「水だ!もっと水をまけ!ええい、なまけるなッ!もっと雨雲を呼べ、こんな小雨ではまったく足りぬ!」
「忌々しい炎よ。俺達を嘲笑っているようだ」
「現に嘲笑っているのだろうよ、見ろ、トサカ丸、これほど風があるのに、周囲の木々に燃え移る様子も無い。ただの炎ではない、どこもかしこも蛇の怨念の炎だ、狙ったものしか焼かず、しかし狙ったものは決して逃がさぬ」
「ならば、若は ――― 」

 三羽烏は辺りのカラスたちを纏め上げ、雨雲を呼んだ。
 瞬く間、夏の夜に降り出した雨は、皆の羽を黒々と濡らし、大地を穿ってあちこちに水溜りをこさえたが、薬鴆堂を覆う炎に、衰えは見られない。

 ささ美はさらに鞭をふるってカラスたちを使役し、自らも風を呼んで、カラスたちに襲い掛かろうとする炎の蛇の鎌首を切り落とし、炎の子蛇の群れを振り払いするのだが、もうとっくに日が変わったというのに、いっこうに炎は衰えぬのだ。
 屋敷の屋根は崩れ、壁は焼け落ち、ほとんど骨組みばかりが残っている状況であるというのに、その骨組みすら跡形も無く喰らってしまうつもりなのかと思うほど。だというのに、中から出てくる者は無い。

「ほとんどの者は出払うように企まれていたのだろう。あらかじめここは、若を葬るために仕組まれた場所だったのだ。クソ、中にさえ入れたなら ――― !」

 黒羽丸が、屋敷を睨みあげ、ぎちり、唇を噛んだ。

 彼が屋敷へ飛び込もうと、しなかったはずはない。
 炎が一瞬にして屋敷を囲んだその瞬間、屋敷を見張っていた黒羽丸は、すぐに若様を救うために、屋敷へ飛び込もうとした。
 しかし、入れない。
 門からであろうが、上空からであろうが、見えない膜が屋敷を覆っているかのように、もがけどもがけど、前へ進めない。
 そうするうちに、屋敷の炎の方はこちらへ腕を伸ばせるらしく、ばっくりと開いた口で黒羽丸を飲み込もうとしたので、危ういところで、トサカ丸が横から兄の体をさらった。

「怨念の炎だとしたなら、この炎、若を飲み込むまで消えはせぬ。逆に言えば兄者、消えるまでは若はご無事だということだ」
「それまでに何とか、炎を消さねば。しかし、どうやって」
「 ――― いんやぁ、こりゃあ消えねぇわ」

 誰がこのような不届きを言うのかと、黒羽丸は振り返り、そこで、はっとした。
 いつの間に現れたのか、いや、神出鬼没はこの御方の性質であるので当然なのだが、今は少数ながら手勢をどろりと率いて立っていたのは、奴良組二代目その人である。
 一人息子の一大事なのだから、駆けつけて当然だ。
 見れば、隣には初代の姿もある。

「も、申し訳ございません、総大将。この失態は、死んでお詫びを……!」
「蜂の一刺しとか言うだろ?小物と言えど、最後の大業ってのは、なかなか厄介なもんなのよ。黒羽丸、お前の責任じゃねぇってことさ」

 まるで他人事のように、顎を撫でて首を捻っているのは二代目ばかり。
 隣の初代はさっそく門から入れぬものかと、ぬらり、足を踏み入れようとして、垣根を燃やしていた子蛇にかぷりと爪先をやられ、青田坊黒田坊は特攻隊長の名の通り、「若ぁ!」と叫びながらやはり屋敷へ向かって突進したが、見えない壁に跳ね返されて、五間ほども吹っ飛ばされた。
 他にも、毛倡妓や首無、本家から連れてきた者どもは、飛び交うカラスたちを手伝って、近場の沢から水を運んだり、ぐるりと屋敷の周囲をまわって、入れそうな場所を探すのだが、どうにもならない。

 今や炎は、屋敷をぐるりと囲んでとぐろを巻く、一匹の大蛇となって、ちろちろと炎の舌を出しながら、二代目を見下ろしているのだった。

 周囲の者どもが騒いでいる間、初代すら追い返す炎の呪いを睨みつけていた二代目だが、その横を、雪女がふらふらとした足取りで、屋敷へ近づいていくのは、その前に腕を突き出して、止めた。

「あんまり近づくな、雪女。お前じゃひとたまりもねぇ。相性最悪な相手なのは、お前だってわかるだろ?」
「……でも、……でも、二代目、私、行かなくちゃならないんです」

 雪女は、笑った。涙など、無かった。

 今年初めての雪が降ったとはしゃぐ娘のように、なんとも嬉しそうに、笑った。

「かくれんぼは苦手なんですけど、それでも私、行かなくちゃならないんです」
「この炎はな、ぬらりひょんでも入れねぇ、封じの結界で守られてる。中からてめぇで出てくる分にゃ、あの蛇をかいくぐればできるかもしれんが、中に入るのは容易じゃあねえ」
「それでも」
「行く、ってかい」
「はい」
「言い出したらきかねぇからなァ、つららちゃんは」
「はい」
「なんで嬉しそうなのか、訊いてもいいかい」
「だって、リクオさまはここに居るんですよね。ちゃんと、ここに居るんですよね?……だったら、探せるじゃないですか。見つけられるじゃないですか。どこを探したらいいのかもわからなかった、生きているかどうかもわからなかったのを思えば、なんでもありません。炎が消えるまでは、生きているのでしょう?……良かった。あのひとは、まだ、息をして、待っていてくれてるってことですもの」
「……違いねぇ。よし、じゃあ、頼むか。ちょいと、待ってな」

 初代も、また奴良組の大物妖怪たちも跳ね返された結界の中へ、二代目もまた腕をぬうと伸ばした。
 炎の輪のようになった門の中へ伸ばされた腕は、これもやんわり跳ね返されるかと思われたが、

 ――― バチ、バチバチバチ、バチィッ ―――

 激しく火花を散らしながら、腕は、何も無い中空で袖を切り裂かれ、肌が現れ、肉を切り刻まれていくのに、二代目は顔色一つ変えず、尚も、川に泳ぐ魚を追うかのような手つきで、この辺かな、いやこっちかな、などと呟きながら、何かを探している。
 うろうろと、その辺りを腕は彷徨い、川底の玉を探し当てたかのように、ぐ、と拳を握った。

 バチ、バチ、バチバチバチ ――― ッ

 火花がさらに散る。
 二代目が差し込んだ腕を中心に、七色の光が集り、同時に周囲から禍々しい黒い蛇の怨念が集って、互いに拮抗しては、容赦なくさらに彼の腕を蝕んだ。
 中へ入ろうとしてこなかったので、目こぼししていた炎の蛇だが、二代目の様子に結界の危うきを知ったらしい、ぞぞりと鎌首をもたげ、屋根瓦からいっせいに何十何百の子蛇どもがシュウシュウと呪いの息吹を吐きながら襲い掛からんとしたが。
 へらりと笑っていた二代目が、ぎろり、と、一睨みしただけで、近づきすぎた者は霧散し、そうでない者はその場で石になりやはり風化し、最後の者はびくりと体を震わせて、これはたまらぬと逃げ出した。

 バチバチバチバチバチ ――― バチィッッ、ブチブチブチブチブチ ――― ッ

 握った拳を、ゆっくりと体の方へ引き寄せると、網を破くような音が響いて、透明な膜が、ぶちり、ぶちりと破けていく。
 屋敷を覆っていた呪いの結界の一部に、ぽかりと穴が開いた。

「相変わらず、なんちゅー馬鹿力じゃ」

 あらゆる言霊も受け付けず、神仏の加護をもってしても解けるかどうかの呪いの結界を、一部とは言え、何でもないことのように破ってしまった二代目を、呆れたように初代は評する。
 大妖であったとしても、神仏に届くほどの力を持つ妖など、そうはない。
 リクオが降ろした帝釈天と阿修羅入り千手を相手に、「痛かった」で済ませたのは、二代目の痩せ我慢でもなんでもなく、底知れぬ力によるものだった。

 もっとも、その力をもってしても、破けた結界が再び外を拒むために、穴を縫い合わせていくのを、遮ることはかなわない。
 腕一本を突き入れて破ったところへ、今度は肩を、次に足をと、開いた扉を閉じさせぬよう、自らの体をつっかえ棒にするのがせいぜいだ。
 身を切り刻まれ、彼の背を見つめる側近たちが、ぞくりとするほどの鬼気を放ち、それでも二代目は、あの猫のような顔で、へらり、と笑う。

「ほれ、行ってやってくれ、氷麗。リクオを、頼むよ」
「はい!」

 袖を襷がけに、氷の長刀を構えて、雪女は炎の屋敷へと飛び込んだ。
 炎への恐怖なぞ感じさせぬ、かろやかな足取り、氷の息吹をふうと吐いてこれに乗り、前を遮った子蛇たちを長刀で払い、奥へ奥へと駆けていく彼女の姿を、巻き上がる黒煙が隠し。
 二代目も、そこまでだった。
 身の半分を外も内も結界に切り刻まれ、顔を歪めると、ぺいと外へ吹っ飛ばされ、そこで、気を失った。



+++



 燃え上がる屋敷の中、炎の大蛇があちこちでとぐろを巻いている中を、雪女は口元を袖で隠しながらひた走る。
 足元を焦がして己の体が煙を上げようとも、突如落ちて来た梁が、目の前を遮る炎の壁となろうとも、その先にリクオの気配を感じれば、渾身の力を込めて氷の息吹を吹きかけ、氷の薙刀で打ち破り、また駆けた。

「リクオ様!リクオ様、どこです!返事を ――― ケホッ、ケホケホッ……お願い、リクオ様!」

 声を上げれば、灼熱の空気が喉を焼く。
 にも関わらず、雪女は叫びながら、灼熱の炎の中を探し続ける。

 恐怖はある。炎へのものではない。
 そんなものよりも、この炎に焼かれて、彼が失われてしまうのではないかと、そちらの恐怖の方が勝った。
 かつて十年前に、喉を枯らして涙を流しながら一晩中、奴良屋敷の中や庭や、側の林や河原や、愛しい守子の気配など微塵も感じない場所で同じように叫んでいたことを思えば、炎の中くらいがなんだと思えた。
 この炎の屋敷の中、すぐ側に、あの子の、あのひとの気配がする。
 それは確かなのだ。
 だったら、必ず見つけて見せる。
 艶めく黒髪が炎で焼け切れても、舞い飛ぶ火の粉が頬を手を着物の袖を焼け焦がしても、どんな小さな手がかりも見逃すものかと見開いた眼に、炎で弾け飛んだ木端が飛び込んで片目が使い物にならなくなっても、それでも雪女は悲鳴一つ上げなかった。
 悲鳴を上げる暇があれば、彼の名を呼んだ。
 取り乱す暇があれば、彼の気配を全身で探った。

 薬鴆堂はそう広くは無い。
 呪いの炎で焼け落ちた門から二代目の力を借りて飛び込み、駆け込んだ堂の玄関も、診察に使う広間や手水場、台所を一通り見やり、本命の客間へ駆け込んだ雪女は、そこでリクオの姿が見つかるものとばかり思っていたが、中を覗いて眉を寄せた。
 襖を開くと、中から膨れ上がった炎は大きな手の形をして、雪女を威嚇するように包み込もうとしたのである。意志を持っているらしき炎の手は、この屋敷に火をかけ、リクオを亡き者にしようと企んだ蛇太夫の、下卑た怨念の炎に違いなかった。
 人の手の平に舞い落ちた雪のように、彼女もまた炎の手の中で、露と消えるかと思われたが、

「下がりなさい、下がれ、下がらないか!ええい、下衆が使う炎風情が、汚らわしい、私に手をかけるな!」

 そうはならなかった。
 彼女はあろうことか己を阻む炎の手を、怯むどころか凛と睨みつけて怒鳴りつけ、思わず炎の手がびくりと怯んだどころへ、ふううと肺の奥から息吹を吹きかけ、炎を炎の形のまま、透明な氷の壁の中へ閉じ込めてしまったのである。
 私利私欲の塊が生み出した呪いの炎など、今の彼女にとって恐れる相手ではなかった。
 むしろこうした業を哀しみ、別け隔てなく己を分け与えてしまうだろう彼の方こそが、彼女は心配で、おそろそく心配で、仕方が無かった。

 きっと今も、誰を恨むことなく、たった一人で、この炎に命を啄ばまれるままにしているのだろうと思えば、身の毛がよだつ想いだった。

 炎を閉じ込めた氷の壁を打ち破り、中へと分け入った雪女は、炎が舐めるように這い回り炎上する屏風の向こう側に、倒れるリクオを見つけほっとしたのも束の間、回りこんで彼の姿を全て認めたときに、息を呑んだ。
 倒れるリクオに覆いかぶさるように、棚や焼け落ちた梁が覆い重なり、リクオはその下で、目を閉じていたのである。

「リクオ様 ――― リクオ様、そんな……嘘、いや、こんなの……」

 へたりと座り込み、恐る恐る煤けた頬に手を伸ばすと、リクオの頬がひくりと引き攣る。
 氷の指先に、炎の熱だけではない、命宿す者のあたたかさが確かに伝わってきて、雪女は誰にともなく、嗚呼と心で叫んだ。

 あの日から見失っていた。泣き叫んで探した。けれど見つけられなかった。
 見つけてくれて嬉しかったと彼は笑ったが、いいや、見つけられはしなかった。
 けれど今、ようやく、己の目で、己の手で。

「よかった、リクオ様。よかった、生きていらして下さって、本当に」
「………つら、ら?」

 ほんの数日のことなのに、彼の声が己を呼ぶなど、何年も絶えてなかったように思われて、これだけでも雪女は、炎の熱さを忘れ、天にも昇る心地だ。
 炎に炙られ煤けた頬を、脂汗が出てくる額を払い、それでも、彼女は笑った。

「はい、つららです。もう大丈夫ですよ。今、お助けしますから。にしても、これじゃあ、私一人で退けるのは無理かもしれません。持ち上げてみますから、這い出てくださいな、リクオ様」
「………つらら、無理だよ」
「何を馬鹿なこと仰せです、いいから黙って言うことをきいて」
「そうじゃなくて……足、鎖が絡まっちゃって、出られないんだ、ここから」
「なんですって?!」

 慌てて、梁が覆いかぶさる足元を覗いてみれば、なにやら物騒な鎖が足首から伸びて、落ちた梁が杭のごとく、畳に沈めている。
 リクオを逃すためには覆いかぶさった全てのものを退かせる必要があるだろう。

「妖力と術封じの枷だよ」

 長く煙を吸い込んでいたのだろう、それだけ言うと、けほけほと咳き込む。
 明王変化はできない。その上、術まで封じられては、リクオはまるで無力だ。
 こんな事をした蛇太夫め、見つけ出したなら腸を抉り出してやると、氷点下の怒りで満ち満ちていた雪女の前に、リクオは、胸元に大事に仕舞っていたものを、宝物のように捧げ持って見せるのだった。
 気を失って、目を回した小蛇だった。
 一瞬それが何かわからなかった雪女は、託されるままに受け取ってしまってから、その正体をにわかに悟って打ち震えた。

 誰あろう、それは蛇太夫に違いなかった。
 短命の薬鴆堂の主に取り入り、先代の主を闇に葬るばかりか、古参幹部どもに取り入り自らが幹部面で様々なことを画策し、二代目が妻と子を陥れた者どもを問答無用で斬り捨てていると知ってからは、胆の小ささから、己の顔を憶えているに違いないリクオの口を封じようとして、こうして薬鴆堂に強引に招き、火をかけたに違いないのに、それをどうして、彼が庇っているのか。

 どうして?愚問である。
 答えがわかっていても、言わずにはいられなかった。

「何故 ――― 何故、こんな奴を助けたのです」

 やはり、思ったとおりの笑みを浮かべて、思ったとおりの答えを、リクオは言うのだった。

「だって、助けてって、言うから」

 つまり彼女のいとし子は、彼女のいとしい男は、そういう風に育ってしまったのだ。
 彼女との小指の約束通り、優しすぎるほどに優しく。哀しいほどに強く。

「お願いがあるんだ。彼を外まで連れて行ってあげて ――― 」
「承知しました。リクオ様をお助けしたら、そう致します」

 そうであったとしても、雪女には彼の言うがまま、彼の命を諦めることも、彼の優しさに殉じて、甘んじて死を受け入れるも、どちらも御免であるのだった。
 梁が折り重なるのは、人の女ならばどう足掻いても持ち上げられはしないだろうが、彼女は氷雪纏う雪女だ、いついかなる時でも瞬時に氷塊を作り上げてしまう。今も、少々骨が折れるがやってみようと、まずはふううとそこらに霜を下ろしてから、畳から霜を生やして持ち上げてみようとした。
 これはなかなか上手くいくように思えたが、炎は無慈悲に荒ぶる大蛇のように、迫って来る。
 この部屋を舐めていた炎の手のような呪いが、あちらで屋根を破り、こちらで壁を壊しむしゃむしゃと喰らい尽くす音が、羽音のように近づいてきたかと思うや否や、天井に火が廻った。

 つらら、と、リクオが焦ったように呼んだ。
 大丈夫です、と、雪女はしっかと頷いた。己を呼んだ、それ以上の彼の言葉は、耳に入らなかった。
 入れる必要などなかった。入れたくなどなかった。

 雪女は霜で持ち上がった箪笥の隙間に手を入れて、リクオの足首に絡みつく呪いの鎖を氷点下よりもさらに冷たく凍えさせて砕いてしまおうと考えるのだが、この鎖が帯びる呪いは、触れようとすると牙を剥いて来る。
 それでも彼女は鎖を掴み、離すまいとするが、彼女の袖を飢えた狼のように呪いが喰らい尽くし、両腕からぼたぼたと氷の血を迸らせる頃、血のにおいを嗅いだリクオが、悲鳴のように叫んだ。

「 ――― つらら!もういい、いいから、早く逃げて!」

 先ほどからこれだけを、リクオは叫び続けている。
 大丈夫です。と、同じように、雪女は答えた。

 いまだ目の見えぬ彼を、宥めるように時折、髪を梳いてやりながら、もう片方の手で掴んだ鎖を離さず、己の冷気を極限まで高めて送り込む。
 辺りはもはや、一面が炎の海だ。
 雪女の全身から、白い帯のように煙が立ち上る。
 手の先へと冷気を集中させているために、体の他の部位まで気が回らず、どろりと足首が溶けて落ちたような気がしたが、彼女は構わない。
 意識は既に朦朧としていて、痛みなど感じない。

「つらら、お願いだから、つらら、逃げて、逃げてったら!」

 ひたすら、鎖を掴む手だけに集中し、己が何を見ているのかもわからなくなって、視界がぼんやり暗くなってきたころ、おかしくなって、ふふりと笑った。

「逃げられるわけ、ないでしょうに。だって立場が逆だったら、きっと私がそう言っても、アンタ、絶対逃げちゃくれないでしょう?」
「つらら ――― 」
「ねぇリクオ様。私ね、好きなんです」
「え」
「アンタのことが、たまらなく好き。かわいい子で、いとしいひとで、そんな男を炎の中に置いて、一人逃げられると思いますか?」
「だって ――― つららは、牛頭丸と……?」
「それを聞いて妬いてもくれなかったの?酷いひと。私には最初から貴方だけ。アンタだけ」

 迫る炎の音が、遠くなったような気がした。

 リクオの唇が何かを言いかけて、やめて、やはり言いかけて、今一度考え、最後に意を決したように己の本心を吐露する。
 迫る炎に急かされるように、墓まで持っていくはずだった彼の恋情を、独占欲を、嫉妬を、かき集めてようやく形になった。

「 ――― ボクは ――― ボクは、つららを、見てみたかった。もう一度、陽の、下で」
「ねぇ、それだけ?それだけで、いいの?」
「ボクは ――― でも ――― それ以上は ――― 怖いよ」
「怖い?」
「最初は守るだけでよかったのに。守れただけで、よかったと思えたのに。今は、陽の下でつららを見たいと思ってる。自分の目を開けたいって、思ってる。きっと次は、触れたいと思う。最初は指一本でも、それが叶ったら、きっと頬に触れたいと思うに決まってる」

 満ちていく月がごとくに貪欲な、己の果てない欲、執着。その中にこの美しいひとを囚えてしまうような気がして、だからこそリクオは、ここまでだと判じた。己の目が開かなかったのは、見てはいけないものを、望んではならぬものを、見なくても良いように、望まなくとも良いように、心乱すことの無いようにという、思し召しであったに違いない。
 だからここから、雪女は逃げるべきなのだ。
 己から、雪女を逃がさなくてはならないのだ。

 必死に、炎から、己から、逃げてと叫ぶリクオの口を唐突に、冷たくやわらかなそれが、塞いだ。
 言葉も叫びも飲み込まれ、唇を啄ばまれ甘露を含ませられる感触に、リクオは声を失う。

 くすりと、可愛らしい声が、無明の世界に響く。
 光の在り処を報せる、小鳥のように。

「それから?」
「それから、って ――― 」
「ねえ、続きは?次は、何を望んで下さるの?どんな我侭を、聞かせて下さるの?」
「 ――― 」
「私はね、リクオ様、貴方のことが好きで好きでたまらないんです。もしかしたら、この炎の中で、焼けるか溶けるかして死んでしまうかもしれないっていうのに、私、今、嬉しくて嬉しくて、たまらないんです。
 だってようやく、ようやくリクオ様を見つけられたんですもの。
 ようやく、アンタの声が、聞こえたんですもの」

 がらがらと、遠くから天井が焼け落ちる音が、近づいて来る。
 間もなくこの部屋も全て焼け落ち、二人はその下に埋まるだろう。
 だというのに、雪女は今や全身に炎を纏わせて、リクオを守るように片腕に包み込み、尚も片手はリクオを戒める呪いの鎖を引きちぎらんとしているのだ。あるいは最早朦朧として、自分が何を掴んでいるのかも、はきとは理解していないのかもしれない。





「ねぇ、リクオ様。十年前のあの日から、ずうっと、ずうっと、お探ししていたんですよ。
 今、ようやく、見つけました。
 嗚呼、私ってば、本当に、かくれんぼは苦手ですねぇ。こんなに遅くなってしまいました。
 ……リクオ様、見ぃつけた……」





 がらがら、がら、部屋に炎が満ちる。
 彼女の手が、最後に優しくリクオの髪を梳いて、はたりと落ちた、その時。

 リクオの足首を戒めていた呪いの鎖に、ぴしりと、亀裂が入った。

 がら、がら、がら。

 焼け落ちる屋根は、彼等二人を覆い隠すまで降り続くかと思われた。
 しかし、これを下から睨みつけたのは、見えぬはずの両眼を開いた、リクオその人だった。

 気を失った雪女を腕に抱き、獣のように吼えた。
 己を戒める鎖も己の上に折り重なった棚や梁も、全て巻いた風に絡め取るかのように吹き飛ばして、さらには覆いかぶさるはずだった燃え立つ天井にすらそれを許さず、襲い来る呪いの炎、あちこちから幾つも幾つも伸ばされる手の形の炎を、己の周囲に舞い起こした青白き清浄なる炎で跳ね返す。
 呪いの炎はこれに触れると、たちまち桜の花弁に覆われ力を失って、やがて風がさらって消えてしまった。




 東の空が、桜色に染まる。

 炎の夜が明けて、静寂の朝が、訪れた。

 太陽の下、焼け落ちた薬鴆堂の中で、雪女は目を覚ました。
 誰かの腕の中に居る。少し華奢な、少年のようである。



「リクオ様……?」



 己等は、屋敷の下敷きになって、死んだのではないのか。
 力が入らぬ体を、それでも彼に預けていてはならぬ、彼もまだ、ようやく立てるようになったばかりなのだからと、体を叱咤して、身を離そうとしたところで、ぐいと抱き寄せられた。

 その人を見ると、昼の間のお優しい笑みを浮かべていながら、髪は首筋までを覆うほどの長さのまま銀色に、瞳は紅に変じておられる。
 腕にはまだ、封印の枷をひっかけたままだというのに、尚も余りある濃紫の妖気を霞みのように纏い、崩れ落ちてきた屋根瓦や柱ごと、一晩にわたって執拗に屋敷を舐めた呪いの炎を、独鈷杵の杖で払ってしまった力強さも、その姿も、まるで明王姿のそれだ。
 けれども、微笑んだ優しい面立ちや背丈などは、陽の下で見せる如来姿の、それだ。

 昼と夜とが溶け合った、神々しくお美しいその姿で眩しそうに目を細めて、己の顔を見つめてこられるので、そこで雪女も、朦朧としていた意識が、戻って来る。

 リクオを探していた間に、炎に焼けた片目が、じんじんとしていて痛い。
 最後まで呪いの鎖を掴んでいた片腕は、言うことを利かず肩からぶら下がっているだけのようだ。
 足元にいたっては、きちんと人間の姿をしているかどうかすら怪しい。
 きっと今己は、ひどく醜い姿をしているに違いない。

 恥じ入って、両袖で顔を隠してしまおうとするが、その前にそっと、ほつれた髪を撫で付けられ、



「ようやくお前を、陽の下で見られた」



 ぽつり、呟かれてしまったので、嗚呼見られてしまった、思うともう、このままいっそ溶けてしまいたかった。

「なんて、綺麗なんだろう」
「やめて下さい、自分が見られた顔をしていないなんて、よくわかってるんですから」
「ううん、本当に、本当に綺麗だよ、つらら」

 笑おうとして、失敗したのか、くしゃりと歪ませると、今度はしゃくりあげるように一つ息を吸い込んで、雪女の肩口に、己の顔を深く埋めてしまう。
 泣いているようである、どうしたのかと、己の傷の痛みも忘れて、雪女が彼を宥めようとしていると、耳元で小さく、彼が呟く声が、聞こえた。










「 ――― ボクは ――― 誰かを幸せになんて、できる自信、ないよ」










 弱々しく震えるこの声を、一体今まで、誰が聞いただろう。



「つららを、守りたい。つららに、幸せになってほしい。けど、ボクの側は、危ない。
 ボクは ――― ボクの手は、何かを守れるほど、強くないんだ」



 誰より優しい手の持ち主が、今もまた、己のために傷つけてしまった女を腕の中に抱き締めながら、焼け爛れた雪女の目のあたりを、触れぬように、優しく髪などを払いながら、はらり、はらりと涙を流す。
 強くあろうとして、優しくあろうとして、押し殺し、己の中の惑いとして飼い慣らしてきた、己の弱さを、涙と同時に吐露しながら、しかし雪女を抱き締める腕を、緩めはせずに。



「強くなれなかった。約束したのに、強くなれなかった。せめて、優しく、ありたかった。
 だけど、つらら、つららを、幸せになんてできないってわかってるのに。
 今ここで、こんな事、言うの、すごくすごく卑怯だって、わかってるのに。
 優しくないって、わかってるのに ――― それでも、ボクは、」



 弱い幼子がすがってくるような、相手を慮る優しさを全て捨ててしまったような、抱き締めてくる腕の力強さが、雪女は眩暈がするほど嬉しくて、それだけでも、目を細めてうっとりとしてしまったほどだと言うのに、










「 ――― オレは、お前を望んでも、良いのだろうか」










 己のためには何も望まぬ、全ての執着を断ち切ったはずのそのひとが、耳元で罪を求める甘さときたら、例えようもなかった。
 天上の庭にあると言われる仙桃の甘露すら、これほど甘いものではないはずだ。
 他の誰がこんな、甘い、甘い、睦言を彼女に囁けたろう。
 長い生に数多くの《虜》をもうけ、己を褒め称え欲してみよと命じたところで、これほど心が溢れそうな想いは、決してなかったろう。





 嫉妬でも、焦燥でも、寂寥でもなく、あったのは、渇望、それだけだ。





 言葉の余韻がその場で甘やかな花となって、かぐわしい香を漂わせるのを、雪女は確かに視認した。

 炎にまかれてよく見えぬ視界ではあったのに、与えられた睦言が己の内側から次々と、己を形作る力を呼び起こし、途端に目の前がすっきりとした。
 これは気のせいではなく、溶けて失われてしまったらしき爪先も、呪いの鎖を掴んでからよく動かせなかった片腕も、火の粉が飛んで醜く爛れてしまっていた片目も、傷などまるでなかったかのように、彼女は愛しい男の腕の中、たった今、新雪として生まれ出でたかのようであった。
 初めての《虜》が稀なほど強大な力の持ち主で、さらには彼女の生涯において只一人の男でもあったことから互いの心が結ばれ、彼女の姿を形作る魂が、ひょいと数段上のところへ、引張り上げられたようなものだった。
 どうだろうか、体のどこにももう痛みなどなく、ふわと浮いてしまいそうなほど軽い。
 いつもなら今時期は、昼夜問わず暑気を払うのに苦労するのに、むしろ、ふわりと撫でていった風が、心地良い涼風と感じられるほど。

 体を形作る氷雪の一つ一つが、生まれ変わったような、作りかえられてしまったような、ともかく身も心も満たされている。
 満たしているのは、リクオの言葉と、渇望だ。
 望まれる度合いが大きければ大きいほど、彼女の器もまた大きくなる。
 魂も姿も、注がれる情に応じて、格を上げる。

 近代に生まれたばかりの氷雪の娘なので、彼女は己の変化に瞬時、戸惑う。
 何が起こったのかわからぬまま、やがてそれよりも敏感になった感覚が、リクオの渇望を甘い花の香りに例えて運んでくるので、彼女は甘く漂う花の香りを味わうように目を細め、誘うように唇をすぼめて楽しむ。

 あまりにその花の香が奥ゆかしいに過ぎたので、今度はこの花の名を、問うてみるのである。
 泣きじゃくる彼の髪を、優しく梳いてやりながら、もっとその香を与えてくださいませと、誘うのだ。



「私を幸せにもできず、守れもしない殿方は、私を手に入れてどうなさるおつもりなのでしょう?」



 少し意地悪な質問をして、くすりと笑う。



 大事ないとしいひとだから、雪女はすぐにでも己の身を捧げてしまいたいのだけれど、同時に彼は、己を渇望する虜でもあるから、これまでたっぷりとやきもきさせられた分、ちょっぴりだけ余分に、甘い実が欲しい。
 そんな彼女の心の内を知ってか知らずか、少し慌てた様子で、彼は必死に、彼女を口説こうとするのだ。

 真言ばかりに熱心で、口説き文句の一つも学んでこなかったくせに、たどたどしく、けれど雪女にとっては充分な色香を伴って。

「大事にする。すごくすごく、大事にする」
「と、申されましても、籠の鳥は嫌ですよ。つららは、あちこちに舞い降りる、自由な雪の女です」
「行きたいところがあったら、一緒に行く。ずっと側に居る」
「一緒に歩いて下さるときは、手をつないでくださいますか?こんな冷たい手は、お嫌いじゃないですか?」
「ううん、つららの手は、綺麗で、すべらかで ――― 握ったら壊れちゃうんじゃないかって思うけど、でも、すごく好きだよ。大事に、大事に、手をつなぐよ」
「でもつららは、リクオ様が嫌がることはしたくありません。こんな冷たい肌ですから、リクオ様が我慢しておられるのかどうなのかが、わかりません。リクオ様はなんでもかんでも我慢なさっておしまいですから、もしもつららのせいでお風邪など召されてしまったら、きっとつららは、すごく傷つきます」
「……寒いなって思ったら、ちゃんと言うようにする」
「寒い日に食べたいものも、ちゃんと仰ってくださいます?」
「うん。言う。……湯豆腐は好き。でも、生姜は苦くてホントは嫌い」
「お布団に湯たんぽを入れたいときは、私に遠慮なされず、ちゃんと仰って下さいます?約束してくださいますか?」
「うん。……十一月になると、床冷えして寒くなるんだ。茶釜狸はいつも、十二月頃から用意してくれるんだけど、ボク、寒がりみたいで」
「わかりました。憶えておきますね」

 知らなかった色々なこと、知りたかった色々なこと、きっと自分だけが知ってしまった、彼のちょっとした、望み。

 その最たるものが己であることを、彼の中にある己への渇望を感じると、雪女は嬉しさのあまり、もうこらえきれない。
 当然だ、彼女は慕う男に向けられた関心が何よりの力の源。
 何にも執着が無いと思われていた愛しいひとが、可愛い子が、これほどまでの渇望の種を、そっと隠していたのだから。
 渇いているのなら注いで満たせばいい。

 もしも、いくら注いでも満ちることがないほどの渇望なら、ずうっとずうっと、際限なく愛していられるではないか。
 流れ落ちる滝のように、流れ行く川のように、絶えることなく、淀むことなく。

 自分からリクオの首に手を回して、もうすっかり傷みなど吹き飛んでしまい、朝陽を受けた新雪のように輝くおもてを、そっとリクオの頬に寄せた。
 炎が撫でて煤けたリクオの頬を宥めるように、桜色の爪先の指で頬を撫でてやりながら、甘い香りのする吐息に、睦言をのせた。

「ふふふっ、それってリクオ様、私にだけは、ちゃんと、全部、聞かせてくれるってことですよね?
 今みたいに、こっそりでいいですから、つららに我侭を耳打ちして下さるって、そういうことですよね?
 でしたら、私は、雪女のつららは、とてもとても幸せに違いないですよ。リクオ様が、神にも仏にも預けなかった苦しみも、辛さも、哀しみも、全部つららには預けて下さるって、そういうことですもの。全部、全部、聞かせてくださいませな。全部、全部、リクオ様が隠していたものを全部、こっそり、庚申の夜の毘沙門様さえ聞きこぼしてしまうような小さな声なら、誰にもきっとわかりませんから、全部、教えてくださいな。
 ねえリクオ様、知らないんですか、それは私にとって、無上の幸せなんですよ。
 私はその分だけ、リクオ様を独り占めできるんですもの。
 ――― それで、リクオ様は、私を望まれたら、それで少しでも慰められますか?痛みは、苦しみは、和らぎますか?」



 手を伸ばして良いのか、いまだにおっかなびっくり、指先を伸ばそうか伸ばすまいか判じかねている様子のリクオときたら、雪女の柔らかな手に頬を包まれ、互いの唇がもう少しで触れ合うというところまで顔を近づけられても、涙の痕もそのままである。
 けれど、雪女が真摯に問うてくると、これを受けて、こっくりと頷いた。

 無垢に素直に、天から降ってきた真綿を指先で受ける、子供のように笑って。



「ボクね、一つだけ、自信があるんだ。氷麗が側にいてくれたなら、ボクは絶対に、幸せになれると思うよ」





















一昔前に追われた屋敷には 既に己の居場所はなかろうと
覚悟しながら赴いた花霞リクオを
優しく迎えたのは 魑魅魍魎の主にして
変わらぬ祖父 変わらぬ父 力強い腕 あたたかな背


母を最後の妻と呼ぶ父に
迷惑半分 怒り半分 嬉しさ小匙一杯
兎にも角にもこの時から 京都守護職 花霞は京の主

東の奴良組 西の花霞と呼ばわれるまでの 第一歩にして
噂先行型の一組の男女 花霞大将とその伴侶にとっては
夫婦の絆の 第一歩


訪れた嵐の先鋒は 鞍馬山に古くから住まう大天狗
告げられた神器の謎 あらたに京都を覆う暗雲
やがて訪れる狂気を語るは また次の機会として

花霞大将がその生涯でただひとつ 自ら望んだという 雪の天花へ
もどかしくも指をのばすまでのあらまし


まずは ここまで















...三千世界の鴉を殺せ...

<東女に京男編・了>