久しぶりに、長雨が降った。 雨を嫌うリクオのことだから、また一人、部屋でぼんやり窓を開けて見つめているのかもしれない。 この屋敷には伏目屋敷のように、早く眠るようにと声をかける者など居ないから、洗濯物を畳んでしまったら、すぐに行ってあげなくちゃ、と、雪女は積まれた洗濯物を手早く畳んでいた。 リクオにとにかく甘いのは、奴良屋敷の者たちも伏目屋敷の者たちも同じだが、奴良屋敷の者たちはリクオの昼の生活というのをあまり重んじず、夜更かししたなら、その分朝に寝ていれば良いではないかという理屈で動いている。 もちろん、リクオはそうはせず、朝はいつも通り早く起きて、己の勤めとして経を読み、本を読みなどするので、結局身の負担になってしまう。 あとは針仕事が残っていたが、これは明日やることにして、部屋をのぞいてみようかしらと腰をあげかけたところで、襖の向こうから、声がかかった。 「氷麗、おる?」 まさにその、リクオの声だった。 入りたいと思うところが、他人の家であれ人の心であれ、するりと入り込んでしまうぬらりひょんの血が濃く顕れる夜の姿であるのに、彼は決して女の部屋に無断で入らない。 「居るわよ。どうしたの?」 「………ううん、なんでもない」 居るんやったらいい、と、そのまま去ってしまいそうな遠慮がちな気配に苦笑する。 一体いつになったら、妻にすると明言した女の部屋に、例えば女の方がいけませんと申し上げても、押し入ってくるような気概を見せていただけるのかと思えば溜息も出るし、声色が微妙に悲しげであるのを聞き分けてしまうと、 (ああ、寂しくなったのね) 自分の方が悪いことをしたような気にもなって、こっちにいらっしゃいなと、声をかけた。 すると、少し迷ったように間をおいて、ほんの少しだけ、襖が開いた。 それから、雪女がきちんと正座をして、傍らに洗濯物の山が積まれているのを見ると、そこで初めて、己が入るためにもう少し襖を開けた。 己が寝間着姿なので、雪女もそうなら遠慮しようと思っていたのだろうが、彼女がきちんと襟元を合わせたままであるので、堪えきれなくなったのだろう。 何においても一歩引いて待っている彼にしては急いた様子で、許しも無いまま彼女に近づき、抱き寄せた。 あまり無いことなので驚きはするものの、雪女が冷静でいられたのは、己を抱きしめる腕の強さが常の思いやりを捨てた、すがりついてくる幼子のように思えたからだ。 泣き虫で、寂しがり。 京都駅で己等を見送った、花開院の妹の言葉は正しかった。 早く大人になり過ぎた彼は、そのためか時々、思い出したように子供だった。 それも、わがままの言い方を知らぬ子供だった。 限界まで何でもため込んでしまうから、今もきっと、長雨を見てばかりではならないからと、そろそろ寝ようとしてみたものの、悪い夢でも見て飛び起きたのだろう、雪女を抱き寄せた胸は、涼しげな顔とは裏腹、ばくばくと跳ねるような鼓動を刻んでいた。 それが、彼女が彼の背に回した手で、ぽん、ぽんと、優しく宥めてやると、次第に落ち着いていく。 「落ち着いた?」 「………うん」 腕の力が抜けた頃を見計らって訊ねてみれば、名残惜しそうに、するりと放される。 何ならそのまま、部屋に持ち帰りでもしてしまえばいいのにと、雪女こそ不満に思うが、一度たりともそんなことはない。 奴良屋敷を訪れてからこちら、二人は夫婦と扱われてはいても、寝床は別々、部屋も別々で、一線は保たれている。 それでも今日は何だか去り難そうで、そこにすとんと彼は腰を下ろし、雪女と、その辺りの畳み終わった洗濯物の山とを見比べ、彼女の傍らに道具箱があるのを見て、期待するような声を出した。 「針仕事、まだあるのか?」 「ううん、遅くなっちゃうから、明日にしようって思ってたとこ」 「なんだ、そうか」 「ちょうど寝ようかしらって、思ってたところだったんだけど………」 「………うん、寝てるかと思った」 「一緒に寝る?」 「え?いや、それはその。………すまん、邪魔した。もう、戻るから」 「あらぁ、そのつもりで、来てくれたんじゃないの?」 「そのつもり?」 「 夜 這 い 。 とか」 一瞬、きょとんとしたリクオの顔が、次にはかあと熱に染まる。 もちろん、雪女はわかっていてやっている。 先日、人前であれだけ恥ずかしい想いをさせられたのだから、これくらい、可愛い意趣返しというものだろう。 「そ、それは、その、まだ、早いっていうか」 「あら。夫が妻を夜這って、何が早いの」 「だ、だって、子供とか」 「産むのは私。アンタが産むわけじゃないでしょ。どーんと任せておきなさいよ」 「でも、その、ええと」 「何か、障害がある?」 年が何だとか、常識がどうのとか、全部が全部、人間の世の決まり事なので、結局は障りなど、何もない。 むしろ二人が自他ともに認める夫婦であるからには、当然奴良屋敷の者どもは新しい若様をと望んでも居る。 孫が奥手であるのを見抜いた初代などは、とある夜に異界の岡場所へ孫を連れだし、酌婦に相手などをさせてまずは免疫をつけさせようとしたほどだ。 人間が飲む酒では水と同じなので、女怪の妖気をたっぷりと蒸留した上等の妖火酒でしこたま酔わせ、孫の妻に良く似た面立ちの女を用意したが、ならなかった。 酔うには酔ったものの、リクオは紅い布団の上で男と女、二人きりにさせられたところで、女が悪ふざけで妻のふりをして彼を呼び招いても、女をちらりと見やったものの、ふんと一つ冷たく笑っただけで、まるで興味を示さなかったのである。 仮にも五年以上、あの羽衣狐の下に在った彼が、そんじょそこらの女怪に籠絡されるはずもなかった。 逆に、その気だるそうな視線の一撫でが、まるで手加減の無いものであったので、可哀想に酌婦は畏れのあまり、その場でひっくり返って泡を吹いた。 さらにリクオはその場からさっさと朧車で屋敷へ帰り、ふらつく足で雪女を探し、ちょうど湯殿を使って戻ってくるところだった彼女を廊下に見つけると、そこで抱きついて眠ってしまった。 翌日リクオは初代の思いやりを無碍にしてしまったろうかと後悔していたが、むしろ仕打ちに怒ったのは雪女の方だ。 奴良家の若様であることは重々承知しているが、あの男は同時に己の《虜》であることを、ゆめゆめお忘れなきよう願いたいと、底冷えするような美しい目でしっかと初代を見据えて申し上げたのである。 京都、決戦の場において、誰にも氷原の幻を見せたという彼女の畏れを聞いてはいたものの、ただ無垢で愛らしいばかりだった雪娘の女らしい仕草を目の当たりにした初代は、彼女がこうも強くなったかと思えば怒るどころか感心もし、鷹揚に笑って、悪かったもうせぬよと答えられた。 最後に一言、早いところ曾孫を頼むと付け加えて、雪女の頬をぽっと染めさせるのは、忘れなかったけれど。 障害どころか、待たれている。 京都を発つときには冗談だとばかり考えていたけれど、ここに来て、鬼童丸がみやげにとほしがったものが、真実味を帯びてきた。 花開院の兄たちや妹たち、祖父はどう思うだろうと考えても、どうしてだろう、己を叱る顔というのが、どうしても思い浮かばず、いつしかその場に正座をして己の膝を見つめていたリクオは、 「障害は………ない、けど」 蚊の鳴くような声で、こう、答えるしか、なかった。 「そうよね。無いわよね。人間の血が濃くたって、アンタは昼間じゃ陰陽師として稼いでるわけだし、結婚するのが後回しになるだけで」 「うん………」 「はぁ。この三千世界のどこかで、私と同じ雪女の氷麗が居たとしたら、もしかするとひょっとして、同じ顔した殿方に、『帯はほどくためにあるもんじゃねーかー』『いけませんリクオ様、あーれー』なんて目に合わされてんのかしら。悔しい羨ましい妬ましい」 「げ、下品な想像せんといて。そんな事、オレと同じ顔した奴がしとると思うとしばきとうなる。ないない、そんなん無いッ」 「居るかもしれないでしょー。………ふふふっ、そんな、眉根に皺を寄せないの。どう転んだって、私にはアンタだけなんだから、仕方ないわよね。それじゃあその代わりに、アンタ、今日、私と一緒に寝なさい」 「え」 「嫌なの?」 「う、ううん」 嫌などころか、この雨の日は、供寝をしたいと思いつつ、しかし己から一線を引いているので、言い出せなかったリクオだ。 「ええの?」 逆に訊いた。 「いいも悪いも、普通でしょ。夫婦なんだから」 「祝言、挙げてへんのに」 「そうね。いつにするつもりなのやら」 「冬」 「………冬?」 「うん、冬休み。そうしたら、氷麗かて白無垢着はっても、お色直ししはっても、暑さで参ることあらへんやろ。京都に戻ってから、あっちこっちに招待状出すにしても、それくらい準備の時間も要るし」 「そうなの。ふふ、いいわ、わかった。でも、今は今で夫婦の予行練習だと思えばいいじゃない。一緒に寝るだけなんて、伏目屋敷でもしてたんだから」 じゃあ部屋から布団を運んでくると言うので、いらないわよそんなものと雪女は笑った。 リクオのためにも今日はもう早く休んでしまおうと、手早く寝間着に着替えて、二人して一組の布団に潜り込む。 招かれるまま腕の中、ぴったりとくっついて来るところを見ると、余程の悪夢を見たのだろう。 やがて、すうと眠ってしまったリクオの寝顔を見つめ、屋根裏でどたばた騒ぎ出した小物たちの足音を聞きながら、何事もなさ過ぎるほど平穏に過ぎていく今日という日に、雪女はこう言い訳することにした。 だいたい、この男はまだまだ子供なのだ。 元服したにはしたけれど、悪い夢に飛び起きて己を捜しに来るような、子供であるのだ。 だから彼女自身もつい、彼との間に子をもうけたいという気持ちより、彼だけを甘やかしてやりたいと思ってしまうに違いないのだ。 もっとも、翌朝雪女を起こしに来た毛倡妓などは、雪女の腕に抱かれてぐっすりと眠るリクオと、これを己の胸元に抱き寄せる彼女とをしっかり見てしまったので、供寝までしておいて何もなかったなど嘘を仰いと、まるで信じた様子はなかったのだけれど。 +++
己の喉を喰い破って、そこから鳥が生まれる夢を見た。 鳥はとてつもなく大きな翼を広げて、空も海も陸も、太陽も月も星も、地平線も水平線も、白も黒も、光も、闇すらも、全てを覆い隠してしまった。 鳥はこれ等をたいらげて、どんどん、どんどん、大きくなった。 いくつもの空といくつもの海、いくつもの太陽と月と星、那由他の時すら喰らい尽くして、いつしか鳥は己を閉じこめる籠に気づいた。 世界は鳥を閉じこめるには狭すぎて、もろすぎて、やがて、鳥は雄々しく翼を広げるために、己を閉じこめる殻を壊してしまった。 かしゃん、と、世界が壊れて。 さらさらさら、と、粉々に砕けた世界が崩れて砂になって、風に消えてしまった。 鳥は一人ぼっちになってしまった。 けれども鳥は止まらなかった。 世界から抜け出てみると、そこにはさらに大きな世界があった。 鳥は己を囲む籠から抜け出たように思っていたが、そこにはさらに籠を囲む籠があっただけだった。 鳥は嘆いた。憤った。 在るから、失われるのだ。 ならば最初から、無ければいいのに、どうして世界はどこまでもどこまでも、在り続けるのか。 見れば、あちらこちらに、己が生まれ出てきたのと同じ殻が、いくつも、いくつも、渦を描く七色の砂に埋もれている。 ぴくりとも動かぬ幾つもの殻を見ても、やはり鳥は嘆いた。憤った。 その小さな殻の中で、いくつもの大きな悲哀が繰り返されていることを思えば、嘆かずにはいられなかった。 さらには、どれほど殻の中の者たちが祈っても、願っても、応える者など、世界の外にすらどこにも居ないのだ。 壊そうと思った。 それだけが救いだと思った。 ところが外からいくら叩いても、蹴っても、殻は頑丈でびくともしない。 殻の中では、殻の外と違う律が働いているらしい。 けれど、鳥は感じていた。 殻の中で、己と同じ嘆きを持つものが居る。 怒りを持つものが居る。 鳥は、その声に耳を貸すことにした。 すると呼応して、やはり大きな翼を広げて内側から殻を破り生まれてくる者があった。 毛色は様々だった。 白いのもいれば黒いのも、男もいれば女もいた。 老いたものもあれば、幼いものもあった。 等しいのは、皆が皆、悲憤を叫ぶ喉を破って生まれてきたことだった。 そう、喉を喰い破って生まれたはずの鳥は、その喉の持ち主と全く同じ姿と心を持っていた。 つまり、化生であった。 鬼にも修羅にもおさまらず、尚深く、尚昏く、尚大きく、だからそうなるしかない者たちだった。 彼等は、彼等を産み落とした世界からしてみれば、等しく世の終わりであった。 世に始まりが一つであるように、終わりは一度しかない。 神話の始まりではない、神話の終わりではない。 ただの始まりと終わりである。 だから彼等は彼等の世界で、ただ一羽の鳥であった。 一羽ずつの鳥だった。 彼は、そのうちの一羽だった。 力づくで止める者は無かった。 彼等という鳥は、世界でそれぞれ一羽ずつ、世界の最後を連れてくるほどに、大きな力を持つ鳥なので。 やめようと思うことは無かった。 引き返すには、もう遠いところまで羽ばたいてしまっていたので。 説得してやめさせようとする者は無かった。 彼等を愛してくれた者たちを失ったことこそが、彼等が鳥になった理由だったので。 彼等は、大きくうねり世界の間を飛び回る、砂嵐のようなものだった。 乾き、嘆き、決して癒えることのない、灼熱の悲憤そのものであった。 彼等は一つずつ、亡骸を腕にかかえていた。 愛しい者の亡骸だった。 皆が皆、ただ横たわって死んだのではない、何かしらの傷を負っていた。 ほら、己の腕を見よ。 白く気高く美しく、誰より優しかった愛しい女、白百合のように匂いたっていたというのに、どうだ、肌という肌は焼け爛れて火膨れができ、膿がたまって腐った泥の臭いがする。 櫛を通せばさらりと滑った、艶やかなみどりの黒髪も、むしり取られて僅かばかりが頭皮にべったりと残っているだけだ。 片目はえぐり取られ、片目はぼこりと晴れ上がり、目から飛び出して垂れ下がっている。 それまで、ぼんやりと夢の中で、鴉の群を眺めていたリクオは、これに絶叫した。 腕の中のそれは、雪女のなれの果てに違いなかった。 叫んで、叫んで、叫んで ――― 己の声で、目が覚めた。 しと、しと、しと…………雨が、降っていた。 「つ、ら、ら………?」 びっしょりと、汗をかいている。 どこかから、笑い声が聞こえてきた。 屋根裏をとたぱたと、走る音がする。 すぐ脇の襖から、廊下の明かりがもれていた。 起き上がり、額の汗を拭う。 胸がばくばくと跳ねていた。 腕には、あの亡骸を抱えていた重みが、まだ生々しく残っている。 ただの夢だと己に言い聞かせるが、体は勝手に震えた。 足は勝手に部屋の外へ出て、彼女の元へ向かった。 悪い夢を見て彼女の姿を捜すなど、まるで子供ではないかと思えば、部屋の外まで来ても、声をかけるのがためらわれた。 気配がするかどうかだけを判じて、すぐに去ろうか。 迷っているうち、中で衣擦れの音がしたので、リクオはとっさに声をかけていた。 「氷麗、おる?」 間もなくして、こちらにいらっしゃいなと招いた優しい声に抗えず、子供のように縋って彼女の冷たい体温を求めた。 あの夢は。あの悲憤を超えた悲憤は。 絶望すら生易しい、煮え滾った油を我が身に注がれ続けた方がまだましと思える、張り裂けんばかりの胸の痛み。 それを抱えて尚もまだ、蠢いているあの黒雲のような鴉たちは。 何とも言えぬ、何とも呼べぬ、強いて言えばあれがきっと。 ――― ああそうか。 理由も訊かずに己を宥めてくれる、白い手の持ち主を抱き締めながら、リクオはあれが何と呼ばれるものなのか、途端、理解に及んだ。 ――― あれが、地獄鳥 ――― 《鵺》なのだ。 <三千世界の鴉の悪夢/了>
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