東京の夜空に、スモッグとともに蠢く黒雲は、狭い空を鬱積した気持ちで見上げる人間どもや、狭い世界にため息を落とす妖怪どもの、心の闇を好んで食らう。 食らうために中へ忍び入り、食らった心に卵を生む。 卵は孵り、内側から心を喰い荒らして、やがて人も妖も、鬱々とした心のままに、目を血走らせて何もかもを壊し、呪うようになるのだ。 今やトンボだけではない。 季節を問わず人のすぐ側にいる虫の姿を借りて、少し迷惑なだけで無害なはずだったオニバンバは、東京の夜空を覆っていた。 奴良組二代目の号令で、すかさずあちこちの貸元どもが動き、空妖鳥妖はもちろんのこと、地中や水中に住まう者どもまでがかり出され、忍び寄ろうとする黒雲を迎えうち、撃退する。 無数の、恐怖など感じる脳味噌すら無い虫が相手だ、どれだけ潰しても、次から次ぎから沸いてくるので、一体いつまで相手をしていればいいのだと、妖怪たちにも焦りが出るのは当然のこと。 何の考えもないままに、ただ相手をしていたからと言って、どうしようもあるまい。 だが、これには明確な刻限が示されていた。 夜八時、その時間に、黒雲が朝焼けに祓われるから、これまで耐えろ、とり憑かれるな、と。 「一体、どういうことだ?夜に朝焼け?」 「二代目のことだ、何かお考えがあるのだろうが」 「ここのところ、わけのわからぬことばかりじゃ。羽衣狐が去ったというのに、二代目はやけに時間をかけて自らシマ回りなどをされるし、例の、花霞大将と言うたか、彼奴が奴良屋敷に入ってからずいぶん経つというのに、総会の声すらかからぬ。沙汰がどうなっておるのかもまるでわからん」 「おい猩影、お前は知っておるのだろう。いい加減、家族ぐらいには話さないか」 「んー?」 兄たちに混じって、関東大猿会のシマで、やはり黒虫を文字通り片手で薙払いつつ、もう片手では携帯のメールを読んでいた猩影。 これを最後まで読み終え、やはり己等の頭上にも増えている黒虫を睨みつけて、よし、と立ち上がった。 実家に帰ってきてから、一番に嬉しそうな顔で、 「呼ばれたから、ちょいと行ってくるわ」 こんな事を言う。 「はあ?!何を言ってる?!誰に呼ばれただって?!お前、奴良組総大将のご命令が下っている今、他の誰の命令で動くと言う?!」 「だからさー、何回も言うけど、俺にはもう大将はいるの。大将に呼ばれたら行くもんだろ」 「だが親父殿はお前に謹慎せよと仰せなんだぞ?!」 「大将が一度は帰って挨拶してこいって言うから、そうしていたまで。別に親父に言われたからここに居たわけじゃねーよ」 「大将って、花霞のことだろう?!奴は、奴良屋敷で生きているというのか?!魔京抗争の首謀者ではないのか?!」 「どこをどうしてそんな話になったんだかよ。あのなぁ、兄貴たちもさァ、こんな山ん中に籠もってないで、たまには世に出て自分の目で見て耳で聞かねーと、脳味噌腐っちまうぞ?」 「な、なんだと、貴様?!」 「馬鹿にするか!」 「おのれ、迎えてやったというのに……!」 「悪い頭じゃないんだからさ、もったいねぇって言ったんだよ。関東大猿会の未来の頭は、兄貴たちになっていくわけだから。しっかりしてくれよ」 威勢が良いばかりで可愛くなかった末弟は、京都から帰ってきてからと言うもの、この通り。 兄たちとしては、まったく、調子が狂う。 それに、悔しいが、京都から実家に帰ってきてからの猩影の力は、兄たちも認めざるをえないところなのだ。リクオとともに幾度も死線をくぐり抜け、副将として配下を従えた経験は、猩影自身すら知らぬうちに、彼を高みへと引き上げていた。いまや兄弟たちの中で、一番に強いのはこの猩影であるのは、家の誰もが認めている。 ならば、強い者には従うのが、狒々たちの暗黙の了解。 次の大猿会の長となるのは、この末弟だろうとは、誰もが頷き合うところ。 今の長、狒々は、初代ぬらりひょんの頃から今も尚、現役で頭をつとめているものの、最近は二言目には楽隠居をしたいものだと言う有様。 次に本家で総会が開かれ、魔京抗争の子細がつまびらかにされた後、狒々は猩影の謹慎という名の末っ子かわいがりを解いて、家を継がせるつもりなのであろうとは、誰もが思っているところだ。 そのつもりがないのは、当の末弟ばかり。 兄たちが止める言葉を持たぬまま、おろおろとしているところへ、それじゃあと気軽に木の梢へ飛び上がろうとした猩影、しかし、行けなかった。 「待てええぇぇえい、猩影ぃぃ!」 父、関東大猿会々長・狒々そのひとが、女面をかぶり月を背にして、一本杉の梢に立っていた。 「貴様、父の言いつけを破り、どこへ行こうと言う!」 「親父、何格好つけてんだ。聞いてたんだろ?ちょっと、大将に呼ばれたからさー、行ってくるわ」 「大将とは、例の、花霞とかいう小童か」 「おう。そうだよ」 「貴様、どうしても奴良組の敵に回るというか!」 「だからァ、そうじゃねぇって。詳しいことは、話がどう転ぶかわかんねーから、後で本家の二代目に聞いてくれって。込み入ってんだよ、そこんとこは」 「ここで去れば、この後、貴様を関東大猿会に迎え入れること、まかりならんぞ!」 「あ、そう?そっかァ、ま、仕方ねぇか。元々、家出同然で出てきたのがなんか後味悪くて、挨拶しにきただけだからさ、それじゃあこれでさいならにしとくよ。親父、兄貴たち、まあなんか、ちょっと団欒できて楽しかったよ。昔は俺もとんがってたからさ、その頃のこと、謝れてすっきりしたし。母さんにも顔見せられたし、うん、思い残すことねーや。じゃ」 「き、貴様!待て、そんなにさっぱりすっきり行くんじゃない!ちょっとは残念そうにしなさい!」 「親父、ウザい。何なの。ページかさむから、言いたいことがあるなら、さっさと言っちゃって」 ちなみに、リクオが奴良家で雪女とうまくいったこと、目も開いたことを電話で聞いてからは、ほっとして何も憂いがなくなった猩影、最近は絶好調。 スカイプで玉章と喜び合い、モニター越しに美酒を酌み交わしあって、仲人は誰に頼むだの、人間側と妖怪側と、やはり披露宴は二度に分けたほうが良いかだの、だったら妖怪側の仲人は白蛇店長で決まりではなかろうかだの、嬉しく楽しい悩みを分かち合っていた。 つい一昨日は、暗黒武闘大会という、武闘派妖怪達のぶつかり合いの中で、見事優勝もしていた。賞金で懐も潤ったので、伏目で待つ舎弟たちに、土産も充分買ってやれそうだ。 が、ページがかさむのと目立つのが嫌いな彼のリクエストにより、ここでは詳しくは語らない。 朴訥な彼から話を引き出せるのは、リクオだけ。あの少年が綺羅とした琥珀の目を向けて、「へえすごい!どんなだったの?どんな妖怪たちと戦ったの?」と無垢に訊いてきたなら、猩影だって巧くない言葉を尽くし、彼を楽しませよう笑ってもらおうと、愉快に思えたことや自分の活躍を誇張して、身振り手振りで伝えたに違いない。 もっともリクオに甘いのは、花霞一家では猩影に限ったことではなく、それが一般論というものだった。 あの家では、皆が幼い主に、恋をしているようなものなのだから。 「どうしても、どうしても行くと言うのか!貴様の、主のもとへ!馳せ参じると、そう言うのか!」 「それが百鬼の下僕ってもんでしょうが」 あくまで己の主は奴良組の二代目ではない、花霞大将であると、ここへ帰ってきてから一歩も譲らぬ猩影を前に、狒々は、強く、そして真っ直ぐな男として帰ってきた息子を諦めきれず、わなわなとふるえた。 そして、辺りの黒虫などそっちのけ、轟く声量でこう、言い放ったのである。 「どうしても行くと言うのなら、このワシを倒して行けええええい!!!!」 「あ、そう?」 間。 「ガグゥウゥウ!」 狒々の体は宙を舞い、それでも勢いは殺されず地を滑り、山肌を撫でるようにして転がり落ちた。 幾本も木々を折り倒し、末に、大木に背中をしたたか打ちつけて、狒々の体はようやく止まった。 よろり、と立ち上がりかけ。 「う……う……、ワ、ワシを誰だと思うとる……、大妖怪……狒々様じゃぞ……、天下の奴良組幹部の一人じゃぞーッ!!」 転んで、じたばたと暴れた。 まるで、駄々っ子だ。 あーあ、と猩影はため息をつきながら、軽くパーカーの裾を払い、兄たちを振り返って、「悪いんだけど」と頭を下げた。 「親父を頼むよ。ああやって虚勢張ってるけど、やっぱり年なんだと思う。たまに、電話するし手紙も書くよ。けど、俺、ちょっと京都でやってみたいんだ。こっちの家も、出ていったときほど嫌いじゃないし、もっと時間をかければ、もっと好きなところも見つけられると思うんだけどさ、俺はもう、京都が好きになっちまった。あの大将以外、主は考えられねぇんだ」 「花霞か……」 「お前が、下におさまっても良いと言うのだ、さぞかし、強いのだろうな……」 「うーん、どうだろうな。強い……、うん、確かに、強いんだけど。だから従いたいと思うんじゃないな、そういうんじゃなくて、かなわねぇ、そう思うんだ」 駄々っ子のように、じたばたとしていた狒々が、ここでむくりと起きあがった。 月を見上げて、恋うように呟く、息子の夢見るような横顔を、じっと見つめた。 「ただ、かなわねぇ。そう思うんだよ。そして、それが心地良い。あれは俺の、玻璃の桜だ。壊れてほしくない」 さっぱりとした顔で別れを告げる末息子へ、狒々はばた足をやめ、ため息一つ。 次に、己の顔から、女面を外して、放った。 ぽすりと、猩影の手の中に、父の面がおさまる。 「持って行け、猩影」 「親父」 「貸すだけじゃぞ。貴様の不動能面ときたら、風情がなくていかん。今度、面職人に良いのを作らせるから、できあがったら取りに来い。良いな」 「………おう」 「行ってこい、猩影」 それは、ここがまだお前の家だという、許しだ。 最初は驚愕、次に喜色が猩影の顔に浮かび、うんと力強く頷いて、深灰の大狒々は大地を蹴った。 「そんじゃ、行ってくらぁ!」 梢を蹴って、月を横切り、風を切って、まっしぐら。 主に呼ばれて夜空を疾る、銀の矢のごとく。 +++
場所を、眼下に東京を一望できる、とあるビルの屋上の上に移し、リクオはすでに、深い瞑想状態にあった。 奴良屋敷を祓ったときのような、局地的なものではない、街一つ照らそうというのだ、これには長い時間が要る。 しかもその間は、ほとんど無防備と言って良い。 たしかに、纏う光の輪は、虫たちなど触れるだけで塵に還すが、これは祈りに応じて時折、波のように弱くなったり、ふわりと空に解き放たれたりして、そのときに、虫どもが本能で己等に危機をもたらす人間と定めたリクオに飛びかかってくると、抵抗する術は他には無い。 悪霊怨霊の類がそうだが、彼奴等は己の姿を見ない、己に危害を加えない人間たちに対しては概ね寛容。 むしろ、相手にしても仕方がないという、諦観でもって見送っている。 その分、己を害しようとするものには敏感だ。 瞑想に入ったばかりの頃から、リクオに気づいて、静かな敵意を向けてくる。 自然、初代と雪女、それにハツカネズミの星矢がぴったりと寄り添って、これを守るのだった。 雪女は守子をあやす母のようにしっかとリクオを支え、近づく黒雲など瞬く間に凍りの息吹で蹴散らしてしまう。 怪しんだ鳥妖や空妖が近づいてきたことがあったが、これは初代の顔を見るや、恐れ入ってすぐに退散した。 妖気と妖気がぶつかり合い生まれた光が稲光となり、人間たちはこれを見て、不安を抱く。 不安を苗床とするオニバンバが人間どもに憑く前に、リクオの居る場所を中心にし螺旋を描くように散った兄妹たちが、式神を使って人知れず、祓う。 祓っても祓っても這い寄る黒雲に汗を拭い、どれだけ時間がたったかと時計を見てみれば、夜八時まで、あと三十分。青蛙亭を出てから、また三十分しか経っていないというのに、陰陽師たちはあちこち走り回り、術の使い通しでへとへとだ。 土壌があればいくらでも《畏》を得られ、疲れなど感じない妖と違い、人間は術を使えば精神力を削る。走り回れば体力を使う。 つまり妖が疲れを感じるのは、それだけ、人間の《畏》が己よりも他のものへ移ったことを示す。 どれほど人間を疎い嫌う妖怪だったとしても、人間からの興味関心無しでは満足に息一つできない。 ぜいぜいと息苦しくなるというわけだ。 それでは人間が今このとき、一体何に恐怖しているかと言えば、少し勘の鋭い人間は、いつもより空が暗い気がするのと、加えて勘の無い人間でも、晴れているのに稲光が見えるのとで、信心を失ったとしても不安には大いに身をすくませているのだった。 「にしても、夥しい数じゃな。人間ども、すっかりおののいておる。あやつら、超常現象とか名前を新しくしておるが、結局怪異には弱いからのぅ」 「……ぜい、ぜい……さすがにこう多いと、辟易としてくるぜ。……いいや、この星矢様、別にへばってるわけじゃねーのよ?うん……ぜひ、ぜい……」 「……リクオ様」 雪女は、少年の背を支える手に、きゅっと力を、こめた。 眼下で、上空で、黒雲は増え、こちらを敵と定めて、本能のままに群体となったかと思えば、鉈のように己等の身を叩きつけてくる。 己等の身にとって、リクオが危険であると察知しているのだ。 だから早く叩き潰さねば、早く滅してしまわねばと、本能が彼等をかきたてる。 そう、彼等は畏れているのだ。 一見、何の力も無いと見える一人の少年が、己等にとって一番に怖いものであると、本能が警鐘を鳴らしているのだ。 「……氷麗は、信じておりますよ、リクオ様」 冷気の壁で防ぐにしても、もう四方八方すべてを黒雲に囲まれ、空すらろくに見えない。人々の関心、つまり畏れがこの黒雲に集中している今では、どれだけ防いでもきりがなかった。 以前の雪女であったなら、他の妖怪どもがそうであるように、息切れを覚えはじめたであろう。 しかし、雪女は不思議と、疲れも不安も感じなかった。 目の届くところに、手で触れられる場所に、愛し子が、愛しいひとがいる。 これでどうして不安が生じよう。 委ねていれば、きっと、物事は良い方へ進むはずだ。 彼女の信頼は、信仰にすら似て、一片の曇りも無かった。 ただ待っていればいい、そう思えたし、すぐ側に待つべきひとがこうして佇んでいる今、これは簡単なことだった。 ハツカネズミは恐怖におののき、小刻みに震えてリクオの肩にしがみつく。リクオの懐に隠れすんでいる小蛇もまた、頭をほんの少しだけ出して外をうかがった後またすぐに、怯えたように隠れてしまった。 街のあちこちで、黒雲に怯えた人々が騒ぎ始め、うっかり身の内に招き入れてしまった人間たちが乱闘騒ぎを起こし、妖怪たちが千切っても叩いてもたいした傷を与えられぬ相手に辟易して疲れ果て、その脇から二代目が、蒼紫の浄化の炎で黒雲を散らす、この中にあって、雪女は。 微笑みさえ浮かべて、彼を信じ続けている。 まもなく、答えはあった。 そっと、己の肩に置かれた細い指に、リクオは手を重ね。 「 ――― うん。ありがとう、氷麗」 やがて、目が、開いた。 胸の内に起こした祈りは、二代目の言葉通り、朝焼けに似た橙色の光となって胸のあたりからわき起こり、最初は拳大ほどの、すぐに頭一つ分くらいに、そこからはまるで世界樹が枝を広げて葉をこぼすごとく、ふくれあがって街を覆った。 夜のはずなのに、突如黒雲も、人々も、妖怪たちも、さあと照らしたそれはまさしく、太陽の光。 朝焼けに、空のちぎれ雲が七色の彩りを帯びたほど。 不思議なことにこれに照らされると、黒雲を成していた虫どもは力を失って、枯れ葉のごとくひらひらと地に落ち、弱々しく震えて消えてしまうか、力を残した者もたまらんとばかりに、暗がりを求めて消えたり、人間たちの持ち物、特に携帯電話などに群がって、その中へすいと潜り込んでしまうのだった。 シマのなんたるかを説いても理解できる頭の無い黒虫どもを、追い払っていた妖怪たちも、この光を浴びると、陽の光を直接浴びてしまったときのように、何だか体がぐったりと重くなったので、ははあ、これはたしかにお天道さまの光に違いない、奴等はこれに耐える力すら持たないので逃げ出したなと、合点する。 もちろん、強がりだ。 彼等だって、己の限界というものはわかっている。 小さいからこそ突いても切ってもろくに的が定まらぬし、だからこそ普段は武闘派と数えられない妖怪どもも立ち向かえはしたが、この黒虫は少しでもこちらが恐怖を感じると、敏感にそのにおいを嗅ぎとって、例の、己しか知らぬはずの母の声……母が無いものや母を知らぬ者は、己が一番耳に痛く感じる者の声で、やいこらとやってくるから、ろくでもない。 火を吹きかけたり凍らせてやったり、水をかけてやるといくらか減るが、空を覆うほど居るのだから、たかがしれていた。 それが、この光がどこかから放たれるや、はたと彼奴等は、己の分際を思い出したように、わらわらと逃げ出し始めた。 こうなれば形勢逆転、逃げる黒雲を、鳥妖や空妖はもちろん、奴良組の妖怪という妖怪たちが追う、そして蹴散らす、黒雲は散り散りになって、どこへともなく消える。 勇ましい者は、まだ塊となって空に残る黒雲を、他の奴等が手をこまねいている分だけ余計に追い散らしてやれと、飛び上がった。 自然、妖怪どもは一つところに集まった。 すなわち、黒雲どもが消えた朝焼けの光の中で、往生際悪く煙のように一塊になっている、オニバンバたちのもとへ。 そしてオニバンバが、他に類無く、はっきりと敵意を見せている、リクオの元へ。 「あそこには初代がおられると聞いたが」 「眩しくて、よく見えぬ。なんじゃ、お天道さんは空からここに落っこちてきたのか?」 オニバンバどもは、すっかり妖怪たちに囲まれているというのに、他の場所で追い散らされた者どもとは違い、なかなかそこを去ろうとしない。 カラス天狗たちが、己の得物でつついてみても、一度は二つに分かれたり、逃げる素振りは見せるのだが、また元に戻って、そのあたりをうろうろとしている。 妖怪どもの目を眩ます光源のすぐ側なのだから、一塊となった彼奴らの表面からは、常にぼろぼろと、小さな羽虫が落ちて灰になって消えていくが、するとそのすぐ向こうから、新たな羽虫が現れて、また灰になって消えしながら、一つの形を保っていた。 一つの黒い生き物が、己の皮膚をぼろぼろと崩れさせながら、呪わしい相手を睨みつけているように、思えた。 彼等が何を待っているのか。 妖怪どもは四方八方から、ビルの屋上で光輝く太陽の元へ、もうこれ以上は恐ろしくて近づけぬ、近づいては灼かれてしまうというところまで寄り、事態を見守った。 そんな彼等のすぐ側を、疾風のように駆け抜ける者があった。 妖怪どもが、これ以上はならぬ、太陽などに近づけば灼かれて落ちてしまうと畏れているのに、その疾風ときたらまるで物怖じせず、ここへ向かってくるまでに、あちらこちらの屋根を蹴り、より高いビルの壁をひょいとよじ登って身軽に飛び上がり、かと思うとそこでぼうっとしていた鳥妖の背から背へひょいひょいと、大柄な影には似合わず、素早く動くのだ。 「なんぞ?!」 「何奴?!」 「あ、おい、貴様、それ以上近づいては、灼かれてしまうぞ!」 背中を踏まれて憮然とする者、驚く者、それ以上近づいてはならぬぞと止めようとする者、それ等を飛び越えて、やがてその影は、街を包み込む光の源へと、飛び込んでいく。 きっと灼かれてしまう、と、誰もが目を見張ったが、そうはならなかった。 光はその赤い影を灼く前に、それまでの熱さを忘れて、すうとかき消えたのだ。 わっ、と。 待ちかまえていたように黒雲が、光の中心へと躍りかかった。 妖怪どもが、光の中心にあったものが何であるのか、判じる暇も無い。 彼等を踏みつけていった赤い影など、これに塗りつぶされて誰であったのか判じるより先に、見えなくなった。 大太刀を背負っていたようだが、羽虫の群相手にはどうにもなるまい。 そうも思われたが、これは要らぬ心配だった。 ―――――― 天が、吼えた。 そう思わせるほどの、唸り声。 荒ぶる天の獣が、街に轟きわたる大声を上げた。 しかしそれは、妖怪どもの視線の先、黒虫どもがわっと躍りかかったビルの屋上に居るようである ――― 何が居るのか、何が在るのか、固唾をのんで、見守っていると。 黒虫ども、内側から膨れ上がった風船のごとく、ぱんと破裂した。 瞬く間に散り散りになり、泡を食ったように逃げようとする。 ところがこれも、上手くいかない。 例の獣の声にすっかり萎縮して、うまく羽や足を動かせずにいるのだ。 無理もない、見守っていた妖怪どもの誰もが、ひっと怯むような声であったから。 そして、光に恐怖せず自ら飛び込んでいったその獣こそ、猩影そのひとだ。 リクオを肩に、雪女を片腕に、もう片方の腕で初代を軽々抱え、一声で羽虫どもを萎縮させた顔には、やわらかな笑みの女面。 風に翻るのは、深灰色の毛並みを隠す、緋色の薄衣。 纏う衣は平安貴人を思わせる、やはり緋色の直衣に白袴、ここまでの道のり、決して近くはなかったろうに、これにはほんの少しの血の穢れも無い。 その御方の前に出るのに、血や妖怪どもの欠片を被るなどあるまじきこと。 肩の上に抱き上げた華奢な影への恭しい態度から、誰もが彼の、無言の主張を読みとった。 「ご苦労様、猩影くん。遠かったろうに、突然呼び出して悪かったね」 これほど見事な若い大狒々は、この小さな少年の下僕であるのだ。 誰の目にも、なぜだかそれがわかった。 彼こそがどこぞの百鬼を率いる大将としても申し分なかろうに、その彼が恭しく頭を下げるなど、あの人の仔は一体、何者なのかと誰もが訝った。 いたわるように、己を肩に抱いた大狒々・猩影の髪を、リクオが優しく撫でると、恭しい態度からはおよそ考えられぬ軽口で、猩影は応じる。 「ばーか。悪かったと思うなら、もうちょっと早めに呼べっての。ここまで、あのオニバンバども退治しながら、全速力。おかげで腹減って腹減って」 「はいはい。猩影くんは寝起きでもお腹減ってるでしょー。後でお夜食、作ってもらおうね。……その前に、もう一仕事や」 びりびりと、空中で痺れたままの黒雲どもが、いまだどこへも散っていけぬうちに、肩からひょいと飛び降りたリクオが、はらり、鉄扇を広げてその場でくるりと、舞った。 少なくとも、誰の目にも、そう見えた。 刹那の間に、穏やかで物腰柔らかな少年の姿は、くるり輪の向こうに消え、くるり輪の向こうから姿を現したは、朝焼けが消えて再び見事な月の下、長くのびたしろがねの髪、爛々と燃える瞳は紅の。 どよめき。驚愕。 その場の妖怪どもにも、見た者がある。 あの銀閣寺での戦いを、知っている者がある。 あれは。まさか。あれは。 彼等の声などどこ吹く風、広げた鉄線に灯る、蒼紫の浄化の炎は、たちまち竜巻のように立ち上り、最後の一塊を包み込む、花弁の嵐と化す。 この桜の炎の姿は、人間の中にも目にしたものがある。 不安な黒雲を祓った朝焼けと、それが消えた後に現れた、月光を背にしたしろがねの妖を、あれはどういう存在なのだろうと、口をあけて見上げていたそこへ、たまたまその存在を知っていた人も隣り合って同じものを見て ――― 「あれ、伏目明王さんとちゃうやろか」 「明王さん?明王さんて、なに、あの文化財とかの?」 「仏像さんやない、ほんまにいてはりますんよ。うちは近所に住んでましたから、昔からよお知ってますわ。間違いない、ああ、あれは伏目明王さんや。うちらの事心配して、なんや、見に来てくれはったんやなぁ」 恐怖を忘れて、手を合わせた。 着の身着のまま京都から逃れ、親戚を頼って東京に来たまま、そこで仕事を見つけて新たに根付こうとした人々の中には、その名を知っている者があった。 手を合わせて、祈りを捧げれば、それがは畏敬の念となって、必ず届く。 怪奇現象、超常現象と名のつくものはテレビの特集で見るくせに、実家の仏壇に線香をあげるなんて年に片手で数える程度だった人々も、黙って手を合わせる人を真似て、こうか、こうかと手を合わせた。 その炎の色は、初代から二代目に受け継がれたと同じもの。 浮世絵町の妖怪ならば誰だって、風情を好む主の妖気が、不思議と桜の花弁と散っていくのを知っている。それが本来妖怪には決して扱えぬ、陽の気を帯びているのを知っている。 美しい。 その美しさを、彼等は等しく、《畏れて》いるのだ。 触れれば、握りしめれば、腐って落ちそうなその花弁が、敵となるものは容赦なく燃やし尽くす青白い炎だと、知っているがゆえに。 今も、そうだった。 ごうと、最後の黒雲を巻き上げて天に昇る青白い炎の花弁は、若々しい勢いに溢れており、一瞬、その勢いに炎の鳥が形として宿ったほど。 浄化と再生の炎は、初代とも、二代目とも違う、人々の祈りを受け取って膨れ上がり、街中に広がった桜の花弁は、新しい時代の炎に違いなかった。 これを、妖怪どもはやはり、美しい、と思い、これを操る者が誰であるのかを一瞬忘れて ――― はたと我に返って、ビルの屋上を見下ろしてみれば忽然と、彼等の姿は消えていた。 夢か、幻か ――― 。 ともかく、夜空を覆った黒雲は去り、人間どもも、今日の空は暗くなったり光ったり、せわしないことだと少し不安は残したものの、あの朝焼けは不思議なことにそれほど嫌な気持ちがするものではなかったので、その後は概ね穏やかに、この日は過ぎ去ったのである。 |