「んじゃ、いてさんじます」

 間もなくやってきたおぼろ車に、大物たちの力を借りて二代目を乗せ、己も乗り込んだリクオは、そう一言残して東へと出発してしまった。
 何がなにやら、首無にも毛倡妓にも、もちろん雪女にも、止める間もなく、奴良屋敷の皆が呆然と見守っていた中で、ただ一人初代だけが冷静に、カラス天狗の長男にこれを追わせた。
 白熱した試合を前に、他の妖怪たちと同様、ただ見ているしかできなかった雪女は、彼等の姿が東へ遠くなってしまってから、ぷかりと煙管を吹かす初代におそるおそる、喧嘩の理由を尋ねた。

「初代、お二人は一体、どちらへ……?遠野がどうとか聞こえましたが……そもそも、何が理由でこのような喧嘩になったのです?」

 すると、初代は機嫌よさげに、かかかと笑って、こうお答えになったのだ。

「うん。メシの席で山吹乙女の話になってなァ」



 屋敷では宴が催されていたが、初代と二代目、そしてリクオの三人は、家族三人別の部屋、水入らずで食事をとっていた。
 大勢いるところで食事を取るのもいいが、今日のところは家族で話などしながら食事をしようと提案したのは初代で、これにリクオはすぐに頷いた。
 リクオは祖父が記憶にあるままのひとであったのが嬉しく、初代の方も灯火のようなリクオの微笑みが、言葉を重ねていくにつれ、幼子の頃の面影ある無邪気なそれへ変わっていくのをいとおしいものと思い、すっかり二人は元通り、十年前と同じように、心を通わせたのだ。

 同じように父とも話をしたいと、なつかしむ気持ちがリクオには確かにあったし、二代目の方ももちろん最初からそのつもりだった上、初代から、息子の秘した記憶や清浄なる願いの裏返しがどれほどの悲哀でできあがっているのかを聞かされて、どうにかもっと心を開かせて、あれこれとわがままをきいてやりたい、辛いことは全て肩代わりしてやりたいと願っていた。
 父と息子、何一つ二人が仲違いするような理由は、無かったはずだ。
 膝をつきあわせて、語り合うまでは。

 実際に、宵が迫る夕暮れ時から、少し早めに始まった宴に背を押されるようにして、三人は誰からともなく、会食の会場である初代の離れに集まり、膳が並び酒が用意されるまで、楽しげに語り合うなどして過ごしていたのだが、リクオが己の血の流れに妖気溢れ、そろそろ陽が沈むのを感じ取る頃になると、なんだかそわそわとし始めたのだそうだ。
 いよいよ膳が揃って、前菜に箸をつけてもまだ辺りを気にする様子を見せるので、初代が理由を尋ねると、「母上はいつ、おいでになるのでしょう?」と言う。
 これには初代と二代目は、顔を見合わせた。
 と言うより、初代が二代目を睨みつけた。
 リクオが言う「母上」が、羽衣狐の依代となっていた山吹乙女であろうことは、明らかだ。
 しかし、その山吹乙女はこの屋敷にはいない。
 同じことでつい一昨日、初代と二代目は大喧嘩をしたばかりだ。

 当然であろう、せっかく助け出した女を、屋敷に上げもせず、離縁したの一言だけで、遠野に行かせてしまったのだから。
 子をなせずに自ら去っていった女の心を思えば哀れだし、二代目もいまだ憎からず想っているのは傍目にも見て取れる。意地など張らずに連れて帰ってくれば、時を重ねて互いの心を癒し合うもかなったろうに、それをしないなど、それこそ、リクオを生み育てた若菜の願いを考えぬ身勝手な振る舞いとしか、初代には思えなかったのだ。

 リクオも、やはり初代と同じように思ったのだろう。
 二代目から次第を聞くと見る見るうち、そのまま泣き出してしまいそうな悲しげな表情を見せたかと思うや、次には文字通り、姿そのものが一変した。

 二代目に身構える間もなかったのだから、初代に止める間があるはずもない。
 初代が気がついたときには、目の前の二人の膳がひっくり返り、同時に二代目が後ろに吹っ飛んでいた。

 どたあ、と派手な音をたて、背後の襖をいくらか道連れに、二代目は廊下にまで吹っ飛び、何だどうしたとかしましい小物どもが顔を出す中、銀色の明王と化したリクオはこう叫んだのだと言う。

「一度惚れた女なら、一生かけて惚れぬきはったらよかろうに、ほっかるような真似するとはどんな阿呆や!」

 見事なしろがねの妖姿と、気持ちの良い啖呵の切り口調に、初代がつい、ワシの種がどこかで混じったかのう、などと耄碌したことを考えたのはご愛敬として、かくして、それまでのなごやかな空気もリクオの遠慮もどこへやら吹っ飛んでしまい、リクオが今からでも預け先の遠野に母上を迎えに行くべきだと言えば二代目が強情にも決して首を縦に振らないので、ついにあのような父子喧嘩になってしまった。

 騒ぎを聞きつけた青田坊黒田坊は、それぞれ二代目とリクオを止めようと間に入ったが、そこは父子、息ぴったりに「「じゃかあしい邪魔すんな!!」」と、声も動きも同調させて、互いが互いの背後を取った邪魔者どもを、見事なクロスカウンターでぶっ飛ばし、あわれ二人は今も毛倡妓に介抱される身である。



「それで刀まで持ちだして……?」
「それで帝釈天まで喚び出して……?」
「じゃから、ただの父子喧嘩じゃと言ったじゃろう。二人とも、互いに手加減はしておったようじゃし、意地のぶつかり合いになど首を突っ込むモンじゃねぇ。ほっとけほっとけ、夜明け前にでも帰ってくるじゃろ。二代目がついてりゃ、何があってもリクオは安全じゃ。せいぜい、二代目が息子に小突かれて瘤をこさえてくるくらいじゃよ」

 首無も毛倡妓も、呆れてものが言えない。
 遠慮がちであった父子が歩み寄るきっかけと片づけるには、甚だ先行きが不安である。
 遠慮で何も言えなくなるよりは、愚痴でも何でも言い合えるようになれたならと思ってはいたが、二人ともお互い言い過ぎなような、やりすぎなような、むしろもうとことんまで拳で語り合って下さったなら友情らしきものが芽生えようが、いや芽生えるのが友情では困るだろうと云々。

 ともかく、お二人は既に空を駆って東の彼方、今は何を言っても詮無きこと。
 ため息一つこぼした後、二代目の側近をつとめるこの男女は庭にあいた大穴や、吹き飛んだ瓦や、皹の入った置き石や、干上がった池をどうにかせんと、まだ勝負の余韻に浸っている妖怪どもをせき立て働かせようと、立ち上がる。

 ところが、まだ呆然としている者がある。
 雪女だった。
 初代が成り行きを語ったところで、皆がやや諦めに近いながらも一応の納得を見せたのに、彼女はリクオが去ってしまった東の空を見つめたまま、言葉を失い立ち尽くしていた。

「雪女、どうかした?」
「じ……………こと……………し」
「え?」

 つい先ほどまで、真っ赤に目元を腫らしていた彼女を心配して、毛倡妓が顔をのぞき込んだ途端、変化は起こった。

 視線はいとしくも憎らしい男を追いかけて、遙か東を見据えたまま、彼女は即座にその場で長物と氷塊を作りだし、

「アンタだって私のこと、てんで放置プレイのくせに、なによひとの事ばっかり!!この朴念仁、唐変木の甲斐性なしぃーーーーーーッッッ!!!!」

 スコーーーーンと良い音をたてて、その氷塊を長物で打ちはなったのである。
 音速で舞い上がった氷塊は、キラッと一度東の空にまたたいて、消えた。

「………ホーーーーームラーーーーンッッ」

 いまだ、実況の熱がさめやらぬカラス天狗はうっかり、こう口にしてしまったので、ぎろりと絶対零度の視線と息吹にさらされ、久方ぶりに肺まで凍り付いたのだった。

「はぁ、少しすっきりしたかも。さぁて、お片づけお片づけ♪」

 あろうことか、本家の若様を大声で朴念仁だわ唐変木だわ甲斐性なしだわ呼ばわりした挙げ句、カラス天狗を瞬間冷凍させた雪女は、晴れ晴れとした表情で袖をまくりたすき掛け、すっかり言葉を失っていた小物たちをせき立てながら、率先して後片付けを始めるのだった。

「………やはり、雪麗の血じゃのう」

 初代がぽつりと呟き、こくりと横で納豆小僧が頷いた。



+++



 いかなる鳥すら追いつけぬほどの速さでもって風を切り天を駆け、朧車は東へ東へと、火花散る車輪の跡を空に雲の轍と残す。
 太陽は間もなく西の地平線の向こう側へ沈み行き、月は導くように東へと姿を現し、万事何事もなく彼等は遠野につくかと思われたが、二代目がそうはさせなかった。
 一度は目を回した二代目だが、しばらくリクオの側で気を失っていたと思ったら、朧車が小半時も走った頃だろうか、前触れなくむくりと起き上がったのである。

「 ――― あー……ちょっと痛かった。……おい朧車、目的地変更、屋敷に戻るぞ」

 朧車の畳の上にだらしなく足を投げ出し、ごきごきと首に手を当ててぐるりと回すと、何事もなかったかのようにこう言うので、目を丸くしていたリクオも慌てて遮る。

「ちょっと待て、アレだけ食らって痛かったって、それだけか?!いや目的地変更はナシだぞ朧車、これまで通り遠野への針路を維持しろ!」
「え、いや、たしかに酒も入ってたから、何気に気持ちも悪ィけど。ぅえ、口ン中切ったかなー、血の味しやがる。朧車、屋敷だ」
「帝釈天の白象に潰されて口ン中切っただけって、なんやそれ、どんだけでたらめに丈夫なん?!遠野や!」
「行かねェって。屋敷だ!」
「遠野ったら遠野や!自分でした約束くらい守ったらどうなん!」
「約束もクソも、だから、山吹とおれとの事にお前がしゃしゃり出てくる必要、これっぽっちもねぇだろうが!あいつの事は、おれがカタぁつけなきゃなんねぇことで、そのカタをつけただけのこと。それをあーだこーだといちゃもんつけられる筋合いはねェ、屋敷だ!」
「遠野!」
「屋敷!」
「遠野!」
「ぬぉあああぁぁー、このクソガキは本当に聞き分けがねェッ!屋敷だ!」
「聞き分けてたまるかい、大事なことや!一発で足らんなら何発でもくれてやる!表に出やがれ!遠野だ!」
「上等だ、てめーこそ襟首引っつかんで屋敷に連れ戻してやんよ、覚悟しろリっくん!」
「誰がリっくんや、変な渾名つけんな!気ィ抜けるわ!」
「おれがつけた名だ、どう呼ぼうとおれの勝手だ!」
「横暴クソ親父!」
「口のききかた気をつけろ!クソバカ息子!」

 あっちだこっちだと指図され、さらには己の腹の中で暴れられては朧車もたまらない。
 箒星のように東へひた走りつつ、御簾に浮かべたおどろおどろしい顔に困ったような汗を浮かべ、どうしたものかとおろおろしていたところへ、今度は腹の中の二人が飛び出したのだから、驚愕も頂点に達したのだろう、乗り手を失ったまま、ともかく最後の目的地である遠野へ向けて、再び車輪に勢いをつけて走り始めた。

 この天井にふわりと降り立ち、あるいは朧車が吐き出した妖気の轍につと降り立ち、東を背にした二代目と、西を背にした花霞大将が、再び対峙したのである。

 遠野!屋敷!

 と叫びながら、縦横無尽に空を舞い、たまさか泳いだ霞を足場にくるりと宙へ飛び、再び朧車の背へと降り立るなどして、二人の姿が交錯する度、刀がぶつかり合い銀の火花が散る。
 散った火花は二人が立ち上らせる妖気とあわせて、漆黒の夜空に百花繚乱の花弁を舞わせた。

 力技に持っていけば己の不利、庭での手合わせでこれを悟ったリクオは、まずは自ら激しい剣戟を繰り返し、これに二代目が応戦して、互いの得物が耐えかねたように空へ舞い上がってしまい、二代目が守勢を見せたところで、充分な間合いを取った。
 てっきり、リクオも得物を追うだろうと、祢々切丸に気をとられていた二代目は、



「オン・バザラ・ダラマ・キリク」



 真言を聞いてから、つい先ほど己が昏倒したその瞬間を思い出して、青ざめた。



 しかし間もなく現れたのは、無数の手を祈りの形に合わせた千手観音。
 その手は全て、衆生を救うためのもので戦い争うためではない、何をするのかと思っているうちに、七色の光を帯びる無数の手が、夜空を蝶のようにひらひらと、逃げ回る二代目を囲み、次には全ての手が、



「 ――― オン・シュラ・ソワカ ――― ッ!」



 阿修羅の言霊に操られ、無数の手はそのままに、カッと目を見開き形相どころか姿を戦神のそれへ変えて、リクオの所作を真似、拳を握るではないか。



「 ――― そこまでやるぅ?!」



 二代目に向けて、無数の手が拳を握り、四方八方から、



「ゥォオラオラオラオラオラオラオラオラァアアァッッ!!!!」
「スター・プラ○ナは反則だろがぁあ?!」



 雨霰のように正拳突きを放つのである。
 さしもの二代目、一つ、二つ、三つと、次々に襲い来る腕の網に幻を破られ、本体にかすったと思ったがやはりそれも幻で、という具合に紙一重でどうにか交わすものの、

「とったッ!」

 たしかな手応えを、召喚した力ごしに感じ取り、リクオがぐっと手を握ってみれば、ついに千手に絡めとられた魑魅魍魎の主が一匹、ぐったりとした様子でうなだれており ――― いや、リクオが取ったと喜んだのも束の間、これもぬらりと揺らぎ、霞んで消えた。

「惜しいねぇー。今のは、ちょーっとやばかったよ、花霞くん。さっきの帝釈天見てなかったら、とられてたかもなー。だが、二番煎じは効かねや」

 声がしたのは、背後。
 とす、と、背中に突きつけられたのは、鞘に収まった祢々切丸の、白木の柄。
 あれほどの無数の拳も、着物の端や頬のあたりをいくらか掠めさせたものの、二代目をとらえるには至らなかった。
 背後を取られたリクオは、素直に両手をあげた。

「そうそう、おれもまだまだ現役で二代目はってんだ、勝とうなんてまだまだ百年、いや二百年早ぇって」
「……現役なのは認める。術が通じなかったのも認める。けど、前も言ったよな。お前がお前より古い妖怪に勝ってきたように、いつかお前だってお前より若い妖に負けるかもしれねぇ、と」
「んあ?」

 にやりと、片唇を上げて、リクオが目を細めた。

「今がそん時や」
「……へ?」

 得物を失い、背後を取られ、この上でいったい何をするというのかと、首を傾げているうちに、それは起こった。
 ひゅるるる………と、花火でも打ち上げるような音がしたので上を見上げた二代目は、すぐ目の前に、気を失ったおぼろ車が落ちてくるのを見たのである。
 リクオの背後を取ると踏んで、あらかじめ、その上でおぼろ車を捕まえていた阿修羅の手の一つが、ミニカーを落とすようにさりげなく、二代目の真上で手放したからたまらない。
 避けるにも遅い、身内を斬るわけにもいかぬ。

「……うわー、ズルい」

 最後にこう呟いて、目を回したおぼろ車の頭と頭を打ちつけた二代目、流石にくらりと目を回し、真っ逆様に夜の森へと落ちていった。
 びし、と、リクオとおぼろ車を掴んでいた手が、互いに親指をたてて労い合う。

 見事な作戦勝ちであった。
 奴良鯉伴、対、花霞リクオ。
 ただの喧嘩の部類であれ、勝ちは勝ち。一回は一回だ。

 そう、一回は一回だ。
 しかしリクオは知らなかったのかもしれない、彼は幼い日、長兄一緒になって大人たち相手に悪戯などをしかけていたものだが、何も悪戯や猫騙しは、彼だけの専売特許ではないのだ。
 彼の中に流れる血が、幼い日に悪戯へと駆り立てたとするならば、その血を彼に譲ったのは、初代、そして二代目なのだから。

 するり、と、足首を何かが掠めたような気がして、リクオは足元を見た。
 何かが絡んでいる。紐のようである。
 首無が使っているものに似ている。一度絡んだら解けないという、アレ。
 ………いや、そのものだ。

 見た瞬間、やられた、と顔がひきつった。
 子分の持ち物だ、親分が持っていたっておかしくはない。毛倡妓の髪と女蜘蛛の糸をより併せたその深紅の糸は、落ちる間際の二代目の置き土産に他ならない。
 何を、こんなもの、最後の無駄な足掻きではないかと、これを解こうとリクオの手が己の足首に届かんとしたとき、折り悪く、どこからか飛んできた大きな雹がリクオの後頭に直撃した。

「ぬおぉッ!」

 あまりの勢いだったのでたたらを踏み、紐を解くのも間に合わず、落下していく二代目の体重がかかるや、ガクンと勢いをつけて、リクオはそれまで立っていた観音の御手からずるり、落ちた。
 踏ん張る暇も、爪をたてる暇もなく、二代目を追って森へと落下していくリクオに、宙に残った阿修羅の手は合掌して、役目を終えたと判断したか、夜に溶けるように消えた。

「大人げねぇぞ二代目ごらあああああッッ」
「おとなげぇ?なにそれーぇ、おーいしいのーぉ?ぎゃはははははッ、ズルッ、だって。ズルッって足踏み外したよー、こいつ。せっかくカッコつけてたのに、かーーっこ悪ぃねぇえ。引っかかった、引っかかった、やーいばーか」
「うわ、む、か、つ、く……!!ホンマぬらりひょんて嫌な妖怪やな!滅したろか!」
「おめーもそうだろが!」
「脱ぬら宣言する!今ここで!」
「脱サラみたいなことできるかい!バカタレ!」
「素直に負けを認めはったら、それでええやん!だあほ!」
「認めねぇ!これは百歩引いても引き分けだ!」
「どこが引き分けや!どう見たってお前の負けやろ!おぼろ車と熱烈チューしたとこシャッターチャンスやったわー、ホンマ!あー、くそ、写メれへんかった!一生の不覚やあああッ!」
「チューはしてねぇ!」
「してた!」
「ぜーーったい、してねぇ!」
「いいや、してはった!見たもん!」
「夢だ!幻だ!気のせいだ!」
「えええ、なんで涙目?!マジで?!マジでチューしはったん?!うっわー、えげつなー、かーわいそー、こっち寄んなえんがちょー」
「嬉しそうな顔すんな、クソガキめ!それが本性か!」

 落ちて行きながらも互いに負けを認めず、決着を見せない二人の喧嘩は、

「サソリ固めじゃッ!」
「あいででででッ、腰痛い、腰ィッ ――― くッ」
「ぬあ!ぬらりくらりと……どこへ行きやがった?!」
「そぉーれ、ネックハンギングツリーッ!」
「ぐッ ――― がッ ――― ?!」
「ほぉーら、リっくん、パパごめんなさいってほっぺにちゅーしたら許してやるぞー」
「ならば……死を選ぶ……!」
「えええええ、何そのあっさりした究極の二択……!」
「隙あり!サマーソルトッ!」
「ぐはァッ!ひ、卑怯だぞ、心理的ダメージを食らってピヨってるときに、追い討ちとは!」

 そろそろ子供の喧嘩となってきた感が否めないながら、止める者もなく、落下しながらもさらに続いた。

 二人とも、雲を突きぬけ落っこちながら、尚も互いの頬を引っ張り合う、鼻をつまむ、髪を引っ張る、金玉を蹴る、などなど様々な禁じても含めてやり合うが決着はつかず、やがて眼下に森や人里が広がるのを見たところで、「落ちてる、落ちてる!」「あかん、手ぇ離せクソ親父!」、風に乗り切れず落ちていると気づいて慌て始めた。
 妙なところで、似た者親子であった。

 ここで、朧車と並んでとは行かずとも、己の翼でしっかり追いついたカラス天狗の長男、黒羽丸が二人の姿を見つけ、翼をはためかせて彼等をつかまえるが、一人で二人を支えるのは中々上手くいかない。
 リクオが黒羽丸の背中の翼に思い出して、式神を喚び、黒羽丸が二代目を、ヤタガラスがリクオを支えて、ようやく、二人、己で風に乗る余裕が生まれて、すとりと森の中に降り立った。

 刹那。

 ぺちん、とリクオの頭がヤタガラスの羽で力いっぱい打たれ、ズシャ!と同じくヤタガラスの嘴が二代目の頭を小突いて、二人ともがううむと頭を抑えてその場に蹲る。

「な、なんだてめェの式神は……!妖怪と見りゃあ無差別攻撃するように躾けてンのか……ぬおぉぉいてぇぇぇ」
「なにしはるんヤタぁー、いきなりぶったたく奴があるかい」
「『なにしはる』じゃありませんよリクオさん!他人行儀かと思いきや取っ組み合いの大喧嘩なんて、一体どういうおつもりです?!空の上で大喧嘩なんて、ああもうまた危ないことを!!」
「まぁたそれかい!危ない危ない言うてたら、陰陽師なんぞつとまれへんわ、ボケカラス!」
「んまーぁ口の悪いこと!どうして明王姿になるとそう好戦的なんでしょう!」
「いやそれが仕事やし。危ない思ったから喚んだんやし。……ま、助かったわ、ほんまおおきに」
「ふう。素直に謝るのも、他のひとを思って喧嘩をしてしまうまでに優しいのも、あなたの本当にいいところだとは思いますが、でもね、リクオさん、この場合、貴方が口出しすることじゃないというか、その………」
「母さんは、あのひとを母上と思うようにと言った。だからオレはそうするまでだ。あのひとがこの男をゲジゲジのように嫌ったというならともかく、そうじゃないなら、こいつの言うことをきいて素直に屋敷を追い出される必要なんてないはずだろう?」
「追い出したのではなく、お互い話し合って決めたことなのでしょう。でしたら、こればかりは他の者が入ってなんとかできることでは」
「話し合おうが話し合うまいが、同じことや。絶対、母上は連れて帰る。こっちはお土産もてんこもりに買うてきとんのや。渡さんと格好つかんわ」
「はぁ…………全く、言い出したらきかないんですから。あら、どうしたんです、鯉伴」
「ん。どないしはった、二代目。顔がハニワや。わはははッ、間ぁ抜けぇ面ぁー」
「これ、リクオさんッ、指をささないの!」

 馴染んだ様子であれこれと文句の言い合いをする主と式神を、最初はよく喋る式神もあったものだとか、息子は見知った相手には行儀も取っ払ってこんな風に心の内をさらすのかとか、頭をさすって考えながら眺めていた二代目だが、式神が話す声が、なんだか耳朶に切なく心地よく響くし、どこかで聞いた、確かに知っている声であると思えてならなかった。
 決定的にその式神がこちらを向いて己の名を呼んだところで、四百年の時の彼方に消えたそのひとの面影が、泡沫を破るごとく目の前に思い出され、目も口も大きく開けて、まさか、と。

「どうしたのって………ハニワにもなるわいッ!なんだ、どんなカラクリだ、それ、だって、いやまさか、でも、その声は…………………おふくろ?」

 ヤタガラスが、女性が両袖で己の口元を覆うような所作で、両の翼で嘴を隠したが、遅い。
 その横でリクオがふと何かを考えるような所作をして、ああ、と手を打つ。

「洞院家の姫君が魑魅魍魎の主に嫁いで、で、その間に生まれた半妖って、あんたか。あれ、てことは嫁ぎ先の魑魅魍魎の主て…………そうか、爺様か。そうやな、当然やな。うわぁ、可哀相なことした、すぐに会ってもらえばよかったぁー、ごめんやっしゃーー爺様ーーーぁ」
「………あら、リクオさん、私のことは血縁だと感づいてくださっていたのでは?」
「うん。ばーちゃんだって知っとっても、なんか実感わけへんけど、あぁそっかぁ、そう考えると、案外近いな。へー、ヤタガラス、このボケ二代目のおかあちゃんやったん。苦労しはったんなぁ」
「ええ、人並みには。大丈夫、今はちゃあんと貴方に苦労させられてますよ」
「何を言うか。式神が使われるんは当然や……てッ!なんや二代目!まだやるか!」
「お、おまっ、お前、ばーちゃんになんて口きいてんだ!」
「ばーちゃんてわかる前に式神やったし、式神の方からこれこれこういう事情の血縁ですよとは言えへん約束になっとるんやからしゃーないやろ!最初が口うるさい式神やなーって印象やったがな」
「口うるさいとは何だ、口うるさいとは!いや確かに口うるさいなーって時はあったけど……もっと敬え!」
「………何、目くじらたてとんのん?あほくさ。敬え言うなら、あんたはどないしはるん!死ぬ目に合うて心細い想いをしてはる女を、それもあんたのようなめんどくさい男を想ってる女を、ほったらかしてるもっさい男に何言われてもこわないわ!」
「あんだと!」
「やるんか!」
「こ、これ、鯉伴、リクオさんも……」
「お袋は黙ってろ!」
「じゃかあしい、式神が余計な口たたくな!」

 一度はおさまりかけた喧嘩が再燃しそうになり、黒羽丸は青田坊と黒田坊の悲劇を見ていなかったはずもないのに、生来の真面目さから間に入ろうとして、二人に押し退けられ、ヤタガラスの脇にどたりと倒れた。

「………こ、この子たち………」

 かつて、奴良屋敷において初代の妻であった珱姫は、気立て優しく穏やかで、可憐な桜のような女であったという。
 公家の姫であったから、妖怪任侠一家などに嫁いできて、上手くやれるだろうかと本人は最初の頃、よく心配していたものだ。
 もちろん、心配は要らなかった。
 当時から、彼女は芯に強いものを持っていて、場の収拾がつかぬとき、それを爆発させて抑えるという、生来の姐さん気質であったから。

「いい加減に、しなさーーーーーーいッッッ!!!!!」

 木々の梢からいっせいに鳥たちが逃げ出す勢いで、久方ぶり、これが爆発した。
 珱姫山の、大噴火であった。

 二人に供がほとんど無くて、幸いであった。

 なにせ二人はここから一時間に渡り、一匹の大きなカラスの前に並んで正座をさせられ、「いいですかリクオさん、貴方だって他人のことなんて言えませんよ、雪女のことをもっと真面目に考えたらどうなのです!」「あのひとのことは守る。そういう約束はした。でもあのひとは他の男を」「口ごたえするんじゃありません!ついでに多大な勘違いを直しなさい!」「勘違いて、なに?」「やーい怒られてやんの」「鯉伴!」「スミマセン」「貴方は父としての自覚があるんですか?!まるで長男次男ではありませんか!!」「ハイ……」「いや、父としての自覚とかいらんし。あっても困るし」「リクオさん!」「はいはい……」「はいは一回でしょ!」「はぁーい」、凛と通る声で説教を食らっていたのだから、そんな姿を、己等が従える百鬼に見せて格好がつくはずもない。
 奴良屋敷に帰った後、奴良屋敷の連中に、結局お二人の決着はどうなったのだと問われても、口を閉ざす真面目さを持ち合わせているのは、現在はカラス天狗と、黒羽丸くらいのものであったから。





 さてさて、この二人の勝負は結局、どちらが勝ったのか?

 これを誰に問われても、黒羽丸は己が見たことを、父親に対してでも漏らすことはなかった。
 屋敷では帝釈天の白象に踏まれ、森の上空では千手観音菩薩の腕を借りた阿修羅にフルぼっこにされ、朧車と正面衝突し、ヤタガラスに頭をグサリとやられ、黒羽丸の目にもリクオの攻撃の手は激しく、二代目は防戦一方であるかのように見えたし、事実、奴良屋敷の小物どもの戯れの中では、二代目の負けとして扱われているようであった。
 しかし、ヤタガラスの説教が、「ともかく、仲直りなさい」の一言で終わると皆が我に返って、その時はじめて彼等はこの場所が関東より北、当初の目的どおり遠野に近いらしいと知ったところで、二代目はしぶしぶ、リクオはもとよりそのつもりで、ならば遠野へ向かおうと決まったところ。

 立ち上がろうとしたリクオが、眩暈にふらりとよろけ、さらに足をついた先では、木の根に滑って尻餅をついてしまったのだった。
 憔悴していた。汗もかいている。
 術を使える時間も数も、無限ではないのだ。
 リクオは全力でぶつかり ――― その全力を、二代目は軽くいなしてしまわれたのだと、黒羽丸は合点した。

 勝つ負ける以前に、勝負ですらなかった。
 初代が見抜かれていたように、ただの、喧嘩であった。

 立ち上がれずにいるリクオに肩をかそうとして、二代目の手をぺしりと無愛想にリクオが払う。
 いらん、と意地を張るリクオを、ヤタガラスは宥めようとしたが、二代目はそれより先に、リクオの頭をくしゃり、と、撫でた。

「強くなったな、リクオ」

 くしゃくしゃ、と撫でた手はやや乱暴だったが、リクオはこれを払えず、されるがままであった。

 へらり、と、笑った二代目は、汗一つかいていなかった。
 傷も既に、癒えてしまっている。

 その後、黙って二代目の背に負われたリクオがどんな顔をしていたのか、黒羽丸は見なかった。
 見ていたとしても、語ることは無かったろう。



+++



 過去には、短命であるを、恨む鴆もあったという。
 運命に足掻いて、運命を呪って、己が吐いた血に沈むようにして死んでいったという。

 過去には、短命であるに、立ち向かった鴆もあったという。
 その鴆は、己の毒ならば己で制する、御すはかなわぬかと、一心不乱に医学薬学を学んだ。
 薬師一派において、彼の残した功績は今でも語り継がれている。知識に貪欲であった彼は人に化けて町医者を営み、それまでもっぱら内服薬による治療専門であった薬師一派に外科的治療方法を示した挙げ句、あらゆる妖怪毒を中和する薬の調合を思いついた。思いついたが、そこまでだった。彼は志半ばで死に、次代の鴆がこれを引き継いだので、以降の鴆はそれまでと比べ、かなり長命になったと言える。しかし、彼の薬すら、飲み続けていると鴆毒は凌駕して強まってしまい、最期になると薬が効かなくもなるので、結局、鴆という妖怪の血に流れる毒を消したとは言えない。
 彼もまた、やはり己の毒に沈んで死んだ。

 過去には、短命であるを、受け入れた鴆があったという。
 それはそれとして、己もまた、奴良組百鬼の一には違いない。二代目の背について出入りに赴き、毒の羽を広げて百鬼夜行の一鬼となったのが、彼の誇りだった。
 彼もまた、死んだ。

 運命を恨もうとも、抗おうとも、受け入れようとも、彼等には等しく、死が訪れた。

 彼はそれを、少々羨ましくも思うのだった。
 死は、生きている者に与えられる特権だ。
 それを言うなら、彼は、己自身が生きているとは到底、思えないのだ。
 彼等と同じように鴆と呼ばれてはいても、それは《今代の》鴆という意味であって、皆は彼自身を呼んでいるのではない。

 奴良組二代目は、先代と強い縁で結ばれていたため、その死を悼み、まだ幼かった今代の鴆になにかと力になってもくれたし、父のように思ってほしいなどと、もったいない言葉もかけてくださるのだが、彼は、そのように守られれば守られるほど、弱き者として扱われれば扱われるほど、逆に己はいつまでたっても彼の中で、《鴆の息子》として扱われているのであろうなあと、思うのである。
 贅沢な悩みだとは、承知している。承知しているから何も言えない。
 何も言えないために、不満にもならぬ小さな鬱々とした種が体の内側に、毒とともに満ちていく。

 己が《鴆》として、産声をあげられるのはいつなのか、などと、子供でもあるまいに妙に意固地になってしまうと、次には割り切れない己の顔を二代目の前に晒すのも申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになって、元々常日頃から良くない気分が、更に滅入ってしまうのだ。
 結果、このところは様々理由をつけて、己よりも重病な患者以外は、薬師一派の他の連中に任せ養生している。
 恨んでも立ち向かっても受け入れても、いずれ訪れる死である。
 それを己は、生まれてすらいない《鴆》は、どう迎えて良いものか。
 己はこのまま、生まれもせぬまま、消えていくのだろうか。

 ――― 実を言うと、心当たりがなくもない。
 一度、産声をあげたような気は、しているのだ。

「鴆君はすごいなぁ」

 と、あのいたいけな子供は、言ったのだ。

「ボクももう少し大きくなったら、もっと妖怪っぽくなって、立派な総大将になるんだよ」

 十年以上前の話だ。
 先代の頃である。
 先代のもとへ、本家から二代目が若様を連れて訪ねてこられたときのこと。
 近くの森を散策していた二人は、ひょんなことから、森に眠る毒草や薬草の話になって、鴆は若様に請われるまま、これは毒草だが煎じれば便通の薬になるし、白黒斑の兎の胆は乾して粉にすれば妖怪どもが傷をこさえたときの痛み止めになるなどと、あれこれ話してきかせてやった。
 最初は自分よりも幼い若様の子守をするつもりだった彼の方も、話しているうちに面白くなってきて、見るもの触るもの、どんな風に使うのかとか、毒だと思われているものも、少量や使いようによっては良薬になるだとか、講釈に熱が入った。

 若様はいちいち面白そうに頷いて、心から感心したように、彼をそう呼んだのだ。
 鴆、と、彼は己を呼んだのだ。

「ボクがいつか総大将になるときは、絶対に鴆君にいてもらいたいな。すごく物知りだし、頼りになるもの!」

 二代目が、彼の父を《鴆》と呼ぶように、この若様の後ろで己が百鬼夜行の群れとなるときには、彼は己をそう呼ぶのだろう。
 次代の鴆、でもなく。今代の鴆の息子、でもなく。
 あの若様の目は、そういう目だった。
 彼からすれば、当時の薬師一派当主は《鴆の父》でしかなかった。

「 ――― お前の出入りの時には、俺を連れて行くってのか?」
「うん。だって、鴆君はボクの百鬼になってくれるんだよね?違うの?」

 魂のふるえはいつなんどき訪れるか、推し量れぬもの。
 相手は此の世に生れ落ちて、まだ僅か四つになるかならぬかといった小さな幼子であるのに、彼は、綺羅綺羅と輝く大きな琥珀の瞳に己が映されているのを見て、全身がやわらかな手で囚われてしまったように感じてならなかった。
 幼子の手は、己に包み込まれるほどに小さいのに。
 血肉に受け継いだ魑魅魍魎の主の妖力がかろうじて、甘美な空気をあたりに漂わせているくらいのもので、妖力などまるで感じさせぬのに。
 視線が形作る手の大きさときたら、腕の長さ、懐の深さときたら、たとえようもない。

 たまゆら、彼は言葉を失い、それを何か勘違いしたのか、若様は少し不安そうになって彼の袖をつんと引張り、言葉を重ねるのだ。

「あのね、今はまだ、ただの人間みたいだけど、ボク、おじいちゃんやお父さんみたいな強い総大将に、きっとなるよ。雪女とも《約束》したんだ。弱い妖怪たちを守って、代わりに戦えるような力をつけて、きっときっと、強くて優しい総大将になるって。みんな、まだ認めてくれないけど、ボク、がんばるから。だから、鴆君、ボクが総大将になったとき、ボクは鴆君に側にいてもらえたら、すごく嬉しいよ」

 駄目かな、と、不安そうにうつむいた幼子を抱き上げたのは、幼子を慰めるためではない。
 彼のほうが、幼子が己から視線を外したときに、たまらなく心細くなったのだ。
 それまで己を撫でていた大きな御手が、途端に失われてしまって、無意識に追いかけたようなものだった。

 嗚呼。これは主だ。

 己の主だ。

 薬師一派の主は、奴良家の血を引くものであると、先代や鴆の家系に仕える妖怪どもは、口を酸っぱくして彼に言い聞かせてきたが、彼はここで、見つけてしまった。
 たとえ、これから何人、奴良の血を引く若様がお生まれになったとしても、彼にとっての主はこの幼子一人だろう、いいや、例えこの幼子が奴良の血を引いていなかったとしてもかまわぬと思えば、歓喜に身が震えた。

 見つけた、見つけた、見つけてもらった。

「おう、がんばれよ、リクオ。俺を率いたいんなら、立派な大将になれ。それまでは俺がお前の兄ちゃんになってやる。義兄弟って奴だ、わかるか?正式に盃を交わすにゃまだ早いだろうが、それでも、お前と俺は義兄弟だ」
「ほんと?ホントに、鴆君、ボクのお兄ちゃんになってくれるの?」
「ああ。なってやるよ。誰が認めてくれなくったって、俺はお前が立派な大将になるって信じてる。信じてるから、がんばって、なってみろ。それまでは、俺が守ってやるから」
「うん、ボク、がんばるよ」

 ありがとう。
 真心を込めた感謝の気持ち。裏表の無い無垢な眼差し。
 これがこの幼子の《畏》だとしたなら、なんと心地よいものなのだろう。
 今はまだ小さいがために、見目の大きさ強さばかりを求める連中は、見逃してしまっているのかもしれない。





 礼なんて言わなくていいんだ、だってお前は、俺の主になってくれるのだろう?
 俺を、鴆と呼んでくれるのだろう?
 ならば俺は、お前が呼んでくれたその時に、お前の背で百鬼となったそのときに。
 俺は、鴆という妖怪として、産声を上げるのだろう、俺の主よ。





 ところが、若様はその後まもなく、奴良家から追われて失われた。
 彼は、彼の主を失ってしまった。

 以来、彼は先代が死んだ後も、いまだ《彼》のまま、漂うように日々を過ごしている。





「 ――― 失礼いたします」

 とっくに目は覚めているが、起き上がるきっかけや気力がないまま寝床で惰眠を貪っていると、襖の向こうから声がかかった。
 知った声だ。あまり、聞きたくは無い声だった。
 眠ったふりをして、返事もせずにいると、声の主はしばらく黙って、さらに、

「鴆さま。鴆さま、起きておられるのでしょう」

 咎めるように、遠慮の無い声をかけてきた。

「……わかってンなら、入ってくりゃあいいだろうが」
「それでも一声おかけするのが、筋でございますから」

 言って、入ってきたのは蛙頭の妖怪である。
 昔から ――― と言っても、彼はこの薬鴆堂の堂主におさまってからまだ日が浅いと言えるが ――― 薬師一派に仕えてきた家臣の一人、蛙番頭だ。
 蛙番頭が入って来たのを気配で知りつつ、背をむけたまま、彼は寝返り一つ、うちもしない。

「そろそろ宵の口でございますよ。今日はいささか月が明るくございますが、良い夜のようです。たまには起き上がって、外の空気を吸ってはいかがです。いつまでも横になってばかりでは、逆に御体に障りましょう」
「具合が悪いンだから、こればっかりは仕方ねぇだろ。外の空気なんざ、吸いたくもねェよ。眠ってるのが、一番楽だ」

 具合が悪いのは、本当だった。
 己の血肉の毒が己を苛む音が、しんと静まり返った部屋に、じくじくと響くような気がするほど。
 気が滅入っているために具合が悪いのか、具合が悪いために気が滅入るのか、どちらとも知れぬが兎にも角にも、彼はここのところ、世界から切り離されたまま沈んでいくような、己が生まれ出でぬまま終わっていくような、そんな気分でいることが多い。
 見つけたと思えた主を、立派な主になるまでは守ろうと決めた義弟を、探す旅にも出られぬ弱き身の上なれば、せめて眠っている間に己が終わって、生まれる前にかいごのままで息絶えた己を、他の者たちがさっさと土に埋めるか風に返すかした後で、こっそり魂だけになり、あの主の元へ行けたらいいのにと、鳥のくせに、飛んで行けぬ翼を寝床の中で乱雑にくしゃくしゃと折りたたんだまま、ただ息を吸って、吐いている。

 加えて、彼はこの蛙番頭が好きではなかった。
 この番頭は、己を見てもいないくせに、先代が黄泉路へ旅立つや、通夜も終わっていないうちから彼を鴆さまと呼び始めた。
 真面目を通り越して、情の欠片も感じられぬ。
 どうせ己に用があるなど、また薬師一派の党首としての義務がなんちゃらだとか、そういった表向きの仕事がままならないのに、腹をたててのことだろう。

「そうは仰いましても、先日から本家のお呼び出しを、ことごとく断っておいででしょう。二代目が鴆さまのことを可愛がって下さるからよいものの、いつまでも甘えてばかりでは、他の幹部衆にも笑われてしまいますよ」
「笑いたい奴は笑わせとけ。笑った奴が堂に来たときにゃ、倍の値段をふっかけてやれ」
「またそのような駄々をこねる。何を拗ねておいでなのです」
「拗ねてなんぞいねェよ。言ったろう、具合が悪いんだ」
「具合が悪い具合が悪いと思い続けるから、具合がさらに悪くもなるのです。本日だって本家からのお呼び出しにも応じず………」
「用向きもよくわかってねぇのに、とりあえず来てから話すと言われたって、行く気になるかい」
「膝を突き合わせていなければ、話せない内容もございますでしょう。私どもを間において伝えるは憚られるような、そういった類の話も総大将と幹部衆の間にはございますでしょう。総大将は幹部どもを信じ、幹部どもは総大将に命を預け、昔からそうやって続いていたのでございますよ。命をお預けるするべき御方の話を直に聞かず、どうして命を預けようなどと思えるのです」
「他の幹部どもは、そうだろうさ。だがどうせ、薬師に求められてんのは誰の何を治せだの、誰のこれはどういう病だの、そういったことだろうがよ。他の奴等に聞かれて体面が悪いことなら、そうと最初から言っておけばいいだけのこと。それも無く、とにかく来ればわかる、と言われたってなァ。
 振り回すのもいい加減にしろってんだ。京都抗争のときにも、配下の手勢はいくらか借りるがお前はここで待ってろなんて、ガキ扱いしやがって。命預けるも何も、向こうに俺の命を預かるつもりがねぇってことじゃねーか」
「そのように拗ねておられるから、ガキ扱いされるのではないですか。せっかく頂いた八つ橋も、手をつけずに捨ててしまわれて」
「うるせぇ!………こんなのが今代の鴆なのが憚られるってンなら、とっとと鴆の血筋の雛を他のどっかから持ってきて、挿げ替えればいいじゃねぇか。いくらだっているんだろ、先々代の兄弟の血筋だの、俺が直接次を用意しなくったって、次代の鴆さまがよ。てめェに都合良く言うことをきいてくれる次代の鴆さまを、てめェの好きなように雛の頃から育てて傀儡にでも何にでもよォ」
「鴆さま!またそのような世迷言を!」
「もし ――― お話中、失礼をいたします」

 言い争う二人の中に、割って入ってきたのは蛇太夫だった。

 やはりこちらも、襖の向こうから一声かけたが、蛙番頭のような嫌味は一切なく、許すの一言も無いうちに、にゅるりと細身を滑らせて入って来た。

「鴆さま、蛇太夫、ただいま本家より戻りました。ついては至急、お耳に入れておきたい事が」
「蛇太夫殿、鴆さまは只今、私と話しておられる。遠慮しては下さりませんか」
「話しておられると言うよりも、何だか子供を叱りつけるような口調でございましたぞ。一派の当主への口調として、少し過ぎた言葉が行き交っていたようにも思えました。蛙番頭殿は不調の主にさらなる重荷を背負わせようとお思いなのでしょうかな。忠義ある家臣ならば、せめて主の不調のとき、瑣末なる物事は速やかに片付けておいて、万事取り計らうのが本当でしょうに、何を息巻いておられるのか ――― まるで、自分の意見を取り立ててもらいたいと、駄々を捏ねる子供のようでございますぞ」
「それは侮辱と受け取りますぞ。私は鴆さまに、薬師一派の党首として恥ずかしくないよう ――― 」
「鴆さまが貶められるも、ここ数百年で一番の名医とされるも、それは我等の器量にも左右されるというものでございましょう。全てを党首へ押し付けるのは、あまりに不躾ではございませぬか」

 蛙番頭を脅すように、蛇太夫の瞳孔がくわりと大きく開き、ちろり、先分かれした舌がのぞく。
 ぐうと黙った蛙番頭も、負けじと睨み返す。

 二人が場所を忘れかけたとき、寝床の彼がごろりと二人に向き直って、ふうと溜息をついた。

「喧嘩なら余所でやってくんねェか。蛇太夫、俺に報告があるんだろう。蛙番頭、他に言いたいことがあンなら、後で聞くよ。今は蛇太夫の話を先に聞く。……拗ねてるってのもあるのかもしれねェな、だったら俺は、お前が望む薬師一派の鴆さまには向いちゃいねぇんだろう。
 俺だってな、なってみてェと思うんだぜ。これこそ主だ、この背について行こう、この後ろで翼を広げて《畏》を魅せようって、そう思える鴆って鳥にさ。けどよ、二代目は俺にそれを求めちゃいねえわけよ。そりゃそうだよな、俺なんて居なくても、二代目は押しも押されもせぬ、馬鹿がつくほど強い魑魅魍魎の主なんだからよ。世話になるばっかりで、何だか面目もたたねぇや」
「鴆さま………」
「きっと俺の羽はもう、根っこから腐っちまってるんだ。見限るんなら、止めやしねぇ。荷物まとめて出て行っても、俺はお前を咎めねぇよ」
「…………」

 蛙番頭はそれ以上何も言わず、「過ぎた口を出しました」と、またも例の感情がこもらぬ機械的な口調で述べ、一礼してから出て行った。
 もしかすると本当に、荷物をまとめて出て行くかもしれないなと思われたが、彼は止めなかった。
 腐っていく己のもとで、もろともに腐らせてしまうよりは、余程良いだろうと思われたからだ。

 だが、そんな厭世的な気分など、次の蛇太夫の一言で、完全に吹き飛んだ。

 蛙番頭と言い争った後だったので、顔色が悪かった彼に気を使って、何か飲み物などを用意いたしましょうと、細やかに世話をしてくれながら、蛇太夫は良い報告が一つと、悪い報告が一つございますと、言った。
 いつも、蛇太夫の話は明朗快活だ。
 報告は二つに絞って行われ、補足事項は彼の体調を見やりながら、後々帳面にまとめて示される。

「十年前、本家を御母堂とともに追われた若様、奴良リクオ様が秘密裏に、本家にお戻りでございました」
「な ――― なにッ?!」

 聞いた瞬間、彼は目を見開いた。
 全てが億劫であったはずなのに、がばりと体を起こして、次にぐらりと己を襲った眩暈に耐えられず、蛇太夫に支えられるはめになったが、それでもおさまらない。

「リクオが ――― リクオが、見つかったって言うのか?!本家があれだけ探しても探しても見つからなかったあいつが、見つかったって?! ――― だが ――― だがそれは ――― 蛇よ、『生きて』見つかったのか?」
「そこはご安心なさいませ、生きておられます。悪い報告というのは、それではございませんよ。お喜びください、鴆さまの大事な若様が、生きて、本家にお戻りでいらしたのです。蛇は後悔いたしました。そうと知っていたならば、蛙番頭殿ではないですが、少々無茶をしていただいてでも、本家へ鴆さまをお連れするべきであった、幼馴染の若様の顔を見たならば、きっと鴆さまの不調も、いくらか快方に向かうに違いなかったのに、と。
 しかし、本家で事の次第を聞いた私は、やはり鴆さまをお連れせずに良かったと、そう思ったのです」
「何 ――― どういう、ことだ」
「ここからは悪い報せでございます、鴆さま。どうか気を落ち着かせて、お聞き入れくださいませ。若様はこの十年、京都の花開院という陰陽師のもとで虐げられながら過ごし、生きながらえてきたものの、御母堂の死や人の世の無常に打ち据えられて、今やすっかり、生きる気力を失ってございます。陰陽師どもめ、あろうことか若様を、女狐の呪いを身代わりに受ける形代の役目までさせ弱らせた挙句、螺旋の封印の八、封印を破ろうとするときに一番に攻撃を受ける場所の守護の役目を押し付け ――― あの年で、これまで生き延びてきただけでも、奇跡でございましょう。
 せめてもの救いに、薬鴆堂に伝わる忘却術を進言してみましたが、どういうわけか二代目はこれを聞き入れられず ――― もしかすると、三代目にさせるつもりは、ないのやもしれぬと、お見受けいたしました。私の力不足でございますな、申し訳ございませぬ」

 彼は言葉を失った。
 己の主が生きていると知って、舞い上がりそうになった心が、途端、浮力を失い地に叩きつけられたような気分だった。

 臥せっていた彼は、京都抗争のあらましを噂でしか聞くことのなかった彼は、蛇太夫がもたらした内容をそのまま鵜呑みにすることでしか、情報を得られなかった。
 彼は知らなかった。
 蛇太夫が本家へ赴く前から、あらかじめ若様帰還の報せがあったこと。
 蛇太夫の一存でこれを秘して、彼に報せなかったこと。

 それだけだった。

 それだけで、彼の中にあらかじめ撒かれていた陰鬱の種は、二代目への疑念としていっせいに芽吹いた。
 沈黙はそう長くなかったが、蛇太夫は己が支える彼の心の内に、疑念が大輪の花を咲かせる程度の時間待って、鴆さま、と、そっと耳打ちした。
 言いにくいことなのですが、と、辺りを憚って、ごくりと喉を鳴らしながら。

「 ――― 人間の手に落ち、陰陽師などになったとあっては奴良家の恥。もしやすると本家はこのまま、若様を ――― 」
「馬鹿言っちゃいけねぇ、二代目はそんなおひとじゃねぇ、あるはずが ――― 家の体面だなんだで息子を斬るなんて、そんな事、あるはずが ――― 」
「体面だけで斬ることはありますまいが、若様は潔いお人柄にお育ちのようなのです。健気な若様に、斬ってくれと懇願されたなら、どうでしょうか」
「まさか ――― 」
「薬鴆堂にお預かりしましょう、鴆さま。若様の心と体の傷が少しか癒えたなら、二代目もきっと、お考え直しになるはず。ご無理を申しますが、是非、私と本家へ赴いてはいただけませぬでしょうか」

 しばらく、間があって。

 こくりと、彼は頷いた。
 ちろちろと、蛇太夫の舌が、機嫌よさそうに一度、二度、口の端から覗いた。



+++



 さわさわさわ。歩むたびに草の葉が揺れる。
 さやさやさや。木の葉が囁き合う。

 朝が近い。
 靄がかかっている。
 たゆたう白い霧は、遠くには山々の稜線の遠き近きを指で撫でたようにゆるり緩ませ、近くには地を這い一瞬たりとも留まらず、風に泳ぐ羽衣のごとくに形を変えながら、遠く森の先へ、朝から逃れるかのように行くのだった。

 鳥の声すらまだ無い、早朝である。
 森の外に広がる田園風景には、朝の早い人々の家が、畦道の真ん中をより分けてぽつんぽつんと立っており、窓からは明かりが漏れている。
 東の空は群青色。
 星の光は、迫る陽の光に眠りを誘われたかのように、一つ、また一つ、薄まる空の色の中へ目を閉じていく。

 この森を行くのは、二人。
 ざくざくと乱暴に草むらへ分け入り、道無き道を無心に行くリクオと、少し呆れたように諦めたように、これを追う二代目だ。

 遠野への道行き、ではない。
 帰り道であった。

 リクオが望んだ山吹乙女の姿は、そこに無い。

 会えなかったのか。いいや、違う。
 遠野の森の奥、人間たちの目が届かぬ、文明とは隔絶された揺りかごのような場所で、彼女は暮らしていた。





 遠野の妖怪たちは、外からやってきた者を強く警戒したが、二代目が遠野大屋敷で彼らの頭領、赤河童にまずは礼儀をもって、先日の京都抗争への挨拶を述べ、連れだってやってきた花霞大将を今のところの京都の主だと紹介すると、表向き、警戒は解かれ、リクオは彼女と会うのを許された。
 としても、一目会うために、遠野妖怪たちの奇異の眼差しを、二人はいいだけ浴びる必要があった。

 遠野は古来からの傭兵集団である。
 彼等には彼等の誇りがあり、取り決めがあり、考え方がある。
 彼等は奴良組の味方でも、京都の敵でもない。
 今回の抗争では、たまたま関東勢と縁を結び、奴良組に手練をいくらか貸し与えたが、それは攻めるために使う人員ではなく、手薄になる後方の守りとして、という約束であったから、互いの利害が一致しただけのこと。
 前線で使った挙げ句に事が終われば口封じのために傭兵たちを皆殺しにした過去がある京妖怪どもと、仁義厚く嘘をつかぬ一本筋の通った妖怪任侠奴良組と、どちらが商売相手として都合が良いか、考えるまでもなかったろう。
 傭兵たちは死を恐れぬが、故郷で待つ家族を、いとしく思い出さぬはずはないのだから。

 その遠野妖怪たちは、京都で一家をかまえる花霞大将へ、二代目以上に警戒の目を向けた。
 実は頭領の前へ出るより前に、遠野の森を囲む結界に入るや、境界を守る鎌鼬が風を切り割いて、いくつもの風刃を放った。
 遠野の出迎えは過激である。
 小手調べの業に追い出されるような力の持ち主が、仮とは言え彼等の主として、彼等を率いることはできぬのだ。
 二代目はこれを道すがらリクオへ話したし、その頃にはリクオも二代目の背から降りて一人で歩けもしていたので、二人ともがそれを心得ていた。

 だから、これにリクオが応じたのは、特に問題ではない。
 問題だったのは、放った業の方である。

 手に握った水晶のごとき鶯丸で、リクオはことごとく風刃を撃ち落とした。
 目にも止まらぬ風の刃を、さらに多くの森の木々が迎え撃ってはじき返した、そう見えた。
 業の名は《櫻花》。
 居合い一閃の《楠》に対し、速度はやや劣るものの手数を増やした剣戟である。

 木々の陰に隠れていた遠野妖怪の古株がこれを見定め、思い出さぬはずはない。

「貴様、鬼童丸の手の者か」

 鬼童丸と言えば、京妖怪でも羽衣狐の周囲に侍った側近たちの一人。
 遠野でも知らぬ者はない。

 そこは二代目のとりなしで、頭領の前に出るには出たが、二人を見つめる視線は興味、好奇心、警戒、敵意、ありとあらゆるもので鋭く研ぎすまされていた。

「京都守護職、花霞。僭越ながら京都伏目で一家を構え、人には伏目明王と呼ばれることもある。鬼童丸はオレの剣の師で、父のようなひとだが、オレは鬼童丸の手下ではない。鬼童丸は、オレの護法だ」
「………なんと、あの鬼童丸がこんな若造に下ったとな?」
「………信じられぬ。また我等をたばかろうというのではないのか、京妖怪め」
「………羽衣狐の依代を探しに来たと言うが、なにを企んでおるのだ」
「………それを、どうして奴良の二代目が連れてくるのだ?」

 遠野妖怪たちがにわかにはリクオを信じられぬのも、無理からぬ話だった。
 それだけ、京妖怪どもとの因縁は深く呪わしいものとして、これまで長く続いて来たのだから。

 けれど、二代目が面白そうに、もしかしたら花霞一家は今後、奴良組と並ぶほどの大きな一家になるかもしらんぜと嘯き肩を持つ様子を見せるので、では話だけでも聞いてやるかという気をおこさせた。
 二代目の漆のように艶やかな妖気は、見る者を魅了し《畏》を抱かせるに充分であり、それに一つ話を聞いてみちゃどうだいと言われると、なるほどそうか、と、たいていの者は思ってしまうのだ。
 さらに、この隣に座す花霞大将は、これまた月光のように美しい妖気を放ち、やはり、いつまでも見ていたいような気にさせる。その上、これまで彼等が知っていた京妖怪たちとは違って、彼等を目下に見ることも、妙にへりくだることもない。

 これまで京妖怪どもは、誰も彼もが荒ぶり鼻っ柱の強い者ばかりだと思ってきた遠野連中は、彼を見て、京都にはこういう者もあるのかと、少しだけ考えを改めた。

「我等のように花の香を喰って風情を楽しむ者は、奴等のような血生臭い連中には辟易としており、同じ京都に住まう者として、他の土地の者たちを虐げている奴等を恥ずかしくも思っていた。同じ土地に棲む妖として、彼等の非礼を詫びよう。申し訳ない」

 このように言われてしまうと、遠野妖怪たちは実直誠実を絵に描いたような者たちでもあるので、ならば詫びの品を寄越せなどと、ゆすりたかりのような真似は一切しない。
 そうか、奴等を迷惑に思っていた京妖怪というのもあったのだと納得し、自分たちは遠く離れているから、かかわり合いになるのを避ければよいことだったが、穏和な妖怪たちにとっては、いつ首を刈られることかひやひやしていたであろう、あわれなことだと、まだ見ぬ京都の者たちに、少しばかり同情もしてみせた。
 最後には、二人がほとんど供もなく連れだってやってきた理由を、二人が言うように、ただ山吹乙女へ会うことだけが目的だと信じるに至ったのだ。

「山吹乙女には屋敷の離れを自由に使わせているから、会いに行くと良いだろう」

 頭領の赤河童も一つ頷いて納得し、先に来訪を知らせる小物たちを離れへ遣わせてくれた。
 敵でもなく、新入りでもないのなら、客人である。
 あまりじろじろと見るのも失礼であるから、そこで集まっていた妖怪たちは、赤河童と側近をいくらか残し、各々寝床か湯殿かかわやか、それぞれの場所へと散っていった。

 しかし、鎌鼬がリクオの案内に立ってくれたと言うのに、二代目は席を立たない。

「お前、行ってこい。おれぁ、遠慮しておく」

 へらへらしているくせに、意志ときたら鋼のようだ。
 それが柳のようにのらくらとしているのだから、たちが悪い。

 まずは山吹乙女に会い、話して、己や母の意志を伝え、気兼ねせず奴良組の妻に戻っていただきたいと伝えた上で、彼女をこの場に連れてくれば良いだろうと考えたので、リクオはここではぐっと堪えた。





 けれども。
 やんわりと。けれど毅然と。微笑みさえ浮かべて。
 座敷にリクオを迎えた山吹乙女は、首を横に振った。

 羽衣狐の依代としてだけ存在していたその時には、漆黒のセーラー服を纏い、冷たい微笑を常に浮かべていたものだが、同じ体であるはずなのに、薄い山吹色の小袖に訪問客を迎えるための打掛を纏って、ふわと笑ってみると、まるで別のひとだ。
 しかし羽衣狐が持っていた、どこか凛とした母の気配はそのままで、妙に晴れ晴れとしているものだから、何故の疑問は、口に出す前にリクオの喉元あたりで消えた。

 話に聞いていたような、なよやかな女であったなら、リクオはもっと踏み込んで、やや強引にでも部屋から彼女を連れ出し、奴良屋敷へ帰っていただろう。ここへたどり着くまでも、遠野などに送られて、きっと見知らぬ土地で心細い想いをしているに違いない、二代目はなんという仕打ちをするのかなどと、そればかりを憤っていたリクオだ。
 目の前のひとが、連想していたような、ただただ美しい、あわれで儚げな女ではなかったので、おや、と首を傾げる。

 同時に、懐かしい緊張が彼の四肢を満たした。
 目の前の女は、吹けば飛ぶようななよやかな女ではない ――― 過ぎ去りし日に、何度も目の前にして膝をついた、あの冷徹な気配も確かに感じる。
 気まぐれに己を愛でたかと思えば、少し気に食わないことがあると容赦なく己を打ち据えた、残酷な九尾の母の気配が、する。
 リクオが身構えたのに気づいたのだろうか、山吹乙女はそこで安心させるように、困った子を言い聞かせる母のように、笑みを深くするのだった。

「意地を張っているのでもなければ、気を使っているわけでもないのです。負い目が無いと言えば嘘になりますが、それよりも今は、最初からこうしておけばよかったという気持ちの方が強いんですよ」
「最初から?」
「鯉伴さんの元を去るときに、きちんと、私の方からお暇をいただきますと、申し上げればよかった。そうすれば、鯉伴さんも私も、余計な物思いや要らぬ未練に苛まれず、むざむざ不届き者どもに、つけ込まれるような事もなかったでしょうに」
「過去のことは過去のこととして、これからやり直しはきかぬのですか」
「時を巻き戻すことはできません。覆水盆に返らずと申しますでしょう、鯉伴さんと私は既に夫婦ではありません。他ならぬ、私がそう望んだのですから」
「しかしそれは、子が成せぬ呪いのせいなのでしょう?」
「そうです。山吹乙女は、それでも添い遂げようとは思えなかったのです。私が去ることで、どれだけの傷をあのひとに与えてしまうのか、考えなかったわけではありませんが、それでも時が経てばきっと、あのひとは新しい妻を迎えて、しあわせな日々を送ることができるだろうと思っていたんですよ。実際、そうなりましたでしょう?」
「 ――― それは、でも ――― 母上、どうか二代目の心変わりと、思わないでいただきたい。俺を産んだ母は、貴女のお帰りを待ち、ほんの一時の間を預かるつもりで、貴女に胎を貸すつもりで奴良の妾となったのだから。人間などせいぜい生きて百年に届かない。姿を消しただけならば、いずれきっと互いの願いが縁を産んでめぐり合えるからと、貴女たち二人を心から祝福していた、それ故なのだから。
 今は呪いも消え、貴女が二代目の妻の座におさまれば、奴良組の三代目は妖の血を濃くしてお生まれになる。きっと立派な若様におなりでしょうに、戻られるおつもりがないというのは、何故 ――― 」
「話は聞いています。若菜さんは奴良屋敷で祝言も挙げていなかったとか、だからずっと妾扱いで、賄い処などで働きづめだったとか。鯉伴さんはずいぶん後悔なさっておいでのようでした。そこは鵜呑みにするべきじゃなかった、求婚したときに、承諾する代わりの条件が祝言を挙げないことだったから、頷くしかなかった、それでも、強引にでも嫌われてでも引っ叩かれても、やっぱりやっとくべきだったって。それはもう、妬いちゃうような甘い顔で、そう言っておられましたよ」
「………あの野郎」
「死に後には行くな ――― そう言うでしょう?あんな甘い顔をなさる殿御のもとへ嫁いでしまったら、きっとまた私は、心が苛まれる日々を続けることになるでしょう。そんな日々はもう、こちらから願い下げです。
 それに、奴良家にはもう、こんなに立派な若様がいらっしゃる」
「 ――― 母上、オレは、奴良家には」
「嗚呼、母上 ――― なんて良い響きでしょう」

 含んだ甘露を味わうように、天を仰ぎ目を細め、山吹乙女はうっとりとした表情で、喜びをかみ締めているようだった。

「私にもしも子があったなら ――― あるいは羽衣狐として、もう一度、晴明を産み落とせていたなら ――― ええ、貴方のような子だったでしょうね、リクオ」

 このときに、リクオは違和感の正体をようやく知った。
 目を見開いた彼の前で、乙女はニコリと笑う。
 幽玄の鬼として在った頃にはなかった、確かな存在感、圧倒的な魅力を備えて、ニコリ、と。

 母上、と、もう一度呼んだリクオの声が、掠れていた。
 目を細めて笑う山吹乙女の顔に、羽衣狐の顔が重なって見えた。

「 ――― 貴方が京都に現れて、私の腕の中に自ら転がり込んできたとき、貴方は憎きぬらりひょんにまさに瓜二つ。加えて、もしやこれは二代目の方の嫡男ではないかと思えば、それは狂おしいほどに愛しい御方が、他の女に産ませた子。そう思えば憎らしい、けれど母のために呪いを解こうと必死に走り回るいたいけな貴方を、どうして愛せずにいられたでしょう。
 羽衣狐として在った間、どうしてこの立派な若い妖が我が子でないかと思えば辛く哀しく、憤りになって貴方にぶつけてしまいましたね。早く晴明を産み落としたいと願い、それには山吹乙女としての魂も呼応しました。子が欲しい、愛しい子をこの手に抱きたい、抱き寄せたい、嗚呼、リクオ、もう少しこちらへ ――― 」

 ぐいと腕を引かれて抱き寄せられ、彼女の胸に抱かれて、リクオは目を白黒させる。
 目の前のひとは、山吹乙女なのか、羽衣狐なのか、わからなかった。
 羽衣狐にこうして戯れに抱き寄せられることは、幼き日に幾度かあったが、腕はその時よりももっと優しく、あたたかい。
 母上と呼んでみよなどと稚気を見せた羽衣狐が、実際に呼ばれてみて表情を一変させ、それまで優しげにリクオを撫でていた手でリクオを払いのけ、口先だけで呼ぶでないと叫んだ、あの頃のことを不意に思い出した。羽衣狐は怖ろしい大妖であったが、あの時ばかりは、リクオは素直に反省したものだ。なにしろ、口先だけの呼びかけであったのは、本当だったので。
 打たれた頬が真っ赤にはれ上がっても、彼女の声が怒りではなく、悲哀に震えていたように聞こえて、ひたすら哀れだった。

「母上と、呼んでくれてありがとう、リクオ。いつでも、ここへ訪ねておいでなさい。貴方は晴明とは違うけれど、山吹乙女が望んだ子とも違うけれど、でも、貴方も私たちの大切な息子。困ったことがあったなら、きっと、きっと、頼るのですよ」
「 ――― 母上、貴女は、山吹乙女なのか、それとも、羽衣狐なのか?」
「さぁ、どちらに見えますか、花霞童子?」
「どちらかだけでは無いようです。溶け合ってしまったかのような」
「ならば、そうなのでしょう」
「そんな ――― そんなことが?」
「どちらでも、もう、いいのです。いずれにせよ、私はもう、奴良屋敷から姿を消したときのように、望みを絶たれたような気持ちでいるわけではありませんし。晴明を失ったのは哀しいけれど、同時に、晴明が私を失ったときと、きっと同じ気持ちを貴方に押しつけ、母を永遠に失わせてしまったのを、とても、とても、後悔しています ――― こればかりは、どれだけ謝っても、謝っても、償いきれませんね」

 最後に、彼女はリクオの頬に頬を寄せてから、名残惜しそうに、身を離し、しっかりと述べた。

「私は奴良屋敷には参りません。二代目と、金輪際、お会いすることもないでしょう」

 言葉は柔らかいが、あったのははっきりとした拒絶であった。
 リクオは何を言ってよいやら、席を辞することさえ忘れて呆然とするばかりであったから、二人の会話が途切れたのを見計らって、座敷の障子を乱暴に両脇へ跳ね除けた娘があり、これが知った顔だとなれば当然驚く。

「用が済んだのなら帰れ、花霞!お姉さまを困らせるな!」
「 ――― 狂骨娘?お前、生きてたのか?」
「生きてたら悪いか!お姉さまが最後まで庇ってくださったのだ!お姉さまは私がお守りするし、お姉さまはこれから遠野で過ごしていくと仰せなんだから、お前がしゃしゃり出ることではない。さっきから聞いていればなんだ、男のくせにめそめそと、母上母上と軟弱な。お前のような奴にお姉さまは渡さないぞ、帰れ、帰れ!」
「これ、狂骨。そのように乱暴な物言いをするでない。せっかくの可愛い顔が台無しぞ」
「むぅ……」

 優しげな一言で狂骨は黙るが、もう彼等を二人きりにするつもりはないらしい。
 さらには山吹乙女も、「大屋敷まで送りましょう」と席を立ったので、リクオは諦める他、無かった。



+++



 意気消沈して離れから戻ってきたリクオに同情したか、二代目と差し向かいで呑んでいた赤河童は、泊まって行けと誘ってくれたし、二代目もそのつもりだったようだが、リクオが帰ると言ってきかなかったので、一晩で遠野と浮世絵町を往復する強行軍に、付き合わされることとなった。
 それも、リクオの言い分では、朧車は二代目を運ぶのに借りただけの代物だから、二代目が乗って帰ればいい、自分は身一つでどうとでもなる、などと森を行く。

 何を拗ねているのかわからないが、叱っても宥めても、リクオは黙々と先へ行く。
 仕方がないので、二代目は黒羽丸と朧車を、呼びつけられる程度のところで待つようにと、こっそり言いつけて先に行かせ、これを追う。

「おいリクオ、先へ行ってどうしようってんだよ」
「道に出ればバスくらい通っているだろ」
「へ?バス?なんでわざわざそんなモン使う?朧車でぱっと空飛んで帰りゃいいじゃねえか」
「アンタはそうすりゃいい。オレは一人で帰る」
「放っていけるわけがねーだろうが。もうすぐ朝になる。そうしたらお前………」
「どうとでもなる」
「って、おめぇなあ」

 風に乗るでもない、式神を呼び出して飛ぶでもない、もうすぐ朝が近いのに、焦る様子もなく、ふてくされたように裾をさばいて歩いていく。
 やがて陽が昇り、光の腕にリクオを取り巻いていた妖気が払われてしまうと、小柄な人の子の姿となりて、五六歩ほど歩いたところで、草の根に足を取られてぺたりと転んでしまった。

「言わんこっちゃねぇ。ほら、つかまれ」

 目が閉じてしまった身では、道なき森を行くなど暴挙にもほどがある。
 小さくなってしまった息子の背を抱き起こそうとしたところで、しかし、ぱしりと手を払われる。

「いいんです。放っておいてください」
「放っておけるかって」
「一人にしておいてったら。いざとなったら、ヤタに手を引いてもらうから、大丈夫」

 立ち上がろうともせず、土に膝をついたままの息子に、つい心配からいい加減にしろと声を荒げかけたところで、二代目、気がついた。

「………泣いてんのか」

 いつからか声もあげぬまま、はらはらと、リクオの瞑ったままの眼から、涙が頬を伝っていた。

 京都抗争の最中、花開院の長兄から、どうして弟が一人で泣いているときに来てやらなかったかと、責められたのを思い出した。
 今もリクオは、きっと一人で泣こうとしていたのだろう、考えてみれば、奴良屋敷で己を殴るより前、こちらの方の姿では、泣き出しそうな顔をしていたではないか。
 それでどうして、さらに責めるような物言いをできたろう。

 二代目が、もう一度、今度は仔猫を腕に誘い込むように慎重に、おそるおそる、リクオの背を優しく撫でたり、ふわふわとした金褐色の髪に絡んだ葉っぱや草の実を払ってやったりしながら、騙し騙し両腕で囲むと、明王姿より二回りは小さなリクオの体は、すっぽりとおさまった。
 今度は、振り払われなかった。
 必死に威嚇していた小さな獣が、今はそっと身を寄せて来る。

「………男の子がそんな、めそめそするもんじゃねーぞ」

 言葉では叱りつつ、柔らかに抱きしめる二代目の声と所作は優しい。
 十年離れていた間、この息子がどんな風に育ってきたのかを知らぬために、彼が息子を抱き寄せながら思うのは、己が十四、五の頃、どんな風に物事を感じていたろうか、ということだ。
 今も未熟であるのは、あの頃からたいして変わりないはずだ。
 変わったとすれば喪失を繰り返してより臆病になったのと、失ったものを嘆く気持ちが、時が与える愚かさにまかせた分だけ、悼む気持ちへ変わったこと。

 あるいは昔より、些細なことでは怒らなくなったかもしれない。
 それだけ、見過ごしている理不尽が、多くなっただけかもしれない。

 一つだけ確かなのは、今こそ日ノ本の国の魑魅魍魎の主と謳われている二代目にも、幼い日々はあって、その頃は何かあるたびにこうして口をへの字に結んでいたことだ。
 元服も済ませていたのに、やっとうではどんな大きな相手にでも立ち向かって行くくせに、妙なところで涙もろく、こうしてぽろぽろ泣いていたような気がする。

 ままならぬ人の生死に、ままならぬ男女の悲恋に、ままならぬ人の愛憎に。
 刀で斬れぬ取り除けぬ理不尽を前に、あの日々、どれだけ泣いたろうか。

 同じように泣いた日々があったので、無力を噛みしめた少年の日々があったので、二代目は誰より正しく、息子の心の内を理解できた。

 母に言い聞かせられた、他の女を母と思えとの言葉。
 母の言葉ならきっと従おうと誓いながら、本心は、己の母以外のひとを母と呼ぶなど許せぬと軋み痛み涙を流す。

 押し殺そうとしていた痛みは、いざ相手方から断られると、安堵と、同時に覚えた後ろめたさになって溢れ出る。
 母の言葉に従えなかったふがいなさ。
 従わずに済んでほっとした、背徳感。

 初代のように人の心を読む異能がなかったとしても、人の父として、人の心を思いやるには初代よりも長けた二代目だから、何故泣くか、泣くでないと叱りつけるような真似は決してせず。

「……ったく、泣き虫のくせに、意地ばっかり張りやがって。見目は母さんや爺ちゃんそっくりだってのに、お前、そんなところばっかり、おれに似ちまったんだなぁ」

 赤河童と二人きりになった大広間では、あちらの方から、花霞リクオは二代目の息子であろうと言い当てられ、さらには若き日の初代を彷彿とさせるので自分たちのような古株は気づいただろうが、若いものはまるでお前たちの血の繋がりには気づかなかったようだなと、からかってきたほどだが、なんの。
 赤面するほどに、この意地っ張りにも泣き虫にも、覚えがある。
 同時に、そんなときにどう触れてもらったら、心を落ち着けられたかも。

 リクオが解こう逃れようとしても、乱暴ではないにせよ、解けぬ抱擁。
 見えぬ目のまま、駄々をこねるように逃れようとしていたリクオも、やがて動きを鈍らせ、はらはらと涙を流すだけであったのが、次第に小さなすすり泣きが混じり、しゃくりあげ、きゅっと二代目の胸元を掴んだ。
 朝靄が晴れ、辺りが明るく空気も軽やかな晴れ晴れとしたものとなり、鳥の声清々しく朝を告げたところで、リクオの呼吸は落ち着き始めた。
 乱暴に目元を拭おうとしたので、二代目は先んじて指でそっと目元を撫でてやったが、ついで、こっそりと指先に母より受け継がれた癒しの通力を灯らせても、リクオの目は瞑ったままである。

 いかに癒しの通力とは言え、死んだものを生き返らせることはかなわない。
 この目が既に死んでしまっているのだとすれば、やがて体の方もそう遠くない未来に、目を追って彼岸へ旅立ってしまうような気になって、二代目はもう一度、もう一度と、ついつい、呼び戻せぬかと息子の目元を撫で続けるが、撫でられる方にしてはくすぐったいばかりであったようだ。
 泣き虫がおさまってきたのも手伝って、くすぐったいよと身をよじり、くすくすとリクオが笑う。
 立派な男君を連想させる明王姿の方でもまだ、成長途中の細身な少年姿であり、二代目と比べると一回り小さかったのに、朝になって妖気を払われてみれば、さらに二回りほど小さな少年である。
 見ているだけでも頼りなく華奢であったのに、いざ腕の中に包んでみると、少し力を入れたなら折れてしまいそうな細さで、それがまだ目元を赤く腫れさせ小さく笑んでいるのだから、事情を知らぬものでも哀れを思ったろうに、どうして情にもろい二代目が、しかも己の子を相手に、眼を渇いたままでいられたろう。
 リクオにつられたようにくすりと一つ笑ったし、そこで昨夜の憤りを思い出したように息子がまたむくれた顔を作ったのが、逆に仔猫が拗ねているような愛らしいに過ぎる様で、全く迫力が無くさらに笑いを誘い、みっともなく涙をこぼすような真似はどうにかせずにすんだ、それだけだった。

「なんだよお前、まだ拗ねてんのか?」
「まだもなにも、ボクは最初から拗ねてなんていません。怒ってるんです」
「どうしてあいつを、ちゃあんとつかまえておかなかった、ってかい?」
「だってそうでしょう、せっかく取り戻したひとなのに、追い出しちゃうなんて」
「追い出したわけじゃねぇよ。ちゃあんと、二人で話し合って決めたんさ。あいつが出ていったのは、おれたち二人ともに思いやりでなく、思いこみが多かった、それが理由の一つだった。他にもいろんな理由があってなあ、あいつはおれの元へ来るのは怖いと言う。安らげないだろう、と言う。たぶん、一つ屋根の下に暮らしたって、あいつとは夫婦っていうより、男と女って気がして、きっとおれも気を使う。あれこれ考えて、出した結論だ。お前の望んだ通りにならなくてすまねぇが、リクオ、これは、おれたち二人のケジメだ。ちゃあんとケジメをつけられたのは、お前のおかげだ。ありがとうな」
「……お母さんが、きっと悲しむ」
「悲しむって言うより、おれぁまた正座で説教くらう気ぃするな。それより悪ければ往復ビンタ………あいつのバックハンド、イタイんだよなぁ………おぉ、怖ぇ。………でもよぉ、過去の清算がそのまんま復縁になるかってぇと、違うみたいなのよ」
「……よく、わかんない、です」
「ま、そうだろうなぁ。お前がねんねだって話は、鬼童丸のおっさんからメールでよく聞いてる」
「え、二代目、父さんといつの間にメアド交換したんですか?」
「……リっくん、お父さん、今、ちょっと、いやすごく傷ついた」
「あ、う……。だってその、もう何年もそう呼んでるから、癖になっちゃってて。運動会、見に来てくれたり、授業参観にも顔出してくれたりしてたから、何か、その………ごめんなさい」
「……あいつめ。何をちゃっかり父親生活エンジョイしてやがるんだ。ずるい」
「二代目は、その……」
「へえへえ。言ってくれてかまいませんよ。おれぁどうせ、せいぜいがクソ親父ですよ」
「そうじゃなくて………見た目がすごくお若いし、それに、あの、すごく強いのはわかるんだけど、お父さんって言う気が………きっと、慣れだとは思うんですけど」
「お袋にも長男次男とか、言われちまったぐらいだもんなぁ。けどよ、おれの弟ならもうちぃっと、女心にゃ敏感だと思うぜ?」
「む。ボクのお母さんの旦那さんだった方なら、もうちょっと礼儀をわきまえた、思慮深いひとでよかった気がします。そりゃ、ボクには男女の仲がどうのって、よくわかりませんけど、二代目と母上様は、かつて夫婦となるくらいお互いを好いておられたのでしょう?再び巡り会えたのなら、今度こそ障害が取り除かれたとわかったなら、やり直せばいいものを、そうしない理由は、二代目が意固地になっているからのようにしか思えません。ボクのお母さんの死を悲しんでくれるのは、嬉しいですけど、それだって少し喪に服すくらいで……」
「だからそれは、無いって。山吹のことは、前から未練だった。生きているか死んでいるかもわからないままの女だったから、可哀想なことをしちまったと、後悔もした。 けどなぁ、おれはそういうところ、不器用らしくてよ、それじゃあそいつを捜し当てるまで、二番目に好きになった女を侍らせて、その胎を借りて跡取りを用意しておきましょうかなんて、簡単に気持ちを切り替えられやしねぇのさ。
 母さんとの間にお前を授かったのは、おれが確かに、そのとき、母さんだけを愛したからだ。実を言うと、お前に山吹を母上なんて呼んでほしくねぇや。おれが子をなしたのは、若菜との間にただ一人だけだし、それを蔑ろにされたようで妙な気持ちになる」
「………お気を悪くしないでいただきたいんですけど、一つ、お伺いしたいことが」
「おう、なんだい」
「もしも、母さんとも生きて会えていたら、どうしていたんです?今より、もっと困ったことになったのでは?」

 これには、二代目は苦笑するしか無い。

「頑固な奴め。どうしてそこで、おれが二人の女の間で目移りするように思うかね。
 ………そうさなぁ。まだ思い出になんてしてねぇから、それを考えるのは、今は、ただ辛い。あれもこれもと考えて楽しくなって、で、どれからやろうかって振り返った先では笑ってる母さんがいるはずなのに、いねぇんだもん、どこにも。だから、辛い」

 けろりとした声のくせに、先んじて辛いと言われると、リクオも何も言えなくなって、黙る。
 招かれた腕の中の匂い、炊き込めた香にもかすかに覚えがあり、朧気な思い出が目の奥をつんと熱くして、されるがままになった。

 背を撫でてくる手の大きさに、もう理由は忘れてしまったが、他愛もないことで泣きじゃくった幼い頃、同じように大きな手が抱き上げて撫でてくれたことを、思い出した。

 なのに、このひとを今更、もう一度父と呼ぶには時間が経ちすぎている。
 母を大切に思ってくれるのは嬉しいけれど、その母を守れなかった身としては、甘えよりも前に、申し訳なさが先立つ。
 大人げないとは知りつつも、リクオはきゅっと小さな唇を尖らせて、やはりむくれたような表情を見せた。

「納得できねぇってツラしてんなァ、リクオ。そういう頑固なところは、母さん譲りだぞ、お前。だがよ、山吹との話は、これでしまいだ。いいな?
 まぁ、落ち着くまでは二代目でいいさ、無理して父さんと呼ぶ必要も ――― 鬼童丸の奴にこのままくれてやるつもりもねぇが ――― 今のところは、いいさ。だがどうだい、この後にでもお近づきのしるしに、盃でもかわそうか?」

 茶目っ気たっぷりの二代目の誘いに、むくれた唇のまま、リクオは少し考えて、答えた。

「…………五分五分なら、考えます」