間もなく、総会の日取りが決まり、これには奴良組傘下の貸元どもが、全員出席の意向を示した。
 あの魔京抗争以来、二代目が突然に自ら地回りを始めたことや、敵か味方か判然としなかった花霞大将が奴良屋敷へ赴いたという噂はあるにしてもその後の沙汰がまるで知らされなかったこと。
 そして、ただの自然発生した害虫とばかり思われていたオニバンバが、実は百物語組が生み出したもので、これを撃退する薬が、資金源となっていたこと。
 さらには、忽然と消えた、百物語組。

 こうしたいきさつを、二代目の口から直接語られるというのだ、興味を引かぬはずはなかった。
 加えて、召集の前に二代目からは、こうもあった。

 当日、花霞大将が直接顔を見せると。

 当然に、奴良組傘下の貸元組長たち、つまり大幹部たちが次々に、日が暮れる前から朧車を駆ってやってきた。
 皆が皆、抗争を制した二代目へ祝いの品を携え、また同じ幹部の見知った顔と玄関口や広間で出会えば殊更大きな声で、いやこの度の勝利は真にめでたしと、機嫌良さそうに笑い合う。

 本来なら抗争が終わってすぐに召集されるはずの総会は、これまで延び延びになっていた。
 抗争が終わったと知らされてからは、内応者どもの駆逐に、二代目が尽力されていたためだ。
 本日の総会で、噂ばかりが飛び交っていた抗争の事情がつまびらかにされるだろうと、貸元どもは刻限よりもやや早めの黄昏刻に、一人の欠席もなく広間に揃った。

「京都は誰に任されるのだろうか」
「三ツ目ヤヅラが内応しておったとはのう………」
「あの花霞大将が来ておるというのは本当なのじゃろうか。ずいぶんな美丈夫だと言うではないか、一目見てみたいもんじゃのう」
「クスクス、婆様はもとより、それが目的で来たのでしょうに」

 あれこれ勝手な事でざわついていた広間は、とっぷりと日が暮れた刻限になって、どすどすと廊下を勇み来る足音が響くと、口を閉じて居住まいを正した。
 上座にどっかりと二代目が胡座をかいて座せば、皆が声を揃え前に拳をつき、「おかえりなせぇやし」とこれを迎える。

 二代目が幹部どものこれに、うんと一つ頷けば、再び貸元どもは顔を上げ、上座に目をやり、互いに顔を見合わせて、ひそひそと囁き合った。

 初代が二代目の脇に離れて控えているのはいつものことだが、今日はもう一人。
 二代目の隣に、一人の少年が伴われていた。
 年の頃は十二、三ほどに見える。金褐色の髪が襟足までを覆い、物怖じしない琥珀の瞳が彼等を一段高いところから、広間の奥までを見回している。
 少女のような柔らかなおもてに、柔和な笑みをたたえていて、ついついあれは誰だろうかと見入った者どもと視線がかち合うと、包み込むように笑みを深くする。
 少年であると判じたのは、纏う着物が藍色の狩衣、つまり男が纏うそれだったからで、もしや男装の少女だろうかとは、次に誰もが疑うところ。

 あれは誰ぞとその場の皆が噂しながら、不思議に、上座から見下ろされても不快を感じず、むしろ視線が己の上を撫でていくと誰もが、心を直接撫でられてしまったような、言いしれぬ畏れを抱いた。
 不快なものではない、静謐なる夜明けの湖を前にしたような、流れゆく雲を抱いた空を見上げたような、ただただ、敬虔な畏怖の念。

 事情を知っている牛鬼も、そして鴆も、この場に並んでいた。

「おめぇら、遠路遥々ご苦労だった。春のでかい抗争から、早いモンでもう三ヶ月は経つか?ちょいと地回りに時間が食われちまったが、得るものはあったと思ってる」

 二代目が少年を紹介するより先んじて、しっとりと心地の良い声で話し出すと、少年のことも気にはなるものの、話の内容も常々知りたいと思っていたものではあるし、それに実を言うと集った妖怪どもの中には、例の抗争で内応しかけ、しかし花霞大将の一喝で奴良組への義理を思い出して踏みとどまった者どももあり、己等への咎めはどうなるのか一家のためにも早く知りたいところではあるしで、座敷は二代目が語る声の他、水を打ったように静まり返った。

 羽衣狐の転生は今後は無いと言い切れること ――― 既に山吹乙女と同化した魂からは怨念が消え去り、子を喪った恨み、子をなせなかった悲しみは、母性に転じて穏やかに遠野で息づいていること、であるからして、あの土地に土足で踏み込めば奴良組二代目として許さぬからそのつもりでいるようにというのが、一つ。
 しかし鵺というのは、どうやら安倍晴明のみを指す言葉ではなく、手頃な大妖がさらに格を上げたものを指すらしい。羽衣狐や安倍晴明すらも、《鵺を産み出そうとしている者》からすれば駒の一つにすぎず、さっそく捩眼山には、安倍晴明のかつての配下・大天狗が現れ、新たに鵺を生み出すために《神器》なるものを手に入れんとしていることが、一つ。
 京都は陰陽師の大家、花開院家によって再び聖域となったが、此度の戦いで培った縁を頼って聞いた話によれば、京都は螺旋の封印が施される以前の状態が、遷都された当時の姿であるらしいこと。すなわち弐条城の底にあった《鵺ヶ池》を作り出すため、《鵺を産む場所》を作り出すためにこそ、あの都は作り上げられたのではないかと、陰陽師たちの中にも気づくものがあり、過去の歴史の謎を紐解こうとしていること、何かわかればこちらにも伝えられるであろうことが、一つ。
 どこかへ消えた百物語組にいたっては、不気味な言葉を遺して行った。あれほどの因縁があったにも関わらず、此の世が狭くなったと言い残して、人がまだ地図を作っていない世界へ移り住むという彼等もまた、《何者かに》その世界の存在を示唆されていたらしい。口惜しいことに、彼等が金稼ぎとして作り上げたオニバンバなる害虫は、今は街中を照らしたあの朝焼けのおかげで少なくなったが、人間どもの電子機器、特に携帯電話やテレビなどの類に潜り込んで逃げたものどももあるので、やがてまた数が増えると考えられる。これを撃退する薬としては、百物語組がモモカンパニーなる名前で作り捨てていった薬が効き目をもたらすので、薬師一派の名義で今後は売ることにもなるだろう、やがては一網打尽にする方法を考えもするが、今はこれでこらえてほしい、というのが、一つ。

 これ等をまとめて、

「つまり抗争は終わるにゃ終わったが、喜べ、おめぇ等。まだまだ当分、敵さんには困らなさそうだ。祭りは続くぜぇ?」

 二代目が笑うと、座敷の妖怪どもも、つられて笑う。
 なるほど、敵がいなければ百鬼夜行も面白くない。
 二代目は危機を危機とも思わせぬ御方だ。
 あの土蜘蛛ですらその《畏》に呑まれて風に散ったのだ、実際にそれを目にしていた者も在るとなれば、二代目の後ろで戦うとはすなわち、勝ちに行くということ、それをどうして厭えよう。

「ところがよ ――― この終わらない祭り、いつまでこの二代目の体が持つのかって、ご丁寧に心配してくれた奴が居る。あの魔京抗争の最中、羽衣狐の配下から、内応を持ちかけられた奴はここにも居るだろう。次代を望めぬ奴良組を捨て、やがて《鵺》を産む羽衣狐につけと、内応の口上はこういうものだったらしいな?」

 ここで、本題に入った。
 内応しかけた後、今日まで謹慎を命じられていた者どもは、二代目から視線を逸らし、そっと俯くが、二代目は彼等を咎めるために、この話題に移ったわけではなかった。

「そんな心配性のお前等に、紹介しておこうと思う。
 おめぇ等の中には、憶えている奴もいるだろうが、おれの息子、リクオだ。
 先の魔京抗争の最中に見つかって、つい一月そこら前に、東京に入ってた。一度は御家を追われた身、その上妾腹で嫡男でもねぇ。だから、名乗りをあげるつもりは毛頭ねぇって意固地になってるところを、口説いてすがって泣きついて、条件と引き換えに、ようやく奴良の三代目を継ぐって話に、つい昨晩ようやっと、うんと言わせたのよ。
 わかるか、おめぇ等。奴良組は続く。祭りは続く。三代目は居る。心配は無用だ。
 内応した者どもは、京都の花霞一家の伝手を頼り、四国や安芸に逃れたらしいな。おれはこれを追うつもりもねぇし、こいつにも、母子を追った者どもを見つけ出して恨みを晴らすなんて趣味はねぇ。だから綺麗さっぱり、そういう事は、忘れちまいな。
 だが一つ、言っておく」

 それまでへらへらと笑っていた二代目が、高いところから下僕どもを、見下ろして言う、その凄みに、憶えのある者もそうでない者も、等しく身をすくませた。
 今、少しでも身動きすれば、目の前に居るはずのあの御方の刃が、次には己の首を背中かからかき斬っているかも知れぬのではないか。

 一度は笑いに溢れた座敷が、再び、静まり返った。

「今後、これを奴良家から排斥しようとする者はもちろんのこと、これにかすり傷一つつけてみろ。いいや、髪の一本でも毟るような真似を。あるいはいたずらに同情を引き、心を痛ませるような真似をしてみろ」

 声色は、変わらない。
 二代目ときたら、怒気を放つということがあるのだろうかと思わせる。
 どこに本心があるのかもはかれぬ。
 ぬらりくらりと掴みどころ無く、今もへらへらと笑うような声色だが、そこには底冷えする何かが、ある。

「滅してくれとてめぇで百万遍叫ぶまで、一族郎党斬り刻む。
 地獄送りなど生易しい、そんな奴等はおれがこの手で無に帰すまで。沈んで二度と出てくるな、ってぇわけだ。わかったか?」

 へいッ、と。
 構成団体七十二、それぞれの筆頭に立つ組長たちすら、額に脂汗を浮かべて身を屈め、一声返事をする、それぐらいしかできなかった。

 ところがこの二代目に、脇から意見するものがある。
 二代目、と、彼を引き戻した声は、少し咎めるようなそれ。

「 ――― 彼等の、ボクに対するそれへの罪は問わない。そういう約束だったでしょう?」
「おう。忘れちゃいねーよ。だから、今までやったことは不問にするって、そう言ったじゃん。おれが脅してるのは今後のこと。あいつ等、馬鹿だから。一から十まで言い聞かせなくちゃわかったもんじゃねーから。
 えー、あー、コホン。というわけで、おれからは仕舞いだ。抗争のあらましの、大事な部分はすっかり話した。で、だ。まだおれぁこの通り現役だし、楽隠居するつもりもねぇ。いきなりこれを三代目にするって言っても、おめぇ等もピンとこねぇだろう。だから、この総会でこいつには、奴良組《若頭》を襲名させようと思ってな。
 ……ほれ、リクオ、お前の番だ。なんか話せ」
「もう。適当なんだから。後でちゃんともう一回、氷麗の立会いで《約束》してもらいます」
「わーかったってぇ。お前等母子を追ったの何だので、咎めはしねぇってアレだろう?もうパパ、耳タコだよぉ」

 二代目が緊張を解いたこともあり、座敷のあちらこちらでざわざわと、耳打ち、ひそひそ話が始まる。
 燭台の影で、柱の向こうで、主の視線を掻い潜って、あれこれと好き勝手な物言いをする者がある。

「若頭、じゃと?」
「たしかにあれはリクオ様じゃ。昔、御庭で遊んでおったのを憶えておる」
「しかし、やはりまるで人間じゃぞ」
「そうさな、昔と変わらぬ」
「人間じゃ」
「弱い、か弱い、人間じゃ」
「あれで、我等の主が務まると?」

 こういった声を、貸元どもの中に混ざっていた牛鬼は、珍しくフンと鼻で笑うがそれだけで、止めやしない。
 鴆もまた、薬鴆堂の主として列の中にあったが、こちらは耳に届くひそひそ話に、勝手なことを言いやがると小声で掃き捨て、不機嫌を隠そうともしない。

 ひそひそ、こそこそ、としていたのを、誰も止める者が無く続いていたところへ、やおら、立ち上がった者があった。
 裏でこそこそ罵り、くすくす嘲笑うのは好かぬ、ならば面と向かって言ってやってはどうだというのがこの男の気質 ――― 一ツ目入道であった。

「二代目ぇ、ご子息が見つかりなすった、これにはめでたいと、そう申し上げておきますぜ」

 一歩前に出て、壇上からやや離れたところではあるが真正面にどっかり座り、口では言祝ぎながらも苦虫を噛み潰したような顔で、ぎょろりと大きな目玉でリクオを睨む。

「ここのひそひそ話、聞こえなかったわけはねぇでしょうが、一つ、申し上げておきやす。そりゃあならんでしょうが。どっからどう見たって、そいつは人間だ。半妖どころじゃねぇ、初代の血など、四分の一しか継いでねぇ。それに若頭を襲名させる?ゆくゆくは三代目にさせるだぁ?そりゃあ無理ってモンでしょうが」
「へえ、どうして無理だと思う?」
「あんた聞いてたかよ?そいつは人間だ。弱っちい人間でしょうが。元はと言えば、それでこの家を追われたんだ。見つかったのはよし、二代目の御子として、ここで御育てするのはよしとしやしょう。だがよ、人として成人した後は、カタギとして生きていくのがそのガキのためでもある、そういうモンでしょうが。弱ぇ人間になぞ、我等百鬼の主がつとまるとお思いか?」
「こいつはお前が思うほど弱かねェよ。ああそうそう、言い忘れてたが、この前、オニバンバを祓った朝焼けの光は、こいつの技だ。なにせ、この十年、陰陽師として修行してたくらいだ。京都で見つかったって言っただろう?こいつ、花開院家に拾われてたんだよ」
「な ――― にィ ――― ッ?!」

 一ツ目入道の頭に、たちまち血が上った。
 もはや、座敷はひそひそこそこそ話では済まされない。
 あちこちから、「なんだと?!」「陰陽師?!」などと叫び声があがり、腰を浮かせて身構える者まである。

「ちょ……ま……、な、陰陽師?!陰陽師と言いなすったか?!」
「ああ、言ったよ」
「二代目、あんたぁ、陰陽師を三代目にするってぇのか?!」
「おお、そうなるか。だが、弱かねぇだろう?」
「何を考えてるんだ、あんたは?! ――― おいリクオ様よぉ、てめぇも黙ってねぇで、何か言ったらどうなんでい。ここに集った貸元衆はよ、どいつもこいつも名だたる連中、たかが血の繋がりだけで、はいよ次からアンタが三代目などとは認められねェんだ。少し陰陽術を齧ったくらいで強くなったつもりになったか?!悪いことは言わん、おとなしく人間のお勉強でもしてな。組をかっちゃき回されちゃ、たまったもんじゃねェ!
 だいたい、なんだ、てめェ等を追い出した奴等を咎めるな、だァ?!お咎めなし?!無罪放免?!組のためをおもってやったことだからってかァ?!愛国無罪か?!そんなシマリのねぇことで、若頭なんぞつとめられっかよ!!てめぇに刃向かう馬鹿どもなんぞ、根絶やしにして当然!!そうじゃねぇと、真面目に仕えてた奴が馬鹿みてーだろーが、さぼっちゃうよ、俺だって!!そうなるんだよ、わかるか?!」

 一ツ目入道が真っ直ぐ述べたのは、不躾、無礼そのものだったが、こそこそひそひそとやっていた者どもが、まさに問いただしたいことそのままだ。
 無礼者とこれを斬るのか、まさにその通りとうなだれるのか、あの人の仔はどうするのであろう、一ツ目入道の畏れに気圧されて小便でも漏らすのではないかと、やはりくすくす笑って見守って、誰も二人の間に入ろうとしない。

 ところがリクオは、一ツ目入道相手に、ちょっと驚いたような顔を見せただけで、すぐに、ふふりと笑った。
 包み込むような、穏やかな微笑みに誰もが、ああ、この御方は間違いなく二代目の血を引かれているのだなと納得する。二代目の面影があったのではない、二代目の母御の面影、傷を負った彼等を分け隔てなく癒した優しい姫君の面影が、そこにたしかにあったのだ。

 この御方はぬらりひょんの孫であり、同時に絶世の美姫の孫でもあるのだ、と。
 皆がそこは合点し、納得した。

「そういうつもりは無かったんだ。ごめんね、一ツ目入道さん。咎めなら既にあったと思う。今この時まで、自ら内応した者は、土地を捨てて北や西に逃げざるをえなかったし、途中で踏みとどまった者も、いつ沙汰があるかとびくびくしていたわけでしょう?怖かったと思う。それが咎めでいいじゃないか。ボクは復讐を望んではいない、だからまずは安堵してほしい、そして、もしも後ろめたく思ってくれるなら、もう一度ボクとの縁を考えてほしいと、そう思うだけなんだよ。
 自分を傷つけようとした妖怪たち、それに人間、次々咎めていたら、きりがないでしょう。仮に、二代目が言うように滅してしまったとして、それじゃあその後には、何が残るというの?次から次と滅してしまったら、最後に立っているのは自分だけになっちゃう。そんなの、ボクは嫌だよ。寂しいもの」

 大声ではない、たおやかとさえ言える、淡々とした口調だったか、耳に心地良く、聞き入りたくなる。
 自然と誰もが口を閉ざし、この声に聞き入って、所作に魅入る。
 昔を思い出して憂い、僅かに視線を落とした様子も、僅か首を傾げれば、細い首筋にふわりと金褐色の髪がかかる様子も、ひそひそこそこそなどよりよほど趣深い。

 加えて、その彼が、新たな縁を迎え入れるように視線を上げ、一同を見渡し、一ツ目入道にむかって小さな手を差し伸べたときには、己等が座す畳の上が、なんと一面、蓮の花が浮かぶ水面となったのを、その場の誰もが見た。
 目が開いていなかったときにすら、本家の妖怪どもが慌てふためき、初代をものけぞらせた《畏》が、今は矛先をしかとこの場の妖怪どもと見定めている。誰も彼もが、ただの小童とばかり思っていた相手が、途端に大きく見えて、それどころかしっかと蓮華座の上から、卑小矮小な己等を一まとめにして手の平に掬い取ったように感じられて、ひっと息を呑む者まである。

 真正面に居た一ツ目入道など、だらりと汗を流して、もはや瞬きすらできない。

「本当は、こんな風に名乗りをあげるつもりもなかったんだ。見苦しいと思われても、仕方ないと思う。本当に、ごめんなさい。けどせめて、二代目が強情を張って山吹乙女さまとは復縁しないって、そう言っている間は、皆がまた不安に思わないためにも、ボクはまだ生きて、そして皆を守りたいと思ってること、皆を恨むどころか、大好きだって思ってること、こちらに居る間に伝えておきたかったんだよ。それで安心できるなら。その安心で、奴良組の瓦解を防ぎ、関東の秩序が保てるなら、それはボクにだって悪い話じゃないからね。
 安心して。奴良組は終わらない。こんなに強い二代目がいるんだし、それを支える皆が居るんだもの。終わるはずがない。《何者か》が、まだ《鵺》を産み落とそうとしている今、だからこそ皆と、より強い縁を感じておきたい。大丈夫、今度だってきっと勝てるって、皆もそう思ってくれれば、もう内応しようとは思わないでしょう?」
「し、し、し、しかし ――― 」

 激しくどもりながら、尚も言い返したのは、一ツ目入道の気概に他ならない。
 汗をたっぷりかき、一歩、水面と化した畳の上に踏み出した男の背に、座敷の一同ははっと我に返った。
 すると、清浄な水の城は元通り、やはり奴良屋敷の座敷なのである。

 だがこの時には一同はすっかり、先ほどまで弱い人間、卑小な童子とけなしていたのを忘れて、あれ一ツ目入道ときたら、まだ若様を虐めるつもりでいるよ、嫌な奴だねぇなどと、好き勝手なこそこそひそひそを始めるのだった。

「しかしだ、それにしたって、貴様は人間 ――― す、少しばかりはできるようだが ――― リクオ様よぅ、百鬼夜行ってのはな、さっきも言ったように、主の血がどうのというのが問題なんじゃねぇ。畏れを感じれば、自然とその周囲に下僕どもが集う、そういうもんなんだ。そ、それをだなァ、あー、なんだ、つまりは、陰陽師の力で俺たちを脅して、使役しようって魂胆があるんじゃねぇかと疑えちまう今は、はいそうですかと認めるわけにはいかねーのよ!
 お前がだ、少しでも百鬼の主として立つ気があるなら、陰陽師なんぞやってないで、例えばまずは小さくとも一家を自分で起こしてだなァ!一人でもここまでの百鬼を集められた、だから自分には主たる資格があろうとか、そういう口上をよぉ!」

 ずい、ずい、と壇上へ近寄り、ついにはリクオに指をつきつけられるほど間近に迫った一ツ目入道が、不意に、僅か一歩後ろに下がった。
 相手もわからぬまま、気圧されたのだ。
 リクオの肩の上で、しゃーっと怒っていたハツカネズミや、懐から顔を出してしゅうしゅうとやっていた小蛇相手にではない。

「 ――― ちょいと近づきすぎじゃねェかい、一ツ目の小父貴よ」

 その相手とは。
 鞘のままの大太刀を、横からどんと二人の間、一ツ目入道の足元につきつけた、大柄の影だった。
 声に聞き覚えがあるので見上げてみれば、リクオの脇で気配を消して控えていたのは、緋色の直衣姿。

「お前、猩影、か? ――― 花霞大将とともにやってきた後は、狒々の家で謹慎してると聞いたが……狒々とともに来たのか?」

 関東大猿会と、独眼鬼組。

 付き合いのある組の頭同士だ、その息子の顔はもちろん知っているが、今の猩影は、一ツ目入道が知る彼ではなかった。
 敵か、味方か、推し量る目だ。
 主を害する者ならば、決して許すまじと底冷えするような視線を、殺気を、真っ直ぐに向けてくる。

「お、おい猩影よ、よせ、やめろ。貴様等の殺気は重いんじゃ。面をしろ、面を。この場の者どもを失神させる気か?!」

 己のすぐ後ろで、算盤坊がくたりと意識を失ったらしいのを目の端で認め、言われた通りに一歩下がって悪童を宥めるように言うが、猩影は聞き入れない。

「小父貴よ、大将が許してるからって、俺が許す道理はねぇぜ。あんまりナメた口きくなら、上等だ、喧嘩なら代わりに俺が買うよ」
「なんじゃ猩影、子供が出る幕ではない。それに勘違いするな、ワシは総大将へ言っているのではないぞ、この御曹司にだなァ」
「勘違いはどちらだい、小父貴。奴良組二代目なんざ関係ねェ、《俺の》大将にナメた口きくなって、そう言ってんだよ」
「 ――― ハァ?」
「我が大将は、京都の敗残処理を請負われ、この副将・猩影のみを従えて関東入りなされた。それを、この姿では仕方ないとは言え、お前の百鬼を見せてみろなどと言いやがって。上等だ、魅せてやるよ。表ぇ出ろ、小父貴」
「やめてよ、猩影くん。この姿じゃ、気づかないのは仕方ないよ」
「お前は黙ってろ、リクオ。こういう頭のかてぇ老人は、一回ぶっ飛ばさねぇとわかんねーんだよ。見た目ばっかで判断しやがって。人間の血の何が悪い。陰陽術使えて何が悪い。リクオの《畏》で今なんか、足がくがく言ってるくせに、認めるのが格好悪いからって余計に楯突きやがって」
「 ――― 頭を冷やせ、猩影」

 溜息、一つ。
 猩影がこれ以上は近づくべからずと突きつけた、鞘のままの大太刀の向こうから、ふわり、桜の花弁が風に乗り、これが掠めた一ツ目入道の文字通り一つまなこが、限界まで見開かれた。

 何も、一ツ目入道ばかりではない。
 その場で事情を知る者 ――― 牛鬼、鴆、狒々、そうした者たちは、尻餅をついた一ツ目入道や息を呑んだ他の者どもの反応にこそ、喉の奥で笑ったが、他は皆、あんぐりと目や口を開いて声も出ない。

 二代目の隣で穏やかに笑んでいた少年が、溜息一つの後に面差しを変じ、しろがねの髪、紅瑪瑙の瞳の立派な美丈夫へと、変じたのだから。

「は ――― は ――― 花霞ィ?!」
「な、ど、どういうことだ?!」
「あれまァ、噂に違わぬ、見目麗しき男子であること」

 反応は様々、その場は騒然とした。
 中には京都の抗争で痛い目を見せられた者もあり、憎憎しげな眼差しを向ける者もあるが、すぐ側に控えた猩影が油断なくこれ等を射すくめるので、唇を噛んで座すのみだ。

 騒然とした座敷だが、他ならぬその花霞大将が、なにやら口を開く、その瞬間に、また静まり返った。

「 ――― 改めて、各々方に申し上げる。只今紹介に預かった、花霞リクオだ。螺旋の封印鎮護に入閣する際、奴良の姓を捨て、花開院から花の一文字賜り、今は花霞と名乗っている。先の京都抗争においては、何人かこちらの手勢に殴られた奴もいたかもしれんが、それは互いに痛み分けと、どうかご容赦いただきたい」

 目の前で変じたのだ、誰もが、あの小さな若様が、目の前の美丈夫であることに疑いなど持たない。
 一体、何故、どうして。
 京都抗争で綺羅星のごとき活躍を見せ、敵ながら天晴れと思わせた花霞大将を前にして、淡々と語られたあらまし ――― 奴良組への連絡は取れなかったこと、羽衣狐の懐で時を待ったこと、京都にも温厚で弱い妖たちはおり、これを守るために百鬼を率い、陰陽師としても人間を守るだけではない、人間から妖を守ることも考えていること ――― つまびらかにされていくや、語り手の淡々とした表情とは裏腹に、その苦労を思って感じ入り、涙する者まであった。

「まあ、そうした理由があって、今ここには、大将のオレと副将の猩影、花霞一家からはこれだけだ。流石に今、お前等全員相手にするには分が悪いが、魅せろと言うなら、今度お前の屋敷へ遊びに行こうか、一ツ目入道?敵だったとは言え、昔なじみと会えるなら鬼童丸も喜ぼう。四百年前の戦いのことは、昔話に聞いたよ。幼い頃はただの煙たい親父だと思ってたが、アンタも昔は前線で戦ってたと言うじゃないか。是非にもご指南いただきたいから、猩影や、それで不足なら、それこそ鬼童丸と手合わせでも」
「きっ、きっ、鬼童丸 ――― あの剣の鬼、だと?!ぶるぶるぶるぶるッ、じょ、冗談ではないわッ」

 分が悪いなどと言葉では言いながら、まるで恐れる様子の無い花霞大将がおどけたように言うと、一ツ目入道は尻餅をついたまま、慌てふためいて己の席へと戻った。
 座敷の者どもは、手を叩いて笑う。
 一ツ目入道を謗ったのではない。化かされたなァ、一ツ目よぉ、と、自分も息子から話されたときにあんぐりと口を開いたのを棚に上げて、狒々がばっしばっしと一ツ目入道の肩を叩いたように、たしかに大きな畏れを持つがこの少年で大丈夫であろうか、と思われた若様が、百鬼の主に相応しき有様なのを、嬉しく迎え入れたのだ。

 すっかり、若様は三代目候補として納得の御方であると、迎え入れる気満々だった彼等は、だが、その後すぐに、耳を疑うのだ。

「 ――― 今言った通り、オレは既に小さいながら、京都では一家を構える身。卑小な我が身を大将と慕ってくれる奴等にも恵まれている。さらには花開院から京都守護職を任ぜられ、こちらの姿では明王を名乗る。なればわかってもらえようが、奴良組に常に身を置いているわけには、いかない。本当ならただ花霞大将として、命か金銭か、請われる方を献上して仕舞いにするつもりだったが、そうはいかなくなった。奴良組の総大将が、今後は妻を娶らぬなど痩せ我慢をしている間、奴良組の妖怪たちは次代の主の候補をたてて荒れるとも予想される。そうなれば京都に余波が及ばぬとも限らない。
 考えた末、関東の平穏を守るため、ひいてはこの年まで育った京都を守るためにも、奴良組若頭、この盃、受けることにした。今後、二代目が痩せ我慢をやめて山吹乙女さまと復縁なされ、新たな和子さまがお生まれになったとしても、その時にはこの身果てるまで、三代目となられるその和子さまを見守る所存。一度交わしたこの盃、いかなることがあろうとも、決してお返しすることはない。預かったからには、身命を賭して、守ることを誓約しよう。
 つまり、ただそれだけの話だ。決して、奴良組が花霞の下につくわけでもなければ、逆に京都が奴良組に屈服するという話でもない。今まで通り、元通り。場合によっては保険がある、ぐらいに考えておいてもらいたい」
「 ――― え?」
「なんだ、そりゃ。若頭は襲名するが、三代目にはならねぇ、って?」
「……そりゃまァ、リクオ様は妾腹だから、この後、二代目がご嫡男に恵まれれば、血筋からすりゃそっちが三代目ってことにもなろうが……」

 困惑する彼等に、二代目が疲れたように、脇息へ体を預けて曰く。

「な?頑固だろ?でもお前等、ちょっとはおれのこと、誉めろよ。ほんっとこいつってば意固地で、山吹とよりを戻せだの、さっさと三代目作ってお前等を安心させろだの、二言目にはそればっかだったんだから。それをさァ、口説いてすがって泣きついて、条件付で奴良の三代目になるって話にしたんだから」
「二代目、そろそろその、条件とやらを奴等に話してやらねばなりませんぞ」
「おう、そうだったなァ、木魚達磨。よろしく」
「は ――― さて皆様、奴良組相談役、木魚達磨でございます。ここで、リクオ様が奴良組若頭を襲名するにあたっての《条件》を、いくつかご説明いたします。
 一ツ、奴良組若頭・奴良リクオ ――― もとい、花霞リクオは、奴良組二代目・奴良鯉伴と、五分五分の盃による兄弟分である。妾腹であるとしても、これを考えれば無礼はまかりならぬ。二代目・奴良鯉伴と盃を交わした百鬼どもは、これを心得ておくように」
「はああああああ?!」
「きょ、兄弟分?!五分五分?!」
「しゃーねーじゃーん。五分五分の盃なら考えてくれるって言うんだもんー」
「……言った。確かに言ったが、こんな風に揚げ足をとられるとは思わなかったよ」
「コホン、静粛に!
 二ツ、二代目がこの後、改めて正室を娶り、これとの間に和子さまがお生まれになったあかつきには、嫡男としてその子を育て、妖力発現せしときには、こちらを三代目として扱うべし。また、奴良組傘下一同は、二代目と山吹乙女さまとの仲を、総力を挙げて取り持つべし」
「…………なんじゃそりゃ」
「…………三代目になりたくねぇって感じだな」
「や、事実そうなんじゃね?だってあの花霞大将なんだろ?自分で一家持ってるなら、別にいらないんだろ、三代目の座とか。のびのび自由にやってるベンチャー企業が成功してんなら、今更おカタイ御曹司なんかには戻りたくないって思うもんじゃねーの?」
「おい木魚達磨!テキトーなこと言ってんじゃねーぞ!なんだその条件は!」
「オレが付け足した」
「えっ、ちょっ、リっくん?!パパショックなんですけど?!」
「静粛に、静粛に!
 三ツ、努力の甲斐なく、二代目が新たな和子さまに恵まれなかったときには、まず花霞一家に和子さまが恵まれ、これが花霞二代目として立派になられたときに」
「そっかぁ……あの、お小さかったリクオ様が、いまや、京都で一家の主」
「昔から、お爺様っ子であったものなァ。それを真似て、まさか自分で一家を興してしまわれるとは」
「うむうむ、二言目には、《おじいちゃんのような》魑魅魍魎の主になると、仰せで」
「二代目、よく泣いてたっけ」
「『パパは?!』って。……ぷっ」
「……くくくくっ……こら、笑うな。二代目に失礼であろう」
「お前だって笑っているではないか。……くっくっく……いやいや、たまらん」
「おい青鷺火、それから沫縁湖の。お前等、後でツラかせや」
「二代目!下僕どもと一緒になって邪魔をされんでください!えー……コホンッ。
 花霞一家に和子さまが恵まれ、これが花霞二代目としてなられたときに、リクオ様が奴良組三代目として、奥方様とともに、奴良組本家へ入られることとする。 ――― 以上!」

 呆然、騒然。
 しかし概ね、者どもは花霞大将を迎え入れる方向で話はまとまり、そうと決まれば後に始まるのは歌に酒、舞に酒の宴席だ。

 このときに、ひっくり返っていた算盤坊がようやっと我に返り、むくりと起き上がって、ずれた眼鏡をなおして上座を見、花霞大将の姿を認めてひいぃと息を呑み、再びひっくり返ってしまった。



+++



 敵の影はあれどもまだ遠く、黒い不安はあれども、払拭できるほど二代目の輝きはいまだ強く、さらにあの幼いばかりだった若様が、これほどめでたく立派な大妖におなりあそばしたとあって、堅苦しい挨拶を終えた後の酒宴は、いつになく大盛況。
 女衆たちの手で酒や膳が運び込まれてからいくらもしないうちに、広間からは笑い声が響いた。

 中心にあるのはもちろん、今日の主役、花霞大将こと花霞リクオである。

 貸元連中が若様を離さないので、今日まで屋敷でぴったりと若様に寄り添っていられた小物連中は、残念ながら、今日ばかりは蚊帳の外だ。
 天井裏に雛遊び用の小さな膳や酒器を持ち込み、広間の騒ぎを話題の種に、小さいもの同士より集まって、若様の立派な御姿が貸元連中にも認められたのを喜び合い、盃を交わす。
 その中には、すっかり小さなハツカネズミとなってしまった元旧鼠・星矢もおり、あの黒雲騒ぎの中でリクオを助けたときの自分の活躍などを、やや誇張して話し、これも小物どもを喜ばせた。

「にしてもよう」

 天井裏の小物連中にも酔いが回ってきた頃、納豆小僧が言いたくてたまらなかったことを、ついに口にした。

「旧鼠、おめぇ、なんでそんなナリになっちまったんだい?」

 そんなナリとはもちろん、奴良組にとってはおなじみの、黒い大鼠ではなく、小物どもと比べてもなお小さい、ふわっときらっとした、白いハツカネズミの姿だ。
 唯一の自己主張か、腹のところには黒く大きな星マーク。

「あ、それ、僕も聞きたいと思ってた」
「ぼくも」
「オイラも」
「なんでって、それぁ俺もよくわかんねーんだけどよー。いや、人間にはなれんだぜ?あのイケメンホストには。そう、最初はあの人間の姿のまんま、元の妖怪姿には戻れねぇなーって、それで難儀したんだよ。けど、そのうち妖気が戻ってきたように思えてな、よしいまだ、と思って変化してみたら……………この姿だったんだよな」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「いつもより視界が低いなーと思って、鏡見て、最初は落ち込んだよ。落ち込んだんだけどな、この姿なら、バレないように大将の後を追うのも楽ちんだし、狭いところでも入っていけるし、おかげで少しは恩返しもできたし、そりゃー、大将が目の前で、あのバーテンダーの花ちゃんになったときはびっくりもしたけど」
「花ちゃん?」
「ほらあれだ、若さまが化猫横丁で迷子になったとき、二号店のほうで騒ぎがあったっていう」
「花ちゃんから、またあのちっこいガキに戻ったらさ、俺をあのちっこい手のひらに乗せて、可愛いって。いや、まあ、俺はこういうイケメンだし?ネズミ姿でもそう思われるのは当然だけど、ほら、可愛いって言われちゃってさァ」
「ははあ、お前、あの若様に助けられて、その後なにも見返り寄越せとか言ってこないもんだから、後々ぼったくられるんじゃねーかって不安になって、こっそりまとわりついているうちに、なんだか損得抜きに好きになっちまったんだろう。そんで、てめぇのナリのことなんざ、どうでもよくなっちまったと」
「な、なぜそれを?!」
「なに照れてんだ。主に魅入られるってのは、そういうモンじゃねーのかい。オイラだってよぉ、若い頃の総大将についていくと決めたときはなァ」
「また始まったよ、納豆の昔話」
「こいつ、案外古株だよなぁ」
「日持ちするからな。後引くし」
「納豆には喋らせておいてだ。おめぇ、それじゃあこれから若様について京都に行くのか?そのナリじゃ、もう旧鼠の仲間ンとこには戻れねぇだろう」
「お、おう。まぁ、そうだなぁ、こんなふわふわのナリじゃ、旧鼠とはもう名乗れねぇし、実はもう、スカウトはされてんだ。祓っちまったのは自分だから、そのせいで仲間のところに戻れないのは申し訳ないなんて言われてさー。いや、別に俺、同じ種属だからつるんでただけだし、全然気にしてなかったんだけど」
「まじで?!」
「いいなー、羨ましい。となると、あれだな。明王さまの狛犬ならぬ、狛鼠」
「ほへー、大出世じゃーん」
「お、いいなそれ。狛鼠の星矢さまか。俺、今度からそう名乗るかな」
「独楽鼠の方が合ってんじゃね?つか大丈夫かよ、今のお前、冗談でも猫を食うようには見えねーぞ。あっちでは猫もいるって話だったが」
「あー……、ま、大丈夫、だろう。大将にくっついて様子見るさ。小蛇の奴もそうするって言ってたし。………そうか………フッ、なんか新鮮だな、今、生まれて初めて猫に恐怖を覚えたぜ………」
「なに、リクオさまのことだ、お前のことだってしっかり面倒見てくださるだろうよ。俺たちの分まで、きっちりお守りしてくれよな」
「おう、任せとけ」

 星矢が長い尻尾で器用に掴んだ盃と、小鬼や豆腐小僧が掴んだ盃とを何度めかにかち合わせた、その脇で、なにやらごそごそやっている奴がいる。

「ん、3の口、何やってんでい?」
「なに、お前も若様にくっついて京都へ行く?!もう初代と二代目にはナシつけてきただぁ?!」
「ど、どういう心変わりだい」

 小さな巾着をリュック代わりに、宝物のビー玉や、刀代わりの針や、毛倡妓に縫ってもらった端切れでこさえた戦装束など、身の回りのもの一式を詰め込んでいた3の口は、尋ねられてその手を止め、皆をぴたっと見据えて、一言。

「………………オマモリシタイ」
「3の口、お前………」
「…………ぐすッ、そうか、そうだよなァ、若様はまだお若いのに、苦労なさってんだもんなぁ。心変わりなんかじゃねぇか、新たな決意って奴だな」
「てか、喋れたんだ…………」
「そうと決まれば今宵は再会を約束する宴だ!おいおめェ等、酒だ、酒だ!」










 その天井裏から見渡せる座敷では、さっそく名だたる貸元どもが、リクオ様、若頭襲名おめでとうございます、と、次々銚子を持って訪れては、盃に酒を注ぎ、恭しく返杯をいただき、ついでに名前を覚えてもらおうと己のシマの話をしてみたり、京都での活躍を誉め称えるなどして気を引こうとしたりと、忙しい有様だ。
 優しすぎれば気弱と思われつけあがる、少しでも邪険にすれば顔に泥を塗られたと怒る、扱いの難しい貸元衆。

 それだって、陰陽師や水商売で客のあしらいを覚えてきたリクオにとっては、慣れたもの。

 やんわり迎え、相手を気分良く酔わせたところで、オレは人に仇なすものどもを、仁義にもとる奴等を、決して許しはしねぇよと、きっちり釘を刺す。
 恐怖などで人を縛るような卑しい真似はするな、《畏》を得ようというのなら、神も仏も忘れた人間どもに両手を合わせさせるような、絶対的な信頼とともに得ることだと油断なく説きもする。

 これは一筋縄ではいかぬぞと、内心舌を巻いた貸元どもは、己の化けの皮をはがされぬうちに退散し、結果、上座のそばに残ったのは、二代目と悪友関係にある青鷺火や泡縁湖の若様、牛鬼や鴆など、気の置けぬ者どもばかりだ。

 こうなれば、リクオも肩の力を抜いて純粋に酒の味を楽しめる。
 裏表のない会話を楽しんでいたところへ、後ろから、ふわり、着せかけられたものがあったので、うん、と思い触れてみると、それは玉石のように白く美しい、三つ目狼の襟巻きだった。
 美しいばかりではない、よく櫛が通った獣の毛並みは、夏の暑さの中では涼しさすら感じるし、肌触りが大変良い。これが冬になれば、襟巻は自ら冬毛にかわり、あたたかになるのだろう。

「おぉ、やはり似合うのぅ。リクオや、東京土産にそれをやろう。どうせおめぇ、手下や花開院の兄ちゃん姉ちゃんたちのモンばっかり買って、てめぇのモンはまだ何も求めてねぇんだろう?」

 リクオにこれを着せかけた初代は、にやりと笑い、何事もなかったかのように輪にまざる。
 牛鬼はこれを眩しそうに見つめ、これはこれはと、いつになく上機嫌で手を叩いた。

「これは初代、懐かしいものを」
「おうよ、今まで探しておったのじゃが、ついに見つけたわい。覚えておるか、牛鬼」
「忘れはしませぬ。四百年前、我等奴良組が京の都へ入ったときの品でございましょう。その狼の毛並みを、貴方はたいそう気に入られた」
「そうじゃ。飛びかかってきおったのを、お主が一刀で斬ったのよ」
「へぇ、爺様、これ羽織ってはったん?」
「うむ。それ着てばあさん口説いたし、それ着て魑魅魍魎の主になったんじゃ」
「そりゃ、縁起のええもんや。うわぁ、なんや嬉しい」
「そうですなぁ、この牛鬼めも嬉しゅうございます。………若がこのようにご立派になられて………そうしておられると、あの頃の初代が目の前によみがえったように………いかんな、なにやら、目頭が、熱く………」
「おいおい牛鬼さんよぉ、まだ宵の口だ、酔って泣き上戸になるにゃ早いんじゃねぇかい?」
「そうだぜぇ、今日の奴良組に陰気はナシだ!なぁ二代目さんよ。………あれ、二代目、どーしましたい?」
「ひ。ひでぇッ、おい親父、そりゃねーよッ!そいつ、おれがくれくれっていくら言ったってくれなかったじゃねーか!どっかにやっちまったって言うから、諦めてたのに!」
「あらら」
「二代目の、わがまま甘ったれ一人っ子病が始まったぞ」
「ばーか、倅ぇ、おめぇ何百年前の話してる?そんなん、おめぇがまだこーんなちっちゃかった頃の話じゃねーかよ」
「そうだよ!くれって言ったじゃん!くれなかったじゃん!」
「あの頃のおめーにやったところで、涎つけて汚すのがオチじゃろうが。仕舞っておいて、なくしたことにしたのよ。おかげで仕舞ったことは覚えていたんじゃが、どこに仕舞ったか思い出すのに一苦労じゃったわい」
「じゃ、じゃあなんで今までくれなかったんだよ?!くれてもよかったんじゃね?!」
「お前さんには似合わんじゃろ。それに忘れておったんじゃ。リクオが生まれたときに思い出して、大きくなったらくれてやろうかと思っておった。おめぇと違ってリクオの妖姿ときたら、昔のワシによく似ておるからよぅ、ほれ見てみろ、立派なモンじゃろうが。わーっはっはっは」
「ええぇぇ、そりゃねぇよぉー。な、な、な、リクオ、それさ、ちょっとだけ!ちょーっとだけ、貸してくれね?な?な?な?」
「嫌や。はしゃがれて涎だの酒だのゲロだので汚されたらかなわん。爺様、大事にする。ほんまおおきに、ありがとう」
「うむうむ、きっとそやつも京に帰れて嬉しいじゃろう」
「いやぁ、若頭は二代目をよくわかっておられる」
「二代目、頼もしい兄貴分ができましたな!」
「てめェ等………」










 リクオが貸元連中に迎えられるのを、猩影はその背後で、まるで大将の脇に控える近侍のように一人、影のごとく侍って一人で茶を飲んでいる。
 ように、と言うよりも、実際本人は、近侍のつもりである。
 彼の大将も心得ているから、後ろに侍る己の副将に、今日は盃を持たせようとはしない。

 狒々の息子の猩影であろう、こちらで供に飲まぬかと他の貸元どもに誘われても、いや今は大将の護衛も兼ねているからととりあわず、素面のままだ。
 貸元連中にも、狒々が表向きはどうあれ、猩影こそを跡目にと考えているのを知っている者があるから、今のうちに挨拶をと思っているのに、とりつく島もない。

 逆に、猩影は一人、宴に参加せず素面でいるのを、さみしく思うどころか全く気にしていなかった。
 彼にとっては親兄弟との縁を有り難いと思いはすれど、思うようになった理由もリクオとの縁によるもの。
 つい先日オニバンバ騒ぎが一応の収束をつけるまで、つまり今回の、リクオが若頭襲名に先述の理由から納得をするまで、自分の父にすら花霞大将こそが奴良の若様であるということを、話さなかったくらいだ。

 宴で酒を飲むのなら、京都に帰って大将と玉章と、それから鬼童丸、玉章の子分たちや己の子分たちをも交えて飲むのが楽しいと思えるし、あちらの屋敷ならともかく、この場所ではどうしても出先という気がして落ち着かないのだ。

 同じように落ち着かないのか居場所を見つけられないのか、鴆が猩影の隣に腰を下ろして、リクオたちが賑やかにやっているのを眺めながら、飲み始めた。

「………鴆の兄貴、俺のこたぁ、構わんでいいですよ。俺ぁただの護衛ですから」
「いや、そうじゃねぇ。何かな、あそこに入って騒ぐ気になれねぇっていうか」

 手酌で一息に呷った後、鴆はこう切り出した。

「なぁ猩影、お前さん、どうしてリクオの側にいるようになったんだい」
「どうしてって………それ、雪女の姐さんにも聞かれましたけど、聞いてませんか?」
「いや、聞いた。聞いたんだけどよ、そういう、いきさつじゃなくって、なんて言うか」
「……………ははあ」
「なんだよ」
「兄貴、俺のことが羨ましいってわけで。なんで俺じゃなくておめーがそこにいるんだよと、そういう気分っスか?」
「ばっっっっかおめぇ!!!!」
「違うんで?」
「……………そうだよ」
「うん。いや、あいつに魅入られちまうと、そうなるみてぇです。何度か俺も覚えがありますし、京都に残してきた奴等のほとんどは、今の俺をそうやって羨ましがってるんじゃねーかな。大将の護衛に誰がつくかって、屋敷中の奴等で輪になって、何回も話しましたからね。みぃんな、俺が行く、俺が行くって。玉章の奴は実家から、関東入りは禁じられてるって一抜けしましたけど、それだって憮然としてたし」
「………おう。すっかり主さんらしくなっちまって、まァ。一番最初に見つけたのは、絶対絶対、俺だってのに。畜生」
「言えばいいじゃねーですか」
「何をだよ」
「一緒に行きたいって。それが言いたいんでしょ?」
「……………ああ」

 確かに、その通りではある。
 薬鴆堂を焼失するまでは、確かにそのように思っていた。いや、今の方がよほどそうかもしれない。薬鴆堂の主と言えば聞こえはいいが、結局は己の血と病でけがれた寝床から起きあがることさえままならぬ、ただただ、代々受け継がれてきた鳥小屋を番していたようなもの、そこの主などやめて、これこそ己の主、そう思える相手の元へ行けたなら、どんなに良いだろう。

「そうだな、それが、言えたら、いいんだけどな」
「奴良組への義理が勝つってわけですかい?」
「いいや、違う。そういうんじゃねェ。……そういうんじゃねェから、だから、あいつがこのままさ、俺のことなんか忘れて、とっとと京都へ帰っちまわねぇかなって、そんなヒネたことも考えちまわぁ」

 お前、俺と一緒に来るかい、と。

 あの薬鴆堂の騒ぎに紛れて、はっきりとした答えはしていなかったけれど、今もう一度それを言われたら、今こそはっきりと答えを出さなければならない。
 鴆はそれが、辛い。

 辛い答えを選ぼうと、既に決めているから、辛い。

「そりゃ、無理な相談ですよ。ウチの大将が、一度懐に入れたものを忘れるわけがねぇ」

 けれどそう、猩影が自信を持って言うように、リクオが鴆を忘れるはずはないのだった。
 つい先ほどまで己の側に居たのが、どこかへ姿を消したので、小用かと思っていたのに、ふと気づけば猩影の影に隠れるようにしているので、

「………鴆、何やってんだ、そんなところで。こっちに来いよ」

 当然、招く。
 もう上座も下座もなく、気の合う者同士、円になって飲んでいる中で、当たり前のようにリクオの隣があいているのが、鴆には何より嬉しく、そしてやはり、辛い。

 あらためて話の輪に混ざってみれば、二代目と青鷺火と泡縁湖の若旦那が盛り上がっているのは、身分も年代も超えた悪友三人組ならではの、女だの酒だの博打だのの話。
 リクオと雪女の話から、そういう下世話な話になったらしく、時折横から初代が茶々を入れてリクオをからかい、牛鬼も真面目な顔な顔のまま相当酔っているらしく、あのお小さいばかりだった若様が嫁を……!と、漢泣きにむせびながらさらに盃を呷っている。

「すっかりできあがってる奴等は放っておいて、鴆、この前の話、考えてくれたかい」

 己の父親を中心とした酔いどれ妖怪どもを、あっさり無視して、リクオは鴆が隣に腰を落ち着けるや、切り出した。

「話って……」

 何の話か、わからぬはずはないが、濁した。

「京都に来るかいって、その話だよ。あのとき、返事をまだ、聞いていなかった」

 千年の怨念を抱いた羽衣狐の支配下にあったと言うのに、リクオは、鴆の主は、清廉なままだ。
 媚びも追従もなく、はっきりと物を言う。

「ああ。いいよなァ、そういうの。そうなったらいいなぁって、今でもそう思うよ」

 二代目も、その横をかためる悪友どもも、聞き耳をたてているのが、わかった。
 この食えない総大将や、高名な鳥妖、土地神の若君のこと、酔ったふりをしているだけなのだろうと思っていたが、やはりそうらしい。
 リクオが連れていくと決めたものに、ならぬと二代目が言うはずはなかった。

 主と下僕はそういうものだ。
 血筋ではない、あれこそが我等の主だと思うと思うものにこそ、その背についてこその百鬼夜行。
 裏切りでない限り、今までの主の下僕としてつとめあげた者が、これこれこういう理由で、組を抜けさせていただきたいと言うものを、どうしてただ義理だけでつなぎ止められるだろう。

 聞かれている。だからこそきっぱりと、鴆は言った。



「俺の主は、お前だよ。それは十年前から変わらねぇ。だが行けねぇ。だからこそ、今は行けねぇんだ」



 よくよく、考えた末の結論だったとしても、いざ言葉にしてみると、かっと喉に熱いものがこみあがってきた。
 慌てて酒を呷り、喉が焼けたのを、そのせいにした。

「お前は奴良の三代目になる。面倒くせぇ条件が色々ついていやがったが、この先、二代目が正妻を娶ることなんざねぇよ。それは断言できる。こちらの御方はな、そういうところは一本筋を通す御方だし、何より、若菜さまとの夫婦仲ときたら砂吐くほどだった。だったら今回の総会でお前が若頭を襲名したのは、俺にとっちゃお前がいずれはここの三代目になる、それと同じだ。だったらよ、俺はこの関東を、いずれお前が治めるこの土地を、あんな新参の虫どもが徘徊するまんま、放り出しては行けねぇ。
 いや、それだけじゃねェな。色々、考えたんだよ。運命を恨むか、抗うか、受け入れるのか。《鴆》として、薬鴆堂を失って尚、どう、産声をあげるのか。色々考えて考えて考えた末にな、今ここでお前の背を追って、それで京都に行ったなら。お前の力になって、お前のためにこそ、学んだ知識を役立てられたら。きっとそれは、俺にとって羽ばたくってことなんだろう、産まれるってことなんだろうと思えて、考えただけで、すげぇ嬉しかったんだけどよ。けど、後々、お前がこっちに戻ってきたときに、あのクソ虫どもが徘徊してたら、興醒めもいいとこだ。
 薬師一派の跡目の鴆なんざ、先々代の孫だの先代の従弟だの、あっちこっちで増えてもいるから、たしかに俺がいなくったって、この騒ぎを収束に向かわせるための知恵には、奴良組は困らねぇだろう。俺はまだまだ半人前、貸元連中からもひよっこ扱い、二代目がガキ扱いするのも当然の半端モンだしな、居なくなった方がせいせいするって、そう思われるかもしれねぇ。だが、それじゃあ俺の気がすまねぇ。
 お前がこの関東に、奴良組に戻ってきて、花霞リクオだろうが奴良リクオだろうがどうでもいい、お前がここの三代目として、この上座のど真ん中に座るときまでに、百物語組が撒き散らしたあのクソ虫野郎どもを、一匹残らず駆逐する役目は、他の誰にも渡したくねぇんだ。
 だから俺は、ここに残る。なァに、なにも一生の別れってわけじゃねぇ。東京と京都の間は、二代目の今回の地回りのおかげで安全なもんだし、京都にはもう、あのおっかねぇ羽衣狐はいねぇんだろ?だったら、お前の定期健診ついでに、遊びに行かせてもらうさ。もちろん、お前に危機があるなら、そん時にはかならず翔けつける。俺はこれでも鳥妖だ、お前のためなら渡り鳥にだってなってやらぁ。だから何にも、何にも心配はねぇ。遠くもなんともねぇ距離さ。昔より、東京と京都は、ずっと近い。この空を、西に飛んで行きゃ、すぐだ。星の海を越えるわけでもねぇんだ、ちょろいもんだ。ああ、ちょろいもんだよ」

 リクオは黙って、聞いている。
 そうすると良いとも、それはどうかとも言わず、鴆の胸の内のありったけを受け取るために、ただ黙って、聞き入っている。

 目尻が熱いのも、喉が焼けたのも、酒のせいにして、さらに、鴆は続けた。

「俺は、俺の毒でなんざ、死んでやらねぇ。そんなのはもう、鴆って妖怪として、まっぴらなんだ。弱いから。毒で蝕まれているから。だから先がねぇ、今しかねぇなんて、そんなのは御免だ。後悔しないように生きるとかさ、聞こえはいいけど、そんな、死ぬことばっかを頭において何もかもを考えたくねぇんだよ。どうせ頭ん中いっぱいにするんなら、俺は、お前が三代目になるってのが決まったってんなら、そのめでてぇ日のことでいっぱいにしたい」

 過去には、短命であるを、恨む鴆もあったという。
 運命に足掻いて、運命を呪って、己が吐いた血に沈むようにして死んでいったという。

 過去には、短命であるに、立ち向かった鴆もあったという。
 彼のおかげで鴆一族は、それまでと比べて、かなり長命になった。
 しかし彼もまた、己の毒に沈んで死んだ。

 過去には、短命であるを、受け入れた鴆があったという。
 二代目と強い縁を結び、百鬼夜行の一として、毒の羽を堂々と広げたのだという。
 彼もまた、やはり己の毒で死んだ。



 己は。と、今代の鴆は思う。
 運命を恨みも、抗いも、受け入れもしない。全てこの、己の主に預けてくれる。
 死ぬ理由も生きる糧も、全てこの、立派な主に、預けてくれる。

 毒に蝕まれていることなど、忘れてしまおう。
 寝床でひしゃげてとうに風を捕まえるのを忘れた翼を広げて、呼ばれれば万里をも翔けてみせよう。
 短い命の先など忘れて、遠い未来の夢を見て笑おう。
 己の運命のためにではない、己の主のためにこそ、この命、使ってくれよう。
 残りの時間、残りの命などと、減っていくばかりの時の砂、計る術など、金輪際、捨ててしまおう。
 限られた命数しか生きられぬ人間が、血反吐を吐くような執着の念の果てに妖や鬼と化しとこしえを生きる影となるのなら、どうして生まれついての妖である己が、まるで人間のように狭い了見で、いつ死ぬか、それまで何をするか何ができるかなどというつまらないことで、頭を悩ませていなければならないか。

 だから全て預けよう。だから己は、死なない。



「約束を破るわけじゃねぇ。許してくれ。俺がお前の背について、《鴆》って妖怪として産まれるのは、もっと先だ。おめぇと雪女の間に子が恵まれて、それが立派に京都の御家を背負って立つ立派な二代目になった、その後だ。だから俺はまだ産まれちゃいねぇ。産まれてもいねぇもんが、死ぬわけがねぇ。どんだけ毒が廻ろうが、俺ぁここで、お前を待ってる。
 昔の約束どおり、お前がここの総大将になるときに、誰より先にお前のところに馳せ参じるために。
 お前がいつか継ぐシマからはあんな風情の無い黒虫なんざ、一匹残らず駆逐して、待ってるよ」



 そうか、と、鴆を真っ直ぐ見返していたリクオはそこで、ついと視線を逸らし、手元の盃を口に運んだ。
 多分、それは気遣いだった。
 視線を外したときに、ぽろりと目尻から零れたものを、鴆はそっと拭うことができたから。

「そうか ――― 寂しいな。オレはすっかり、お前を連れて行く気になっていたから」
「馬鹿、おめーにはこんなに頼りになる副将も、それに京都で待っててくれてる奴等もいるんだろ?寂しがることなんてねぇさ。大丈夫だ、簡単に死にはしねぇって」
「いや、そういう事じゃねぇ。そういうんじゃなくて、オレが妖怪の総大将になったときには、その側に、鴆、お前が当然のようにいるもんだって、ガキの頃から思っていたからさ。そうしてくれるって、オレが大将になったときにはその後ろで百鬼夜行になってくれるって、初めて約束してくれたのは、お前だったんだ」

 畳の目を見つめたまま、鴆は顔を上げられなかった。
 耳まで熱が上がり、己の顔が紅潮しているのが、鏡を見なくてもわかる。

 なんと言う高揚、そしてこの上ない歓喜だろうか。
 この主にとって己は特別な《何か》だった、そう思わせてくれる、それが手管であったとしてもそれがどうした。
 今この瞬間、確かに、己はこの主の百鬼の中で、特別な《鴆》という妖であるのだ。
 もちろん、主にとっては百鬼のそれぞれが、それぞれに特別なのだろう、それくらいは彼にもわかる。
 けれど、だからこそ、この言葉以上に嬉しいものは無い。

 ちらりと後ろを見れば、大太刀をかかえた猩影が、じと目でこちらを見ているところと視線がかちあい、あちらはさっと視線を逸らして、茶を含んだ。
 なるほど、ここは優越感を感じて良い場面らしいと、鴆は鼻の頭を掻いて少年のように笑った。

「まぁ、そうかもな。あの頃のお前ときたら、ほんっとにちっちゃかったし。そんなのについて行ってやるなんて言った奇特なのは、俺くらいだったかもな」
「兄貴になってくれるって、言ってたろう」
「よく憶えてるよなァ、全く。お前、こーんなちっちゃかったってのに」
「憶えてるさ。よく憶えてる。ところでよ、鴆。オレはあれから京都育ちで、そやよってに、極道の盃の交わし方なんぞ知らん。今の百鬼も、あちらでは護法と呼んどってな、別に盃交わした兄弟とは違うんや。まぁ、ごてくさ言うててもしゃあない、つまりな、こっちで待っててくれるんやったら、鴆、お前はやっぱりオレの百鬼の一や。だからオレは、もう少し欲張りたい。ちぃと、我侭きいてくれへんか」
「お、おう。どうしたい、突然」
「盃、正式に交わしてくれへんか、兄弟。京都の百鬼とは違う。奴良家で待っててくれるんやったら、お前がオレの、最初の盃、受けてくれ」
「 ――― 望むところよ」

 何が我侭なものか。やはり鴆の目に狂いは無かった。
 この主は、鴆が預けたありったけの心を全て受け取って、今一番、鴆が欲しい言葉を、特別を、下されたのだ。

 せいぜい余裕ぶって笑ったが、目尻だけはどうしても、もう一度拭わなければならなかった。










「二代目、あんた涙もろいですよねぇ。貰い泣きですかい」
「そりゃそうよ沫縁湖の。昔から鯉の坊は甘ったれの泣き虫さんだ。それが父親になるってェんだから、時代の流れって奴は面白いよなぁ。よかったですなぁ、二代目。若様はこんなに立派な大将だし、鴆君も立派な薬師一派の長だ ――― って、ぅおい!俺の羽織で鼻かむな、このクソガキ!」

 熱い任侠の義兄弟の一場面に、目尻を拭っていたのはなにも、鴆ばかりではなかった。
 聞き耳を立てていた二代目までが、こらえきれず、ぐすりとやり始めたのである。
 これには、リクオと鴆もぎょっとしたが、己の羽織から二代目の頭を力いっぱいはがしながら、青鷺火は「いつもの事だから、ながしてくんな、お二人さん」と遠慮が無い。

「ほれ、最近はポケットティッシュっつーいいモンができててな。お前さんは基本が泣き虫なんだから手拭いだけじゃなくて、こういうモンも一個くらい持ってなさい。お前さんの自慢の息子たちがほら、ぽっかーんってツラしてやがりらっしゃいますから、泣かないの。よしよし。はあ、だめだこりゃ。
 お二人さん、驚きもするだろうがこの御方は元々こういう御方だ。それこそ今の鴆君と若様のように、先代の鴆と二代目は浅からぬ縁で盃を交わしていた。先代が亡くなったときときたらそりゃもう、しばらく天岩戸よ。だからこそ、先代鴆が亡き後、己が父親代わりにと思って、何くれとよきに計らってきたつもりの、この御方なんだ。それがよ、ほら、鴆君、君ときたら最近、何かにつけて二代目を避けるようになったろう。きっと何かあったんだろうと察して深追いしていなかったが、この御方にとっちゃ、自分の息子の反抗期のように思われてたんだと思うよ。それがこうして腹割って、ちゃあんと若様と盃交わしたいなんて聞いたもんだから。察してやってくれ」
「ああいや、避けてたつもりは ――― 避けてましたけど。その節は、すいやせんでした、二代目。てめぇでてめぇが情けなくて、何もかもがてめぇの思うようにならなくて、何だか腐っちまってたところがあった。薬師一派の長なんざ、俺じゃなくても別にいいんだろう、そう思ってたところは、確かにありやす。貸元連中にも、あんまり馴染みがなくて」
「鴆は真面目だかんなぁ。貸元として物を言うからには、当主の座に百年おさまってみてからにしろ!とか一ツ目入道のおっさんあたりに言われて、言葉通り受け取っちまったんだろう。流しておけばいいんだよ、俺みたいに。俺なんざまだ当主ですらねーよ、名代だよ?妖怪同士、相手が何年生きてるのかなんて、長生きしてるほうが偉いなんて、そんなん、小せぇ小せぇ。
 この二代目っておひとを見ろよ。青鷺火のオッサンのようにてめぇより年上だろうが、俺のような青二才だろうが、別に気にしちゃいねーだろ?貸元どもの言うことなんざ、間に受けちゃダメダメ、俺が俺がって連中ばっかりなんだから」
「沫縁湖の。お前、二代目をたてるのが上手いなァ。俺にはこいつがそこんとこ、杜撰なようにしか思えねぇときがあるよ。面白けりゃなんでもいいんじゃねぇかと。むしろ百鬼夜行と友達百人と、一緒くたに考えてやしねぇかと」
「あぁ、そりゃあそうっスねぇ。しかしそれくらい適当じゃねーと、妖怪一万匹も率いて平然としてられねーんじゃねーですか?」
「違いねぇな。でかいモンを背負うときは、ちぃっとくらい、阿呆が丁度よいのかもしれねぇ。よかったな鯉の坊、奴良組二代目に生まれて。生まれながらに天職決まってる奴なんざ、そうそういねーや」

 二代目のお人柄は、人づてに聞いても、いまいち理解できないところがある。
 半妖とは言え、ぬらりひょん。こうかと思えば違う、型に嵌めようとすればすり抜ける。
 関東勢一万匹を率いる御方であり、強く、敵に対しては容赦も無いと聞いては、鬼瓦のような、がたいの大きな男を思い浮かべるものだろうが、実際目にしてみると、とろりと甘い笑みを浮かべる、人懐っこそうな美丈夫であるから、初対面の者はまずここで出鼻を挫かれる。
 では、ただお優しいだけのお人柄かというと、侮ってかかればしっぺ返しを喰らう。阿呆よ泣き虫よと、酒の席であるのと飲み仲間である遠慮の無さが今は許されている青鷺火も、本気でただそれだけの相手であるとは、もちろん思っていない。

 ところが、三つ子の魂百まで、とも言う。

 年上も年下も無い、こいつはいいなあ、心の奥の方からいい風が吹いてくるなぁと思った相手にはつい手を伸ばしたくなる、人懐っこい甘ったれ根性と、そういう相手にはとことん尽くす一途さは、初代にはなかった、二代目ならではの、《人間の》性なのかもしれない。
 昼のリクオの姿に、魑魅魍魎たちが集い、これを守りたいと思ってしまうことがあるように、なにも強いばかりが妖怪どもを惹きつけるのではないのだ。

 事実、鴆はこれまで、己をいたわるような、腫れ物にでも触るように接して来る二代目しか知らなかったためか、目の前で、そっぽを向いた二代目には結構な衝撃を受けた。
 悪友どもに言わせるままにしているのは、それを許しているのではない、泣きすぎてそれができないのである。
 自分でも情けないと思っているのだろう、一度は群雲をまとわせ《畏》で姿を消してしまおうとしたようだが、すっかり酒が入った牛鬼に「どこへ行くというのだ、鯉伴!」と襟首をむんずと引っつかまれ、今は首を腕に抱えられてじたばたとしているのだ。

「そうなのです、リクオ様。こやつ等が申したとおり、二代目は今でこそ立派に魑魅魍魎の主の座におさまっているように見えますが、私どものように年嵩の貸元衆にとっては、いつまでたっても鯉の坊。私にとってはいつまでたっても脇が甘い、不肖の剣の弟子でもございます。このたびは、この泣き虫鯉の坊と兄弟分の盃を交わしていただけたと聞き、牛鬼めは安堵いたしました。リクオ様のようなしっかりした兄貴分がおわすのなら、この甘ったれめも少しは心を入れ替え、きりりとした任侠の親分たらんともするでしょう。どうかリクオ様、これを、よしなに ――― 」
「牛鬼、おめぇ、酔ってんな」
「何を仰せですか初代。私は酔ってなどおりませぬ」
「おめぇは昔っから、顔に出ないから厄介なのよ。リクオがワシの倅のまた倅だって話は大丈夫か、そこんとこ、憶えておるか?」

 酒の席などこんなもの。
 辺りを見回せば、皆が正体を無くして、笑ったり泣いたりと散々な有様。

 その中にあって、酒は百薬の長、酒は飲んでも飲まれるなの生真面目な鴆と、付き合い程度にしか酒を含んでいないリクオと、つまり素面に近い二人は顔を見合わせて、こんな場所で、真面目な話などあったものではないなと笑い合った。

 こんな風に上も下もない座敷で、酔いがもたらした印象など、そのひとのほんの一端にすぎないとは、鴆もよくわかっていた。
 わかっていたが、年上も年下もない悪友たちにからかわれ、牛鬼の小脇に捕まえられ、初代にまだまだよのうと笑われる、その姿を見て初めて、奴良鯉伴というひとを身近に感じた。

 数では初代を超える妖怪どもを率い、初代には使えなかった強力な御業を使い、闇薄れる平成の世にあっても尚、闇の領分を守りながら勢力を保つ、関東奴良組の大親分。
 そのひともまた、己と同じく、誰かの年下で、誰かの年上だった。
 今の二代目は、まるで少年のようだった。

 だからこそ、鴆はこのとき初めて、その前にぐっと両拳をつき、冗談に交えてこう申し上げることができた。

「二代目、この鴆、若頭の兄弟分として盃を交わさせていただきやす。しかしながら先代、先々代から続いてきた鴆一派の末として、奴良組への忠誠には一片の曇りもありやせん。これまでの不始末補うためにも、粉骨砕身、つとめて参ります!」
「あれほど言ったのに、まだ真面目で決めるかい。鴆はホント真面目だねぇ、若頭と気が合うのもわかる気がするや。俺と女買いに行こうなんて言っても、行かないんだろうねぇ。せめて今度、飲みには一緒してくれよ」
「おぉそうだ、この青鷺火も忘れてくれるな。今度この鯉の坊と沫縁湖のと私と、四人で富士樹海にでも繰り出そうじゃないか。あそこはいいぞ、酒は美味いし姉ちゃんも可愛い。これからあの、オニバンバ退治薬を量産するんだろう?出資の面で一枚かませてもらうぜ。近いうちにその話、させてもらおうか。これまで武闘派どもが抗争の間中、我々をないがしろにしてきた分だけ、せいぜいきっちり商売させてもらおうじゃねぇの。なに、医術は商売じゃない?おカタイこと言いなさんな、同じ鳥妖のよしみじゃないか」
「これこれ、沫縁湖の、それに青鷺火。二代目をそのようにからかうものではない。未熟とは言え一応は、この奴良組の大将なのだからな。いやめでたいですな二代目、甘ったれでも、お二人も兄弟分ができたとあっては頼もしい限りでしょう」
「うん?なんだい牛鬼さん、《二人》って」
「鴆はリクオ様の兄貴分なのだろう。であれば鴆は二代目の兄貴分ということになるのではないか。違うか」
「おぉ、なるほど」
「そいつぁめでたい。よかったなァ、二代目」

 じたばたしていた二代目が、ようやっとここで牛鬼の腕を振りほどき、涙目のまま声を限りに叫んだ。

「牛鬼!てめーが一番、俺をからかって遊んでやがるんじゃねーかッ!」










 大広間から、賑やか騒ぎが聞こえ始め、誰からともなくほっと息をついた。

「リクオ、うまくやれたみたいやね」
「うん。よかった」
「………フン、花開院の末弟として、妖怪どもくらい抑えられて当然だ」
「竜二が一番、お茶の消費量激しかったくせに」
「魔魅流、お前最近、口ごたえ激しいぞ。反抗期か?」

 ほっとしたのは何も、三兄妹ばかりではない。
 何度も座敷の脇の廊下へ様子を見に行ったり、ついでに賄い処から茶や菓子を運んできては彼等に供していた雪女も、彼等の側で小さく安堵の溜息をつき、空いた菓子器などを片付け始めた。
 最後のモナカを魔魅流の口に突っ込んでやってから、竜二は真面目な顔で、その雪女へと向き直り姿勢を正した。

「あちらの話は終わったようだ、ならばそろそろ、俺も本題に入らねばならんな。邪魔が入らんうちにすませてもおきたい話だ、少し、いいだろうか、雪女」
「え?ええ……何でしょう」

 妖怪たちにとって名は縛りに通ずると知っているがため、竜二は彼女の名を知っていても口にしない。
 ゆらや魔魅流が、彼女と馴れ合って次第に名を呼ぶようになったのとは裏腹、彼女がどういう性格の持ち主か、その内面に溢れる母性やリクオに対する想いを知るようになってからは尚更、仮の名でもあまり口にせぬように気をつけている。
 彼は自分で自身が、妹のように才能があるわけでも、弟のように信仰心があるわけでもないと断じているが、兄妹たちに言わせれば、彼以上に言霊のなんたるかを知り、手繰り寄せる技巧に長けた陰陽師は、花開院の中でも類が無い。意識せずに名を呼んだだけで、相手を縛るものにもなりかねないからと気をつけている、彼なりの優しさだった。

「弟のことだが」

 と、彼がこう切り出したので、まだ短い付き合いではあれど、夫の兄が言葉を考え抜いて使うお人だと知る雪女も、彼がわざわざ『弟』と夫を呼ぶからには、兄として、弟の嫁に一言と思っているのだろうと敏く感づいて、居住まいを但し、向かい合った。
 傍らでは、魔魅流がモナカを喉に詰まらせ、ゆらが慌てて残った茶を渡している。

「あれが来てから、花開院はずいぶん変わった。それまでの極論、妖怪は滅すべしというのをやめた。幸いにも、人間側の風潮として、マイノリティ・グループ……横文字はわからんか、社会的少数者集団のことだ……これを擁護しようという動きだの、絶滅危惧種など、自然保護をしようだのという動きがあったから、詳しい事情を知らぬ下っ端まで、上手く刷り込むことができた。
 歴史を紐解けば、日ノ本に増えた人間たちはつまり、東夷と名付けた別の集合体を虐げ排して自分たちの居住区を広げてきた侵略者だ。朝廷とは侵略者のお偉方。朝廷に仕えていた誇らしい歴史がある我が花開院家は、侵略者の親衛隊というわけだ。その事実に蓋をして、妖怪は黒、人間は白、そう定めなければならないほど、昔は敵が多かった、そういうことだろう。それが今更その別の集合体を保護しようとは虫のいい話かもしれんが、つまり、それくらいの余裕は持てるようになった。排除してきた強敵を、保護しなければならない弱者として同情するくらいの余裕を持てるようになった。
 だが余裕というのは、あくまで、相手が自分たちよりも弱い場合においてのみ、持てるもの。弟が来た十年前は、羽衣狐復活の兆しはまだ小さく、花開院家においてもやや疑念があったくらいだ。人間はせいぜい生きて百年足らずだからな、四百年前のことなんぞ、憶えている奴は死に絶えていないのさ。だから文献を紐解いてかつての事情を知るわけだが、それだって物語なんじゃないかと思えてな、なかなか信じられない。封印の効力が消えて妖怪が蔓延り、怪異に溢れると言ったって、当時ではわからなかった伝染病や、今なら科学的に解明できる何かなんじゃないかと思われていた。妖怪が居ることは知っていても、陰陽師が束になっても太刀打ちできない大妖の存在などは、眉唾ではないかと。だからその頃は、妖の血を引く子供が迷い込んできたとしても、せいぜい子供同士殴る蹴るの虐めがあるくらいで、命を奪おうとまでは誰も考えなかった。ところがだ」

 魔魅流に茶を渡そうとしたゆらが、ドジを踏んで湯呑を畳の上でひっくり返した。
 けほけほと噎せこむ魔魅流をよそに、竜二は己の茶で唇を湿らせ、続ける。

「弟が八歳のときに、妖の血に目覚めた。目覚めたばかりだと言うのに、伏目稲荷鎮護にあたっていた陰陽師たちが総出で、一つの山に閉じ込めたほどの大妖を、ただの一撃で屠った、まさに生まれながらの大妖だった。教義を変える議論をまさに交わしていたその途中の花開院では、まだあの頃、妖怪は黒。ゆらが寄り添って守っていなければ、あれは自ら命を絶っていたか、陰陽師に囲まれて、抵抗もせずに死んでいただろう。当主の機転で救われ、早々に封印鎮護に入閣させたおかげで下っ端どもの手の届かぬようになり、以降、明王を名乗るようにもなったが、その頃から子供の虐めでは済まなくなった。羽衣狐復活の兆しが濃厚になり始め、花開院家の中にも余裕がなくなってくると、本来は妖気弱まる昼間に多くの陰陽師で封じに行くような大妖退治へ、あれに、一人で、夜のうちに、行かせるのが良いのではないかという意見が出て、余裕が無いというのは恥ずかしいな、大の大人同士で、そうだそれは良いなどと言いだす。大人数の意見が正しいとは限るまいに、多数決で採決される。大局を見れば、羽衣狐復活までに、戦力を温存するのは当然。であれば、高位の陰陽師にして明王を名乗る封印鎮護の御方にお任せできないだろうかと、こうだ。言い方は丁寧でも結局は、大妖同士相打ちになってくれれば御の字、というところ。数多くの流派同士、力関係もあって、当主の庇護にも限界がある。あれもそれを知っている。あれはああいう性格だから、命じられるままに赴く。
 以降、大妖の巣にあれ一人で何度放り込まれたことか、記録を見れば正確な数がわかろうが、俺は憶えていない。あれは一度たりと、己の援護をさせるために護法を連れ帰ってきたことはないが、あれを慕う護法たちが、あれの身を守るために自らついて行くようになったのは、自然な成り行きだったし、俺たちはそれで安心もした。表立って俺たちが動けば、贔屓目とされる。護法どもならば、あれの裁量であれの部下を動かしたに過ぎぬと思える。今度こそは無理かと思う妖怪相手でも、側に護法どもがあれば、守るものがあれば、あれは奇跡のように妖怪どもに討ち勝って来る。昼の姿があわれを誘うおかげで、家の内側の政治に携わらぬ者どもの中には、信仰すらしている奴もある。あれの味方が増えるのは良いことだ。良いことなんだが、味方なのはあくまで、家の政治に携わらぬ者どもの多数と、俺たち封印鎮護に入閣している兄妹個人なのだ」

 魔魅流が耐え切れず、急須から直接茶を口に運んだが、一滴、二滴唇を湿らせただけで、空だった。
 けほけほと咳を続ける涙目の魔魅流の背を、ゆらがさすって、辺りを見回し、給湯ポットを発見。

「弟が東京へ来るときに、京都駅へ見送りにこなかった弟が居たろう。花開院破戸と言う。この秋からイギリスへの留学が決まっているからその準備に、というのは建前でな、あれの母親は、現在の当主と敵対する流派の惣領娘。表立って敵対姿勢は見せないし、破戸自身がまだ幼いために俺たちにもよく懐いてくれているが、あの場に来なかったのは、その母親に禁じられたため。幼い破戸にとって、母親は絶対だからな、母親か、俺たちか、どちらかを選べとでも泣き叫ばれたんだろう。それがどういう意味か、わかってもらえるだろうか」
「リクオ様は、花開院の多くの陰陽師たちに同朋かそれ以上として迎えられており、しかし、破戸さんのお母さまや破戸さんの一門を率いられる方々にとっては、それが良くないことだと言うことですね。余所者が、しかも妖の血を引く者が本家と密接な間柄であるとなれば、それは致し方ないとも言えると思います」
「その通り。元々が本家の出の俺やゆらはともかく、秋房、雅次、破戸、布、それに灰悟小父は元々が分家の出。これから二十八代目当主を争う政治的な場では、それぞれがそれぞれの家の都合の駒にもされる。もっとも、破戸以外は子供ではないから、実家の年寄りが何を言おうともリクオとの付き合いを今更やめることはないだろうし、今のところは安心だ。そう、今のところはな。この、『今のところは』というのは、リクオにとっての花開院であると同時に、花開院にとっての、リクオでもある。今のところは、安全だと、お互いがお互いをそう思える。俺たち兄妹が、弟個人を知っているからだ。だが、『いつまで』安全かと考えたときに、余裕の無い者は保険を欲しがる。
 弟は強くならざるを得なかった。母親のために、京都のために、人々のために、護法どもや異界に住む弱い妖どものために。だが、弟を昔、大妖の巣へ追いやったような奴等が、今度はその強さを危ぶみ始めている。いずれは羽衣狐のように、自分たちを祟り、脅かすのではないかと」
「そんなはずが、無いではありませんか。京都でも、茶釜狸から聞いております。生肉や生魚など、獣道に通じるものは妖に通じるために口にしてはならない、一日に口にして良い米は一合まで、あとは雑穀で済ませるべし、他諸々……あのように食事一つとっても、とてもではありませんが、子供がのびのび育てる環境ではありません。それを、さらに毎日の生活の仕方、呼吸の方法や回数まで定められて、しかも、伏目にあった衣服の裏地にはびっしりと封印の文字。背には彫物か、それにしては古傷のようだと思って目を凝らしてみたら忌み文字の数々。だいぶ薄くなってはおりますが、十三の元服のときに受けた呪葬の鎖の封印の痕だそうではありませんか。元服と言えば私どもにとっては、いよいよ大人と認められる喜ばしいものですのに、わざわざその日にあのような、苦行を積ませる必要がどこにありましょう」
「ほぉう、もう背をご覧になられたか」
「あ、え、あの、いえ ――― お背中を御流ししただけです」
「そうか。いや、当主が早く曾孫をと言っているものでな」
「と、とにかく!あのようなもの、本来は、拒めばそれまでの戒め。リクオ様の御力ならば、嫌だと一言断じて払いのければ、傷跡にもならなかったはずの忌み文字まで受けて、『それで相手が安堵するのなら』と仰せなんです。そこまでお考えの方を前にして、今度は何をしようと言うのですか!」
「さてな。役目が終わったから伏目を明け渡せと迫るか、羽衣狐の下についていた罪を取り沙汰して明王でなく大妖へ堕ちたなどと言いだすか、さらに重い封じを迫るか」
「許せません。あの御方にこれ以上の痛みは、あの方が例え表情一つ変えぬものであったとしても、私が許しません。そんな事になるのなら、京都になど、決して行かせません」
「だが、あれは京都に戻るつもりだ。どうする」
「行ってはなりませんと言い聞かせます。うんと言うまで」
「あれはうんと言うだろうか」
「言わせます」
「自信がおありのようだ」
「もちろんです。あの御方は私の主で守子ですが、《虜》でもあります。氷付けにしてでも、行かせません」
「それを聞いて安堵した。ならば言おう」

 ゆらが発見した給湯ポットから湯呑に直接湯を注ぎ、苦しむ魔魅流の口へ投下。
 もちろん、熱湯。

 この脇で、竜二が座布団から身を引き、彼女の前で恭しく、懐から書状を取り出して、べらりと開いた。

「花開院家二十七代目当主秀元の名代として申し上げる。花開院家は《破軍陰陽師》花開院ゆら、《明王》花霞リクオ、二名を次代花開院家当主候補として指名することとした。これは各流派当主総員による決議である。明けて睦月より裁定の時に入り、そこから三年の時でもって、二人のどちらが当主に相応しいかを見極めることとする。三年の後、各流派の当主、ならびに封印鎮護入閣の陰陽師、総員の決議でもって、当主を定めることとする。尚、それまでに当主に危急ありしときには、当主の不在の間、封印入閣の陰陽師総員の意志で代行すること、ここに定める」
「それは、一体……?」
「強くなりすぎた大妖として認識させるのではない、強くなりすぎた陰陽師として認識させるには良い手だろう?
 本人に言えばその場で辞退するに決まっているからな、まずは外堀から埋める必要があるので、奥方から話をさせてもらう。羽衣狐に対する花開院側の尽力者として、今なら弟を推せる。愛華流 ――― 破戸の流派だな、ここも、今この時期に首を横には振れなかった。なにせあれが自分の身に呪いを移したおかげで、可愛い息子が助かったんだ。
 というわけで、奥方、そちらは京都に戻れば、『次期花開院当主候補の嫁』だ。本人にも、辞退などせぬよう、背中を流しながらでも寝床で子守唄代わりにでもなんでもいいから、口が酸っぱくなるまで言い聞かせてやってほしい」
「 ――― は、はいぃ?!」
「もし弟が京都へ帰らなければ、奴良組は『次期花開院当主候補を拉致した魑魅魍魎の主の一派』として、たちまち次の敵だ。それくらい、下っ端には弟を慕っている奴等が多い」
「 ――― ふ、ぇえ、ええぇ?!」
「表立った迫害を無くすなら、ここまでやる必要がある。いつまでも末席になんぞ甘んじているから、いつまでもあれを蹴って虐めてやれと言う奴が出てくるんだ。自分で牛耳るようになれば問題あるまい。もっとも、対抗馬のゆらも中々の才能の持ち主だから、実際にリクオが当主になる確率は半分だがな。
 弟が自分で、東京に残ると言うのなら別の手を考えたが、京都にあれだけの護法を残して自分だけが東京に残るとは言わんだろう。氷付けにしてでも行かせないと先ほど聞いたが、しかしそれは痛みを負わせぬためだろう?弟が、京都の護法たちを思って心の傷みを負ったとすれば、躊躇もするだろうが」
「それは、確かに ――― 」
「さらには、京都には奴良組には従いたくない輩も多い。二つを一つにとは、簡単な話ではあるまいよ。ここしばらくは、弟は京都に戻る必要がある。その《しばらくの間》の弟の身の安全を確保するために、これは必要な茶番だと思えばいい。花開院が弟の敵になったとき ――― そうならないとは限らんだろう?俺だってあと百年は生きんだろうが、灰悟小父の見立てでは弟は既に成長も止まっているし、どれほど生きるのかなど想像もつかんのだから、何百年か先の世で、血迷った花開院が再び妖は黒と定めるかもしれん。そうなるときまでに、逃げ場所を用意しておくことだ。奴良組でも、どこでも構わん。伏目の奴等が、リクオを抱えて丸ごと逃げられる場所をな。これをリクオは自分ではやらんだろう。あいつは伏目に拘りすぎているからな、あの場所を捨てるようなことは考えんのだ。大将絶対の護法どももだめだ。となると、最後の砦は」
「奴良組と繋がりがあって、主だからと殉じようとはせぬ、私、ということでしょうか」
「ごもっとも。流石は人の事情に敏い雪女。話がしやすくて助かる」
「あの、質問してもよろしいでしょうか?」
「何か」
「先ほどの、リクオ様の強さを危ぶみ始めている人間たちが、さらなる封印の縛りを用意しようとしている、というのは ――― 」
「その前後は本当だが、その部分は嘘だ。幸いにと言うべきか、羽衣狐復活によって浮き彫りになった、生半可な気構えの陰陽師どもには花開院を去ってもらった。それに、流石にあの騒ぎの直後に、リクオに封じを与えるなど、どの流派の陰陽師にも分け隔てなく居るリクオのシンパが許さんさ。さっきのは、反応を見ておきたかったので、試させてもらったんだ。弟の言うことをはいそうですかなどと、諾々と従うような嫁にはあれを任せられん。あれの身を守るためにも、この話を受けるように重々、言い聞かせてほしい。以上、花開院当主の名代として、本家の兄としての口上だ。
 それからこれは、個人的に、ただあれの兄としてだが」
「何でございましょう」

 そう言われてしまっては、《嘘》に怒るに怒れないし、竜二からは雪女をからかう気持ちなど、微塵も感じられなかった。
 それでも、嘘をつかれ、からかわれて憮然とするのは、性格としても性質としてもどうしようもない。
 可愛くむくれた顔のまま、雪女は竜二の鋭い視線を受けた。

 この雪女の前で、竜二が頭を下げた。

「弟を、よろしく、頼みます」

 眉一つ動かさずに雪女を試した言霊使い、だからどこまで本当かわからなかったが、切なく瞳を閉じたその表情が嘘だったとしても、雪女は、これは許してやろうという気になった。
 何よりの言祝ぎとして受け取った彼女は、彼と向かい合ってから初めて、心から笑み、しっかりと頷いた。

 一仕事終えた竜二が己の茶を全部飲み干したところで、魔魅流が熱湯とモナカを吐き出した。
 じたばたしていた二人へ、顔色一つ変えぬ竜二から、一言。

「魔魅流、ゆら、お前たち、人が真面目な話をしているのに煩いぞ。遊んでいないで、リクオの嫁さんに挨拶をしなさい」



<若頭襲名/了>