「オニバンバ退治に効くという、その通販薬品だが。モモカンパニーとやらはあらかじめ、その商品はトンボ限定ではなく、いずれ妖怪全体に対する汎用性が求められるようになると、知っていたんじゃないのか。だからこそ、この種類だけには絶対的な効果がある、というものを選ばなかったんじゃないのか」

 竜二の推論に、一同、まさかという顔をする。
 これを受けて重々しく、長兄は頷いた。

「知っていた可能性は高い。では、何故知り得たか?答えは二つだ。まず一つ、地道な努力に基づく予報、という奴だな。これには努力と金が要る上、商品開発という博打を打つには弱い気がする。こちらだと、現れない可能性、商品価値が出ない可能性があるからな。だとすれば、もう一つの答えに行き着く。すなわち、その商品を開発した当事者こそが、オニバンバの新種を生み出した、という答えだ」
「するってぇと、そのモモカンパニーって奴は大手を振って奴良組のシマを荒らしてるってことになる。………しかも、素知らぬ顔で奴良組の薬師たるこの、鴆様を巻き込んでってぇわけかい。ふてぇ野郎じゃねぇか。しかもこのオニバンバ、もう何年も前からいやがるんだぜ?そんなに長いこと、俺たち全員を欺けるとも思えねぇんだがなァ。そこんとこ、どうなんだい、陰陽師の兄さんよ」

 ここで竜二、真顔で手のひらを上にして、すっと差し出した。

「………判じないこともないが、陰陽師を使うなら先立つものが必要だな」
「ここまで言っておいて、それかよ!」
「ここまでは、弟が世話になった分だけのサービスだ。本来は奴良組でどうにかするモンだろうが」
「そりゃ、まぁ、そうだけどよ」
「だがリクオ、お前が判じるというなら、止めはしないぞ。ここはお前にとって縁深い土地だ」

 あろうことか、妖怪に向かって金をせびろうとした竜二だが、しかし最後には結局手を袖の中に引っ込め、何事か考えに沈んでいたリクオに、役目を譲る。
 夜の間に人の姿でいるのは久しぶりで、おかげであれこれと考えが浮かんでは消え、あらゆる可能性を考えては捨てして、リクオはそのとき既に、一つの考えに行き着いていた。

「………一人じゃ無理だね。複数犯。奴良組に属するどこかの組が丸ごとか、あるいは二つ三つ連帯関係にあるのか。いずれにしても、モモカンパニーって、怪しいんじゃないのかな。すぐにでもその会社の実態、調査してみた方がいいと思う。玉章くんが言ってたけど、書類上の会社っていうのを作ることは、いくらでも抜け道があるんだってね。仕事で京都だけじゃなく、いろんな町に行くこともあったけど、そこではそういうのを使って、お金に汚いひとたちがあくどいことをしていたこともあったよ。妖怪たちがそんなこそこそする必要はないし、だからまさかとは思うんだけど、あの京都の抗争でだって、奴良組の中にも裏切り者はいた。これからだって現れるかもしれない。そうは思えないかな?」
「まだツメが甘いぞ、リクオ。複数犯だとして、目的は」
「毎年、決まった季節だけに現れていたうちは、お試し期間みたいなものだったんじゃないかな。そうすることによって、毎年恒例と思わせるために。実際、奴良組のみんなは今回も、《またか》って顔、していたよ。本当は今回みたいに、一年を通して現れるようなものにしたかったんじゃないかな。竜二お兄ちゃんが言ってた、薬を作った側があの虫を作った説を取るなら、まさに、その薬を売るために。毎年恒例のアレだ、だから薬を作りました、これは画期的だ買おうって考えるひとたちも………その、妖怪の中に、少なくとも一人は目の前にいたから知ってるし。
 薬を売る相手は、そうだね、このあたりの妖怪たちにだと思うけど、もしそっちにお金を落とすとなると、奴良組におさめてるお金って、その分減るんじゃないのかなぁ。だって、奴良組って弱い妖怪たちを、守ってあげることでお金をもらってるんだよね?けど、あのオニバンバからは守れないってことになる。オニバンバを撃退できるのはあの薬だけ。そうなれば、薬の分だけ、奴良組が得られるお金は減って、薬を売る側のものになる」
「金を得ることが目的だとするなら、つまり?」
「長い目で見た、奴良組に対する経済的な打撃。経済的侵略」
「つまり、敵はどういう奴だ」
「表だっては奴良組に敵対できない、あるいはしたくないひとたちで、だけど奴良組のことはあんまり良く思ってないとか。ちょっとだけ愉快犯のような気もする。直接的な悪意が無いから、困らせてやろうと思ってる、ぐらいの気分かなぁ。ついでにお金が入ってくればいいなって程度なんじゃない?あんまり覚悟とかは感じられないよ。だって、あんな風に暢気に通販番組とかで、会社名流しちゃうんだもん。もしかしたらそこから、奴良組が自分たちのことを見つけられるかどうか、試してるのかも」
「よろしい。陰陽師の方の腕も、なまっていないようだ」

 陰陽師一家はともかく、居合わせた妖怪たちは目を白黒するばかりである。
 無理もない、妖怪たちにとって陰陽師とは、札を放ち、まじないを使い、妖力に対して理力でもって立ち向かう、人間側の戦士のようなもの。
 事実を積み上げて仮説を導くようなことは、人間側では警察だの探偵だのがするのではなかったか。

「まるで、陰陽師って言うより、探偵か警察みたいなのね」

 雪女がこう言い表すと、受けてリクオははにかみ、答えた。

「人間が陰陽師を頼ってくるときにはね、ほとんど怪異なんて無いんだよ。九割が思いこみや、人の悪意がほとんどだから、依頼人の嘘まで見抜いて、その事象を紐解く必要があるんだ」

 確かに、リクオにはそういった仕事が向いているに違いないと、雪女にも鴆にも、それにリクオのことなどほとんど知らない元旧鼠も、ほうと感心しながら思い至った。
 こうして小さく淡く、心からの笑みを浮かべられると、心を閉ざした人間でも、きっとあれこれ話すようになるのだろう、と。

 艶やかな夜の姿は、人も妖も惹きつける。
 力も魅力も兼ね備え、その後ろに従いたいと思わせるに充分である。
 ならばこちらの昼の姿は、月が沈んでいる間の仮初めの姿、月の陰に過ぎぬのかと言えば、そうではない。
 たしかに、こちらはまだ幼い少年の姿。人や妖を魅了する妖気も纏っていなければ、夢幻を手足のように扱う力も無い。日々を祈りと研鑽で過ごし、思いやりには溢れているものの、普通の子供より少し引っ込み思案に思えるほどだ。

 ところがこちらの姿に、小さく微笑まれて見つめられると、この御方をもっと見ていたい、もっと見つめてほしいと願うようになる。
 一瞬にして闇を払う光を内側に秘めた、強い御方であるのがわかっていても、守りたい、そう、願わずにはいられなくなる。
 笑っていてほしいから。陽がかげるのを、見たくないから。

 だからこの視線がふと下を向いて、憂いを帯びると、この人の子は誰なのか全くわからないはずの元旧鼠すら、思わずずきりと胸が痛んだほどだ。

「ただね、今みたいに陰陽師の力の方が必要になることもあって、見たものがどういう妖怪だったか、祓ってきたのがどういう怨念だったかっていうのは、ちゃんと覚えてるつもりなんだ。一つとして同じ妖気は無い。そのはずなのに………あの黒虫、なんだか同じだったんだ」
「同じって、一つ一つの気配がみんな同じだったってことか?連帯意識体という奴じゃないのか」
「ううん、違うよ竜二お兄ちゃん。あれが全部同じ意識を持ってたっていうわけじゃなくて、あれが、同じだったんだ ――― 鏖地蔵と」



+++



 気に入らないガキの推論から始まったものであろうとも、二代目はこれを重んじた。
 先の抗争においての、竜二による従えた陰陽師たちへの指示や戦いの作戦がどれほど的確であったかを考えれば、無視できようはずもない。加えて、二代目の動きは江戸が帝都へ、帝都が東京へ変わった今も、疾風怒濤の電光石火。

 悪人どもがしめしめと、潤った懐ににんまりしながら小判を数えているうちに、ちょいと邪魔するぜと入って行くのが大の得意のぬらりひょんだ。

 モモカンパニーなる会社、臭い。
 こう決まれば、カタギの者どもはいざ知らず、妖怪任侠一家には証拠など要らぬ。
 関東一円は奴良組のシマだ。証拠云々の前に、キナ臭い商売をしてカタギにまで迷惑をかけているらしいと なれば、そやつらを主の前に引きずってこいと一声かけるだけで済む。
 ところが、そうはうまくいかなかった。
 二代目の命で急ぎ、モモカンパニーなる妖怪会社の本拠地へ飛んだ三羽烏は、登記簿上の住所は真っ赤な偽物であったと述べたのだ。

 そう、事務所や工場があると言われていた場所には、人間の民家があるばかり。
 床下や天井裏などに小物が住み着いているのかと思ったが、これもない。
 リクオの危惧、そのままだった。

 ここの商品を取り扱っていた、例の通販会社へ問い合わせても、知らぬ存ぜぬ。
 二代目の名を聞くや、焦って社長自らが奴良家に菓子折を持ってやって来て、額の汗をふきふきしながら、いつもよりさらに二オクターブほど高い声で弁明もした。
 言うところによれば、納品はたしかにされたのだが、その後、例の会社はどこぞへと雲隠れしてしまったのだそうだ。とは言え、人間の会社ならいざ知らず、妖怪の会社側にはよくあることだからと、気にもとめていなかったのだとか。
 嘘をついている様子は、見られなかった。
 例の商品とやらも、証拠の品として数個置いていった。

「いよいよ、怪しいな。リクオの言う通りになってきた。誰かが培養してるんじゃねぇかとは前にも言ったが、やっぱりその線、強く考えた方がいいみてぇだな」

 お得用サイズ(30個入り)の、オニバンバ捕獲キビダンゴ。
 リクオが止めなければ、奴良家の蔵を埋めていたであろうそれを前に、二代目を筆頭として、本家の妖怪たちは額をつき合わせた。
 花開院兄妹が京都からやってきた、その翌日の夜のことである。
 たった一日でここまで突き止めただけでも、奴良組二代目の視野の広さと、百鬼たちをよく従えているのがうかがえたろう。
 遊んでいるように見えて、〆るところはきっちり〆ている、顔を見たことが無い妖怪どもは、名前だけでありがたがり恐れ入るほどの、魑魅魍魎の主に他ならぬ。妖怪ならば誰でも、本家から呼び出しを食らったとなれば、その慧眼に一体己の悪行の、何が目に留まってしまったのか、いや、きっと今まではただ見過ごしてくださっていたのを、いよいよ何か見過ごせぬところになってしまったのだろうと、震え上がるような御方である。

 二代目は、これに加えてもう一つ、どこか突き抜けたところがあった。
 時折、突拍子もないことが、ふと思いつくのである。
 と言っても、本人にしてみれば何のことはない、どうして皆が思いつかないのかの方が不思議な事柄なのだそうだが。

 今も、モモカンパニーの商品の箱にででんと大きく描かれた、どんぶらこ的な大きな桃の絵面を見ながらふと、

「《百》って漢字も、《モモ》って読むよなァ、そう言えば。百物語組の奴等は最近、どうしてる?……今回のオニバンバ騒ぎも、青蛙亭が最初に知らせてきたよな。去年もそうだった。一昨年のことはさすがに覚えちゃいねぇが、調べればすぐわかる。毎度あいつらのシマに一番最初にオニバンバが現れるってのは、どういうからくりだい?」

 こう、口にしたのだ。

 カラス天狗、木魚達磨、ともにぎょっとするも、まさか、とは言わなかった。
 百物語組と奴良組は、かつて江戸時代に、二代目と熾烈な争いを繰り広げた末、現代においていよいよ狭まる妖怪たちの住処や、細る先のことを考えて、和睦という形をとったいきさつがある。
 和睦したからとは言え、敵同士だった事実が消えるわけでもない。
 相手がどんな企みをもって和睦に応じたかも、お互いに知るよしもない。

 例えば百物語組に和睦に応じた理由を訪ねたなら、筆頭格の圓潮などは、「あれほど肩で風を切っていた奴良組も現代になじめず先細り、不安のあまりにか、現代において噺家や絵師として生き残る我等に惨めに頼ってくるような物言いをしたから、仕方なく応じてやろうと言う気になったまで」と言うだろうし、同じ組の他の妖怪たちは、さらに別のこと話したり、あるいは自分は和睦したつもりは無い、などと言う者もあるだろう。

 例えば奴良組二代目に、和睦を持ちかけた理由を訪ねたなら、「あれから数百年も経つ上、結局同じ土地をねぐらにしている者同士、顔をつき合わせないわけにはいかねぇ。あちらさんは《奴良組を倒すまでは滅びない》っていう、怨念じみた作られ方をしてるからガチ勝負するのも厄介だし、それって逆にあっちにとっては《奴良組を倒した後は別の誰かにあっさりやられるようになる》かもしれんってことだから、こんなに何百年も浮き世を謳歌した後じゃ、あちらさんの中にも今更進んで打倒奴良組となる奴も少ないだろう。あいつ等にとっちゃ、《奴良組さえ無事なら自分たちも無敵》なんだからよ。あっちからそれを表だって言うのは体裁悪いだろうから、おれがもちかけてやったんだよ」となる。
 あたかも相手を思いやったような物言いだが、もちろんそうではない。
 ちょうどその頃、二代目は一人の人間の少女と知り合い、それとの縁を本格的に考えて、過去のあれこれを精算したいという気持ちが起こったのだ。任侠であるので取り返しのつかぬこともあれこれあるが、目の前に転がっている問題をそのままにしておく手もあるまい、と、思われたのである。

 つまり、百物語組と奴良組、和睦を結んでからまだせいぜい、二十年程度しか経っていない。

 疑う相手としては、申し分ない。
 とは言っても、確かめるにしても慎重にならねば、相手の怒りを買う。
 抗争にもってこいの口実になることも考えられる。
 奴良組に、百物語組と事をかまえるのを後込みする理由はないが、逆に喧嘩を売るつもりもない。今は屋敷に若様を迎えている身ならば尚のこと、表だっての抗争は控えたいところ。

 かと言って、手をこまねいていては、証拠も隠される。

 どうしたものかと、流石に三人が唸っているところへ、失礼します、と襖を開けたのは首無だ。

「どうしたい、何か進展でもあったかい?」
「いえ、そういうわけではないのです。その……そろそろ夕飯時なんですが、リクオ様の御姿がまだ見えなくて」
「はははっ、過保護だよ、首無。そろそろ帰ってくるだろうさ」
「だと良いんですが、その、花開院の陰陽師たちも、それに雪女も初代も、揃って消えているんです」
「ふぅん。東京見物にでも行ったんじゃねぇのかい?そんだけゾロゾロと一緒に居るんだったら尚更、危ねェこともないだろうさ」

 本家の妖怪たちは、リクオが幼い頃から大概、甘かったが、二代目はこの側近が、皆よりさらに輪をかけて甘いとも知っている。
 奴良組に来た頃にはあれほど荒ぶっていたのが、リクオが生まれたときからやけに折り目正しく、物腰柔らかになったほどだ。怖がらせたりしたくはない、それに己の物言いを真似て、下卑て育ってはいけない、などと思ったらしい。
 そんな首無の心配など、何するものぞ、である。

 思案していた間は忘れていた喉の渇きを潤そうと、湯のみを手に取りぬるくなった茶をぐいと口に含み、

「し、しかし。今日の行く先は青蛙亭だと言っていたんです。今は和睦していますが、あそこは百物語組のシマじゃあないですか」

 二代目、噴いた。



+++



 雪女が口にした、オニバンバは現代の百物語である、ということ。
 本家のお喋りな小物たちが、そう言えば百物語組というのもあるんですよ、と、教えてくれたこと。
 百物語組と奴良組の、浅からぬ因縁。

 これ等が揃えば、あとは一押し。

 そこは血のなせる業か、と言えば父は喜び息子は複雑な顔をしたろうが、《百》の字もまた、モモと読むこと、リクオもまた思いついた。それも、二代目より少し、早くに。

 そうなれば二代目でなくとも、百物語組の関与を疑うだろう。
 加えて、リクオの背を押した理由はもう一つ、あった。
 まさに本家が二の足を踏む理由、和睦を持ちかけたのが奴良組とあれば、面と向かって疑うのもやりにくかろうというところまで、考えが及んだのだ。
 その点については、リクオは表向き、奴良屋敷とは関連を持っていないし、昔からの縁をありがたく思いこそすれ今でも嫡男のつもりは無い。加えて、昼の姿であれば、仮に京都の花霞大将を知っている者があったとしても、気づかれることはないだろう。
 花開院の名を出せば、あちらはただ、陰陽師が探りに来たとだけ思うことでもあろうから、探ってみようと思い至った。

 本当は一人で行くつもりだったのだが、雪女が黙っているはずはなかった。
 予想できたことだったので、でもそこには《ゴ》のつくアレがいるかもしれないんだよと言い聞かせ、屋敷で待っていてもらうつもりだったのだが、ならなかった。
 そこの辻を曲がったところで、おいお前の命をくれと悪鬼に言われたら、その場で笑ってまずは理由を教えてよ力になるよと、懐に飛び込んで行きそうな子を、どうして一人歩きなどさせられようかと、何故だかすごい剣幕だった。
 それは、確かに自分はまだ十四だが、世間知らずの若君ならいざ知らず、そんな風に敵の懐へ飛び込む真似などするつもりはなかったリクオ、少し憮然とするも、彼女の行動に、その《虜》である彼が制限をかけられるはずがない。
 というわけで、供が一人、できた。
 もっとも昼の姿では、彼女は女としてより母性が先立つのか、かえって庇護欲を強くしてしまったらしく、この姿で言い聞かせたのは失敗だったかなとリクオは後で反省した。

 こうしようと思う、というところは、兄妹たちにも伝えたので、妹のゆらが東京見物をしたいからついてくると言うのは、予想もしていたし、そう言ったなら連れても行くつもりだった。
 彼女は兄たちほど自分に過保護ではないので、やれあれはするなあちらへは行くなとは、言わないはずだ。
 いざというときには、自分の身を守れるどころか、自分よりよほど頼りになる。雪女を頼めば、きっと守ってもくれるはずだ。

 薬鴆堂の堂主が兄貴風を吹かせて、俺も行くと言うのはこれも予想ができてこと。
 喧嘩をしに行くわけじゃないんだし、それにもしあちらがモモカンパニーとつながりがあるなら、薬師一派の党首として知られた顔を見られれば、奴良組と自分とのつながりを知られてしまうし、動きを悟られてしまうかもしれないと言って断ると、なんと彼は「陰陽師は金がありゃ動くんだったか」と、竜二に財布をそのまま放って寄越した。
 おかげで、いつもの竜二なら、本当はリクオの一人歩きを不安に思ったとしても、奴良組のためになどタダでは動かんという理屈が先だって決して腰をあげなかったろうに、渡された財布の重みとは反比例、軽々と腰をあげた。
 依頼人が妖怪だということには、この際、目を瞑るらしい。

 すると、魔魅流も一人で奴良屋敷に残るのもなんだからと、当然に供に加わった。
 この二人はかなり予想外だった上に、末弟と末妹にこっそりと凸凹コンビと呼ばれているだけあって、かなり目立つ。
 ちょっとだけ、弱ったなぁという気になった。
 これが、黒虫を払ってすぐ後のこと。

 これだけでも結構な大人数になってしまったと思っていたのに、翌日の昼過ぎに屋敷を出て電車に乗って座席に座ると、隣から飴でも食うかいリクオや、と、初代が飴袋を差し出してきた。
 流石は初代ぬらりひょん、全く気配に気づかなかった。
 ともかくここでまた、供が加わった。

 結構な大所帯になってしまった上、ゆらと初代はもっぱら東京見物こそが本意。
 初代はゆらをもう一人の孫のように愛で、浅草寺の仲見世を冷やかしながらそぞろ歩くところに誘われると、リクオも夕方頃に歩きつかれた観光客を装って青蛙亭の様子を見に行くつもりであったので、無下には断らず、二人と並んで店先を冷やかすなどしていた。
 これに、なになにと人懐っこい魔魅流が加わったところで、店先のポールや屋根にごつんといつものように頭をぶつけると、店のおじちゃんおばちゃんに笑われついで打ち解けて、いいねえ家族で旅行かいなどと会話も弾む。初代が、うん、孫が京都から出てきてなァと答えるなどして、大人数ではあっても、これはこれで地方から東京に出てきた親戚を、東京の親戚が迎えるという図にはなっているかもしれない。
 だったら、雪女と自分はどのように見られているかなと、ちらと後ろを見てみれば、リクオの視線の先で雪女は、竜二と二人、何事か話していて、くすくすと笑っている。長兄の方も、常は妖怪など信じられたものではないと眉根に皺を寄せているのに、雪女の姿も心も美しいのが気を許すところになったのか、どこか視線が柔らかい。

 いつもと違う洋装を纏った二人の姿はまるで、年下の弟や妹を見守っている二人の従兄妹、といったあたりか。
 何だかお似合いなような気もする。
 そう思ったとき、不思議なことに ――― そう、本当に不思議なことに、リクオの胸の内に、何やらざわりと良くない気持ちが湧いた。
 あれ、と思ったその気持ちが何か、リクオにだってすぐにわかった。
 わかってしまったから、戸惑った。
 そういう気持ちは、母の死以来、一緒に昇華されてしまったとばかり、思っていたために。

 けれど一度感じるとどうしようもなく、気がつけばリクオは、雪女のカーディガンの裾に手をのばし、きゅっと握っていた。握ってから、一体自分は何をしたのかと我に返り手を離すが、彼女が気づかぬはずもない。

「どうしました、リクオ様?」
「う、ううん。……なんでもない」

 言えるはずが無い。まさかこんなところで嫉妬しただなんて、とても。
 役目を忘れて浮かれているせいだ、まだまだ修行が足りないんだと自分に言い聞かせようとしたところで、雪女の方が察して、リクオの手を取り、眩しいほどの笑みを見せた。
 そういった気持ちも全部含めて、あなたがいとしい。
 全身でそう言われているようで、この気持ちも悪いものではないのだと包まれるようで、ほっとしたように笑み返していた。

「何か面白いものでもありました?そうだ、あそこの焼きたてのお煎餅、結構美味しいってトサカ丸が言ってたわね。折角だから食べ歩きしましょうか」
「うん。氷麗はどのお煎餅が好き?」
「私は焼きたてはまだちょっと。やっぱりお菓子はアイスや氷菓子が好きですねぇ。氷苺は最高です♪」
「じゃあ、後で一休みしようか。そろそろ涼みたいよね」

 手を握って数件先の煎餅屋へ行ってしまった二人を視線で追いながてら、ふむと竜二は腕を組んで納得したように頷いた。
 彼が雪女を見る視線が優しかったのはもちろん、彼女がリクオについて話すときのその思いやりが、女というより母に近く、男が自分に何をしてくれるかよりも、己が愛しいひとに何ができるかを考えているのかを常に考えているのが言葉の端々からもうかがえるので、それが兄として好ましく映ったからに他ならない。

「 ――― なるほど。リクオにしてはすさまじい独占欲の表現だ。……祝言の段取り、急ぐように二十七代目に言っておくか」

 昼過ぎから夕方までをこうしてそぞろ歩いて楽しんで、一行が最後にたどり着いたのが、目的の青蛙亭だ。
 噺家の芸に笑い、聞き入りしながら見ていると、舞台に上がる中にも客にも、人間が多く混じっている。

 夏休みの最中であるのも手伝って客足は多く、おかげでリクオたちも、多くの家族連れに紛れることができた。
 ここまでくると、それまで黙々と人形焼きや煎餅やあれやこれを、初代に買い与えられるままに口にして東京を満喫していたゆらすらも、妖気を探って、あれは妖怪、これは人間と見極めたりしているのだが、いかんせん、危機感は無い。
 なにせここの妖怪たちときたら皆、今の雪女と同様に人間の格好をしており、芸を楽しみに来たか噺家としての腕を磨こうとしているのかのどちらか、つまり客か話し手かの違いくらいだ。

 リクオもつい夢中になりながら、ここは外れであったかな、などと思い始めていた。

 あの黒虫と、つまり、鏖地蔵と、同じ妖気が漂ったのは、そのときである。

 リクオが、覚えのある妖気に肌を泡立たせ、舞台上を見据えたのに一拍遅れて、その日の真打ち登場に会場が沸いた。
 洗練された足捌きで高座にあがり、拍手に答えて腰低く礼をしたその男、黒目がちな切れ長の視線で、すいと客席のリクオをとらえて、にこりと笑ってこう名乗った。

「お暑い中、足をお運び下さりありがとうございます、圓潮にございます」

 芸事はからきしのリクオでも、目の前のその男の、《畏》の大きさがどれほどか、すぐにわかった。
 妖しの世界に生きる身なれば、今は人間の姿を取っていたとしても、相手がどれほど大きな《畏》を纏う者なのかは気配で、立ち振る舞いで、ある程度知れる。
 それが、この圓潮という男は出し惜しみすることなく、堂々と、客席に座るリクオに対して、これが己の業であると魅せてくる。ただ一人で舞台に座り、大勢の客の前で臆することなく、話の中の登場人物を次々と演じていくのだ。

 語られたのは、百鬼夜行の物語。
 この百鬼夜行の主が、へえそろそろこんな住みにくい此の世からは引っ越そうと思いまして、と挨拶に来る魑魅魍魎どもを、まあちょいと待てよ、わけぇ聞かせろよ、もうちょっとだけ此の世で華ァ咲かせてからだっていいだろうと、一匹一匹、説得してまわる……というのが、話の筋だ。

「なにせこの魑魅魍魎どもときたらね、ほら、人間にとっちゃくだらないことでも死活問題。だって朧車なんて牛車でしょう、牛車なんてこの現代、誰も使わないでしょうが、だからわたしそろそろ、あの世でタクシーでも始めようかと思ってんです、なんて言って主さんを困らせるわけです。
 なに、タクシー?馬鹿言うなよあの世でタクシーなんてされたらおめぇ、棺桶に入れんのが六文銭じゃとってもじゃねぇけど足りねぇよ、だいたいお前さんが三途の川飛び越えて婆さんを家に送り届けちまったら、びっくりした爺さんを折り返し向こうに乗せなくちゃいけねぇはめになるぜ。馬鹿な真似すんじゃねぇ、牛車なら牛車らしく、ほら、博物館でじっとして、夜になって動いてみろ、立派な怪談の出来上がりじゃねーか。
 いけませんよ、大将。そりゃあいけません。
 いけねぇって、なんでだい。いいじゃねぇか、牛車の怪。そこそこ怖ェし、人様にあんまり迷惑もかけなさそうだし。
 あそこ、倍率高いんです。人気職なんですから、私なんて、とっても。
 ………あ、そう。
 ってな具合でね、まァ世知辛いこと………」

 人間の知らぬところで、愉快に騒ぎながら、人間にとっては滑稽と思える毎日を過ごす話では、いたるところに笑いがあり、ぞっとするところがあり、人間に対する痛烈な批判批評があり、そしてどこか、哀切が詰まっていた。
 闇薄れるこの現代において、妖しの者どもは、本当に息がしにくいのだと。
 人間なんざ、もうあたしたちの事なんて、ちっとも覚えちゃいませんよ、と、話の中で主に訴えた行灯幽霊の言葉が、リクオには、伏目屋敷に残してきた茶釜狸の声に重なって聞こえた。

 あれも今でこそ忠実な護法だが、かつてはとある民家を取り壊すというときに、無人のはずの民家で物音をたてたり、業者の人間に帰れ帰れと不気味に反響する声で脅したり、糞便をまきちらしたり熱湯を吹きかけたりして暮らしていたのだ。
 そこを訪れた陰陽師が、リクオでなければ。
 リクオが見つけて保護してやらなければ、取り壊される蔵と一緒に、幾人かの人間を巻き添えにして、土の中に埋められていたかもしれない。

 放っておかれるままに、埃や泥にまみれ、蜘蛛の巣を巣くわせていた茶釜狸の姿ときたら、ひどい有様だった。
 姿に応じて、心までが歪み、腐り、人間への恨み憎しみではちきれそうだったあの小さな妖怪は、長年住んでいた家を離れるのを嫌がり、リクオにも最初は決して、心を許そうとはしなかった。
 そこにリクオは何日も通って食べ物を与え、汚れている体や茶釜を、そこでお湯を沸かして拭いてやり、桶を持ってきて風呂に入れるなどして、丸裸だったところへ着物を着せ、ここではなくて、自分のところへおいでと根気強く説いた。

 やがて言葉を交わすようになり、他愛もないこともたくさん話して、人間は嫌いだがお前はそれほど嫌な奴とは思わないとまで言われるようになり、気を許してくれるようになって、あと一息だったというのに、人間は怪異が少しなりを潜めたと思ったら、こちらにも日程の都合があるとかで、力づくにその古民家を取り壊し始めたのだ。
 人間への呪詛を吐き、その土地のあらゆる力を借りて、重機ごと、腐った土の底へ人間たちを突き落としてやらんと、せっかくぴかぴかにした茶釜も、櫛を通した毛並みも、己の呪いでどす黒く染めていく茶釜狸を前にしたリクオには、あのとき、もう何も、手だてはなかった。
 力づく、滅するぐらいしか、方法は、なかった。
 もちろん、できなかった。
 リクオにできたのは、今にも呪いを放って己の身ごと、憎き人間どもを地獄へ落とさんとする妖怪を、抱きしめてやることだった。
 謝ることだった。
 ごめんよと、泣き喚くことだった。
 そこで茶釜狸がリクオを思い出したのは、茶釜狸自身の優しさに他ならないと、リクオは今でも思っている。
 あの小妖は、幼い己までをも呪いの巻き添えにするのを躊躇した。
 躊躇して、お前は遠く離れたところに逃げろと、叱りつけるような真似までした。ここで死にたいのか、さっさと逃げろと、せまる重機が、一匹の妖怪と一人の少年が下に居ることなど知らずに屋根を壊し始めたときには、呪いなど放つのを忘れ、ただひたすらリクオを心配し始めた。

 だから言えた。それほどここから離れるのが嫌なら、一緒に居てあげるから、ずっとここに一緒にいよう、他の者を巻き込むのはやめよう、と。
 冷たい土の底であったとしても、きっと地獄で灼かれるより、よほど良いに違いない。あそこで己を灼くのは、他ならぬ、己の後悔の炎なのだから。
 病院で待つ母のことが、ちらりと頭をよぎったけれど、そのときのリクオに、他の選択肢はなかった。本気であのとき、リクオは茶釜狸と一緒に、その土地で眠るつもりだった。

 これまで、何度もリクオの誘いを断ってきた茶釜狸が叫ぶように、自らこの土地を離れると言ったのは、その時だった。
 彼は、土地を離れるのが、嫌なのではなかった。
 忘れられたまま葬られるのが、悲しくてならなかったのだ。

 きっとあのような話など、人間にとっては些末なこと、よくある話。
 追いやられる者のことなどすぐに忘れて、取り壊された民家の後に、新しいコンクリートの箱を作り上げるのだろう。

 人と妖、共生はならないのだろうか。

 正直に言って、必ずしも人間が正しいとは、リクオには思えない。生きながらにして悪鬼となるほどの悪事をはたらく人間、目を背けたくなるような所行を平気な顔で行う人間は、あちこちに居る。
 陰陽師として人間たちの憂いを祓いながらも、決して感謝ばかりされてきたわけではない。怪異を祓えとは言ったが、家の恥を暴けと頼んだ覚えはないと狂ったように詰られて、玄関口で金をばらまかれ、帰されたこともある。己の恥部や後ろぐらいところを、彼等は決して認めない。悪霊どもが好んで喰らう己自身の悪意を、彼等は決して認めない。
 家の外の人間たちばかりではない、育ってきた花開院家にも、当主の覚えめでたいという理由で、己の努力研鑽が足りぬのを棚に上げ、石を投げつけてきたり、術の練習だからお前は妖怪役をやれ、いやおまえは元々妖怪だったな、などと嘲られて、札や術で身を灼かれたのも一度や二度ではない。

 兄や祖父は優しく、卑劣な輩から守ろうともしてくれたし、長兄にいたっては何故かそれを己の責任のように感じてしまったらしく、リクオが伏目を任されて本家を離れるまでは、新しい傷が無いかを調べるためだろう、毎日欠かさず風呂についてくるようになったほど、己を大事に想ってもくれたけれど、リクオが本心からここは己の家だと思えたのは、京都では、伏目屋敷だけだった。
 一匹、また一匹と、茶釜狸に続いて増えていく魑魅魍魎たち。
 慕ってくれる、いとしい者ども。
 彼等の気持ちは痛いほどわかる。忘れられる悲しみ、追われる口惜しさ、痛いほどわかる。



 彼等と、人間たちと、もしも、選べと言われたら ―――



 伏目はこれから我々の土地、人間が新しいコンクリートの箱をたてるから、ここを立ち退け。
 いいや、立ち退くとしても、お前たちが行く場所などもう此の世にはない、だから今すぐあちらの世へ行き、もう現れるな。
 そう、言われたら ―――



 満場の拍手に、はたとリクオは我に返った。
 汗をびっしょりとかいている。

 隣では、雪女が関心した様子で他の客たちと同様、手を打ちならしていた。

 リクオはいつの間にか、話の内容ではない、その奥の深いところへ、誘われていたようである。
 これが、この男の《畏》か。
 ざわりと背中に何かが通り抜けるような感触を覚えながら、リクオは壇上の男を見返した。

 鏖地蔵もまた、人の心の闇に巣くい、これを食い物にする妖であった。
 目の前の圓潮も、同じ部類なのであろう。
 人間に近く、人間をそれだけ知っており、リクオの心の奥底にある不安を暴いてみせたのだ。
 リクオが、人間を信じたいと想いながら、そのようになろうと思いながら、その影で常に抱いている不安を、見事形にしてみせた。

 にこり、と、高座で一礼する直前、圓潮は確かに、リクオに向かって、笑いかけた。



 そうなったら、あんたはどうします?



 無言で、問われたような気がした。



+++



「はい、そうです。オニバンバはウチのモンが描きました。いやー、いつ気づかれるかいつ気づかれるかと思ってましたけど、これがなかなか気づかれない。おかげであたし等、儲けさせてもらいました。あはははははは」

 …………と、リクオ等四人の陰陽師に囲まれて、逃げもせずに扇子で己を仰ぎながら堂々、口上を述べて高笑いをしたのは、まさにその、圓潮である。
 青蛙亭の噺家は仮の姿、彼こそが百物語組の筆頭格。
 楽屋を訪ねた一同に怪訝な顔一つせず、あたかも己で招いておいた客が姿を現してくださったような顔で、あれあれようやくおいでくださった、などと迎えた上、リクオが陰陽師であることをあかして街を飛び回るオニバンバについて訊いたところ、なんともあっさり、種を明かしたのである。
 楽屋の外で雪女とともに気配を消し、これを立ち聞いていた初代は、すぐに携帯で本家に事の次第を伝えていた。
 それを知ってか知らずか、圓潮の語りは続く。
 オニバンバを生み出したのが百物語組の絵師であることも、今年からは新たにゴキブリ型を試してみたこと、それが成功すれば、トンボ型よりも少ない人の想念で、長く蔓延るようになるであろうこと、モモカンパニーの名前を使ってこれを退治する薬を売って、入ってくる金が百物語組のものとなったこと。

「金儲けが目的か。マッチポンプとは、ずいぶんと俗っぽいことを考えたもんだ」
「そうは言うけどネぇ、陰陽師の兄さん、こっちだって金が無いとたちゆかない。なにせ昔と違って、人間を脅して奪うわけにも、代わりに人間を喰うわけにもいかない。金を手に入れなくちゃ、水一杯飲めないのが今の世の中でございましょう?芸事に通じたあたし等の組とは言え、その芸事も時の流れの中ではどんどん古くもなっていくんですから、何か新しいことを考えていかないとね。
 もっとも、俗っぽいとは確かに、あたしも最初はそう思いました。こんな風情の無い虫けら妖怪を、此の世にばら巻いてどうする、金を巻き上げるだけのシノギをして、一体何の意味がある、ってね」
「ふゥん、なるほど。それを覆すようなことを思いついたか?それともどこかから、こういう手があるから奴良組と手を切ってこちらとよろしくやらないかと、誘いがかかったか?」
「流石は陰陽師の大家、花開院家。鋭い、鋭い」

 扇子で己を仰ぎながら、圓潮は幼い子供を誉めるときのように、うんうんと頷いた。
 陰陽師四人に囲まれていながら、焦りなど微塵も感じられない。

「まさに、その通り。スカウトされましてね。ほら、あたし等、武闘派じゃなくていわば芸能派でしょう。話を集めたり語ったり新しい妖どもを作ったり、そういうのは得意なもんだから、是非《新しい世界と、それに纏わる新しい秩序》を考えてみないか、と言われまして」
「………何だ、その胡散臭い話は」
「そう。胡散臭いでしょう。語ってるあたしも最初はそう思いました。この狭い世の中の、一体どこに新しい世界がある。日ノ本どころか、今や丸い地球のどこにも、地図に描かれていない場所など無い。妖怪どころか、人間にこれは生きていて良いものと認められる、動物どもすら人間に脅かされて、次々姿を消しているというのに、だったらあたし等魑魅魍魎どもが生きていける場所なんて、もうどこにもないんじゃないかってネ。
 ところが、あった。言われてみれば、なるほどなるほど、人間どものすぐ側に、まだ人間どもが詳しく地図を作っていない場所が、確かに、ありました。そこでなら、あたし等は昔のように隠れ棲んで、人間どもをちょっとだけ食い物にしたり、人間どもには決して地図を作れぬその混沌とした場所に、ちょいと間借りして広々とした世界を作り上げることができる。
 描く、語るが得意のあたし等には、うってつけの話です。その実行に向けて、あたし等は着々と準備をしてきました。十数年前から構築していたその場所へ、そろそろ一家全員移り住めそうになったことだし、そろそろ手塩にかけなくても勝手に増えてくれるオニバンバを放ってみようかと思ったんです」

 あまりに荒唐無稽な話だ。

 それを疑いもしない様子で語り終え、にっこりと笑う男と向き合い、リクオは彼を高座に見据えたそのときにも感じたことを、ついに問うた。

「………圓潮さん。貴方からは、鏖地蔵と同じ妖気を感じます。いえ、貴方からだけじゃない、例のオニバンバとやらからも、同じにおいがしました。
 だから聞きたい。十数年前、奴良家から二代目の妾とその子を追いやった計画も、貴方たちの計画の一端だと、そういうわけでしょうか」

 新しい世界とやら。新しい秩序とやら。
 その理想は、闇の世界を作り出そうとしていた羽衣狐や晴明と、何が違うだろう。
 この圓潮は、彼等に手引きされてこれを行っていたというのか、リクオはそれを確かめておきたかった。
 羽衣狐を討ち、鵺は生まれず ――― しかし、《鵺を産みだそうとした者》はどこかで息を潜めている。
 その息遣いを、圓潮の向こうに感じ取ったのだった。

「うーん、そうとも言えるし、違うとも言えますネ、陰陽師さん。鏖地蔵が荷担していた方の一手は確かに、あたし等が産み落とされたその理由だった。奴良組を潰し、我等の産みの親である山ン本五郎左衛門を復活させる、そのための一手でございましたよ。
 そう、あたし等は皆、元々は同じ生まれ。
 そこまでお詳しいならご存じでございましょう、あたし等は、江戸の頃に奴良組に野望を絶たれた、魔王・山ン本五郎左衛門から分かれた百体の妖怪。鏖地蔵もそのうちの一体ですから、あたし等はいわば、双子三つ子ならぬ、百つ子ってことになりますかネぇ。
 だがネぇ、同じおひとから産み落とされたとは言え、此の世に生じたその後で、考えることはそれぞれ、違うんですわ。そりゃあね、産みの親の無念怨念は知っておりますよ。忘れたことだって無い。奴良組や奴良鯉伴がちょっとばかり困ればそりゃ愉快痛快ってなもんです。けどね、あたし等だってこの数百年を重ねてきたんだ。仮に奴良鯉伴を、奴良組を倒したとして、と、その先を考えます。
 倒したとして、それで、この明るくなった世は、昔通りあたし等を怖がり、畏れを感じてくれるもんでしょうか。そこ等を歩いている人間どもは、そりゃあ、あたし等が正体をあらわして襲いかかれば、ぞくぞくする悲鳴の一つもあげて転がり回ってくれるでしょうけど、この数百年で、人間は鋼鉄の牙を持った。炎の使い方を覚えた。千年先まで土地を侵すような、呪いの使い方を覚えた。最近では、光よりも早く進める方法に手をのばそうとしている。
 あたし等の産みの親も人間だ、あたし等は人間を過小評価しやしない。はっきり言って、今の人間の武器を相手に本気でやりあったとして、あたし等は人間から一体どれくらい、世界を切り取ってやれるのか。羽衣狐ほどの妖怪ですら、日ノ本の一都市がせいぜいだった。それが産み落とそうとしていた鵺はどうだろうかと思っても、生前、京にこだわっていたことを聞いた限りでは、やはり京都一つか、日ノ本一つがせいぜいでしょう。
 いずれにしろ、此の世の闇は薄れるばかり、我等妖怪たちは追われるばかり。そう思ってからは、そりゃあ兄弟のよしみ、あちらから頼ってきたときにはそれなりに情報を渡しもしましたが、それまでですわ。本家の母子が追われたというのに、百物語組としては、全く関与してはおりません。
 ………奴良鯉伴というおひとは、ぬらりくらりとしていながら、なかなか抜け目のない御仁でね。この青蛙亭の空から、カラスが消える日というのは全く無い。もし荷担なんぞしていたら、その次の日には、あたし等全員、さらし首ですわ。おぉ、怖」

 扇子を刀にみたて、己の首もとで横にすいとくぐらせて、圓潮ははきと言った。

「鏖地蔵は百物語組と、ここ百年関わりを持ってはおりません。それだけじゃない、あたし等は安部晴明とも、山ン本五郎左衛門とも関わりはない」
「信じろと?」
「信じる信じないは、そちらの自由。だが一つ覚えておいた方がいい、奴良の若君。妖怪は妖怪同士、確かに畏れを奪い合ったりもしましょうが、最後の敵は、人間だ。理由は簡単、あたし等の場所を、住まう場所を、彼奴等は奪うんだから。あたし等にとっては、安部晴明の宿願だの山ン本五郎左衛門の野望だのより、そち等の方が身に迫って考えねばならぬ危機だっただけのことです」
「 ――― ボクのことを」
「そりゃあね、かつて敵だったとは言え、和睦してからは何度か本家にだって出入りしましたから。庭先で遊んでいらした可愛い坊ちゃんを、存じ上げてはおりました。よほど研鑽されたのでしょうネ、いまや人間たちもさぞかし頼りにしていることでしょうが ――― お忘れにならない方がいい、此の世では、所詮妖怪など、追いやられるだけです。その血を引く、貴方も。どんなに強い光をお持ちでも、今度はそれが眩しすぎると言われて追いやられる。人間はね、己の後ろ暗いところをぴかーっとやられるのが、嫌いな種属だから。
 だからオニバンバくらいが、ちょうどいいんです。何も語らず、欲さず、ただ本能のままに人間にぷーんと近づいていって、無意識に働きかけるぐらいの奴が、今の世には適してるんですよ」

 そうでなければ、人と共に生きられはしないのだ。
 此の世はあまりに窮屈だから、かさこそと隙間を行き来できる羽虫程度の体でなければ、身がおさまらないし。
 不意に人の目にとまってしまったときだって、虫程度の大きさなら、人は見間違いで済ませてくれるし。
 忘れられていく悲しみも、本能しか無いあの虫達のようなものであれば感じずに済むから、必要以上に呪いをぶちまけないし。

「妖の血を引く貴方なら、この意味、おわかりでしょう」

 悪びれもせず、圓潮は一方的に話を締めくくるや、その場の陰陽師たちや妖怪たちの、心臓を鷲掴みにするような言葉を、言い放つ。

「彼奴等は傲慢だ。満足するということが無い。己等が棲む土地が狭くなれば、我等が隠れ棲む異界にすら、やがて手を伸ばして来る。
 そうなったとき、貴方はどちらを選ばれます、坊ちゃん。
 人か、妖か。
 どちらを、友とします?」
「どちらも」

 迷うことなく、リクオは答えた。
 人の中には傲慢な者が在る。彼等は目に見えぬものを畏れず、同じ人間の命の重さすら、数字ではかろうとする者がある。
 けれどそれは妖だって同じ、所詮此の世に生じた者同士ならば、考えだって似通ってくる。

「ボクは、どちらとも縁を結びます。人が忘れてしまうなら、その度に」

 そうですか、と。
 答えをさして期待もしていなかった様子で、圓潮は軽く受け流し、それよりも大事な用がこの後に控えているのだとでも言うように、懐中時計の針の位置を気にしている。

「………もう少し、お話したかったんですけどネぇ、そろそろ時間です。いや、もったいない。しかし奴良の若君にあたしの最後の語りを聞いていただけたとは、此の世の土産にしちゃ気が利いたものができました」
「おい、逃げる気か。外を飛び回ってるトンボをどうにか……」
「陰陽師の兄さん、あたしの話を聞いてましたでしょう?ええ、逃げます。此の世は人間が増えすぎた。もうちょっと、広々としたところへ、ね」

 ぱちん、と、扇子が閉じる。
 これが合図になったように、圓潮の体は彼等の目の前で、黒々とした砂が意志を失ったように、ざざり、崩れ落ちて風に散った。

「な………!」
「散っただと?!」

 砂と見えたのは、一粒ずつが砂粒よりもさらに小さな黒虫であった。
 圓潮の姿を形作っていたのはこの虫どもで、その意志が離れるや本能のままに、四方へ散ったのである。
 突然のことで、それぞれが身を守るのに札を使うところまでが精一杯だった。

 いや、僅かにリクオが遅れた。
 四人の中で先頭に立っていた分だけ、真っ先に黒雲の襲撃を受け、これを札の結界で阻んだは良いが、くぐり抜けた黒虫が僅かに一匹、リクオの肩口に食い込んだのだ。
 しかしリクオの耳元で産声をあげるよりも、天井裏から空気口を伝ってぽとりと落ちてきた真っ白いハツカネズミが、がぶりとこれを喰いちぎり、ぺっと傍らに放るのが先だった。

「君は?!」
「話は後だ、奴良の坊ちゃん!こいつ等、さっきの奴等よりもどうやら攻撃的だ、このままじゃ、問答無用で人間だろうが妖怪にだろうが取り付くぜ!」

 可愛らしいハツカネズミの口から出た声は、なんとあの、旧鼠・星矢のもの。
 これに我に返ったリクオと、その兄妹たちは素早い動きで黒雲のごとき虫どもを囲み、新たな札で押さえ込もうと試みる。

 部屋中にたゆたう黒い煙のごとく、うわんうわんと何事か唸る黒虫どもは、四方を陰陽師に囲まれ、産まれ出たその瞬間に、滅されるかと思われたが、ならなかった。

 ドオォォォォン、ドオォォォォンと、太鼓を打つような音が、轟いた。
 少なくとも、霊力の高い者には、そう感じられた。

 刹那、悲鳴や怒号でにわかに楽屋の外が騒がしくなったと思うと、一度は四人の札で動きを封じたはずの黒虫たちも呼応してざわざわと動き、なんと、力に耐えきれなくなった札が一枚、破れた途端、そこからバネのように飛び出してしまったのだ。
 外で騒ぎに耳を澄ませていた雪女は悲鳴を上げて、とっさに目の前を横切った黒雲にふううと氷の息吹を吹きかけたから、凍り付いた黒雲はぽとりと床に落ち、ちぎれはぐれた残りの黒雲は、己もこうなってはたまらぬと逃げて行った。
 彼女もその隣の初代も事なきを得たが、彼奴等が逃げ去った先は外。

「逃がしたか。魔魅流、ゆら、リクオ、追うぞ!増えられては、厄介だ」
「うん」
「わかった」
「はいッ」

 楽屋を飛び出し、廊下を駆け抜けた四人、そしてリクオの肩にしがみついたハツカネズミ。
 これを、何事かわからぬまま、雪女と初代が追った。

 やがて彼等は、客席にたどり着き、そこで一人の男が複数の客たちに取り押さえられているのを目にする。

「……失礼、一体なにがあったのかな?」
「ああ、突然、この男、酔って寝てると思ってたら、突然に暴れ出して……」

 竜二が側の男から事情を聞いたところで、取り押さえられていた男の耳の穴から、ふわり、小さな黒い羽虫が飛び上がった。
 これを視線で追って天井を見上げると、あの黒雲のような羽虫たちは、煙のように四隅から消えていくではないか。
 それだけではない、竜二がぐるりと周囲を見回すので、弟たちはこれを倣い、目にした。
 天井の隙間からすいと消えていく羽虫どもとは別に、地を這う煙のように塊になっていた黒虫たちが、客たちの鞄やポケットの携帯電話、他にも電気プラグや電話の受話器へ、水を求める魚のように飛び込んでいく。

 そのおびただしい数は、圓潮を象っていただけで済むものではない。

「人が地図を作れない場所、か。奴等、まさか……」
「竜二兄ちゃん、外のトンボどもも、なんやせわしくなっとるような気ぃするわ。どないする?」
「竜二、普通の人たちはまだ気づいてないみたいだけど、このままじゃこの街の人たち、全員とり憑かれてもおかしくない。空に、奴良組のだと思うけど、カラスたちがすごく騒いでる。彼等も手をこまねいてるみたいだ。どうする」

 どこもかしこも黒虫だらけ。
 一匹ずつは身も妖気も小さく、人の目には映らぬからそう騒ぎにはなっていないが、青蛙亭で酔っぱらいが操られたように、別の場所で、凝縮した悪意を行動に移す、最後の一押しとならないとは限らない。
 青蛙亭の入り口から、日の暮れた空を見上げ、空を覆う黒い煙のごとき羽虫の大群にため息をつき、竜二はかぶりを振った。

「……あー、お前等、兄ちゃん兄ちゃんってなぁ、お兄ちゃんだって人の子なんだぞ。ついでにまだ高校生だ。そう次々と名案なんぞ思いつかん」

 口ではそう言いながら、懐から水の式神を閉じこめた竹筒を取り出す彼の頭は急速に、問題に対するいくつもの答えを弾きだそうと回転している。
 空から青蛙亭目がけて降りてきた黒雲の一部を、残りの札全てを使って阻み、ばちりと人の目にも見えるくらいの火花が散って、客たちは酔っ払いの喧嘩騒ぎだけではおさまらぬ何事かへの不安を、つまり畏れを抱き始めた。
 なに、なんなの、なんだか気味が悪い。
 そんな声が、聞こえ始める。
 不安は畏れを生み出す。放っておけば、あの羽虫たちは次々と人間や人間たちが持つものに取り付いて、それを苗床に増え始めるだろう。

「だがとりあえず、リクオ、応急処置だ。このあたり一帯、灼けるか。ここらに棲んでる妖怪どももいるだろうから、さっきのように強く灼くわけにもいかんだろう、つまりは憑かれる人間だの妖怪だのの方に、あと一押しで闇落ちするような鬱積したものが無けりゃ、奴等はただの羽虫のはずだ」