開店間際、少しハプニングはあったものの、化猫屋二号店のプレオープンは概ね成功であったようだ。

 化猫屋系列ということがあって、料理はもちろんのこと酒の味も良い。
 心地よいジャズとほんのり薄暗い照明は、壱号店にはない空気。
 カウンター内は照明がやや強く、そのためにそこだけがオアシスのように青白く浮かんでいる。

 壱号店のように広くはないが、左右に翼を広げたような形で細長い店内は中心のカウンターから見渡せるし、ほどよく間をとって配置されたソファ等が、客のプライベートを保っていた。
 今日の客は元々化猫屋に縁があり、配布していたプレオープン招待券を持っている人のみに限定していることもあって、落ち着いた様子。

 リクオもカウンターの中でシェイカーを振りつつ、まぁそのうち本物のバーテンダーが現れるだろうと、やはり全く危機感が無い。
 本人がこんな風にどっしりと、カウンターに座った女性二人連れや、一人で飲みに来た男性客にそつなく相手をしているものだから、他のスタッフたちもまさか人違いとは思わぬまま、休憩中にはこの色男も今後スタッフに加えられないものか、いや是非とどまってもらいたいと思って、あれこれ情報を聞きだそうと試みた。

「ねーねー、花ちゃんて年は?」
「え、と、年?……数えで……」
「数えなんて古い古い!時代はもう平成よ」
「……………………………十四」
「若ッ。最近まで一桁じゃん!」
「だから、せめて数えで言おうと思ったのに。子供扱いせぇへんといて」
「あ、拗ねた。可愛いぃー。ねぇねぇ、今までどこで働いてたの?」
「異界祇園の《PlatinumSnake》ってバーで、五年くらい」
「あらあら、年誤魔化してたんだァ、悪い子ー」
「お袋にちっとでも良い治療受けさせたくてな。ま、我侭や」
「う、ご、ごめんなさい」
「やだ、健気。キュンと来た。花ちゃん、お姉ちゃんたちに甘えていいんだからね!」
「うん、おおきに。ありがとさん」
「ね、ね、なんで東京来たの?」
「ん、ちょっと用があって……。もうすぐ京都、帰らなあかんねん」
「えー。ずっと居ればいいのにぃー」

 遠目に見れば、少し近寄りがたい大妖の雰囲気。
 けれど話してみれば気さくで、女たちの母性本能をくすぐるところもあり、特に牡丹猫と胡蝶猫はすっかり猫っかわいがり。
 つい習性もあって、なびく銀髪を撫でつけ毛づくろいじみたことまで始めてしまうも、リクオも猫又たちには慣れているので、彼女等がじゃれてきても、猫とはそういうものと思って嫌な顔一つしない。

 それなら男性スタッフに嫌われるかと言うと、忙しそうなところには裏仕事でもすぐに手伝いに入るし、女相手と変わらぬ優しさで接するので、女にもてていけすかない奴だが、まぁ実力があるんだから仕方がない、と、笑って済ませてもらえる程度。

 三郎猫店長も額の汗を拭い、どうにか今日は切り抜けられそうだとほっとしたが、そこで、危惧していたことが起こった。

「店長、来ました。旧鼠の奴です……!」
「しかも女連れです。女はどうやら人間ですよ。その女経由で招待状を手に入れたんですかね。どうします?」
「どうするって、招待状があるなら、入れないわけにはいかないだろう。二人連れか」
「はい」
「なら、カウンター席に案内して。……花に、話してくる」
 
 何があってもたじろいではならない。
 とは言え、まさに猫と鼠の天敵同士では、敵が視察に来たとなれば緊張もする。
 それも、ちらりとエントランスをうかがえば、女を腕に侍らせてこちらににやにやと嫌らしい笑みを向けているのは、界隈の中でもナンバーワンホストとして夜の帝王を気取る、星矢という男である。
 警戒するなと言う方が無理だ。
 金色に染めた髪を肩までのばし、上下は白のアルマーニ、腕時計は当然のようにオメガ、顔には薄く化粧までほどこし、女受けしそうな顔を作り込んでいる。

 ホールの客向けにはなごやかに笑みを向けつつ、三郎猫は足早にカウンターへ近づくと、リクオにかくかくしかじかと、あらかたの事情を伝えた。
 旧鼠とは、猫又たちの天敵であり、この繁華街で最近人間を含めた女相手に暴利を貪る輩だということ。
 やりたい放題の奴等へにらみを利かせるために、この二号店オープンとなった経緯。
 おそらく奴等は、縄張りを荒らされたような気がしていることだろうから、こちらの開店にケチをつけるなど、嫌がらせは当然、あると思った方が良いだろうこと。

 昼は陰陽師、夜はバーテンダーとして働いていたリクオは、この年でもそろそろ客商売歴は長い。
 壱号店はどこにあるんやろー、そろそろ電話だけでも入れておいた方がええかなーと、のんびりしつつ考えていたものの、難しい客の知らせに、すぐに気持ちを切り替えて、わかったとうなずいた。

「俺達もフォローするから、ちょっと接待じみたことになるけど、お願いしていいかな。女の客の方は、多分あの旧鼠の客だ。あの男のことしか目に入ってないはずだから、加勢は求められないと思う。むしろ、何かとあっちの男を贔屓しよう、勝たせようとするだろうから、何を言われてもスルーした方がいい。なんて言うのかな、女王陛下の仰せのままに、って気分で……って、わかんないか?くれぐれも、売られた喧嘩を買ってくれるなよ」

 三郎猫が念押ししたのは、若い妖怪連中は巡る血のためか何かと気が荒く、どんなに落ち着いて見えてもリクオとて例外ではないだろうと心配してのこと。
 ところが任せてみると、リクオは話を振られても挑発されてもやんわり微笑んでかわす。

「君、急に呼び出された手伝いなんだって?大変だねぇ、段取り悪い店の尻拭いなんてさ」

 例の客、星矢はリクオがカウンターに入るや、はいと言えば店を貶めることになる、いいえと言えば嘘をつくなと笑われる、無視をすれば付け入る隙を与える、どちらに転んでも穴がある問いかけを、さも親切顔で切り出すが、リクオだって伊達に客商売はしていない。

「お呼ばれ、楽しませてもらってます。こういう予想外がないと、新しいお客さんには会えへんから。何にします?」

 問う方にしても答える方にしても、序の口の攻防だったが、星矢はこれを聞いて、ほおうと感心するような表情を見せた。
 加えて、リクオがカクテル帳を差しだしたところで、連れの女性がほんのり顔を赤らめたとなっては、目尻がやや上向きの目に、鋭い光が宿った。

 ホストとして、己の客が別の男に目移りするのは、プライドとしても許せない。
 増して星矢は、この街で一番のホストだともてはやされているのだ。人間であれ妖怪であれ、一度己に惚れたはずの女が、別の男へ色目を使うのは、あるはずがないと高をくくっていただけに、苦々しい想いだ。

 男の不機嫌に気づかず、女はこの店に恥をかかせるという当初の目的を覚えているのかいないのか、「ねえねえ、バーテンさんって、さっき花ちゃんって呼ばれてたけど、それって本名?」「これからずっとここで働くの?もったいなーい、もっと稼げるトコたくさんあるでしょー」などなど、矢継ぎ早に質問責めだ。
 これにもそつなく答えながら、カウンターの別の客の注文に応じ、ホールから次々入る注文に素早く目を通してシェイカーを振る様子は、困った事態があればすぐに間に入ろうと目を光らせていた三郎猫をして、

「……さすが、プロだなぁ」

 と、唸るほどだ。
 化猫屋壱号店では、店長代理として新人教育も行ってきた三郎猫だから、どんな逸材でも努力と教育なくして客との交渉はできないことも、初めて足を踏み入れる店で不安を表面に出さない難しさも、よく知っている。
 こればかりは、生まれつきの妖力云々ではなく、ひたすら訓練、経験あるのみだ。

 そこのところ、リクオはよく訓練されている。
 女たちが根ほり葉ほり聞いた内容は三郎猫にも報告されていたので、京都の異界祇園にある《PlutinumSnake》なる店とは、よほど良い店であるのだろうなぁと感心もした。
 病の母に少しでも良い治療を受けさせるためとは、今時珍しい、健気な若者ではないか。
 あまり立ち入ったことを訊くのはよくなかろうが、いつまで東京にいるのか、その間くらいたまにバイトで入ってはもらえなかろうかと三郎猫が算段し始めた頃には、カウンター席の件の二人は何杯かカクテルを飲み干し、女は上機嫌だが男の方はすっかり置き去りにされて、ふてくされていた。
 頭から無理だろうと思っていたのに、女客を味方につけてしまったらしい。
 これは仕方がないのかもしれない。
 抑えてはいる様子だが、リクオの妖力はそれでも大きい。
 旧鼠が振りまくきらびやかに惹かれた人間ならば、魅せる《畏》を敏感に感じ取り、より大きいものに惹かれてしまったのだろう。
 不思議なのは、その大きな妖気が、化猫たちの誰にとっても恐怖に繋がっていないことだった。
 恐怖よりも安堵が先だって、三郎猫も、この若い妖はさぞかし強い血を引いているのであろうなあと思いつつも、妙にへりくだるようなことがなく、ずっと前から同僚として働いていたかのように話せる。

 逆に、旧鼠がいつもより大人しく思えるのは、三郎猫と同じように妖怪として、目の前の銀髪男が己よりも格上の相手だと本能で悟ったからであろう。
 いつもはもっとよく回る口も、調子が出ないらしい。
 最後に、「ここのバーテンダーさんは、ほら、ショーとかやんないのかい。フレアなんとかってのあるだろう」などと挑発したが、これもやんわりと、「食べ物飲み物で遊ぶなって、お袋によく叱られてなぁ」とかわされたところで、酔った女が笑い、男は席をそっと立とうとした。
 完全に女を取られ、プライドを傷つけられた表情で。

 と、そのときに、ガシャンと音をたてて、氷が跳ねた。
 一瞬、三郎猫は何が起こったかわからなかった。
 カウンターに座っていた女も、きょとんとした顔をしている。
 店の中の他の客には気づかない程度の音だったが、クラッシュアイスを作るミキサーから氷を移そうとしたところで、リクオが氷を少し、カウンターにぶちまけてしまったのだ。
 女客の手元に氷はすべり、胸元に小さなかけらが飛んだ。

 そこへすかさず胸元からハンカチを差し出したのは、今まさに去ろうとしていた男、星矢の方だ。

「大丈夫かい、スカート、汚れなかった?」
「う、うん、平気。ただの氷だし」

 三郎猫、ここではっと気がついた。

「申し訳ございませんでした、お客様!お洋服は汚れませんでしたか!」

 割って入り、リクオと並んで深々と頭を下げると、旧鼠は偉そうに気をつけろよと凄んでみせる。
 ここで、女の方は己の気に入りの男を思いだして、またぽっと頬を赤くそめ、男の腕に腕を絡めて、

「ねぇ星矢、そろそろ行こうか?」

 席を立ち、男と連れだって店を後にしたのである。
 男の方がもっと絡んでくるかと思えば、むしろ会計をすませるや逃げるように去ってしまった。

「………花ちゃん、今の、わざとだろう」
「え、なんです?」
「氷。わざとぶちまけて、あいつにいい格好させてやるなんて、必要なかったぞ。あのまま客を取っちまえばよかったんだ」
「店長が何言ってはるんか、わかりまへんな。すんまへんでした、気をつけます」

 この対応が、ますます三郎猫、気に入った。
 ここで本当に男一人を返していたら、あの旧鼠のボスのこと、根に持ってどんな手荒い仕返しにくるか知れない。
 あそこで面目を保ってやれば、少なくとも表だって事を荒立てるような真似はすまい。

 見事な客さばきに、なあお前はどこの誰なんだいと三郎猫、不思議な奇縁を確かなものにしたくて、いよいよ口に出そうとしたところで、邪魔が入った。
 洗練されたバーには似つかわしくない、髑髏の数珠を首にかけた僧形の男が一人、エントランスドアの鈴の音も高らかに、ふうふうと荒い息づかいで入ってきたのである。
 青田坊だった。
 いやもう一人、後ろから追うようにして姿を現した者がいる。黒田坊だ。

「あれ、青田坊さん、黒田坊さん、来てくださったんですか?今日は用事があるんじゃないんですか?いや、でもうれしいです、いらっしゃい!」
「いらっしゃい、じゃねぇぞ三郎猫!なんであの御方があんなとこにおるんじゃい!」
「へ?」
「てめー、うちの若様に何させとんじゃーッ!」
「へっ、わ、若様って、ちょ、ちょっと青田坊さん、何です?!」

 三郎猫がなつっこく近づいてくるや、物陰に押し込んで首元を締めあげる手際は、さすがは特攻隊長。
 黒田坊が止めに入らなければ、哀れ三郎猫は開店初日のめでたい日に、そのまま気絶していたかもしれない。

「待ってください青田坊さん、黒田坊さん、あの人、バーテンダーさんの代わりじゃないんですか?」
「君たちがどうしてそう勘違いをしたのかしれないが、いや、あの御方はな」

 いきりたつ青田坊をなだめながら、黒田坊が事の次第を話し出したところで、突如、ふっと照明が消えた。

「なんだ?」
「停電か?」

 店員の猫たちは夜目がきくので、小さな明かりでも見逃さない。
 しかし客たちは、なんだなんだとざわつき、少し待っても照明が戻らないとなると、「おい、どうなってるんだ」と、いらついた声を上げる者もあった。

 そんな客たちの間をぬって、裏口から飛び込んできた胡蝶猫が、「店長、店長、大変!」と、また騒ぎを持ってくる。
 開店早々、目当てのバーテンダーは遅刻するわ、旧鼠に因縁はつけられかけるわ、代わりだとばかり思っていた逸材はうちの若様だと奴良組の特攻隊長に締めあげられるわで、すでに胃に三つか四つは穴が開いているかもしれない三郎猫、なかば諦めたようにため息をついた。

「今度はなんだい」
「ブレーカーが落ちたのかと思ったら、違うの!ケーブルが切られちゃって、電気がこなくなってるのよぅ!かじったような痕があったし、ちらっと犯人の後ろ姿を見たけど、きっとあの、旧鼠の仲間よ!」
「ケーブルが?!くそぅ、参ったな、明かりがなけりゃ、店が続けらんないよ」

 しかし、ハプニング続きで結局店を開けられなかったとなれば、めでたい初日にケチがつく。

「とにかく私、そうだ蝋燭。蝋燭用意します」
「そうだな、それから懐中電灯があったはずだ、すぐ用意して」
「はい、ただいま!」

 三郎猫の指示を受け、業者への連絡にそれまでの代替え品としての蝋燭に、客への説明にと一度は散った猫たち、そこで、ふわ、ふわり、と、どこからか漂う光に、今度はなんだとそれを見上げた。

 ふわ、ふわり、ふわり。
 ゆっくりと、羽毛のように降り注ぐのは、光を帯びた花弁。
 見上げてもこれを落とす枝は無く、下を見れば、床に落ちて役目を終えた花びらは、名残を惜しむ視線の先で、そっと、消える。

 慎ましくも確かな光の粒は店一杯に降り注ぎ、真っ暗であった店内を、元通り照らし出すに充分だった。

 これは、と、猫たちが光の源を探すと、それはすぐに見つかった。
 カウンターの中のリクオが、取り出した扇に青白い炎を灯して、これにふうと息を吹きかけていたのだ。
 すると、扇から舞散った炎が、まるで桜の花びらのように、天井からちらちら、ちらちらと、舞い降りるのである。

 幽玄、夢幻の、妖の術。

 それも、この店の客たちが、人も、人に化けた妖怪どもも等しく、ほうとため息をついてうっとりと眺めるような術は、ただの炎妖ではありえない。

「ふむ、お見事。流石は若様、これほどの大人数を相手にして、瞬時に《畏》を集めてしまうとは」
「それはいいがよ、迷子になったと思ったら、なんでこんなトコで酒飲み相手に酌夫の真似事なんざ……。ったく。ようやっと初代と二代目からかすめ取った機会だと言うのに」

 炎の花びらが充分に店の中を照らし出すと、次はこの花びらを生み出す桜の枝が、あちらこちらから、すうと浮き出るように伸びた。
 これが枝までしっかりと光を帯びて、元のように店を明るく照らし出したから、店の中の人々は何かのパフォーマンスだったのだろうと勝手に合点して、また元の通り、酒と料理を楽しみ始めた。
 音楽はまだ途絶えたままだが、なにより、ちらりひらりと舞散る花弁が、季節はずれの花見のようで、最高の肴だ。

「ま、まさか、あいつ、奴良組の若様なんですか?例の、京都抗争の中で見つかったっていう……」
「ああ、そうだ。少しばかり、お優しいに過ぎる方でな。大方迷子になってふらふらしているうち、お前たちが何やら困っているところに出くわしでもしたのではないか?」

 確かに。
 確かに、三郎猫もできすぎているとは思ったのだ。
 今からピンチヒッターを当たってみると電話の向こうのひとは言っていたのに、その電話が切れるや、目の前に現れるなんて。

 どこかで聞いたような話だとは思ったのだ。
 京都育ちの大妖、ずいぶん苦労をしてきたらしいなど。
 東京に、何やら用があってきたなどと。

 三郎猫は若い頃のぬらりひょんを知らない。
 だからリクオの姿から、さぞかし名のある大妖の血を引く妖なのだろうと思いはしても、奴良組と結びつけるのは無理があった。

 けれどもリクオがこちらを見て、子供のように相好を崩して駆け寄るってきたかと思えば、

「おお、青に黒、何や、お前等どこ行ってはったん?探したんやで」

 などと、天下の奴良組本家の大物妖怪相手に、当たり前のように上から物を言うものだから、いよいよ否定できなくなって、ただでさえだらだらと脂汗を流していたところにショックがかさなり、ううんと一つ唸ると目を回してしまった。

「あれ。三郎猫店長、おぉい店長、しっかりしなはれ。………気絶したはる。こぜわしいことばかりやったしなぁ。青、黒、お前等、なにを脅かしたん。過ぎた悪戯はあかんよ」
「いや、若、それはこっちの科白です。迷子になっていらっしゃると思ったら、こんなところで何をしておいでか。三郎猫の奴、すっかり度肝を抜かれて可哀想に。拙僧が今、経をあげてやるからな……」
「勝手に殺すな。まだ生きてはるわ。……何って、お前たちが迷子になっとるようやさかい、探しとったんやないか」
「や、迷子は若、あんたがなってたんでしょーが」
「何を言うとんのや。今日の夜行の主はオレだとお前等が言いはったんやで。なら、主からはぐれたお前等が迷子やないか」
「…………なんという屁理屈を」
「屁理屈やない。当然の道理や。まぁええ、氷麗は来てはるやろうか?」
「いえ、女衆は壱号店で若を待ってますよ。さ、ここはもう充分でございましょう、行きますよ」
「いや、悪いんやけど、もう一仕事や。氷麗を呼んで来てくれ。今は明かりで誤魔化せとるが、電気が通わずに空調も切れてる。このままじゃ、この店は蒸し風呂んなるで。そうなる前にちょいと………あの、ええ匂いの息吹をくれてやるんは惜しいが………この店ん中、涼しくしてもらわへんと。そいから三郎猫店長、休憩室に運んだってや。おぉい、誰か、あ、胡蝶猫、こっちや。ちょいと来て」
「しかし、若様」
「若ぁ」
「えーから 」

 幸いにと言うべきか、猫たちは皆、客と一緒になって夢幻の桜に見とれており、胡蝶猫も例外なく、探し出したマッチや蝋燭を握りしめたまま、ほうと天井を見上げていたから、黒田坊と青田坊の訪問にすら、気づいていなかった。
 呼ばれて振り返り、エントランス前で倒れた我等が店長を見て、慌てて駆け寄ってきた。

 青田坊、黒田坊への挨拶もそこそこ、花ちゃん花ちゃんと懐いている女怪を追い払って若様を連れ出すわけにも行かず、二人は顔を見合わせると、ともかく言われた通り、黒田坊は携帯を取り出し、青田坊は三郎猫をひょいと担いで、胡蝶猫が案内するスタッフルームへと連れていってやるのだった。



+++



 空調は切れたが、客たちは結局、気づかなかった。
 なぜなら、少し暑くなってきたかと思うのも束の間、どこからか雪山から吹き降りてきたような涼しい風が舞い込んできたのだ。
 加えて、青白い光の花弁を咲かせていた桜の枝が、いつの間にか真っ白な淡雪をまとわせている。
 どんなからくりであろうかと喜ぶことはあっても、空調の代わりの氷と涼風であるとは、誰も気づかない。

 この雪と氷を作り出したのは、もちろん雪女だ。

 もしやあの子は二号店とやらのあたりで、うっかり困った人を見つけて、何かしら面倒事を抱えているのではないか、次から次と頼まれるのものに、うんうんと頷いてばかりで、重要なことを言い出せずにいるのではないかと思い当たっていた彼女は、良太猫からもらったポストカードを片手に、黒田坊から連絡を受けたときにはもう、近くまでやってきていた。
 やはりここに居たと知らされ、エントランスをくぐって、カウンターからひらひらと手を振るリクオを見つけたときには、ぐったりとした疲れを感じ、そのまま氷像にして青田坊にかつがせて帰ろうかと、ちらと考えた。
 もちろん、できるはずが無い。

 頼むと両手を合わせて困ったように笑われて、どうして嫌だと首を振れよう。
 そのひとは彼女の想い人で、できることなら何でもして差し上げよう、わがままならば何でもかなえて差し上げようと、常々思っていると言うのに。

「アンタねぇ、お人好しもいい加減にしなさいよ」

 一仕事終えた後、よく冷えたグレープフルーツジュースを飲み終えて、けれど雪女は不機嫌を隠しもせずにこう言った。
 青田坊と黒田坊は、リクオ相手に見せる彼女のこうした様子を見るたび、慣れないらしくぎょっとした顔をする。
 リクオにとっては、そろそろ馴染み深い、彼女のお説教タイムだ。

「お人好しと違う。オレの業や」
「悪しきを討ち、全てを守り、全てを救い、全てを許す、それは結構。百歩、ううん、千歩譲って結構としましょう。アンタはそういう生き物なんだと、仕方がないと諦めもしましょう。自分の命を狙った相手すら懐に入れちゃうんだから、通りすがりのひとなんて、人間だろうが妖怪だろうが《ゴ》ではじまって《リ》で終わる黒いアレだろうが、アンタにとっちゃお友達なんでしょうよ」
「いや、ゴキブリはさすがに」
「その名前は言わなくていいのッ。……コホン、ともかくね、それは仕方がないって、もうわかった。わかることにした。
 でもねぇリクオ様、今日はみんなで折角場所を用意して、事前に都合を合わせて、この日ならって決めたのよ?それをすっぽかしたままなんて、やっぱりどうかと思うわ」
「しゃーないやん、はぐれてもうたんやし」
「はぐれたならはぐれたで、奴良屋敷に連絡一つくれたらよかったのよ。ここの仕事はそろそろおしまいにして、お店の方へ行きましょ、ね?」
「………うん、ごめんなさい」

 たいていお説教タイムは、雪女が諭してリクオが折れる形でおさまる。
 かかあ天下かと言われると少し、違う。
 同じ場面に出くわせば、きっとまたリクオは同じ事をしでかすに決まっているのだ。
 うんわかったと言うのも本気なら、同じことをしでかしてしまうときの誰かを助けたい気持ちも本気だし、どうしてまた同じことをしたのと雪女がいくら怒っても、これまた本気で困ったような顔をしてしょんぼり俯くから、結局、雪女は彼を許してしまう。

 今回もそうしてこの言い合いは終わるのだろうと、誰もが思っていたのだが。

 カウンターの中、グラスを拭く手をとめてしょんぼりした顔をしていたリクオが、驚いたことに、

「でもな、氷麗」

 ちょっとだけ唇を尖らせて、なんと言い返してきた。

「氷麗が手ぇつないでくれへんかったんも、悪いぞ。オレはこの辺のことなんて、なんもわからへんのやから、最初から手ぇつないでくれはったらよかったとちゃうやろうか」
「………ぷっ。そうね、ごめんなさいね」

 けれど雪女は、とろけるように甘く笑うだけだ。
 何も求めず、ただ与えられる痛み苦しみを受け入れるだけだったリクオが、薬鴆堂が炎上したあの日以来、雪女に聞かせるほんの少しのわがままや些細な望み。
 これ等が、彼女はいとしくてたまらない。
 普段は大人びた顔で小物たちを甘やかしている彼が、こんな風に子供じみたわがままを言うのを、青田坊も黒田坊も慣れていないので目を見開き顔を見合わせる。
 これも雪女は誇らしい。
 この子は、このひとは、己だけにこうして無体を言うのだし、叶えてさしあげられるのも己だけだとなれば、それでどうしてさらに叱咤などできようか。

「それじゃあリクオさま。最後にお勧めのお酒をくださいな。その後、今度はちゃんと、手をつないで行きましょ?みんな待ってるから」

 時計を見れば、そろそろ日が変わる時刻だ。
 開店時間に入ってきた招待客はあらかた酒と料理を堪能し、ここから先の招待客はまた客層が違う。
 正真正銘、夜の街で遊び疲れてやってくる客たち、あるいは夜の街で一働き済んだ者たちだろうから、口も奢っているに違いない、似非バーテンダーは去り時だろうと、リクオは納得した。
 空調はなくとも、雪女の妖力で作り出した氷花がある。
 雪女が去ったとしても、万年雪の力なら、夜明けまでは持つだろう。

「うん、わかった。氷麗はどないなお酒、好きなん?」
「私が飲みたいんじゃないのよ。アンタのお勧めを教えてって、言ったの」
「お勧め……。うーん……そやなぁ」
「おい雪女、ブランデーの水割りなんかはどうだ。洋酒もなかなかうまいぞ」
「馬鹿者、女人がそんな辛口を好むものか。若、ここはリキュールと生クリームをシェイクしたカクテルなどが」

 青田坊と黒田坊もここ数日で、若様はどうやら何かを選ぶ、お決めになるということが、日常の中のことであればあるほど苦手な御様子であると感づいた。
 幼い頃から押さえつけられるようにして育ってきたがため、花開院の兄たちも心配するほど受け身の彼に、不器用な任侠男どもができることなど、たかが知れている。
 そういう場面に出くわしたときに、できるだけ選択肢を狭めて加勢するようになった。
 今もそうだ。
 しかしこれは不要な加勢だった。

 少しだけ考えて、リクオは自分から雪女の前に、一本の白ワインを持ち出してきたのだ。
 わざわざカウンターをまわって、ワイングラスに注いだ後、ラベルを真正面にして彼女の前に置く。

「あんな、氷麗、これ。この名前、覚えて」
「うん。………横文字だから、読めないけど」
「シェリー酒。この先、オレが居ないときに、その……友達と飲みに行きはったりするかもしれんやろ。メシとか食いに行ったりするかもしれへんやん?」
「………まぁ、そうねえ」
「そんとき、勧められても絶対、男の前で飲んだらダメや」
「殿方の前で飲んだら、何か起こるの?」
「起こる。とてつもなく(オレにとって)悪いことが」
「アンタの前はいいの?」
「オレはいい」
「どうして?」
「内緒」
「変な子」
「えーから。なあ、約束や」
「はいはい、そんなことでいいなら、いくらでも《約束》しますとも。指きりしましょ。これでいいんでしょ。……あら、美味しいわね、これ」
「もう一口、飲む?」
「いただこうかしら」

 最初は味見に一口分だけ、ワイングラスに注がれたのを飲み干した雪女は、それじゃあもう一口だけ、と、傍らに立ったリクオを見上げた。
 そこへ。

 ………ちゅ。

 唇をかすめるように、何かが降ってきた。
 確かに客の数は減っている。
 こちらを見ている者はいなかった。
 しかし、同じカウンターに座っていた青田坊と黒田坊はしっかり見た。
 含んでいた酒が、だー、と口から漏れて、己等の法衣を汚すのも気づかず、二人はぽかんと口を開けている。

「ちょ、ちょ、ちょ、アンタ、何を……!」
「さっきのお返し」

 たしかにこの時間にもなれば、客は酔いがまわって、周囲のことなどに一切注意などしていないに違いない。
 けど。でも。だからって。
 当然の羞恥に火がついた雪女だが、しかしこの悪戯の甘い毒をつい先刻、リクオに教えたのは彼女自身だ。
 叱るに叱れず、可哀想に、真っ赤になった顔を両手で覆い隠すのがせいぜいだった。

「もうッ!悪戯っ子なんだからー!そろそろ行くわよ、ほら、さっさと着替えに行く!」
「うん。すぐ戻るから、待ってて」

 悪戯が成功して嬉々とした表情で、リクオは身を翻すと裏にまわり、しばらくして元の着物姿で戻ってきた。

 恐縮した様子の三郎猫がその後ろから、腰を低くしてついてくる。
 気がついたものの、ひどく青ざめた様子だ。
 当然だろう、知らなかったとは言え、関東だけでなく今や京都を制した奴良組の若様そのひとを、顎で使っていたのだから。
 リクオ自身が、己の身元は他のスタッフには内緒で頼むと言い含めたし、雪女も彼がそういう御方であるのは承知しているし、二人の特攻隊長も、若様が許されるのならと、ぶすっとした顔で一応の納得をして、四人は店長と数人のスタッフに見送られ、化猫屋二号店を後にしたのだった。



+++



 妖怪たちにとっては、日が変わる刻限など、まだまだ宵の口。
 やっと全員が揃った、今度こそ正真正銘化猫屋の奥座敷で、迷子の若様の、いや、己等が迷子になっていた間の若様のご活躍を聞き、笑ったりあれこれ質問したり、牛鍋で腹を満たし、酒を飲み、踊り、それでもまだ夜明けは遠い。
 周囲にごろごろと、酔いつぶれた妖怪たちが転がるようになった頃。
 誰より飲んでいるのにまだ余力のありそうな毛倡妓が、「ねぇでも若様ぁ」と、お銚子を持ってすぐ側に侍ってきた。

 こちらもまだ余力のあるリクオが、なんだいと答えて硝子の盃で酒を受ける。

「二号店って、人間の客も入ってたんですよねぇ?こことは違って、表側にあるし。妖術なんて使って大丈夫なんですか?」

 浮世絵町に住む妖怪として、当然の疑問だ。
 これに、たった十年ではあるけれど、京都で育った明王もまた、当然のように答えた。

「そういうコンセプトの店なんです(営業スマイル)、って言うたら、信じて帰ったで」

 にっこりと笑顔全開の色男を前に、酔いつぶれた者どもを下座に下げて、リクオの周囲に集まっていた二代目側近衆は、等しく噴いた。
 若様ににじり寄り胸を彼の腕に押しつけようとする毛倡妓に向かって、無言の圧力をかけていた雪女も、目を見開いたほどだ。

 カラーでお見せできないのが残念です。

「………ねぇ首無、何か突っ込んであげて」
「………若、そんな身売りみたいな真似、もうしなくていいんですからね」
「なんや身売りって。営業スマイルくらいこれからやってするやん、客商売やし」
「そんな全開スマイル初めて見ましたよ」
「そら、普通はせーへんわ、こんな疲れる顔。客商売なんやし、しゃあないやん」
「正しい理屈だけどさー、それ、大将としてどうなのー、若さまー」
「あのな河童、最初っから大将やったわけやない。バイトして、陰陽師やって、それで食ってたんや。元服前のちっこい妖風情、プライドでメシが食えるもんか。でも最初は上手くできなくてなぁ、鏡ん前でアホのように練習したりして。……え、なんで皆そこで目元拭う?!笑うとこやって!」
「ふぅん、バイトしてたとき、そんな顔してたんだ。ふぅん。ほぉう」
「いやいや氷麗、なんか誤解してるやろう。あれは特別に何かを誤魔化すときに使う手で」
「わかった。今後アンタがこの姿でキラキラ飛ばして満面の笑み作ったときは、何かを誤魔化したいときってわけね。心しておきます」
「氷麗………いけず言うな」

 こうなれば二人の痴話喧嘩は、格好の笑いの的だ。
 あんまり悋気が強いと他の女のところへ逃げられるわよと毛倡妓が雪女をからかえば、雪女はまた顔を真っ赤にして恥入るし、リクオが真面目な顔でそんなことするはずがないと反論すれば、これまた雪女が頬を染めて俯くし、ほどよく入った酔いも手伝って話題は次から次へと移り変わる。

 青田坊が、この立派な若様が幼い頃は、本家の妖怪たちも手をやく悪戯小僧であったのを懐かしみ、そう言えば昔はかくれんぼがいつの間にか、罠を仕掛ける時間に変わっていただとか、総大将の真似をして木に登りたがって困っただとか。
 そんなやんちゃな若様がまるで別人のようにおなりなのだから、十年とは長い月日でありますなあと感慨にふければ、にやりとリクオが笑って、いや悪戯は虫が騒いだときに今もようやるから覚悟しーやと笑い。

 リクオをよく思わない陰陽師たちの前では流石におとなしくせざるをえなかったが、花開院の兄妹たちばかりが集まっているところでは、年相応に遊んだりもしたし、むしろ己より大きな兄がとんだやんちゃ坊主で、誰かを肥だめに落とそうと罠をかけてほくそ笑んでいたから、これの後ろにそっと回っておどかしてみたならば、結局罠にかけられた妹も罠をかけた兄も兄を脅かした己も、皆仲良く肥だめに入ることになった、という話が出てみたり。
 敵の間合いをよくはかれ、己の懐に入られるような真似をするな、日常から訓練だと思えと鬼童丸が小うるさかったので、姿を隠して後れ毛を三つ編みにしてみたならば、夜明けまで気づかなかった、なにが訓練なものか、などという話をしたときには、奴良屋敷の連中は皆、二代目とともに何度かあの、まさに剣に関しては神の領域を超えた鬼と対峙してきたこともあり、あの強面がなぁとおかしいやら。

 こんな話をしている最中も、リクオは冷酒などは自ら口に運ぶくせに、自ら進んでは料理に箸をつけない。
 ところが雪女が鍋から小鉢によそってやると、よそわれた分だけ口にする。
 話に夢中で他の者が気づかない、この些細な事実を、一人河童は気がついて、ねぇ雪女それってもう直接食べさせちゃった方が早いんじゃない、いちいち面倒でしょと言えば、彼自身には他意がなかったとしても、雪女はまたからかわれたとあわてるし、毛倡妓は案の定にからかう。

 リクオにしてみれば、床についていた間は何も食べる気がせず、せっかく用意された膳でも吐いてしまってはもったいないから、食欲が出てから食べるよと断っていたところ、吐いてしまったときは仕方がないから、ともかく一口だけでもと諭されて、直接口に運ばれていたのは本当だし、その後も、好き嫌いが無いかわりに食への執着も無いリクオに雪女はあれこれと食べるものを用意したり、何か食べたい物をあげさせるなどして、これだけは食べるようにと目の前に出すようにもしていたので、どうして今になって雪女が慌てるのかもわからない。
 けれども彼女が嫌がることは強いたくないので、今まで甘えてしまっていたけれど、嫌な気持ちがするならもう構わなくてええよと、優しく断ってやると、今度は泣きそうな顔をするのでリクオは大いに困った。
 困った挙げ句、いやむしろ自分は雪女に食べさせてもらうのは、嫌な気持ちはしないし、確かにそうでもされないと、自分にとって《食》は一番縁遠い執着であるゆえに忘れてしまうこともしばしばだったから助かっていると言うと、今度はからかわれて顔を真っ赤にしていた事も忘れて、はいあーんと冷ました豆腐を口元に出してくるのだ。
 女とはわからぬものだが笑った顔が可愛いからまあいいか、と、冷ましすぎて口の中でシャリシャリ音をたてる、けれどその分だけ味がしみこんだ豆腐を噛むリクオと、次はお肉ですよと今度はほどよく冷ました和牛を彼の口に運ぼうとするご機嫌な雪女と、二人の熱にあてられたのか毛倡妓はもうからかうのもバカらしいとばかり、若様の盃に注いでいた銚子から己の盃に酒をあけ、はいはいごちそうさま、と呟いた。

 毛倡妓が二人をからかうのを諦めてしまったので、またも話題は若様の京都でのご活躍の話。
 黒田坊や首無が、己を語りたがらぬ若様から、ちょっとした日常のこと、学校のこと、バイト先のことなどを聞き出して、ふむふむとやっている内、ふと話の輪から外れた雪女は、同じく一人するすると水のように冷酒を飲んでいる毛倡妓を、ねえねえと突っついて、こっそり耳打ちした。

「ねえ毛倡妓、知ってたら教えてほしいんだけど。……シェリー酒って、知ってる?」
「ちょっと濃厚な白ワインでしょ?うん、あれも美味しいわよねぇ」
「うん。さっきのお店で、ちょっとだけ飲んできたの。それでね、他の男の前で飲んじゃいけない、飲んだら悪いことが起きるって言われたんだけど……」
「………それ、若様に言われたの?」
「うん」
「へぇ。そぉ。草食ですって顔して、言うこと言うのねぇ」
「何のことなの?」
「いいけど……んー……やっぱりやめとくわ。そういう事は旦那様から教わった方が良いんじゃなくて?」
「………そういうコトなの?」
「うん、そういうコトなの」

 そういうことってどういうこと、と、尋ねるほど雪女は無知ではない。
 無知ではないが初心なので、ああなんだそういうことなのと笑えるはずもなく、せいぜい畏まった表情で俯き、今度こそ耳まで真っ赤にして、ぽむと湯気をあげたのだった。

 このように楽しき時間は瞬く間に過ぎ、あと一時間もすれば日が昇ろうかという頃、宴はお開きになった。
 まだまだ酒と賑わいの余韻が残り、者どもが笑い声を響かせながら、

「さて、今度こそ我等、若を見逃すまいぞ」
「そうそう、迷子にされてはかなわぬからな、わははははっ」
「雪女、しっかりその手を繋いで、離してくれるなよ」

 またも冷やかすような事を言う。
 これを叱りつつも、今度は確かにリクオの手を握った雪女は、リクオがそれで何だか嬉しそうなので、人の気も知らずにまったくと少々恥ずかしさから怒る真似もしてみせるも、その手は離さない。
 さあこれで安心だぞと、奴良組一行がするすると辻から辻へ、来たときと同じように、異界を通り抜けながら奴良屋敷へ戻る、と、気がつけばまた、若様の姿がない。

「………やや、リクオ様がおらぬぞ!」
「雪女もじゃ!」

 今度は、しっかり手を繋いでいたはずの雪女までが居ないとなって、誰もが騒ぎ始めたが、一人毛倡妓は事情を察した様子で彼等をなだめた。

「いいわよ、放っておきましょ。雪女は携帯持ってるんだし、何かあればきっと連絡が来るわ。迎えがほしけりゃ、本家に朧車を呼ぶでしょうよ」

 何かを含むような彼女に、首無がどういうことだいといぶかると。

「若様も男だということ。手を繋いだまま消えた二人を捜すなんて、野暮言うんじゃないの」



+++



 ………もしもリクオが奴良家の若様として育ってきたなら、ここで話は終わったろう。
 奴良屋敷の者どもは、伏目屋敷の者たちに輪をかけて、人の世の決まり事にやや疎いきらいがある。
 そこであのまま育っていたならば、どんなに世俗に触れて過ごしていたとしても、若様よ三代目よと育てられた者が、己のものと決めた女へ、どうして躊躇をしたろうか。
 今も屋敷の者どもは、毛倡妓の思わせぶりこそ正しいものと思え、祝言前とは言え、内々では既に夫婦なのだからそういうこともあるだろうと、現に奴良屋敷の妖怪たちは頷き、あのお小さかった若様が大将としても男としても立派になられてと苦笑いはすれど、疑う者はなかった。

 雪女自身すら、己の手を引いたリクオが、そっと彼等から離れ、己等の姿をすいと消して、屋敷とは別の方向へ歩き始めたときには、どきりとしたほどだ。
 そのどきりが、不安や後ろめたさなどからではなく、期待そのものからであっただけに、たどりついた先が先程の二号店だった時には、言わずにはおれなかった。

「ちょっとアンタ、何なのよココは」
「何って、さっき来た、二号店」
「知ってるわよ!なんでココに来なくちゃいけないのって事!」
「なんでって、気になるやろ?開店日、ちゃんとうまくいったかどうか。友達もできたし」
「気になるって………はぁ」

 期待した分、溜息もあったけれど、その後すぐに雪女は気を取り直した。
 と言うより、自然と笑みがこぼれた。

 楽しげに手を引かれてこんな事を言われては、友達ができたなどと人なつっこい子供のように微笑まれては、許すしかないではないか。
 一人で姿を消して様子を見に行くのではない、今は彼女の手を引いているのだ。
 彼は一人ではなく、己とともに行きたいと、そう言うのだ。

「しょうのない子ね、アンタは」
「裏口から、ちょっと中、のぞくだけやから」

 リクオの手にはいつの間に買い求めたのか、化猫屋壱号店のおみやげまでが握られていて、件の店の裏口から顔をのぞかせた化猫の手に、これが渡った。

「あれ、花ちゃん!飲み会、終わったのかよ?」
「え、花ちゃん?!やだー、また来てくれたの?」
「これウチの店のくずきりじゃん!あたし好物なんだよねー。金魚の形の白玉って可ぁ愛いよねぇ〜。食べていいの?」
「あかんよ。見るだけや。……嘘やて。みんなの分あると思うから、例のバーテンダーさんと店長にもよろしゅう言っといて」

 それじゃあと、裏口から顔をのぞかせただけで帰ろうとする彼を、居合わせたどの猫も引き留める。
 中には裏口から裏通りに出て、「もう少しゆっくりして行きなよう」と袖を掴む猫又もおり、これが、外で待っていた雪女に、気づいた。

 奴良組の妖怪たちは、だいたい化猫屋の猫たちに顔が知られている。
 先程、青田坊黒田坊と一緒に雪女が現れたときには、騒ぎが次から次と起こっていたから詮索する間もなかったし、三郎猫店長も、三人が連れだって開店祝いに来てくれたのだとしか話さなかったので、そうかと納得するしかなかった猫一同、今度こそおやおかしい、といぶかる。

「花ちゃん、雪女さんと知り合いだったの?」
「うん」
「え。何だよ、いつの間に?お前、奴良組美人といつの間に知り合ったのよ!」
「まあ、色々あってな」
「ちょっとアンタ、もういいんでしょ?そろそろ行きましょ」

 質問責めにされそうなリクオに助け船を出したのは、ほかならぬその、雪女だ。
 奴良組の若様であると知られたなら、せっかく懐いてくれた猫たちが、きっと遠巻きになってしまう。それを不安に思って、リクオが身元を隠しておきたい様子であったのは、見ていてよく、わかったので。
 そのちょっとした思いやりや、手を引く所作が、また猫たちの詮索を煽る。

「なあ、お前、雪女さんとどういう関係なのよ?」

 どうもこうも、肝心の本人がまだ、祝言をあげぬと言っているのだから、中途半端なところだ。
 そうだ、己は一体この男のなんだろうか、内縁の妻とでも言っておけばいいのだろうか、などと、雪女が首をかしげてリクオを見つめるが、見つめ返したリクオの方が、とろけるような眼差しを雪女に向け、はきと言うのである。

「オレの嫁さんに、なってもらうひと」

 誰もが目を見開いて、二人を見比べる居心地の悪い空気に、ただの一瞬だって耐えられず、雪女は「ごめんね、隠してたわけじゃないんだけど、言いそびれちゃって」と恐縮した様子を見せた。
 もちろん猫たちは彼女を責めるわけもない。
 ただただ、皆が申し合わせたように目を見開いた。

「ええええ、花ちゃん、妻帯者?!」
「お前、お前、いつの間に俺たちの憧れのひとを!不可侵条約を知らねぇのか!」
「花が知るわけねーだろ、阿呆。なんだそういうことかぁ、祝言はこれからなのか?じゃあ二次会にでも、さっそくこの店使えよ、歓迎するからさ!」
「しょんぼりぃ……。花ちゃん、ひとのものになっちゃっても、あたしたちのこと、構ってよね」

 口々に祝福の言葉を二人に向ける猫たちに、挨拶はまた改めてと背を向けて、二人はまた歩き始めた。
 肩を並べて歩く二人を、後ろから猫たちが囃す声が追ったけれど、雪女はともかくリクオはまるで動じていない。
 今も彼女の華奢な手をしっかりと、優しく握っている。
 ふと見上げれば、横を歩く彼が己を見つめていたかと思えば、額に口づけが落とされた。

「も、もう、さっきからそればっかり!どこで覚えたの!」
「どこでって、さっき氷麗が教えてくれたんやろ」

 そうであった。
 無垢に眠っているところへ、甘い悪戯を仕掛けたのは、雪女だった。

「だからって、こんな、人が通る場所ではいけません」
「裏通りで、誰も通らん」
「それでも!」
「なんで?」
「恥ずかしいから!私が!」
「ふぅん」
「わかった?」
「うん」

 もしかしたら雪女は、とんでもないことを教えてしまったかもしれない。
 これまで指一本、触れようとはしなかったくせに、触れ方を教えてみたなら、新しい所作を覚えた嬉しさからか、ひっきりなしに雪女に触れようとする。
 手をつなぐのも、そうだ。
 膝枕もそうだ。
 軽い接吻の雨も、そうだ。

 彼女とともに居られるのが嬉しくてたまらないといった様子なので、つい雪女は、いつしか手を引いていた己が手を引かれていて、歩む先も奴良屋敷ではないらしいとわかっていながら、そのまま歩みに任せてしまうのだった。
 この子はなにをしたいのかしらと、またも思った雪女、途中、辻を曲がっただけでなく、風に乗って一飛びもして、ついた先は、浮世絵町の中、平成から忘れられたように過去の面影を残す、大きな寺の講堂だった。
 朝早い僧たちが、そろそろ起き出す時間だろうに、リクオは彼女の手を引いて、「ちょいと罰当たりなんやけども」と、屋根の上にひょいと足をかけるのだ。

「人間に見つかっちゃうわよ?」
「大丈夫や。いくらか瓦を蹴っとばして落としても、見えへんようにしとるから。……この姿でいられるうちに、ちゃんと帰る」

 さらに上って屋根の上、てっぺんから真上を見上げると、東の空が白みはじめ、たなびく雲は桃色の袖のようである。

 朝でもなく、夜でもなく、黄昏でもなく、今日ではなく、しかしまだ明日でもなく、曖昧に静まり返った、不可思議の時間。
 ほらと指し示された空は、つい先ほどビルに囲まれ窮屈そうだったのに、寺の敷地には遮るものがないので、それだけでずいぶんと開けて見えた。

「綺麗。……ふふ、この街で、空がこんなに広く感じるなんてね」
「この前、爺様と散歩してたときに、ここを見つけてな。きっと晴れた日の夜明けなんぞは、綺麗だろうと思ったんだ。氷麗と一緒に、見ておきたかった。この街も、綺麗なところ、楽しいモン、たくさんあるな」
「ええ、素敵な街よね。アンタの生まれた街」
「……京都にも、たくさん綺麗な場所がある」

 東京を訪れたときに比べて、リクオは頑なな心を開き、己がまだ奴良屋敷の、ぬらりひょんの孫でいられることを喜んでいた。
 それでも、東京にこのままとどまるとは、決して言わない。
 この時にも、リクオの言葉の裏に、奴良家への遠慮があるようにも思え、その腕に抱かれたまま、彼の顔を見上げて慰めようとした。
 そこで、視線に射抜かれた。
 血のような紅瑪瑙の瞳が、甘く熱く、彼女を見つめていた。

「一つずつ、全部、氷麗に教える。伏目の山奥に湧く泉のそばは、真夏でも涼しいし、鬱蒼と生い茂った木々の枝が腕をのばして折り重なり守る泉は、透明でとても綺麗なんだ。苔むした岩場はもっぱらオレたち兄妹の遊び場だった。あの辺りはご近所さんのお稲荷さんの使いも遊びに来るから、そのときは紹介せんとならんな。あの場所は、氷麗もきっと気に入る」

 何を言われているのかわからず、聞かされるままの雪女へ、しっとりと落ち着いた声はさらに、リクオがこれまで見てきた十年の京都、その一部を語った。

「……夏は暑いが、秋になると床冷えしてな。ガキん頃は茶釜狸の茶釜に、あったかいお茶入れて抱えてたことがある。それでも、紅葉に彩られた昔ながらの寺社の趣なんかは、綺麗なモンさ。その後は、お前の過ごしやすい冬と、お前が好きな春がくる。……全部、オレの見つけた綺麗なモン、全部、お前に話す」

 だから、かんにんしてな、と、リクオは結ぶ。

「お前をこの街に残すとは、もう、オレには言えん。きっともうすぐ氷麗は、この綺麗な空とも、しばらくお別れや」

 かんにんな、と、もう一度、彼は繰り返した。
 後ろめたい罪を告げるように小さく、彼女の耳元で。
 身を寄せあっていたところへ、さらに抱き寄せられ、甘えるように彼女の肩へ口元を埋めてしまった彼の意図を、雪女はやや遅れて飲み込み、彼の髪を、彼が眠っていた間していたように、よしよしと撫でてやるのだった。

「言ったでしょ。私は自由な雪の女です。降りたいと思うから、京の都に降ることにしたの。アンタが謝ることなんて、何もないのよ、しゃきっとなさいな。どうしてもアンタが私を連れ去るって話にしたいんなら、もっと堂々と連れ去ったならいいのよ」
「連れ去っても、氷麗は嫌やないか?」
「私が嫌だと言ったら、やめられそうなの?」
「………やめられへんと思う」
「ふふふっ、それじゃあ訊く意味なんて無いじゃない」
「うん。だから、ごめん。オレに浚われてくれ、氷麗」
「コワい明王さんもいたものね。断っても連れていくくせに、まずは断られないようにしっかり獲物を籠絡するんだもの。いいわよ。浚われてあげる。大事にしてくれるって、言ってたものね?」
「する。大事にする。守る」
「我が身にかえても、というのはもうダメよ。明王さんなんだから、この先、戦う場もあるでしょうよ、でも私、もう悲しいのなんてまっぴらですからね。戦いが終わった後、アンタがぴんぴんして帰ってこなくちゃ、やだ」
「………うん、わかった」
「本当?本当にわかってる?私はね、アンタが人の姿でも、妖の姿でも、どちらでも無事にお帰りにならなくちゃ、嫌ですからね。私はどっちの御姿も好きだし、どちらの御姿だって、誰にくれてやるつもりもないの。わかる?」

 くすりと、今度はリクオが笑った。
 どうして笑うのかと、問うてみれば。

「氷麗は、本当に変わらんな。昔の約束のときと、まるで同じや」

 リクオが絡めてきた小指に、雪女も、あの日の約束を思い出した。

「約束する。どんなことがあっても、きっと氷麗のところへ帰る」
「なら、リクオさま、私は未来永劫、貴方様を癒し守護する雪でありましょう」

 もうすぐ夜が明ける頃となり、名残惜しいが、二人はその場を離れることにした。
 背の高いビルの影に隠れて、今一度そっと、今度はどちらからともなく、あの日にはなかった口づけを、交わして。

 奴良屋敷の面々は、これまで初々しい二人をからかうばかりだったのが、この日の朝帰り以降、ぱたりとそれをしなくなった。
 かわりに、二人をすっかり男と女として扱うようになったので、事情を訊いたところ、先日のあの朝帰りで名実ともに雪女は若様の妻となったのではないかなどと小物連中にまで言われるし、二代目が若々しいお顔でクソ真面目に「そんで、おれの孫はいつ頃になりそうだい」などと言うものだから、これは雪女のみならず、リクオまでがあらぬ疑いに顔を真っ赤にして否定したのであった。

 いまだ清いままの二人の仲、噂先行は相変わらず。
 というところで、花霞リクオの真夏の夜のバーテンダー騒ぎ、どっとはらい。



<そぞろ歩き・了>