化け物の出現と、迎え撃った三人の人間とに混乱する人々。 この間をすり抜けるように、隠れるようにして、知り合った猫又に招かれ異界に入り、三人が奴良屋敷の門前に立ったのは、それから一時間としないうちだった。 揚羽猫を先頭に奴良家に入る人間どもを、奴良屋敷の門番たちは怪訝そうに視線で追ったものの、物騒な妖気を向けるような真似はしない。 素通りも同然であったため、中の者たちに来客が告げられるのも遅く、当然、屋敷の主たちが三人の来訪をこの時点で知るはずもなかったので、 「百ダースって何個かわかって言ってんのか!無駄遣いすんなこのだぁほ!」 「せいぜい五百個か千個ぐらいだろ。そんな目くじらたてるほどのモンでもねーって、どうせ使うんだから!」 「一ダースは十ニ個や!本当に効き目あるかどうかわからんモンを、千二百個も買ってどうする!」 「だって今なら半額だし、おまけが三つついてくるって!」 「小さい注意書きんところ、見落としてはるやろうが!一度申し込みした後は三ヶ月ごとに自動購入、最低三回は購入継続が必要やって書いてあったんやで!ええいこのクソバカ親父がァ!」 「痛い!痛い!だからって札飛ばさないでよそれ痛いんだってマジで!」 「一家で物を買うときは、報告連絡相談は基本のキの字やろうが!自分一人の金やない、みんなが汗水垂らして稼いだ金を湯水のごとくつかいおって!家の奴等のこと考えんで通販にうつつを抜かす悪の総大将め、そこになおれ!伏目明王の名において、今日こそ性根を叩き直したる!」 今日も今日とてこの父子、屋敷中を巻き込んで、追われ追いかけやっていた。 二代目ときたら、後ろから飛び交う無数の札を幻で受け、避け、祢々切丸で切り裂き、玄関前に佇む三人にまるで気づかない。 それが目の前を通り過ぎようとしたところで、竜二が袖の中で印を結び、ぼそり呟く。 「金生水の花」 突如として空中に浮き上がった無数の水連花が、二代目を迎え撃つように舞い飛び、警戒していなかった二代目はこれを避け損ね、「ぐえッ」と緊張感の欠片も無い声をあげて地べたに倒れ込むのだった。 ここで初めて、父を追っていたリクオは、客の存在に気づいた。 「竜二兄?魔魅流、それに、ゆらも。なんや、来るなら来るって、言ってくれはったら迎えに行ったのに」 「こんばんは、リクオ。元気そうでよかった」 「なんや、心配なかったようやなァ」 「心配て?」 兄妹たちの来訪を、リクオが喜ばなかったはずはない。 着物の裾をからげる勢いで二代目を追っていた剣幕など瞬時に消えて、指に挟んでいた札も足下に転がる二代目もそのまま、人懐っこい笑みを浮かべて彼等を迎えた。 活気づく玄関前で、しかし竜二は眉間に皺を寄せたまま。 「おい、リクオ」 ほぼ同じ目線が明王姿の、頭のてっぺんからつま先を数度往復した。 「お前、体はもういいと聞いたが」 「え、あ、うん、もうどこも何ともない」 「本当だな?まさかまたどこか《とれかかって》たりして、傷の回復を待っているわけじゃないだろうな。もう《くっつきかけてる》から何ともないとか、言ってるわけじゃないだろうな」 「ううん、なんともない。屋敷についてからは、なんやおひいさま扱いもええとこやし」 「なら、なんでそっちの姿なんだ」 え。と首を傾げたのは、何も地べたから顔を上げた二代目ばかりではない。 屋根の上から二人の追いかけっこを眺めていた小物どもも、池の河童も、縁側で木魚達磨を相手に将棋を指していた初代も、いやむしろ、彼の脇で茶を淹れていたヤタガラスとリクオ以外、奴良屋敷の全員が首を傾げた。 皆の視線が集まる中で、リクオはばつ悪そうに頭を一つ掻くと目をつむり、空を仰いで、すうと一つ息を吸い、吐く。 するとどうだ、しろがねの髪をなで上げてていた妖気が静まり、立派な男姿を形作っていた輪郭がぼやけ、するりと解けるではないか。 次の瞬間、その場所に立っていたのは、照れくさそうに小さく笑う、小柄な少年姿の方であった。 うむ、と竜二が重々しく頷き、目線が下になった弟に向かって手を差し伸べると、リクオは京都を発ったときには瞑っていた両目にしっかりと彼を映し、嬉しそうに笑って、甘えるようにその腕の中に飛び込んだ。 妖気を己の意志で押し込めて祓い除けた、その姿は昼の間の、リクオに他ならない。 「えへへ、皆が何も言わないもんやから、つい甘えてしもうたん」 「いくら生家と言えども、寝床につく前からパジャマ姿でふらふらするような真似は関心せんな」 「うん、かんにんしてな、竜二お兄ちゃん。いらっしゃい」 「夏休み、楽しんでるか」 「うん!あんな、山行ったり、森行ったりしたよ。あ、でもちゃんと、宿題もお勤めもしてる」 「そうか」 淡々と問い、答えながらも、リクオの金褐色の髪を撫でる所作にも、少しだけ細めた目や、僅か微笑んだ口元にも、弟へのいつくしみが溢れている。 つい春先まで己の代わりに血を吐いていた弟の、元気な姿に心底、ほっとした様子だった。 もちろん、魔魅流もゆらも、それは同じ。 嘘は八百以上するすると口から出てくるくせに、こういうことになると口をつぐむ竜二の代わりに、二人はあれこれとこの夏の様子をリクオに問い、まくしたて、リクオから、「立ち話もなんやし、うちに入ったらええやん」と招かれて、兄妹たちはようやく屋敷へ上がった。 二代目が、衝撃から立ち直ったのは、そのときだ。 がばりと上半身を起こし、恨めしそうな声を上げる。 「え。えええええぇぇぇえぇえ。何それ。今の何それ。リっくん、一回妖怪姿になったら、朝陽浴びるまで人間姿に戻れないんじゃないの?!」 「馬鹿が。大日如来との一体化を求める真言の使い手が、己の身の妖気くらい祓えんわけがあるまい。どうせ周りがそう思いこんでいるから、何となく言いそびれてたんだろう。違うか、リクオ」 「あ、えーと。うん。………ごめんなさい。騙してたわけじゃないんだけど」 「いいや、パパは騙されてた!だってリっくん、夕方以降はずっとその姿だったじゃない!こっちの姿のリっくんともたくさん遊びたいなって思ってたけど、パパは夜型だから起きるの昼過ぎだし、だから仕方ないかなってあきらめてたのに、酷い!」 「あのぅ………うん、ごめんなさい、本当に」 「ごめんじゃない!もっとそのふわふわの髪撫でたりほっぺにちゅーしたりだっこしたりしたかったのに!」 「うん。何となくそうなるんじゃないかなと思って、避けてたところはあるんだ」 「酷い!」 「よく言った、リクオ。こういう手合いはこちらが遠慮すると、どこまでも増長するからな。お前にしては賢明な判断だった。魔魅流、ゆら、リクオに屋敷を案内してもらいなさい。二人とも、荷物、ご苦労だった。ここで使うから背からおろしてくれてかまわんぞ。 お兄ちゃんはちょっとこちらの主さんに、ご挨拶を申し上げてから行くから。 なぁに……三分で終わる」 言われた通り、ゆらと魔魅流、二人はリクオについて廊下を行くが、やがて後ろから案の定、爆発音やら破裂音がするのを聞いて、足を止めた。 「ええのか、リクオ。仮にもお父さんやろう?金生水の陣で万が一のことがあったら」 「大丈夫。帝釈天の白象でも潰せなかったぐらいやし。きっと膝小僧すりむいたぐらいで終わるんやないかな」 「ふぅん、やっぱり強いんだね、リクオくんのお父さん」 二人の兄妹は、ここまでの様子でリクオがのびのびと、生家での夏休みを謳歌しているらしいとわかってはいたが、次の笑みを見て、これは決定的になった。 「………うん。強くて、かっこよくて、優しい。昔な、小さい頃、ボク、お父さんみたいな魑魅魍魎の主になるんが夢やったんよ。あのひとは、覚えてた通りで、なんや嬉しかった」 で、その、強くてかっこよくて優しい魑魅魍魎の主はまさにその時、奴良家の庭を竜巻のように蹂躙する金生水の滝に弾かれ、すぐ脇を飛んで奴良屋敷の屋根に突っ込んでいったわけだが。 +++
三人がリクオの客として、それぞれ客間をあてがわれ、風呂を使い、居間で茶を饗された頃。 リクオの予想通り、二代目はけろっとした顔で縁側から上がり込み、「見てよこの膝」と、裾をまくりあげて擦りむいた膝小僧を晒した。 「竜二くんの、金生水って言ったっけ?滅茶苦茶ヒリヒリする。ひでーよ。竜二くん、おれになにか恨みでもあるわけ?」 「理由は考えんでも簡単に百八つ以上思いつくが、たった今一つ増えた。その被害者面が気に食わん」 「ええぇぇ。おれこんなに疲労困憊しながらがんばってんのにぃ」 行儀悪く卓に突っ伏し嘘泣きを始める二代目の頭を、慈悲が先立つ如来姿では放っておけず撫でてやろうとしたリクオが、そのまま悪戯な腕の中にとらえられそうになったところへ、すかさず竹筒を突きつける竜二には、一片の容赦もなかった。 「そういうところに真実味が無い」 「いや、あはは、だってリっくんてば、恥ずかしがってなかなかだっことか、させてくんねーんだもんよ」 「ボクはもう赤ちゃんじゃないもの。背はちょっと伸び悩んでるけど、これでも次の誕生日で十五だよ。だっことかおんぶなんて、はずかしくて」 竜二とゆらの間に逃れて、恨めしそうに上目遣いで睨んでくるリクオに、二代目は諦めるどころかさらに目尻を緩める始末。 無理もない。 遠慮がなくなってきたからこそ、明王姿では兄弟のように戯れて稽古や喧嘩もしているが、こちらの姿は幼い頃の面立ちに加えて、母や妻の面影。 連なる血脈と言えば、どうしても父方を中心に考えてしまうけれども、リクオの母は《天眼》、祖母は《癒》、どちらも希有な通力の持ち主。加えて、どちらも魑魅魍魎の主に魅入られ、寵愛を受けた女。祖父や父の血よりも、祖母と母の血を色濃くあらわす如来姿であると、呪いの傷が癒えて眼が開き、病の気配を追い払った今では、朝な夕なに続ける祈りで魂までが清ら。 まるで萎れていた花がすっくと立ち上がり、可憐に開くような風情がある。 それが少しばかり機嫌を損ねた様子でも、何を膨れているのやら愛い奴めとしか、二代目には思えない。だいたいにして、ここへ来たばかりの頃には遠慮ばかりで、こんな風に拗ねた顔すら見せてはくれなかったのだから。 この様子に、来客三人は心得た様子で目配せすると、本家長兄が重々しく頷き、口を開いた。 「………ところでリクオ、俺たちは何も、お前に乗じて夏休みを謳歌しに来たわけではない。そろそろ盆も近いことだし、お前を連れ戻しに来たのだが」 「うん、そろそろかなとは思ってた。いつまでに戻ればええの?」 「若菜さんの迎え火に間に合えば、それでいいだろう。二十七代目も、特にいつまでとは言ってなかった」 うんわかった、というリクオの返事に。 「「「えええええええ」」」 と、それまで廊下から襖に耳をくっつけて様子をうかがっていた妖怪どもや、屋根裏や床下から同じように耳をそばだてていた小物どもが転がり込んで、声を上げるのだった。 「わ、若!やっぱり行っちまうんですかい?!」 「何ももう京都へ戻らずとも!」 「そうです。正真正銘、貴方は奴良家の嫡男なのだ、居てもらわなくては困ります」 「アンタたち、そんな言い方したら、若様が困っちまうじゃないか。……でも若様、察してくださいな、私たちにしてみれば、貴方様以外が三代目なんて、とてもじゃないけど考えられないんです」 「なんだよぅ陰陽師どもめ!」 「わかったぞ、なんで三人もぞろぞろと揃ってやってきたか。力づくでも浚って行くつもりだな、こんにゃろう!」 「おいこらリクオ!この後に及んでまだ三代目になんぞならんとぬかしやがるのか!最近のお前ときたらのびのびしてやがるし、俺ぁてっきりお前がこのまま残るもんだと……ゲホッガハッ、ゲホゲホッ」 「ああ鴆さま、そう興奮なさらないでください、うわああ、毒羽が!」 花開院兄妹に、二代目を加えただけの落ち着いた居間は瞬く間に、大物小物入り乱れ、喧々囂々、やいのやいのと文字通り、上から下までが騒々しい。 リクオは目をしばたたかせ、まあまあ落ち着いてとやっているが、伏目屋敷のかしましさに慣れている花開院の兄妹たちは、落ち着き払ったもの。 ずず、と茶をすすってから、まずは竜二が、口を開く。 「うちの弟なんだ、うちに帰って来いと言うのは当然だろう。犬猫のようにあっちこっちを行ったりきたりなど、させるものか。どんな理由があったにせよ、弟はこの家から捨てられてうちの子になったんだ、二度と捨てるような真似はせん」 これを、ゆらが受けて頷く。 「例え血の繋がった親が見つかろうとも、それじゃあお返ししますなんて簡単に渡すことはできんと思うのは、うちも同じ気持ちやわ。だって、もうリクオはうちらの家族やもん。本当の父ちゃんや爺ちゃんが見つかったからあっちに行けなんて、言えへんよ。 もっとも、リクオが少しでも帰るのが嫌だと言うんやったら、竜二兄ちゃんは、無理に連れ帰るつもりはなかったんやと思うよ。けど、リクオはすぐに頷いた。だったら、連れて帰るんは、家族やもん、当然やろう?」 伏目屋敷の者どももそうだが、奴良屋敷の者どもも同じように、我が主大事。 我が主の御子とあれば、目に入れても痛くないと思っている者ばかり。 こういう、気のいい奴等を知っているからこそ、リクオのもとに今のかしましい者どもが揃ったのかもしれないが、とにかく奴良屋敷の者どもにとって、例え大幹部どもが何を言おうと若様は若様、これほどまでに愛らしくまばゆい君を手放すなど、考えただけで意気消沈。 若様自らまた遊びに来るよと、にこやかに笑って約束してくださったので、いくらか落ち着きはしたものの、遊びに来る、その言い回しもまた、もうここは家では無いのだと言い渡されたようで、寂しくもなる。 「わかってたことだろ?元々こいつは、敗残処理がどうのと言い張ってたんだから。それを遊びに来るつもりになってくれたんだ、御の字じゃねェか。おいおめェら、辛気くせェ面ァしてんじゃねーぞ、リクオにそんな面を覚えさせるつもりかァ?」 「そうだよ、みんな。何も一生のお別れじゃないんだし、この冬休みには、今度はみんなに来てもらわないといけないんだからね。だってそうでしょ、これからボク、祝言の準備で忙しくなるし、来年は受験だし、きっと冬休みは来れないもの。みんなには、花霞の大事なお客様として、ちゃんと招待状を送るから」 「え?俺たちが、若の、お客様、ですかい?」 「あら、まぁ、また伺ってもいいんですの?」 「………手伝いたいって言っても、手伝わせてもらえないんでしょうねぇ。仕方ない、それで手打ちにしておきます」 少なくとも、この奴良屋敷をかつての家として、己等との縁を忘れずにいてくださるのだと思えば、妖怪たちも納得できるものではないにしろ、ここは場をおさめるしか、なかった。 +++
ところで、こうした騒ぎが居間の方であった間、雪女はどうしていたかと言うと、いつものように賄い処で他の女衆たちに混じって、明日の仕込みなどをしていた。 若奥様なのだからもう賄いなどせず、相愛の旦那様と蜜月を楽しんでいればよいのにと、からかい半分、気遣い半分の女衆たちに言われたとしても、雪女にしてみれば賄いに立ち続けなければならぬ理由がある。 好き嫌いこそ無いかもしれないが、リクオには、自ら箸をつけようという意欲がまるで薄い上、そのままでは口にできない食材も多い。 花開院の中で大妖が明王として認められるためには、相応の縛りの中に身を置かねばならない。 曰く、血を避けること、陰の気を溜め込むのを避けること、心に波風をたてぬこと。 妖との争いで穢れに触れたときには、真冬であろうと滝に打たれ、精進潔斎してから花開院本家へ報告にあがるのだと言う。 一日に食して良い米粒の量はもちろん、呼吸の回数や方法すら定められていると聞いたときには、あまりの不自由さに雪女の方が憤ったほど。 しかしその縛りを諾とせねば、いかに花開院の当主と言えども、リクオを庇いきれなかった。 幼い頃からその大妖の資質たるや、集う人ならざる者の多さ、妖気の大きさだけを見ても、唸るほど。 本人にその気が無かったとしても、見つめる相手を魅了し酔わせるそれは、人々にとっては常に己の正気を狂気へ引き込もうとする、甘い誘いの声に他ならない。 勝手に誘われておいてそこに甘い菓子があるから悪いのだ、仕舞っておけぬのなら捨ててしまうぞ、燃やしてしまうぞ、という子供の理屈を、しかし花開院家の大多数の凡人たちはせいぜい大人ぶった真顔で、今も信じきっているし、数が多いだけに本家の当主や兄妹たちも憤りはしても無碍にはできぬし、リクオはいつものように、一つ頷いて彼等が求める処遇に身を置いた。 外食先では飲み物以外ほとんど口にせぬのは、そういう理由だ。 命を繋ぐのに不必要だと判断できるものを、リクオは自分から口にしようともしない。 雪女が口元に運ぶと美味そうに口にするのは、食い物の味を楽しんでいるのではなく、雪女にそうされるのを嬉しく思っているからに他ならない。 ここ数ヶ月、御側に侍っていたからこそわかったことだが、少しでも自ら口に含んでいただくためには、相応の下拵えが必要だった。 あれを裏ごしして、それはしばらく水にさらして、と言う細々したことを、伏目屋敷で茶釜狸から教わったときには彼女自身が目を丸くもしたほど手が込んでいる。 京都から客があった、例の花開院の陰陽師たちらしい、とは人づてに聞いていたので、こういった賄いの用事を済ませてから、すぐに向かおうと思っていた。 まさに今、下拵えは終わったところ。 額に浮かんだ汗を拭い、ふうと息をついた。 「雪女、あとは私たちでできるから、もうここは任せて、ほら、若様のところへ行っておあげなさいな」 「ありがとう。でももう少し。まだみんなの分、残ってるでしょ?」 「そんなのは任せておいて、ほら」 「うん……」 強く促されて、それじゃあお言葉に甘えて、とまさに言おうとしたところで、彼女の足下を、カサカサカサ、と素早く横切ったものがあった。 ―――― ッ?! 途端、彼女は息をのんでひっくり返った。 どうしたの、と他の女怪たちが彼女に駆け寄り、彼女と同じ視線の先、ざるや盆などを積み上げてある棚の下あたりをともにのぞき込んで、そこで。 カサカサカサカサカサカサッ。 「ひっ」 「うぇ」 「これはっ」 見た。見てしまった。 黒く光る甲冑のごとき甲殻。 縦横無尽に床の上を滑る、おそるべき脚力。 《ゴ》ではじまり《リ》で終わる、此の世でもっとも忌まわしい………。 それがなんと、臆病に奥で息を殺していればよいものを、触覚を二本、ぴんと立てた顔だけを棚の下からのぞかせ、じいと雪女を見つめた。 かと思えば。 なんとその顔、虫のものではなく、醜悪な老婆の顔をしており、これがその口から、雪女の母の声色で、叫び始めたのだ。 「………もっと唇くらい、奪ったらどうなの、娘でしょ!」 「男の一人も籠絡できないで!」 「いつまで守役のつもりなんだい、外に出ても男の一人も《虜》にできない雪女なんざ、だまされるのがオチだよ、とっとと帰っておいで!」 この声、その場に居た女怪たちにとって、それぞれの母の声でそれぞれ痛いところを突かれ、それが本家の賄い処などであったものだから、皆が油断しきっていたのでううむと唸った。 しかし。しかしである。 声はともかく、姿形はまるでアレ。 雪の世界には存在しない、雪女にとっては本家に来るまで出くわしたことのない、おぞましい生き物なのである。 彼女は、すう、と息を吸い込み、 「キャアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!!」 思う存分、吐いた。 哀れ、ひょっこり棚の下から覗かせていた顔を凍り付かせ、おぞましきアレは動きを止めたが、雪女もまた、ふらり、と意識を遠のかせ、ぱたり、その場に倒れ込んでしまったのである。 間もなく彼女の悲鳴を聞いて、血相を変えたリクオが、条件反射のように姿を明王へ変じて飛び込んで来る。 己の女に危機をもたらすものあらば、すわこれを打ち破らんとするような、鬼気迫る勢いだった。 この後ろに二代目や小物ども、それにお客人の陰陽師までが、なんだどうしたと続いたので、賄い処は途端に賑やかになった。 「氷麗、おい、大丈夫か。何があった?!」 「はあ、それが若様、《アレ》が出たんですよ」 「アレ?」 「なんだ、ゴキブリか。つららちゃん、苦手だもんなぁ」 「いけませんよ二代目、その名を呼んだら奴等、自分が呼ばれたと思って出てきます!………しかし、妙なんですよぅ、そこで凍り付いてる《アレ》ですが、オニバンバと同じ顔と声で、ここにいる全員を罵ったんです!」 「なんだって?」 興味を引かれた二代目はその場に片膝をつき、見事に凍り付いている、黒く忌まわしき《アレ》をしげしげとのぞき込んだ。 なるほど確かに、凍りついたその顔は、憤怒に歪めた鬼婆。 「……なんだいこりゃあ。こんなの、初めて見たぜ。こいつ等、トンボ形態だけじゃなかったのか?」 「トンボなら、この屋敷に来る前に一匹、なんや大きいの退治したわ。奴良組がペットとして放し飼いにしてはるんちゃうか思て、小さいのは放っておいたんやけど、猫又はんが違う言うてた。ほんまに違うん?実は二代目の趣味とちゃうの?」 「あのなぁゆらちゃん、おれだってトンボは好きだが、こんなに気色の悪ィのはごめんだぜ。揚羽猫に聞いたかもしれねぇが、あれはオニバンバって言ってな、近代日本になってから姿をあらわした、ただの害虫だよ。脳味噌なんてねぇもんだから、主に従うという頭もねぇ。てんでばらばらに、好き勝手に、飛び回っては人間どもの耳元で苛々を増幅させて、時には《通り魔》みてぇな悪いことをするのさ。人間にとり憑いて操って、同士討ちさせて、その血を啜るのが好きなわけ。……今まで、トンボだけだと思ってたんだが、何かねぇ、こりゃあ。しかも本家にまで出たってのは、こりゃあどういうわけだ……?」 「………そう言えばさ、ねえ、あの人って、意識取り戻したのかな。ほら、大オニバンバに最初から捕まってたひと。意識取り戻さないからって、玄関口で猫又さんに預けてきたでしょう?その後、本家のどこかで手当てされてると思うんだけど ――― あの人がもう既に、オニバンバに憑かれてて、卵を媒介しているとか、そういう事はないの?」 魔魅流が口にしたまさにその時、今度は別の場所から、野太い男の声で、「キャアアアアアアッ」と響いたから、たまらない。 忙しないことだと思いつつ、二代目を筆頭に、雪女を抱えたリクオと、陰陽師兄妹がこれを追った。 たどり着いた先は、客に与えられる一室で、この襖の前では、見事な絹の打掛が、はらりと大の字に広がっているのだった。 いやよく見れば、これの背中あたりに浮かんだピンク色の唇から、ぶくぶくと沫が生まれている。 二代目は、まるでその中に人がいるかのように、背と腰のあたりに手をやって抱き起こしてやった。 「お絹、おいお絹!しっかりしねェか、何があった!」 「に、二代目……あ、アタシ……あ、アレが……アタシの内側にアレが這い回って……あわわわわわわわ、ぶくぅ」 一旦木綿ならぬ一旦絹らしい。 声は野太い男のものだが、口調は女性そのものだ。 いわゆるオカマという奴らしく、よよと泣くような袖の所作までが、なんとも堂に入っている。 彼(彼女?)は、どうにか袖の先で部屋の中を指し、器用に己の模様を紅から蒼に染め替えて、がっくりと気を失った。 その場の全員が、部屋の中へ視線を送り、顔を顰めた。 そこには、一人の男が、布団に横たわっていた。 街中で、オニバンバに捕まっていた、そのひとだ。 寝巻きの向こう側が、あちこち奇妙に、蠢いている。 もぞり、もぞもぞ、もぞり。 やがて、その襟の部分からひょこり、袖からひょこり。 口が開いたと思うとそこからひょこり、布団の裾から脇からひょこりひょこり。 黒光りする虫が、もぞもぞと蠢いて、と思うが早いか家のあちこちにカサカサと姿を消そうとするではないか。 すかさず、竜二と魔魅流が札を投げつけ、それが吸い込まれるように部屋の四方の壁、天井と床に張り付いたので、部屋を出ようとする虫どもはあわやというところで結界に触れ蒸発したが、安心できたものではない。 「こいつぁ、気づく前に相当な奴等が家中に散ったな。なまじ、妖気がちんけだから気づくのが遅れちまったぞ、くそ」 「ただ気を失っているだけと思って連れ込んでしまったが、しくじったか」 「どうするの竜二。バルサンでも焚く?」 「効くんやろうか。……てかあのひと、こんな虫どもの苗床にされてたとなると、もう命は無いやろうなァ……」 生きているように思えたのは、きっと虫どもがその中に隠れて、己等人間にそう見せていたに違いない。 陰陽師兄妹が顔を見あわせ、三人それぞれ、印を組み、 「可哀相やけど」 非情な決断を下そうとした、その時に。 リクオは、ぴくりとその瞼が震えるのを見た。 「ま、待て。そいつ、生きてる。それに ――― なんだ、そいつ、旧鼠の星矢だ」 ぎちぎちと、次から次、口を開けば開くほどに生まれ出てくる黒い虫どもに、喉や口だけではない、肺まで塞がれているのかもしれない。 意識を取り戻したものの、息苦しさと、言葉もろくに紡げない現状に恐慌をきたして暴れ、しかし暴れようとしても指先まで押さえつけられでもしているかのように動けず、せいぜいが、ぎゅうと布団を握り締めるので精一杯だった。 恐怖に涙を溜めた目の端からすら、ぎちぎちと毛羽立った黒い足が覗いたとき、リクオは抱えていた雪女を魔魅流に託し、誰が止める隙もなく、するりと再び妖気を解いて、結界で封じられた部屋の中へと入った。 呼吸するように吐き出される黒い虫が、今は出口を失って、部屋のあちこちに掃き集められた落ち葉のように集っている。 なにがしか、ぎちぎちと呟いているが、リクオは全く気にせずに、助けを求めるように力を込められた男の手を、そっと握ってやるのだった。 二代目もすぐに追おうとしたが、花開院の結界は例え半妖だとて容赦はなく阻む。 代わりに、長兄が悠然と歩を進め、これまでも数多くの仕事の中でそうしてきたように、リクオの隣に座り込んで、男の様子を見定めるのだった。 「なるほど、旧鼠か。たいした妖怪ではないが、流石生命力は侮れんな。ただの人間であれば死んでいるところだ。代わりに人間なら死んで逃れられる苦しみから逃れられんのが、気の毒と言えば気の毒だな。リクオ、知り合いか?」 「うん。ついこの前、みんなと散歩中に、ちょっと」 「お前、いけそうか」 「多分。久しぶりだけど、やってみる。時間が無いから、ちょっと強めに、この屋敷中の想念を灼けるように。……お兄ちゃん、皆を守ってあげて」 「時間は」 「こっちは、五分もあれば、なんとか」 「なら、きっかり五分後に始めろ。こっちは五分で何とかする」 なんだ、なんだ、何が始まるんだと、騒ぎに気づいた小物大物どもが部屋を覗き込む中、リクオはすっくと立ち上がり、まず兎歩を踏んだ。 途端、少年の華奢な足へ腕へ這い登り、中にはその柔らかな皮膚や肉を割いて中に入り込もうとしているものもあったのが、ぼろりと剥がれ崩れて砂と消えた。それだけではない、よく見ると足袋を履いた足はほんの少しだけ、宙に浮いている。 下から吹きあがる涼風に身を任せたかのように、すうと一つ息を吸って立ったまま瞑目に入ると、これを心配そうに見守っていた奴良屋敷の者ども、目を見張った。 我等が若様、無力で卑小な人間の幼子の姿の若様。 いとしいとしや、揺り篭の中でめでしめでしやとばかりに思っていたのに、そのいとけない御姿のまま、淀みなく咒を紡ぎ、これが音だけでなくはっきりと、清浄な紺碧の光を放つ帯となって彼を取り囲み始めたのだから、無理も無い。 螺旋の封印の八に入閣した、高位の陰陽師であると伝え聞いてはいたものの、笑う顔も些細なことに喜びはしゃぐ様子も、ただただいとけない、愛らしい若様であるはずだったのだ。 二代目を相手に札を飛ばし、真言を紡ぎ、刀を振るいしている姿はもちろん、魔京抗争の折には敵大将としてぶつかり合ったこともあるから、戦える御方であるとは知っていても、こちらの姿でそれはかなわぬことなのだろう、と、誰もが口にせずとも思い込んでいたのだから。 それが、どうだ。 足元には今や、幾重もの光の帯が、仕掛け絵のように巡り。 これがこの場の、世界の律令を、太極を、支配せんと膨れ上がる。 誰もが、魅入った。 間違いない、この小さく、いとしく、いとけない若様を ――― 畏れたのだ。 「こりゃあ、何の手品を始めるつもりだ?」 最初に問うたのは、二代目だった。 ほんの少し面食らったものの、周囲で呼吸も忘れて少年の背に魅入る下僕どもとはやはり、一線を画している。 彼の声で、周囲の妖怪どもも我に返った始末だ。 これに、部屋から出てきて襖を閉じた竜二が、毎度のように淡々と答えた。 「言ったろう。灼くんだよ。これから大広間に結界を張るから、できるだけ皆、その中に居た方がいい」 「なんだ、なんだ、何が始まるって?」 「灼くって ――― あの虫、全部かぁ?おいおい、屋敷とか吹っ飛んじまうんじゃねーの、ほら、この前の二代目との喧嘩みたいにさァ」 「陰陽師どもの結界になんて頼れっかよ!」 言い分は様々だが、竜二は「五分 ――― いや、あと四分だ」、と、懐中時計を懐に仕舞いつつ、まるで気にせぬ様子で歩を進める。 「俺は別に構わんぞ。弟に頼まれたから結界を張るところまでは、やってやるだけだ。そこに入りたくないなどと言う奴まで、無理に詰め込むつもりはない。そこに居るがいいさ。綺麗なもんだぞ、太陽ってのは。遠目でもあれだけ眩しいんだ、近くに寄って見るとそりゃあ綺麗だろうさ。俺はまだ見たことは無いが、やってみたいなら止めやしない。後々、おめーらが蒸発していなくなっちまったってあいつを泣かせたいんなら、好きにしろ」 「またぁ、竜二、そうやって嘘つく。リクオに泣かれて一番こたえるの、自分のくせに」 「フン」 妖怪たちの都合などまるで気にせず、この座敷から離れた大広間を目指して歩み去る兄二人。 これを追いかけつつ、ゆらはかんにんしてやと、拝むように両手を合わせた。 「気分悪いかもしれんけど、リクオのためやと思うて、言う通りにしたってや、奴良組はん。アレは冗談やなく強烈やさかい」 +++
お天道さんが見ているから、と。 誰も居ない場所に落ちていた財布を己の物とせず、落とし主に届くように取り計らったり。 きっと少しくらい八百長をしても、絶対に明るみに出ないだろうところを、堪えたり。 こんな事を言う人間たちは目に見えぬ視線を、畏れている。 信心であったり、厳しい躾の賜物であったり、個人が持つ鋭い勘から、大いなるものの視線に感づいて、畏れている。 太陽とはそういうものだ。 遍く全てを照らし、全てを見透かし、こそこそと影に蠢く罪人どもなればその光に己の影の濃さにこそ驚いて踏み潰され、あるいは鬱々と人々が抱え込んだ陰の気などは、照らされたそれだけで少なくともその瞬間、綺麗さっぱり消えてしまう。 花開院兄妹が大広間を結界で囲んでから、間もなく。 結界の中で居心地悪そうにしながら、ぶつくさ文句を言っていた妖怪たちは、これから何事が始まるやら、一体どんな激震がこの屋敷を襲うやら、来るならこい、などと半ば自棄になりながら待っていたが、これが一斉に、黙った。 ぷかり、と煙管をふかしていた初代が、ぴくりと片眉を跳ね上げ。 胡坐をかいていた二代目も、うんと首をかしげ。 妖怪たちはそれぞれ、振り返ったり、上を見上げたりしながら、ぎくりとした顔をして、それを捜した。 彼等を、じい、と見つめている者があることに、気づいたのだ。 隣の者が首を振る。 辺りを見つめると、襖を全て開け放たれた大広間のすぐ外にまで、見つかったと思ってもう隠れようともしないのか、増えに増えた黒い虫どもが大挙しているが、あれ等とも違う。 それは、高みからの視線だった。 一つも二つも高い座から、己等を掌にすくいとって、見つめている者がある。 不躾なものではない。 視線の先にある者たちを驚かすまいと、呼吸さえ遠慮しているような、いたわりすら感じる。 小物どもが互い身を寄せあって、ぶるりと震えるのは、どこを探しても視線の相手を見つけられぬからだ。 蟻は人の指先にすくい上げられても、人の全体像が結べず、己がどこに居るのかもわからない。人に害する気持ちがなかったとしても、掌に包まれてしまった、それこそがおそろしい。 「………リクオ様?」 雪女はその視線に一撫でされて、意識を取り戻した。 呼んだ名は、視線の主として、まったく正しい。 毛倡妓にもたれかかっていたところから身を起こし、天井の向こう側を夢見るように見つめて、まだ目を擦りながら、彼女はこう呟く。 「そんなところで、何をしておいでです?」 己等を掌に包んで見つめるその視線を受けて、彼女はぼんやりとしながら、首を傾げた。 他の妖怪たちは視線の主が何であるかすらわからなかったのを、するりと言い当てた、それこそが彼女の格がどこまで跳ね上がったかを如実に現していたのだが、彼女には全くその自覚が無い。次に視線を今この場所へと落とすと、四方開け放された部屋にあの、黒光するつやっとした《アレ》が大挙して押し寄せているのだから、たまらなかった。 ひっと、息をのんで、だらだらと汗を垂らしたまま、かたまってしまった。 逆に言えば、ここで夢から現に帰ってきたようなもの。 己の側に、あのひとがいない、視線は感じるのに、どこにおわすのだろうとぎこちなく辺りを見回し始める彼女に、四方のうち二方を受け持つゆらが、振り返りもせずに答えた。 「リクオなら、この部屋の外や。すぐに終わるから、おとなしくしとき」 +++
旧鼠が悶え苦しみ、涙とともに身の内から呪詛のような甲殻虫を生み出すのを、リクオは宥めるように撫でてやっていた。 半眼で深い瞑想状態に入る陰陽師を、幾重にも取り巻いていた光の帯はいまや、輝く光の玉のよう。 この中にいるのは、リクオと、その両腕に抱かれる旧鼠のみ。 この光に触れると、それまでどれほど荒々しくぎちぎちと毛羽だった六本足を蠢かせていたとしても、炎に紙切れ一枚を投げ込んたかのように、じゅわりと音をたてて消えてしまう。 当然に、旧鼠から生まれくる虫たちも、生まれるそばから、立ち上る呪詛だけを残して、形を崩した。 歌うように真言を紡ぐリクオに触れられるのは、彼が自らその手をとった、旧鼠の手である。 およそ人が好むであろう外見を造り込んでいたろうに、今は苦しみのあまりに人の姿をとる余裕も無く、溺れて苦しむように、必死にリクオの手にしがみつく。必死のあまり、皮膚を突き破って飛び出た長い爪がリクオの手に腕に食い込み血を流すが、リクオは眉一つ動かさない。 いまや男は、旧鼠の名が示す通り、体全体を毛むくじゃらの大鼠へと変化させ、悶え苦しんでいるのだが、これもリクオの瞑想を破るにいたらない。 変化は、かっきり、五分後に起こった。 力づけるように旧鼠の手を握り返したリクオが、不意にその目を、開いたのだ。 瞬間。 世界が、光に満ちた。 旧鼠の口から、目から黒い泉のように溢れていた虫どもは瞬時に消え去り、部屋に満ちていた虫どもも、膨れ上がる光に触れるや影も残さず消えた。 灼熱、黄金、そんな呼び名すら生やさしい、ただただ、それは、光であった。 リクオと旧鼠を包んでいた、言霊の光が、内側から破裂したかのようだった。 これは怒濤のように、奴良屋敷へ音も無く広がり、いずこへ影を落とすこともなく、照らし出した。 いくら陽気な連中といえども妖怪であるから、居心地よくしつらえるために逆さ枕にしていたり、鬼門をあけておいたりして、あえて妖気をため込んでいたはずの寝床も、小物連中にとっては寝心地のよいじめじめした場所だったのがすっかり払われて、まるで一日中天日干ししたように、ふっかふか。 塗り仏の忘れ物、偽りの蓮華座などは、なまじ形が仏生に通ずるものだから、光を浴びてふっかふかのきっらきら。うっかり座ってしまったなら、塗り仏はお尻を押さえて池に飛び込むはめになるかもしれない。 床下、屋根裏、蔵の中、瓦一枚一枚の小さな影にいたるまで、光を阻む場所はなかった。 これに追いやられるようにして、黒い虫どもは本能で逃げるのだが、不可能だ。 からめとられ、蒸発し、そしてその分だけ、なんともかぐわしい香りが立ちこめたかと思うと、光が立ち去った後には、黒い虫の転じた姿であろうか、七色の花弁が舞落ちているのであった。 大広間に集められた妖怪どもは、実際に光が満ちたその瞬間を、よく覚えてはいなかった。 なにが起こるのか、なんぞ、なんぞと身構えていたところへ、不意に例の視線を感じ、次に己が座敷ではなく誰かの掌の中にいるような気がした。 ふ、と上を見上げてみれば、そこで目があったそのひとは、塵芥に通ずる宝冠をかぶり、金褐色の髪を涼風に遊ばせ、半眼でもって己を見つめて、優しくほほえんでいたのだ。 これに、あれ、と身動きできなくなったと思った次の瞬間に、光はかき消えていた。 それまでざわついていた大広間の連中は、目をぱちくりさせて、しん、と静まり返っていたのだが。 「………終わったようですね」 初代の隣に控えていたヤタガラスがぽつり、呟いたので、止めていた息をいっせいに、むへえと吐き出したのだった。 光と、静寂。 これが去ってみれば、何のことは無い、たしかにいつもの夜の奴良屋敷である。 どこを揺さぶることもなく、亀裂も走らない。 二代目と若様の毎夜のじゃれ合いは必ず瓦の一枚や二枚や十枚や二十枚を割るというのに、これもない。 なのに、あれほど天井から床下から押し寄せていた黒虫どもが、まるで台風一過の空のごとくに消え失せているではないか。 それどころではない、大広間を残し、それまで妖怪どもの住処であった屋敷の隅々に渡るまで、妖気など微塵も見あたらなくなってしまった。 どこもかしこも、太陽の匂いで、ほこほこ、きらきら。 陰陽師たちが大広間の結界を解いても、妖怪どもときたら、しばらく声も出せなかった。 雪女がおそるおそる、廊下へ顔をだし、つま先をだし、大丈夫だとわかると今度はえいやと滝壺へ飛び込むようにきゅっと目を瞑って気合い一声、ぴょんと膝を揃え畳の縁を飛び越えた。 これも大丈夫だった。特になにも起こらない。 となると俄然、勇気が出た雪女、もう家のどこにもあの黒い虫が居ないとわかるや、誰が止める間もなく、小走りに行ってしまった。 次に我に返ったのが、同じく大広間で目をまん丸にしていた薬鴆堂の主だった。 雪女がそうしたように、彼は彼の主の名をぽつりと呟き、次に部屋を飛び出して、雪女を追った。 「す、すげぇ、今のはなんだ、?!」 「お天道さんがそこに生まれて、通り過ぎていったみたいだったぞ!」 「あの黒虫ども、影もなく蒸発しちまった。うへぇ、もし結界の中にいなかったら、おいらたちもこうなってたって事かよ?!おっかねぇ〜」 そこから、大広間の妖怪どもも皆心得た様子で、己の寝床がどうなっているやらと、かしましくしながら再び天井裏や床下にもぐり、あるいは雪女たちを追ってリクオの様子を見に行ったりなどするのだが、木魚達磨やカラス天狗などは、座したまま。 堂々としたもの……というわけでないのは、うっすらと木魚達磨が額に汗を浮かべているところから、うかがえる。 「………今のは、何なのです」 上擦った声で、陰陽師の長兄に問うたのは、初代の脇に控えていた、カラス天狗だった。 元々が鳥なので目立たないが、全身の肌が泡立っていた。 もとい、全身の毛が逆立っている。 無理もない、あの光から逃れる術がもし、無かったなら。 陰陽師たちが己等を守るためではない、閉じこめるためにこそ結界を張り、その中であの光を照射されていたなら、逃げ場無く、奴良屋敷の妖怪どもはことごとくに、あの黒虫とともに灼かれていたのである。 初代や二代目は涼しい顔をしているが、カラス天狗と木魚達磨はそこまで考えて、汗もかこうというものだった。 対して、陰陽師兄妹は淡々としたもの。 「見ての通り、超広範囲の無差別浄化だ。京都では鏖地蔵を祓った、アレだな。なんだ、暢気に一つ屋根の下に暮らしておいて、今更怖じ気づいたか、奴良組の妖怪ども?リクオが陰陽師だと知らなかったわけではあるまいに、今になって己が滅せられる可能性を想い描いたか? なに、そう難しい顔をせんでも、今からすぐにでもあいつを連れて帰っても構わんのだぞ」 「ば、バカな、怖じ気付いたわけではない。いったい何かと……そう、何か、と思ったまで。ただ、それだけのこと。い、致し方あるまい、我等はこれまでてっきり、若様はお昼間のお姿では、慈悲深くはあっても夜の御姿ほどの御力はないと、そのように思っていたのだから」 「そ、そうだとも。木魚達磨殿の仰せの通りだ。何も我等、若様の御力に恐怖したわけではない。まして、その、若様が我等にあの御力を向けるなど……、それは……、いや、今の御力を見て、露ほども思わなかったかといえば……、そうではないが……、幼い頃は本当に只人の子であられたのだ、少し目を見張っただけのこと!」 「愚にもつかんな。花開院をなめていないか?屋敷中の護法どもが謀反を起こしたその時に、夜だろうと昼だろうと一人で全てを滅するぐらいの力が無い奴に、妖怪の動物園を作らせるとでも?万一のことがあれば、一人で責を負い、問答無用で全てを浄化する。そういう約束であいつは伏目に護法どもを飼ってる。意志無き力に暴力以上の意味が無いのと同じ、力無き慈悲に、何の意味がある。罪状を知らずに、その罪状に対して報いる力を持たずにいるのに、赦すも何もないだろうが。《目》が開いたなら、リクオはその気になりゃ、お前等全員を相手にして、一人だとしても相打ちになるぐらいの力を持ってる。 それが、無欲と無力をはき違えたお前等が、卑小矮小と蔑み、何の力も無いなどと決めつけている人間の底力。あれとこれからも親戚づきあいをするつもりなら、これぐらいでいちいち顔色を変えられては困るな。あれが気を使うだろう」 「わかっておるわ!先程から聞いていればお主、あれこれとつっかかってきおって、我等に何か恨みでもあるか!」 「恨みぃ?……なら逆に訊くが、カラス妖怪。リクオがお前等を恨まないからと言って、その分までお前等を目の敵にしてる奴が居ないとは、思わんかったか」 「なにを……?」 「四つになったばかりの幼子を母子ともども追わせる動き、あったのを見過ごしていたこと、まさかお前等、自分は何も知らなかったから仕方がないなんて考えているのか?それとも、ただただあいつが帰ってきたことを阿呆のように、あははうふふと喜んでいただけか? お家騒動致し方なしとでも思っているのかもしれないが、よく考えてみろ、あいつは妾の子だと、四つの頃から自分でわかってたんだぞ。普通、そこで恨むもんじゃないのか、自分の母親を妾扱い、その上、己等の都合で母子ともども追われたなどとなれば。次に会ったなら殺してやると、いいや、いつかあそこへ戻って母を死に追いやった奴を皆殺しにしてやると、そういう鬼が生まれるに充分な土壌だ。だがあいつはそうしない。できないんじゃない、しないだけさ。やる力は持ってる。今のがそうだ。 俺はお前等の都合や事情など知らんし、妖怪どもの力をあてになどしたこともない。が、血を吐いて五臓六腑を腐らせて弱っていくあれの寝床に兄弟でかわるがわる、ついていてやったときに、世が世ならこいつはただ守られて乳母日傘で育つこともできたろうにと、不憫に思ったことなら何度もある。……不憫というのは生易しいな、なんで今そうなっていないと、あれを追い出した奴を憎んだもんさ。あれがお前等を恨む理由なら山ほどある。だがあれはお前等を、恨めと言い聞かせたところで恨まないんだから、かわりにこの十年分、俺がたっぷり恨んでやるまでよ。そうじゃなきゃお前等、申し訳ないという気持ちすら忘れて、めでたしめでたしで締めくくりそうだ。忘れるな、あいつの母親はお前等に殺されたも同然なんだ」 たかが人間風情が何を、と言うのは簡単だったが、木魚達磨も、カラス天狗も、ちらと視線を交わしただけで、沈黙を貫いた。 若様が、毎日あまりにのびのびと、あまりに恨み言などと縁遠い様子でお過ごしであるので、奴良家との縁を思い出してくださったかと胸をなで下ろし、ついでにこのまま、戻ってきてくだされば良いのになどと、都合よく考えていたのは本当だった。厳しい指摘であったが、言われて初めて、つい十年前には、同じ若様に対して内心、これが妾腹でよかった、全く妖気を帯びぬ只人の子に育つようであれば、いくらか穏便に人間の世に返すこともできろうからなどと、口にはしないまでも考えていたことを、思い出したのだ。 己等が直接母子を追ったのではないし、むしろ彼等は母子が姿を消してから、二代目とともに血眼になってその行方を追ってもいたのだから、言われる筋合いなど無いと開き直ればそれまでであったのだが、なまじ、もしもっと強く、あの人間の娘と二代目の縁をとりもってやったなら、周囲から強く強く、妾などとんでもなきこと、是非に奥方とおなりくださいませと進言していたなら、未来は変わっていたかもしれぬと後悔があるばかりに、黙るしかない。 「だが、俺はできんよ。俺には妹や弟のような才能も信仰心も無いんでな、お前等全員を一瞬で滅するなど、やりたくでも、できん。命拾いしたな、奴良家の妖怪ども」 竜二の鋭い舌鋒を、いつもは宥める役割の魔魅流も、今は困ったように俯くばかりで、黙ったままだ。 もうええやろう、と、呆れたように、声をかけたのが末妹の方で、それだってそれほど真剣味もないのだがとりあえず声をかけてみたといった具合だ。 それでもしばらく竜二は、彼等を、いや彼を、睨みつけていた。 カラス天狗、木魚達磨、そのどちらでもない。 視線の先のその男、あの光に、臆した様子など微塵もない。 大広間から三々五々、散っていく妖怪どもが、黒虫が払われるついでに数百年分たまっていた妖気が払われてしまい、あっちこっちであいや困った寝床がこうもほこほこしていては落ち着かないぞと陽気に笑い合い、ほら今も天井裏から、あれ寝心地よくしつらえた僕のベットがないぞどこに行ったんだろう、などと小蜘蛛が首をかしげているのに、そいつもきっと払われちまったから、適当な場所にもう一回作るんだな、と笑って答えている ――― そう、奴良組二代目だ。 遠慮の無い生意気な視線にさらされても、二代目はそれまでと同じ、鷹揚な笑みのまま、怒りもしない。 竜二の物騒な視線も、彼にとっては天井裏の小物どもの生意気と、何ら変わりはないのだ。 その二代目は、煙管をやりながら、 「わかってるよ、竜二くん」 まるでわかってないぐうたら親父のように、背中を掻きながら、言う。 「おれだってこの十年、本当に長かった。あいつの十年だって、無かったことにはできねぇだろう。忘れるつもりもねぇし、捜し当ててやれなかったことを悔やんでもいる。その上あいつは、恨み言の一つを言ってもくれねぇ。だからさ、待ってんのよ。じゃれてたらそのうち、ぽろっと何かの拍子に、不満の一つも言ってくれるんじゃねーかってさ。 これでも最近、言うようになってくれたのよ。行儀悪いとかノリが軽いとか、応募もしない懸賞シール溜め込むなとか部屋片付けろとかガリガリ君食いたいならてめーで買いに行けとか。こっちに来てから今日まで、あんまり我慢しないでいてくれたんじゃねーかな。今の今まで、夜でも妖気抑えられるなんて、おれも知らなかったぐらいだし。竜二くんの言葉を借りると、あれはパジャマ姿でふらふらしてるようなもんなんだろ?」 「二代目さん、なんや、うちらが来たときもリクオとじゃれてはったもんね。あんな楽しそうなリクオ、久しぶりに見たわ。兄弟喧嘩みたいやった。兄弟喧嘩であんなに札飛ばすリクオも、初めて見たねんけど」 「あいつさ、おれに対しては札なんて輪ゴムピストルと同じだと思ってんだよ。そこんとこはもうちっと、容赦してほしいんだけど。ゆらちゃんからも言ってやってよ」 「考えとく」 「紅福食べる?」 「わかった、言っとく」 ゆらは三人の中で、一番に二代目に好意的だった。 竜二や魔魅流のように、魔京抗争の中で首を絞められたり絞められそうになったりもしなければ、その場面を目にしたわけでもないし、二代目の方も、息子と同じ年の少女に対しては他の陰陽師に対するよりも甘い目で見ているからだろう。 末妹の勘の良さには信を置いている竜二としては、それ以上口出しはできなかった。 いつものように、これにフンと一つ鼻で笑うと、あとはもう自分が言い捨てたことすら忘れたように、賑々しい廊下へ歩み出したのだが、これは二代目の方から止められた。 「ああ、そうそう、竜二くん」 「 ――― なんだ」 のほほんと構えていた二代目、この時ににたり、目が猫のように弧を描く。 竜二は捕食者の視線に、ぞくり、背筋を駆け上がる寒気に、身を震わせるのに精一杯で、あからさまに己を見下した不躾に、言い返すこともできなかった。 二代目はこの少年が己に向ける敵意が何処から来るのか、そこをついに捕らえたのだ。 「十年前の若菜は、そりゃあ綺麗で可愛かった。花の二十歳だったもんなァ。けどよ、あれは、おれの女だ。てめぇは、どうしてこんな男がとおれを思うかもしれんがよ、仕方がねぇよなァ、好き合っちまったんだもん。今だって、おれはあれが、うちの女房のつもりでいるよ。 妾扱いはあいつが望んだこと、あいつはあれで苛烈な気性でな、そうでなけりゃあおれの女房などにはおさまってやらんと言い渡された。だからひとまず手に入れて、そこからじっくりゆっくりねっとり篭絡してやろうと目論んだまで。あともう一歩ってところで、逃げられちまったが ――― 今でも、誰にも渡す気はねぇんだよ。特に、あいつを美化して戦う理由にしたがるような、青臭いガキなんぞには」 かっと、竜二の双眸に、苛烈な光が宿った。 常に、あえて此の世の表面だけを滑らせているような、冷たいそれではない。 睨み返す視線には熱があった。 少年の、熱が。 「 ――― 魔魅流、ゆら、リクオの様子を見に行くぞ」 「あ、うん」 「さっきの旧鼠、どないになっとるやろうねぇ」 千切るように二代目から視線を引き剥がした竜二は、もう振り返りもしない。 二人が交わした視線の意味。初代がははあ、と得心したように何度も頷き、ヤタガラスは楚々と俯いた。 木魚達磨とカラス天狗が、物問いたげに二代目を見つめ、カラス天狗がその場を代表して口にする。 「二代目、あの陰陽師に言ったこと、つまり……?」 「あの竜二ってガキの言うことはもっともでもあるんだが、何でああもつっかかってくるかねぇと前から疑問でもあったんだ。考えるまでもねぇ、ああも露骨に言われりゃ簡単なこと、こともあろうか、おれの若菜に懸想してやがったんだよ」 三人を見送ったときとは裏腹、二代目ときたら苦虫を噛み潰したような御顔で、がりがりと煙管を噛んでおられる。 「つまりこうだ、十年前、目つきは悪くてもまだ小学生の竜二きゅんのところに、不意に現れた若菜二十歳。年上の綺麗なお姉さんに頭撫でられて、『リクオをよろしくね』なんて言ってもらったわけだろう、あいつ。生まれたときから短命が約束された、花開院本家の才ある男児として、それなりに斜めに世界を見ていた野郎が、そこへ不意に現れた、同じ短命ながらに真っ直ぐな若菜に惹かれたとか、そういう事なんだろうよ。あいつの陽だまりときたら、悪い虫さんいらっしゃい、てなもんだから。 で、ガキの正義感的に、自分が惚れた女が妾扱いなんぞされてたのが許せんわけよ。こっちの事情なんざおかまいなし、思い込んでまっしぐらだ、性質悪いぜ。もしかしたらアレだな、あの目つきの悪いガキ、ガキだったからこそ、妾扱いなんぞする奴より自分と結婚しようとか、だから自分が十八になるまで待てとか、言ってたかもしれんな。で、若菜のことだ、まぁ嬉しいわとか適当なこと言って ――― あ、胸糞悪くなってきた。やっぱあのガキの首、毟り獲っておくべきだったかなァ」 +++
雪女が部屋を覗くと、そこでは金髪の青年がおいおいと、布団の上でうずくまって泣いていた。 ここに来るまでの廊下もそうであったように、この部屋でも黒虫どもはことごとく、七色の花びらとなり芳しい香りを放ちながら散っていた。あとで掃除が大変そうだと思いつつ、それだって《ゴ》で始まって《リ》で終わるそれの死骸が転がっているよりは、よほど良い。 雪女がはてと首をかしげたのは、先程まで二代目と追いかけっこをしていたリクオはもう夜姿へ変じていたはずなのに、すすり泣く青年を撫でているのは、昼の優しげなそれだったからだ。 「……リクオ様?あら、どうしてそちらの御姿なの?さっきまで明王でいらしたのに」 「あ、氷麗、いいところに。あとでこの人に、何かあったかい飲み物を持ってきてあげて。そうしたら、少し落ち着くと思うんだ。……うん、さっき竜二お兄ちゃんに、寝る前でもないのにパジャマ姿でふらふらするような真似するなって、叱られちゃった」 「まあ、呆れた。あの御姿になってもこっちに戻れるなんて、私、知りませんでしたよ。てっきり朝にならなけりゃ無理なんだって思ってたから、お寝間着の丈はすっかりあちらにあわせちゃったのに。……あたたかいお飲物ですね、わかりました、すぐにお持ちいたしましょう」 誰もここへ残さずに、得体の知れぬ男とリクオを二人きりにさせるのはならぬと判じた雪女は、自分のすぐ後を追って薬鴆堂堂主が、続いて花開院の兄妹たちが部屋に入ってきたのを見届けてから立ち去った。 このとき、障子のすぐ脇にひかえて畳に手をつけた様子、意味ありげにリクオと視線を交わし笑み合った様子などが、心の深いところで結ばれ合った二人であるのを感じさせる。あの炎で焼け落ちた薬鴆堂での二人の契りを、目の当たりにしていた堂主はともかく、兄妹の目には話に聞いていたとしても物珍しい。 「リクオくん、あの雪女をお嫁さんにするんだって?」 「奥手なお前にしてはよくやったと、まずは誉めておこう。この冬に祝言を考えているということは、二十七代目に伝えておいた。後でお兄ちゃんも挨拶をしたいから、あらためて紹介しなさい」 「………今の、あの雪女、だったやんな?………あれ、なんか違うひとみたいやったね。雪女?………ううん、ちゃうなぁ、あれはもう、月天さんやろう?もう炎と相克とはならんのやないの?」 「ほお、何か格が変わるような事件でもあったか。聞いておらんぞ。そこは後で詳しく話せよ。……で、そこで泣いている旧鼠、どうなった。どうして泣いている。お前の側にいたんだ、命に別状はあるまい?」 地元ではそれぞれ無口で片づけられている兄妹三人とは言え、揃えば結構かしましい。 堂主がちょいと診せてくんなと割って入れたのは、話題の矛先が件の、布団の上の男に移ってからだった。 ひんひんと情けない声を上げて泣いている男は、布団をかぶって、まるで布団虫。 ちょこっとだけ布団から覗いた金髪頭を、リクオが撫でて宥めてやっているのだが、まるで効果がないので、弟よりもやや乱暴に物事を決めたがるきらいのある兄が二人がかりで布団を力付くでひっぺがし、それでようやく、彼の姿がさらされた。 「なんだ、別にどこも悪くなさそうだが、旧鼠よ、お前さん、どっか苦しいのかい」 悪いどころか、黒い虫を腹の中で次々孵していたそのときよりも、よほど調子が良さそうだ。 旧鼠の本性が現れ始めていた毛むくじゃらの腕も、今は人間の青年ならではの、健康そうな肌色のそれである。とがり始めていた耳も、人間のそれ。鋭く伸びていた爪は、形良くおさまっている。 どこを見ても、異常は無い。 そう、人間に変化しているとするなら、まことに見事な人間変化なのだが、旧鼠がすすり泣いているのは、まさにそこなのだった。 「ね、ね、ネズミになれ、ねぇ………ひぅ、ぐすっ………。お、俺、旧鼠なのに………旧鼠になれなかったら俺、お、俺………」 「な、なんだと?!お前、まさかそれ、変化してるんじゃねぇってのか?!」 「違う。いくら妖怪に戻ろうとしても、で、できねぇんだ」 「なんてこった……。リクオ、お前、いったい何をしたんだ?」 「何をしたも、何も、ちょっと強めに祓っただけだよ。あの黒虫は悪い想念だったから、それの苗床になってた星矢さんの内側も、灼く必要があった。だから、内側だけ、祓ったつもりだったんだけど………やりすぎたかも」 「やりすぎたって」 「うわあああああ、もうおしまいだああああ、うえっ、ぐすっ、こ、こんな、こんなナリじゃあ、お、俺、仲間んトコに帰れねぇッ。うわああん、うおおおん、うええええええん」 妖怪に戻れないのがショックなのか、それともリクオが彼の内面を祓ったそのときに、邪悪な部分が根こそぎ失われてしまったのか、まるで幼子のように泣きじゃくる。 いくら妖怪の医者といえども、妖気が祓われたついでに人間変化から戻れなくなるなど、聞いたことも見たこともない。 どう手を施そうとしたものか途方に暮れる堂主と、これと顔を見合わせて、後悔のため息をつくリクオと、見守る兄妹たちと、全員の視線を浴びながら、最後に旧鼠はこう言い放った。 「……ひっく、ぅぇっく……、ひ、ひでぇよ、こんな、こんなの……ッ、俺から旧鼠だってこと取ったら、ただのイケメンホストじゃねぇかあああッ」 「自分で言うなド阿呆」 「ホントは嬉しがってはるやろう自分。しょうもない」 「馬鹿が。リクオに心配かけさせんな」 嘘泣きを続ける旧鼠の頭に、本家兄妹二人と堂主の、容赦なき鉄槌が下った。 あんまり心配しなくても大丈夫みたいだね、と笑う魔魅流の横で、リクオも流石に、苦笑するばかり。 落ち着きを取り戻した(取り戻させられた)旧鼠、もといただのイケメンホストは、雪女が持ってきたココアをすすって、息をつくと、事の次第を話し出した。 あの界隈は、彼等の仕事場でもある。 仕事とはつまり、やりすぎない程度に、人間の若い娘から精気を啜る事。 旧鼠たちにとって、ホスト業は金と精気が同時に手に入る格好の餌場。本当ならもう少し、柔肌をかじったり喰らったりしたいとも思うが、この平成の世では、有象無象と人間がいるくせに、人間一人いなくなるということが天地をひっくり返したような大騒ぎにもなる上、二代目の目も光っていることだし、そんな大きな悪行もできない。 だからせいぜい、精気のかわりに金を巻き上げて、その金で女遊びなどをしてさらに精気を啜って、毎日を凌いでいるのだそうだ。 先程はいつものように、仕事場となっている店へ、出勤の予定だった。 彼はもっぱら第二営業専門なので、あまり早くは店に出ない。 早い時間は、なじみの女の子につき合ってどこかへ夕食に行ったり、どこかで遊んだり、ホテルでごろごろしていたりするのだが、今日に限ってはそんな約束もしていなかったので、あのあたりをぶらぶらしていた。 そろそろ店へ行こうかと思い、近道をしようと裏通りを通っていたとき、不意に暗くなったような気がして上を見上ると、あの巨大オニバンバが目の前に迫っており、逃げる間もなく、尻尾の針のようなものでぶすりと腹をやられ、気を失ってしまい ――― あとは、知っての通り、ということであった。 「それじゃあ、てめぇもあの……《ゴ》で始まって《リ》で終わる、あの黒虫までがオニバンバになっちまった理由は、知らねぇんだな?」 「勘弁してくださいよ、鴆の親分。奴良組のシマでそんな勝手なことをするのはもちろん、噂がたっただけでも破門に及ぶかもしれねぇ。滅多な事は言わないでくださいって」 「とすると、突然変異ってことかな?嫌だなぁ、トンボだって羽があるから拡散は早そうなのに、《ゴ》のつくアレだったら、さらに生命力まで加わっちゃう。このままじゃ、京都に及ぶのも時間の問題だよ。何とかならないものかなぁ。……そう言えば鴆くん、薬鴆堂がオニバンバ対策の薬の開発に協力してたって?さっき、テレビで見たんだけど」 「ん?おぉ、俺たちがやってたことといやぁ、せいぜいが、あやしの類の者どもにころっと効く、《昏倒丸》を提供したぐらいだぜ。たしか、モモカンパニーとか言う会社が、商品開発に是非ともって、今年の春先だったか、打診してきたんだよ。金が入るからって、蛇太夫と蛙番頭の両方がやけに乗り気だったな。俺は全部あいつ等にまかせてたけど」 「なるほど。じゃあ、さっきの通販のモモ印って、モモカンパニーのモモだったんだ。去年までそんなの無かったって、二代目が物珍しがってすぐに電話したがって……電話の子機取り返すためだけに千手観音降ろしたのなんて、初めてだったよ、ボク」 「あぁ、それでさっき、リクオと二代目さん、喧嘩してはったん?」 「せや。ボクもあっちの姿だと、何だか我慢がきかんくてなぁ。だって百ダース買うとか言うんやもん。無駄遣いかもしれへんのに」 唇を尖らせて父親の罪状を吐くリクオの物言いに、そらあかんわなぁと応じながらも、ゆらはけらけらと笑った。 まるで緊張感の無い父子喧嘩の理由がわかって、こらえられなくなったらしい。 ところが竜二ときたら、ふむと顎に手を当てて思案顔。 続いて、何だか奇妙なことを口にした。 「………その、《昏倒丸》、と言ったか。あやしの類に効くと言ったが、例えば妖怪どもの薬の中には、トンボにだけ効く、というような薬は無いのか?《昏倒丸》だと、どの妖怪にも効いてしまうんじゃないのか?」 「そりゃあ、少しは効くかもしれねぇが、あんなの子供騙しだぜ。例えば人間どもだって、殺虫剤を浴びりゃあ具合も悪くなる。それは、いくらか人間にも効くような毒薬が入ってるってこったろ?だが、気分が悪くなるってわかってるから人間は避けるし、自分に向かって使いやしねぇだろうが。武器にするったって勝手も悪い。そういうのと同じさ。そもそもがあの商品は、何も考えずに何でも腹に入れるような、脳味噌のねぇ奴等が腹に入れるだろうってことを考えて作ったぐらいのもんだ」 「ふむ。………なら、特別にトンボ形態だけに効くようなものとして作ろうとも、思わなかったということか」 「あ、いや、トンボ野郎だけやるなら、たしかに専用に調合もできなくはなかったんだよ。だが、あちらさんから、できれば汎用の効くような奴にしてもらいてぇって、注文があったな、確か。………うん、それは俺が調合したから、よく覚えてる」 「ほぉう。あちらさんはどうしてまた、トンボ以外にも効くようなものを、欲しがったんだろうなァ?しかも、まだオニバンバなんぞが飛んでいなかった、春先だろう」 はた、と、誰もが言葉を失う。 薬鴆堂の主ははっと顔色を失って竜二を見返し、魔魅流は旧鼠、もといイケメン星矢の具合を診てやっていた手を止めて、やはり竜二を見た。 雪女は布団の周りにあれこれ用意をしてやる手を止めて、ゆらとリクオもお喋りをやめて、長兄を見る。 視線を集めた漆黒の陰陽師は、ため息とともに、こう吐き捨てた。 「………これだけ雁首揃えて、誰もそれに思い当たらなかったのか?………やれやれだぜ」 |