とろりとした闇が、手で掬えそうなほどに濃い、夜だ。
 月は無い。
 星明かりばかりが頼りなげに、瞬いていた。

 夏は、いよいよ盛り。
 涼を求めて人が夜風を望み、冬にはせぬだろう夜歩きなどをして、うっかりどこぞの辻で人でないものと鉢合わせしてしまうのは、今も昔もさほど変わらない。
 きゃあと悲鳴を上げられたその声にこそきゃあと驚いて、つい先ほど、転がるように帰ってきたのは臆病な豆腐小僧である。

 馬鹿ねぇ、夜だからって人通りが少なくなるわけじゃないのが平成なんだからと、毛倡妓がころころ笑いながら泣きじゃくる豆腐小僧を宥めているのがここまで聞こえてきて、平和な騒がしさに、雪女もくすりと笑った。

 夏が暑いのは、人も妖も皆同じ。
 つい昨年までは彼女もまた、いや彼女が一番に、夏の暑さを厭って己の部屋を氷づけにしては、やりすぎだと木魚達磨に叱られていたものだ。
 今は不思議に、それが無い。
 彼女自身、戸惑った変化を丁寧に教えてくれたのは、奴良組の知恵者、木魚達磨だった。
 曰く、世界の果てにある氷山や、遠く西の果てにそびえる聖なる山の頂上を覆う氷は、いくら太陽の光を浴びても簡単には溶けないだろうと。
 環境にも左右されはするだろうが、理由の一つには、その大きな質量がある。
 あまりに大きくて、端の方がほんの少し欠けたとしても、全体としてはまるで変わらないように見えるだろう。

 つまり、雪女の力がこれまでは、身におさまる程度の氷雪に等しいものであったのが、姿形では計れないほどの大きなものになったため、少しばかり暑くなったくらいでは気にもならなくなったのだろう、ということだ。
 彼女としては、強くなったと言われても、相変わらず漬け物樽一つ満足に持ち上げられず青田坊を頼ってしまうし、黒田坊のように手数にまかせた剣劇を放てるようになったわけでもないし、風に乗る早さも黒羽丸が相変わらず一番だ。思い当たることと言えば、京都では己の力を押さえられずに店を一件氷で満たしてしまったのと、路面を瞬時にアイスバーンにしたくらいで、それだって調節をちょっと誤っただけのもの。一体なにが強くなったのものかと、首を傾げるばかり。
 武闘派揃いの本家の中に居ては、彼女がそう思ってしまうのも無理はなかろうが、実を言えばこの説明に、彼女以外の誰もが、ああなるほどと、頷いていた。

 彼女はどこまでも雪の女だった。
 剣でもなく盾でもない、木々に降り積もっては寒さから守り、夏に溶けては木々を潤す、守護こそが彼女の畏れ。
 守らなければならないものが大きければ大きいほど、欲される水が多ければ多いほど、彼女の力は増す。
 その恋い慕う相手が魑魅魍魎の主の血族にして、一代で明王か如来かと信仰されるほどの神格を帯びる御方なら、さらにはその相手もまた彼女しか欲さず無ければ枯れると言うのなら、自然、彼女は無意識にでもたがを外して、与えられるだけのものを、欲されるに値するものを、無限大にでも用意して注ぐに違いない。
 できるできないではなく、なそうとしてしまうそういう生き物なのだから、仕方がない。

 周囲はそのように理解したが、彼女はこれを、ともかく、この夏の暑いときに、愛しいひとにとって眠りやすい膝を与えてやれるし、冬になっても供寝ができるという事でしょうかと真面目な顔をして聞き返し、木魚達磨を大変困らせたという。
 雪女にとっては、己の格がどうのという事よりも、そちらの方こそ大事だった。
 木魚達磨が困った顔のまま、己の肌を氷雪のそれではなく、心地よい人肌ほどにできるのなら、それもかなうだろうと言われて、ようやく、良かったと笑った程度には。

 とは言え、その心配が必要なのは、もう少し先の季節だろう。
 今は夏、リクオは雪女の柔らかで心地良い冷たさの膝を枕にすうすうと、午睡の最中である。
 今宵はこれから、青田坊や黒田坊、首無に毛倡妓、他にも河童や三羽烏や小物たちなど、屋敷の妖怪たちと一緒に連れ立って、外食の予定。
 どうしてわざわざ外食を、と思うだろうが、これは本家に住まう大物妖怪たちの下克上的意見上申、もとい、提案によるものだ。

 そろそろ起こさなくてはと思いつつ、何だか惜しい。

 黄昏時に明王へ変じるや、出かけるまで少し昼寝がしたい、と言い出したのは彼の方で、それじゃあ午睡の準備をしましょうねと雪女が甲斐甲斐しく布団を敷こうとしたところ、しかしこれには首を横に振った。
 くいくいと雪女の袖を引っ張って、ぺしぺしと畳を叩くから、この子は何をしたいのかしらと思いつつ、雪女がそこへ座ると、こてんとそこに横になって、彼女の膝を枕に、目を細めて甘えてきた。
 そうなってから、「あかんかな?」と上目遣いに問われて、どうして駄目と言えるだろう。

 以降、この時間まで、雪女は膝を少し崩した程度で、彼の午睡に付き合っているのだった。
 付き合っているというか、寝顔を楽しんでいるというか。
 なんだか幸せそうな顔をして寝ているから、起きた時にからかってやろうかしらと、他愛もないことをあれこれ思案しつつ、時折風も無いのにふわりと浮く銀糸の髪をなだめてやったり、そのときついでに濃紫の妖気から、ちぎれて散りぬる花弁を、手のひらに乗せて消えていくのを眺めてみたり、起きている間は凛とした大将のくせに、てんで子供の寝顔の頬をつっついてみたりしているうちに、ついつい時間を忘れていた。
 気持ちよさそうな寝息をたてているのに、起こすのは可哀想だけれど、そろそろ起こさなくては。

 あともう少し、もうちょっと、と、髪を指で梳いていたところへ、一番星が強く瞬き始め、空が少しずつ群青に暮れていくのを窓に見ると、雪女は名残惜しいが、リクオの肩にそっと手を乗せて、リクオ様、とささやいた。

「リクオ様、……アンタ、そろそろ時間よ」
「ん………うン………んー……」

 瞼がぴくりとしたが、一度頬を雪女の膝に擦りつけただけで、目を開ける様子は無い。

「……そろそろ身支度、しないと」
「……ん……」
「……青や黒が、押し掛けてくるわよ?」
「……うん……」
「……ねえったら」
「ん、うん………」
「なかなか、寝汚いわね」
「……すー…………」

 再び、寝息。
 頬をつっついても、肩をぽんぽんと叩いてみても起きる様子は、ない。
 すやすやと眠る彼はまるで、無警戒。

 なんだかその顔を見つめていると、むくむくと、悪戯心がわいてきた雪女、まずは軽く、瞼に。

 …………ちゅ。

「……ん、んぅ……」

 これでも、まだ起きないので、次は耳たぶに。

「……ん?」

 瞼が震えたが、そこまでだった。
 ならばと、今度は頬に、鼻の頭に、と繰り返していると、

「ん、あ、つら、ら?」

 起きたらしい。が、もう雪女は止まらない。
 慌てる様子もかわいらしいとなれば、次は唇の端、次は顎、喉元といったあたりに、くすくす笑いながら繰り返す。

「つら、んッ」
「ちゅ」
「お、起きた。起きた、からッ」
「……んー、次はどこにしようかしら〜」
「ちょ、ひっ」

 目を覚ました後にも降り注ぐ口づけの雨に、それでも何故か雪女から逃れようとはせずに、ただふるふると震える様子は、

(…………可愛い。兎さんみたい)

 己の虜に次はどんな悪行をほどこしてやろうかと思わせるに、充分と言って余りある。
 銀色の毛並みに赤い眼をぱっちりと開けて、事態が飲み込めぬ様子なのは、手のひらの上できょとりとこちらを見上げる小兎を連想させた。

 起こす目的だったはずが、風色の生き物に、甘い雪色の毒を覚えさせるのが目的にすりかわり、次第に互いの息づかいが熱を帯びてきたところへ、前触れ無く、すっと襖が開いた。

「ちょっと、雪女、若様。百合ってるところ悪いけど、そろそろ用意しないと、連中、押し掛けてくるわよ」
「………ふえッ?!けけけけけ毛倡妓?!」
「我に返って慌てるんじゃないの。ほら、大事な若様の意識が飛びかけてるから、ちゃあんとつかまえて、身支度よろしくね。小半刻もすれば、出るわよ」
「え、あ、いけない!ちょっと!ちょっとアンタ、大丈夫?!」
「………………………きゅう」

 慌てる雪女、半分魂が彼岸に旅立ったリクオ。
 これを横目に、毛倡妓は、やれやれとかぶりを振った。

「これは、前途多難だわねぇ」



















...三千世界の鴉を殺せ...




















 鴆毒は人間であれば、羽を浸した酒を含んだだけで五臓六腑が爛れ、死に至る。
 蛇太夫が、妖怪としての力をほとんど失い、言葉を操ることさえたどたどしく、リクオの懐におさまる程度の小蛇になってしまってでも命をとりとめたのは、彼もまた毒を持つ類の蛇妖であったからだろう。

 無論、彼の命が助かったのを素直に喜んだのは、彼に命を狙われたリクオ本人ぐらいのもの。
 焼け落ちた薬鴆堂から奴良屋敷へ場所を移し、人心地ついたところで、二代目などはリクオの手の平の上で息を吹き返した小蛇をむんずと掴み、相変わらず人好きのする笑みを浮かべたまま、捻り潰してやろうとしたほどだ。
 牛鬼のときには己の非を認めもしたが、今回は違う。
 小蛇は己の保身のためだけに、リクオの命を狙ったのだ。

「ここが京都花霞一家の膝元であればいざ知らず、関東奴良組のシマでやらかしたんだ、奴さんの沙汰は奴良組の二代目として決めにゃならん。今この場所で、奴良組が好き勝手にできねェのは、そうさなァ、花霞リクオの身一つくらいのモンだ」

 リクオはこれを聞くと、手の内で庇おうとしていた小蛇を、ぱくりと口の中に半分ほど咥えてしまった。
 自分の身は好きにできないという二代目の言葉に、口の中ならば手出しはできまいという、意思表示をして見せたのだ。
 姿形はすっかり人の子に戻りながら、毒蛇をぱくりと咥えて、己を睨みつけて来る息子を前にして、二代目は呆れ、困り、最後には長く深い溜息をついた。
 蛇の方だって驚いたのだろう、口からちょろりと出した尾をばたばたさせて暴れ、これをそのままにした我が子が大きな琥珀の目でじっと下から見つめてくるのだから、この状況で二代目に、

「………リクオ、わかった。そいつの沙汰はお前に任せるから、そんなもの早く、ぺっ、しなさい」

 それ以外の何が言えたろうか。



 ではこれで、薬鴆堂の一件、手打ちになったかと言えば少し違って、そう、堂主の沙汰が残っていた。
 薬鴆堂が燃えた後、奴良組本家に身を寄せた堂主は、己のいたらなさからリクオを危険な目に合わせたことを悔やみ、二代目が止めなければその場で指詰めでも始めそうな勢いであった。
 もちろん、「医者が指詰めてどうする」とこれは却下され、またリクオが住処を失った鴆を気遣い、しばらく自分と同じように奴良屋敷に滞在するわけにはいかないだろうかと求めたところ、これが許されたので、鴆の方でもならばせめて医者の役目を果たさせてほしいと申し出、雪女と二人交代で、ほとんどリクオにつきっきりの看病をした。
 その甲斐あって、来たときには弱々しく儚いものと思われたリクオの体も、年相応の元気を有り余らせるほどになり、つい最近では昼の姿でも木登りなどをして、幼い日のように小物たちと遊ぶようにさえなった。



 回復には堂主だけではなく、雪女の甲斐甲斐しい看病があったことも、忘れてはならない。

 リクオの目を開かせたあの契りの日以来、当然ながら二人の縁はさらに強まった。
 誰の目から見ても、互いへの愛情と思いやりに溢れた二人は似合いであり、鴆の目から見ても、雪女が側に在ると、リクオが外から良い気を取り込もうという意欲に溢れるようだった。
 さらに彼女はリクオに近寄ろうとする悪しきものを、夢であろうと巡る気であろうと許さない。
 これで回復しない方がおかしい。

 誰もが似合いの二人と認めていたことだから、ある日リクオが真面目な顔で初代と二代目にあらたまり、この雪女を伴侶として貰えないだろうかと申し述べたときには、逆に二代目が呆れてつい、「むしろお前、まだ手ぇ出してなかったんか?それ男としてどうなのよ」とお答えになったそうだ。
 同席していたヤタガラスが嘴で小突いていたので、我慢強い昼姿のリクオはこらえたが、むっつりとふくれてしばらく二代目と口をきかなかった。



 というようなよもやま話を様々、過ごす日々の中で重ねながら、とにかく花霞リクオと雪女は、祝言こそ挙げてはないものの、奴良屋敷では既に夫婦として扱われている。
 そんな二人の甘いひとときを、どうしてまた奴良屋敷の大物妖怪たちが、外へ行こうなどと急きたてて邪魔しようとするのか。

 いやいや、彼等に悪気は無い。
 応援こそすれ、邪魔をする気も無い。
 しかし、しかしだ。
 彼等もまた、若様の幼き日を知っているのだ。
 愛くるしく利発な若様が、母君とともに屋敷を追われて京都へ行き着くまで、どれほど不安な想いであったかと泣き、京都で母君を失ったときはどれほど哀しい想いであったかと泣き、それがこれほどまでに立派におなりになったと感じ入っては泣きするほどに、縁深い御方なのだ。
 屋敷に迎えたそのときにも、輪になって迎え話などをしたが、本当ならもっとお側にありたい、己も何かしらお世話をして触れ合いたいと、思わずにはいられない。

 だというのに、昼の御姿で琥珀の目がぱちりと開いたころ、初代は前にも増してリクオやリクオと猫っかわいがりだし、夜は夜でリクオが体を動かそうと道場を借りれば、たいてい二代目が、鬼童丸の技は一本調子でいけないだの、華が無いだの、あれこれ茶々を入れては結局二人とも楽しそうに息切れするまで取っ組み合いの喧嘩をしたりと遊んでいるし、空気を読まずに近づいてもそういうものだと諦められている小物どもと違って、大物妖怪たちはまるで蚊帳の外。
 そこで、本家仕えの大物妖怪たちは、万年に一度あるかどうかの、大団結をした。
 初代と二代目、そして若様がお揃いでおられるときに、青田坊黒田坊を筆頭に、首無、毛倡妓、三羽烏、河童までもが呼ばれもせぬのにおしかけて、部屋の外で膝をつき、あくまで下からではあるが、物申しあげたのである。

 それぞれがあれこれと、それらしい口上を述べはしたが、要約すればつまり、

「初代、二代目、ずるい。僕たちだって、若様ともっと喋りたいし、遊びたい。二人とも、若様を独り占めしすぎ」

 と、いうことだ。

 何事も水に流してしまい気にしない河童であるのに、いつになく恨みがましい様子でぽつりと言った。
 このぽつりに、他の妖怪どもが、うんうん、と激しく同意する様子を見せたとあっては、初代も二代目も、忠実な下僕どもの一生に一度あるかないかの大反乱を、ないがしろにはできない。

 誰よりリクオが、彼等を知らぬうちにないがしろにしていたかと申し訳なく思って、体の調子も良いことだし、昼のうちに土産を買い揃えるなどは雪女ともう、あらかた済ませてもいたから、それではたまには皆で夜遊びなどどうかと提案した。
 なら船でも浮かべるかいと、二代目が口出ししようとすると、これは皆が物言いたげな視線で黙らせる。
 毛倡妓が、まさに今思いついたとでも言うように、ぽんと手を打ち合わせて、それじゃあたまには、私たちが行くような飲み食い処へご一緒いたしませんか、それなら初代と二代目がいらっしゃらなくても、私たちでしっかりお守りできますし、化猫屋でしたら奴良組傘下の化猫組が仕切る店ですから、初代も二代目もご安心でしょうと申し述べたのは、当然に、前もっての打ち合わせ通りのこと。

 初代と二代目がいらっしゃらなくても、と、わざわざ含んだ言い方をしたのはもちろん、「今までいいだけ若様を構い倒したんだから、ちょっとは遠慮なさってくださいな」という意思表示。
 他のことなら差し出がましいと叱りもするが、なにしろ今も昔も若様は奴良家の光る君。
 その前では主従の上下もあってなきがごとし。
 だいたいその場に初代と二代目がいたのでは、皆、遠慮が先だって肝心の若様に近づけやしない。

 彼等の申し出に、京都でも護法たちに懐かれるのを好んだリクオは、若い大将としても、奴良のかつての若様としても素直に喜んでこれを受け入れたので、その後、今日という日を迎えて、奴良屋敷にはどことなく浮ついた空気が流れている。
 留守番役のカラス天狗や数人の賄い役、これまで若様とたっぷり遊んでいた小物どもを除いて、主抜きの無礼講な大宴会を前に、皆がはしゃいでいるのだった。

 さて、定刻に玄関前集合という約束であったので、時間の少し前には、一人二人と庭や玄関口に集まり始めた。
 彼等の中には時間よりも少し前に、若様と雪女はまだかと急かす者もあったので、気を使った毛倡妓が二人の様子を見に行き、しばらくして、寝起きらしくまだ足取りがふわふわとした様子の若様と、これにそっと寄り添い、ちょっとアンタしっかりしてよとやっている雪女とを迎えるにいたった。

「若、寝起きですかい。そんな惚けた顔して、夢ン中にイイ女でも見つけましたか」
「二言目には雪女をご指名のリクオ様に限って、別の女を夢に見るはずもなかろうよ。そう言えば雪女、お前の姿も夕暮れ時から見えなかったが、まさか、二人とも……」
「あー。なるほどー。いやでもさー、いいんじゃないの、夫婦なんでしょ。さっさと作るもの作っちゃった方が、きっと二代目も喜ぶんじゃない?」
「ちょっとやめてよ、そんな話!リクオ様はただ午睡をしてただけで!」
「おやおや、午睡だけならどうしてそんなに赤くなるんだい、雪女。まさか本当にそんな……、いや、婚前交渉がどうのと言うつもりは無いが、やっぱりそういうことはきちんと祝言を挙げてからにしたほうが」
「首無まで、真面目な顔して、何なのよ!」
「私はただ心配をだな。いや、若は確かに元服などお済みだが、その、お前自身がきちんと若奥様としてなってからの方が。……花開院に相談してからと若様は仰るけど、やっぱり一度こういったことは早めに区切りをつけておいた方がいいんじゃないかなぁ」
「いらないお世話ですッ!もう、男どもときたら好き勝手に!……ちょっとアンタも、ぼーっとしてないで、何とか言ってよ!」
「……………え?」

 部屋では雪女にされるがまま、部屋着のゆかたからよそ行きの着流しと羽織に着替え、寝乱れた髪をくしけずり、冷たい手ぬぐいで顔をふかれるなど目まぐるしい身支度をさせられていたリクオである。
 その間中だって、唇に触れた感触や、悪戯に首筋や胸元を撫でていった細い指がおこした切なさや、耳元に落ちてきた小鳥のような笑い声や、彼女の細身をひとまず押し退けようとしたとき手の平に触れてしまった柔らかさなどを、忘れられずにいた。
 一度与えられると、さらにと望んでしまいそうな、瑞々しい感触を追うように、己の手を見つめたり、唇をなぞっていたリクオは、不意に話をふられて、そこで初めて、己が玄関にいると、気づいたような顔だ。

 それなのに何とか言え、などと言われたものだから、そこは率直に言った。

「……………やわらかくて、いい匂いがした」

 おおー、と、驚愕が全く感じられない、むしろ喜ばしいことを迎えるような歓声があがったのは、あの初代と二代目でそういう事には慣れきっていた、奴良家ならではであったろう。

「アンタッ!誤解を生むようなことを言わないのッ!」



+++



 かくして、奴良組本家の愉快な百鬼夜行は出発した。
 人間どもの目には映らぬ辻と辻を繋ぐ裏道細道小道を通っての、繁華街への道すがら、若様と雪女を囲んだ彼等ときたら、さっそく二人をからかい、これに雪女が冗談ではなく氷の息吹を吹きかけ青田坊の頭を半分凍らせたりなどして、早くもやんやと騒がしい。

「作るもの作った方がとは、河童もなかなか言いやがるな」
「いえいえ、それほどでもー」
「それで、実際のところはどうなんだい」
「それが聞いてよ首無ィ、この二人ってば、ベタベタしてる割に清くって」
「そうなのか。………それはそれで何だかなあ」
「好き勝手言わないでよ!んもぅ!」
「あの建物ってなに?ここってどの辺なん?」
「ああもう、アンタもきょろきょろしてばかりいないで、何とか言い返して下さいな」
「言い返すって?」
「だって……からかわれてるのよ?恥ずかしいじゃない」
「んー……でも、ベタベタしてるのは本当やし」

 どーん。

「………ふ、ふえぇッ?!」
「氷麗とベタベタするんは、なんやびっくりすることもあるけど、嬉しいし。からかわれても腹もたたん。どうせみんな、羨ましいんやろ」

 どどーーん。

「わっはっはっは!流石は若、堂々としておいでだ!お前も見習え、雪女!」
「な、何を道の往来で……ッ、こ、こんなところでそんなはずかしい事言わないでよ変態ッ」
「あ、なァなァ、あの人だかり、何やろ」
「きょろきょろしないの!」
「もうすっかり姐さん女房決定だねー、花霞一家」
「河童も、勝手なこと言わないでよ、もうっ」

 ああだこうだと騒がしく、お祭り騒ぎの行列は行く。
 浮世絵町のきらびやかな繁華街を抜けた先、時代物の家屋が軒を連ねているのが化猫横丁だ。
 その中の一件、夜に咲く不思議な朝顔の鉢と、これにともる蛍の明かりが示すのが、化猫屋の玄関口。

 雪女は大物連中にからかわれながら、ほとんど袖で顔を隠すようにして、ここまでたどり着いた。
 やんやとはやし立てられるのに言い返すにしても、リクオの方はてんでのらりくらりで役に立たないものだから、結局最後の方は彼女が一人で顔を真っ赤にして、大物連中に言い返すことになる。
 言い返すから皆も面白がってまたからかうのに、初心な雪娘は、それに思い当たらないのだ。

 ところがだ、さて、店先につきましたよリクオ様と振り返ってみると、居ない。

「………リクオ様は?」
「うん?ついさっきまで、ここに」
「やや、どちらだ」
「ついさきほどまで、物珍しそうにそこの軒先をのぞき込んでおられたが」
「どこだ」
「どこへ行かれた?!」

 探すが居ない。全く、居ない。

「ま、まさか………」
「そう言えば、あっちこっちキョロキョロしてたし」
「昔っから、好奇心旺盛な方ではあったが、いやまさか」
「まさか、本当にまさか」
「………迷子、とか?」
「さ、探せーーーッ!」

 首無が青ざめて叫び、それは他の輩も同じ。
 今日の集まりを嬉しく待ち望んでいた、化猫屋店主・良太猫も顔を出すやすぐに巻き込まれ、店先はてんやわんやの大騒ぎとなった。



 その頃の花霞リクオはと言うと。

「あれ………なんやみんな、迷子か?」

 お前がな。
 と、彼の兄がこの場に居たならば、すかさず突っ込んだところだろう。

 光の洪水に誘われるまま足を運んだ先、周囲に誰もいなくなったことを奴良屋敷の妖怪たちと同じように気づいたものの、あまり危機感は持っていなかった。
 初めて足を踏み入れた夜の浮世絵町の、上方とはまた違う店構え、品揃えなどの方が珍しく、見入りながら、ゆるりゆるりと歩を進める。
 誰がどう見ても、ただ者では無い御仁。
 遠くからやってきた、お忍び中の名のある家の若様か、いやそれにしては佇まいなどに油断が無い。
 ぼうっとあちらを見ている彼の懐をちょいとくすねてやれと、物陰から飛び出した掏摸が肩をぶつけようとすれば、ぬらりとこれを避けていつの間にか間合いを取っているところなどは、名うての剣客のようでもある。
 これですこぶる美形というのだから、通りすがりの者どもの、記憶に残らぬ方がおかしい。



 銀髪をたなびかせた、紅眼の美形がここを通らなかったかと聞かれれば、誰もが、そう言えばさっきすれ違ったとか、さっきまで子供のように目を輝かせて江戸切子の盃をその店で見入っていて、いくつか買い求めどこぞへ送っていたようだとか、思い当たりを口にするので、リクオを追う奴良屋敷の妖怪たちも、そうか若様はこの通りを歩んでいったのだなと合点して追いかけた。

 リクオの方でも、うろついていればそのうち合流もするだろうと、全く危機感を持たずに、己の手がかりを意識して絶やすこともしなかった。
 こんなに手がかりがあるのなら、すぐにでも見つかるだろう、奴良屋敷の妖怪たちもほっと胸をなで下ろしたが、それはいささか早計に過ぎたらしい。
 この心当たりがやがて、絶えてしまったのだ。

 はぐれた事に気がついて、屋敷へ戻られたのか。
 そうではない。化猫屋の目の前で若様がいらっしゃらないと気づいたそのとき、三羽烏はすぐに屋敷に残った父に携帯電話で連絡をして、かくかくしかじかと、己等の不手際を含めてきちんとご報告を申し上げた。
 もちろん、携帯からにょっきり黒いヒヨコ頭がでてきそうなくらいの音量で怒鳴られはしたが、その向こうで初代がからからと笑う声が聞こえたし、二代目が部屋に置き去りにされた若様の携帯を確認してくださって、これはあいつの間抜けだろうと呆れたように笑ってくださり、「屋敷に連絡がきたら、誰か迎えに寄越してそこから真っ直ぐ化猫屋へ行かせるから」と約束までしてくださった。

 それで少しは安心していたのに、屋敷には連絡が入らず、さらに、夜の往来の真ん中で、ぱたりと行方がわからなくなったとなると、流石に皆、青ざめた。

 元服も済んでいるのだから。
 聡い方だし、仮にも一家の大将なのだし。
 まさか、まさかと思いつつ、姿を見失ったのはすでに過去に一度あったことだから、妖怪たちの気色ばむことといったら。
 かどわかしであったらどうしよう、悪い女怪に引っかかっていたらどうしよう、などと彼等が心配する様は、店主良太猫にはやや、過保護に映った。

「店の名前も店のあらかたの場所も、ご存じなのでございやしょう?だったら子供じゃねぇんだ、ひとに聞くなりしていらっしゃるんじゃねぇですか?」

 確かに、もっともな話である。
 夜とは言え外は蒸し風呂のように暑い。
 探すにしても、店で待っている者と外に探しに出る者と二手に分かれた方が良かろうという、良太猫のすすめもあって、彼等はひとまず店に落ち着くことにした。
 雪女はリクオの姿が無いことに気づくや、あれほど真っ赤だった顔を今度は蒼白に染めかえて、おろおろとするばかりである。
 もちろん、我先に、自分は外で探すと言い張ったが、これを止めたのは毛倡妓だった。

「雪女、格が上がったって言ったって、暑さが嫌いなのは変わらないでしょうに。ともかく水の一杯でも飲んで、他の男どもの面子をたててやりなさい。私たちが出しゃばって若様を捜し当てたとして、そのときに男どもが店内で涼んでいましたじゃ、面目丸つぶれでしょうが」
「でも、捻眼山での一件のこともあるわ。得体の知れない天狗たちが、リクオさまを狙って人混みに紛れ込んでいなとも限らないし………」
「それこそ要らない心配よ。ここは浮世絵町、天下の奴良組本家のお膝元よ?怪しい奴なんて入る隙も無いわよ。二代目はお優しいし横着者だけど、その《畏》の大きさを、あんただって知らないわけじゃないでしょう?」

 それもそうである。
 ここは浮世絵町、関東奴良組本家の屋敷があるところ、すなわち二代目の手の内も同然だ。
 この町に入るということは二代目の懐に飛び込むということであり、この町で起こった出来事で二代目の耳に入らないことはなく、この町に住む人のことなら二代目は数代前から御存知だし、妖怪だって当然に、永く過ごそうという者は自らご挨拶に赴こうとするだろう。
 娘のように可愛がっていただいてつい忘れがちだが、あの御方は、よからぬ事を企む外道のたぐいには、この上なく厳しい御方でもある。
 この浮世絵町にある限り、滅多なことはあるまい。
 捜しに行きたい気持ちに変わりは無かったが、男衆の面子の部分を含めて一応の納得をした雪女は、毛倡妓、ささ美とともに、化猫屋の中で、男たちがリクオを捜索するのを待つことにした。

 化猫屋は、関東奴良組に属する化猫組が直営する、和風食事処である。
 その名の通り、猫又たちが鉢巻、作務衣に前掛け姿でくるくると店内を巡り、客の注文にあいよはいよと威勢の良い返事で応えている。
 一階にはカウンター席とテーブル席、二階には桟敷のように下を見下ろせる半個室の座席もある、一見すればただの居酒屋だ。
 カウンターの中では板前がその場で魚をさばき、寿司を握り、あるいは火を使った焼き物などをしているし、暖簾で仕切った厨房とこちらを、長い髪をまとめた女猫又たちが、今日もひっきりなしに出入りしていた。
 入り口からは見えないが、二階のさらに奥には賭場があるという話。
 また、一階の奥には、逢い引きに使えるようなこじんまりとした離れや、会合に使えるような大広間から身内の集まりに良さそうな小部屋なども用意されている。

 今回は奴良屋敷の妖怪たちとして、なかなかの人数になったので、奥の座敷を借りたのだが、そこまでの道すがら、ささ美が何かに気づいたのか、うん?と、怪訝な顔をして首をかしげ、足を止めた。
 すぐ前を歩いていた雪女も、気づいて振り返る。

「どうしたの、ささ美?」
「いや、気のせいか、客が少ないような気がしてな」
「そう……かしら。いつも通り、賑わってるんじゃない?」
「いや、いつもならこの時間、待ち時間三十分といったところなはず。なのに、テーブルがいくつかあいていたし、二階の桟敷席はがらがらだ。何かあったのか?」

 奴良組のアンテナであれと、長兄からいつも言い聞かされているささ美だから、こんな時でも気になることがあると、尋ねずにはおれないらしい。
 やや尋問口調だったが、良太猫は嫌な顔一つせず、むしろよくぞ訊いてくれたとばかり、三毛猫の斑の奥の目を嬉しそうに細めた。

「ええ、実は今日、二号店のプレオープンでしてね。常連さんの中でも、特に若い女の子とかはそっちに行ってくれてるのかもしれませんね」
「ああ、例の二号店か。そうか、今日がプレオープンだったとはな」
「ささ美、知ってたの?」
「うむ、新しい店を開くことは、二代目から聞いていた。どこが奴良組系の店か知っていれば、優先して見回ることができるからな。たしか二号店は、最近繁華街にでしゃばってきた、ホストクラブ対策、だったか」
「へえ、そうです。三郎猫を筆頭に、若い奴等でやらせてみるつもりです。鼠の奴等のようにホストそのものなんぞやらせませんが、しっとりと落ち着いた雰囲気のバーって奴ですよ。売り上げ対策ってのもありますが、あいつ等に睨みをきかせるって意味もあります。奴良組系の店がすぐそこにあるぞってなりゃ、奴等、人間たちに金以上の犠牲を求めることもできないでしょうからね」

 良太猫の案内で座敷に入り、すぐに手渡されたおしぼりを使って、氷の浮いた食前の梅酒で女三人が唇を湿らせている間も、良太猫の説明は続く。
 二号店は若い者たちに任せていると口では言っても、そこは彼等をまとめる組の長として、色々と気になっているのだろう。

「鼠の奴等ってのは、旧鼠って奴等のことで、知ってます、旧鼠?猫を食う鼠ですよ。おお、くわばらくわばら。ええ、ワシ等の天敵ですわ。
 まぁ一応奴等も奴良組系ではあるし、二代目がきっちり目を光らせてるからおとなしくしてくれてますが、もし、万が一ですよ、縁起でもねぇ事ですが二代目がいなくなっちまったりしたら………奴等、すぐさま本性むき出しにして、猫だろうが人間だろうが喰い散らかすに決まってらぁ。そういう、薄汚い溝鼠のような奴等です。あ、元々鼠か。薄汚い奴等なんです。
 表向き、今は奴等、ホストクラブなんて店をやって、そこに人間や妖怪の女の子を招いて、金をたっくさん使わせるって商売してるんですわ。ワシも古い猫ですから、からくりはよくはわからんのですが、何人も男を用意しておいて、そこに女の子が遊びに行くみたいな、そういう店らしいですわ。で、お喋りしたり酒飲んだり、舞台を見せたりして、金取るらしいんです」
「まぁ、キャバクラの逆版。昔で言うと、陰間茶屋とかが近いかしら。私としちゃ、赤線が無くなったときは感慨深くもなったけど、その後も結局、たいして変わりゃしないわよ、人間たちの風俗なんて。旧鼠組のホストクラブなら、私も一度行ったことあるわ。人間向けに作られてるだけあって、よく作りこまれていたわねぇ」
「首無が知ったら………」
「もう知ってるってば。あらかじめ、ちょっと行ってくるって言ったもん。黒羽丸に頼まれたの。中がどういうところか知りたいが、自分が入るわけにはいかないからって」
「………兄者め、私を子供扱いして、行かせなかったのだ」
「あ、あぁ、なるほど、それでなのね。それで、中はどんなところだったの?」
「あらァ、気になるんだったら、一度行ってみたらいいじゃない。何だったら一緒に行ってみるぅ?若奥様になったら、なかなか行く機会ないわよぉ」
「きょ、興味無いわよそんなところ!た、ただその、どんなところなのかなって!」
「そーねー。氷麗のぐるぐるお目目はリクオ様しか見てないモンねぇー。むふふふ、先程の口吸いのお味はいかがだったのぉー?」
「ほぉう、そんな事が。氷麗ももう立派な雪女なのだな」
「毛倡妓!ささ美まで、からかわないでったら!さっきのは、その、あんまり無防備だったからつい。いつもはあんな事いたしませんッ」
「あの方、無防備になることがあるのか。いや私はからかってなどないが(キリッ)」
「まぁ、あんた達は行かなくて正解。場違いにもほどがあるわ。あそこは男をおもちゃにするジャンルの店だから。大酒飲ませてくたばらせて楽しんだり、色恋の振りしたり。ショーとかはやってなかったわね。そういう趣旨はないんでしょ。同じ組の別の店ではやってるのかもしれないけど、私が行ったのは一件だけだったし。でも、そうねぇ、確かに金は使わせよう使わせようって必死なにおいがしたわ。高い酒を入れてくださいって土下座して頼まれたりするのよねぇ。で、女としては贔屓の男にそんなことされて、うれしがられたら、金を積んじゃうでしょ。
 自分の贔屓の男に顔を置き換えて考えてごらんなさいな、そいつの売り上げがよくなって店のナンバーワンにでもなったら、私が育ててやったんだー!って、思ったりするらしいのよ。
 ところがそれでほいほい後先考えずに金を使えば、すぐに借金地獄。中にはホストクラブに行くために水商売を始める女の子もいるんですって。私は人それぞれだと思うけど、確かにそれが奴良組系としてまかり通ってるってなれば、気持ちのいいもんじゃないわよねぇ、良太猫」
「まったくその通りです。あんなの商売じゃねぇや。酒ってのは、もっと楽しく落ち着いて味わって飲むモンでしょ。そりゃあ、あったらダメってわけじゃねぇが、旧鼠の奴等の最近の所行は目に余ります。本当はその気のねぇ女の子を無理矢理連れ込もうとしたり、ただ飲み所を探してる子を連れ込んだり。ワシ等が考えたのは、そういう、飲み所としての避難所というか、安心感のある場所って奴ですわ。ここがそうじゃねぇとは思いませんが、男衆向けと言われればそういう気もするんで、そんじゃあ、女性が気軽に入れそうなバーはどうか、ってね」
「さすがは童顔でも組長さんねぇ、考えることに一本筋が通ってる。私も今度行ってみるかな」
「ありがとうございやす!化猫屋二号店《CheshireCat-Bar》、カクテルの種類は豊富ですよ!化猫屋壱号店ともども、どうぞご贔屓に!」

 良太猫が懐から取り出したのは、ライトアップした店の正面玄関を背景に、横文字がそれらしく入ったポストカードだ。
 宛名面には、「このカードをお持ちいただいた方にはフード一品、もしくはウェルカムカクテル無料」とある。

「へぇ、カクテル作るの?三郎猫が?ぷっ」
「そこは一朝一夕ってわけにいかないんで、流石にバーテンダーを一人、雇いました。有名ホテルで賞まで取ってたのを、三郎猫が口説き落としたんですよ。これからずうっとってわけにはいかないらしいんですがね、まぁ、そこから先はあいつの采配だ、ワシが口出すことじゃねぇや」
「………ねぇ、毛倡妓」
「なーに、氷麗、あんたも行きたいの?なら、リクオ様と二人で行ってみたら?」
「ううん、そうじゃなくて、この住所って」
「先程、若様の手がかりがなくなったのは、ちょうどこの辺りだったな」
「………あら?」



 男衆が浮世絵長を上から下から捜し回っても、若様の行方は知れない。
 もちろんリクオだって、馬鹿でもなければそれほど世間知らずでも無い。

 良太猫の言うとおり、前もって店の名前だって教えられていたし、奴良屋敷の番号だって覚えていた。
 屋敷に連絡をしないのは、彼自身がすでに、化猫屋についたと思いこんでいたためだ。
 花開院の血は引いていないが、いや引いていないからこそ余計に末の君として、兄たちに囲まれて少しばかり過保護だったせいか、妹と同様、ふわふわとしたところがある。

 奇しくも女三人が顔を見合わせた通り、リクオが足止めを食らっていたのは、まさかの化猫屋二号店。
 それも、ほんの少しの奇縁に奇縁が重なって、ちょいとばかりおかしなことになっていた。

 リクオは、いつの間にか化猫横町を出て、人も歩くきらびやかな繁華街を歩いていた。
 物怖じはしなかった。
 彼が育った京都では、重要文化の名の下に妖怪達や神仏の領分がきっちり守られていて、光を嫌う者達のために、電柱などを取り払い昔ながらに夕暮れになってから軒先に明かりをともす通りなどもある。人々は景観と歴史を守るため、という説明をすっかり鵜呑みにしているが、実は人に紛れて妖が店を出していたり、人と妖が隣あって楽しく飲んだりしている街だ。
 人と妖の気配が混じり合う場所でバイトもしていたリクオなので、化猫横町を抜けた先に、きらびやかに飾りたてながらも妖気漂わせたいくつもの店が立ち並んでいても、そこへ人間の若い娘たちが勇んで入っていく様子を見せても、特に不審にも思わない。
 ここもそういうものなのだろう、と思う程度だ。
 もちろん、知識としてホストクラブというものがあるのは知っているし、立ち並ぶ店がそういう類のものらしいとは、店先の客引きや看板から想像がついたから、この辺りは目的の場所とは違うかもしれないと判じ、引き返してそろそろひとに尋ねようか、と、考えもした。

 そこで、ちょうど化猫横町からこのホスト街に飛び出したような辺りに、店を見つけた。
 店は外観、三階立ての煉瓦作りのビルだった。
 とは言っても、妖怪達の間では階と階の間にもう一つ二つ、広間や階段を作ってしまうのは当然の事情なので、実際にどれほどの部屋が詰め込まれているのかを外観からはかるのは不可能である。
 リクオの伏目屋敷も、玉章の部屋は押入の奥が町中のオフィスに繋がっているし、小物達は箪笥の引き出しの奥にそれぞれ自分達のすみよい場所をこさえていたりする。
 あれ等のホストクラブとは少し違った店構えであるけれど、にぎやかな妖気は漂ってくるので、この店も妖怪達がこさえた店なのだろうか、ならば、そういう作りであるのだろうなぁとしげしげ見つめていると、エントランスホールに続く階段前には、鉄板を加工した銀色の文字が、《CheshireCat-Bar》と名乗りを上げており、この下に並んで化猫屋の文字もあったので、リクオは安心してしまった。
 玄関を彩る多くの花輪が、この店が今日かあるいはこの数日中にオープンしたのを示していたし、その中には「化猫屋壱号店一同」というものもあったのだが、そこは見落とした。
 学べよリクオ!と、妹と二人迷子になるたび、長兄が青筋を立てていたものだが、彼にとって自分と妹からはぐれるのはいつも兄の方なのだから、学ぶも何もあったものではない。
 自分たちが先に正しい場所にたどり着いたのに、兄がいつも、違う場所に二人を捜しに行った ――― と、リクオは今も思っている。
 多くの兄たちに少しばかり大切に育てられすぎた末弟には、このよにどこかすとんと抜けたところがあったし、今は些細な不自然よりも、まだエントランスは開かないのかと並ぶ客たちに驚きながら、ここで間違いなかろうか、とうろうろしていたところで、裏口の方から聞こえてきた「とにかく、できるだけ早くお願いしますよ!」の声に気を取られてしまったのだ。

 リクオが聞いた声は、表口に並ぶ客達の声には、届かなかったらしい。
 ざわめきに紛れて届いた声も、ほんの一声だったので、その後はまた聞こえなくなってしまった。

 けれども、その声がやけに逼迫していたので、これまで衆生の憂い悩みを聞き届けんと京都で奔走してきた若き明王はその一声こそが気になり、ひょいと裏口をのぞき込んだのである。

 そこで、一人の男と目が合った。
 男と言っても、困ったようにかきむしった短い茶色の髪からは、ぴんと可愛い猫の耳がのぞいている。
 店の名が示す通りの、化け猫であるのだ。
 この日のための一張羅だったろうに、汗をかいたのだろう、スーツの上着は脱いでくしゃりと首元を握られ、ネクタイを緩めてため息をついていた。
 いらいらと踵を鳴らし、何かを取り出そうと懐のあたりをさぐってから、いや違ったと上着の内ポケットから紙たばこを取り出し、くわえてからやはりやめて、せわしなく動き回っていたところで、はたりとあちらも、リクオを見たのだ。
 そう、つい最近まで化猫屋店主良太猫の下で働き、店主代理までつとめていた、三郎猫であった。

 何の勘違いをしたのか知らないが、せっぱ詰まると自分の都合の良いように何事も解釈してしまうのは、人間たちばかりではないらしい。

「も、も、も、もしかして、手伝いのひとかい?!」

 手伝いが必要なら、手を貸すのはリクオの性分であるし、求められれば差し伸べるのは仏の道。
 リクオにとって、この問いはこれは間違いではない。
 いまいち質問の内容が飲み込めぬまま、

「………手伝えることなら」

 と、答えた。

「よかった!思いの外、早く来てくれたんだねぇ!店が開けられなくて困ってたんだよ〜、はぁー、よかったーぁ。おぉーいみんな、バーテンダーさんの代わり来たぞぉー!」
「へっ?バーテンダー?」
「その背丈なら、まぁ制服で大丈夫かな。シャツとネクタイ、ロッカーにあるから着替えてきてよ。おぉーい牡丹猫、案内してあげて!」
「はぁーい、ただいま!」
「ちょ、え、何?何の手伝い?」
「だから、バーテンダーだって!出来るんでしょ?!」
「………まぁ、やってるけど」
「頼むよ、カクテル帳の分厚さが売りなのに、バーテンダーが居ないんじゃ開店にケチがついちまう!佐々倉さんも日が変わる頃にはこれそうだって言うから、それまで、なんとか!」

 店で供するものなのだろう、電話帳かと思うような分厚い、真新しいカクテル帳を押しつけられ、男に「どうかこの通り!」こう拝み倒されては、ただでさえ頼むと言われて無碍にはできないリクオが、三郎猫のすっかりへたりと寝てしまった耳を見て、首を横にふれるはずもない。
 おおよしよしと、無条件で頭を撫でてやりたくなるのを堪えるのが精一杯だ。
 裏口からわらわらと出てきた猫又たちに、伏目屋敷の小物たちを連想してしまったこともあり、ぱらりとめくったカクテル帳の中身も、バイト先で作っていたものを大きく頁を割いて写真をのせているために嵩が増しているだけだったので、

「まぁこれなら、なんとかなるかなぁ」

 引き受けることにした。
 ここが化猫屋なら、手伝っているうちに、ほかの皆も来るだろうとも思い当たったので、これこれという妖怪たちが来たら教えてほしいと口を開きかけるも、しかしそれはかなわない。

「それじゃ、ほら、早速、着替えて、着替えて!もう開店時間はとっくに過ぎてるんだ、何がどこにあるとかは、牡丹猫、胡蝶猫、教えてあげて!」
「はぁい、店長!」
「ささ、こっちこっち!ええと、私が牡丹、こっちが胡蝶ね。ええと君は……」
「花霞」
「花ちゃんね。よろしくぅ」
「あー、バイト先では、そう呼ぶひともおる」
「あれ、関西弁ー。どこの人ぉ?」
「京都や。牡丹、胡蝶、よろしゅうな」

 このように、奇縁に奇縁が重なって、押されるようにして男子ロッカー室に押し込まれたリクオ。

 手渡された真新しいシャツにリボンタイを締め、スラックスをはいてサスペンダーでとめるまでは、手馴れたものだし、三郎猫から借りた革靴も足に丁度ぴったりだった。
 ロッカー室から出てきてみれば、白シャツにサスペンダーとスラックス姿の銀髪男子は、急にここへ呼び出されたことを感じさせぬ落ち着きがあり、甘露を含んだような微笑をたたえてなかなか絵にもなり、プレオープン間近にまさかのバーテンダー遅刻でてんやわんやしていたスタッフたちも、おぉと安堵の声を漏らすほど。
 もちろん、それだけで喜んでもいられないので、実際に三郎猫が一つ二つ、スタンダードなカクテルを作らせてみたところ、手際も良く味もいい。
 ちょっと一歩引いたところでカウンターに立っている様子が、実に空気をよく読んでいて、一朝一夕のものとも思えない。

 三郎猫も、先ほど携帯電話で連絡が取れた本命のバーテンダーが、至急で助っ人を手当たり次第でお願いしてみると言っていたこともあり、このひとがそうなのだろうと合点してしまった。

「 ――― よし、いけそうだ。ええと、花ちゃんって言ったっけ。申し遅れたけど、俺がこの《CheshireCat-Bar》の店長、三郎猫だ。今日はよろしく頼むよ!」

 ウォッカ・マティーニでそこそこ応用も利くらしい実力を認め、三郎猫は高らかに告げた。

「さ、少し遅れたが、化猫屋二号店、いよいよ開店だ!」
「 ――― 二号店?」

 ようやっとリクオが己の間違いに気づくも、時は既に遅し。
 スタッフ一同、応と気合を入れて、いよいよ話題の化猫屋二号店、《CheshireCat-Bar》は開店したのである。