奴良屋敷へ帰ってさらに翌日、朝になってリクオが熱を出しても、奴良組の面々はさておき、雪女はそれほど驚かなかった。

 病み上がりだ。
 最近は調子が良い、明王姿の方では呪いの後遺症などまるで感じさせないと言っても、つい二ヶ月前までは、昏睡と、起きたかと思えば高熱による昏倒を繰り返し、口に含むものも雀の一口のごとく少量で、雪女の看病が無ければ、命を繋げたかどうかも怪しい。
 姿が二つあったとしても、魂も体も一つならば、どちらかの姿で無理をすれば、もう片方の姿にしわ寄せがあるのは当然の摂理。

 朝食の膳の際に、食が進まぬらしいのを祖父と父に気づかれて、少し熱っぽいみたいですときちんと答えたのは、この二ヶ月、雪女が付きっきりで、リクオの意志を半ば調教じみた有様で引き出していたからに違いない。
 それでも、具合が悪いのならば、起きあがらずにそのまま横になっていてくだされば良かったのにと、人の薬を用意しながら首無はついつい思ってしまったし、毛倡妓は、病人が自分で布団なんか畳むんじゃないわよと、一度リクオが畳んだ布団を敷き直しながらぶつぶつ呟くのだった。
 もちろん、雪女が看病に侍ろうとしないはずはなかったが、リクオは頑として、己が居る寝所に女性が入るのを拒む。
 誤解を解こうにも、呼吸すら億劫そうな姿を細く開いた襖から垣間見れば、僅かな時間、無理に体を起こさせるのも良くないと思えて、雪女はそわそわと賄い処と部屋の外までを幾度も往復しながら、少しでも盥の水が温くなれば新しい氷を入れたり、一口膳をこしらえてこまめに部屋の外まで運んだりと、不安を忘れてしまいたいがために、ひたすら忙しくしている。

「おお、よしよし。あの阿呆の相手が疲れたんじゃな。熱なんぞ、寝ておればすぐに治る。無理をさせてすまんかったのう。何か食べたいものはないか、爺ちゃんがなんでも買ってきてやるぞ」

 孫の枕元で、自ら熱っぽい手を濡れたてぬぐいで拭き、氷を額に乗っけてやるなどしている初代は、ついさっき、己の倅を蹴りつけて簀巻きにして軒先に干してきた剣幕など嘘のように、優しい静かな声で語りかけた。
 縄の中から抜け出し、遅れてやってきた二代目が、「どんだけ甘やかすつもりなのよ」と苦言を呈するほどだ。
 初代に言わせれば、「ワシゃもう、リクオを甘やかす以外はしとうない」そうで、控えるつもりは毛頭無いらしい。過保護で何が悪いと、開き直ってしまわれたようだ。
 それも仕方のないことかもしれない。
 幼い頃から見守り続けてこられたならいざ知らず、目の届かぬところで虐げられ、健気に生き抜いてきた愛孫が、体の弱っているときでさえ、まだ己の父や山吹乙女のことを気にする様子を見せるのだ。
 与えた粥は匙で二掬いほど口に含んだかどうかで、もう腹がいっぱいだと言うし、夜には熱が引くかと思っていたら、姿を妖に変じて起き上がりはしたものの、なおも熱っぽさが続いている。

 どうしたことだろうか、と首を捻る二人に対して、熱を出している本人だけが冷静に、きっとこの土地には己に対する《畏》が無いので、回復が遅いのだろうと己を見極めた。

「伏目では明王に手を合わせてくれる人々や妖たちがいるおかげで、少し無茶な真言を使って神降ろしをしても、すぐに風が吹き込むように気力が戻ってきたんだが、こっちにはそれが無いから、オレ一人の気力とか体力とか、およそ力と呼ばれるところから根こそぎ持っていかれた気がする。……ご心配かけて申し訳ない、爺様」

 言われて納得はしたものの、ならば心配が無くなるかと言えばもちろん違う。
 気力体力精神力が根こそぎ失われたと聞いて、心配しないはずもなく、二代目はついつい誰のせいかも忘れて、無茶をするからだと軽く叱ったものだから、その日二度目の簀巻きの刑に合わされた。
 一度目は己の非を認めて、老いた初代につき合って簀巻きになってやったつもりの二代目が、二度目は流石に抵抗を見せるも、初代が孫可愛さに引くどころか、気合いを一つ入れたところで、吹き飛ばされたのだ。
 こちらは日常茶飯事の父子喧嘩。
 けれども、これを見ていたカラス天狗は、ほんの一瞬、初代が若かりし頃の雄々しい御姿に見えて、目を擦った。それほどの気合いの入れようは、今までになかったろう。

 やかましい奴良屋敷の様子に、リクオは幼い頃の、お祭り騒ぎのごとき毎日を思い出して笑った。
 帰りたいと思っていた場所に、ああ、帰ってきたとほっとして ――― ほっとしたのが、良くなかったのかもしれない。

 これまで続いてきた、命を懸けて戦い続ける日々が終わり、母の仇を討ち、初恋の女を守り、その女へ誓いを捧げ、どうやらその女の好い男が仁義に厚い立派な妖であるのを頼もしくも思って、さらに新たな母となるべきひとは、思っていたような儚い御方ではなく、自分の生き方をしっかり見定められるようであり、奴良組には京都に手を出すつもりはないと見極めもした。
 ならば、これで重荷はすべて背から降りた。
 ほっと息をついたときに、リクオは、なんだかひどく、瞼が重い、いや体が重いと感じたのだった。
 これまで無かったはずはない、背にのしかかるような疲れを、なさねばならぬことがあるからと立ち上がり振り払ってきたのが、今はもう、全て終えてしまったので、気がつくと背にのしかかっていたものは己一人ではどうにもならぬほど膨れ上がり、押しつぶされてしまったようなものだった。

 日に日に、眠る時間は多くなり、昼の姿の方では目が開く気配すらなく、蝋燭の火が小さく燃え尽きるかのように弱っていく、この孫の姿に、初代は今一度、奴良組に与する薬師一派を頼ることに決めた。
 もちろん、忘れ薬の件を除けば、二代目にも異存はない。
 かくして今一度、薬師一派が頼られ、今度はその党首である鴆が自ら、奴良本家に参じたのであった。

 使いをやったのが正午過ぎであったので、黄昏過ぎには来るだろうかと初代が気をもんでいると、使いのカラスとともに、すぐに姿を現した。
 体調は悪いと本人が言う通り、肌は青ざめ、痩せ細ってる。
 しかし目には力があり、初代と二代目に、これまで参上できなかった非礼を詫びると、すぐに診察にかかった。

 布団に横たわっていたリクオは、彼の声を聞いて、ぴくり、瞼を動かした。

「……若、失礼しやす。薬鴆堂が堂主、鴆と申します」
「……鴆、って、……その声、鴆君なの?」

 目に見えて、堂主の顔に喜色が広がった。

「憶えていて、下さいましたか」
「もちろんだよ。わあ、嬉しい。……ごめんね、こんな風に弱ってるところ、見せちゃって。寝てればすぐに治るのに、おじいちゃんたち、心配しちゃって」
「そりゃあそうですよ。大事な若の御身なんだ。さ、昔話は置いて、楽になさってくだせぇ」
「やだな、敬語なんて、よしてよ。ボクはもう、若でも何でも、無いんだよ……」
「いや、若様、アンタは奴良組の三代目になる御方だ」

 頑固に言い募る堂主に、リクオは淡く微笑んだだけで、返事をしなかった。
 否定をしなかったのは、すれば彼を失望させると、あの日の約束を憶えていたためだ。
 その気になったからでは、なかった。

 ろくに物も含まず、小さく呼吸を続ける昼の姿の診察を終えると、白湯に滋養の薬を混ぜて飲ませた後、堂主はリクオの部屋を下がり、初代と二代目の前に姿を現し、こう述べる。

「気の量が全く足りておりません。人も妖も、生きていくためにはどうしても、気が体の中を巡る必要がございますが、そいつがふつうの人間の半分にも足りてねぇ。話に聞く真言だの陰陽術だのが、どれほど気を食う代物なのかはわかりませんが、あれは一日二日で食われた量じゃねぇ。
 それに、残った気を上手く運行させるのも、ずいぶん慣れてやがる。頭のてっぺんから爪先まで、自分で意識して気を動かし、なんとか生きてるってぇ有様で。こりゃあ早いところなんとかしねぇと、冗談じゃなく、命を取られる。今日明日ってことはねぇだろうが、長寿命はないと診ます。無理矢理にでも、気を詰め込んでやらにゃあ」
「して、その、気を詰め込むというのは、どうするんじゃ」
「簡単なこと。流れ出ていかねぇようにせき止めたところへ、溜まるのを待てばいい。それだけだと悪い気も入ってきちまうから、悪いモンが入ってこないよう、より分けてやる必要がありますが、自然にまかせているよりは、回復が早いです」
「それはここでできるか」
「……できるなら、堂の方がやりやすいことは、確かです。薬を用意するにしろ、まじないをかけるにしろ、準備があらかじめ、整っておりやすんで」

 リクオを薬鴆堂へ行かせるのを、やはり渋った二代目、やきもきした初代がこのままでは京都へ帰すにしてもままならぬし、毎日様子を見に行けばよい、心配ならば護衛をつければ良いではないかと説かれ、ついに頷く。
 堂主の目の前で、まさかお前たちを疑っているのだとは言えぬし、リクオの様子を見れば一刻を争う。
 雪女を護衛につけ、加えて二代目が毎日薬鴆堂へ赴くことを約束して、リクオは薬鴆堂へ送られることになった。

 ほんの僅かな所作だったので、誰も気づかなかった。
 リクオを京都へ帰すにしても、と、初代が口にしたときに、堂主が視線を落とした膝の上で、ぐっと拳を握ったことなど。

 リクオの身を動かすならば、いくらか調子の良さそうな、黄昏以降が良い。
 人と妖の姿を持ち合わせるようになったらしいと、話には聞いていたので、堂主は供に連れて来た蛇太夫を、先に薬鴆堂へ帰して細々とした用意をするよう申し付けておき、自身は夕暮れを待つことにした。
 妖怪は、陰の気が満ちて良い具合に淀む夜の間が本来の活動時間であり、堂主もまたこれは同じだ。
 昼過ぎとは彼にしてみれば、いわば人間の夜明け前に相当するもの。
 普段ならば急患があったとしても、配下の者どもが診れば事足りるので、このような早い時間に起きたことはなく、つい、昏睡するリクオの枕元で座ったまま、うつら、うつら、とした。

 やがて訪れた彼誰時、ふわりと何か、心地良い風が頬を撫でたような気がして、目を開けると、リクオが横たわっていた布団の上には、眠気など一瞬で吹き飛ぶような、見事な妖が座していたのである。

 たった今目覚めたように目を擦り、欠伸をし、軽く伸びをして、堂主を紅眼でじいと見つめ。

「 ――― よう、鴆。悪いな、診察が終わるの、待てずに寝ちまったみたいだ」

 先ほど、昼の姿で横たわっていたところ、診察されていた途中、気を張って起きていようとしていたのに、流石は薬師一派の党首と言うべきか、触れ方があちこちの気脈をきちんとおさえて、良い流れを持ってきてくれるし、軽く手の平を揉まれただけで、なんとも言えず心地良い気分にもなるしで、リクオはすとんと眠りに落ちてしまった。
 この非礼を詫びてだったが、堂主はむしろ話に聞いてはいたものの、目の前の銀色の光を帯びる妖が、とろりと甘そうな紅の瞳で己を見つめたそのときに、音など耳に入ってこなくなり、リクオが薄暗くなってきた部屋の中、離れた行灯へふうと息を吹いて、青い炎を燈らせた雅な様子などを、見逃すまいとするかのように、目を見開き、じいと視線で追っているのだった。

「どうしたい、鳩が豆鉄砲食らったような顔して。オレがこっちの姿も持ち合わせてるって話は、聞いてるんだろう?」
「は ――― こりゃあ、とんだ失礼を。あまりに立派な大妖におなりなんで、つい、魅入られちまった」
「世辞を言うなって。さっきも言ったが、その敬語も、やめてくれ」
「さっきも申しましたが、そういうわけにもいかねぇです。アンタは奴良組の三代目、俺たちの、主になる御方 ――― 」
「オレは、三代目にはならねぇよ」
「ご冗談を。それじゃあ、何のために東京へ、お戻りになられたって言うんです」
「京都抗争のケジメのためだ。別に返り咲いたわけじゃねぇ」
「何を ――― 何を言ってやがるんだ、リクオ!お前、俺との約束を忘れたとは言わせねぇぞ、てめーは立派な大将になって、俺を率いると、そうぬかしただろうがよ!てめ、それを反故にして……帰ってきたわけじゃねぇ、だあ?!じゃあなんだ、体が治ったら、とっととまた京都へ引き返すって、そういう魂胆かよ!」
「ああ。あっちには、待ってる奴等が居る。このまま東京に居座るつもりはねぇ」

 すとん、と、立ち上がりかけたところへ力が抜け、堂主は座布団の上に、腰を下ろした。
 と言うよりも、力が抜けてへたりとなったところが、ちょうど座布団の上だったような、有様だ。

「お前も、俺など要らぬと言うのか」

 力を失わせたのは、失望だった。
 ほんの僅かな期待さえ、失われてしまったように、感じられたのだ。

 けれども、彼はそれで終わる男ではない。

 良くも悪くも、彼は一本気で、これと決めたら梃子でも動かぬ頑固さがあった。

「そりゃあねぇ。そりゃねーぞ、ごらリクオ!」
「は?」
「てめーは立派な大将になるんだろう!俺を率いるんだろう!」

 相手が病人であるのを忘れて詰め寄り、胸倉を掴んで、リクオの幼い頃、祖父や父のように強い総大将になると誓ったあの日のことを、その時に己を従えてくれるという言葉がどれほど嬉しかったかを、それが唐突に失われてしまった絶望を、失われてしまったと思った己の主が、生きていたと知った先日の喜びを。
 彼の背が無ければ、羽ばたけぬ己を。
 数多くの鴆のように、毒に埋もれてただ死んでいくだけの日々を。
 我を忘れてあれこれとまくし立て、彼はぶつけた。

 しまいに、

「お前が俺を率いないなら、俺は、どこで羽を広げたらいい」

 縋るように呟き、ぽんぽんとあやすように背を叩かれて、はたと我に、返った。
 すまねえ、と小声で詫び、ともかく彼を堂へ連れて帰らねばなるまいと、医師の顔に戻って事務的なあれこれを話さねばと、口を開きかけた。

 ところが堂主よりも先に、リクオが言うのだ。

「 ――― 鴆、オレはお前を要らねぇとは言わないし、大将にならねぇとも言ってねぇ。
 オレはただ、奴良の三代目にはならん、と言ってるんだ。
 京都には、オレが率いる百鬼が待ってる。あっちにはもう、オレが抱える一家がある。奴等はオレを大将と呼ぶし、京都には羽衣狐なき後、平穏を好む温和な奴等が住み続けたいとも言っている。弱い奴等が多いから、守ってやらなくちゃならねーし、今だって留守をしているのは心苦しい。
 オレにとっちゃ《鴆》と言えば、お前しか居ない。だから他の奴等もお前だけを、《鴆》と呼ぶもんなんだと、そう思ってた。お前がそんな風に、肩身の狭い想いをしてるとは、思わなかったんだ。何だったらお前、ウチに来るかい、兄弟」
「え ――― 」
「お前が居なくなっても、奴良組にはいくらでも代わりがあるってお前は言う。けど、オレにとっちゃ、鴆、お前しか鴆はいないし、お前の代わりなんてどこにも居やしねぇ。妖力も満足に扱えなかったあの頃に、オレを信じると言ってくれた兄貴の鴆は、他にどこを探したっていねぇだろ」
「……なんつー殺し文句を吐きやがる。そりゃあ ――― それができたら、どんなに ――― けど」
「けど、なんだい」

 姿を見せなくなった蛙番頭、尽くしてくれる蛇太夫、他にも様々、しがらみの事を思えば、あとを濁さず飛び立つには程遠く、頭を熱くした分、ばつ悪そうに堂主が笑う。

「ははっ、帰るも何もおめぇ、そんなフラフラな体でどうしようってんだい。まずはゆっくり養生してから考えな」
「放っておけば治るんだがなぁ」
「そりゃあ、俺が決めることだ」
「なんで」
「なんでって、医者なんだよ、俺は」
「ああ、そうだっけ。で、なんだい、お前が診たところ、そんなに悪そうに見えんのかい」
「おお。………そのまんまじゃ、長寿命はねえぞ。大人しく、言うこと聞いてうちに入院しにこい」
「長寿命、ねえ。なあ鴆、長生きってのはいいもんらしいが、理由あって命短しなら、それはそれでそういう寿命と違うのか」

 すぐに言い返そうとして、彼は口を開いたまま、言葉を失った。
 己が長く生きられると知っている類の者たちに、何度も言われたことのある言葉だったので、つい、そんな事を思うのはお前が長く生きられるからだと言い返しそうになったが、目の前の、まさにこれから大輪の花となるに違いない、開きかけた蕾のごとき、先が楽しみな美丈夫が、けれどもここで終わりならばそれが己という花なのだろうと簡単に言うものだから、くよくよと思い悩んでは己の爪先を見ているばかりの自身と省みて、何を言えばよいのか、判らなくなった。

 失われた言葉に、リクオは別段気づく様子もなく、それに、と続ける。

「慣れない場所で大業使ってぶっ倒れるなんざ今までもあったし、つい二ヶ月前まで半分は死体だったんだ。今の状態で長寿命なしと言われても、当然だと思えるんだが。養生してりゃ、いくらかそれだってのびるだろう」
「ああ。養生すれば、な。頼むから、いい子にしてうちに一度来てみてくれよ。昼の方の目だって、気脈を正せば見えるようになるかもしれねぇし、うちのモンにはすっかりお前を迎えさせるつもりで、蛇太夫を使いに出しちまった」
「蛇太夫?………あいつ、元気か」

 その名を聞いたとき、とろりと甘そうな紅に鋭い光が宿ったが、ほんの一瞬のことだったので、堂主はただ、己の周囲に侍る妖怪どもを憶えていてくれたのだろうと嬉しくなり、おうと応じた。

「おお、ぴんぴんしてるよ。今は俺の身の回りのことから、家の一切を取りしきってくれたりもしてる」

 リクオは何やら考え込み、やがて、頷く。

「わかった。行くよ。それで目が治るなら幸いだ。昼の間だけとは言え、不便と言えば、不便だからなぁ」

 猩影を呼び戻しましょうかと、雪女が尋ねなかったはずは無い。
 口惜しいが、護衛ということならば、猩影は己よりも強いし、これまでも副将として大将に侍ってきた経験があるから、どういうところで狙われやすいか、また大将がどういうところで気を許すのかもよく知っているに違いない。
 京都では、甘やかすのが大将、躾けるのが副将二人というくらい、手下どもに対する態度の役割分担がよくできており、それは、何でもかんでも懐の中に招いてしまう花霞大将の、器が大きいというのかのんびりしているというのか、招くついでに良からぬ輩にすら刃物を持たせたまま、刃物を持っていると知っていながら抱え込んでしまうのを危惧してそうなったものだという話。
 今回ももしや、そのような危険があるのかもしれない、口には出さぬが初代や二代目が、ふとしたときに難しい顔をしているのも、カラス天狗がそっと己の息子たちに、薬鴆堂周囲の警戒を強めるようにと、物陰でそっと命じているのを見てしまえば、嫌でも不安は煽られた。

 けれどリクオが紅の眼を細めて笑い心配ないよと、堂主は己の義兄弟なのだからと、例の優しい笑みを見せて安堵させてくださるので、ただ養生に行くだけでこの調子なら本当は、一週間も寝ていれば何もせずにいても治るところなのだから、名医の元でならば二、三日ほどもいれば昼でも立ち上がれるようになるだろう、そうなったら、京へ帰る前に土産を求めなくてはならないから、暑いところを悪いけど良い店を案内してくれるかなと、あたかも先の未来が明るいものであることを疑ってもいない様子でおられるので、雪女も、彼の大丈夫がどれほどあてにならないものかを知りながら、彼が描く未来は彼自身が欲するものではなく、周囲の者たちがそうであればいいと願うものを敏感に読み取って、安堵させるために紡がれる優しい嘘であるのだと、これまでに何度も思い知らされていたというのに、やはりまた、この優しい嘘に、騙されてしまった。
 護衛をするにしても、リクオの身の回りのあれこれや、自身のものなどを用意するなど時間もかかろうから、後からゆっくりと来ておくれと申し付けられて、こくりと頷いてしまった。
 もう少し、雪女がリクオと供にいる時間が長かったなら、目の前で柔らかに笑みを浮かべているひとが、さらりとした顔で誰も疑わぬ嘘をつく酷い男だと、雪女も知ることができたろうが、これを今心得ておけというには、彼女には、リクオの側にいる時間が少なすぎた。
 むしろ、京に残してきた小物妖怪たちの方が、よほど、こんな時はぴったりと大将にくっついて、死んでも離すまいぞとしていたろう。

 リクオにしてみれば、副将を呼び戻されては、かなわぬ。
 己を呼ぼう、奴良屋敷から引き離して亡き者にしよう、そうせねば自身の命が危ういのだからと、切羽詰った何者かの気配を感じ取ってしまったなら、彼にとってそれは救い上げてやらねばならぬ迷い。
 副将たちは、そのように瑣末な声に煩わされることはない、人であれ妖であれ、亡者であれ餓鬼であれ外道であれ、彼奴等の生き方は彼奴等が責任を持つもので、わざわざ大将自らが、救いがたきものに手を伸ばし、傷ついて命をすり減らす必要は無い、大将の命を狙う奴等などその最たるもので、救うどころかこれ以上の六道輪廻など決して許すまじ、滅してくれるといきり立つから、そこに居られると救うどころではなくなってしまう。

 リクオが嗅ぎつけたのは、蛇太夫の、己の命を惜しむ当たり前の小心であった。
 二代目がどれだけあらぶって、羽衣狐の内応者どもやそれにまつわる手下ども、家々を打ち滅ぼしたとしても、必ず命を拾っている者はあるはずで、その中には、己は仕返しをされるのではないかと恐怖している者もあるだろう、気の毒なことだと、心から思ってもいたので、蛇太夫の名を義兄弟から聞いたとき、そう言えばと、思い当たったのである。

 そう言えば、あの日、己を奴良屋敷から一人で外へ出るように仕向けて、連れ出したのは。
 蛇太夫、あの男であったなぁ、と。

 御身が危ないからと、ろくに屋敷の外に出ることのなかったリクオには、門の外というのは大変に魅力的で、いつもは雪女や、青田坊黒田坊など頼れる守役や護衛たちが何人も一緒でなければ出られなかった。
 あの日、リクオが一人になったのは、蛇太夫がちろちろと舌をひらめかせながらやってきて、優しい声色で、若様、門のすぐ近くの林に、うちの坊ちゃまが待っておいでですよと、招いたからだ。
 門から一人で出るのは気が引けたが、すぐ近くだと言うし、前回会ったときには、初めて己の毒に胃の腑をやられてしまったとかで寝込んでおり、ひどく青白い顔をしていた義兄弟だったから、リクオは心配になって、つい、手を引かれるまま、外へ出てしまったのである。

 もちろん、義兄弟はいなかった。
 たった一人、山奥に連れて行かれて、そこで蛇太夫の姿を見失った。
 しばらくすると母が慌てた様子で迎えに来てくれたが、彼女も追われている様子で ――― あとは、この通り。

 この話を、これまでリクオは誰にしたことも無い。
 奴良組の中が一枚岩でないことは、内応者の数からしても明白であるし、そこには力関係による無理強いなどもあったかもしれない。
 名指しで、あやつが己と母を追ったなどと言えば、それこそ二代目は瞬く間に青い炎で、小蛇など焼き尽くしてしまうに違いない。

 今もまだ薬鴆堂の堂主の側に在るというのなら、あの堂主のもとで認められるほどの仕事をしているというのなら、一言、己はそれを誰に言うつもりもないからと言ってやれば、それだけで蛇太夫は安堵することだろう。

 とまあ、そんなことをのんびり考えながら朧車へ、堂主とともに乗り込んだリクオは、すぐ側でその堂主が、なにやら不思議そうな顔をして首を捻っているものだから、どうしたい、と声をかけた。

「いや ――― 三代目になるのならないのって、もう少し、切羽詰った感じになってるような気がしていたからよ」
「うん?」
「太夫がな、一度こっちに来たときに、お前が生きる気力を失っているようだった、なんて言ってたしな。二代目との間にも、何やらあったんじゃねぇかと心配もしてたんだ」

 そんな事がないらしくて安心した、と、照れくさそうに苦笑まじり、後ろ頭を掻く堂主と同様、当たり前だと鼻で笑おうとして ――― 現に、京都では死にたがりなどもっての他、誰より生き残ろうとする術だけを探しているつもりだったし ――― しかし、先日、初代に一喝された言葉を思い出せば、他愛も無いとばかり判じて捨て置いてきた己の心が、ぷかりと浮かんできた。

 お前はワシにこう言ったんじゃぞ、死にに来たと。

 死にに来たつもりは無かったが、確かにもしも最悪の場面になったときに、無理矢理生き残ろうと考えていなかったのは確かだった。
 だからこそ、供には猩影を選んだのだ。
 己の死を奴良組が望んだとしても、彼は元々奴良組幹部の息子だ、関東でならと条件がつくかもしれないが、命は救われるだろう。

 同時に、生きる気力と言われて、はてそれはどういうものなのかと考えてみると、なるほど、己の内にそういったものは見当たらない。

 純粋に疑問に思ったので、ふと、

「生きる気力って、例えばどういうモンなんだ?」

 義兄弟に尋ねてみれば、はあ?と聞き返される。
 それもそうだ、改めて考えるものでもない。
 けれどもそこは、妖と言えども医者である。
 患者の疑問には真摯に向き合うのも努めであるし、事実、妖なればなまじ寿命というものに目が行かない輩が多いから、そういった質問がこれまでになかったわけでもない。鴆という妖が、放っておいても医者として卓越しているのは、あらかじめ約束された死があり、これに向き合うのを宿命付けられているからこそなのやもしれない。
 堂主は腕を組み、そうさなぁと天を仰いで、あれこれ、例をあげた。

「美味いモン喰いたいとか、自由に旅に出たいとか、あっちこっち見聞したいとか、誰より強くなりてぇとか賢くなりてぇとか、好いた女といっしょになって子をなしたいとか、そこは人間も妖怪も、そう変わりはないと思うぜ。そうさな、お前が京都の奴等を、弱い奴等が多いから守ってやらなくちゃならんと言うのも、そういうものの一つだろうよ」

 そうか、と頷きはしたものの、それでもリクオは、それを己の気力の一つとは思えなかった。
 元々、京を、伏目を、慕ってくる護法たちを守るというのは、死した後にもというつもりであったので、今生きている理由にはなりえなかったのだ。

 物心ついたときから、あらゆる欲を廃してきた彼なので、他に、生きていなければならない理由は、見当たらなかった。

 己はそういう生き物なのだろう、そういう醜さを持ち合わせているのだろうと、なまじしなやかな心を抱いていたがために、もう一度、そうか、と、頷いて、それきりであった。





「蛙番頭……は、いねぇんだったな。蛇太夫、いねぇのかい。あれ……おっかしぃな。そろそろ診療時間なんだが、番頭一人に暇を出してしまってから、どうにもシマリがなくっていけねぇや。悪いなリクオ」

 夕暮れ時、山へ帰るカラスたちの鳴き声が、寂しげに木霊する中、堂主はリクオを、庭に面した奥の座敷に招いた。
 続きの間を開け放っているので、二十畳はありそうに見える。
 こんなに広い部屋を一人では使えないとやんわり断ると、堂主は胸を張って、主たるもの、しみったれた事を言うなと、機嫌良さそうに笑って背中を叩いてきた。

「ちょいと、家人を叩き起こしてくるから待っててくれ」

 座布団をすすめるや、そう言って姿を消した堂主と入れ違いに、畳に落ちた梁の影を縫うようにして、気配もなく、すぐ脇に蛇太夫が立っていた。
 リクオはまず、当然にこう尋ねた。

「鴆は、どうしたい?」
「主は急患が入りまして、そちらにかかってございます。私は鴆様に命じられて、リクオ様の気脈を正す準備に参りました」
「……そうかい」
「左手首に、この柊の葉の腕輪を。体内に入ってくる気というものは、左手から参りますので、柊を魔除けに使って、ここで良い気だけを取り込むようにいたします」

 挨拶もそこそこ、機械的にせかせかと手を動かして、自らリクオの手に柊の葉をつける。
 ところが、指先が震えて、ぽとりぽとりとリクオの膝の上に落としてしまうので、見ていられなくなって、蛇太夫の手からそれを優しく取り上げた。
 瞬間、蛇太夫は僅かに逃げるような様子を見せたが、リクオが何にも気づかぬ振りをして、自らの左手首にそれをはめて見せると、おそるおそるまた近寄ってきては、今度はこちらの枷を逆の手首に………次は足に、その次はもう片方の足首にと、やはり震える手でこれを施そうとする。

 鼠たちが、恐ろしい猫の居場所を知るために、奴に鈴をつけようと相談して、ならば誰が鈴をつけるのかという昔話をふと思いだし、最後の枷をつけたとき、くすりとリクオは笑ってしまった。
 全ての枷をつけるや、視界が閉ざされ、己が昼の姿に意志の働かぬところで戻ってしまったと同時に、目の前の蛇太夫がほっと息をついたのを気配で感じ取った。

「これで、安心かい、蛇太夫」

 なので、リクオにとっては当然の疑問だったのだが、これに、蛇太夫は、ひゅっと息を呑んだ。

「な、何を……」
「これは術封じの枷だよね。修行で使ったことがあるから、知ってるよ。ボクの妖力と術を封じないと、怖いのかなと思ったんだけど、違った?」

 猫にどうやって鈴をつけようか悩んでいたところ、幸運にも猫の方から鈴をつけてくれたようなものだった。
 蛇太夫は屈辱に目を白黒させ、しきりにちろちろと舌を出したり引っ込めたりしながら、

「き、貴様など、おそろしくあるものか!」

 もはや正体を隠すつもりなく、負け惜しみを喚き始めるのだった。

「追いやられた先で、細々と生きておればよかったものを、今更になって帰ってなどくる貴様が悪いのだ!そうとも、貴様さえ戻ってこなければ、私はこのまま、薬師一派を掌握していられたものを、貴様が、貴様が帰ってなどくるから……!
 貴様が忘れていたとしても、こちらは、貴様がいつ思い出すかと思えばたまらぬのだ!
 忘れ薬は初代と二代目に拒まれたゆえ、もはや、不審火が理由の死をもってしか、安堵は……」
「うん、ごめんね。どうしても、京都の妖怪たちのために、奴良組と話をしておく必要があったんだ。話は終わったから、熱が下がれば、もう帰るよ。貴方のことは、誰にも、京都の皆にも、東京の皆にも、もちろん鴆君にも二代目にも、誰にも言ってない」

 座布団の上にちょこりと座った狩衣姿の少年が、これまた、内緒の相談相手にささやくように当然の顔をして真面目に頷いて見せたときの、蛇太夫ときたら、目玉がそのまま飛んで行きそうなほどだった。

「………覚えて、いる、と?」
「うん」
「あの日、貴様を誘い出したのが私だと、覚えて、いる、だと?」
「うん。だから、ここへ来たんだ」
「覚えていて、何故?!」
「鴆君が、貴方の名前を出して、ここの用意をしているはずだからって言うもんだから、それじゃあきっと、ボクのことを聞いて、ボクがいつ貴方の名前を出すのか怖がってるんじゃないかなって思ったから。そんなことしないよって、言うために、来たんだ」
「信じろと、言うのか。馬鹿馬鹿しい、信じられるか、そんなことが!仇の顔を、名を覚えていて、それでどうしてのこのこと、やってくる間抜けがある!」

 信じられぬ。馬鹿馬鹿しい。
 枷をつけて安心のあまりに、既に蛇太夫は、リクオの術中にはまっていた。
 信じる信じないに関わらず、心にすうっと染み込んでくる言葉が、思いやりが、まだ幼ささえ残す顔立ちに浮かぶ眠るような微笑みにあらわれて、これを見ていると、妙な気分になるのだった。
 猫に鈴をつけて安堵したはずが、その猫に抱かれて優しく舐められているような。
 言葉を重ねれば重ねるほど、笑みを向けられている時間が長くなれば長くなるほど、だらだらと脂汗が吹き出てくる

 しまいには、リクオがすうとその瞳を開いて、声がする方へ視線をのばしたので、これで蛇太夫はつかまった。
 目の見えぬリクオだから、視線の行方を読んで逃げ出したカナや、大妖の初代には届かなかったが、目の前で縮こまりながら大声で助けを求めてくる小蛇風情は、簡単にとらえることができたのだ。

 座敷が、清浄なる蓮が浮かぶ水辺へ変わる。
 黄昏は追いやられ、金褐色の髪がふわとたなびき、薄い色彩の瞳が、蛇太夫を、映した。

 とらえられて、へたり、蛇太夫は腰を抜かした。
 その哀れなる卑小なものへ、リクオは手を伸ばして、そっと包むように撫でてやるのだ。
 そこで蛇太夫は、封じたとばかり思っていたのは実は逆で、あの銀色の大妖を封じてしまったがために、それと表裏一体の大きな存在が、己へ手を伸ばしてきたのだと、正しく理解にいたり、しかしもうその時には何をなすこともできず、うへえと情けない声をあげて、腰を抜かしながら、ずるずると後ろへ下がった。

 なのに、手はいつまでも離れてくれず、心地よいすべらかな手で、何度も何度も、蛇の肌を嫌がらずに撫でてくる。

「やめろ、よせ、触れるな!」
「逃げないで、安心して。誰も、貴方を害そうなんてしないよ。あのことは、秘密にしておこう。それがいいんだよね?」
「全てを知っていて、何故 ――― わ、私を、脅そうと言うのだな。貴様は、ま、また、三ツ目ヤヅラのように、私を脅して、また手足のように使うつもりだろう、そうであろう、折角、奴がいなくなってせいせいしていたところへ、今度は貴様か!貴様がそうするのか!」

 透き通った瞳に映されると、全てを見透かされているような気になる。
 全てを知られているような気になる。
 のし上がってくるまでに蹴落としてきた同朋の数も、取り入っては見切りをつけて捨ててきた主の数も、払ってきた手の数、踏みつけてきた頭の数、寝取った女、利用してきた者ども、手に入らぬならばと殺めた者ども、己が私利私欲の行く先が輪をかけて酷くなり、ついに同じ屋根の下の者どもに手をかけることすら、何とも思わなくなってしまったいきさつまでをも。
 あれもこれもそれもどれも、この目には知られているような気がしておそろしい。

「せっかく、せっかく、何やら感づいたらしい蛙番頭を始末したのに、貴様があの鴆の側にいたのでは、いつまた私の立場が脅かされるか ――― せっかく、傀儡にならぬ先代を殺して、当代はうまく懐かせたのに ――― 」
「全部が全部、嘘や我慢だったの?鴆君は君を信じていたよ。すごく頼りにしていたよ。そこまでの努力は、家のいっさいを任されるようになるまでは、自分でがんばったこともあったんでしょう?嘘でも懐かれたら、嬉しいって思ったことはなかったの?ほんのちょっぴり、今日くらいは優しくしてやろうって、本心から思うこともあったんじゃない?」

 あと少し、あと一歩で優しげな手が塵芥の中で悶え苦しむあわれな小蛇を掬いあげ、絡んだ枝や泥を払ってやれたかもしれない。

 疑心という高熱にじりじりと炙られた挙げ句、いつか秘密があばかれるかもしれない恐怖に青ざめて、鉄のように凝り固まった心が、視線の腕に柔らかに包まれてしまうと、全てを知られているかもしれないというのに、何故だろう、次第に、次第に、ゆるりとやわらかになって、微笑まれると、何をそんなに恐怖していたのかと思えて、硬くなって捻れ、閉じていた鉄の塊が、花びらのように一枚利己心が、また一枚保身をを望む小心がといった具合に開かれたなら、後に残るのはただただ上から下に流れくる、悔やみのみ。

 途方もない後悔が、はちきれんばかりに負の想いが詰まった鉄の実から、咲いてこぼれて滂沱の涙として流れ出て行ったなら、あるいは哀れな小蛇はそこで、全てをなげうって子供のように、泣きわめいて終わったかもしれない。

 だが誰もがこの蛇の、裏切りを、強奪を、暴力を、利己心を、保身を望むゆえの小心と不誠実を、哀れの一言で許せる者ばかりではない。
 だが誰もがこの蛇に、こんな風に心を開かせて、かつてはあったかもしれない小さく綺麗に輝くものを、見つけられる者ばかりではない。
 狭い塵界ではそこに暮らす者たちが、誰が己の肩にぶつかったの足を踏んだの誰が己の何を奪ったのと、出会えた奇縁よりも、隣合った者の心の痛みよりも、有象無象が蠢く中で誰も己を見てくれぬと、何も見ずに叫んでいるのが常。
 執心が、喪失の痛みが、許すまじと叫ばせる。
 慈しみであったはずのものが、喪失による痛みで憎悪に変わる。
 するとそれはもう、慈愛ではなく自愛であるのに、愛する者を失った己をあわれと思う心が、苦しみが、痛みが、過ぎた終着が、憎悪へ導く。

 それもまた無常であり、責められぬ哀れであり、このときも、そうだった。

「お前が、親父の側近までつとめていたお前が、親父を、殺した、だと………?!」

 その声が、小蛇を塵界へ引き戻した。

 声の主は、薬鴆堂の、堂主であった。

 瞬間、蛇太夫は目を見張る。
 非力な堂主が己を探しにきたところで、手下どもとともに襲いかかって縛り上げ、納屋に放り込んでいたはずなのだから、その堂主が何故ここに、と、思ったこともある。
 だが、それだけではないのだ。
 蛇太夫の視線の先、打ちのめされ、猿ぐつわをかまされたときに己の毒で中毒でも起こしたのか、咳き込む堂主を支えている、蛙番頭の姿が、信じられなかった。

「調べはあがっていますよ、蛇太夫」

 いつも通り、機械的な声で蛙番頭が追い打ちをかけた。
 己の片目が潰されていることなど、たいしたものではないかのように。
 蛙番頭は、堂主を見限って出ていったのではなかった。
 蛇太夫に、陥れられたのだ。

 あの日。好きなところへ行けと言われた、あの日。
 蛙番頭は、屋敷の裏で蛇太夫と一味に襲われ、気を失ったところを谷間に転がり落とされたのである。

 それでも、蛙番頭は死ななかった。
 蛇太夫と同じく、古くから薬師一派に仕える者として、死ぬわけにはいかなかった。
 元々、彼は先代の死を自殺とは見ておらず、蛇太夫を疑っていたので、生き延びたあとは薬鴆堂のすぐ側で、蛇太夫の罪をあばき真実をさらすその時を待ち、ついに蛇太夫が行動を起こした今日この日、納屋に放り込まれた堂主をすぐに助け出して、ここへつれてきたという次第。

 切り裂くように間に割って入ってきたこれ等の声に、リクオが琥珀の玉眼をそらしてしまうと、蛇太夫ははっと我に返り、次に、ぶわりと己の肌が粟立つのを感じた。
 気づけば、びっしょりと汗をかいている。
 わなわなと、体がふるえていた。
 あれほどに大きな清浄の湖は、影も形もなく消えており、ここはもといた座敷だ。
 また、大きなものの手のひらの中にいると思えたのは錯覚であったか、目の前にいるのはただ、己の牙で噛みついてやればすぐにひしゃげてしまいそうな、卑小な人間の仔だ。
 言いしれぬ《畏》から解放された蛇太夫は、再び己の心の花を硬い鉄に冷えさせ、なまじ中途半端にこれを開かれてしまったがために、中で煮えたつあらゆるものが、かくなる上はと覚悟を決めさせてしまった。
 取り繕い、都合の悪いものを暴力で取り除き、あるいは言い訳で逃れてきた今までのような行いが、全て、全て、面倒になってしまい、かくなる上は、と。

 シュウシュウと喉から息を吐き出し、神経質そうに舌先をちらちら口先で遊ばせながら、

「そうだとも」

 不出来な子供を、ようやく答えがわかったのかいと、冷たくあしらうかのように、こくりと頷く。

「私がやったのだ。三ツ目ヤヅラが羽衣狐に内応すると決めたとき、渋り頷こうとしない先代を見限って、私が名代となった。
 薬師一派党首の代理として、扱われた。
 当然であろう、そこの小僧より、先代の毒鳥より、私は古くからここを仕切っている。奴良組の幹部どもにも、顔が利く。
 この家は私のものだ、毒鳥などただのお飾りだ。それをわからず、先代は内応の一件を知るや、みっともなく、すぐに二代目に知らせようなどとしやがった。だから殺したのよ。私の言うことをきいて、甘やかされておればよかったものを、馬鹿馬鹿しい仁義だ、忠節だと唱えた、だから殺したのよ。簡単だった。実に、簡単だったわ」
「観念なさい、蛇太夫。この浮世絵町ではカラスが全てを奴良屋敷へ伝えるのが決まり。お前の悪事も、これほどまでに派手なものになったなら、いずれ二代目の耳に入ろう。我等を亡きものにしたとしても、そこにおわす若様までをも毒牙にかけるわけにもいくまい、それをすれば貴様は関東はおろか、日ノ本のどこへ逃げたとしても、いいや、三界のどこに逃げようとも、二代目は決して許さずに追ってくる。お前の五体を細切れにするだけではない、魂をも砕くまでな。観念して、罪に服すのです」
「おお、観念したとも。この薬鴆堂での私は、どうやらここまでのようだ。しかし」

 むんずと、力任せにリクオの腕をつかむと、蛇太夫はやおら腕を振りあげ、握っていた何かを床へ叩きつけた。
 すると何事であろうか、パアアン!と栗がはじけるような音がして、瞬く間に、そこから幾本もの蛇の頭がどろりとのぼり、屋根を、床を、這い回ったかと思えば、それが全て黒煙上げる炎となって、屋敷を覆ったではないか。
 瞬く間に炎は燃え上がり、彼等がにらみ合う座敷の周囲を囲むようにして、意志ある蛇のように鎌首をもたげ、次々に形あるものを飲み込んでしまった。

 思わず怯んだ蛙番頭の隙を見逃さず、シュウシュウと興奮した息を吐きながら、

「落ち延びて再起を図るとも。西に逃れれば、奴良組の力も及ばぬと聞く。人質には本家のこのガキさえいれば充分。貴様等など要らぬ。この呪いの炎は、私の敵を逃がしはせぬ、お前たちこそ、今から許しを請うてももう遅いぞ。そうとも鴆、貴様は親父と違い、良い傀儡であったが、もう要らぬわ!」

 くぱあと大きく開けた口から毒牙をのぞかせるや、只人の目にはとまらぬ素早さで、首を彼等へぐわりとのばし、巣穴から顔を覗かせた贄を喰らう蛇のごとくに、喰い破ろうとしたのである。

「父親と同じように、毒羽散らしながら、死ねやぁ、鴆!」
「てめぇ、………許さねぇ。親父ばかりか、リクオまで傷つけようとしやがって、許すモンかよ!」

 あわや、短命なる毒帯びし鳥妖は、自然の理に逆らえず、血迷った蛇に喰われ果てるかと思われた。
 リクオの制止も届かず、術は封じられ、目も見えぬ、手も届かぬ。
 堂主を支えていた蛙番頭も、思わず、あっと声を上げるがせいぜいだった。

 ところが、思わぬことが起こった。
 身も心もすっかり弱り果てているとばかり思われていた、短命の堂主は、蛇太夫が己の義兄弟の腕を捻りあげる様を見たときから、目の色を変えて怒りにふるえていた。
 それが、告げられた父の死の真相と、あまりに自分勝手な蛇太夫の物言いに、ついに爆発した。

「死ぬのはてめぇだ!」

 懐に隠し持っていた護身用の匕首を閃かせると、蛇太夫の最初の一撃を、反動でどたあと後ろに倒れはしたものの、鼻の先でがっきと受け止め、続いて自ら、長く延びた首を力一杯掴むと、その口の中に匕首を突き立てたのである。
 ギャアとあがったのは蛇太夫の悲鳴だ。
 大きく開いた口の中から喉を突き破られ、痛みにもんどりうつも、堂主はまだ首を離してくれぬ。
 ぼたぼたと血を迸らせ、毒の血で畳を、堂主の袖を腕を焼きながら、蛇太夫はのたうちまわった。

 ついに、体の方が痛みに耐えかね、リクオの腕を放して首の側に瞬時に寄った。
 こちらも、懐からようやく短刀を出したが、遅い。
 そのときにはもう、堂主は己の匕首を己の腕に滑らせ、なんと、血を纏わせた己の腕を、蛇太夫の喉奥深くに突っ込んだのだ。
 蛇太夫と同じく毒にまつわる妖の血、それも、一派の長となるほどの、濃厚な妖気をまとわせた毒の血に濡れた、腕である。
 さらにこの手は、多くの毒羽をまとわせており、触れただけで蛇太夫の肌は蝋のように爛れ焼けた。

 ぐぐり、と堂主が腕を押し込み、がはり、と蛇太夫が吐き出そうとする。
 押し合い、にらみ合い、蛇太夫は己の中へ浸食する毒の羽に、力を失い、後ろへ後ずさり、これを堂主は許さない。

「一思いなんぞには行かせねぇ、俺の毒の血毒の羽、たんと腹につめてやる!体の穴という穴から血反吐をまき散らして、死にやがれ、蛇太夫!」
「ィ、ギャアアアァァァッッ、ど、毒が……毒がァ……がふ、ごぼ、あぐ、ぶうぅッ……げひッ、がっはァ……」

 吐こうとしてもそうはいかない、蛇太夫が手塩にかけて育てた当代の鴆は、堂主の冠に恥じぬ名医である。
 ぐ、と喉を片腕で押さえただけで、吐こうとしても、喉がこれを通さない。
 ならば噛みつこうとしても、首の長さも心得られていて、あとわずかというところで、堂主の顔に届かない。あぐあぐと憤怒の形相で堂主を噛みちぎろうとする蛇太夫を、堂主は、にやりともせず冷ややかな目のままで、いや、その目の奥に僅か憐憫をたたえて、引っこ抜いた血塗れの腕をだらりと下げて、見つめている。
 己が生まれる前からこの家で、あれこれを仕切っていたという蛇の最後をせめて最後まで見届けんと、あるいは親の仇の最後を見てやろうと。

 もしかしたら ――― まさに親代わりの、血迷った業を、己でケジメをつけてやろうと。

 そうこうする間にも、火は回る。
 つかみ合った堂主と蛇太夫の姿を、蛙番頭が息を飲んで見つめていたところへ、庭に面した障子を燃やす炎が勢いを増したので、いかん、とつぶやいた。

「鴆様、そやつは捨ておきましょう。早くここを、抜け出さなくては」
「………いいや、こいつが死んでからだ」
「鴆様、いけません。若様のお体が持ちませぬ」

 呪いの炎は、使い手の死に感じ入ることもない。
 ただただ、一つ一つのゆらめきが牢獄の檻のように座敷を囲み、無機質に、じりじりと、屋敷の壁を、天井を、喰らい始めていた。
 白い煙があたりに満ち、けほけほとリクオがたまらず姿勢を低くして、口元をおさえ軽い咳をする。

 苦虫を噛み潰したような顔で、堂主は仇を話した。
 炎に炙られ乾ききった畳の上、胸をかき毟りながらげえげえとやっている蛇太夫に見切りをつけると、もう振り返らない。
 無理矢理に捻られ痛めた足を引きずり、リクオの元へと足早に寄って、抱き起こした。

「すまねぇな、リクオ。何やら不始末に巻き込んじまった」
「ケホッ………ううん、ねぇ、何がおこったの。蛇太夫は?鴆君………ケホッ、何、したの……?」
「お前が気にすることじゃねぇ。チッ、なんだこの鎖は。しっかり錠がかかってやがる。おいリクオ、妖の方にはなれねぇのか」
「………うん、その鎖が、邪魔みたい」
「仕方ねぇ、まずは外へ行くぞ。鎖はそれから外す。少し、辛抱してくれな」
「あの、でも、鴆君、蛇太夫が」
「あいつのことは、忘れろ」
「でも」

 絞り出すような声が、炎に梁が軋む音に、障子が燃えて木がはぜる音に、紛れてリクオの耳に届いた。
 あともう少しで受け取ってやれただろう、心の内の重い枷を思えば、無念でならずに、見えぬ視線をさまよわせて手探り、声の方へ腕をのばすが、これを取ったのは蛇太夫ではない、堂主である。

「いいんだ、忘れろ。………俺も、忘れる」

 あったのは憎悪ばかりでない。
 唇を喰い破るのではと思われるほど歯を食いしばって、絞り出した堂主の声には、情があった。
 蛇太夫を惜しむ情があった。

 裏切られていたとわかった今でも、取り入るため、己を傀儡にするためだったとわかった今でも、体が冷えてしかたがなかったあの冬の日、お休み下さいと言われて臥せっていたところへ、期待もしていなかったのに運ばれてきたゆず茶の甘い味だとか、一人寝床で咳をしていた、堂の皆が寝静まった朝方に、太陽に弱いはずの蛇太夫が、わざわざ様子を見に来て咳がおさまるまで、側にいた時にかわした、何気ない話だとか。
 これを忘れるという無情、己で手を下したケジメは、なにも、蛇太夫が憎いばかりで下したものではないのだろうと、声色だけで、リクオは感じ取った。

 もしもリクオが生粋の妖怪任侠として、若様として、自分でも何の疑いもなく育ってきたなら、これこそケジメの付け方の一つと断じもしただろう。あるいは、蛇の一匹など、自らの手で簡単に、露払いをしたかもしれない。
 だができなかった、花霞リクオは、それはしてはならない、と感じた。
 それはならない、妖の長い生においても、捨ててしまったものは、なくしてしまったものは、決して戻ってはこないのだから。

「鴆君、でも!」
「いいんだ。耳障りなら、耳を塞げ!おめぇは、今は人間で弱いんだから、あんまり煙を吸うな」
「鴆君!」

 ケホケホと咳をしながらすがりつくリクオを、なかば引きずるようにして、堂主はのしのしと座敷を横切り、蛙番頭が先導して、がらと庭に面する障子を開けはなった。
 そこから庭に出れば、火は追ってこない、そのはずだった。

「こ、これは………」
「………呪いの炎ってのは、こういうことか、くそ、蛇め」

 庭に繋がっているはずの障子であったが、がらりと開いてみると、そこにあった縁側の縁から、逆流する滝のごとく、轟々と音をたてる炎の壁が立ち上っているのだ。
 炎と言うよりも、どろどろと燃え立つ様ときたら、まるで溶岩である。
 蛇太夫の、逃がしてたまるかというすさまじき怨念、そのものだった。

「しかし鴆様、奴はここから脱出しようとしていたのです、探せばきっと、出口が」
「むしろ息の根を止めりゃ、こいつも止まるんじゃねぇのか?」
「これほどの炎、奴一人の力で生み出せるとは思いませぬ。おそらく、取り入っていた三ツ目ヤヅラなどから、あらかじめ与えられていたとか、その線でしょう。だとすると、奴の生死はさほど、関わりありますまい。少しでも、火の回りが遅い方、水場などへ参りましょう」
「ああ。………ありがとよ、蛙番頭」

 この二人の間にも、期待や失望や誤解など、軋轢もあったが、蛙番頭には、これだけで充分だった。
 ほんの一瞬だけ、謝辞をかみしめるように黙ると、「参りましょう」と、自ら先頭にたち、炎の壁に触れぬようにしながら、まだ青白い火がちらちら見え隠れしている程度の板張りの廊下へ、一歩、進む。
 これを堂主も、まだ後ろを気にする様子のリクオを抱えて、追った。
 リクオは何かしら、印を切ったり、真言を口の中で呟いたりもするのだが、手足三方を封じる鎖は強く、何の顕現も無かった。
 しかし、あまりに暴れるからと、病弱らしき咳をするわりには、細身ながらしっかりした体躯の兄貴分に、小脇にかかえられようとしたところで、だめで元々、ヤタガラスの形代を掲げた。
 すると、羽音が響き、いくらかあわてた様子でそれが舞い降りたのである。

『いつもながら、喚ぶのが遅いですよ、リクオさん!』
「いつもながら、一言目はいっつもお小言だよねぇ、ヤタは。……ケホッ。……お願い、出口に行きたいんだ」
『承知しました、お連れしましょう』

 三本足の大烏が、何も無い虚空から舞い降りたとあって、何事かと堂主は驚き、リクオからつい、手を離してしまった。
 しげしげと己を見つめる堂主と蛙番頭を、ヤタガラスは優しい目で背に乗るように誘い、最後にリクオを呼んだが。

『さあリクオさん、……リクオさん?!』

 ついさっきまで、堂主の手元に居たはずの、その姿が無い。
 座敷の中を見渡せば、何ということだろう、僅かに手を離されたその隙に、リクオは呻き声を頼りにして、尚も畳に爪を立てて苦しむ蛇太夫の元へ、まろぶように駆け寄っていたのである。
 涙と鼻水と涎で顔をぐしゃぐしゃにした蛇太夫が、ぜひぜひと毒にやられて喘ぎながら、しきりに、助けてくれ、誰か、助けてくれと虚空へ手を伸ばしているのを、手探りで捜し当て、蛇太夫の方も藁にもすがるような気持ちで、その相手が、つい先ほど、己がまさに殺めようとした相手であることなどわからぬまま、がしりと手を握るや、ひい、ひい、すすり泣くのである。

「バカ、リクオ、そんな奴、放っておけ!」
「ううん、放ってなんておけないよ。お願い、一緒に……」

 リクオに駆け寄ろうとした、堂主。
 それに、己こそが咎人のような顔で許しを請う、リクオ。
 あたりを覆う白煙はますます濃く、そのために彼等は読み違えた。
 火は、まだこの座敷には届いていないように、見えたのである。

 違った。

 言いかけたリクオと、リクオを連れ戻すために引き返した堂主と、二人を引き裂くように、前触れ無く梁が、落ちた。

 大地が真っ二つに裂けた。
 そう思えるほどの大音響、地響き。

 これに巻き込まれて、僅かの間、リクオは落ちていたらしい。

 頬をじりじりと撫でる熱風と、遠くから己を呼ぶ声に、瞼を震わせて目を開けるが、視界はやはり、真っ暗闇のまま。
 身を動かそうとして、ずきりと足が、背が痛む。
 重いものが、下半身にのし掛かっており、手探りでこれが、焼け落ちてきた梁の一部だと知れた。
 幸いなのは、体に落ちてきた梁は、焼け落ちたそれに巻き込まれた軽い木材らしく、炎を纏っていなかったことだ。

「リクオ、おいリクオ、無事か!」
「……ケホッ、ぜ、ん君?……大丈夫?どこ?」
『リクオさん、よかった、無事なのですね、今迎えに行きますから……ッ』

 声が遠い。
 ぱちぱちと炎がはぜる音が先ほどよりも大きく、また、炎をまとわせていた梁が落ちたためか、先ほどよりも、肌に伝わってくる熱が、増していた。
 声がする方向と、慌てた様子の彼等の話から、どうやら座敷の真ん中の、屋根を支えていた梁が一本落ちたらしいと知れた。

 事実、落ちた木材や抜け落ちた屋根に阻まれて、あちらとこちらは、完全に遮断されていた。
 小さく息を吸っただけで、熱風が喉を、肺を焼く。
 たまらず激しく咳をすると、リクオさん、リクオさんと、悲鳴のように己を呼ぶヤタガラスの声が切なく響いた。

 煙の中に長く居るためか、頭の奥が重く痛み、うまく物事も考えられない。
 その中でふと思いついたのは、あれこれ騒ぎが立て続けにあったので、まだこのヤタガラスを祖父に会わせていないなぁと、それだけだった。
 なので、彼が噎せ込みながら、

「ヤタガラス、奴良屋敷へ……」

 そう言ったのは、何も助けを呼ぼうとしてではない。

 己の命があるうちに、彼女が、此の世に仮初めの姿をとどめて居られるうちに、祖父に会わせてやらなくてはという、お門違いの責任感である。
 それでも、ヤタガラスの勘違いはこれを、正しい方向へ導いた。

 なにせ、ヤタガラスただ一羽だけでは、抜け落ちて壁のように崩れた屋根などどうにもできず、同じ座敷だと言うのに回り道すら炎と瓦礫に遮られ、なす術なく狼狽えているしかなかったのだから。
 堂主にしても、蛙番頭にしても、武闘派などとはお世辞にも呼べぬ、非力な妖怪たちだ。

『わかりました、すぐに助けを呼んできますから、気をしっかり持つのですよ!』

 叫ぶように言うが早いか、彼女は側の二人を背に乗せて、風を切り裂くように舞い上がった。
 抜け落ちた天井の隙間を狙って舞い上がると、例のごとく、逆巻く溶岩のような炎が、蛇の鎌首のようにうねって、木の葉のように小さな彼女を一飲みにせんと迫った。
 しかし、彼女が召喚主を救おうとするのは、ただ命令遵守の理屈に従ったそればかりではない、自分自身のいとしきひとと過ごしたいとしき日々、この中で紡がれた縁、その先の、我が子に勝るとも劣らぬいとしい者を、救わんがための使命感だった。
 生前には持ちえなかった翼を勇ましくはばたかせ、紙一重で迫る炎の鎌首をくぐり抜け、ヤタガラスは天高く舞い上がった。

 やがて炎の蛇どもは、彼女が雲に届くほど離れてしまうと、薬鴆堂を沈めんとする炎の海へと、悔しそうに帰っていく。

 薬鴆堂から飛び出した一羽の大烏に、驚いたのは何も、その炎ばかりではない。
 リクオの訪問に先だって、警戒を強めていたカラスたちは、森の梢から飛び立って堂の周囲を飛び回っていたが、群を突き抜けるように一際大きな、羽に白い桜模様の烏が飛び出したとあって、何事かと驚き、群を束ねていたカラス天狗が子、三羽烏もまた同様で、彼等は配下のカラスを数羽、あの大烏を追って行き先を知らせるようにと命じた。
 しかし結局、追いかけたカラスたちをも振り切って、ヤタガラスはその勢いのまま、奴良屋敷の中へと飛び込むこととなった。

 あまりの勢いだったので、閉じられていた木戸へ体当たりし、次の襖にもぶち当たって、中へ横倒しにした挙げ句、背に乗せた二人を部屋に放り投げた上に自分もまたころりと転がったほど。
 天高く舞い上がり、急降下、急旋回、宙返り、ありとあらゆる飛行の後だったので、放り出された二人はすっかり目を回しており、また、彼女も受け身をとり損ねて可愛らしい悲鳴をあげた。
 これを、目を見開いて見つめていたのは、飛び込んだ部屋の主、初代ぬらりひょん、その人だった。

 己の妻をまつる仏壇に手を合わせ、孫の回復を祈っていた初代は、己の後ろに転がり込んできた奇妙な客人たちに、彼らがぶち破った戸や、ヤタガラスが毟った畳の痕などに目をむいたが、何より、きゃんとヤタガラスがあげた悲鳴が、なにやらどこかで聞いた気がする声だったので、これは何事かと、誰何の言葉も忘れて見入った。
 すると、あちらの方からやおら起きあがり、乱れた羽もそのままに、きょりと部屋を見回した先、初代の姿を見つけるや、例の聞き覚えのある声で、

『あ、あ、妖様………!』

 なんとも懐かしい名で、呼びかけてくるではないか。

 これはどういった事かと、初代も流石に目をむいた。
 本当にお前なのか、何故ここへ、どうして。
 問いたいことは山ほどあるのに、口から出てこないうち、その大烏はさらに初代にいざり寄り、慌てた様子でこう言うのだ。

『お前さま、リクオが、リクオが……ッ!』

 彼女が背負ってきた妖怪二人を見れば、見覚えのある顔、しかもそれが顔も着物も煤けた様子。
 加えて、丁度そのとき、三羽烏から連絡を受けたカラス天狗が、小さな背の羽をばたつかせ、両手で携帯電話を捧げ持ちながら、

「初代、一大事でございます、薬鴆堂が、薬鴆堂が ――― !」

 飛び込んできたのだ。

 これを聞いて、大烏は己が告げたいことがこの御方に伝わると安堵したのだろう、淡い光を纏わせて、初代の前からすうと消えていくではないか。
 間際、烏の輪郭を描いていたものがぼやけ、一人の可憐な少女の姿を模ると、初代へ哀しそうに微笑み、そして、消えた。

「 ――― まさか、お珱、お前はリクオの式か?……するってぇと、消えちまったのは ――― 」

 初代の顔色が、変わった。