは退治してくれって言われてるらしい、逃がしたら大損らしいと知ってても、そいつが花霞に助けを求めてきたならば、これ以上の悪行はなさないと誓ってすがってくるならば、匿ってやらねばならない。中にはさらに西に逃がしてやった奴だってある。けど、それを花開院の兄たちの前で話したことは無い。
 逆に陰陽師としての信頼を得るならば、ある程度妖怪どもには痛い目を見てもらう必要がある。
 新しい建物をたてるから、その土地を祓ってくれ清めてくれと言われて、棲みついていた妖怪どもを少々乱暴に追い出したこともある。
 人間が生きる場所と妖怪が生きる場所を、こっちの都合で線引きすることを、表向き、当然のような顔でやらないと陰陽師として疑われる。
 境界に立つってのはそういうことだ。人の側、妖の側、どちらに立ちすぎてもうまくいかない、だからどちらにも、疑われすぎない程度に、うまく嘘をつく必要がある。
 ここは奴良組の本拠地から遠く離れて西の果て。
 これより先、西には奴良組のシマはなく、伊勢を挟んで先は京都、四国、安芸、九州。
 ここはいわば、奴良組にとって、東と西の境界だ。ここで奴良組を守るってのは、何も、攻めてくる奴を打ち負かすだけじゃねぇだろう。京都で何が起こっているのか、その向こうの勢力はどんな具合か、こういう事を探るためにも、それなりに西との繋がりってのは、必要になるんじゃないのかい。今までも、奴良組に話していなかった西の勢力との繋がりはあったんだろう、違うかい。
 奴良組に話さないことで西の信頼を得て、西の情報を探り、探った情報でもって奴良組を守る、そういう機転が、ここを守る奴には必要になるだろう。
 そう思うんだが、違うかな」
「………例えそうであったとしても、私が、奴良組を裏切っていたという事には、変わりがないと」
「牛鬼殿の反省などには興味が無い。オレが興味あるのは、何が間違いだったのかの方さ。例えば天狗が来たこと、これを奴良組の耳に入れなかったのは何故だ。あるいは三ツ目ヤヅラが廃嫡騒ぎを起こそうと企んでいること、これを本家の耳に入れなかったのは、何故だ。耳に入れようとする気があったのか、なかったのか、あったとすれば何故しなかったのか、それを訊きたい」

 伏したまま、牛鬼はしばらく黙していた。
 リクオが、はたはたとゆっくり己を仰ぐ音だけが、広間にしばらく響いていた。

 じじじ、じじじ、行灯の火が揺れる。
 二代目を上座に、牛鬼とリクオが向き合い、雪女がやや離れた場所からこれを見守るその影が、ゆらゆら、揺れた。

 やがて、観念するように牛鬼がぽつり、漏らした。

「………初代の頃より、数百年の時を経て、奴良組のシマは大きくなりました。二代目の威光はいや増すばかり、ひれ伏す輩も多かれど、光が強くなれば影の色もまた濃くなるのは当然………この捻眼山から本家への道は、やや遠くなりました」

 絞り出すような、苦渋の滲んだ声であった。

「使いをやれば道中、妖怪どもの目につきます。使いが目につけば、この牛鬼が何やらを本家へ知らせていることも、前後に訪れた客からも、内容は自ずと知られてしまいます。大事であればあるほどに、尚更に気を使いますため、使いは出しませぬ。
 天狗は、弱りきっていたからこそ、この山を訪れたに違いありません。今日の襲撃があったことを見ても、最初から私を心から信じるつもりなど、なかったことでしょう。あの天狗から情報を得るためには、私が《鵺》の力なるものに、目が眩んだように見せかけなくてはなりませんでした。無論、情報が出そろったところで、己で赴きご報告申し上げる、その腹積もりではありましたが、あの天狗もなかなか一息には話さぬ奴で、その上………」
「その頃、同時に三ツ目ヤヅラどもの会合にも顔を出している身としては、軽々しく本家の総大将と密会などの場を設けようものなら、今度はそちら側の奴から、告げ口をしようとしているんじゃないかと疑われる。一番気を使わずに済むのは、総大将自らの地回りのときくらいか?」
「は……」

 ここまで来て、上座の二代目が天井を仰ぎ、

「ああもう、わかったわかった。そうだよ、おれぁ牛鬼を信用しまくってたからな、地回りなんざしなくても、この辺をきっちり治めてるだろうからって、ろくに顔も出しやしなかった。それが悪い、そういうこったろ!」

 一声怒鳴ると、駄々をこねる子供のようにそっぽを向いてしまわれた。
 くわえたままの煙管をがじがじと噛んでいる様子が、横からよく見える。

「ですから、誰が間違えたかではなくて、何が間違いだったかを明るみにすると申し上げておりますのに。
 この場合、総大将の元へ人目につかぬよう報せができる手段が無かったことが、大きな間違いであったのでしょう。
 牛鬼殿一人に責を負わせて償わせるのは、間違いを正す場を設けぬ、新たなあやまちを生むだけのこと。
 間違いならば、正せばいい。己が間違えたと思うのならば、やり直せばよい」

 二代目の怒気は、とうに緩んでいた。
 だから次の言葉は、怒りからと言うよりも、おさめきれぬ、取り返しのつかぬ十年を想ってのことだったに違いない。
 その十年の果てに、愛しい者が失われ、血を分けた実の息子が他人行儀な言葉遣いを少しも崩してくれぬとあっては、苦い言葉が出るのも当然であった。

 当然であったが、少し、考えなしに過ぎたかもしれない。

「………やり直しなんざきかねぇよ。若菜はもう死んでんだ。いくらやり直したって、死んだモンが帰ってきやしねぇだろうが」

 ぽつりと呟かれた、失った愛しさへの後悔は、幾万もの刃に等しかった。

 伏せていた顔を上げ、立派に育った一人の男君を、失礼にならぬよう盗み見ていた牛鬼はこれに再び顔を伏し、リクオもまた、扇子の手を止めてこれを懐に仕舞うついで、懐紙に包んだ何やらを取り出して目の前に置き、そっと開いて見せた。
 紅瑪瑙の数珠だった。
 糸は切れ、そのときに失われてしまったのか、あしらっていた天珠は無い。

「お預かりしていた形見の品、お返しいたします。昼の姿で目を覚ましたそのときに、役目を終えたように糸が切れ、いくつか石を失ってしまいました」

 一度放ってしまった言葉はもう、取り返しがつかない。
 はっと口元を押さえても、二代目がリクオを見たときにはもう、彼は牛鬼と同じように伏して顔など見せてはくれなかった。
 いや、僅かに、顔を伏せる間際、唇を噛む様子だけは、はっきりと目にしてしまった。それがために、余計に、変わらぬ静かな声が耳に痛い。

「零れた石のように、取り返しのつかぬあやまちは、確かに、あるでしょう。母を死に至らしめたのはオレだ。母の死は、オレへの諫め。命をもった諫めでもって、あやまちをなすところであったオレに、生きろと仰せであった。だからこそ、なおも生き恥を晒す醜態を、何卒、お許しいただきたい」

 許してくれと言わなければならないのは、父の方であったはず、その機会さえあれば、いくらか父として歩み寄れようかと考えていた二代目は、自ら少ない機会をお釈迦にしてしまったとあって、言葉も無い。

 居心地の悪い沈黙がしばらく続いたところで、控えていた雪女が差し出がましいとは知りつつも、皆様お疲れでしょうし、御沙汰を決めるにしてもまた日を改めてはいかがでしょうかと申し出てみると、誰もがそれ以上何かを語る言葉を持っていなかったために、すんなりと受け入れられた。

 二代目が挨拶もなく、目の前のちぎれた数珠をひっつかんで、屋敷のどこかへ消えてしまったのは、明らかに己の言葉を悔やんでのこと。
 なのにリクオが、「怒らせてしまったかな」などと的を得ない物言いをするものだから、残された者として牛鬼は扱いに困る。

「あの御方のこと、お怒りになっているとすれば、ご自分に対して、また私に対するものでしょう。若、リクオ様、ご挨拶が遅れ、またこのような恥を晒してお迎えするのは甚だ不本意ではありますが……」
「牛鬼殿、《若》も、《様》も、無用だ」
「は……」
「敬語も。無用だ」
「しかし……」
「こちらこそ、ご挨拶が遅れたが、お招きに預かり感謝する。京都守護職、花霞一家を率いる、花霞リクオと申す。以後、よしなに」

 牛鬼は聡い男である。
 十年ぶりに見つかった奴良の若君が、そう扱われるのをよしとはなさらないと、ここにお迎えするときに本家から言い含められてはいたが、理由が十年という時の溝が生んだ少年のいじけた心のためではなく、全く別の理由からであると、気がついてしまった。
 この御方は、奴良組になど目を向けてはおられぬと、知ってしまった。

「……捻眼山の主、牛鬼と申す。花霞殿には見苦しいところをお目にかけた。また、こちらの都合に巻き込み煩わせてしまったこと、申し訳次第もない。天狗が奴良家を狙うのであれば、その血を引く貴殿をも狙うであろうと踏んで、賭けをさせていただいた」
「できれば事前に報せていただきたかったが、理由はわかった。砦を守るのならば、それなりに博打も必要になるのだろう。だが側近ぐらいには理由を報せねば、牛頭丸殿と馬頭丸殿は寂しがるのではないかな」

 牛鬼は同時に、狡い妖でもある。
 いいや、貴方こそが次なる魑魅魍魎の主、奴良組の三代目にふさわしいと言えば言うほどに、彼の心が頑なになるのを知ってもいるから、それは言わない。

 あくまで慇懃に、妖術の火がかけられた屋敷の中でも奥の方は手付かず、無事であったので、あらかじめ備えをしておいた特に重要な客間へと自ら導き、まずはゆるりと旅の疲れを癒されよと口上を述べ、夕餉は供にしながら、利用した無礼や理由を延べるに至った。

 奴良組の、大きな組であるために生まれた弱さを今一度話の種にしつつ、あの僅かな時間でこれを見抜かれるとはと、リクオの側で給仕をしていた雪女や、リクオの隣で夕餉を供にしていた猩影が、眉を寄せるほどに大袈裟に誉めて見せても、小さく曖昧に笑うばかりで興味なさげであったので、天狗が少しだけ明かした《鵺》について、つまりは先日、秋房がリクオに懸念として語ったようなことを話してみれば、今度は食いついてくる。

 場所を夕餉の場に移して続く、大天狗という新たな敵の影に、箸を置き思案していたリクオは、ぱちんと口元を隠していた扇子を閉じてからちらりと傍らの猩影に視線を投げかけ、これを受けて猩影は小さく頷くと、「ちょいと失礼」などと若者に許される軽々しい無礼でもって席を離れた。
 これにも牛鬼は感心した。部下をよく掌握し、部下もまた大将の言わんとするところをよくくみ取っている。
 部屋の外に出た猩影はおそらく、京都に残った花霞一家に、大将の留守を狙って京都を攻めんとする者に備えよと、ケータイとやらを使ってやりとりしているのだろう。

「大天狗……《鵺》を生み出そうとする者……秋房義兄の不安的中か。しかし、神器とやらが《鵺》を生むのに必要だって話は初耳だ。そりゃあ確かなのか、牛鬼殿」
「大天狗が嘘を言っているか、大天狗自身も嘘を信じ込まされているのではない限り、確かだろう。天狗によれば、母を失った安倍晴明は、神器を羽衣狐の体に埋め込み、転生妖怪、羽衣狐に作り替えたらしい。神器の力を取り込んだ母胎から生まれたものが、此の世のどれほどの妖の力をも上回る力を持つそうだ」
「奴等は《鶯丸》が、神器だとか何だとか言ってたが、その神器とやらは羽衣狐と一緒に消えたんじゃなく、それこそかつての羽衣狐のように、新たな宿主を選んだって、そういうことかい」
「そこまではわからぬ。神器とやらが幾つかあるのかもしれぬ。それこそ、三種の神器や、十種の神宝のようにいくつかあるものならば、一つ失われても、二つ目があるのかもしれぬ」
「ふぅん。にしても、あれが神器なはずはないんだがな。あれは、オレ専用に秋房義兄が……花開院の妖刀鍛冶が鍛えたもんで、オレと同じく平成生まれだ」
「神器というのが何も、神代の頃に生まれたものでなくてはならぬ、ということもあるまい。優れた刀鍛冶が鍛えたものが、神剣や魔剣ともなるように、それは神器となるべくして生まれたものなのやも。とすれば、ここから先、花霞殿は神器を持つものとして、天狗勢にお命を狙われることになろう。少々、厄介な敵を残してしまった。面目無い」
「なに、全く用意の無いところに、あちらさんが忍び寄ってきてぐさりとされるより、命を狙われてるってわかってた方がいくらか安心だ」
「備えをなさるというわけか」
「ああ。本当なら京都へ取って返したいところだが、そういうわけにもいくまい。それでも京都には花開院の兄たちもいるし、花霞の副将も一人残している。鬼童丸もいる。備えと言っても、いつも知恵を絞るのはその兄たちや副将だ、どうにかなるだろう。……奴良組の境界を守る御仁が、話の判る御方らしいというのがわかっただけでも、捩眼山に来た収穫はあった」

 と、唇を湿らせる程度にリクオが酒を含んだのを、追って牛鬼もまた盃を干す。
 主としての彼と盃を交わす、その日を思わないはずはない。

 思いながら、何食わぬ顔で、

「と、言うと?」

 などと、牛鬼は真意を問う。
 妖姿のリクオは、牛鬼からしてみれば見るほどに、ありし日の初代総大将によく似ている。
 甘露を含んだような小さな笑みや、時折物憂げに目を伏せるところなどは、猛々しい初代には見られなかったが、それがまた別の可能性を見るようで、素直に嬉しく、また狡賢い算段をしている自覚がある身としては、やはりこれは京妖怪どもなどに渡したくはない器であるなどと、口惜しくも思う。

「こちらの内情を探るためとは言え、内情を鑑みて相談役になってくれそうな砦の主って奴は、そうはいない。知った情報をすぐに頭の耳に入れようって、躍起になって情報集めをしている奴はよくあるが、見たもの聞いたものを一度腹におさめて、必要なもの以外は秘密のままにしておいてくれるっていう奴は、こっちにとっちゃ在り難いよ。四国の主とは、うちの副将がその末息子だって縁で結ばれたが、安芸の主は、京と四国が手を組んで初めて同盟に参加する意志を見せた。そいつ等の、互いの境界を守る砦の主ってのは、それぞれ己の陣地を守るために必死になってるばかりで、こちらの都合を考えちゃくれないのさ。
 京都だってまだまだ一枚岩とは言えねぇ。花霞一家は陰陽師どもから妖怪どもを守り、逆に妖怪どもにある程度の規律を守らせることで陰陽師どもにうんと言わせているところがある程度のモンなんだ。たまにデカイ奴が現れたときは、力で勝負するより前に、洛中や県境であれこれと罠を張る必要がある。その罠を張る動きを、あちらの境界の奴等に見つけられると、見て見ぬ振り、関係のない素振りって奴をしてくれないもんだから、罠をかけたい相手にも知られちまうんじゃないかって冷や冷やしてた。
 その点、牛鬼殿が東境におられるのは、ありがたい。強敵で、決して内応せぬだろうとわかっている代わりに、胆が据わっておいでだから、こちらが奴良組以外の敵と何かしら遣り合おうとしているところを、必要以上に探ろうとも誰かに報せようともしない。おかげでやりやすい。これからも、よしなに頼む」

 牛鬼、内心舌を巻く。惜しい。なんとも惜しい。
 十年前、この大器を奴良組から追い出そうとした動きがあったことは、この大器が奴良組にあればやがて脅威になると見抜いた敵方の鋭い洞察であり、同時に大器晩成を待てず見誤った古参幹部たちの、永い栄光に胡坐をかいた、虚ろ、空けであったに違いない。

「 ――― 大きゅうなられましたな、リクオ様」

 膳の上に、ことり、盃を置いて呟く。

「私の肩の上で、桜の枝を掴もうと戯れておられたのが、もう何百年も前のことのようです」
「ああ、そんな事もあったっけ。牛鬼の肩の上は好きだったよ。絶対に落さないだろうって、安心感があったから。二代目や、お袋と同じく、家族みたいな安心感があった。実を言うと、他の奴等は間違った振りして落すんじゃねーかって、信じきれなくてな。オレは臆病だから」

 このときの、臣下としての礼に、咎めも指摘もなかった。
 ただの想い出話にそれは無粋である。
 だから言うとしたら今しかなかろうと、牛鬼は口にする。

「このまま東京に、奴良組に、お戻りいただけぬでしょうか、リクオ様。あの頃の内応者どもは、二代目の手によってあらかた手打ちにされております。残る幹部衆は信を置けるものばかり、その上、今の貴方様を見ればどの者も畏れ平伏すに違いありませぬ。もしも万が一、貴方様を奴良組から追い出した者どもが、尚も網の目を掻い潜り息を潜めていたとしても、探し出すのは最早容易なれば ――― 」
「探し出して、どうする。母の仇め、死ね、とでも言うか?」
「それもまた、一つの手。ともかく、奴良の身代を手に入れれば、貴方様がこれまで育ってきた京を守るにしても、良い後ろ盾になりましょう」
「オレはそんな、大それたこと、考えちゃいないよ。奴良組の身代も、オレたち母子を追い出した奴らへの復讐も、一切、望んじゃいない。過分なものを手に入れるつもりもない。奴良組にとって最初の予定通り、オレは死んだものと思ってくれて構わない。最初は母子ではなく、子供の方だけを追い出そうとしていたっていうのは、女があればまた子供は生まれ来るからと、そういう理由だったんだろう?だったら、二代目の妻は戻ったんだ、それで丸く収まるじゃないか」
「口惜しくはないのですか。そのような ――― 御母上に仇をなした輩に、一太刀をという想いは、全く無いのでございますか」
「全く無い。……二代目の手を逃れようとして、いくらか奴良組の内応者どもが京を経て西に流れていったが、その時は安芸や四国へ口を利いてやった。中には、いたのかもしれないな、母の仇とやらが」
「それで、良いのですか。憎いと ――― 許せぬと、思うたことは、無いのですか。彼奴等の首を刈り山と積み上げることこそ、菩提を弔うに相応しいなどと、思うたことは無いのですか」
「無い。……母はお人好しだから、それでは菩提を弔うことになど、ならないだろうし」
「御母上を喰らった鬼畜を、妖怪どもを、喰らってやろうとは」
「兎を食った獅子に、仇討ちしようなどと思う兎はないだろう」

 耐えて見逃しているのではないらしい、本心からまるでなんとも思っていないらしいと、知って平然としていられぬのは、牛鬼の心の内にどろりと淀む妖の性が、遠く遥かな昔のこととは言え、人の子であった頃に母の死という絶望を苗床に、生まれ出でたものであったからだろう。
 梅若丸と呼ばれていた頃に、母を捜してたどり着いたこの捩眼山で、牛鬼という化け物の口の奥にあった、目を見開いた母の、醜い死に顔。
 ――― 死を与えた者どもを、妖を、運命を、天を、呪い呪ってこうして妖に化生した日を、不意に昨日のことのように思い出し、眩暈を覚えた。

 同じ目に合って違う道を選ぶのは、それがただの人の血を引いた子ではないからか。

 頭痛を覚えたように、米神を抑えた牛鬼に、己の言葉が不甲斐なく聞こえたかと慮ってか、申し訳なさそうにリクオが続けた。

「何か勘違いしているようだが、オレは妖の道を行こうとはしていない。妖の物差しをつきつけられても、困る」
「妖の、物差し、で、ございますか」
「オレは京都を守る明王だ。オレに付き従う者どもを、百鬼夜行と言う者もあるし、実際そうなんだろうが、教義の上では皆、オレの護法であって妖ではない。人を守りこそすれ喰らうことも害すこともない。奴良組は魑魅魍魎の主の血族で、オレはその血を引いてはいるが、オレの役目は、過ぎた悪ならば調伏すること。京を、守護すること。こうしてオレの役目は既に京都にある。今更東京で名乗りを上げようだとか、母の仇を討とうだとか、そうするつもりは全く無い。今回だって、オレがかつての若様だと感づいている輩の中には、冷や冷やしている奴等があるかもしれない。そいつ等に騒がせて申し訳ないと思いこそすれ、隙あらば滅してくれるだとか何だとか、そういうつもりは全く無いから、その辺りのことは、よくよく知っておいてくれ」

 絡めようとしたつもりの糸は、その名のごとく、霞を絡め取らんとしているようなものであった。
 牛鬼の言葉はするりと花霞リクオの心を通り抜けて、どこか遠く、光満ちる彼岸へと、そのまま導かれてしまいそうである。
 できるなら、リクオをこのまま関東に縛り付けておきたいと願う牛鬼であるので、さらに何か、この場で申し上げられることは無いかと言葉を探すが、その前に先手を打たれた。

「そう言えば、礼を言っていなかった」

 リクオがこのような事を、言い出すのだ。

「礼、とは……」

 思い当たることが無く尋ねてみると、奴良組のシマから京都へ、一匹のウシオニがやってきたときの事だなどと言う。
 やはり思い当たらなかったので、首を傾げていると、

「牛鬼の腹の内は、奴良組の中でもよほど読み取れぬと思われているらしいな。捩眼山を大勢がすり抜ければ、敵か味方かわからぬ牛鬼の目に留まると知っているからか、奴良組の内応者どもが差し向けるオレへの刺客は数が少なくて、犠牲はあったが、これまで生きながらえることができた。
 おかげで牛鬼が敵ではない、安心してその背に体を預けられる家族だとわかっていたから、今日も来ることができた。その家族が、京のすぐ東で境界を守る場所にいてくれるのは、これからも心強い」

 目を細めて、リクオは笑った。

 絡めようとして逆に心を絡め取られたと牛鬼が知ったのは、彼が席を立ち、雪女を従えて、己の部屋へと下がった後だった。





 己にあてがわれた部屋へ戻りがてら、長い回廊を歩みながら、リクオは思索に沈む。



 無明の夢。
 その夢で、己の明かりを見つけよと言う、声の主。
 安倍晴明は《鵺》であるが、《鵺》は安倍晴明である必要は無い。
 《鵺》を生み出さんとする者がある。大天狗はそれを悲願としているらしい。
 この大天狗は、夢の声の主が入っていた、『あいつ』なのだろうか。

 花開院秋房が憂う、《鵺》を生み出そうとする者。
 京の都の元々の役割。螺旋の形を描いて集う、怨念の黒い渦。
 京自体が元々、大妖を生み出そうとして作られた物であるなら。
 平安京へ遷都を行った、かつての皇が、それを知らなかったというのか。

 また、安倍晴明が《鵺》となる原因、母の死を作り出した者は、誰なのか。
 稀代の陰陽師が、この上なき宝へ何の守りも施さなかったはずはない。
 幼き日、リクオ自身が、母の病室に幾重も結界を張り巡らせたように。
 伏目屋敷に、幾匹もの護法を招いて、母を守らせようとしたように。
 その裏をかいて、安倍晴明の母の居場所を報せたのは。

 考えるなと、竜二は言う。
 姿を隠せと、秋房は言う。
 だが考えて始めてしまった。だがどうやら見つかってしまった。



 ふと、眩いほどの光が格子戸から、回廊に藍色の陰翳を落とし込んでいるので、見上げてみれば格子ごしに、大きな十六夜の月が裾に群雲をまとわせて、そこに光っているのだった。

「綺麗ね」

 足を止めて見つめれば、後ろから歩んできた雪女が隣に並んで、やはり月を見上げた。
 いまだにリクオは彼女を、夜の闇か祟りの翳りの中でしか姿を目にしていないが、いつ見ても美しい女である。
 今も、声がする方を向いてみれば、細いおとがいを僅か上に傾けて、月の光に目を細めている。
 これを見て、うん、とリクオは頷いた。
 月の光を浴びて、姿の輪郭を淡くする彼女の立ち姿を、本当に綺麗だと、思った。

 幼い日に、こんなに綺麗な生き物があるなんてと、よく思ったものだが、今も全く同じことを思えるひとであり続けてくれているのを、素直に感動するのだった。
 もちろん、見目だけではない。
 見目の妖しさ艶やかさ、そんなものがどれだけ優れていようとも、例え同じ雪に属する妖であったとしても、彼女と同じ美しさは決して保てはしないだろう。

「考え事もいいけど、今日はもう休みましょう。天狗のことなら、きっと京都のお兄さんたちが考えてくださっているわよ」

 彼女の立場からしてみればきっと、己が奴良を名乗らず京都の陰陽師を兄と呼び慕っているなど、我慢ならぬと思うこともあったろうに、これまで実に細やかに行き届いた世話をしてくれたし、今も己がつい、そうだなあと思うような言葉をかけて、安堵させてくれるのである。
 うん、ともう一度返事をしてから、

「ありがとう、雪女」

 と、言い足した。
 雪女を、真摯に見つめながら。

「どうしたの、突然?」
「探してくれていたこと。探し当ててくれたこと。
 奴良組の奴等が去った後も、残って看病してくれたこと。
 どれだけ感謝しても、言葉を用いても足りない」

 雪女はリクオを、見つめ返す。

 月の光が二人を淡く包み、恋仲にある彼等が睦言を交わしているようにしか見えぬ中で、しかし雪女は素直に喜べないでいる。
 ありがとうと言われても、それが何故かさよならに聞こえる。
 小さな頃のように、今までのように、彼女の名を呼んでくれなくなったのはどうしてだろう。
 どうしてここで、これまでの事に礼を言ってくださるのだろう。

 不安を消すためには、これからもよろしくと、ただ一言さえあればいいはずだ。
 けれど、待てど無い。望むように、彼の唇を見つめ続けても、無い。

 探し当てたと、彼は言ってくれるが、雪女は不思議に、そんな気はしていないのだ。
 奴良の若様はどこにもいなかったと、彼は言ったではないか。
 本当はもっと早くに見つけていれば、そうすれば彼は奴良の姓など捨てずとも、小さな頃のように父さんのあとを継ぐのだと、今これからでも言えたのではないか。
 捨てる前の執着を、何か一つでも見つけられたのではないか。
 いびつに癒える前の傷を優しく撫で、乾く前の涙を払い、踏みつけられ打ちのめされたときに、歯を食いしばって一人立ち上がろうとした彼を、支えることができたのではないか。

 今は御姿を目の前に見せて下さっているが、鏡に映る花、水に映る月のようである。
 姿はあっても、彼の心は十年前のあの日から、どこかへ隠れたままなのだ。

「明日には、奴良屋敷に行くことになる。そうなったら、こうして親しく口を利くことも、きっともうなくなるだろう。もちろん後で正式に、ちゃんと礼も言うつもりだが、なんと言うか、儀礼上のものじゃなくて、ちゃんとオレの言葉で、言っておきたかった。
 銀閣でお前を見つけたとき、ただ驚いた。お前は戦いに向いていないし、だから、来てるなんて思わなかった。お前の姿を見つけられるなんて、思わなかった。宝船では、ついお前の姿を探して、そこで初めて、懐かしいと思った。本当は気づかれる前に去るつもりで、でも去り難くて。
 伏目で口喧嘩して、好きだと言えて、それで、最期のつもりだった。
 花霞大将はあの争いの中で討ち死にした、奴良の若様はついに見つからなかったとなれば、きっと辛く思い出してくれることもあるかもしれないが、関東に帰った後で、直にお生まれになる奴良の若君をその分可愛がってくれるだろうとも。
 ……なのに、この二ヶ月、なんだか夢みたいだった」

 届かぬ夢を想うように、目を細めて小さく笑うリクオの、心はどこに隠れているのだろう。
 本当に言いたいことを、望むことを、囁くような小さな声でいいから、たった一度でいいから、教えてさえくれたなら、きっと雪女は誠心誠意、真心を尽くして応えてみせるのに、雪女がどれだけ彼の心へ手を伸ばそうとも、湖面の月と同じように、手を伸ばせば当然のように見失う。鏡の中の花のように、そこに咲いているのに掴めない。

 答えを持たず、伸ばす手を持たず、呆然と立ち尽くす雪女の前に、リクオは片膝をついて頭を垂れた。
 いっそ手を握ってくれれば良いものを、彼の指先が伸ばされたのは、雪女の袖の端までである。

「例え万里が隔てようと、貴女の危機があればこれを打ち破る剣となり、身を守るための盾となるを《誓約》する。何があろうと、何が起ころうと、いかなる駿馬よりも風よりも疾く、いかなる下僕どもより先んじて駆けつける。この身の何処かが欠けていようと、魂が欠片でも残っている限り、必ずや、お守りする」
「ちょ、アンタ、一体、何を ――― 」
「幼き日にいただいた、優しさや、あたたかさを、忘れたことは無い。この塵界において、貴女の下僕となれたは僥倖であった。やがて人を捨て、妖を捨て、身も心も封印の一つとなるオレだが、人であった頃の想いに、妖であった頃の心に、削ぎ落として消すことのできない何かがあるとすれば、間違いなく貴女だ。そのように想い続ける無礼をお許しいただけるなら、これ以上、望むことは無い」

 答えも要らず、応じる必要も無いと。
 あの時と同じように今も目の前の男は礼を尽くして、この二ヶ月でせっかく雪女が詰めた距離を、たった一歩で引き離してしまうのだ。

「あなたたちの先に、幸多かりしことを切に願う。たくさん甘やかしてもらえて、本当に嬉しかったよ、つらら」

 自分《たち》というのが誰と誰を指すことなのか、唐突過ぎて一瞬、判じかねた雪女、この騒ぎですっかり忘れていた例の、あの異界祇園の茶屋で三人が話し合った企みを思い出すのだが、ただ一言違うと言いさえすれば良いものを、ただそれだけの事ができなかった。
 優しげなのはいつも通りだが、なんだかさっぱりと立ち上がって踵を返されてしまったので、それが彼の心の在り方で、恋をしていると言ってもそれ以上のものではなく、あるいはこの少しの間、一つ屋根の下で暮らしてみて醒めてしまっただとかそういうことだろうかと、思いついてしまえば追えるはずもなかった。
 ただ一つ、例の企みは失敗したらしいと、それだけはよく判る。
 それも、多分、最悪の方向で。

 雪女が望む色は、どこにもなかった。
 ほんのちょっぴりの嫉妬も、焦燥も、寂寥も、何も、探れはしなかった。

 彼の心の構えはいつものように風色で、堂々としており、銀閣寺の戦いで再会したときと同じように潔く、それでいて、柔らかな笑みは幼い頃のいとけない若様を思い起こさせた。
 さよならをされぬまま、あの若様は消えてしまわれて、今、この十年の月日を挟み。
 雪女は聞いてしまった。
 ありがとうと、さよならを、聞いてしまった。

 この先にお前を連れては行けぬと、言外に含められ、それでどうして背を追えたろう。



 ボクが守るんだい、つららを。


 強くて優しい総大将に、なってくださいね。


 あの約束をたった今思い出した分際で、どうして後を、追えたろう。
 彼が幼い頃から、永久の誓いを捧げてくれていたのに、彼女があの時向けていたのは、幼い守子が元服するまでの、仮初の約定。あの日から十年経ち、彼は既に元服を済ませ、彼女の守子ではないのだから。

 彼の背を見送って、追えぬまま、どれだけそこで立ち尽くしていたろうか。

「雪女、おい、雪女。……氷麗。……おら、雪んこ!」

 遠くから誰かが誰かを呼ぶ声がして、途端にそれが耳元に近くなり、はたと彼女は我に返って振り返った。
 牛頭丸だった。
 ばつが悪そうな顔で、彼女のすぐ後ろに立っていた彼は、彼女の顔を見て驚いた様子だった。その後、彼らしくもなく視線を逸らす。

「……その様子じゃ、そっちも芳しくなかったみてぇだな」

 言われて初めて、己が涙を流していると知った雪女、慌てて払うが、払っても払っても次々と、涙の粒が生まれてくる。

「ごめん、私………手伝ってもらったのに、しくじったみたい」
「あー………まぁ、俺たちの方も何かばたばたしてて、あいつに誤解させたままになってるから、ほら、とっとと追いかけて事情話して、それから仕切り直しだ。そんなシケたツラしてんじゃねーよ」
「………ううん、いいの」
「何がいいんだよ」
「いいの。私なんかがお側に居ても、きっと迷惑だもん」
「何を拗ねていやがる。おめーが弱いなんざ知ってるよ、あいつだって戦力として数えるつもりもねぇだろ、最初から」
「そうじゃなくて、ううん、そうだけど、そうじゃない。何だろう、私、頭がぐちゃぐちゃして何が言いたいのかわかんない、わかんないよ」

 振られるほどの想いもまだ、告げていない。
 真摯に向けられる想いは、嬉しい。嬉しいが悲しい。
 想いが透明だからだ。何の色もついておらず、掴もうとしてもすり抜ける。

 彼の心が既に新たな敵のこと、京都の守りのことに向いているのを知っていながら、己一つの想いを受け取ってもらうのもらえないのと、いじけたように悩んでいたのが、あさましく、身勝手であるように思えてならない。そうなると今更、己の想いがこうであると告げるのも、彼の重荷になってしまいそうでできない。
 あのいとけなかった手が、この小指と絡んだ手が、今はそっと袖を掴んできた所作は、軽々しく肌に触れられるよりも、どきりと胸を高鳴らせた。皮肉にも、その所作があの日絡んだ小指の約束を思い出させて、己の約束の期限はとっくに終わっていることを、思い知らされてしまった。

 新たな約束を、己の方からは何もしていないと思い当たれば、悔しくもなりさらに涙は溢れた。
 あの日の約束通り、強く優しい大将になってしまった幼子が、しかし愛しい男としては最悪なほど、強く優しくなりすぎてしまったとわかれば、どうしてそんな事を言ってきかせてしまったのかと、袖を噛んでそのまま泣き伏してしまいたいほどだった。

 月に濡れ、はらはらと涙をこぼす女があまりに美しいのと哀れであるので、牛頭丸はしばらく、力になってやれなかった後ろめたさからではなく、単に見惚れて、言葉を失っていた。

 つい先ほど罠を仕掛けたはずの相手に引きずり出された、己の本音と向き合い始めたばかりであるので、そうか俺はこの女に惚れているのかと想って見つめてみれば、なるほど、確かにこの女は美しく、一途で、いじらしい生き物であるのだった。
 はらはらと、女が泣き続け、ごめんね、こんな風に泣くつもりじゃないのと、ついに袖で顔を覆ってしまったので、牛頭丸は不意に、今ならこの女を籠絡できるのではと、実に妖らしい考えを持った。

 例えば慰めるような振りをして近づき、肩を抱いて宥め、知らず知らずのうちに心を絡める妖術を耳元で囁いてやれば、捻眼山を訪れる人間や妖怪たちのように、この女も己の手に堕ちるのではないか、と。
 ところがそれは、何だか癪に障る。
 何だか、不本意な気がする。

 結局牛頭丸は、目の前の女へ、ところでお前、どうする、と問うてみるのだった。

「……お前が俺の胸で泣くつもりなら、このままここに居てやるが、そうでないなら、さっさとあいつを追いかけたらどうなんだ」
「わかってる。わかってるけど、でも……!」
「これ以上泣くつもりなら、俺はそろそろ、全力でお前を口説き落とすぞ」

 全力とはもちろん、それまでの男への想いなど微塵も残らぬほど、己へ心を向けさせるための力を尽くすということだ。人間どもはどうかしらぬが、妖怪なれば己が使う妖術すら恋の手管の一つでしかない。
 すると雪女は牛頭丸を初めて見たような顔をして、次にふるふると首を横に振るものだから、牛頭丸も、少なくとも表向きは、潔くあきらめることにした。
 他の女ならともかく、目の前の女は妖の属性としても、彼女本人の気質としても、一途過ぎて手に負えないと、よく知っていたからだ。

「だったら、とっととあいつを追いかけな」

 なるべく優しい声で言ってやるのだが、雪女も、まだ迷いにすらならない後悔の中にあって、これにも首を振るしかない。
 じゃあどうするんだ、ここで一晩中、立っているのかと訊いても、やはり俺とともにくるのかと訊いても、ふるふる、ふるふると首を振る。
 いい加減、イライラとしてきた牛頭丸が、

「それなら、勝手にしろ」

 最初から叶わぬと知っていただけに、本人に首を横に振られても衝撃こそ少なかったものの、心の臓のあたりが次第に鈍く痛み始めたことも手伝い、冷たく言い放って後ろを向くが、女がすすり泣く声がなんともあわれで、格子戸から注ぐ月光がどうにも無情で、去り難い。
 雪女から二歩、三歩離れたところで立ち止まり、嘆息した。

「……背中」
「………?」
「背中なら、月見のついでに貸してやる。俺は俺のモンにならねぇ女に、それ以上の慰めなんぞ、施してやらねぇからな。いいか、月が隠れるか沈むまでの間だぞ」

 天狗が黒雲をすべて引き連れて行ってしまったので、その日の夜はちぎれた群雲が僅かに浮かぶばかり。
 雪女は、最初はおっかなびっくり牛頭丸の背に近づき、その後、そっと額を牛頭丸の肩に置くと、静かに肩を震わせた。

 夏だというのに、肩に降る雪の粒が、やけに冷たい夜だった。



+++












 ―――― ひやり。冷たい風が、頬を通り抜けた。





 また、あの夢のようである。





 暗い。何も見えない。





 無明。





 ぼんやりとした意識を、再び夢から遠ざけて、無理矢理眠りに沈めようと努めるも、眠ろう眠ろうと思えば余計に目が冴えるのは現と同じ。
 リクオの意識は、閉ざそう、沈もうとすればするほど、刀の切っ先のように鋭く、鳥の羽のように吹く風すら感じるほど敏く、研ぎ澄まされていく。

 夢を見る、予感はしていた。
 己の魂に縋ろうとする亡者に気づくと、雪女は夢の中にまで追いかけてきて、彼女の《畏》で結界を張り、根雪の下に草花を匿う優しさで己を守り、猛吹雪でもって山奥の聖地を守る猛々しさで己に手を伸ばしてくる者どもを追い払っていたから、きっと、彼女が離れた瞬間を狙ってやってくるだろうと、考えてはいたのだ。

 遠く離れたとは言え、伏目の御山に封じた業魔の魂は、昼となく夜となく、リクオの魂に触れようとしてやってくる。
 夢路は易い通り道だ、雪女の守りから離れたとなればこれ幸いに、これまで白い結界が阻んでいた分勢いをつけて、彼に手を伸ばそうとしてくるのも当然。

 予感と言うよりも、覚悟に近い心持かもしれない。
 喉が渇いた、腹が減った、だからお前の魂を喰わせろと、狂気に陥ったものどもを迎え入れて、一つずつ昇華してやるのだから、餌となる側には相応の思い切りが必要である。

 ところが、たどりついた夢は、彼等の魂に呼ばれたものではなく、例の、狐の、夢らしい。

 墓場のにおい。黴のにおいか。口の周りを舐めると、風に運ばれた砂でざらついていた。

 手を握ってみると、指先まで、握れる。開く。次は足だ。ある。立ち上がる。
 ざり。足元で、己が踏んだ土が、音をたてた。

 あの狐の夢とは、また違うのかもしれないと、ここでリクオは思い始めた。

 己はもう、囚われてはいないらしい。手足も、喰われたかと思っていたところが、揃っている。
 なにせ夢だ、そして己は妖の血を引いている。
 なれば、喰われたはずのものが戻って来ることもあるだろう。
 では、目はどうか。

 触れようとして ――― やめた。

 途端に、おそろしくなったのだ。

 目玉がそこに無いことがではない、在るはずなのに、見えないとなれば、怖い。
 己の目からも呪いは去っていると、知るのが怖い。

 もしそうであるならば、己の目は、別の理由で見えなくなっているか、あるいは、呪いが深いところに食い込んで、手がつけられなくなっているかの、どちらかだ。

 何故、怖い。見えなくなるのが、それほど怖いか。自問する。
 怖いさ。自答する。
 何故怖い。何が見えなくなるのが怖い。さらに問いただす。
 これには、少し困る。つい最近まで、確かに、見えなくなるのは残念だが、怖くは無いと、思っていたからだ。
 理由はすぐに思い当たる。

 もう一度。もう一度だけでいい、彼女を陽の当たる世界で見たいからだと、自答する。

 彼女の白無垢姿、きっと天女のように美しいに違いない。
 陽の当たるところで、笑う彼女を見られたなら、それでいい、それだけでいい。
 でもそれまでは ――― それが見られないと知ってしまうのが、怖い。

 愚かだろうか。愚かな恐怖かもしれない。

 それでもあれは、己の明かりなのだと、既にリクオは答えを出している。

 信仰に言う、目を開くだとか、無明の中の明かりだとか、そういうものとは違うかもしれない。
 俗な答えであると、笑われてしまうのかもしれない。
 それでも、与えられた優しさや、力いっぱいの抱擁ほど、確かであたたかなぬくもりは無かった。

 だから今は、確かめないでおこうと、目には触れずに、リクオは足元を爪先でさぐった。
 特に、周囲にすぐ穴があるとか、崖があるだとか、危なっかしい場所ではないらしい。
 もっとも、夢の中のことだ、これからどう変わるかわからない、ふらふらと歩く必要もあるまいと、リクオは腹を決めてそこに座りなおすことにした。

 不思議な場所だ。湿ったにおいがしたと思えば、乾いた熱風が吹いたりする。
 かと思えば、冷たい冷風が吹いて頬が切れる。
 誰が側にいるような気配も無い。
 以前、これが無明だと己に囁いた者も、今はいないようだ。

 ならば、早々に帰らせてくれてよいものを、夢の方がリクオを離し難く思っているのか、目覚める様子も、己の意識が眠りに沈む様子も無い。
 しばらくは成り行きにまかせてみようと、そこで、足元に広がる砂を、すくってはさらさらと手の平から逃がしながら、待った。

 何を待っているのかもわからぬまま、待った。





 さらさらさら。さらさらさら。さらさらさら。




 ―――― どれだけ、砂をすくっては逃がしただろうか。
 ほんの刹那のようであり、己を忘れるほど那由他の時、そうしていたような気もする。

 ふと、リクオは己が砂を弄ぶ音の向こうに、かしゃんと、玻璃が割れるような音を聞いて、手を止めた。





 さらさらさら………。





 手の中に残っていた砂が、風に逃げる。





 ざ、ざ、ざ、ざあああ………。





 手の中の砂がどこかへ行ってしまっても、さらに、砂が零れる音が続く。
 こちらは、玻璃が割れたその場所から、滝のように砂が溢れているようである。
 離れた場所だ。どれくらい離れているのか、わからない。
 不思議なことに、この音がすると、風のにおいや温度がかわるらしい。

 時には花の香りが。時には冬の厳しい冷たさが。時には海のにおいが。

 玻璃の中から生まれては消え、生まれては消え、結局、墓場のにおいに戻る。





 かしゃん ――― ざざあ………。





 かしゃん ――― ざざあ………。





 一体、何の音だろうか。
 思っているうちに、少しずつ、この音は近づいている。

 それまで黙って座して、聞いていたリクオに、危機感が生まれた。

 まずいかもしれない。

 誰の気配もしないはずなのに、ざざあ、ざざあと砂が零れるたび、そこから這いずる者の魂を感じる。
 魂が、羽ばたく、音がする。
 羽ばたき、何かを探している。彼等は集まる。同じ目的のために。
 同胞を探し、何かを、なすために。

 見つかってはならない気がすると、そうっと、立ち上がった。

 とは言え、目が見えぬのである。
 こちらには暗闇でも、向こうからしてみれば、見通しの良い場所かもしれぬと、中腰になって、足場を確かめながら、這うようにして後ろへ下がった。





 かしゃん ――― ざざあ………。





 かしゃん ――― ざざあ………。





 音は、近づいて来る。

 真言を用いて、結界を張ろうか。

 考えて、印を組みかけたところで、遮られた。
 それまで誰の気配もなかったのに、すぐ脇から己の手を握って、遮る者があったのだ。
 耳元でそのひとは、しいと沈黙を促す。

 その声と、常に微笑んでいるような気配に、憶えがあった。

 彼に抱きかかえられるようにして、砂の上を駆ける。

 この暗闇を見通す目を、彼の方は持っているらしいが、玻璃が割れる音も、砂が零れる音も、次第に多くなって後ろから追ってくる。
 物陰でも見つけたのか、彼は方向を変え、足元に砂が無くなったあたりで、己の腰をおとさせた。
 座り込んでみて、びくりと震える。
 硬質な床、大理石か何かのように思っていたところ、それは氷の大地であった。

 この氷の場所にたどり着くや、後ろから追ってきた音は次第に大きく、《かしゃん》が《がしゃん》になり、《ばりばり》となり、やがて天地轟く雷鳴となり、世界が壊れる音になり、それがまた逆回しに、《ばりばり》が《がしゃん》に、《かしゃん》に、小さくなって、遠く遠くへ去っていく ―――。




 かしゃん ――― ざざあ………。





 再び、地平の向こうで、玻璃が割れる音が小さく響くのみとなった。

 傍らの人は、ほうと安堵したような息をつき、

「 ――― まだ目も見えていないのに、こんなところに来てはいけない」

 どうやら、己を叱ったらしい。
 来てはいけないと言われても、来よう来ようと思って、来たわけではないはずだ。
 心当たりの無い咎めに戸惑っていると、わからないのなら良い、今は忘れるようにと宥められた。

「あれは、鵺が生まれる音。君の場所にも、確実に迫っている現実。
 君の考えは正しい。鵺は、特定の個人である必要は無い。だから、鵺を生み出そうとした者は、まだ君の場所を脅かそうとするだろう。今はどうやら、何を鵺にするか、あるいは誰を鵺にするかの選定の刻に入ったらしい。地下に潜り、仮初の姿を使ってあれこれ嗅ぎまわっているみたいだね。
 そう、来ただろう、捩眼山に。牛鬼が戦った、大天狗。あれは仮初の姿。力の一端、爪先ほどの力の具現」

 かしゃん、と、音が、止まった。

 風の音も止んで、リクオにあれこれと伝えようとしていた彼もまた、周囲の気配を鋭敏に悟り、嘆息する。

「 ――― 力の一端を呼んだだけでも、ほら、奴は私に気づいた。すぐにここを離れなければならない。本当はもっと、色々と警告をしたかったけど、ならないみたいだ。ごめんよ。次は目を開いておいで。そうすれば、見えるはずだ。
 皆を信じて、頼って、全てを打ち明けてごらん。
 弱くて、ずるくて、あさましい、己を暴いて見てもらうといい。
 さあ ――― 行かなければ。奴等がここに来る ――― 」

 途端、座り込んでいた氷の感触がふいに無くなって、宙に投げ出された。





 そこで、目が、覚めた。