翌日、花霞リクオは二代目に伴われ、奴良屋敷に入った。
 四歳の冬に追われ、この秋には十五を数えようというのだから、実に十一年近い年月が経っている。
 本家に住まう妖怪たちは皆、今か今かと到着を待ち、朧車と護衛のカラス天狗が門の前に降り立って、朧車の中から二代目と若様が姿をお見せになったときには、賄い処の女衆までが勢ぞろいで、お帰りなさいませ、と玄関に伏してこれを迎えた。

 二つの姿をお持ちだが、昼の御姿は目が不自由で御体もそれほど丈夫ではないと、京都へ赴いていなかった者も皆、事情を知る者から伝え聞いていたが、聞くと見るとは大違いで、藍色の狩衣姿の痩身が土を踏み、金褐色の髪が目元に翳りを落としており、それが決して開かぬまま、けれど彼等の声を聞いて嬉しそうに、見ようによっては少し困ったように微笑んだところなどを見て、痛々しい細さと、御側におられない母君を想って、さっそく涙する者もあった。

「おう、ただいま。無粋な用事からさっそく片付けちまうつもりだから、ちょいとそこ、通してくれ」

 若様を囲みたくてうずうずしている妖怪どもを、かき分けるようにしながら二代目は息子の手を引いて、玄関を上がり、初代が待つ広間へと向かう。

 昨夜、捩眼山で姿を消した二代目は、結局どこで夜を明かしたのか、早朝にふらりと姿を現した。
 牛鬼を咎めた烈火のような怒りはおさまり、いつもの猫のようなへらりとした笑みを浮かべつつ、朧車の迎えが来るや、それじゃあ行くとするかねぇ、などと言っていた二代目は表向き、何も変わった様子はなかった。
 しかし、朧車の中で、二代目とリクオの間には透明な壁があるかのように、互い、親しげに話し合う様子もなく、かと言ってわざとらしいよそよそしさも無く、それがかえって全くの他人のようにお互いが振舞っているようにも見えて、同席していた雪女も、猩影も、胸を痛めるところであった。
 猩影は胸を痛めるのとは別に、リクオの雪女に対する態度が昨夜から一変して、つまり、彼が常日頃わきまえてきた女人への接し方に戻ってしまったのを、寝所に女を入れさせなかったところや、給仕も不要であるとやんわり断っているところから感じ取り、胃の腑をきりきりとさせつつ、しきりにケータイで助けを求めるも、玉章から返事は無い。

 どこかで歯車を掛け違えたまま、リクオは盲目とは思えぬほど、堂々とした足取りで廊下を進み、案内された広間の大きさを空気の濃度で何となく広さを測ったらしく、ここと示される前に己で入って、上座にあたる場所を正面に、きっちり五畳分は間をとって、そこに座した。
 そのまま二代目が上座に座るかと、リクオを含め、成り行きを見守ろうと廊下の隅や天井裏から覗いていた誰もが思っていたところ、そうはならなかった。
 リクオを案内した二代目はそこから一度姿を消し、しばらくしてから代わって廊下から姿を現し、リクオの正面、上座に座ったのは、初代奴良組総大将、ぬらりひょんその人であったのだ。

 気配が広間に入って来るのを感じ、リクオはその場に深く平伏した。
 これを見て、ぴくりと片眉を跳ね上げさせた初代である。
 二代目が姿を消してからここに来るまでの間に、短い時間ではあるが前もって二代目があれこれと嘆いた内容を聞いてはいたので、ははあ、これが例の他人行儀かいと、ひとまず付き合ってやることにして、そのまま席につく。
 ちなみに二代目は、あらましを初代に語るや、「じゃ、おれはこれで」と、そのまま押入れに入って行った。
 一人でいじけるなら、姿を消してから入ればよかろうに、構って欲しいから入るところを見せるのだ。

 かと思えば今度は雪女が楚々とやってきて、やはり倅と同じようなことを、こちらは見るからに憔悴しきった様子で口にする。
 この雪女の母とは浅からぬ縁を持つ初代としては、娘のようにも思える女が、いじらしく目元を紅く染めたまま、己の力不足で若様の心の氷を解くことはできませなんだ、などと気丈に微笑む様子は胸が痛くもなる。
 甘ったれの抜けない息子に呆れつつ、いつまでも孫を待たせるわけにもいかない、ひとまず様子を見るつもりで、こうやって姿を現した初代であった。

「顔を上げてよいぞ、花霞とやら」

 倅が己に場を任せたということは、己に生粋の妖怪としての術を望んだと、そういうことなのであろう。
 誰の心にも壁など感じさせずにぬらりと押し入り、知らず知らずのうちに闇を影を暴き支配する、魑魅魍魎の主の業。
 闇を影を握れば、神に言祝がれた聖人も、悪鬼が手を叩いて喜ぶ非道の悪人も、等しく心を弄ばれる操り人形と化す。

 こればかりは、初代の右に並ぶ者は、いまだに無い。

 他人行儀の奥にある、本人すら気づいていない嘘、欺瞞、偽善、凝り固まった恨み、苦しみ、つまりは奴良の姓を捨てさせるに至った想いの裏返しを読み取り、柔らかに包んでやれば、なるほど、氷の壁は解け、他人行儀とやらも少しはなりを潜めるだろう。
 まずはそこまで、どう話を切り出したものか……と、少し思案する。
 その端で、畳から僅かに顔を上げたものの、顔を伏せたままの堂に入ったリクオの様子に、一家の大将としてまこと恥ずかしくない礼節を備えているらしいと誇らしく、同時に愛孫が歩んできた苦難を思えばいじらしく、胸が苦しくもなった。
 それを表面上は押し殺し、これまで放置されている京都の仕置きを済ませるため、厳しい声を取り繕う。

「さてさて……先の京都抗争のあらましは、倅から聞いておる。ワシはすっかり隠居の身でな、口出しはもうしておらんのじゃが、この一件については預かることにした。京はワシの代から因縁ある土地、手に入れることがあればワシの沙汰でおさめようと、常々考えていたところでもあるからのう。して、お主はなんじゃ、その京都を預かりたいと、こう言うわけか。奴良組の貸元が京都で顔を利かせようとしても、受け入れぬと、そう言いたいわけか、ん?」

 はい、と、凛とした答えがある。
 このとき、初めてリクオの両眼が開いて、何かを探すように視線を彷徨わせた。

 ぶわり、と、風が巻き起こったようなかのような錯覚を、初代は覚える。
 瞳が開き、視線がそのまま腕のように伸びてきて、己を抱こうとしているような、抱かれてしまえば全てを委ねてしまいたくなるような、明らかに《畏》に他ならなかった。
 天井裏で覗いていた小物たちや、襖を細く開けて中を伺っていた賄い女中などは、たった今まで何の変哲も無い古い屋敷の廊下であった足元が、水連が浮かぶ湖になってしまったような錯覚を覚え、そこに立つ人に優しく心をさわりと撫でられたような気がして、うっかりひっくり返ったり、天井からころりと落ちてしまったりと騒がしくしてしまった。

 他ならぬ初代も、人の身からこれほどまでの《畏》を向けられたのは初めてであり、座布団の上で僅かに体をのけぞらせる程度には驚いたが、リクオの視線は眼が使えないためか、矛先がてんでばらばらだ。
 さらには、見えぬ視界に諦めるように、やがて両眼をまた閉じてしまったので、そうなると見えていた聖なる湖の幻も何もかも全て消え、元通りになってしまう。

 自身では気づいていない部類の、振った袖が草叢を撫でた程度のものなのだろう。

「奴良組のやり方では、京都の反感を招きます。反感を招けば、新たな争いが生まれましょう。加えて、京都は陰陽師の総元締、花開院の縄張りでもあります。穏やかに平らかに日々を過ごしていたいだけの京妖怪たちについては、花開院もこれまでいくらか目こぼしをしてきました。しかし、奴良組が京都に進出してくるとなれば、花開院の陰陽師が迎え撃たないはずはない。弱い妖怪たちは羽衣狐との抗争の後に、奴良組と花開院との抗争に巻き込まれることになり、ひとたまりもありません。
 今、京に残っている妖怪たちは、皆が皆、おとなしい妖怪たちです。花霞一家は彼等と陰陽師たちの折衷を行い、それぞれの領分を守ることによって、均衡を保っております。花霞は彼等からシノギを取りません。かわりに、京都を脅かす大妖が出た折や、人を惑わし誘い喰い殺す凶暴な妖が出た折には、一家に従い我が護法となってこれを討つよう、約定を交わしております。
 土地神を通して地域の《畏》を得る奴良組とは、京でのやり方は違います。
 羽衣狐に対しては力不足否めず、また依代たる女性が二代目に縁深き方と伺い知っておりましたので、御力をお借りいたしましたが、京都を守る役目は花霞一家に、お任せいただきとうございます。
 今後一切、奴良組には関わりを持たないつもりです。不埒な輩が内部抗争を企んだとしても、これに私は一切、加担いたしません。終生、魑魅魍魎の主の座を脅かすことはないと、ここでお約束も致します。ですのでどうか、どうか ――― 」
「なるほどのう、今更廃嫡された若君として名乗りを上げれば、二代目のもとに山吹乙女が戻った今、新たに生まれる若君との間で跡目争いがあるやもしれぬ。それを避けるには、てめぇが跡目を放棄すると宣言すりゃあ、それが一番だわな。死んだとするも、生きてはいるが完全に廃嫡して次の子こそをリクオと名付けるも、ワシ等の腹積もりでどうにもなるし、それを回状で廻せば流石に腹黒い奴等も、納得する振りぐらいはするだろう。
 だがよう、そっちの線で話をするなら、大事なところが残ってやしねぇか、花霞。既にその花霞の大将が、他ならぬ関東奴良組の落し胤だという話、噂にはなっておるぞ。こいつをどうするかよ。それによ、あの京都抗争、本当なら負けた羽衣狐がケジメをつけるところ、当の羽衣狐は本体なんぞとうに滅びていてそれもできねぇ。あるとすればその依代だった山吹乙女だ。だがこいつが二代目の奥方におさまるってぇと、目に見えるケジメをつけさせるなら、誰か身代わりが必要じゃな。すけぇぷごぉと、というやつよ。
 だとすると、物騒だがこういう手もあるぜ。京都で唯一、一家の体裁をまだ整えている花霞、これを離散させれば、ばらばらになった京都を関東の傘下に加えやすくもなる。離散させるのは、この場にいる奴等の大将の首をちょん切ってやりゃあいい。何なら四条河原にでもしばらく晒そうか。奴良組にしてみりゃあ、それだけで、そいつと奴良組とは何の縁も無いことだ、加えて、京都抗争の下手人が花霞だった、そのケジメをつけさせたってぇことが目に見えてわかる。山吹乙女は利用されてたってぇ話にすりゃあいい。奴良組内で抗争を起こす火種も残らず、山吹を二代目の女房としてしっかり立たせることにもなる。違うかよ?」
「それも、考えました」
「ほう。して、そちらの手は何故、使おうと思わなんだ。お前がただ単に、花霞としてだけここへ来たというならば、最初から、腹を切る覚悟で参りましたと、そう言えば良かろうに」
「死ぬわけには参りません。帰りを、待っている者たちがあります。ですから、お情けに縋る想いで、参りました。見苦しいのは百も承知の上です」
「するってぇと、お前は、この奴良屋敷との縁を、忘れたわけではねぇ、と」
「はい」
「わかっていて、知っていて、ワシ等が許すのを期待して、ここへ来た、と」
「はい」
「代わりに、もう二度と見苦しいツラを見せるつもりはねぇから、この一度の我侭だけは、許せと。そういうことか、え?」
「はい」
「ワシ等がお前との縁を見限り、あくまで花霞大将の死を望むとなれば、どうするつもりであった」
「お任せするつもりでした」
「その時は死んだと言うか」
「 ――― はい」
「なるほど、上手いことを考えるもんじゃ。そうなれば京都の奴等はいよいよ、奴良組への反感と警戒を強めよう。加えて、花開院も東を警戒し、封印を強めるかもしれんな。奴良組は京への進行がかなわなくなり、そちらでもお前の願いは叶う。ようできておる。見事じゃのう。
 だがお主、先ほどこう言うた。死ぬわけにはいかぬと。帰りを待つ者があると。これを見捨てて死んだときはどうするつもりじゃ。よもや、そいつらを見捨てるか」
「いいえ」

 ゆるりと、リクオは首をふる。

 リクオが僅かに微笑み、これこそを初代は恐怖した。
 先ほどの、神か仏か、言い知れぬ《畏》を不意に見せられたときよりも尚、何気ない透明な笑みこそを、どうしてこれほど幽かな存在になってしまったかと思えば、風が吹けば消えてしまいそうな存在を、吹き消そうとするありとあらゆるものが憎たらしくなって、怒りがふつふつとわいてきて、仕方なかった。

「そのときは、魂となって帰ります。あの場所の、揺るがぬ封印となることを願い、祈り続けてきました。魂が溶けて消えたときでも、願いだけとなっても、想いだけとなっても、彼等と、ともに在り続けます」
「そやつらが、ワシ等へ仕返しを企んだなら、どうする」
「よくよく、言い聞かせてきました。護法たちが東京へ牙を向けることは、ありません」

 初代、ここで耐え切れず、大笑いを始めた。
 天井裏の小物たちが等しく、腰を抜かして散り散りに逃げ去り、賄い女中もまた廊下の向こう側へ走り去ってしまったような、怒気を孕んだ、腹に響く笑い声であった。

「よう言うた。ようそこまで覚悟して臨んできたものよ。じゃが、残念、不正解じゃ。お前をここに呼んだのはな、そんな辛気くせぇ話をするためじゃねぇ、養生のためよ」
「養生?」
「そうじゃ。お主はこれから薬鴆堂というところで、その体と、目を治すんじゃ」
「…………?」

 屋敷の妖怪どもが、あらかた逃げ去ってしまったほどの《畏》を放った初代を前に、リクオはしかし、やはりふわふわとどこかを漂いでもするような表情で、僅かに小首を傾げただけである。

「チッ、本気でわからないという顔をしおって。ともかく、まずは傷を癒せ。ケジメをつけさせるにも何にしても、そんな満身相違の小僧を手打ちにしたとあっては、奴良組の名に傷がつく」
「…………お気遣い、ありがたく」
「何じゃ。言いたいことがあるなら、言うてみい」
「はあ……恐れ入りますが、養生であれば、その、拙宅に謹慎をお命じいただければ」
「たわけめが。雪女が嘆いておったわ、花霞一家の賄い所にはまともな給仕がおらず、メシと言えば若い衆がカップ麺だのレトルトだの冷凍食品だの、好きなときに好きなだけ食べるくらいで、たまに賄い所に火が入っていると思えば、大将自ら夜姿で目が開いているのを良いことに、料理が好きだからと動き回っているとな。昼だろうが夜だろうが体は一つ、ならば調子の良いときにこそ養生せんかい、バカタレ。花開院の医者が、あとは少しずつ治せと言っておるそうだが、当人に治す気がないものを、放っておいて良くなるわけがない。てめぇなんぞ強制入院じゃ。薬鴆堂ならば堂主が昼夜見張っておる、下手な動きはできんからのう」
「治す気が無いなんて、そんな事は」
「笑って誤魔化すんじゃねえ、今、お前はワシにこう言ったんじゃぞ、死にに来たと。
 己に何の執着も無い奴が、放っておいて己を治すわけがねぇ!いいか花霞リクオ、昼のてめぇの両の目がかっぴらいて、このワシの目を焦点合わせて映すまで、京都に帰れると思うな!」

 最後には怒りのままに一喝した初代に、リクオはただただ、頭を垂れるしかなかない。

 これを見て、初代はまた、へらりと笑う。

「……という、馬鹿げた芝居はここまでにしておいて、じゃ」

 次に下るだろう沙汰に、頭を低くしていたリクオに、初代はからからと笑われると、足を崩してにたりと笑った。
 視界がきかずとも、気が緩んだのはわかり、リクオも知らず知らず、ほうと息をついた。

「のうリクオ、そんな風に怯えなくても、ワシ等はおめぇをとって喰ったりはせんぞ。この屋敷へ呼んだのも、ここがお前の家だからじゃ。これからだっていつでも帰ってきていい。好きなときに来て、好きなときに出かけて行ったらええじゃろう。
 お前の歳にしてみれば、十年という月日は、長いものに思えるんじゃろうなあ。十年前のことなんぞ、長く辛い修行の毎日に遮られて、よくは覚えておらんだろうと、察しもするわい。じゃがなぁ、リクオや、勘違いをしてはならんぞ。お前にとってこの十年、そりゃあ長かったろう。それも母親を守るために、京都を守るために、辛く厳しい修行を続けてきた十年となれば、それが生きるということだと、苦行こそが人生だと、思いこんでも致し方無いほどに、長く辛く感じたことじゃろうよ。
 しかしな、それでもな、リクオ、お前はここの、奴良家の子じゃ。可愛い可愛い、ワシの孫じゃ。
 お前が帰ってきたなら、きっと甘やかしてやろうと、辛い目に合っていたなら全部代わって片づけてやろうと、ずうっと思い続けて来た。もう何にも心配はいらん。京都のことも、お前が望むようにするがよかろう。お前がこの家を捨てたいと言うなら、悔しいが、それもよかろう。この家でお前が望んで手に入らぬものなど、お前が自由にできぬことなど、何一つ無いのじゃ。
 ……わかるか、リクオ。今だってお前が望まんのなら、嫌だと一言、そう言えばいいのよ。医者に見せるのならその医者をここに呼べと、一言、そう言やあいい。のう、昔はそうじゃったろう。ちゃあんと嫌なものは嫌と、昔は言えたじゃろうに、どうして今はそれができんのじゃ、ん?」
「……これは、その、気が回らず、失礼を」
「まぁたその他人行儀かい」

 つい一呼吸前に怒鳴りつけた声とは裏腹、砂糖菓子のように甘い声で、平伏するリクオに語りかける初代は、上座からよいせと席を立ち、真っ正面にぽつんと座る小さな孫のところへてくてく歩んでいくと、ほんの幼子にするように背中から抱き起こし、そこへどっかりお座りになって、リクオを膝の上に抱きしめてしまわれた。

「おお、大きゅうなったのう、リクオ。本当に大きゅうなった」
「あ、あの、初代、なにを?」
「なんじゃ。爺が孫をだっこしてはならんのか。お前は突然この屋敷を追い出されたと思っておるやもしれんがのう、ワシはあの日、明日もお前をこうしてだっこして、おやつにはプリンか大福かをくれてやって、一緒に昼寝して、お前が望めば河原か裏の山に遊びに連れて行ってやろうなどと、いつも通りの明日がくることを疑っておらんかったのじゃぞ。ワシもな、唐突に孫を奪われたのよ。ちょっとぐらい、じいとしておれ。それとも嫌か。どうじゃ?嫌ならやめるぞ?」
「………嫌では、ないです」
「そうかのう。ならば何故震えておる」
「申し訳ありません、その、嫌ではないのですが」

 リクオももちろん、これが幼い頃に、ただ甘やかしてくれただけの存在だった祖父だというのは、判る。
 判るが、陰陽師として研ぎ澄ましてきた感覚が、己を可愛がるそのひとの、とてつもない力の大きさを嫌でも教えてくるのと、そのひとについ先刻叱責された際の衝撃が体に残っていて、情けないと思いつつ、小刻みな震えが抜けないのだ。
 何食わぬ顔をしているのは職業柄、慣れてしまったが、体の反応ばかりは隠せない。

 せっかく己との情や縁を大事にしてくれようとする祖父を前に、大変申し訳なく、興醒めされてしまうことだろうと思えば悲しくもなって、曖昧に返事を濁し、ともかく早々にこの場を辞そうとするが、許されない。
 戸惑うリクオを離さず、どうして何故を繰り返す初代に根負けする形で、リクオはついに、きっと嫌な気持ちにさせてしまうことだろうし、何より自分の修行が足りぬだけだがと前置きして、

「……初代や二代目ほどの妖気の大きさは、流石に感じることが少ないので、体が驚いているのだと思います」

 先程の初代の一喝に体が驚いたまま、情けないことになかなか震えがおさまらないと、苦笑をを交えて話してみた。
 記憶の中の祖父ならばきっと大きく口を開けて笑って、ビビってはいかんのう、ビビっては、などと流してくれるはずだと思っていたのに、返ってきたのは、虚を突かれたような沈黙である。

「そうか、怯えさせたか。すまんかったのう。許しておくれリクオ、もう二度と、ワシはお前にあんな声は上げぬよ。
 すまんかったのう、本当に、すまんかったのう、許しておくれ」

 包み込むように抱きしめてきて、しきりに謝罪を繰り返す祖父の声が、喉の奥に何かが詰まったように時折しゃがれる。
 謝罪が意味するのは、先程の芝居が孫を怯えさせたそれだけへのものではなかった。万感の想いを込めて抱きしめてくる祖父の胸に頬をぐいぐいと押しつけられながら、嗅いだにおいに、リクオは、不意に、祖父を思い出した。

 今まで忘れていたわけではないが、どこか遠く感じていた祖父というひとを、この時、十年前に引き離された家族として、ついに思い出したのである。

 ああ、このひとは、知っているひとだ。

 記憶は都合の良いようにゆがめられると言うけれど、このひとは、あの日のままだ、と。

「………おじいちゃんの、においがする。おじいちゃんの煙草のにおいだ」
「おお、そうか?くっくっく、リクオ、お前はのう、昔ワシの煙管をこっそり持ち出して、笛のように吹くもんだと思っておったのか、そうやって遊んでおったのじゃぞ」
「………うん」
「笛でも買ってやったら面白いだろうかと思ってな、与えてみたらずうっと吹いておった」
「………うん。五条大橋で四国妖怪と戦ったとき、役にたったよ。今でも、横笛続けてるんだ」
「そうかそうか。リクオは賢い子じゃ、強い子じゃ、たのもしゅうなって帰ってきおって、じいちゃんは嬉しいぞ。小遣いもお年玉も十年分貯まっておるし、十年分考えておいた《明日の遊び》もあるぞ、のう、リクオ」
「雪合戦」
「おう?」
「あの日はね、冬で、雪が降ったでしょう。積もったら雪合戦しようねって、そう約束してたんだよ」
「おお、覚えておるとも。雪女め、張り切っておってなぁ。そうかいお前も、覚えていてくれたかい」
「おじいちゃん、ボク………」
「なんじゃ、言うてみい」
「お母さんを、守れなかった」

 ごめんなさい。呟き俯く、リクオの肩が震える。

 初代は言葉を失う。

「ボクが守らなくちゃならなかったのに、ボクが強くならなくちゃいけなかったのに、ボクは、守られるばかりで。……きっと、お父さんは、許してくれないよね」

 再び震えだした肩を抱き、宥めてやりながら、初代は眉を寄せた。
 ぬらりひょんの名がごとく、他人行儀な壁すらもぬらりくらりとかわして、心ごと抱きしめてみたものの、そこで合点してしまって途方にくれた。
 京都の安寧を求める京妖怪たちのため、あるいは若様の帰還を望む奴良組本家の妖怪たちのため、様々理由をつけてはいても結局は、この心は死を覚悟してここへ訪れたのではない。
 おそらく心の持ち主すら気づいてはいない、言えば望んでなどいないと、真っ向から否定するであろう、影の奥深くにある理由をついに覗いて、途方にくれた。

 人間とはそういうものだ。
 どんな聖人であれ、己の内に闇を飼い、そこに生まれくるものをだいたいにして否定したがる。
 光が強い者なれば、尚更心の影の色はさらに濃くもなり、遙か昔の偉い坊様でさえ、誘惑を払い悟りを得るために憤怒の形相をした明王を従え、業魔を払う必要があったそうだ。
 ぬらりひょんは、どこにでもするりと入り込み、これを読み暴いてしまうので、どんな人間も彼を忌み嫌い、彼が妖である所以となった。

 己の性を利用して、孫の心を暴いてみたものの、口にする勇気は全くなかった。
 だから途方に暮れるしかないのだ。

 この子は死を覚悟しているのではない。
 死を期待して、ここに来たのだ。





 ボクに刀が降りおろされるのは、いつ。

 いつまで待ったなら、楽になるの。
 いつまで待ったなら、眠らせてもらえるの。
 疲れちゃった。もう、立てないよ。何も見たくないよ。





 生粋のぬらりひょんにしてみれば、人の子の心など暴くにたやすいもの。
 一度警戒を解かせると怒濤のように溢れて、人が秘しておきたい記憶が、淀んだ影となって立ち上り初代に迫ってくる。
 孫に知られぬよう、これ等を全て読みとりながら、孫を影から守るように祖父は小さな肩を抱いた。

 孫の命を狙った者どもを、記憶ごしに読みとり、その顔を一つずつ覚えながら。
 幼き日、事情を知らぬただの人間の仔を喰らおうと、近づいてくる妖怪もあった。
 陰陽師の修行中に、才を妬んで後ろから切りかかって来る人間もあった。
 人の中には命だけを求めるのではない、汚れ仕事を押しつけ誇りを汚す者もあれば、無垢な幼子の心を腐らせる行為を強いてあざ笑う者もあった。

 それほどまでの汚濁を、浴びるように呪われるように与えられていながら、本人の心根がまるで清らかな光満ちたそれであるのが、初代が孫を不憫と思う十分な材料であった。
 このように育ってしまっては、さぞかし、浮き世は生き難かろう。

「そんな事があるもんかい、無事に帰ってきたのを喜びこそすれ、どうしてお前を虐めようとするかよ。
 安心せいリクオ、この屋敷の奴等は、みぃんなお前の味方よ。
 疲れたなら少し眠れ、立てないなら、ワシがおぶってやるから、何にも心配するな。目だって直に開く。
 お前が昔遊んでおった庭にある、あの枝垂れ桜は今の季節はもう、花など散ってしまったが、風が吹くとさわさわと葉が揺れてな、それがまた、風情あるもんじゃぞ。目が開いたなら、縁側に座って眺めながらかふぇでもしよう、のう」

 途方に暮れながら、泣き震える孫の背を撫でてやり、何も気づかぬふりをして額を孫の額にくっつけ、赤子をあやすように揺らしてやれば、すぐに涙を払って微笑んだが、目は開かない。

 目が見えぬのは、既に死の方向を向いているためだ。
 体の中で、一番先に遠くへ届く場所、それが目だからだ。
 既に視界は、死をとらえている。

 祖父にしてみれば、先に死に顔を見せられているようで、両目を瞑ったままの孫の顔など、胸が痛くなるばかりであったが、リクオは己の体の震えが消え、祖父の腕に抱かれているとどこよりも安心なような、初めて家に帰りついたような気がした。

「ただいま、おじいちゃん」
「おう、リクオ、帰ったかい。おかえり」

 あえて、たった今、裏の山から孫が帰ってきたような気軽さで、ぬらりひょんは孫を迎え入れた。



+++



「つまりお前、父親として信用されとらんぞ」

 場所を変え、初代が隠居暮らしを楽しむ離れの座敷でやきもきして待っていた二代目に、初代は次第を話し、鼻の穴をほじりながらこう締めくくった。
 二代目、がっくりうなだれる。

「……なんかそんな気はしてた」
「そんな気はしてた、じゃねえだろうがッ!まずてめぇでてめぇの息子を、ぎゅうっと抱いてやらねぇでどうするよ。それもしねぇうちから、やれ大人びてるだの子供らしからぬだの、言えるもんかい。どんな立派な口上だったってよ、つまりお前が聞いたのは、お母さんを守れなくてごめんなさいと、そういうこったろうが。だったら、そこでぎゅうとしてやりゃあよかったんじゃ。いや今からでも遅くはないからよ、お前が悪いんじゃねぇと言ってやって、ぎゅうとしてやりゃあいいんじゃ!」
「そりゃあ、そうなんだけどよ。おれの場合、なーんかいつも邪魔が入るっていうか。西方願寺じゃあ鬼童丸だろ、京都杯じゃあゆっくり話す暇もなかったし、いやその分上手く行ったような気はしてたんだけど、とどめは昨晩だった。おれもいらん事、言っちまうのが悪いんだけどさ、でも昨日だって別に責めたとかそういうつもりじゃなくて、おれは牛鬼の堅物をだな。……いやまぁ、頭に血ィのぼってたってのもあるけど。あるんだけど。けどさあ、でぇもぉ!」
「だって。でも。だけど。それがねぇと会話ができねーのか。おめーときたら童の頃から、まるで言い草がかわらねーじゃねぇか、二代目」
「鯉さんは甘え上手なのよ」
「開き直るんじゃねぇわ、馬鹿モン」
「……冗談はさておいて、親父のおかげで根深いってのはわかった。京都で聞いた話だけでも、ずいぶんな死にたがりになっちまったなーって言う気はしてたんだよ。だがそれを言うと、あいつを知ってる奴等はこぞって、御大将は死にたがってなんぞおられないと、こう言う。最後の最後まであがいて、生きる術を、助かる術を見いだそうとする御方だ、なんて言って。
 たしかに表面上はしっかりしてるし、自殺願望とやらも無さそうだ。親父が見た心の影だってことは、本人も認めたくないところなんだろう。逆に本人にそのつもりがねぇのにやめろって言ったって、やめるわけがねぇわな。いや、あいつならてめぇの汚いところを突きつけられれば、ちゃあんと受け入れはしそうだが、てめぇの根本のところを直せって言われても、早々直るもんじゃねぇ。いたらないところを直すだのと言われて、さらに修行だお籠もりだなんだで自分をイジメられちゃたまんねーし。
 なんて言うのかねぇ、こういうの、死にたがりじゃなくて、生き急いでる、っていうのかねぇ。嫌なことは先に終わらせちまおう、所詮此の世は苦界、死んで仏になってこそ、みたいな?そりゃあ昔は、飢饉だ何だとある度に、そういうのも流行ったが、最近とんと聞いてなかったよなぁ。しかも身内からそういうのが出るとは思わなくてびっくりよ」
「語尾上げはそろそろ古いそうじゃぞ。新しいモン好きのつもりなら、もっとよく研究せい。……で、その根深いモンを、どうするつもりじゃ。いつまでも他人事のようにへらへらしとるんじゃねぇ」
「それをどうしようか相談したくてな、薬鴆堂の主にご登場願おうと思ったんだが、ここ最近調子悪ィらしくて、赴いてみてもだいたい臥せってる。今代の鴆君はガキの頃から知ってるし、無理させるのもなぁんかしのびねぇ。
 かわりに蛇太夫が何かしらうまい方法はねぇもんか、堂主様の意向を聞いておいてくれるとなってて、で、これから来ることになってる」

 人の世であれば、昔は寺の坊主などが檀家の相談事を受け、誰が正しいの正しくないの、悲しいの悔しいの、そういった答えの出ない事柄を、うまい具合に仏の御手に委ねていたものだし、気鬱の病なれば漢方などを含んで、気が晴れるのを待つしかなかったが、最近はカウンセラーなどといって、医師がそちらの分野に手を出してきているらしい。
 思い当たってうむと初代も返事をしたものの、いくら人の世が移り変わっているからと言って、妖怪の方がすぐに追いつけるというものでもない。むしろ妖怪には気鬱だの心の問題だの、その諸悪の根元など、とっとと喰ってしまえばよいではないかという短絡的な者が多いから、医者の厄介になることが、まず無い。
 いくら薬師一派を纏める鴆の当主といえど、気鬱にまでどうにかできるものだろうかと首を傾げつつ、初代は聞くだけ聞いてみるかと、二代目とともに、蛇太夫を待った。
 期待は無かった。
 儀礼的に、呼び寄せられたという配下の使いを労ってやってから、天狗だの、三代目候補だの、京妖怪どもについてだのを、二代目に考えさせるつもりであった。

 しかし ――― 。

 間もなく姿を現した蛇太夫の一言は、中々、妙案であるように思えた。

「忘れさせる ――― じゃと?」
「左様にございます。一度心を捻じ曲げてしまったものを、さらに元通りの形に戻すには、さらなる痛みが伴いましょう。若様は妖の血を、四分の一しか引いてはおりませぬから、人として生きてきた年数が長ければ長いほど、人の教養や人の美徳こそが絶対だと、考えても無理からぬことでございます。これから同じ年数、今度は妖として生きたとしても、幼き日に植えつけられたものを払拭できるかどうか」
「むう」

 突飛な話だ。突飛すぎて、人には考え付かぬだろう。
 同時に、人ならば、そんなことは出来ぬのだから、と、まず最初に切り捨てる方法に違いない。

 それを、蛇太夫は、ちろちろと先別れした舌を時折口の端に覗かせながら、尚も言う。

「無くは無い話なのでございますよ、昔を忘れたい、あるいは忘れさせた方が良かろう、という話は。薬鴆堂にも、数年に一度の度合いでそういった患者はあります。妖怪も恋などをいたしますからなァ、叶わなかった恋でどうにもならぬ、という者が、自らここ数年のことを忘れたいと言ってくることもございますし、周りの者が気を利かせて運び込んで来ることもございます。
 さっぱりしたモンでございますよ、それまでメシも喉を通らずずうんと沈んでいた顔が、翌日にはさっぱりとした様子で起き上がり、やけに腹が減ったがどうしたことか、などという者もありました。
 人間に使ったこともございます。どこぞの昔話に残っておりますでしょう、残忍な妖怪にかどわかされ乱暴された後、両親の元に戻ってきたは良いが心に傷を負った人の娘がおり、これが日毎衰弱していくのを憂いた両親が薬師如来に縋ったところ、両親の枕元に如来が立ち、水薬を浸した香木を差し出して、これを娘の枕元で、七日七晩焚くように伝えました。両親が目を覚ますと、枕元には件の香木があり、さっそく夢のお告げの通り、娘の枕元で七日七晩焚いてみたところ、口も利けぬほどに衰弱していた娘は、けろりと己の身に起こった不幸な事実を忘れ、かどわかされる前の明るい娘に戻り、その身に受けた妖気によって美しく育ち、通りがかった殿の目に留まって、城に連れ帰られ、そこで寵愛を受けるまでになった。
 それと、同じ話でございます。忘れた方が良いことは、あるのでございましょう」

 初代も妖怪である。
 これを聞き、一理ある、そう思われた。

 十年前、無邪気に笑っていた孫が、どれほど辛い目に合ってきたか、慮るだけでなく、実際に心の中を探って見てみたからこそ、乗り越えろ、強くなれとはとても言えぬと思われた。
 たとえこの十年を忘れてしまったとしても、本人にしてみれば突然に体が少し大きくなって戸惑うくらいのものであろうし、その後で何も心配はいらぬと、慰めて抱き締めてやれたなら。
 今ほどの重荷を、孫は背負わずに済むのではないか。

 母の死は辛かろうが、秘して事故であったことにすれば、改めて泣く孫を皆で慰めてもやれよう。
 改めてこの屋敷で、若君として育ち直せば、雪女もさぞ喜ぶだろう。

 もちろん、京都のことは後々話をつけるにしろ、そうしてさえしまえば、三代目候補で憂う必要も無くなるだろうと、考えなかったはずは無い。

「その線はナシだな。別の方法は、なんか無いモンかねぇ」

 ところが、これをあっさり蹴るのは二代目である。

「……おい二代目、もうちっと真面目に考えたらどうじゃ」
「おう、おれぁ真面目だよ。親父こそ、まさか今の手はいいとか、そんな風に思ったんじゃあるめぇな?」
「忘却は救いにもなろう。てめぇは、とっとと『お父さん』と呼ばれたかねーのか」
「って、本気かよ?!おいおい、馬鹿言っちゃいけねーよ、流石に乱暴だろ、そりゃあ」
「乱暴でもなんでも、たった十四かそこらでおめぇ、死を直視しとるんじゃぞ」
「あー、うん、まぁ、そいつはちょいと、早いかなぁって気ィするさ。でも、そうなっちまったモンは、仕方ねぇだろ。こっちに不都合だからって、そうなっちまったモンを、なかったことにするってぇのは何か、おれ、嫌なのよ」
「あれも嫌だこれも嫌だって、それじゃあおめェはアレをどうするつもりじゃい。三代目の話なんぞ、出す前から毅然と断られたぞ」
「三代目だの何だのはともかく、もう少しこの家のことを、気軽に考えてくれたら、まずはそれでいいかなあと。あとは、そうだな、鬼童丸の奴に『父さん』ポジションは取られちゃったから、『パパ』ポジションを狙うか……」
「真面目に考えんか!」
「てッ」

 煙管で二代目の後ろ頭を小突くも、二代目にはちっともこたえた様子など無い。
 後ろ頭をさすりながら、

「それでもなぁ、やっぱそれはナシだ」

 人当たりは柔らかいが、頑として首を縦に振らない。

「確かに、それをやっちまったら、早いかもしれねぇよな。もしもそんな方法があったらって、望む人間が多いのも、知ってるよ。
 けどなぁ、あいつは強いから、きっとそんな方法を取ったら、忘れまいとして逆に苦しむことになると思うのよ。だからその方法はダメだ。
 なんて言うのかねぇ、気の持ちようっていうかさ、それまで重いって思ってたものでも、ある日突然、あれそうでもなかった、なんて思いなおすことがあるだろ?
 喉元過ぎればってのと、また違うかもしれねぇけど、記憶っていうのは悪いモンを引っこ抜くんじゃなくて、そうやって、重ねていくモンなんだと思う。
 今は、おれが何をしたなら、もう一度父親として重ねてもらうようになれるのか、あるいはあいつに、例えば少しでも気が楽になるような方法があってそれを教えてやるかしたなら、これまで重なってきた不幸だの辛さだの、そういうものの重みってのを気にしなくて済むようになるのかもしれねぇって、そう思ってたんだけどよ ――― やっぱこういうの、医者に頼るモンじゃねぇか」

 初代は生粋の妖怪である。二代目は半妖である。
 リクオは、さらに四分の一しか妖の血を受け継いでいない。

 人間と交わった初代ではあるが、人間の考え全てを理解できたわけではない。
 対して二代目は、幼き日はほとんど人間の童子のように過ごしてきたから、考え方は人間に近い。
 倅が言うのなら、人が言う忘却とは無かったことにする喪失ではなく、新たな記憶を重ねることで先へ往くということなのだろうと、初代も納得することにした。
 もしもこの場に人間の妻、二代目の母が居たならば、妖怪の業でもって記憶を失わせるなど、理を乱すおそろしいことだと、二代目の肩を持つような気もする。加えて、二代目はいつもへらへらしている割に、こうして譲らぬときは何を言っても頑として動かない。

「忘れ薬とは妙案じゃと思ったがな、今回の件については無しという事じゃな。蛇太夫よ、わざわざ来てもらったところ、すまんかったな」
「鴆君によろしく伝えておいてくれよ。まだあいつ、吹けば飛ぶような細さだからさ、そのうち診てもらいに連れて行くかもしれん」

 これを言うと、蛇太夫は瞬きもせず、しばらく初代と二代目のお顔を見つめて、舌をちろちろとやっていたが、

「承知いたしました、主にはそのように申し伝えます」

 深く礼をして、立ち去ったのだった。

 蛇太夫が去ってからしばらくして、ふと、二代目が立てた膝に頬杖をつき、ぼんやりと庭を眺めながらこんな事を言った。

「薬師一派も、キナ臭いな」
「 ――― なんじゃと?」

 今日の晩飯は何かねぇとでも言いそうな、あっさりした声色であったので、初代はうっかりと、聞き逃してしまうところであった。

「忘れ薬を持ち出してくるなんざ、てめぇから白状したようなモンだ。リクオに忘れてもらいたいことが、あるってことだろう。例えばこの屋敷から最初にあいつを連れ出そうとしたのは誰かとか、そういうことをさ。問題は鴆君含めた薬師一派がそうなのか、それともあの蛇太夫の独断か、あるいは ――― 」
「鴆が、そうだと言うのか」
「まだ、はっきりそうだとは、わからんけどよ。先代が死んだのは、若菜とリクオがこの屋敷からかどわかされた、丁度その少し前あたり。キナ臭いと思わせるには、充分だと思わねぇか。鴆の葬式なんざ珍しいモンじゃねぇから、幹部連中の誰も死因を憶えちゃいないかもしれねぇが、あん時は、確か」
「 ――― 自害、であったか」
「と、いうことに、なってる。表向きはな」
「………リクオの養生の件は、伝えてあるのじゃろう。その一件、鴆は快く受けたと聞いたが?」
「うん。そうなんだ。そうなんだけどな ――― 」

 鴆の体は、生まれながらに己の毒に蝕まれている。
 あの鳥妖にとって、生きるということは、毒で死んでいくということと、同義だ。

 先代が己の死期を悟りもしたのか、その直前、次代のことをよくよく頼むと願ってきた。
 だからと言うわけでもないが、二代目としては彼が幼い頃から知ってもいるので己が父のつもりで見守っても来たし、大事にしてきたつもりだ。
 ところが、鴆の方ではこれをよく思わないのか、具合が悪い、人前に出せる顔ではないなどと理由をつけ、最近は妙に避けられている気もする。

「薬鴆堂へ行かせるのは、ちょいと様子を見よう。この状況じゃ、ちょっとでも危険は排除しておきたい。そのうち、鴆君にこちらに来てもらおう」
「物騒じゃのう。羽衣狐を下して、少しは落ち着くかと思っておったら……」
「親父にゃ悪ィが、今の状況じゃあ、おれぁ本家の奴等しか信用できねぇよ」



+++



 リクオにあてがわれた部屋は、階段を上がって二階、枝垂れ桜が正面に見える、景色の良いところだ。
 足がうっすら覚えている位置であったので、その部屋に足を踏み入れる前におやと一瞬戸惑ったところ、案内した毛倡妓が嬉しさを隠さず、うきうきした口調で話し出す。

「この部屋はほら、元々、若様のお部屋だったところです。まだお小さかったですから、もっぱらお母様やお父様と一緒におやすみでしたけど、雪女が付き添って少しずつ一人で眠る練習なさっていたんですよ。ゆくゆくはここが若様のお部屋になって、寝起きしたりお勉強なさったりするだろうって、お二人ともそうお考えでした。ですからここと、この次の間は、これまでもこれからもずうっと若様の……リクオ様のお部屋です。どうか、くつろいでくださいましね」
「うん、ありがとう。なんとなく、覚えてるよ」
「副将殿のお部屋も、側にご用意させておりますから、もう少しお待ちくださいな」
「副将殿って、なんかくすぐったいからやめてくださいよ、姐さん。俺のことは以前と同じように、名前でいいっスから」
「あらあら、照れちゃって。アンタも昔はひょろっこくって小さかったのに、まあまあ、たくましく頼もしくなっちゃって。ふふふっ、きっと狒々様もお喜びよ」

 リクオについて部屋に入り、窓の外や次の間、廊下の左右と天井を何気なく見やって、万が一の場合の撤退ルートを確保していた猩影は、唐突に話をふられて大きな体で情けなさそうに首を引っ込め、渋い顔を作った。

「……その、親父、まだ生きてますかね」
「生きてるもなにも、ぴんぴんなさってるわ。たまに初代のところへおいでだけど、まだまだ現役。最近、奥様に毎朝毛繕いをしてもらうのが日課だとかで、毛艶もよくて。今頃、猩影君の帰りを、今か今かと楽しみにしてるんじゃないかしら。もちろん、お顔見せに行くんでしょ?おみやげは買ってきたの?」
「ぴんぴんつやつやか……コンディションは悪ければ悪いほど、望ましかったんだけどなー。今から大風邪でもひかねぇかな」
「何言ってるのさ、良かったじゃない、お父さんもお母さんも元気で。今のうちに顔を出してきたら?ボクもここに数日は居るだろうから、詳しい日程が決まったらまた連絡するよ」
「そういうわけにいくかよ。俺はお前の護衛としてここに来たんだ」
「それじゃあ、はい、副将の猩影君、道中の護衛、ご苦労さまでした。さ、狒々組の末子猩影君、お父さんとお母さんのところに行っておいで」
「そんな、簡単に言うなよ。お前に何かあったら、どうするんだ」
「道中はともかく、この屋敷では何もないよ」
「そりゃ、そうかもしれねぇけど………」

 リクオとは別の理由、家出少年としての正しい帰り難さに猩影が口ごもるのを、毛倡妓はこれにもくすくすと袖で口元を隠して笑って助け船を出した。

「まだお昼にも早い時間だし、今、お茶をお持ちいたしますから、まずは一服してから考えなさいな。それでは、リクオ様、猩影君、ごゆるりと」

 袖を優雅にさばき、長い髪をふわと踊らせ流し目を使ってくる色っぽさときたら、流石は元禄吉原の太夫である。
 幼い頃はただ綺麗だなあとしか思わなかった猩影だが、ちょうどそういうお年頃、ごくりと先に喉が鳴り、素直に体が反応しそうになって、ぶるぶると首を振っていた。

「ガキの頃はよくわかんなかったけど、あのひとを綺麗だと思うなって方が無理だよなァ。男だったら見た瞬間に持ってかれちまうよ。そうなったらもうかなわねぇってんだから、毛倡妓姐さん、反則すぎるぜ」
「首無と一緒に、二代目の側近をつとめてるんだから、相応に強いはずだよ。京都でも、いつも前線にいたよね」
「あン時は、相手が男か女かとかよく見てなかったからなァ、正直、あんまり印象にねーな」
「くす。それじゃあ猩影君だって、戦おうと思えば毛倡妓と戦えたって、そういうことだよ。今は気が抜けてるからそういう風に感じちゃうみたいだけど、戦ってるときの猩影君は気迫が怖いぐらいだから、逆に毛倡妓だったら力技で押せるんじゃないかな。相手が誰であれ、ボクの副将が簡単に負けるはずないよ。お父さんにゲンコツ貰われたって、殴り返すくらいの気持ちで行ったらいいじゃない。心配かけたことは悪いと思ってても、自分に恥じることをしたつもりは無いんでしょ?」
「うー。そりゃ、そうなんだけどよ。まぁとりあえず生きてるし、兄貴どもはともかく親父とは袂を分かつつもりはねぇよってこと、伝えに行くだけなんだけどよー。親戚ん家からも黙って居なくなったし、京都に転がり込んでからは連絡取ろうともしてなかったし、怒ってっかなと思うと、うーん……」
「ついて行ってあげようか、保護者として」
「保護者は余計だ。てめーの背中に隠れるような真似を誰がするかよ。
 そうだ、保護者で思い出した。奴良屋敷についたこと、玉章や花開院の兄さんたちにはさっき、メールで知らせておいた。あとで電話でもしてやれよ、きっと鬼童丸、寂しがってるぜ」
「そうかなぁ、出発する前にお土産何がいいって訊いたら、お前の嫁と花霞二代目、なんて、真顔で冗談言いながら素振りしてたよ。あの様子じゃ、あんまり気にしてないと思うけど」
「いや、あのおっさん、冗談なんざ言わないから。いつも本気だから。つか二代目は流石に数日じゃ無理だろうよ鬼童丸のおっさん……」
「何をぶつぶつ言ってるのさ」
「お前がガキだって話。あー、頭痛い。なんでウチの大将はこういう方向には、からっきし頼りにならないのかねぇー」
「ねぇ、いつも思うんだけどさ、玉章君も猩影君も、ボクのこと本当に大将だと思ってる?なんでウチのコって呼ぶの?」
「ウチのコはウチのコだろ。可愛い弟分で頼もしい大将で、昼と夜の倍率二倍で四度美味しいというわけだ。年下なんだから仕方ねーさ」

 わしわしと柔らかな髪を撫でてやって、とりとめもない話を続けながら二人がじゃれているところに、「お茶、お持ちしやした」と来たのは、毛倡妓ではなかった。

「おい黒、俺ぁ盆で手がはなせねぇんだ、襖開けろよ」
「むっ。そういうときはな、青、一度盆を下に置くのだ。まったく、作法も何もなってない田舎坊主め。だから拙僧が持っていくと………ぶつぶつ………」

 声がかかってからもしばらく、襖の向こうで揉めている。
 二人だけではなく、さらに「二人ともさー、開けるか退くか、どっちかにしなよー」「ったく、図体ばっかりデカい青二才は仕方がねぇなー」「なんだとこの納豆め!」などとやいのやいのとやっている賑やかな声に、最初は何かを思い出すような顔をしていたリクオの表情に、喜色が広がった。

「その声、青田坊に黒田坊、河童に、納豆小僧?」

 一瞬、ぴたりと、襖の向こうの騒ぎがおさまり。
 次に。

「わ、若ああああッ!拙僧です!エロ田坊です!あ、違う、黒田坊です!」
「お、おで、おでのごど……おぼえで、おぼえでくだざっでだ……!うおおぉおおぉッ!若ああぁぁあぁ……!」
「はーい、若様ー、元気?」
「ったくよー、その図体で若様に詰め寄るなっての。驚かせちまうだろうが。それに何だよ、たかが十年ぽっち離れてただけじゃねぇか。………チッ、今日はやけに納豆菌が目に染みやがるぜ、チキショー」

 作法も何もあったものではない、スパーン!と勢いよく開け放たれた襖の向こうから、雪崩るように彼等が姿を現した。
 止める間もなくリクオを囲んでしまった彼等に、リクオも懐かしそうに微笑んで、恐れる様子も身構える様子もなく任せてしまったのを見て、輪の外からこれを見ていた猩影も、ふと微笑んだ。
 リクオが生家に帰りついたのを、これで見届けたような心持ちになると、不思議なもので、次はそろそろ、己も実家に顔を出さねばなるまいなと思えてくる。
 雪女との仲については、これからじっくりとリクオに言い聞かせてやらねばならぬにしろ、今日は奴良屋敷の面々が、リクオを離してくれなさそうだ。悔しいが、逆にほっとしたこともあり、猩影はほったらかしの盆の上の茶を勝手に含み、腹ごしらえに茶菓子の饅頭をぱくりとやってから、黙って席を立った。

 リクオに声はかけなかった。
 奴良屋敷の妖怪たちの輪の中で、彼等と楽しそうにじゃれ合っているリクオを見ていると、花霞大将の役目を思い出させるのは、不粋な気がしたのだ。





 羽衣狐の驚異は去り、死んだとばかり思われていた若様が、京都ではちょっと名の通った一家の大将にまでなってこの奴良屋敷へ帰ってきた。
 跡目争いが直接利害に関わる貸元やその下の連中はともかく、直接本家に仕える者どもが、リクオの帰りを喜ばぬはずはない。その夜はさっそくちょっとした宴が設けられ、盆と正月が十年分いっぺんに来たような、ご馳走や酒が用意されて賄いどころも大忙しとなった。

 若様とともに凱旋した雪女などは、なにせ十年前からこれまで、死んでしまったと諦めることなく若様を探し続け、ついに見つけて連れてきてしまったのだから、賄い女中たちの間ではちょっとした英雄扱いである。
 道中疲れたろうから、少し休んでおればよいのではと皆も最初は気遣ったが、雪女自身が明るく笑って生き生きとした様子で、若様がお食べになるものなら張り切って作らなくちゃとたすき掛け姿で奮起するものだから、それならと台所に迎え入れ、京都での若様はどんな様子であったのか、一家とはどれほどの規模であるのかなど、毛倡妓からは聞けなかったところをねえねえと仕事のついでに肘でつついて聞き出そうとするのだ。

 賄い女中たちは、このときまだ知らなかった。
 若様のもう一つの姿とやらを、初代によく似た風貌の妖姿としか聞いておらず実際には見ていなかったし、雪女がどういう風に若様を見つけるに至ったか、それまでに雪女がその妖姿の若様を若様と思わずどんな想いを抱いたのか、知らなかったものだから、はしゃいでいる様子の雪女を、若様が屋敷にお戻りになられてうれしいのだろうとしか、思っていなかったのだ。
 彼女等に囲まれ、困ったように笑うばかりの雪女を、助けたのは毛倡妓だった。

「ちょっとアンタたち、お喋りしてる暇があるンなら、広間のしつらえを手伝って頂戴な。人手はいくらあったって足りないんだからさァ。ほら濡女、膳の数は足りてる?轆轤首も、手さえ動かしてりゃいいってモンじゃないでしょ、ほら、手元見て包丁使いなさいよ。………つらら、大丈夫?」
「うん、平気よ。道中って言ったって、捻眼山からここまでなんて、あっと言う間だし」
「疲れとかそういうんじゃなくて………何か、あったんでしょ?」
「え?」
「今日、いつもよりちょっとお化粧、濃いもの。昨日、眠れなかったんじゃないの?」

 雪女に群がる女どもを、しっしっと追い払い、彼女の隣で野菜をせっせと水洗いしながら、小声で尋ねると、雪女の目元がまた、カッと朱に染まった。
 白雪のような肌であるので、泣いたり怒ったり、何か心をふるわせることがあると、隠し立てできないのがこの娘。しかし、雪女はこの屋敷では、若様の守役と見られているのである。まさか昨晩そのひと相手に失恋して、泣き明かしたなどと、臆面もなく言えるはずもない。
 相手が毛倡妓であったとしても同じである、何かあったと悟られたとしても、しらを切り通すつもりで、首を横に振った。

「ううん、何も。……何も、無いの」
「そんな顔で何も無いって、言われてもねぇ……失恋しましたって顔よ」
「…………ッ」
「図星かぁ………、はあ、あんた、そんな大変な時に、こんな慌ただしいところへ顔を出すんじゃないわよ。ねぇちょっと、誰かここお願い。あたし、雪女を休ませてくるから」
「毛倡妓、ちょっと、私は別に……」
「雪女でも熱なんて出るのねぇ〜、と言っても氷点下だけど、いつもよりちょっと高いんじゃない?こんな火を使うところに居ちゃだめよォ」

 わざとらしく大声をあげて毛倡妓が言うと、確かに雪女はいつもよりぼうっとしているようだし、目元もほんのり赤い、やっぱり疲れが出たのだろうと、女衆たちも納得して送り出した。
 ぐいぐいと手を引かれて雪女がたどり着いたのは、彼女と毛倡妓が寝起きに使う部屋である。

 明治以降に生まれた雪女は、毛倡妓より年下で、若様がお生まれになった後に守役として本家に入ったので、本家のあれこれを毛倡妓から学んでいたのだ。
 毛倡妓は面倒見の良い性格だし、元々が吉原の太夫である。
 何人ものかむろの面倒も見ていたし、「おいらのねえさん」とそのかむろ達の方からも慕われていた。
 人の心の機微を読み、察し、押したと思えば引いて見せる、客との絶妙な駆け引きができる者でなければ、そうそう太夫などになれはしない。
 毛倡妓は人であった頃の過去の経験から、今の雪女の顔色を見て、ただ事ではないと判じた。

「その顔をした娘はね、次は首を吊るか、男を殺しに行くか、返り討ちにあって無惨に赤い花を咲かせて堀に浮かんだかしたもんよ。
 ああそうそう、一人だけ幸せそうな顔をしてた娘もいたっけ。
 自分を振ったとばかり思っていたマブがね、久しぶりに訪ねてきてくれて、よくよく話してみたら、本当は親が決めた許嫁と無理に結婚させられただけでしたって、うれしそうに話しに来たのよ。心はずうっと私のものだって言ってくれたって、すごくすごく嬉しそうに言うもんだから、私もほっとしてたらさァ、その娘とその男、手を繋いで心中したのよねぇ。二人とも、嬉しそうな死に顔、しちゃってさァ」
「わ、私、別に、そんな……」
「最初はみぃんな、そう言うのよ」

 雪女を座布団の上に座らせ、毛倡妓はその正面に座る。
 雪女は視線を合わせず、己の膝元に落とした。

「ねぇ、氷麗、叱ってるわけじゃないのよ」

 その膝をそっと撫でてやりながら、毛倡妓は声を落として、問うた。

「若様と、何があったの?」
「わ、若様って……そ、そんな、何も……。あるはずが、ないじゃない。私は、ただ守役で……」
「あら、そうだったっけ?……銀閣寺で、そういう出会い方、してたっけ?」
「………ッ」
「立派な大将ぶりだったわよねぇ、私も惚れ惚れしちゃった。その後も何度か会ったって、そう言ってたわよね。宝船に堂々と一人でやってきたとか、伏目稲荷で助けてもらったとか。
 そのときの、花霞大将のことを話すあんたの顔を見てたら、わかるわよ。ああ、恋をしちゃったんだなぁ、って。だから私は、あんたが京都へ残るって言ったとき、もうとっくに若様は元服してることだし、そのまんま花霞一家の姐さんにおさまるんだって思ってた。
 別に、おかしいことじゃないんじゃない?年の差なんて、あたし達にしてみればさぁ。だって初代なんて百歳超えてから十六の珱姫様を娶られたって言うし、二代目なんて四百歳超えてから、若菜様が十六になるのをわざわざ待って結婚したのよ。実際にあの御姿を見てない奴だったら、確かに何を言うかわかんないけどね、仕方がないわよ、あれはイイ男に育ちすぎちゃったもの」
「でも………でも………、若様にとっても、私はただの守役で、だから私………、私が勝手に変な期待しちゃって、馬鹿みたいな事、考えちゃって………、もう、いいの。いいのよ」
「ただの守役、ねぇ。本当にそれだけで、あんな形相になるもんかしら」
「え?」
「あんたは見てないから知らないわよね、すごかったのよォ、襲われた宝船に乗り込んでいくときの、若様のカオ。
 花開院本家で、傷を癒すために祟り場を作ろうってんで、若様を一つの部屋に封じてたんだけど、もうその呪符がびりびりと、はちきれそうだったわ。屋敷が崩れるのが先か、若様の御身が砕けるのが先かってぐらいの勢いで、何度も何度も扉に体当たりして、つららのところへ行かせろ、ここを開けろ、オレはつららを守りに行かなくちゃならないんだ、って。
 その時にも、わかっちゃった。ああ、このひとも、恋をしてるのねぇ、って」
「…………」

 みるみるうちに、雪女の蜂蜜色の瞳が濡れる。
 隠しきれない心が溢れて霙になって、瞳から、こぼれた。

「話してごらんなさいな、氷麗」

 ついに声をあげて泣き始めた雪女の肩を、毛倡妓が優しく抱く。
 しゃくりあげながら、雪女はこれまでのあれこれを、なるべく順序立てて話そうとするのだが、たかが二ヶ月、されど二ヶ月、やきもきさせられたり、通じ合えたと思えたり、またすれ違ってみたりの連続の毎日が、冷静にさせてくれるはずもない。
 前後したり、繰り返したりしながら、雪女がようやく氷の一息をついて落ち着いた頃には、既に広間の方からは宴の騒ぎが聞こえてきており、障子の向こう側の日差しは和らいで、宵の帳が降りてきていた。

 雪女が全てを話し終え、毛倡妓が聞き終えて、ほんの一時、その場が静まる。
 沈黙。

 やがて、そっかぁ、と、毛倡妓が心得たように、うなずいた。

「ねぇ雪女、あんた、きっとまだ若様を ――― リクオ様を、見つけられてないのよ」
「え?」
「かくれんぼの得意なリクオ様のことだもの、まだ心を隠してるのね、きっと。見つけてあげなさいな。あんたしか見つけられないでしょうよ、こればっかりはね。
 まずは、嫉妬をしてもらうのもらわないのの前に、ちゃあんと自分の気持ちを伝えなさい。さっきから聞いてたら、リクオ様は口に出してあんたのことを好きだって、何度も言ってるのに、あんたったら一度も言ってないじゃない。リクオ様にしてみれば、あんたの気持ちの方が余程わからないんじゃない?
 そりゃあ、全身でそれだけ好き好きって言ってるのに、気づかないのはどうかと思うけど、リクオ様は今まで異界祇園で水商売もなさってたんでしょう?あたしが居たところとはまた違うでしょうけど、そういう世界ってね、人をとある方面へすごく聡くさせるくせに、とあるところではすごく鈍くさせるの。ちゃんと伝えてもらって初めてわかるってことも、あるのよね。
 あんたは守役の自分を、若様が恋の対象になんてしてくれるはずがなかったって、そう思ってるみたいだけど、若様はあんたと逆で、まさか年上の綺麗なお姉さんが、自分を男として見てくれるなんてないだろうなって、思ってるんじゃない?
 私は若様の気持ち、ちょっとだけだけど、わかるなぁ」

 毛倡妓は遠くを見るように視線を上げて、ふと、目を細めた。
 恋慕のようであり、悲哀のようであり、微笑みのようであり、慟哭のようである、何とも言えないこの色を、雪女はまだ知らない。もしかしたら、己には一生わからないのかもしれない、とも思っている。何故ならその色は、己よりもっと年若い人間が、子や孫を見つめるときに、何かを思い出すときに、浮かべる色にそっくりであったから。
 白一色の己には、毛倡妓の気持ちも、リクオの気持ちも、一生わからないのかもしれないと思うと、途端、己が世界で独りぼっちにさせられたような気にもなった。

 しゅんとうなだれた彼女の頭を、毛倡妓はそっと撫でて、話を続ける。

「昔ね、私もそうだったわ。まだかむろだった頃の話よ、私になんて見向きもしない男がいてさぁ、そりゃ、私はあの頃八つか九つくらいだったし、そいつはもうとっくに大人の男だったから、そういう風に見ろって言う方が無理だった。その男と、私の姉さんが恋仲だったし、あれこれあって姉さんは死んじまったし、死に別れって一番相手の事を忘れないって言うから、妖怪になった後も、私はすっかり諦めちまっててさ。それでもいい、この男のそばを離れるもんか、この男の心を守るんだ、それが私の恋なんだって想い続けて想い続けて………。
 百年くらい経った頃かしらねぇ、ある日その男がさ、人間だった頃の自分の名前と、同じ名前の奴を町で見かけたよ、なんて言い出したのよ。何だか聞き覚えのある名前だなぁ、自分はあいつを知っていたかなぁ、なんてしばらく考えて、いや知らない、そんな奴に会ったこともない、どうしてだろうってまたしばらく悩んでから、自分の名前だったことを思い出して笑ってしまったんですって。
 私も聞いて笑っちゃったわよ。私の名前はまだ覚えていて、たまに呼んでるくせに、自分の名前は自然に忘れてしまってるって言うんですもん。
 ところがよ、そこで話は終わりかと思ってたら、そいつ、言うのよ。人間だった頃の自分はついに成仏して、好いていた女のところへ行ってしまったのかもしれない、って。だからお前を好いているこの気持ちは、人間の男じゃなくて、妖怪の自分の気持ちなんだろう、なんて。
 姉さんに義理だてするのもいいけど、そろそろ応えてくれないか、なんてあっちから言われてさぁ、私は何のことかさっぱりわからなかったモンだから、言ってやったわよ、何のこと、って。変な顔してたなぁ、気づいてないはずないだろうとか、馬鹿にしてんのかとか言って怒るのよ。でも私には、わからないのよ。私にとってその男はいつまでたっても年上の色男で、私の姉さんを想い続けている悲しい奴だったから、はっきり、お前が好きなんだって言われるまで、どんなに優しくされたって、何を贈ってもらったって、きっと小さな紀乃を思い出して親切にしてくれているんだろうとしか、思えなかったんだから」

 その後、少し長めの間があいて、泣きはらした目をした雪女が、もしやと疑うような視線を、毛倡妓へ向けた。

「…………私、振られてないってこと?」
「正確に言えば、気持ちを知られてもいないってことよね」

 それはそれで落ち込みどころだろうに、振られるよりは余程救いがあったらしい、萎れていた花が咲き誇っていた己を不意に思い出して上を向くように、雪女のしょぼくれた顔に、ぱあっと明るさが戻ってきた。

 その時である。
 どこからか派手に戸が破れる音がしたと思うと、にわかに屋敷中が騒がしくなり、やがて小物どものはやし声や男衆どもの慌てふためいた声などが、ここまで轟いたのは。

 女二人、何事だろうと目をぱちくりとさせ、顔を見合わせるがわかるはずもない。

 喧嘩は江戸の花と言われる通り、奴良屋敷でもこんな騒ぎは日常茶飯事だ。
 大物同士の喧嘩となれば、小物同士がやんや騒いで、どちらが勝つかの見せ物にもしてみせる。
 やはり今も小物等が楽しそうにはしゃいでいる様子だから、大事ではないらしい、それと同じ騒ぎが起こったかぐらいに思うが、だとすれば大物どもの慌てた様子はなんとしたことだろう。

 庭に面した方の障子に手をかけて、外をのぞいたそのとき、今度は首無が目の前を駆けていこうとしたので、これを毛倡妓が呼び止めた。

「ちょっと、何の騒ぎ?」

 これに、首無は珍しく慌てた様子で、とても信じられぬことを言うのである。

「二代目とリクオ様が大喧嘩だそうだ!黒田坊と青田坊が止めようとして吹っ飛ばされてノビてるよ!紀乃、おまえも止めるの手伝え!」

 大喧嘩とは、にわかに信じられぬ。
 リクオに二代目を殴る理由、つまり恨みのたぐいがあるのなら、これを拳にのせることもあろう、吐き出したいだけ吐き出せば落ち着くだろうと思われもするが、そんなものは一切ない、恨みどころか奴良の姓に執着もないとまで言っている。

 二代目の方には輪をかけて、自分から息子を殴る理由もない。
 敗軍の将だなんだとは外の目に向けてのことで、最初から京都のことは花霞一家に任せるつもりであった。
 むしろ誰かに一発殴ってくれたなら、少しは行き場のない後悔に踏ん切りもつけられるだろうにと言っていた二代目の方から、息子に手をあげるなど考えられぬ。

 二人、真偽を確かめんと首無を追ってかけつけた先で、確かに青田坊と黒田坊が二人仲良く縁側にノビており、庭では祢々切丸と鶯丸が慶長生まれと平成生まれの意地を見せるかのように、火花を散らしているのだった。
 その持ち主とはもちろん、漆黒の闇纏う奴良組二代目と、闇を斬り裂くしろがねの光一条、花霞一家御大将、花霞リクオ。
 どちらも退かず、どちらも押し切れず、ぎりぎりと鍔迫り合いが続く。
 二代目の瞳は爛々と黄金に燃えたぎっており、リクオもまた姿を妖姿に変じて、明王の名にふさわしき憤怒の形相で相対している。

 一体、これはどうしたことか。
 駆けつけた三人が、他の大物たちと同じく何をどうしたら良いやらおろおろするばかりであるに対し、初代は小物どもたちに混じってこれに酌をさせながら、時折二人にしっかりやれいとかけ声などあげつつ、からからと笑っておられる。
 その周囲で、カラス天狗がおろおろと飛び回っていた。
 飛び回りながら、止める隙をうかがっているらしいが、二代目もリクオも互いに視線を逸らさず、ぎりぎりと歯軋りが聞こえそうなほど真剣であるので、迂闊に飛び込めない。よって、結局カラス天狗は、「ああッ、リクオ様、押される、押されている!」「二代目、じりじりと押して参りました、もう一息でこの力勝負、父の勝利です!リクオ様、ここまでなのかあああああ!」などなど、既に実況中継担当である。

「初代、一体、これはどういうことなのです?!お二人はどうしてしまったと言うのですか?!」
「おう雪女、おめぇの言った通り、リクオの夜姿ときたらなかなかの美丈夫じゃなあ。ほれ、月が恥じ入って群雲の袖で顔を隠しちまった。
 ……と、こんな事を言うと、自慢になるかのう、なにせありゃあ、昔のワシにそーっくりじゃわい。わーはっはっはッ。それリクオ、そやつは頭に血が上ると脇腹が甘くなるんじゃ、そうじゃ、そこじゃ、がんばれ、ほれ、もう一息!」
「あんなにお二人とも真剣になっちゃって、どちらかが大怪我でもしたらどうするんです?!それに、どうして誰も止めないんですか?!」
「なァに、止める必要なんざねぇよ、ただの喧嘩じゃ」
「ただの喧嘩って……」

 だからどうして何故、喧嘩となるに至ったのか、それを初代から聞き出す前に、鍔迫り合いに決着がついた。

 初代のかけ声があるや、それまで押され気味だったリクオが、ふっと両手の力を抜いて互いの刀を左に逃がすと、次にがら空きとなった二代目の脇腹に蹴りを放ったのだ。

「うわぁああ二代目、流石にこれは避けられないかッ。いや、食らったと思いきやこれは幻影だぁああッ!おおぉいつの間にかリクオ様の背後に立ってのその構え!二代目の幕末以来の十八番龍翔閃(るろうに剣心TVアニメ十五周年企画ありがとう)!この父親は息子相手に大人げなく本気を出すのか!いやいや御業を封じてるのだから本気とは言えないはずだがしかしこれはリクオ様さけられないあああああああああっと、避けた!避けましたああああ!
 ぬらりひょん対ぬらりひょん、二人ともぬらくらしていて真に判じがたい!一撃が入っているのか入っていないのかが、いちいちわかりにくくてたまらないでございます!おかげで止める隙を見計らっている間にすっかりこのカラス天狗、実況中継担当と化しておりますでございますが、入っていないようで時々お互いの攻撃が効いているのか、お二人のお着物もあちこち傷んで参りましたし、あちこち傷もこさえておいでですので、そろそろお二人にストップをかけさせていただきたいのですがあああああおおおおおおっとここで、リクオ様のあの構え、まさかの牙突零式?!一体どこで習ったのか!!鬼童丸はこの御方に何をどこまで教えてしまったのか!?放った、二代目に、これは、入ったーーーーーーッッ!!悪の総大将、悪即斬の技の前に、敗れてしまうの、でしょうかああああああッッッ!!!」
「のわあああああッッ」

 カラス天狗の白熱実況の最後に、二代目の悲鳴が重なり、

 どぼーーーーーん。

 零距離から放たれた突きが二代目を幻影ごと吹き飛ばし、三間ほど宙を飛んだ二代目は、そのまま池へ、自らの身で大きな水柱をたてた。

「おおおぉぉぉ、リクオ様が勝ったぞ!」
「おーぉ、やるモンじゃのぅ、リクオやー」
「すげぇ……剣戟勝負だけとは言え、若様、二代目に勝ったぁ」
「さぁさぁ勝負の結果は大穴だったよ!若様の勝利だぁ!」
「えーぇ、マジかよー!俺、今月これですっからかんだよぉ!」

 初代が笑い、大物どもが目を見開き、小物どもはまさかの大穴にあるいは泣きあるいは笑い、その中でリクオがふうと一息つき、鶯丸を手の平におさめたその時に、

「まだまだああああッッ」

 二代目が、おもむろに池から飛び出した。
 水に濡れてはいるものの、纏う妖気はさらに昂ぶり、ゆらりゆらりと立ち上るのが目に見えるほど。
 なんと、まだ臨戦態勢なのである。

「何が『まだまだ』や。一発入れたら言うこときくって約束でっしゃろ。遠野まで一緒に行ってもらいますわ」
「よくよく考えたら、これって山吹とおれとの事じゃねぇか、お前がしゃしゃりでて来ることじゃねぇ!余計な世話だ!」
「よういわんわ、せんないやっちゃ!じゅんさいな約束しんとーき。なりくそわるいと思わんか、このすかんたこが!」
「体裁だなんだと言ってられっかい!山吹とはもうナシつけて、これで終わりって別れたんだ、それを今更会いに行って、おれに何を話せってーんだよ!ねーよ何も、話すことなんざ!ガキのくせに男と女の事に口だすな!どうしても連れて行くってんなら、力づくで連れて行ってみやがれッ!!」
「……かーーーーッ、もうあかん、もうしょうちせんッ!ほんなら覚悟おしやッ!」

 一度は構えを解いたリクオが、ザッと左足を後ろに、二代目へ体を斜めに向けて対峙する。
 誰もが第二ラウンドの開始を疑わず、二代目もまた今度はどういなしてやろうか、どこまで手加減したものかと迷いながらも、手の平に唾をつけて祢々切丸の柄を握り直した。

「おおよ、いつでもかかってきやが、」

 が。

「ナウマク・サマンダ・ボダナン、」

 再び手から剣を取り出すかと思われたが、リクオはそうせず、素早く印を切り、後ろに引いた足で拍子をとりながら真言を紡ぐ。



 ゴゴゴゴゴゴゴゴ………



 不可思議な気配が奴良屋敷を取り巻き、どよどよと、住まう妖怪たちが何事かとざわめいた。
 その時は長くはなかった。リクオが手刀で空を切るように、天から地へと真っ逆さまに振り下ろすと、瞬く間にそれが起こったのだ。



「インダラヤ・ソワカッ……帝釈天ッ!!」
「……れ?」



 何か様子がおかしい、と思ったときには遅かった。

 二代目が妙な気配のする空を仰いだときには、白い巨象の足が目前にあり、いかんと思って素早く鏡像を作り本体は逃げるのだが、それもならない。
 作り上げた妖術の幻影をべりべりと引き剥がして、巨象の足は間もなく二代目に届き、



 ズ、ズーーーーーン………



 浮世絵町一体に地響きが走る。奴良屋敷の瓦がいくらか吹き飛んだ。
 真上から隕石が落ちたような衝撃で、池の水は溢れて干上がった。
 枝垂れ桜が驚いたようにかしいで、また元の位置に戻った。
 大物も小物も、目を丸くしてその様子を ――― 空からにょっきりと降ってきた、白い巨象の足を見た。

 庭に、大穴があいていた。

 やがて、すうと白い巨象の足は、透き通った幻となって消えたが、大穴はそのまま。
 この大穴の底に、ばったりと二代目が倒れていた。

 誰も何も言わなかった。言えなかった。
 初代だけが、ほほー、と感心するように何度か頷き顎を撫で、嬉しそうに孫を眺めていた。

 リクオは大穴の底にてくてく歩んで行き、ぐったりとした二代目をよいせうんせと抱え起こそうとして ――― 明王姿の方でも流石にそれは無理だったようで、途中でこれを諦め、

「爺様、こいつ重い。朧車貸してー」

 と、不貞腐れたように甘えるように言うのだった。