「うちんとこの孫等、ほんまボケボケで困るわぁ。ぼくの遺伝子どこ行ったー!て感じで。いや竜二からはなんとなーく、ぼくの兄ちゃんをもう少しまろやかにしたような雰囲気感じるねんけどな。目元なんて兄ちゃんそっくりで笑ったし。ゆらちゃんからは紛れもなくぼくの才を感じるし、リラックスしとるときとバトルモードのときとのスイッチの切り替えの早さは、ああ、ぼくの遺伝子ここにあったー♪って思うんやけど、なんちゅーかなあ、あの分家当主どものアタマの堅さからは、ぼくの遺伝子のカケラも感じへん。なんや、どっかで違うもんが混じったんちゃうかて思うくらいやもん。ぃやあ、ほんまかんにんなぁ、ぬらちゃん。お宅んとこのお孫さんの出来の良さに甘えるようで悪いんやけど、四百年分緩んでたゆんだらしいところは、ちゃーんと竜二にしめさせるよって、かんにんしてなぁ」
「いや、うちの孫もよ、どっちかっつーとありゃあ、お珱の血筋じゃな。もうちっと、嫌なモンは嫌だとはっきり言ってほしいもんなんじゃが、まるでその気がなくて困るわい。あのまんま放っておいたらどうなったことかと思うと、ぞっとする。おめぇんトコのその分家の、何と言ったかほれ、その分家の息子たちよ。そいつらが親御と喧嘩してまでリクオを庇ってくれたから事なきを得たが、さすがにそれがなきゃあ、ワシがあの場からリクオを連れ出したとしても、そりゃああの時だけのことで、いずれまた同じ目に合わされたろうよ。おめぇんとこの孫どもだって、竜二にゆらに、その分家のガキどもに、なかなか粒ぞろいじゃねぇか。なーに、悲観するこたぁねえよ。おかげでうちの孫にも何事もなかったんじゃ、よしとするさ」

 盆も過ぎ、残暑も少し落ち着き始め、伏目屋敷の庭でも鈴虫が鳴き始めた。

 陶器のピンク色のブタがぽかんと口を開けたところから、蚊取り線香をくゆらせた縁側に席をしつらえて差し向かい、硝子の盃と徳利で冷酒を交わしているのは、片や狩衣に烏帽子姿の青年。もう片方は、老いて背も縮み顔に皺が刻まれても尚眼光鋭く矍鑠とした、ぬらりひょん。
 四百年前に八本尾の羽衣狐を倒し封じたその夜に、同じように差し向かいで酒を酌み交わした二人は、四百年後の今になって、お互いの子孫、孫を話題に、やはり差し向かい、杯を重ねているのだった。

 四百年前には、人と妖、共生などできるのであろうかと憂いを帯びた話題であったのが、今は憂愁どこへやら、二人の口にあがる話題は、難癖をつけつつも結局自分の孫自慢。

 暮れていく京の夜を眺めながら、濡れ縁に寝そべる花開院家十三代目当主秀元と、座布団の上に胡座をかいたぬらりひょんと、とりとめもないお喋りを楽しむ姿は、すっかり一線を退いた隠居どもである。

 そこへ通りがかったのは、噂をすれば、この屋敷の主。
 花霞リクオ、その人だった。
 浴衣姿で濡れた長い銀髪をタオルで拭きながら、その仕草を真似た3の口や他の小物等を連れて、ひょいと顔を出して二人に声をかける。

「爺様、十三代目、お言葉に甘えて、風呂先に使わせてもらったで。……あれ、十三代目って、風呂入るん?」
「あははははっ、やっぱ面白いなぁ、ぬらちゃんの孫。式神が風呂使うはずないやん?それより、外の様子はどないやの」
「秋房義兄が獅子奮迅で、雅次義兄が金屏風結界の維持の新記録を更新中で、ゆらが破軍が一人足りんて怒りながら黄泉送り連発してて、怪我人はあるみたいやけど、命に別状なさそうやから、今んトコ放っておいてる。オレ、そろそろバイトやさかい、早いところ双方とも仲直りしてほしいんやけど」
「しかしよリクオ、花開院の兄さんたちは他でもねぇ、おめぇのためにそうやって、親御さんたちと喧嘩までしてくれてんのじゃろう?」
「んー……うん、そこはありがたいって、ちゃんと思ってる。せやけどなぁ、秋房義兄、別に憑鬼まで使う必要ないと思うし、雅次義兄もいつになく立派で頑丈な金屏風出して意地んなってるように思うし。なんやオレ、ただ親子喧嘩に巻き込まれたような、ダシにされたような気もするわ」
「それで、その親子喧嘩は君のバイト時間までおさまりそうなんか?」
「いや、それがまったく。うちの門や玄関を壊されちゃかなわんて茶釜狸が泣いて、それ聞いた玉章の補佐が門の前に新しい《隙間》こさえて、玉章が木葉舞わせてそこに誘い込んで、オヤジさんが茶目っ気出してにそこに羅城門立てたもんやから雰囲気たっぷりで、おかげさんで時間も忘れてあの人等、攻めて守っての陣取り合戦の繰り返し。今日は金曜日やから、明日明後日もたっぷりやらかすつもりやないかな。もうしゃあないから、オレ、バイト行こ思て、先に風呂使わせてもろたっちゅーわけ。十三代目、ええ時間になったとこで、仲裁頼まれてくれはりまへんか」
「えー。めんどいなァ。親子喧嘩なんか満足しはるまでやらしといたらええねん。これまで羽衣狐のせいで、満足に言いたいこともため込んでたんやろ、あの子等。遅れてきた反抗期がまとめて来た思って、どつき合いにつきあってやるんが親というもんやろう?」
「十三代目、僭越ながら申し上げるけど、アンタんとこの子孫のどつきあいに、伏目を巻き込まんといてください。小さいモンが怯えてて可哀想なんや」
「あっはっはー!こりゃ一本取られましたなー明王はん!わかったわかった、まかしたって。ちゃんと頃合い見て出ていくよって、君は安心してバイトに行くがよろし」

 縁側に寝そべった姿のまま、ひらひらと手を降ったちゃらい陰陽師に、雅次との血のつながりをたしかに感じたリクオ、「ほな頼みます」と頭を下げたものの、角を曲がって彼等の姿が見えなくなったところで、ほんまに大丈夫かなあの人、と、首を傾げたのだった。



















...三千世界の鴉を殺せ...




















 迷える子羊、一匹。

 その名は、花開院秋房。

 幼少の頃より妖刀作りの才能際だち、今は京都螺旋の封印の一、弐条城を預かる、花開院家八十流の天才陰陽師である。

 幼い頃より、十三代目の再来とも言われ、天才の名を欲しいままにしてきた彼に対する両親の期待は大きく、次第にその期待は、もっと、さらに、という欲に変化していった。
 才ある者ならば分家であろうと次の本家当主になれるという土壌も、それを手伝った。

 また彼も期待に応えるのを喜びとした上に、彼は生まれながらの才能の他、努力をする才能にも恵まれていたので、お前ならばできる、いやお前にしかできぬだろうよと言われると、何が何でも、立ちはだかった壁を乗り越えてやろうと奮起し、一度でだめならば何故だめなのかを分析し、足りぬ部分はさらなる努力で補って、目の前の障害を乗り越えて来た。

 十歳を数える頃には、周囲の者たちは彼を当主候補のように扱うようになっていたし、彼も自然と、自分はいずれ本家の当主になるものだと、決めていた。
 求めるのは名誉でもなく、付随する富でもなく、ただただ、悪である妖怪を倒し、人々を守るため。
 それができるのは、己しかいない。

 純粋な気持ちで、かつて彼は、花開院本家の当主を目指していたのだ。

 そう、かつて。

 今は、微塵もそのような気持ちが無い。
 いつ頃から無くなってしまったのか。

 無くなるまでの課程を含めて良いのなら、花霞リクオが明王変化を覚えた頃から人と妖のあり方に疑問を持ち始めた、これが始まりだった。
 同時期に本家の娘ゆらが女だてらに《破軍》を出したときに、衝撃を受け劣等感を抱いた。
 また、秋房にとっては当たり前だった、当主の座を巡る各流派の当主同士の水面下での争いを知らぬはずはなかろうに、封印の末席に入閣したリクオには全くその気がなく、それが逆に流派の隔てない慈悲として誰にも心を砕いて注ぐ結果になって、御家騒動など我には関係ないものと思う多くの陰陽師たちが、彼こそが当主となってくれたなら良いのにと、自分たちしか居ないところで話すようになっていると知って愕然とした。

 その一連の経緯を経た後、我が身には関わりないものとばかり考えていた早世の呪いに苦しむこととなったときには、関わりなしと思いこんでいたからこそ、初めて死の恐怖に打ち震え ――― それが末弟の犠牲により去ったと知ったとき、思い知った。
 己は、当主になってはいけない人間だ、と。

 呆然とする兄妹たちの中で唯一、リクオに食ってかかり、「今すぐ、かすめ取った呪いを吐け、戻すんや!今すぐうちにも半分わけろ」と涙しながら怒るゆらを見て、確信した。
 当主になるのは、目の前のこの子等でなければならないと。

 本家に生まれた竜二が、自分と同じく才ある者であると感じながら、それよりも妹のゆらに恐怖していたのは、心のどこかで、竜二は早世の呪いから逃れられないだろう、ならば、と、醜いことを考えていたからに他ならない。
 秋房は、自分自身の下劣さを目の当たりにした。

 これを避けるための、何かしらの方法を探しもせずに、呪いなのだから仕方ないなどと、物わかりの良い振りをして、見捨てていたに過ぎない。
 簡単に他人を見捨てる人間が、当主になどなってどうする。
 この時初めて秋房は、下位の陰陽師たちが流派を問わずリクオを当主にと望む理由が、わかったような気がした。

 芦屋の血が少しでも入っていれば、狐の怨念に倒れていった花開院家。
 高位の陰陽師たちは次々に倒れ、芦屋の血を引かない陰陽師たちも頭を失い瓦解せんとしたとき、これを纏めたのは、螺旋の封印を預かる陰陽師の中で、唯一芦屋の血を引かぬ、花霞リクオ。
 ただ高位であるというだけなら、幼い彼の声になど、誰も耳を傾けなかっただろう。だが、彼はそれまでに、既に下位の陰陽師たちの信頼を得ていた。

 螺旋の封印には入閣したものの、それがために他の流派の高位の者たちからは疎んじられ、粗末に扱われてきたがため、リクオが多くの下位の陰陽師たちと触れ合う機会、共に闘う機会は多く、その中で、下位の陰陽師たちは何度となく、命を救われた。

 リクオにとっては当然のことでも、命を救われた方としてはこれまでに無いこと。
 彼等の間では、「他の高位の陰陽師たちはともかく、リクオ様は我らを見捨てぬ」と評判になっていた。当初は力のない自分を庇ってもらうためのものに過ぎなかったが、やがては、「いつまでも庇っていただくだけでは情けない。力で足りぬなら、我等、数で盾となろう」と奮起するようになった。
 そんな彼等が、リクオの願いに、共に闘ってほしいという呼びかけに応えなければ、各々の流派の当主たちが呪いに倒れていく中、それでも彼等は踏みとどまったかどうか。

 羽衣狐がいよいよ表舞台に姿を現した際、伏目の護法たちを率いながら生ける銀色の破魔矢となって夜空を駆けたリクオを見たとき、また、同じように空を仰いで祈る、流派を問わない下位の陰陽師たちを見たとき。

 秋房の心の中にはもう、当主の座を望む気持ちが、微塵もなかった。
 不思議と、そんな己を、心地よいとさえ感じた。
 初めて、人として、空を見上げたような気さえした。

 今になって秋房は、彼等が歩みやすいように、露払いをするだけの力があることを幸運と思いこそすれ、当主だなんだといった些末な争いに、身を投じる気はまるでないのだった。

 ところが、見ていた景色が、そうなるとまるで違ってきた。

 これまで、才ある息子の言葉を、ありがたそうに拝んでいた両親が、手の平を返したように目くじらをたてて、秋房を叱りつけたのだ。
 良き理解者であったはずの両親は、一番の壁となって立ちはだかった。
 秋房の両親は、秋房とは違う意味で、違う動機で、秋房を本家当主へ押し上げたかったのだ。
 それは名誉であり、富であった。
 およそ、花開院家の本分とは全く関わりのない欲望を、あるいは人間としては極めて正しい欲望とも言えるものを、彼等は幼い秋房を手に入れて以来、ずっと抱いてきたのである。
 羽衣狐の驚異にさらされたところで目を覚ませば良いものを、全くその兆候が無く、逆にあの戦いが終わってからはいよいよ当主選びに本腰を入れられると豪語し、その気が無くなってしまった秋房と真っ向から対立したのだ。

 結局、花開院竜二のはたらきがあって、当主候補には花開院ゆらと花霞リクオ、この二名の名前があがり、秋房としてはほっとしたのだが、彼の両親にとっては煮え湯を飲まされたようなものだったらしい。
 それからはしきりと、秋房こそが相応しいのにとか、ないがしろにされて秋房が可哀想だとか、泣いたり怒ったり、怒る理由を彼等と共有できない秋房にとっては、騒がしい以外の何物でもない。
 かと言って、秋房の方から自分は当主になる気などもう無いと諭してみても、やはりこれにも怒り狂う。

 小さな諍いが大きな亀裂となり、二者の間に溝が生まれるのに、時間はかからなかった。

 ある日、父の不在の理由を聞いた秋房は、いよいよ耐えられなくなり、家を飛び出すことになる。

 母に命じられて秋房の前に立ちふさがろうとした、手練れの陰陽師たち。
 ある者は妖刀を構え、ある者は方陣を敷き、ある者は式紙を呼び出して阻もうとしたが、相手は八十流の天才陰陽師。
 それも、今この場だけは突破せねばならぬと決めているのだ、秋房の方にも手加減は無かった。
 社に封じていた妖槍・騎憶を持ち出し、己の姿を鬼に変じ、立ちふさがる者をけちらして、彼は家を飛び出したのである。

 己のためではない、焦る彼が考えていたのは。

「急がなければ。奴等め、リクオくんにこれ以上の枷をだと?!一体どういうつもりだ!!」

 両親を奴等扱い。

 迷える子羊、花開院秋房。
 遅れてやってきた反抗期、真っ最中であった。



+++



 迷える子羊、もう一匹。

 その名は、花開院雅次。

 花開院家福寿流の当主の息子であり、当人も螺旋の封印の三、鹿金寺を預かる陰陽師である。
 秋房ほどではないにしろ、幼少の頃から才ある者との声高が高い少年であった。

 元々福寿流は結界術に長けており、結界師、などと呼ばれることもある。
 雅次の結界は、幼い頃より、他の誰よりも強力だった。

 物静かで、およそ口答えなどせず、両親の言葉によく従い、花開院の教えにも決して背かない、絵に描いたような良い子を、幼い頃から両親は誉めたたえ甘やかし、もっと修行を積み才能を開花させておくれと猫なで声で言い聞かせる有様。
 もちろん、あわよくば息子を本家の当主に、という想いが無かったはずは無い。

 口数の少ない雅次は、言われるまま、命じられるまま、不平不満一つ言わずに修行に勉学に励んだが、しかしこれは両親の思惑通りに本家当主を狙っていたためではない、修行と勉学に励むのが陰陽師の家に生まれた己の務めであると、そう理解していたためだ。

 幼い頃から才能があるものに等しく宿るものなのか、雅次も秋房や竜二と同様、京都や人々を守ることへの責任感は強く、また正義感も強い方であった。
 物静かで表情もそう変わらぬために、鉄面皮、などと陰で言われることもありはしたが、彼自身は誰に何を言われようと柳のようにかわす術を知っていたので、気にする様子はまるでなかった。

 そのまま何事も起こらなければ、彼もまた、竜二や秋房と同様、教義の奥を考えず覚え込むままにして、人間は白で妖怪は黒だと疑いもせず、花開院家の正しい陰陽師として育っていただろう。
 しかし、変化は訪れた。
 竜二に訪れたように。魔魅流に訪れたように。秋房に訪れたように。
 竜二にとっての変化が、リクオと若菜、二人の母子であり、秋房にとっての変化が、リクオがもたらした花開院家全体への波であったなど、それぞれにとっての変化の形は様々だったが、雅次にとっての変化とは、まさにリクオそのものだった。

 たった四つで生家を追われ、花開院家にたどり着いた以降は、母が病の床につき、実質はたった一人でまるで見知らぬ家に放り込まれたようなもの。
 正義感と責任感を、両親が望むように強く持ち合わせた雅次にとって、リクオは多くの子供等と同じように庇護すべき対象であり、そう接することに何の疑いも持たなかった。

 彼は陰陽師として優秀であるなし以前に、人間として健やかに心優しく育っており、リクオを本家のゆらと同様に、縁を結んだ弟として扱い、可愛がった。
 これだけの変化なら、雅次は以降もそれまでと同様、朴訥に真面目に、日々修行研鑽に励んでいただけであったろう。
 可愛がる弟が一人増えただけでは、彼にとっての変化とは言えない。

 彼自身、まだ幼い少年だった雅次にとって衝撃であったのは、本家の当主や兄妹、それに秋房や自分のように本家兄妹と親戚のようにつき合いのある者はともかく、己の両親や、多くの流派の当主たちや、大人の陰陽師たちが、リクオを良く想っていないらしい事だった。

 両親を含めた大人はそれまで、雅次にこう教えてきた。

 曰く、優しくあれ、誠実であれ、と。
 年下や弱者を庇い、人を京都を守る陰陽師になれ、と。
 強きをくじき、弱きを助け、決して他人をないがしろにするな。
 誰かが誰かを虐げているのに、見て見ぬ振りをするのもよせ、と。

 ところがだ。
 今度はそう教えてきた大人たちが、こぞって雅次にこう言い聞かせた。

 《あれ》は人ではないものだから、妖の中でもとびきり強い妖の血を引くものだから、なるべく近づくのではない、と。
 《あれ》の姿からは目をつむり、《あれ》の声からは耳を塞げ、と。
 いつどんな風に妖の血が暴走するかわからないのに、近づいてはならない、と。

 できるはずがない。
 リクオは雅次に輪をかけて子供だったし、幼かった。

 母が病院に入院してからは、たった一人、いつも心細そうな表情をしていた。
 学校に通うようになってからは、同じ年の子供等に髪や目の色でからかわれ、虐められてもいたし、本家に帰ってからも竜二やゆらがいるときはともかく、陰陽師の中での年少の者たちは、リクオに妖の血が入っているのを知って、やはり大勢で囲んでそれを責め苛んだ。
 真っ黒のくせにどうして生まれてきたと詰られ、打たれ蹴られて、リクオがやり返せば、大人たちはリクオを叱った。妖の血のせいでそんなふうに暴力的になるのだと言われれば、リクオは黙るしかなかったが、決して彼等の前では泣かなかった。

 泣いたりすれば少しは可愛げがあるのに、黙ってこちらを見上げて、「手を出してこないなら、ボクから殴りかかるなんて、絶対にしない」と理屈をこねたりするから可愛くない、と、大人たちが陰口をたたいているのを聞いて、雅次は我慢ならなくなった。

 それまで釈然としないながらも、両親の言うことだからと、なるべくリクオに近づかないようにしていた雅次だったが、リクオを囲んでいた子供等の親たちが、逆にリクオが優勢になったところでこぞってリクオを叱り、無理矢理に謝らせる場に居合わせてしまったのでは、もう見ぬふりはできなかった。
 雅次は走り去ったリクオを追った。
 どこの家のモンか知らんがひどい大人もいたもんだ、きっと厳しく沙汰が下るよう、自分からも両親を通して言っておくからと、謝ろうとしたのだ。
 しかし本堂の奥へ奥へと走り去ったリクオを見失ってしまったので、不本意ではあるが諦めて帰ろうか、と思ったところで、物置の奥から小さくすすり泣きが聞こえてきた。

 覗いてみれば、自分と喧嘩になった子供等や、その親たちとたった一人対峙しているときには決して涙を見せなかったリクオが、一人、肩を震わせて泣いているではないか。
 その時、雅次がリクオに駆け寄って慰め、何を話したのかなどまるで覚えていないが、その頃のテレビで見た面白いネタだのを交えて笑わせようと努力したのは、教えられてきた正義感になぞらえて、そのようにせねばならぬと考えたからではなかった。

 足が勝手に駆け寄っていたし、手は勝手にその頭を撫でていた。
 リクオが半分泣きながら、それでも小さく笑ったときにほっとしたのも、教えられたとおりに正義を行えた、その満足からでは決して、なかった。
 ただ、目の前の子供が笑った、それだけで心がほんわかとあったかくなった。

 なんだ、妖の血を引くとは言え、ただの子供ではないか。
 それがわかった雅次は、以降、リクオを見かけると分け隔て無く接するようになった。
 年長として、年少の者に結界の術式を教える場にも、等しく招いた。

 リクオに才能があったかと問われると、特に飛び抜けて才気を感じさせたわけではなかったが、何よりリクオは努力した。
 教える方として、教わる方が熱心ならば、喜ばしい。
 リクオに請われるまま、年長の務めとして教えるままにしていたし、当然それで親しくもなったのだが、雅次の両親にとっては、これが好ましくなく映ったらしい。
 雅次は、叱られた。
 《あれ》に近づいてはならないと言っただろう、と、たしなめる程度だったが、それは一方的で、反論を許さぬものだった。
 リクオ一人に請われて、特別に術を見てやっていることも指摘され、他の子供等の親から、福寿流が妖の子を贔屓しているとまで言われているから、今後はならんぞ、と、言われたときに、雅次は生まれて初めて、両親に反論した。

 今まで、正義や責任を説かれてきたからこそ、黙ってはいられなかった。

 リクオは妖の血を引いているのかもしれないが、ただの子供で、むしろ虐げられている側だ、見て見ぬふりなどできやしないし、自分がしているのは贔屓ではなく、他の子供等にだって請われれば教えるつもりである。
 けれど、他の子等はリクオほど熱心ではない。
 時間がくるまで、うつらうつらと居眠りしている者もあれば、友達とちゃんばらをして遊んでいる者もある。
 教えてほしいと言う者に教えて、教えてほしくないから解放してくれという者を約束の時間通りに解放しているのに、どうして文句を言われねばならないのか。

 正論だった。
 そのために、雅次は両親親族一同に、頭ごなしに怒鳴られて叱られた。
 ともかく《あれ》には近づいてはならないと、雅次がそのように考えてしまうのは、妖の血を引くあの男児に、魅了されているからに他ならないのだと、あの男児は幼いながらそのように、妖力を操って人に取り入ろうとしているのだと。

 温厚で真面目で物静かだった雅次は。
 およそ親に反抗したことのない、正義感と責任感あふれる陰陽師の卵は。
 自分の心の奥で、ぷちりと何かが切れる音がしたのを、雅次はたしかに聞いた。

 両親や親戚一同の声など、聞きたくない。
 妖力を使って自分を籠絡しようとしたかもしれない子供となど、もう会いたくもない。

 自分の部屋に閉じこもった雅次は、福寿流の歴史の中でも類を見ないほどの強度を誇る結界を張った。
 黄金色に輝く透明な壁が視認できるほどの、迂闊に触れれば人の指でもばちりと弾く、強力無比の金屏風結界誕生の瞬間だった。

 自分の部屋に閉じこもった雅次は、その中でさらに布団にくるまり外の世界を完全に遮断した。
 何もかもを追い出して、飲まず食わずでひたすら眠った。
 朝も昼も夜もわからず、その間、外で誰かが怒鳴っていたような気もしたが、金屏風結界は人の声すら遠ざけたので、その中にいれば雅次はいくらか心を落ち着けることができた。

 ところがある日、ほんの小さなな囁き声が、するりと雅次の耳に入ってきた。
 部屋の外で親族一同ががなり声をあげても、部屋の中には届かなかったのに、一体誰だろうと不思議に思って聞いていると、リクオだった。
 これもまた妖術か、絶対に戸など開けないぞと思いながら息を潜める雅次だったが、リクオの声は不思議と、それほど嫌な気持ちにさせない。
 自分に構ったせいでこんな風になって申し訳ない、もう近づかないようにするからと、小さな声で謝る方こそ胸に痛く、雅次はとっさに戸を開けていた。開けてから、古来から甘言で人間を籠絡する魑魅魍魎の多いことを思い出したが、それでも構わないような気がした。
 甘言で人間を籠絡するたぐいの魑魅魍魎は、ただ顔と顔を合わせたときに、目の前の子供のように、ただ嬉しそうに笑うとは思えなかった。

 気がつけば三日三晩が経っていた。
 部屋から出てきた雅次に両親は嬉しがり、いつの間にか屋敷に忍び入っていたリクオには気味悪がったが、雅次は、もう迷わなかった。
 彼は大人たちが、子供に求めるほどには、正義や責任を必ずしも行っていないと気づいてしまったのだ。
 かと言って、それを責めるわけでもなく、ただ一人自分に会いに来たリクオをかばって、こう言った。

 可愛いものを可愛いと感じて何が悪い。
 可愛いものに贔屓して何が悪い。
 魅了された馬鹿者と思ってくれて結構だ、俺はアンタ等のような利口者にはなりたくない。

 目下の悩みとして、羽衣狐の復活が近いということ、京都螺旋の封印の力が弱まっているという悩みがあったため、福寿流の当主とその妻は、それまで出来のよかった息子の突然の謀反を、ひとまず、無かったことにした。
 息子が物静かで温厚で、優秀な結界師であることに変わりはなかったからだ。
 ただ単に、誰彼とはつき合ってよいが誰彼は避けなさいという、政治的な部分において、良い傀儡とは言えなくなっただけで。
 それまでは家や年長者をきっちり重んじていた雅次だが、大人が絶対的な倫理を持ち合わせていないと知ったときの彼の対応は、すこぶる、それこそ大人だった。

 反抗と言うより、受容だった。
 大人だって神様じゃないんだ、そういうことだってあるだろう。
 しかし、だったら、それに従うかどうかは己で決める。
 そういう風に、やや個人主義になったのである。

 個人主義の極みとして、その頃から己が「可愛い」もの好きであると自覚し、可愛いものを前にしたときのあの、心の底からわき起こる歓喜のようなものを「萌え」と称するようになるのだが、とにかく花開院雅次は、反抗期をすっ飛ばして大人より老成してしまった。
 文句を言わせる隙を与えるほど、雅次は無能ではなかった。陰陽師の修行や仕事はそれまで通り、きっちりこなして今に至る。

 めでたく羽衣狐を倒し、京都に新たな螺旋の封印を敷いた後、今はここ最近の多忙のあまりに手を出していなかったゲームとDVDを積み上げ、久しくログインしてなかったオンゲーのバージョンアップが済むまでの間にこれを消化し、飽きたところで音楽用ハードで作曲にいそしむという、ささやかながら確かな幸せである、引きこもりライフを満喫していた。
 もちろん、福寿流の両親や親戚が許すはずはないが、彼には金屏風結界がある。己の居住スペースを囲むように結界を張ってしまえば、外の声などまるで聞こえないし、誰も彼の邪魔はできない。
 あの時リクオの声が届いたのは、あれが修行前の、無自覚なものながら、真言であったからだ。
 真心からの声なので、雅次の耳ではなく、心に届いた。
 今の雅次には、それがわかる。
 あの心優しく声の小さな末弟と、声だけは大きな己の両親親族一同と、どちらが正しい道を説いているか、わかる。
 必ずしも、声の大きさが正しくないのだと、嫌というほど、わかっている。

 リクオが東京へ行ってしまってから、雅次の実家はややあわただしく、それが次代の当主選びにまつわるものだと耳に入った雅次は、ここしばらく、両親や親戚との行き来を絶っていた。
 引きこもりと言えど、全く外に出ないわけではない。
 陰陽師の仕事もしている。
 年少の子供等に結界術を教える役目も相変わらず負っているが、ゆらやリクオほど萌えを感じる上玉というのはなかなか居ない。
 任されている螺旋の封印の三、鹿金寺への見回りも欠かさない。
 夜更けまでパソコンに向かい合ってボカロに新曲の調教をしていたり、オンゲーで寝落ちの常習者だったり、どこぞで薄っぺらい本やインディーズCDを売るイベントにきっちりカートをからから引いて参加していたりと、彼なりに青春を満喫してもいた。
 やがて夏休みに入り、次期当主候補にゆらとリクオが選ばれたと聞いたときには、何より竜二の奮闘に度肝を抜いたが、この人選には素直に喜んだ。
 これで、リクオへの風当たりも少しは弱くなるだろう。
 思っていたが、誤りだった。
 花開院の血筋に無いものを当主に据えるなど、まして同じ螺旋の封印に入閣しているとは言え、一から七までの鎮護をないがしろにしてわざわざ最下位の陰陽師を選ぶなど、と、雅次の親戚一同がまず怒った。
 雅次はこれにため息一つついただけで、彼等が集う食卓では以降、沈黙を通し、その後また閉じこもった。
 親戚が怒るのは、「当主の親戚」という特権を、このままでは得られなくなることを危惧しているだけで、本当に雅次がないがしろにされていることを怒ったり、家のためを思って言っているわけではないと、知っていたからだ。
 雅次はこういうことも、わきまえていた。
 親戚一同は、雅次より年長だ。
 雅次の両親よりも年かさの者もあり、雅次が何か正論を言ったとして、海千山千で言い負かされるに決まっている。
 が、雅次の方が若い。
 きっとそんなに、長くも生きるまい。
 彼等がそう遠くない天寿を全うするまで、沈黙が金。
 などと、やや物騒なことまで考えながら、貝のように閉じこもっていた。

 同じ屋根の下にいながら、家庭内独り暮らし中の花開院雅次は、この当主選騒ぎの中でも、同じように貝のように黙って、竜二の思惑通りに事が運ぶのを待つつもりだった。

 けれども、閉じこもった上でこそだから、あちらの怒鳴り声がこちらに聞こえないように、こちらのため息があちらに聞こえないと知っているからこそ、己の家族親族一同が、あの優しい伏目鎮護の弟分に、また風あたりを強くするのだろうなあと思うと、言わずにはおれなかった。

 ここまで来てもがめつい両親家族親戚一同を思い描き、万年床に突っ伏して、



「…………嗚呼、このまま、チーズ蒸しパンになりたい」



 と、ずれた眼鏡もそのままに、鼻くそをほじりながら、言わずにはおれなかった。

 その時だ。
 何者にも破られぬはずの、堅牢を誇る金屏風結界の中へ、壁にドリル穴を開けるような、すさまじい音が響いたのは。

「な、なんや?!」

 こんな事はいまだかつてなかった。
 何人たりとも、雅次の結界を力づくで破ろうとするものなど、なかったのだ。
 それこそ、あの千年の大妖たちならばいざ知らず、たかが百年たらずしか生きない人間に、破れるはずがないのだ。

 それが。



 ドガガガガガッ、ガガガガッ、ガガーーーーッッッ!



 コンクリートの壁をドリルで掘り起こすような、すさまじさ。
 まさかまたもどこぞの大妖の仕業か、いやしかしそんな気配は微塵も………と、パソコンもゲームもそのままに、札を身構えていた雅次の前へ。



 ビシ。バキ。ボコッ。



「雅次!腐っている場合ではないぞ!」



 一部分だけ、金屏風に亀裂が入ったかと思えば、その先にあった横開きの襖をずぼりと貫いた槍があった。
 その槍は、幾本もの腕が絡み合ったように蠢いており、これを鼻先に突きつけられながらも、槍の主に心当たりのあった雅次は、己の金屏風が破られたことへの感心以上にはあわてず騒がず。

「なんや、秋房。えらい盛大なお迎えやなぁ」
「お前が携帯の電源も切っているからだろうが!」
「え?ほんま?あらやだ、圏外なってる。すげー。俺の金屏風すげー」
「自分のポテンシャルぐらい理解しておけ!」
「まあまあ。お前、妖化すると気ィ短くていけへんわ。明王はんを見習えや」
「そのリクオに危機だ!奴等め、私たちが大人しくしていると思ってつけあがりおって。リクオを相剋寺に呼び出し、さらなる封じの相談をしているそうだ!聞いた話では、肉を抉って骨に直接刻むとか ――― 」
「はぁ?なんやそれ。当主候補様を顎で呼び出す傍若無人がどこに………あぁ、破戸ママか?」
「貴様の御母堂も参加していると聞く」
「ははあ。となると、秋房ママもか。どこも女が強いなァ、花開院PTAは」
「感心してる場合か!さっさとその気の抜けたジャージから着替えて外に出ろ!乗り込むぞ!」
「おーけー。付き合うたるー」

 反抗期をすっとばして老成した雅次だが、雅次は老成しているだけで老人ではない。

 花開院雅次、迷える子羊、二匹目。
 閉じこもることでしか得られなかったモラトリアムの殻を破り、今、遅ればせながら反抗期に足を突っ込んだ。



+++



 迷える子羊、三匹目。
 その名は、花開院破戸。

 螺旋の封印の二、相剋寺の鎮護を任せられた、封印の陰陽師最年少の陰陽師だ。
 秋房を筆頭として、螺旋の封印において次席に座っているのは、先祖代々、彼の出自である愛華流が相剋時の封印を守ってきた歴史が関わっている。
 彼自身の才能だけで、与えられた任ではない。
 けれども、彼自身に才能がないはずもない。
 いかに四百年の平和の上に胡座をかいていたとは言え、花開院が才の無いものを封印鎮護につけるはずがない。

 彼の不運は、彼自身が己の才を信じるより先に、彼の母親の方こそが息子の才に狂喜乱舞し、乳母日傘で彼を育て、息子の邪魔になりそうなもので権力でどうにかなるものは、敵になる前に取り除いてきたことだ。
 おかげで、彼は自分で好敵手と思う相手と対峙したこともなければ、同じ年頃の友人と喧嘩をしたこともない。
 喧嘩になれば、破戸は少しやりすぎてしまうからだ。
 相手が同じ陰陽師で同じ術を使い合ったとしても、破戸にはほんのちょっと押しただけのつもりの力加減が、相手にとっては致命傷であったりするものだから。

 そのため術を見せ合ったこともなければ、なまじ流派の嫡男として生まれたために、同じ年頃の子供たちが集まる場所で、年長の子供に術を教わったこともない。
 教わる相手は、いつも高名な陰陽師で、それも必ず母の前でのこと。
 誉められたところで、母への追従なのか本気なのか、計れたものではない。
 ここで無邪気に喜べるくらいでいられたなら幸せだったろうが、破戸にとっての災難は、直接比べる相手として側にはいなくても、同じ螺旋の封印に入閣していれば自ずと耳に入る噂があったことだ。

 花霞リクオ。
 破戸にとってはよく耳にする名前だった。
 破戸が螺旋の封印に入閣する前の、最年少鎮護だったという、ただそれだけではない。

 魑魅魍魎の主の血を引く者。

 花開院の《花》の一文字を賜り己の姓とするほどに、花開院二十七代目当主の覚えめでたく、従える陰陽師がいない分は、本家からの好意で吉日厄日に陰陽師を貸し与えられている他、普段の守護には護法と呼ばれる、妖たちを従えているのだとか。
 螺旋の封印の八。その数字だけを見ればただの末席。
 才でも血筋でも、破戸に比べるほどもないと、破戸の母親は当初歯牙にもかけなかったが、破戸にはそうは思えなかった。
 螺旋の封印において末席というのは、一番早くに妖たちに狙われる的、ということだ。
 二百年前であれば危険を考えるだけ笑い者だったろうが、今は違う。
 破戸が物心ついたときには既に、封印の力は弱まっており、羽衣狐の復活を祝う前触れのつもりか、大妖の類がたびたび現れて、伏目を襲うようになっていた。
 それを伏目の結界の中に誘い込み、どういった方法でか確実に討つリクオの力に、破戸は底知れぬ何かを感じ、もしかすると、あれは母が言うように才も血筋も無いのではない、とても強いものなのではないかと思い当たり ――― ほくそ笑んだ。

 破戸は敵を求めていた。
 誉めてくれるだけの母ではない、簡単に彼の創造式神に虐げられる弱者でもない、彼の全力を受け止めて尚立ち上がってくれるような、彼を心底満足させてくれる敵を。
 羽衣狐が復活すると聞いても恐ろしくなかったのは、千年を生きる大妖ならば、彼に手加減などしないだろうし、逆に彼が全力を出しても潰されないだろう、楽しみなことだと、幼いゆえに残虐な闘争心に、火がついていたためだ。

 この火は、母や家という垣根に守られて、大切に育てられ、小さな破戸の体に不似合いなほど、大きな業火に育ってしまっていた。
 本当の意味で他者と比べる機会を失ってしまったがために、誰かと比べたくてたまらず、なまじ才があったために、気がついたときには大抵の陰陽師は叶わなくなっていて、大人は彼の全力を推し量る前に、彼に手加減を教えなければならなかった。
 自分の全力がどれだけ相手にとって致命的なものであるのかと知らない破戸は、いつからか、ただ押さえつけられている鬱積だけを感じていたのだ。

 リクオを狙うのは、簡単だった。
 彼が京都近郊のあちこちに現れる大妖の巣へ、ただ一人向かわされる任につくのは、よくあることだったので。

 破戸がリクオに対して、無邪気で悪質な興味を持ち始めた矢先、京都町外れの宿の裏、獣道を奥へ入った森の奥に、大妖が出ると噂がたった。
 案の定、リクオに討伐の任が下ったが、人間が何人も殺されているというのに、肝心の大妖の姿は、見た者がない。

 こういう場合、本当に大妖の仕業であるのかどうか、まずは見定めるのが定石であるので、リクオも作法通り、隠形して周囲を探ることにした。
 破戸も隠形して、これを追い、ずいぶんと山奥で、熊の巣か何かだろうか、浅い洞穴から手ぶらでリクオが出てきたところを、襲った。

 たいした供も連れていないらしいのを、知った上での一騎打ち。
 破戸にとっては、ほんのじゃれ合いを挑んだつもりだったが、その頃の破戸にとっては、じゃれ合いの結果、相手がちょっぴり深手を負ったとしても、心を痛めるほどのものではなかった。
 相手の油断や努力不足が怪我を招くのであって、自分のせいではない。自分はただ楽しく遊びたいだけなのだから。
 ――― いつしか、そう考えるようになっていたのだ。

 破戸が作り上げた巨大な式神は、山を削り木を薙ぎ倒し、そしてリクオは人間の身でこれを避けたので、破戸はリクオを追っているときよりももっと楽しくなって、次々と技を繰り出し術をかけ、一方的な鬼ごっこを楽しんだ。
 何事か、リクオが制止の声をかけてきたように思えたが、楽しさのあまりに興奮して、何も聞こえなかった。
 狂ったように笑いながら、逃げるリクオを破戸が追う。
 山一つを縦横無尽に走り回り、いつしか日が傾いて、辺りが夕暮れの橙色に染まったとき、ついに破戸はリクオを崖まで追いつめた。

 この頃には、破戸はリクオが術も式も使わずに、ただ逃げ回るばかりなのを不満に思っていたので、唇を尖らせて、このままじゃつまらないとリクオを責めた。
 本気になって術を見せてみろ、本気で相手をしてみろ、いっそ自分を負かすつもりで挑んでみろ、そうじゃなければ、誰も見ていないのだから、自分はこのままリクオを殺してしまうかもしれないよと、脅しまでした。

 リクオは首を横に振った。
 人間を相手にして、それも同じ螺旋の封印に縁を結ぶ弟にあたる人に対して、結ぶ印など教わっていないと、まるで教科書通りの答えに反吐が出た。
 じゃあ殺すねと一言前置きして、破戸の意志を汲んだ巨大式神が、両手で蝶をたたき潰すように掴み。

 獲った。

 思われたが、ならなかった。
 巨大式神が握ったはずの金色の蝶は、手を開いてみれば腕一本そこに残っておらず、拍子抜けした破戸のすぐ後ろに、今度は銀色の影が現れた。
 花霞リクオの、もう一つの姿。
 夢幻を司る大妖ぬらりひょんの姿を目にして、破戸ははしゃいだ。
 珍しい鳥を捕まえようとする子供、そのものだった。
 今度こそ捕まえようとするが、破戸がさらに式神を大きくしても、どんなに早く式神が手をくりだしても、銀の影となったリクオは、存在自体が蜃気楼であるかのように、今手の中にいたと思われても次にはそこから消えている。

 破戸は夢中になって、追った。
 何事か、リクオが己を止めようと語りかけてきたが、かまいやしなかった。
 初めて、己が本気を出して遊んでも、壊れない相手が目の前に現れた歓びで、周囲など見えなかった。

 そのうち、とっぷりと日が暮れた。
 辺りに漂い始めた冷気にすら、破戸は気がつかないほど、追いかけっこに夢中だった。

 するとどうだ、駆けていた破戸は何かに足を取られ、その場で転んだ。
 何だと振り返って足を見て、破戸は首を傾げた。
 破戸の足首を掴む、腕がある。

 最初は一本。だがしかし、次には木陰から、くぼみだと思われていた影から、ゆらゆらと立ち上る白い煙が、いや腕が、うわりと立ち上り、破戸がこれを妖と認めるより先に、山肌から立ち上った無数の腕が、純粋な狂気の矛先を、破戸に向けていた。

 破戸は避けられなかった。悲鳴すらあげられなかった。
 我に返るより先に、幼い破戸の意志は残虐な遊技に夢中で、さらに災難なことには、幼いがために、同時に、なまじ家の後ろ盾が強かったために、まだ戦場を知らなかった。

 身を守ろうと考えるよりも身がすくみ、方陣で己を守ろうとするよりも、すくんだ指は式神をそのまま疾らせるを選び、結果、式神はそれまで追っていたものをさらに激しく追い立て鷲掴み、無数の腕は身を守る術を持たない破戸を、いっせいに貫いた、そのはずだった。

 ところが、どんなに待っても、身を貫く衝撃が無い。
 破戸がおそるおそる、瞑っていた目を開くと、そこでは、破戸の巨大式神が、大きな両手の中に、ついに銀の鳥をとらえていた。
 手加減を忘れ、思い切り結んだ指の間に、リクオの足ががっちりと挟まれていたのだ。

 先刻までのように霞に消えてしまえば避けられたものを、リクオが何故それをしなかったのか。
 破戸にもわかった。
 破戸を守るために、破戸に背を向けて、そこから避けるわけにはいかなかったのだ。

 指に挟まれあらぬ方向へひしゃげた足はそのままに、リクオは一斉に襲いかかってきた白い腕にこそ、立ち向かい術式を広げていた。
 独鈷杵の杖で陣を描き、防ぎきれぬ分は、がっちりと己の身に白い腕を矢のように食い込ませながら、破戸を庇っていた。

 白い腕は怨念だった。
 一本ずつはとるに足らないものであっても、幾年も幾人も念が降りつもれば、山肌を覆うほどのものとなる。
 大妖ではないのが幸いであったが、大妖かもしれないと囁かれるほどに寄り集まった、怨念の群れだ。

 リクオがぼたぼたと血を流すと、群がるようにさらに腕が伸びて、隙あらば肉を引き裂こう目玉を抉ろうとする。
 ここで、リクオが誰かの名を喚ぶと、懐から飛び出たのは闇夜に明るい閻羅童子だ。
 くるりと一つ空で回転するや、姿は小さな火の玉から、紅の胴着に身を包んだ青年に姿が変わり、ふうと一つ息を吐いて、リクオに張り付いていた腕をことごとく灰に変えた。
 破戸の足に食らいついていた腕も、熱気を浴びただけでぼろりと灰に変わって風に消え、続いてこの風が最初はそよと吹いただけだったのが、やがて轟々と巻いて吹き上がり、暴れ狂う風に乗って、灰は真っ黒な竜巻となった。
 破戸が必死に側の木にしがみついて見ている前で、リクオはなにかしら真言を紡ぎ、刹那、真っ暗闇の空が四角く象られた。これは扉であった。こちら側には取っ手のない、真っ黒な扉だ。あちら側から何者かが引くのだろうか、京の空を覆うほどの巨大な扉がギギイと重々しく開くと、ほんの隙間から大きな鬼の手がぬっと伸びてきて、黒い竜巻をほんの小蛇のようにむんずと掴み、あちら側へ引っ張り込んでしまった。
 また、ギギイと音をたてて扉が締まり ――― 扉は消え、風は、止んだ。
 辺りは、静まり返った。

 破戸にとっては予期せぬ初陣となった。
 それも、何が起こったのかわからぬままに、全てが終わっていた初陣だった。

 いつ帰還の印を切ったかも覚えていないが、破戸の式神もいつの間にか消えており、呆然としたままの破戸に足を引きずりながら寄ってきて、リクオは彼の足の傷の具合を見て、応急処置をし、他に痛いところはないか、さぞ怖かったことだろうと慰めるような言葉までかけた。
 己の方が、手足がちぎれそうなほどの大怪我をしているに関わらず、である。

 破戸が呆然としたまま、それでも身の無事を知らせると、そこでようやく、頬を打たれた。
 これは当然だと思った。
 破戸だって、喧嘩を売ってただで済むとは思っていない。
 リクオの仕事中を狙ったのだから、それを邪魔した叱責が下るのだろうと思っていた。
 違った。
 リクオが叱ったのは、破戸がリクオに式神をしかけたことでも、仕事を邪魔したことでもなかった。
 破戸が一人でこんな山奥までやってきたことだった。

 妖怪だけが相手ではない、人里離れたところをうろついている人間も、この世の中にはまだいるのだと。えてしてそういう人間は、昔と変わらず、山賊まがいの生活をしており、小さな子供とみれば襲いかかって、売り払ってしまうのだぞと。
 後ろから襲いかかられてしまえば、破戸にだって反撃は難しかろう。陰陽師でも、破戸はまだ子供なのだから、一人でこんな山奥に入ってきてはならない、少なくとも、一人は供をつけるべきだ、と。

 なるほど、言われてみればもっともなのだが、当たり前過ぎて、破戸は拍子抜けした。
 もっと恨み言を聞かせられ、所行を責められるかと思っていた。
 それがなくて幸いだった ――― そうは思えなかった。

 叱られなくてよかった、幸運だった、リクオは馬鹿な奴だ、などと、普段の破戸なら思ったろうが、この時はそうは思えず、逆に胸の内に何か飲み下せないものが生まれて、己の行いをなかったことにはできなかった。
 取り返しのつかないことをしてしまったのではないか、そんな不安が膨らむばかりで、しかもこの不安は、リクオが破戸を送り届けた先、破戸の足の怪我に半狂乱になった破戸の母が一人歩きの理由を問いもせず、リクオの不甲斐なさを責め、妖姿のまま愛華流の門前を穢したをなじり、石を投げて追い返してしまうと、いおいよ大きくなった。

 しかも、母が破戸に叱ったのは、あくまで花霞リクオに近づいたことで、一人歩きをしたことでも、術を私闘に使ったことでもなかった。
 一人歩きの理由など、尋ねられもしなかった。
 それまで、破戸が家にいなかったことすら、気づいていなかった有様である。

 その夜、破戸は眠れなかった。
 翌朝になって、学校へ行くと偽り、破戸は伏目に向かった。
 大怪我をしたリクオの姿が、一晩中、頭から離れなかった。
 行って何をする、何を言うとも決めてはいなかったが、無事なのかどうかを確かめたい気持ちはあった。

 伏目屋敷の門は、閉ざされていた。
 しかし、奥の屋敷からはなにやら気配がするので、裏にまわってみると、勝手口から付喪神や小さな獣妖怪たちが忙しそうに出入りしているではないか。
 伏目鎮護は流派を持たず、そのために封印を預かる花霞リクオ本人が、自ら細々とした祭事を執り行い、数が必要なときには護法を引き連れてなすと話には聞いていたから、これ等がそうかと合点したものの、初めてみる彼等が想像していたより可愛らしく、前掛けやエプロンをつけたり、割烹着を着たりしてせっせと働いているのが珍しくて、破戸はしばらくそれに見入ってしまった。

 彼等は薬や包帯、食べ物などを手にして、それを山奥へ運んでいるようである。
 なんだろうと思ってついて行くと、山の中腹で、小物たちからこれ等を受け取る者があった。
 還暦ほどの男である。そう見えた彼もまた妖であるのを、それも並大抵の妖ではない、さぞかし名のある大妖であろうことを、破戸の勘が告げた。
 それでも、男からは乱暴な気配は感じられなかったし、むしろ帯に水晶の数珠を挟めているところなどは、奇妙ながら山に詣でる信心深い人のようでもある。
 妖気を感じるには感じるが、嫌な気持ちがしないので、破戸は気配を殺して彼を追った。

 むしろ、破戸が恐れおののいたのは、男が行く先、雨など久しく降っていないのにぬかるんだ土へと歩く地面が変わったあたりから、その先から漂って来る冷え冷えとした空気にこそだ。
 土を濡らしているのはただの水なのだろうか、では履物がどこか赤く汚れるのは何故だろう。
 かさりと鳴ったのは木の葉だろうか、ではどうして乾いているはずのそれが、べったりと木々に張り付いて、離れないのだろう。無数の木の葉が木の肌に張り付いて、蠢く耳のようで気味が悪い。

 やはり帰ろうか、そう思ったところで、目的地についた。
 あったのは、小さな御堂だった。
 前を行く男は、その扉の前にたどり着くと、中へこう声をかけた。

 どうやらお前に客だぞ、どうする、リクオ、と。

 破戸のように幼い陰陽師の、それも攻撃のみに特化した者の拙い隠形など、鬼童丸に通じるはずがなかった。
 破戸は鬼童丸とともに中へ招かれた。
 朝だと言うのに、この辺り一帯は薄暗く、多くの彷徨える魂の気配を感じる。
 中はさらに暗いが、正面には大日如来の絵姿がかけられ、香が焚かれていた。
 その前に座るリクオは、ちょうど読経を終えたところらしく、祭壇に一礼したところで、こちらに向き直る。

 扉を閉められると、頼りは蝋燭の明かりのみとなり、破戸には薄暗く感じられたが、リクオと鬼童丸には充分な光源らしい。
 リクオは破戸の顔に張り付く不安の影を読みとったようで、こんなところまでお越しとは、どうなさいましたか、相剋寺殿、と優しく声をかけてきた。母がキンキンした声で話すので、人間とはああいう話し方しかできないものだと思い、あまり他人の声に耳を傾けてこなかった破戸だけれど、リクオの声は不思議と耳に滑り込んできた。
 己と年も近いはずなのに、相応の幼さはあるものの、柔らかな、優しい声だった。
 多分、彼を追いまわした山の中で、何度も聞いたに違いないのに、破戸は聞き逃していた声だった。

 本当なら屋敷でお迎えせねばならないのに、このようなところで申し訳ない。
 リクオはそう前置きして、この場所は忌み深い場所でえあり、そのため毎朝ここで祓いを行っていることを自ら話した上で、勤めが終われば学校へも行くから、あまり長くは話ができないだろうことを、恐縮した様子で詫びた。
 破戸は、釈然としなかった。目の前のリクオはまだあちこち怪我をしており、包帯には血が滲んでいる。破戸の足は、包帯はしているものの、穢れで少し焼けただけだ。
 胸のわだかまりが、どんどん大きくなっていくようだった。

 自分が怪我をさせたのに、自分も陰陽師なのに、戦場にあって怪我をしたのに、それで謝られる必要などない。
 言い返すと、リクオは、しかしあの場は己に任された場所であり、そこで何が起ころうと、自分には破戸を守る義務があったと応える。

 ここで、わだかまりは爆発した。
 怒りになった。
 自分は陰陽師で、それも二つ目の封印を任されるほどに強くて、それなのに、リクオが自分を守ろうだなんておこがましい。自分の式神を相手に逃げるしかできなかったくせに、よくもそんなことが言えたものだ、お前のせいで怪我をしたと考えているだろうに、良い子ぶりやがってと、癇癪を起こしかけたが。

 そう考える人も守るのが、ボクの役目だから。

 揺らがない答えを前にして、破戸の方こそ、たじろいだ。

 リクオはさらに、昨日の勝負の話なら、もうよろしいでしょう、相剋寺殿の勝ちなのだからと、笑って言う。
 結果は出ているでしょう、それでいいじゃないか、何をそんなに苛立っておられるのかと、負けを認めていながら、全く口惜しそうでない。
 泰然と構えたような声に、破戸の方こそ、負かされたような気持ちになった。
 必死に食い下がり、今度はどこか正式な場所で式神勝負をせよと持ちかけても、自分には小言を言いながら翼を貸してくれるヤタガラスしかいないからと笑い、では他の術でと頼んでも、ぬらりくらりと答えをはぐらかされる。

 ついに破戸が泣きべそをかきながら、じゃあ一体どういう方法でなら勝負に応じてくれるのかと問うと、リクオは大人びた溜息を一つつき、その後、今までになく強い口調で、答えがあった。

 では、己が大事だと思うひと、その数で、と。

 どんな勝負でも構いやしない、きっと勝ってみせると意気込んでいた破戸は、この答えに言葉をつまらせ、しかし自分で言い出したことであるだけに、そんな勝負は受けないともいえず、リクオとは年も近かったので、屋敷にいる大人相手のように、そんなのズルいから別の方法で勝負だなんて、駄々を捏ねるのもはばかられた。

 自分が大切だと思うひとの数など、適当に多く答えて価値を得れば済むだろうかともちらと考えたが、リクオならきっと、ではそれはどういうひとなのと尋ねてくるだろう。
 逆の立場であるなら、きっと事細かに、どこで出会ってどういう風に縁を紡いだのか、話しだすに違いない。
 その日は、次にリクオが相剋寺を訪れるまで、勝負はお預けとなった。

 リクオが愛華流を訪れるなど、年に数度程度だから、その間に何か対策を考えようと問題を先送りした破戸だったが、こういった約束の刻限というものはすぐにやってくるもので、破戸がどうしたものか途方に暮れているうちに、年は改まり、リクオが年始の挨拶にやってきた。
 伏目での出来事から、実に数ヶ月後のことである。

 破戸の母は、数日前にお願いした、年が明けたら犬を飼いたいという話を、年の瀬の忙しさにかまけてすっかり忘れてしまったようだった。
 ためしに、初めてお願いするように、ママ、僕、犬が欲しいんだけど、と、言ってみると、わかったわパトちゃん、と甘い返事と一緒に、お年玉を押し付けられた。

 ところが、リクオは数ヶ月前のことをちゃんと憶えていた。
 彼もまた封印を一つ預かる身で、母と同じように多忙であるだろうに、年始の挨拶を終えて破戸の両親が去った後、まるでつい一時間前に別れたばかりのように、それじゃあ勝負の経過の方を、お互い報告しましょうか、ときたのだ。

 勝ち負けを判ずるより前に、破戸は大変に惨めな気持ちだった。
 数を数える以前に、どういう人が自分にとっての大事なひとなのか、わからなかったのだ。
 もちろん、お母さん、お父さん、と、真っ先に考えはしたが、それだって義理が先立ってのこと。
 どんな風に大事かと言われると、答えられない。

 では他に誰かいるかと周囲を見回してみると、学校の友達、家の世話役、そういう知人は思い浮かんでも、ではそれが本当に大事か、どんな風に大事なのだと考えると答えられない。
 これまで、術の強さや才能の有無だけで事の是非を決めてきた破戸にとっては、初めての難問だった。
 母は決して出題しない類の問題だった。
 破戸は答えられず、代わりに、どういうのが大事なのかわからない、そう答えた。

 家にとっての大事と違うなら、これまで家の大事こそ己の大事と考えるよう教えられてきた破戸には、わからない。
 リクオに出題されてから、色々考えたことなども、破戸はリクオに全て話した。

 後々考えてみれば、年始の挨拶でのこと、リクオには他に行かねばならな場所も多くあったろうに、リクオは嫌がる様子もなく、じっくりと耳を傾けた。

 それから、彼はこう切り出したのだ。
 己の勝ちや破戸の負けを判ずるより先に、それでは、良い先生をご紹介する必要がありそうですねと、大真面目な顔で。

 お時間はまだありますかと尋ねてきた彼の方こそ、多忙を極めていただろうに、リクオは破戸を伴って愛華流の屋敷を出ると、破戸が預かる相剋寺へと向かった。
 その境内には、一匹の狐の像がある。
 羽衣狐のことがあり、花開院家では狐が敬遠されがちで、破戸の母親などは、破戸が預かったこの相剋寺の狐の像を一目見るや、縁起が悪いからいずれ廃してしまおうなどと我が物顔で呟いていたけれど、リクオはまさに破戸をその像の前に連れて行き、正面に立って恭しく一礼して、宗旦狐様、明けましておめでとうございます、僕の弟を連れて来ましたよ、と、話しかけたのだ。

 一体何が始まるのかと破戸が見守っていると、その像の後ろから、何と一匹の狐が姿を現すではないか。
 尻尾は像の通り一本。
 さらにはその狐、辺りを素早く見回すと、二人の目の前で一人の男の姿へ変じた。
 深緑の着物の上に同じ色の外套を羽織り、さらに丸めた頭にも同じ色の帽子を被った姿は、名のあるところの茶の師匠のようである。
 事実、彼はリクオの茶の湯の師であるらしく、年始の挨拶に来たリクオに鷹揚に応じ、しっかりと励むのだぞ、茶の道は人の道にも通じるものだ、などと、何とも妖らしくない理を説いたりする。

 宗旦狐。
 相剋寺に伝わる化け狐の伝承は、破戸も当然知っていたが、もう姿を現してはいないと聞いていたし、まさか封印の一つとなった相剋寺に、今もまだ棲み続けているだなどとは思わない。増して、そんな妖気があれば気づかないはずはない。
 目を白黒させている破戸の手をしっかり繋いで、リクオは目の前の男に、実はかくかくしかじかで、どうか弟に教えを説いてやってほしいと頼む。

 破戸が断るよりも前に、目の前の男の方が大きく笑い、獣の己にどうして人を教えることができようか、六道輪廻の中でも、人の方にこそ仏性が備わっていよう、道を求めようとするならば、自ずから見出すものをと言うので、破戸はかえって恥ずかしくなった。
 目の前の妖が、ずいぶんと立派なひとに見えたのだ。
 少なくとも、妖風情がまだこの寺に住み着いていたか、などと偉そうに一瞬考えた己などよりも、話の途中、寺に詣でに来た近所の檀家から、「あれ、お坊さん、この前はどうも。また囲碁を教えてくださいな」と話しかけられ愛されているらしい目の前の狐の方が、よほど、この寺に馴染んでいるようだった。

 人を良く見てくださる貴方だから頼めるのだと、リクオはさらに頼んだ。
 破戸も頭を下げた。他人に頭を下げるのは初めてのことだった。
 二人に頭を下げられて、宗旦狐はずいぶん困った様子であったが、致し方ない、自分に教えられることと言えば、茶と囲碁と近所付き合いくらいだが、それでよければ、と、応じた。

 この出会いは、破戸に大きな変化を齎した。
 まず、破戸は今まで両親に秘密というものを持たなかったが、突然にこんな大きな秘密を持ったのだ。
 悪いことをしているつもりは無かったけれど、人間は白で、妖怪は黒だと、生まれたときから教え込まれていた破戸にとっては、同じように信じているだろう両親に隠れて、妖と付き合いを持つというのは、大きな秘密。

 しかし、次第にこれに慣れて、決して他言せぬ、むしろこの宗旦狐を己が守ってやらねば、これからも匿ってやらねばと思うようになったのは、リクオに紹介された彼が、何とも愛嬌のある師匠であったからだった。
 彼は最初に言った通り、茶や囲碁に通じていて、これを寺に訪れる人へ教えたり、近所をそぞろ歩いて招かれるまま玄関先で、老人相手に囲碁を打ったり、人々の困りごとに耳を傾けたりしており、破戸は一日に一度彼の元を訪れて、それに付き合うぐらいのものだったのだが、そうしているうちに、家とは何の関わりも無い人たちと、関わりができてくる。
 破戸を、愛華流の跡継ぎでも、螺旋の封印に入閣した天才でもなく、ただ一人の子供として扱う大人たちに囲まれて、あれこれ話しているうちに、世間一般の常識というのはこういうものかと、わかってもくる。やがて、学校は別だけれど、宗旦狐が出入りする家の子供たちとも遊ぶことが多くなって、破戸は初めて友達と遊んで楽しい、という気持ちを知った。
 陰陽師であることを知られず、ただ単に遊興するというのは、本当に開放的なことだった。

 破戸が教わったのは、それだけではない。
 ある日、宗旦狐の元へ訪れようといつもの道を歩いていると、知り合いのご近所さんに声をかけられ、挨拶の後、ところで、坊ちゃんは、彼の、ええと ――― と、ご近所さんは端切れの悪い物言いをする。
 首を傾げていると、耳元に囁くように、「坊ちゃんも、油揚げが好きなタイプのおひとなのかい?」と尋ねてくるのだ。
 破戸が目を瞬かせているうち、ご近所さんは、いやいやわからないならいいんだと、慌てて去って言ったが、これで破戸の方こそ、わかってしまった。

 この辺りのご近所さんは、宗旦狐の正体を知っていて、尚、大事にしているのだと。
 宗旦狐の方も、彼等を大事に思ってこの辺りを見回り、羽衣狐の権力を嵩に来て悪さをする妖があれば、すぐに伏目まで走って明王に助けを求め、そうすることで、ご近所さんを守っているのだと。
 お互いがお互いに大事で、だから守ろうとする心こそが、宗旦狐が封印の一つにあっても尚、陰陽師に見つからずに済んだ理由なのだろう。
 人々の心が、見つからないでおくれと願う心が、神仏に安らかに届いて、狐を一匹、匿っているのだ。

 どういうのを、大事なひとと呼ぶのか、失いたくないと願うのはどういうときなのか、破戸は宗旦狐の側で、よく学んだ。
 このご近所さんたちにとっては、封印の一つを担う己などより、茶を淹れ碁を打つだけのこの狐の方が、よほど頼りになって、よほど大事に思う相手に違いないとわかったときも、捻くれたりはしなかった。
 己も誰かにとってそう在りたいと、小さな願いが芽生えたとき、ふと家での己を省みて、力を誇示して相手を傷つけるような真似を一切、やめた。

 修行を怠ることはしなかったが、両親が望んでも、相手がおっかなびっくり構えているような試合では、それこそ手加減を覚えた。
 相手を怪我させずに負かすことは、力いっぱいねじ伏せるよりも難しく、技巧が必要なことだったけれど、それをすると相手は安堵したような様子をする。もちろん、手加減など無用と言う相手とも試合をしたが、これにもできるだけ加減をした。
 両親は、それまでの、有無を言わさぬ力で相手をねじ伏せる見世物がなくなって不満げだったが、破戸は構わなかった。
 それよりも、相手に、怪我はなかったかと尋ねたり、怪我をしたようだけれど見せてごらんと心を配ったりする方こそを重んじるようになったので、家に出入りする陰陽師たちは逆に破戸に感謝するようになり、少しずつ、破戸は彼等に打ち解けるようになった。

 宗旦狐の元を訪れる回数は次第に減り、破戸がそれを彼に詫びると、宗旦狐は破戸が持ってきた稲荷寿司を美味そうにほおばりながら、なんのなんのと笑って答えた。
 あの伏目明王殿がお主に教えたかったのは、つまり、そういう事であろう。
 それで、今のお主は、あの明王殿を殺すつもりで、その大きな力を使えるだろうか、と。

 破戸は身震いした。
 今の破戸には宗旦狐を滅することができなかった。
 やれと言われても、この狐を一匹抱えて逃げ出すことだろうと、そう思った。
 これが、大事なものという意味かと知って、破戸は、素直に悔いた。

 リクオにだって、きっとリクオを大切に思う者たちがあるだろう。
 その頃から、流派を問わずに心を砕く伏目鎮護は評判であったし、この宗旦狐のように、京都にはリクオを頼る妖たちも多いらしい。
 己の師である宗旦狐が、己の知らないところで、誰かに滅多打ちにされたり、無造作に体を捻りあげるような真似をしたなら、きっと許しはしないだろう。
 あの日、リクオにあんな大怪我をさせて、伏目の護法たちはきっと、身が引き裂かれるように辛かったに違いない。

 このように考えるようになってから、破戸の創造式神の術は、飛躍的な進歩を遂げた。
 ただ破壊するために生み出された、力の権化ではない、盾にもなり、剣にもなる、変幻自在の式神を使うようになった。
 それまで、破戸の虚ろな心の内を表すかのように、どろどろとした黒い塊のごとくであったのが、色は朝焼けの空を映すようになった。
 大きいだけではない、時には小さな小鳥の姿で、空高くを跳ぶのも自由自在だ。
 元々、破戸の想像力に頼るところが大きい術であるので、破戸の目が外に向けば向くほど、式神は多くの形を得て、多くの力を得た。

 その頃だ。
 遥々、大陸を挟んだ地球の裏側から、一匹のふくろうが破戸宛に、世界的に有名な魔術師学校への入学案内を届けたのは。

 こういった経緯を経て、彼もまたあの魔京抗争を行き抜いた。
 今となっては、キンキン声で怒鳴る母も、婿であるゆえに物腰弱くほとんど家に寄り付かない父も、破戸にとっては悩みの種でしかないのだが、なまじ何かを大事にする心を学んだだけに、ないがしろにもできない。
 英国留学は彼にとって、長く両親から離れられる良い機会であり、正直、関西国際空港で両親と別れたときにはほっとしたが、そこでただ安堵できないこともまた知っていたので、英国に到着した後、そろそろリクオが伏目に帰ってくる頃だろうかというときを見計らい、何度も伏目へ国際電話をかけたのだった。

 功を奏し、何度目かの電話で、伏目の主に直接話が出来た。

『入学おめでとう、破戸くん。お見送り、行けなくてごめんね』

 電話の向こうでしょぼくれた声を出すリクオに、破戸は小柄な昼の姿を思い浮かべ、笑った。

「そんなの、お相子でしょ。僕だってリクオ兄ちゃんの東京行きのお見送り、行けなかったもん。ねえ、それよりさ、もし相剋寺に行くことがあったら、茶の先生を探して欲しいんだ」
『先生を?いつもの場所に、まだ戻ってないのかい?』
「うん。相剋寺、土蜘蛛にずいぶんやられちゃったんだ。先生の像も壊されちゃって、お寺の人もご近所さんも、新しいのを建てようって言ってくれてるらしいんだけど、それよりまず、別のところにお金が必要らしくて。愛華流の陰陽師たちもたくさん出入りしてるし、きっと、怖くてどこかで震えてると思うんだよ」
『わかった。きっと探しておくよ。大丈夫さ、先生は安土桃山時代から、ずうっとあそこに居るんだから。破戸くんが冬に帰ってくるまでに、きっと』
「あ ――― 僕、冬休みは帰らないよ。ほんの数日だし、その間、寮にいさせてくれるらしいんだ。帰るのは、来年の夏になるかな」
『そっか……寂しいな。でも、楽しそうで良かった。声がずいぶん明るく聞こえるもの。友達はできそう?』
「寮に来るまでの汽車で一緒になった奴が、組分けで同じ寮になったんだ。こっちは僕の式神見せても、変な顔する人たちいないし、気楽でいいや ――― あ!おい、勝手に僕の鞄開けるなよ!ぅわあ、言わんこっちゃない! ――― ご、ごめんリクオ兄ちゃん、また電話する!」
『うん。元気でね、破戸くん』

 ルームメイトが好奇心に負けて勝手に開けた鞄から、形代が飛び出して部屋中を飛び回り、新入生たちが騒ぎ始めたところに監督生が飛び込んできてと、いつもながらの騒ぎが始まったところで、破戸は部屋に備え付けられた、古臭い電話を置いた。

 高い塔にある寮部屋の、開きっぱなしの窓から、形代と子供たちの笑い声が空へ、飛び出していく。
 あと数年もすれば、預けっぱなしのリクオとの勝負は、破戸にも勝ち目が見えてくるかもしれない。