夕飯前に一杯やるのは、隠居された初代のささやかな楽しみである。
 己が引っ込む離れの部屋で障子を開け放ち、ぬるい夜気が入ってくるに任せて、暮れていく風情を楽しみながら、次第に色を濃くする月を待ちつつ、風に揺れる枝垂れ桜の羽音を聞くのが、まだ二代目が幼かった頃に己の妻が歌っていた子守歌を思い出させて、たまらなく心地よいのだ。

 隠居が独りこうしているのを、寂しげであると以前は思ってた屋敷の者たちも、今はただ、微笑ましく見守るのみだ。
 今の初代は、独りではないのだから。

「お前さま、少し飲み過ぎではありませんか。もうお年なんですから、ほどほどになさらないと、お爺さん」
「何を言うか婆さんや。銚子一本二本で酔いはせんぞ。……しかし少し、眠とうなってきたのぅ」
「困った方ですこと」

 言いながら、初代に侍る女の声はどこまでも優しい。
 初代が眠そうに目を擦り、座布団を引き寄せてごろりと横になったので、ヤタガラスは器用に黒い翼で挟んでいた銚子を盆ごと脇へ下げ、その背中に寄り添った。

 そよと風が吹き、さわと桜の葉が揺れる。

 酔いが手伝ったか、くくりと愉快そうに初代が小さく笑った。

「どうなさいました?」
「なに、浮き世というのは、いつまで経っても面白いものと思ってよう。ワシはそろそろ、此の世の憂いも楽しみもあらかた見たと思い、あとの事はあの世の楽しみにとっておくつもりじゃったが、とんだ天狗だったようじゃ。まさかあれから四百年も経ってからこの平成の世で、お珱、おめぇとよ、ばあさんや、じいさんや、なんて呼べる日が来るとは、これっぽっちだって考えてはおらんかったよ。てっきり此の世からあの世へは行ったっきりで、喪われたモンは、落ちた花は、元にはもどらぬと思っておったが、なくしたはずのモンが還ってくるということは、あるもんなんじゃなぁ。ワシの桜が返り咲いた。実に、嬉しい」
「花の頃と言うには、既に過ぎておりますよ、妖様。私の血肉は既に無く、姿はどうやったって、仮初の大烏の姿です」
「なに、見目ばかりがお前さんの美しさじゃねぇや。可憐じゃ。お珱、お前さんはいつまで経っても、やはり、例えるならば桜。そこに在ってくれるだけで、心がほころぶ。だいたいよう、見目の事を言うならワシはずいぶん変わったと思うぞ。お前さんを看取ったときは、まだ髪が残っておった。よく飛び込んでくるなり、すぐにワシだとわかったもんじゃ」
「わかりますとも、姿は変われど、お前さまはお前さまです」
「そうじゃな。仮初の、形代に宿る魂のみと言えど、お前さんはお前さん、ワシのお珱じゃ。ワシゃ、リクオが生まれたときにお前さんが居なかったのが残念でのう。手前等のことをよ、おいばあさんや、はいなじいさんや、なんてのをようやくできるようになったというのに、相手が居ないのなら始まらんではないか」
「まぁ、欲張りな御方ですこと」
「おう、欲張りだとも。せっかくだからリクオが居る間、お主をこうして貸してくれとる隙に、久しぶりにでぇとでもするか。のぅ、ばあさんや」
「はいな、おじいさん」

 リクオの式神、ヤタガラスは、数百年前に此の世を去ったはずの己の妻だった。
 先日の薬鴆堂炎上騒ぎ以後、リクオは特に用がないときでも、こうしてヤタガラスに、喚び出しに応じるように命じたままだ。自然、リクオが眠るときや用があるとき以外は、初代のそばには、かつての妻の魂が寄り添っている。
 目を閉じていたときのリクオが、彼女の魂を少女の面影残す公家の姫と感じ取ったと同様、初代にしてみれば彼女の心の形が変わらぬのが嬉しくいとしい。
 人と妖、共に年を重ねることができなかった二人は、出会いの時から見ると世界の涯てに等しい平成の世において今、再び静かに、時を過ごしていた。

 この二人だけの時間に、わざわざ騒ぎを起こして邪魔をしようなどというものは、この屋敷には、

「てめ、リクオ!陰陽術は反則だぞ!いてぇ!札はいてぇから!」
「うっさいだぁほ!そんな事はひとのモン返してから言え!そのパピコはオレが後で……」
「後で何。何。なんなのかなぁー?お風呂あがりに氷麗ちゃんと半分こするつもりだった?あまずっぱぁーい、かーわいーぃ」
「…………………滅」
「いでっ!だからそれ、痛いって!」

 二人の血を引く息子と孫以外に、無い。

 廊下をどたどたと駆け抜け、近づいてくる声。
 かと思えば、初代とヤタガラス、二人が夕暮れをしっとりと楽しんでいる離れの襖が無遠慮に開かれた。

「親父、お袋、邪魔するよ」

 スパーンと襖を薙ぎ払うや黒い疾風のように入ってきて、無粋にも、横になる初代の体をひょいと飛び越え、開けはなっていた障子から庭に出ていったのは、間違いなく二代目魑魅魍魎の主。

「爺様を巻き込むな!跨ぐな!行儀が悪いふざけんな!……爺様、ヤタ、すまんな。すぐ終わらせるから」

 これを叱りつけ、ご丁寧に横たわる初代を避けて、やはり障子から庭に出ていったのは、すっかり夏休み満喫中の、花霞リクオ。
 パピコを持って逃げる二代目を、追いかけていたリクオは、屋敷中を巻き込んだ追いかけっこが二周目に入るかと思われたところで、唐突に終わりを告げた。

 一周目にリクオが物陰にしかけておいた札が、一斉に燃え上がって二代目の足を絡めとったのである。
 破邪の炎に足を取られ、あわれ二代目はつんのめり、その場で顔面から転けた。

「痛い!この縄痛い!」
「当たり前だし。結界の縄だし。なんで動けるし。パピコの箱返せほら。あーあ、ちょっと溶けてる。箱ごと持ってくヤツがあるかよ。ったく。……ホレ」
「あれ、くれんの」
「全部持っていこうとするから怒るんだろうが」
「おー、ラッキー」
「それ一番溶けてるしな」
「ちょ……!」
「自業自得だって。あーあ、余計な汗かいた。風呂はいろ」
「じゃーパパとお風呂にでも入るかー」
「あんた、わざと目にシャンプーねらい打ちしてくるからヤダ」
「りっくんこの足の縄ほどいてー」
「てめーで切れよ。どうせできるんだから。………疾、結界解け」

 今日は、パピコの箱の取り合いだったらしい。
 昨日はリクオが、二代目が集めていたプレミアムモルツの懸賞シールを、ゴミとして処分したのが原因だった。
 一昨日は、ガリガリ君を近くのコンビにまで、どちらが買いに行くかで勝負をしていた。
 そろそろ二人の追いかけっこぐらいでは、奴良屋敷の誰も驚かなくなってきた。

 今も、初代とヤタガラスは諦めたような溜息を同時について、お互い顔を見合わせ、くすりと笑い合ったぐらいのもの。

「なんじゃ、あやつは。あれで父親やっておるつもりかよ」
「何百年生きても、生来の悪戯小僧というのは中々変わらないものなのですねぇ。呆れるやら嬉しいやら。しかし、リクオさんがあんな風に遠慮なく、のびのびしているのは珍しいことです。こればかりは、鯉伴のおかげでしょうね」

 そう、リクオは夏休みを、この奴良屋敷でのびのびと過ごしていた。
 とは言え、生活は規則的そのものである。

 朝起きてまず行うのが、奴良屋敷の仏壇に手を合わせての勤めであり、昼には手習いをし、部屋を片づけ、夕暮れになって明王姿へ変化した後にまず行うのが、道場を借りての稽古。
 東京にやってきても、生真面目なリクオの日課はそれほど変わらない。
 最初は相手のないところで、素振りや丸太を木刀で叩きつけるのを繰り返していたのだが、最近はもっぱら、二代目相手にちゃんばらごっこだ。
 いらぬ、と言うのに、口を出してくるのである。

「なぁその《楠》って技さぁ、単調じゃね?最初の一発は度肝抜かれるかもしれねーけど、二度目、三度目となると目新しさがない分かわしやすいしさー。どうなの」
「目新しさが無くてもかわせないほど、早けりゃいいんだろうが」
「それは相手が自分より格下だった場合だろー。相手が格上だったときどうすんの。それとも花霞くんは格下の奴しか相手にしないのかなーぁ?」
「妖怪同士、一騎打ちになることなんてまず、ねーだろ。だいたい多人数で囲んでボコる」
「相手が格上で、自分たちより大人数だったら?そんときは《櫻花》だって見切られるに違いないぞ。どうする」
「……そんときは術使って、いくらか目眩ましする」
「だよなぁ。鬼童丸の奴より腕力も技の精度も速さも劣るお前が、唯一勝てるものと言えば、その幻術と陰陽術だよなぁ。だったら、技を出すときもその術使って、実体をつかませないようにしないとさー、技を出すときは実体に戻っちまうんだったら、そこ狙ってくださいって言ってるようなモンじゃん。元々あいつの技って力技だからさぁ、後ろまわってポコってやりやすいんだよ」

 このように、二代目の評するところはいちいち、ごもっとも。
 鬼童丸の技は、妖怪とは思えぬほど真正直な力技であり、鍛錬に鍛錬を重ねて隙を小さくしたところで、幻術に不意を突かれることもある。
 弱点があるのはよく知っているし、鬼童丸もそれを隠さずリクオに教えてきた。
 しかし、師本人から、自分の剣、つまりお前が学ぶ剣にも弱みがあり、だから剣を極めるということは、できるだけ隙を小さくするためだけに他ならないのだから、妖同士の畏れの奪い合いをするからには、剣だけでなく己の畏れ、それこそ容姿の麗しさや立ち振る舞いに現せる妖ならではの艶やかさや、夢幻を魅せる術、すべてを使って挑むのだぞと言い聞かせられるのはともかく、別の者から同じことを言われると、お前の師など何するものかと鼻で笑われたようで腹が立つ。

 もちろん二代目にそんな気が無いのは百も承知だが、あの喧嘩騒ぎ以来、リクオの中では彼に対する我慢は簡単に限界を迎えるようになってしまったらしい。
 他の者相手なら、我慢を我慢とも思わず飲み込んでしまうようなところでも、一度カチンとくるとつい手が出る。
 うっさいわこのすかんたこが、と、リクオが二代目の顔面に木刀を投げつければ、二人の中でゴングは鳴り響き、試合開始。
 取っ組み合う、つかみ合う、くすぐり倒す、つねる、組み敷く、けらけら笑った二代目がプロレス技に持ち込む、リクオが禁じ手の目潰し、急所蹴りを敢行する、等々、鍛錬の時間は結局じゃれ合いの時間にかわり、しかもそれが終わると二代目がけろっとした顔でさあそろそろ飯だと立ち上がるのに、リクオはぜえはあと息も荒く立ち上がれないとなれば、喧嘩をふっかけた側として面目も立たない。

 それでも、こんな取っ組み合いの遊びでも、いくらか効果があるものらしい。
 体力がついたのか、繰り返しているうち、リクオから音を上げることは少なくなり、今では一つ勝負がついた後に、二代目の方から何かしら悪戯をしかけて、リクオに追い回されるというのが、夕方の恒例行事だ。

 今日も奴良屋敷は平和に、若様や初代の大奥様の魂を迎えた分だけ余計に賑やかに、宵の宴を始めるかと思われた。



+++



 夕暮れの街を、慌ただしくカラスが横切り、降り立った先はまさにこの奴良屋敷。
 庭でパピコをくわえていた二代目と、タオルで汗を拭っていたリクオの目の前である。

 カラスは三羽。
 カラス天狗の長男が黒羽丸を筆頭に、次男トサカ丸、長女ささ美が続いて、二代目の前に膝をついた。

「申し上げます、総大将。例年より早く、奴等が姿を現しました!」
「なにィ?確かか。その目で見たのか」
「は。まず青蛙亭より今日の昼間に、客の数人に被害が及んでいるらしきと報せが参りまして、カラスどもを使って調べてみたところ、既に数匹が成体となっているとの由。これを受けて我等で急行してみたところ、渋谷、池袋、新宿、他にも人の集まるところに確かに、奴等の母体が生息しているのを発見しました。見つけ次第、捕獲して滅するようにと通達し、我等も身の丈一尺程度の奴等を数匹排除いたしました、あれで終わりとはとても………」
「なに、一尺程度が何匹もいやがんのか。まずいぞ。奴等、成体になるや次々増える。一尺程度からが危険だ。よし分かった、貸元どもに急ぎ報せろ。黙ってるとてめぇのシマが、オニヤンマだらけになるってな」

 オニヤンマ。
 リクオの耳には、確かにそう聞こえた。

 それはあれだろうか、水源でよく見る、やや大きなトンボ。
 あれをつかまえたとなると、少年たちの中ではちょっとした英雄扱いだ。
 幼い頃、修行で入った山奥の水源のあたりで、ゆらと一緒にオニヤンマやアゲハチョウを追い掛け回したこともあるリクオは、黄色いシマ模様の大きなトンボを、まず思い浮かべた。

 しかしどうだろう、二代目の表情ときたらそれを聞いただけできりりと引き締まり、ただ事では無い様子。
 たった今、庭先にたどり着いたばかりの三羽カラスも、二代目の命を受けるや、汗も拭わず飛び上がり、三方に飛び去ってしまった。
 リクオは、確かめようと聞き返す。

「………オニヤンマって?」
「ああ。奴等が出てくるの、もう少し先かと思ってたんだけどなァ。年々早くなってきやがる。リクオ、悪ィがおれはこれからちょいと出てくる。お前は爺ちゃんと先に、メシ食ってていいからな」

 言うが早いか二代目は、騒ぎを聞きつけた妖怪たちがどうしたどうしたと庭先に出てくる中から、首無と毛倡妓、青田坊に黒田坊、それから河童、というように、出入りのときにはまず名前が上がる武闘派どもを呼びつけて、声高らかに言い放つ。

「おい、奴等が出たそうだ。手前等、これから退治に行くぞ」
「なんですって?!二代目、まだ八月ですよ?!」
「そうですよう、若様の夏休みが終わってから、のんびり対策練ろうって言ってたじゃないですかぁ」
「って言ったって、出たって言うんだから仕方がねぇだろう。それも、もう一尺に育った奴がごろごろしているらしい。奴さんは待っちゃくれねぇよ、とっとと行って、片っ端から潰してやらねぇと」
「へへへ、言ってわかるような相手じゃねぇからなァ。今年は何匹つぶせるか、腕がなるってもんだぜぇ。おい黒田坊、何匹やれるか競争するか?」
「ふん、貴様ときたら毎年それだ。拙僧に勝てたためしなど無いではないか」
「今年は、お前が総大将に鬼纏われた分は、カウントせんぞ」
「ひ、卑怯ではないかッ!」

 話を総合すると、どうやら彼等はそのオニヤンマを、ひっつかまえて、滅するのが目的のようである。
 なぜ、そんな自然破壊を。

「ちょ、ちょっと待て。それって、トンボだよな?トンボのことだよな?」

 ただ一人、話に置いて行かれている気がしてならないリクオは、集まった彼等にこう聞き返した。
 誰もがふむ、と顔を見合わせて。

「まぁ、トンボと言えば、トンボですわねぇ」
「そうですな。形状はトンボそのものです」
「と言うより、トンボの化け物ではないか?」
「うん、トンボだな」
「トンボ以外の何でもないよねー」
「………で、なんでその、トンボを退治するのに百鬼夜行が必要なんだ?」
「いやいや、たかがトンボ、されどトンボだ。あのなリクオ、トンボだと思ってナメてたら、あいつ等、次々増えやがる。一時期より減ったような気がしなくもないが、そりゃあ子供の数が減ったからだよ。それに放っておくと、結局人間に取り付いて、人間の脳味噌操って血をすするようになるんだぜ。早いうちに退治するのが吉さ」

 人間の子供の数が減ると、オニヤンマも減る。
 放っておくと人間の脳味噌を操って血をすする。

 これは、リクオが知っているオニヤンマの生態と、かけ離れていた。

「ここは、爺ちゃんとおれの《畏れ》で囲んであるから大丈夫だ。お前はここで待ってな、リクオ。今のお前が貸元どもの前に姿を現しちゃ、ちょいと面倒だろう。未だに表向き、花霞大将は敗残処理でここに居るってことになってんだから」

 それはそうであるし、ここは奴良組のシマなのだから、己がしゃしゃり出るのもおかしい。
 リクオはそのオニヤンマなるものがどういう妖怪なのか、京都ではとんと見かけないが、そのうち西への驚異とならないかなど、気になりつつも不承不承、頷いた。

 頷いてから、しかしこちらの姿でなければ良いのではないか、とも思ったが、今までも何となく言いそびれていたことだし、黙っておいた。

 毎年のことであるのなら、それほど危機的な状況でもないのだろう。
 ここから逃げろではなく、家に居て御隠居と一緒に飯を食ってて良い、と言うぐらいなのだから。

 二代目が揃いの羽織の側近衆を率いて行ってしまった後、途端に手持ちぶさたになったリクオが、風呂を使ってみると、小物妖怪たちはいつもと変わらずのんびりと、湯につかっていたりするし、風呂から上がって浴衣に着替え、髪を拭きながら賄い処をのぞいてみると、女衆は毛倡妓が欠けた程度で、変わらず夕食の準備にこそ忙しそうにしている。

「あら若様、お風呂上がりの一杯ですか?」
「雪女、若様だよ」
「え?あらまあ、どうしたの?何度も言うけど、このお屋敷ではアンタに手伝いなんてさせませんからね」
「ああ、いや、そういうんやない。……なぁ氷麗、お前も、オニヤンマって知ってるのか?」
「そりゃ、知ってるわよ。なんだか今年は早いわね。いつもはもうちょっと遅く、だいたいセンター試験とやらの三ヶ月前あたりから見え始めるのに」

 何故、センター試験と秋のトンボが関係するのか。

 ますますリクオは首をかしげ、見目に釣り合わない可愛らしい様子を、暖簾を己の首でかきわけていた轆轤首が間近で見て、くすりと笑った。

「雪女、ここはもういいから。旦那様をそう待たせるんじゃないわよ」
「え、で、でも賄いの準備が」
「大丈夫。あんた達が魔京抗争でいない時は、私たちでちゃあんとここを賄っていたんだから。あんまり好い人を待たせて、若様の首が私みたいになっちまったら困るでしょうに。ほら、行った行った」

 奴良本家の妖怪たちは、二代目が腕白な幼子だった頃から知っている者が多いから、これがさらに子供に恵まれて、どこか初代に似た面立ちをしているとなればそれだけで猫っかわいがりだが、その中でもこの轆轤首は、江戸の頃、妖怪でありながら人間の男と縁があり、その間に何人もの子供をもうけてもいたので、人と妖の間に生まれた若様を昔から可愛がっている。
 彼女と、他の女怪たちのからかい声に押し出されるようにして、雪女は酒器一式を押し付けられ、リクオのもとへぽいと押し出されてしまった。

 リクオにとっては、願っても無いことである。
 どうせまだ、夕餉まで時間はある。
 賄い処の女衆に笑みを向けて礼を言うと、思わぬもらい物となった雪女を抱えて、さっさと部屋に引っ込むことにした。
 こんな事をここ数日何度も繰り返せば、初心な雪女とて慣れてもくる。
 もちろん、頬をぽっと染めるところは変わらないが、ひょいとリクオの腕に抱え上げられても、慌てふためいて己が持った盆を取り落としそうになることは、無くなった。

 彼女を宝物のように抱えて部屋へ向かう最中、リクオはここまで不思議に思っていた件を、ついに問うてみる。
 その足取りはゆっくりで、己の姿を隠すつもりも無いらしい。
 小物どもが二人を見かけると、ひゅうひゅうと囃したてるのだが、これをむしろ楽しんでいるようだった。

「なぁ氷麗、そのオニヤンマって、妖怪なのか?」
「え?そりゃあ、もちろん。幽霊も悪霊も怨霊も、精霊も天女も鬼神もひっくるめて妖怪と呼ぶんなら、アレだって妖怪でしょ」
「初めて聞いた。どんな妖怪なんだ?」
「え?あー……そうか、まだ東京にしか居ないって話だったっけ。最近増えたのよ、あのトンボ型妖怪」
「トンボ型っていうか、オニヤンマって、最初からトンボやないか」
「発音がちょっと違うわね。《オニヤンマ》じゃなくて《オニバンバ》。……鬼婆の事よ」
「あー……なるほど、鬼女か」

 なんだ、と、リクオは頷いた。
 よかった、自然破壊ではなかった。

 オニヤンマではなくて、オニバンバ、だったらしい。

「とは言っても、昔ながらの鬼女とはちょっと違うの。貸元にも鬼女の眷属がいるけど、あんなのとは一緒にされたくないものだって、辟易としていらっしゃるわ。ここ二十年かそこらですごく増えたって二代目が仰ってた。昔から妖怪は、ふとした時に他愛もないところから生まれてくるものらしいし、二代目は江戸の頃に百物語で生み出された妖怪たちと死闘を繰り広げたらしいけど、このオニバンバはいわば、現代の百物語みたいなものね。人の怒りの念というか、醜い憤怒の念が凝り固まって、生まれたんですって」
「ふぅン。放っておくと、人にとり憑いて血を啜るようになるとも、聞いたけど」
「そうね。すごく大きくなると、そういうこともあるみたい。《通り魔》だってそうでしょう?あんまり大きく育て過ぎちゃうと、人は知らず知らずのうちに、自分のとり憑いた魔の囁くとおりに動いて、自分に寄生した魔に、贄を捧げようと動き始める。オニバンバもね、そういうものなの。通り魔と違って楽なのは、声がウルサイから探してとっちめるのが簡単ってことね。でも、数が多いから大変。青や黒はいつも、ゴミ袋持って片っ端から詰め込んでるわ」
「…………害虫駆除業者みたいだな、奴良組」
「害虫。それ、ぴったり。顔が鬼婆で、羽が生えてて、ひょろ長くて、本当、姿形は虫そのものなんだもん。それも特大トンボよ」
「なんかちょっと、見たくなってきた」
「やめておいた方がいいわ。アンタもきっと嫌いよ、アレ」
「なんで?虫は昔から、ゆらとよく追いかけ回しとったけど」
「違うのよ。ただの虫じゃないんだったら。いい?鬼婆よ。センター試験前とか、年度末前になると増えるのよ。母と子の仁義無き受験戦争や間口の狭い就職戦争に向ける確執から生まれた怨念そのものなんですもの。アンタにその恐ろしさが、わかる?」
「…………何それ。ようわからへんけど」

 興味本位で、ちょっとだけ姿を隠して見に行こうかな、などと言いそうなリクオの鼻を指先でつんと突っついて、「いいこと」と、雪女は言い聞かせた。

「あの虫にはね、脳味噌なんて無いの。条件反射でこう鳴くのよ。『勉強なさい!』『宿題しなさい!』『まだ寝てるの?!合コンばかりで内定の一つも決まってないくせに!』『実力テストの結果はどうだったの?!』『就職できたからって、飲んでばかり!昇進するための勉強はどうしたの!』『資格取れ!勉強しろ!』『家に金を入れろ!』……人間ってどうして、今で満足するって事、知らないのかしらね。傲慢な生き物だこと」
「うわぁ、強烈やな。いつの時代ものび太くんは大変や」
「笑い事じゃないわ。特に、アンタにとっては」

 ここでリクオの部屋についたので、畳の上に下ろされた雪女は、抱えていた盆を脇に、脇息や座布団を用意するなど甲斐甲斐しく世話をして、酒器に酒を注いでやってから、まだ濡れている彼の髪を、優しく櫛で梳いてやるのだった。

「だってあの虫、その声を聞く者の、母親の声で鳴くんですもの。紛い物とは言え、その声でそんな風にアンタを詰るなんて、冗談じゃない。行きたいって言ったって、行かせませんからね」

 盃を口へ運ぼうとしていたリクオの動きが、ぎくりと止まった。



+++



 害虫とはよく言ったもの。
 街を黒雲のように覆い蠢く様は、田畑を荒らす蝗の大群によく似ていて不吉であった。

 一匹ずつは妖力が小さく、そのためによほど勘の良い者以外は人の目に映ることも無いが、だからこそ人がふと油断したところにとり憑いて、好物である負の念をすするのだから、厄介なもの。
 二代目率いる奴良組の面々も、号令がかかった貸元どもも、これを根絶やしにしてくれると勇んで、己の業をもって次々にほふるのだが、いかんせん、数が多い。
 いつもよりも早く姿を現したオニバンバの群は、六本の細い足をぎちぎちと軋ませながら、己の同胞が少しばかり数を減らしたからと言って何を気にした風もなく、浮世絵町の夜を舞い飛んでいた。

 一晩で終わるだろうと思われていた騒ぎが終わらず、翌日も引き続き、オニバンバ探しに奴良組一同が駆り出され、それで今度こそ終わりかと思っていたのに、やはりその夜になってもオニバンバが現れるとなれば、小さな虫けらを踏みつぶすだけの事とは言え、誰もが辟易とし始める。

 人の念から生まれてくるにしても、これほどの数に上ったことは未だかつて無く、またオニバンバは、一度成体になるとそれがまた小さなオニバンバを産むといった具合に、単体生殖が可能であるから、生み出した人間を見つけようとしたところで、無意味だ。
 あくまで、オニバンバ自体を根絶やしにせねばならない。

 大きな成体オニバンバは、鳴き声もうるさいし、人にとり憑いたならその人間は目を血走らせて、頭に血を上らせ正気を失って怒鳴り散らすようにもなるので見つけやすく、その人間が理性を失って、言い争いの果ての刃傷沙汰に及ぶ前になんとか退治できているが、その代わり、小蠅のように小さなオニバンバは、日を追うにつれ、妖の世界では次第に問題になり始めた。
 なにせ、うるさいのだ。
 小さいくせに、ぷーんと羽音をたててやってきたかと思ったら、耳元で甲高い声をあげ、「何回言ったらわかるの!」「また部屋を散らかして!」「少しは先のことを考えたらどうなの!」と、やられるのである。
 誰しも、叱られた記憶はある。
 ついでに、怠けたい気持ちも、やっぱりある。
 ちょっとだけいいかな、必ず正午からはちゃんとあれをやるから……という気持ちで、それまでの猶予を楽しんでいるところへ、正午五分前に耳元で、「やっぱりやってない!」と言われたら、別にいつも遊んでいるわけじゃないのに、と、いや確かにやるべきことをそっちのけで現実逃避していた非はあるにしても、へこむ。

 妖怪どもにとっては、せいぜいこの程度の被害ではあるが、誰だって、こんな事をさえずる羽虫があちこちうようよしているのを、気持ちよく思うはずがない。

 オニバンバ対策本部、と物々しい看板が奴良屋敷のある一室に掲げられてから七日。
 その間、ささいな被害は次々報告され、用意された十数台の電話は鳴りっぱなし。
 賄い処の女怪たちまで駆り出されて、電話受付にあたる始末。
 被害の内容には、良太猫がやる気を無くして人型を取ることすら億劫になったか、猫姿のまま不貞寝ばかりしていて、化猫屋壱号店の勘定方がすっかり滞っているとか、置行堀が、人のものを取る気力も、逆に返す気力も失ってしまい、畏れを失った堀に目をつけた人間どもが堀に不法投棄を繰り返したせいで堀が埋まってしまったとか、ささいだけれども確実に奴良組内部に及ぶものも聞こえ始めていた。

「かと言って、あの羽虫どもを一網打尽になんぞする術、流石に考えつかねぇよなァ」

 初代とリクオが、小物どもに囲まれながら居間で夜のバラエティ番組を見ているところへ、二代目がこうこぼし、どっかりと座って団扇で己を仰ぐ。

「そう大きい奴等が残ってねぇんならよ、放っておけばそのうち消えるんじゃろう?放っておくわけにいかねェのかい、倅」
「おれもそうは思うんだけどさ、こうも増えられると公害だろ?去年までに比べて早く姿を現したのもそうだが、妙に数が多いのも気になるし、誰かが培養して放ったんじゃねェかとも思ってなァ。もしそうなら、あいつらに好き勝手やらせておくのは、奴良組のシマ荒らしを放っておくのと同じこと。根絶やしとまではいかなくても、何かしら、原因をつかむところまではやっておきてぇのよ」

 ヤタガラスに淹れてもらった茶をすすり、リクオに取ってもらったちゃぶ台の上の煎餅をかじりしながら、二代目がかつてないオニバンバの猛襲に首を傾げる横で、リクオも今まで聞いたことのない妖怪に、興味津々。
 頭の上に3の口、懐にはかつての蛇太夫だった小蛇をまとわりつかせくつろぎながら、心配というよりも好奇心で、これを受ける。

「猩影がさっき電話で、実家のオニバンバ対策、手伝わされてはる言うてた。人の念から生まれる妖怪なら、確かに時代や世相に応じて新しいモンが生まれるのは仕方ないけど、その虫が口を開くやお袋の声でガミガミされんのは参るって。でも面白いから一匹捕まえて、プラスチックケースの中で飼ってみたら、クワガタと同じ蜜に寄って来るって言うてた。スイカも食うんやて。で、クワガタを捕まえるときと同じように、林の木とかに蜜を、しかもその蜜ん中に人の怨念混ぜこんだのを塗って、しばし待って、いっぺんに捕まえたら結構うまくいったって、言うてたよ」
「何その習性。本気でほぼ虫じゃねえか」
「せやけど、蜜に怨念混ぜ込むってのが、何や面倒なんやて」
「だろうねェ。誰かが代わりに作ってくれるならまだしも、人の怨念って臭いし。おれアレ嫌ぁーい。ところでこの番組見てる?チャンネル変えていい?」
「ええよ、なんぞ見たいモンあるの」
「通販番組」
「……しょうもないモン、買うんやないで。蔵ん中で埃かぶってるアレコレの謎がようやくわかったわ」
「見てる間は、すげーなー、ほしーなーって思うんだもん」
「あれは社長の畏れの賜やろう。アラームすらついてへん置き時計が宝物に見える」
「え、あれって畏れの発動だったの?!」
「せや。気を確かに持ち、平常心でおれば阿呆な買い物なんてせんですむ。電波を通して不特定多数への畏れの発動をするんや、奴の力は底知れんて、白蛇店長が言うてた」

 ジャーパ●ット、ジャパ●ット〜♪
 夢のジャパ●ットタカ●〜♪

 お馴染みの音楽が、お茶の間に流れる。
 いつものオープニングと違うのは、輪になって踊っている面々が、どう見ても妖怪らしき姿形であるということだ。
 それもそのはず、チャンネルは人間向けの民放ではなく、最近局を立ち上げた、マヨナカテレビという妖怪向けのチャンネルである。
 人間よりも長く生き、しかも学校も試験も何にもない妖怪は、とにかくひたすら暇なので、人間と同じチャンネル数では、すぐにテレビになど飽きてしまうから、チャンネル数にいたっても独自の文化を遂げた。
 その一つがこの、マヨナカテレビである。

 とは言え、結局流しているのは人間の番組とそう変わらない、取るに足らないあれこれ、のはずだったのだが。

『さぁみなさん!本日ご紹介いたしますのはですね、モモ印のキビダンゴでございます!これが何をするのかと言いますとですね、ほら、最近ぶんぶんと、うるさいでございましょう、そう、オニバンバの季節でございますからねぇ!  今年は例年に見ない異常発生ということで、対策が追いついていない、ということもございます。そこで!
 開発されたのがこの、モモ印のキビダンゴ!
 これはどういうものかと言いますとですね、なんと人の怨念と、昆虫採集用の蜜と、さらに安心の薬鴆堂が提供いたします眠り薬を、練り込んだものなんでございます!』
「よし、百ダースくらい奴良組名義で買おう」
「落ち着け二代目!おかしいやろ!ああいうモンほしいなーって思うところにあらかじめ作ってあったかのようにテレビで売り出すとか、おかしいやろ!誰かの策略やないのか?!モモ印ってなんや?!誰や?!」



+++



 奴良家のお茶の間で、今日は通販番組を引き金にした二代目と若様のガチンコ勝負が始まった頃。
 浮世絵町駅に降り立った、三人の人影があった。
 少年二人、少女一人の三人連れだが、会話からも兄妹であるのは誰から見てもすぐわかる。
 彼等が人目を引いたのは、少女に上方訛りがあったのと、三人ともが着物姿であったから。

 駅構内の地図と、手持ちの地図とを見比べて行く先を定めた彼等は、駅を出てから繁華街に入り、時折地図を見て方向を定めながら歩いていたが、やがて誰からともなく、ふと空を見上げた。

「なんやろうね、この虫。おしょらいトンボとも違うし」
「うん。京都では見かけないよね。小さいし、それほど妖力もないみたいだから、もしかして奴良組のペットか何か、なのかな」
「おいおいお前たち、まさか本気で言ってるんじゃあるまいな?こんなのをペットで飼ってるとしたら、奴良組はそれこそ真っ黒の極悪集団だ。この煩わしさ、たまらんぜ」

 目に見えぬはずの小さな羽虫を、三人はしっかり、それぞれの目で捉えていた。
 トンボくらいの小さな羽虫は、顔ばかりが肥大した鬼婆のそれで、それがぶつぶつ、ぶつぶつと、文句ばかりを垂らしている。
 全く、可愛げの無い羽虫であった。

 ともかく、あまり害は無さそうなので、夜空を飛び回る羽虫たちはそのままに、三人は歩を進めるのだが。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 一番小さな影が、くたびれたような声をあげて、足を止めた。

「もう遅いし、やっぱりリクオに電話入れて、迎えに来てもらった方がええんちゃう?あんまり遅うなっても、迷惑になるんやない?」
「馬鹿者。抜き打ちで行くからこそ、あいつがサボらずに勉強や修行に励んでいるかがわかるんだ」
「リクオが今までサボったところなんて、見たことないわ。自分かて思ってへんくせに」
「わからんだろうが。生家に戻って気が緩んでいないとも限らん。羽衣狐を倒し、生家でも内々ではあるが若様として迎えられ、目も開いて好いた女まで手に入れて、順風満帆だからこそ、油断も生まれやすい」
「そこは素直に、ちゃんと遠慮なく甘えられてるかどうか、電話越しじゃなく直接見て確かめたいって、言えばいいのに。竜二ってば、可愛いんだから」
「………魔魅流」
「うん?………ぶふ!」
「………そのままよそ見して歩いてたら、看板にぶつかるぞと教えてやろうと思ったが、気が変わった」
「酷い!今のは酷い!」
「何度も同じ目に合っているというのに、学ばんお前が悪い。大丈夫かお前、小児科医が夢とか言ってるが、患者を呼ぶたびに鴨居に頭ぶつけてたら脳味噌ゆがむぞ」
「竜二みたいに性格歪むよりマシですぅー」

 魔魅流と竜二、二人が大人げない口喧嘩を始めたのを、やれやれまたかと肩をすくめて止めもしない三人目は、もちろん、ゆらであった。
 この二人の兄弟喧嘩は、いつものことだ。
 不安に思うほどのことではない。
 ただ、じゃれているだけだ。
 リクオが止めなければ、今頃魔魅流は能力を格上げする代わり、禁呪に心を喰われて、こんな言い合いもできなかったかもしれない。
 そう思えば、可愛いものだろう。

 ゆらは都会の夜の蒸し暑さに参ったのと、あちらこちらを飛び回る羽虫に、ふうとため息をついて、兄二人から目を離し、空を見上げた。

 そこで、見た。

「お兄ちゃん、魔魅流くん、あれ!」

 ぎちぎち、ぎちぎちと、六本足をきしませ。
 昆虫の複眼をぎょろぎょろとさせる、鬼婆の虫。
 そこ等を飛び回っているのとは格の違う大きさ、立ち上がった熊ほどはあろうかというオニバンバが、人の目に映らぬのを良いことに、夜の繁華街のビルにびったりと、蜥蜴のように張り付いていた。
 しかもよく見れば、どこで拾ったか、六本の足で器用に、人一人を抱えている。

 きらびやかな繁華街を見下ろして、そこで獲物を物色していたらしい。
 意地汚く薄ら笑いを浮かべた口からは、黄色い歯がのぞき、耐えられずに滴り落ちた涎が、ビルを伝ってアスファルトを黒く濡らしていく。
 というのに、人の目にはオニバンバが映らないため、雨でもないのに濡れたアスファルトも、どこか配管から水が漏れでもしているのだろうと思われて見向きもされない。今も人々は、己等の天敵が存在するとは露ほども思わぬ様子で、真昼のように明るい街を、酔いに浮かれた足取りで笑いながら、奴の鼻先を歩んでいくのだ。

 既に一人抱えているというのに満足を覚えず、これだけたくさん歩いているのだから、もう一匹ぐらい摘んでも良いだろうと、意地汚く考えたのが、この大オニバンバの命取りであった。

 まさに今、上からついと伸ばされた、昆虫の足。
 これに絡めとられそうになったのは、ただ一人、携帯に触れながら物憂げに歩いていた少女だった。

 いかに勘の無い人間といえども、いざ自分を掴んで闇に引きずり込もうとする手には、気づく。
 自分が餌場に居たとは知らぬまま、上からひょいとつままれて初めて、少女は悲鳴をあげた。
 が、無駄だ。
 街の人間たちは、それぞれ自分たちのことに必死で、そこ等を飛び回る羽虫にも、己等を餌として物色する化け物にも、これに絡めとられた少女にも気づかない。
 哀れ彼女は化け物の餌として捕らえられ、眠らされて卵を植えつけられてしまう。
 あとは、知らず知らずのうちに心にむしゃくしゃを飼い、やがて狂って身近な者の血を求めるようになるのだ。

 ここに彼等が居なければ、そうなっていただろうが。

 化け物の足にひょいと少女がつままれ、少女が携帯を取り落として悲鳴をあげたところで、彼女を颯爽と横から浚った影があった。
 オニバンバの足を喰いちぎり、宙に放り出された少女を背に乗せたその影は、ゆらの式神、貪狼。
 白い毛並みの狼である。

「貪狼!その子を守れ!巨門、その化けモンを引きずり下ろせ!」

 足を一本失った大オニバンバが、目を白黒させているうちに、次は巨大な白象が姿をあらわし、するりと鼻を伸ばして、ビルに張り付いていた巨大トンボの体を地に叩きつけた。
 ここで我に返った大オニバンバがもがき、逃れようと身をよじる。
 巨門は許すまじと、鼻でさらにしめつける。
 両者の大きさ、力は等しく、一進一退の攻防が続く。

 どたんばたんと暴れる化け物と、押さえようとする式神との力のぶつかり合いは、現実の世界にも作用した。
 すなわち、ビルは揺れ、コンクリートに罅が入り、アスファルトがめくれあがる。
 地が揺れ、大きな音が鳴り響き、ガラスが割れ、どうしたことかと人々も気づく。

 一つ悲鳴があがれば、己の存在を隠す余力を失った妖怪は人々の目に留まり、当たりは逃げまどう人々で混乱に陥った。
 それだけではない、普段は閉じているはずの異界への門も、ニ体の人ならざる者の力によってこじ開けられ、猫又が何事かと顔だけ出したところに、大オニバンバの巨体が飛んできたとあって、彼女は目を見開き、その場に竦んでしまった。
 この猫又をも、貪狼は風のように浚って守ってみせたし、兄二人はこれを咎めない。

「大丈夫かい?ごめんね、驚かせてしまって」

 貪狼から、気を失った少女と猫又を受け取った魔魅流が、むしろ怯えた様子の猫又に微笑みかけ撫でて、人間ときたら妖を怖がるか、あるいは滅するかのどちらかと教えられてきた若い猫又は、目をぱちくりとさせて言葉も無い。
 だと言うのに、竜二はまるで気にした様子を見せず、

「この辺りの猫又か?ちょうど良い、訊きたいことがある」

 などと、己等の周囲に護符を浮かせ結界を敷いて、通行人Aにちょいと道を尋ねたいのだが、といった口調で、猫又の戸惑いなど気にも留めない。

「この辺りを飛び回ってる小さな羽虫は何だ。もしかして、あの小さいのが成長すると、あのデカ物になるのか。この辺りは奴良組が仕切っているんじゃないのか、何故こんな羽虫に好き勝手させている。それとも、この羽虫は奴良組の仕業か?」
「ち、違いますよ!二代目も奴良組の皆さんも、がんばって退治してくださってるから、この程度で済んでるんです!」

 見知らぬ人間ではあったが、助けてもらったし、奴良組という単語が出てきたので、猫又は即座に反応した。

「あれは毎年この時期になると現れる、オニバンバって言う害虫みたいなモノなんです。百年前には居なかったって、うちの店長……ええと、私、この先の異界のお店で ――― 異界ってわかります? ――― 店員やってます、揚羽って言うんですけど、その店の店長が言ってました。アレは断固として、奴良組の仕業なんかじゃありません、自然発生した、ただの害虫!ゴキ●リみたいなものなんです!隙を見つけてどこかで大きくなってあんな風に、人を襲って同属を増やしたりする奴なんです!」
「だが妖怪なんだろう?それをあんな大きくなるまで放ってあるというのは、奴良組の思惑ではないのか?」
「それも違います!奴良組は、二代目は、しっかりこの辺りに睨みを利かせてくださってます。でも、あいつ等ときたら、二代目に畏れを感じるほどの脳味噌も無いんです。ただの、念の塊みたいな奴なんですから」
「なるほど、怨霊の類か」
「そう、それです!」
「ならば、アレは消しても構わんのだな?」
「え、ええ、そりゃ、できればそう願いたいですが」
「よし、なら、手加減は必要ないな」

 竜二が呟いたのと、その背後で巨門が振り上げた鼻をオニバンバごとアスファルトに叩きつけ、ぐえぇと奇声が轟いたのが、同時。
 しかし敵もさるもの、すぐに鼻を振りほどき、透明な羽をはためかせて、この場から飛び去ろうとするではないか。

「ちィッ、しもた!」
「 ――― 金生水の流星!」

 ゆらが取り逃がした大オニバンバを追ったのは、竜二が放った水の飛礫。
 これが弾丸のように正確にオニバンバの羽、そして脳天を射抜くと、夜空へ羽ばたこうとしていた彼奴めは、びくりと一度空中で痙攣し、仰向けになり、ひっくり返り、そのまま、落下。

 ここでようやく、最初から捕まっていた贄を放り出し、これを魔魅流が危なげなく受け取った。
 頭から地上へ落ちたオニバンバは尚も呪詛を吐きながら、ぎちぎちと残った足を軋ませていたが、これが起き上がらぬうち、ぐしゃり、竜二の高下駄が踏みつける。

「俺は弟のように信心深くないんでな」

 懐から取り出した竹筒の中身の水を、オニバンバの口目がけてたぱたぱと注ぎ込み、

「くれてやる経など知らん。俺はお前にこう言うだけだ ―――――― 滅」

 刹那、オニバンバの体は水風船のように膨れ上がり、破裂し、飛び散ったのは黒雲と、綺羅と輝く水飛沫。

 妖怪であっても武闘派以外はまるで歯が立たぬ大オニバンバを、たった三人で滅してしまった人間を前に、揚羽猫はほっかむりがずれて猫耳がぴくぴくと動いているのが丸見えになっているのも気づかず、目を見開いて見入っていた。