破戸にこのように《お願い》されていたので、リクオは相剋寺への呼び出しに応じたとき、時間に余裕をもたせて、まず境内をくまなく探した。
 この点、破戸はリクオの性格を、良く知っていた。
 リクオに自分の身を守ってくれと言ったところで、てんで聞きやしないのだから、勝手に画策しておいて、あとはリクオをレールに乗せてしまえばいいのだ。

 どういう意図で破戸が電話をかけてきたのかも知らぬまま、リクオは宗旦狐を探し、あっけなく、彼は建て直された堂の縁の下で見つかった。
 リクオに見つかるまで、柔らかな尻尾を抱いてくうくうと眠りを貪っていた彼に、怖くて隠れていたのではないのか、と尋ねると、わざとらしく、そうそう、そうなのよ、などと言って、狐姿のまま、リクオの側を離れようとしない。仕方なく、リクオは彼を懐に隠したまま、定時に本堂へ向かった。もちろん宗旦狐は、破戸からしっかりと言付けられていたことがあり、それでリクオを待っていたのである。

 そもそも、これが全ての始まりだった。
 秋房が実家で謀反を起こし、雅次が金屏風からひょっこり顔を出すより前に、この呼び出しがあったのである。

 呼び出し元は、花開院家の総意であるとなっていたが、実際に本堂の中へ足を踏み入れたリクオは、これが花開院本家のものではなく、愛華流を中心にした、分家の重鎮たちによる私的な集まりであることを、即座に理解した。

 一番の上座には、螺旋の封印の一、弐條城を預かる八十流の当主が渋い顔をして座っており、リクオの姿を見つめるや、気まずそうに目を逸らしたし、そのには、愛華流の惣領娘、破戸の母がいつもながら紅い唇を気難しそうに結んで、しっかりとリクオを睨んでいた。
 他にも、封印に入閣している義兄たちの両親や、惜しくも封印入閣を逃している流派の長たちの姿もある。
 乗り気な者、そうでない者、様々な思惑が交錯しているものの、いずれにしてもこの場は、花開院家の総意ではないようだ。

 実際に螺旋の封印に入閣している義兄たちの姿も無いことから、彼等には伏しておきたいことだろうと、リクオは合点した。

「 ――― 伏目鎮護、花霞リクオ、まかりこしましてございます」

 それでも目上の方々には違いない。
 その場に膝をついて一礼すると、うんと上座から答えがあった。
 この場を仕切るのは、封印の二、相剋寺を預かる愛華流らしい。

 学校帰り、放課後の時刻である。
 寺の境内にも、側を通る子供たちの声が届き、京都の暮らしが元に戻りつつあるのを知らせていたが、彼女の合図で、控えていた陰陽師がリクオと彼等の間に出してきた箱は、戻ってきた平和とは裏腹、剣呑なものであった。

 白い布をかけられていた桐の箱は、厳重に封じられていたが、これが開くと、中には無数の毒虫が蠢いている。

 流石にリクオも身を引いて、

「これは、一体 ――― 」

 薄々、答えを察しながら問う。
 答えは、すぐにあった。

「蟲です。蟲毒の術式に使う虫どもです」
「その、ええと、これを、何に使われるのです?」
「お前の身の妖気、羽衣狐たちとの戦いの後、さらに強くなっていますね。妖気が目に見えるほどではありませんか。瘴気に変化したならと思うと、気が気ではありませんよ」
「申し訳ありません。なるべく皆様には障りないよう、充分に気をつけているつもりです。幸い、ボクの妖気は瘴気とは違います。潔斎は常に欠かしておりませんから、夜姿に変じて妖気を放ったとしても、皆さんに悪いものとはなりません、どうかご安心ください」
「安心などできるものですか!今は良くとも、これからさらに強くなったらと思うと。お前はこれから当主候補となるのですよ。伏目のような田舎ならともかく、本家のように京の中で多くの人に囲まれる生活となったとき、何かの拍子に、明王たる資格を失い、ただの妖へ堕ちたとしたら、その妖気は袖を振るだけで多くの人間を屠ることになるでしょう。羽衣狐のようにならないと、どうして言えるのです」
「 ――― なりません、決して。ボクがボク自身を、そのように定めているからです」
「今はそうでも、これから先のことなど、どうなることか。私たちは案じているのですよ、伏目殿」
「いつもながら、ご厚情には感謝いたします。ですが、ボクは、なりません。いついかなるときでも、伏目鎮護として、あの土地を、そして京都を守ることを考えております。命果てるときには、前々から申し上げております通り、自らあの土地の封印となって、とこしえに螺旋の封印の一つを守護することを誓います。それは、ボクの身の力がどれほど大きくなったとしても、変わらぬことです」
「いいや、力は人を変えるのですよ、伏目殿。まず、周囲の人間たちがお前をおそろしいと思い始める。正直、私たちは今のお前がおそろしい。東京で、多くの虫たちを祓ったと聞いた。昼の如来姿で、街一つを覆うかと言うような、黒雲のごとき虫どもを、祓ったと聞く。違いありませんか」
「はい」
「その想念の虫どもは、聞くものの母の声色を使って語りかけてくるとも聞いた。しかし、お前にはその声は聞こえなかった。相違ありませんか」
「はい。人混みの中で、多くの人たちがざわめくような声はしましたが、母の声ではありませんでした」
「それは人の姿でありながら、その妖怪どもの手など届かぬほど格が上がっていたということではないのですか。その上、その想念を灼いた術を展開させた後も、お前は昏倒するでもなく、ぴんしゃんとしていた。さらには、その前後あたりから、真言を使っても疲労することがなくなったと聞きましたが?」
「はい。一度は倒れましたが、回復した後からは、以前のように眠りを欲することもなくなりました。京都でいくらか信仰を得るようになってからは当然でしたので、東京でもそういった、地力を得られるようになったかと思いましたが ――― 」
「本当に、そう思いますか」
「 ――― いいえ。ボクにもよくわからないのですが、そういう、人の想念に助けられて使っているのではないと思います。使ってしまっても、違うところから、乾いたところに水が溢れてくるんです」
「それが危険だというのだ」
「そうよ、それがおそろしいというのだ」
「伏目殿、お前が使う真言と神降ろしは、何の代償もなく扱えるほどの業ではないでしょうに ――― 」
「違います。そうじゃないんです、ボクだけの力じゃなくて、その ――― 」
「言えないではないか」
「とにかくだ、お前のその力は大きすぎる。今まで与えた縛りも、もうほとんど用を成していないではないか。着物の裏地の忌文字など、模様ぐらいにしか感じてないのではないか?」
「すみません。常に着込んではいるのですが」
「我々とて、さらなる縛りなど本意ではない。だがなァ、年明けには当主候補の身となるなら、これからはよりいっそう、己の妖気には敏感になった方が良いとは思わぬか。我々は、無理にとは言わんよ。そんな事をすれば、我等流派の修行中の者が、黙ってはおらんだろうしな。はははは、伏目殿は流派を跨いで人気者だ。我等などよりよほど師匠役に向いているのではないか?」
「そんな、僭越に過ぎます。そのような誤解を与えることがあったなら、面目次第もありません。申し訳ない」
「いいや、別段、それが悪いと言っているのではない。私たちはな、伏目殿、お前が幼い頃よくそうしていたように、妖の血と力を暴走させて、お前を慕う人たちを傷つけるようなことがあってはと、それを心配しているのだよ。お前の身はもはや、ただ封印の一つを預かるだけのものではない、三年後には当主に選ばれるかもしれないのだ。我々が案じるのも、無理は無いことであろう?」
「つまり ――― その、蟲毒でもって、ボクの妖気を減じるようにと、そういう仰せなのでしょうか」
「無理にとは言わぬがな ――― 」

 無理にとは言わない。
 そう言いながら、結局彼等は、リクオが持つ力を恐れて、縛れるうちにできるだけ厳重に、雁字搦めに縛っておきたい、減じられるうちは減じておきたい、そう考えている。
 いつこの大妖が己等に牙を剥いたとしても、手綱を握って御せるように。

 いわば、この場はリクオの意志を確認するための、踏み絵だ。
 受け入れるならばよし、拒むならば翻意有りとみなすのである。

 確かに、幼い頃には目の前で非道な行いがあれば、視界が真っ赤に染まって、意識が飛んでしまった間に、ずいぶんと人間たちを痛めつけていたようなこともあり、リクオ自身、己の妖気が制御できずに困っていたこともあった。
 その頃は、一度明王に変じると朝陽を浴びるまで人の姿に戻れず、それを二十七代目当主から賜った封じの腕輪の力を借りて、妖気を己の中に押し込める方法をようやっと身につけたり、しかしその封じの腕輪も、リクオが長じるとともに力を大きくすると中から割れてしまうといった具合で、花開院の教義の中で育ってきたリクオは、己がいつ完全に人でなくなってしまうかと思うと、不安で夜も眠れない日々があったほどだ。

 正直に言うと、今も全く封じが無い状態で暮らしたことが無いために、自分の力がどの程度なのか、正確には計れていない。
 魚と一緒に暮らすためには、人間の方が酸素ボンベを背負って、限られた呼吸で我慢しなければならないが、リクオにとって人間と供に暮らすというのは、そういうものだ。

 人間の方が、お前の力は大きすぎて怖ろしいと言うのなら、そちらの方にこそ、合わせてやる必要がある。リクオには、自分の力など、計れていないのだから。自分が過ごしやすいように暮らしてしまうと、周囲の人間たちには少しばかり迷惑になるらしいから ――― 例えば、彼が吐いた息が意図せず春の息吹を連れてきて、木霊を産んで山を騒がしくしてしまったり、指先をちょっと切って落としただけの血の滴が、街の女たちを恋に酔わせてしまったりするから ――― できるだけ封じていなければと、考えている。
 縛りには多少痛みがあるけれど、慣れてしまえばそういうものかと思う。
 もっとも、雪女はその《多少》の痛みすら、とにかくリクオに与えられる窮屈な想いには大変に敏感で、このまま何の相談もなく、さらなる縛りを承知したなら、きっとあの優しい女は今晩にでも、はらはらと霙の涙を流すのだろうなあと、リクオはそれこそが憂鬱だった。

 けれど、「いかがする」と、答えを急かすように、愛華流の女当主から言われてしまうと、他に答えはない。
 人間たちを安堵させるためならば、いたしかたないだろうと、リクオはいつもの微笑を浮かべた。

「お心遣い、痛み入ります。それでは、よろしくお願いいたします」

 その場の多くの分家当主たちが、安堵の息をついた。

 彼等の大半は、リクオが東京へ行っている間、本家からの打診を受け、リクオを当主候補とするのに頷かざるをえなかった者たちだ。
 その時の交渉相手は、花開院竜二、その人である。
 花開院きっての言霊使いを相手にして、花霞リクオを当主候補と認める、と誓ったからには、彼等は自分たちの勝手で、リクオに危害を加えられないのだ。

 リクオ自身から、己の妖気を封じるのに力を貸してくれまいかと、頭を下げてくるのであれば、別として。

「では、箱の中へ腕を。蟲どもには既に術をかけてあります。お前の肉を抉って身の内に入り、骨に直接忌み文字を刻む。呪葬の鎖の封じも、既に癒え始めていると聞いたが、今度からは蟲はお前の肉に棲み続け、常に刻み続けるのだから、癒えることもない、安心なさい ――― 肉の方が蟲に耐えられず、腐って落ちれば別でしょうが。そうならないよう、布でも巻いておきなさい」

 愛華流女当主の、真っ赤な唇が弧を描いたそのとき、

「あ、あいや、あいや待たれよ、皆々様方」

 リクオが何の気負いも迷いもなく、箱の毒虫の中へ腕を差し入れてしまいそうなのを、慌てて止めた者があった。
 懐から飛び出した一匹の狐に、集った人間たちは、野生の獣の姿にまず驚き、それが一人の僧の姿をとったのに、二度驚いた。

「な、な、なんだ?!」
「化け狐か?!羽衣狐の使いか?!」
「伏目殿!これはいかなることか?!」
「皆々様方、お静まりを。これなるは相剋寺に、五百年ばかり住まう化け狐にございますが、羽衣狐とは違いましてこれこの通り、尻尾は一本しかございません。人間の皆様に危害を加えようなどと考えたこともございませんゆえ、どうか話だけでも聞いてくださいませ。
 実はここに、この相剋寺鎮護、花開院破戸様より預かった文がございます」

 現れた宗旦狐は、箱とリクオの間に立って、後ろの少年を庇うように、手にした文をずずいと前に突き出した。
 最初はざわめいた場も、愛華流の女当主が、文の文字が確かに愛息子のものであると気づき、妖の手からそれを奪うようにしてその場で広げるに至ると、分家たちも己等の女主人の思案を邪魔してはいけないとばかり、しんと静まりかえる。

 手紙を一読して、女当主の顔色は僅かに変わった。
 冷静を保とうととして出来なかったのは、怒りのためか屈辱にか、いずれにしろやや興奮したらしく、色白のおもてに熱が上気したためだ。

「何が記されてあったのです」

 八十流の当主に促されれば、愛華流の女当主も、読まざるを得ない。
 文とは言え、それはこの相剋寺鎮護、花開院破戸の発言だ。

 一つ息をはき、落ち着きを取り戻した後で、女当主はよく通る声で、その手紙を読み上げた。

 内容はこうだ。
 花開院破戸は、当主候補花開院ゆら、並びに花霞リクオに、最大級の敬意を払い、お二人にまずは言祝ぎを申し上げる、とあった。
 つまり、二人が螺旋の封印の七と八、それぞれ末席に近くはあるが、これを当主選択の問題にはしないということを、自ら名言しているのである。本人がそれで良いのなら、愛華流の女当主と言えども、破戸の意志を無視して、今の当主候補を廃し、新たな当主候補を立てることもできない。

 さらには、年明けの睦月から選定に入るお二人であるから、今はまだ候補となられる前の大事な御体なれば、ゆめゆめご無理などされませぬように、また、特に花霞リクオ殿については、封印末席であること、また御自分の流派を持たぬことを理由に、何かとご無理が生じることも多い様子であるため、当主候補となられる御体で、軽々しく出歩くことのないように、などと、やや厳しいことも書かれている。
 これを聞いて、場の末席に座っていた分家の当主たちは、居心地悪そうに身動きしながら、互いに目配せしあった。
 実を言えば、まさに今この時、「当主候補となられることは決まったが、候補となるのは年明けからだから、今ならば伏目殿を呼び出しても失礼には当たるまい」と言っていたのは愛華流の女当主で、集ったのはそれに乗じた者たちだ。
 この場にいる誰も、当主候補と名がついた者を顎で呼び出せるような身分には無い。
 もちろん、リクオならば呼べばのこのことやって来るだろうとは誰もが思っていたことだし、現にリクオは来た。けれど、それとこれとは別だ。本人が気にしないからと言っても、これが本家の知れるところになれば、花開院家をないがしろにしたとなる。
 破戸の言葉は、紙面上であっても、これを警告していると同時に、本来は愛華流で重んじられるべき破戸の意志とは別のところ、つまり独断で、女当主がこの場を整えたと知らしめるものでもあった。

 もちろん、独断であるなど、集った誰もが知っている。
 暗黙の了解であったものが、白日の下にさらされた。そういうことだ。

 そして、政治的な場では、この二つの違いは、大きな違いである。

 このまま独断を通せば、この集会が後々本家の知るところになったときに、自分はその事情を知らなかったでは済まされない。
 誰もが自分の流派から当主候補を出したいのは当然で、本家の花開院ゆらを廃するのは難しいとしても、もう一人、花霞リクオならば廃するにしても狙いやすい。元々、妖気を抑える術として各分家から知恵を出し合ってもいたことだし、これがほんの少しだけやりすぎて、結果、当主の激務に耐えうる体ではなくなってしまったとしても、何の後ろ盾も無いリクオ相手なら、終わった後で手厚く見舞えばそれで済む ――― 暗黙の了解であったうちは、そうだった。
 けれど、このように、これは各々方の独断であるぞと、言葉にされてしまえば違う。
 後々明るみになれば、どうしてそんな事をしたと、各家に必ず沙汰がある。

 こそこそと囁き交わされ、誰もが席を立つ機会を伺い始めた。
 本家から沙汰が下るようなことは避けたい。
 けれど、上座の女当主の逆鱗にも、触れぬようにしたい。
 分家の中ですら力関係はあり、座の下座の者たちであればあるほど、女当主に向かってそれではこの辺りで失敬、などとは言いにくい。

 黙っていれば場は瓦解し、愛華流の女当主と嫡男の亀裂が明るみになっただけで、集会は霧散したろうが、家と家のしがらみが哀れを、さらには威厳が損なわれた女当主の屈辱いかほどかと思えば、これも切なく、それで黙っていられる花霞リクオではない。

 宗旦狐が、破戸から任された役目を果たして誇らしげに胸を張るのとは裏腹、リクオは向かい合う女当主の心の内を慮って、決心した。
 自ら、己を庇う宗旦狐の前に出て、蓋が開いた箱の中、無数に蠢く毒虫の箱の前へ、さらに進み出たのだ。

「この箱の中に、手を入れればよろしいのですね」

 今一度、リクオは女当主を前にして問うことにした。
 場を仕切るのが彼女であるのだとしらしめるには、彼女の体面を保つには、これしか方法が考えられず、女当主は幼子が泣くのを堪えているような目でリクオを睨み、頷いた。
 なので、リクオは袖をまくり、細い腕を、いよいよ毒蟲たちの中へ、沈めんとした。

 一匹が、既に蟲毒の術でより分けられた、猛毒の蟲である。
 既に自然の蟲の枠を越え、人の肌に触れれば強靭な顎で食いつき、肉を掻き分け、骨に達したところで己の毒で忌み文字を刻む、術として完成された蟲だ。
 妖の血を引いているとしても、今は人の身なればただでは済まない。
 たちまち肉はどろりと溶けるか灰色に壊死するかと思われたが、そうなるよりも早く、誰かがリクオの腕をひょいと掴み上げ、恭しく卓の上に置かれていた桐の箱を、ひっくり返したのだから、たまらない。

 蟲たちは跳ね上がって部屋中にちらばり、かしこまって座っていた分家の当主たちはひっくり返って悲鳴を上げた。
 己より二回り以上も年下の少年が、顔色一つ変えずに蟲たちの群れの中へ手を差し入れようとしていたのに、いざ自分の背中に一匹ついた、袖にもぐりこんだなどと、大変な騒ぎである。

 こんな騒ぎを起こしたのは、宗旦狐でも、もちろん、リクオでもない。



「おお〜っと、手が滑っちまった。せっかく集めた蟲どもじゃろうに、無駄にしちまったようだわ。孫可愛さに慌てた爺の愛嬌と思うて、許しておくれ、姉さんや」



 ぐいと手を引かれ抱き上げられても尚、リクオは一瞬、それが誰か、判じかねた。

 妖気に靡く長い髪は黄金色。これをゆったりと下の方で一つ、くくっている。
 瞳もまた同じように爛々と輝くが、こちらは光をそのまま宿しているようだ。
 その目元に妖しく刷くように刺青が入り、にやり、と煙管をくわえたまま片唇を上げると、この刺青が僅かに歪んだ。
 逞しい体を着流しに押し込め、これに羽織を肩にかけた青年姿の妖が、リクオを壊れ物のように抱き上げているのだが、リクオの方にはまるで、この妖に見覚えが無い ――― いや、無いと言っては語弊がある。毛並みの色合いはともかく、明王姿で鏡を覗き込んだとき、よく目にする顔であったから。

 あまりの事に目を瞬かせるリクオよりも先に、飛び散った蟲たちから己の身を方陣で守った、上座の当主たちの方が、立ち直りが早かった。

「貴様!何奴だ!どこから入った、ここは結界が敷いてあったはず!」
「はァん?結界?この符のことかよ?こんなモン、ちょいっとのけたら千切れちまったわ」
「なんと ――― 愛華流の陰陽師、十人がかりで念を込めた符だぞ」
「それよりもよォ、おめーら、ちィっと酔狂が過ぎるんじゃねーのかい?ワシの可愛い孫に、何、させるってェ?」

 からからと笑う大妖を前に、陰陽師たちは札を飛ばすことも忘れて後ずさり、黄金の毛並みの大妖は、リクオを抱えたまま鷹揚にからからと笑っていたのだが、少年の顔を己の胸元に押し付け、己の表情を見せぬようにすると、その表情から、笑みが消えた。
 ぎろり、睨めば、その場の誰もが気圧される。

 誰だ、花霞リクオに後ろ盾が無いなんて言ったのは。
 あるではないか ――― 魑魅魍魎の主は、己の眷属を、京都に貸し与えているに過ぎないのだ。
 誰もが、理解に及び、しかし大妖を逃したとあっては花開院家の名折れ。
 どうする、どうする、どうする。
 その場が膠着状態に陥ったとき、本堂の扉が横倒しになって、第参の勢力の訪れを知らせた。

「こ、今度は何者?! ――― 秋房、お前、一体、その格好は ――― ?!」
「父上?!これは一体、どういうつもりです!当主候補たる御方をたった一人呼び出し、その慈悲に甘えて、どんな狼藉を働こうとしていたか?!」
「馬鹿を言うな。これは分家同士のただの集会。伏目殿にもお集まりいただき、今後の花開院家についてを ――― 」
「見え透いた嘘をつくな!貴様はいつもそうだ、口から先に生まれたように綺麗事ばかり並べおって反吐が出る!そのくせ綺麗事の欠片も実行したことはなく、おそらく信じたこともあるまい!本気で綺麗事を信じている私が馬鹿のようではないか!クソ親父め!」
「……おぉーい秋房ァ、妖化、解いた方がいいんちゃうかー?普段の良い子ちゃんぶりが嘘なぐらい、なんや、本音だだ漏れやし。それにソレ、一応、禁呪なんやろ?分家の当主さんたちの前でお披露目するんは、ちょいと不向きな技やろうに」
「ま、雅次?!お前、一体どうしたんだ?!分家の集会に殴りこみだなんて、そんな、こんな事をすればどうなるかわかっているのかい?!親戚付き合いだって大事なんだよ。才能があればいいってわけにはいかないんだ、それをお前はどうしてわからない?!」
「親父、俺な、当主になる順番を決める集会なんぞに、興味ないんだよ。もっと建設的な話し合いなら、是非とも参加したいね。例えばそうだな、花開院家当主を選ぶのは、もっと民主的な方法 ――― 立候補や推薦で候補者を決めて、候補者はまァ限られて来るのは仕方ないけど、選ぶ側には、末端の陰陽師まで含めて選挙するとか。自分の押しメンの写真を団扇に貼って、金銀モールで飾り立てるもいいし、生写真一枚千円で売るもよし、アイドルユニットとして花開院家内で売り出すグループを作ってもよし ――― 話が逸れてきたな。つまりさ、当主選ぶのにあれだこれだ上だけで内緒話するんじゃなくて、もう少し開放的にやろうって話をするんなら、俺だって是非参加したいよ。けど、そうじゃないんだもんな。だから、今は秋房に味方することにする」
「一体、どうしたというんだ雅次?!昔はそんな子じゃなかったろう?!」
「昔は、正義の基準が違ったんだよ」
「じゃあ今は何が正義だと言うんだ?!お前は一体何を信じてそんな?!」
「可愛いは正義だ。ついでに萌えという感情は極めて平和的だ」
「雅次………!(がくッ)」

 ここで、雅次が展開した結界が、リクオたちを器用に避けて、部屋の分家たちと蟲たちを等しく跳ね飛ばしたので、部屋の中は舞い飛んで落ちてくる蟲たちと、ばらばらと落ちてくる蟲たちの接吻を床で待つしかないお歴々とで、阿鼻叫喚地獄と化した。

 騒ぎに乗じて、秋房と雅次、宗旦狐、そしてリクオを抱えていた妖は本堂を走り出た。
 この時に、もう一度リクオは己を抱えていたその人を見たが、なんとそれは初代である。
 やれやれ骨が折れるわいと言いながら、リクオをしっかと横抱きにしているのだ。
 先ほど見たのは、夢か、幻か ――― 考えてみれば、どちらも司り、それを《畏》として身に帯びるのが、ぬらりひょんという妖である。

「お爺ちゃん?!いつから居たの?!」
「おう、おめぇが家を出るときにな。いやいや、おめぇがよ、花街にでもシケこむってんなら、そのまま帰るつもりだったんじゃよ。じゃが、あんな剣呑な場所に孫一人置いて、ワシだけ帰ってこられるもんかい。リクオ、よくがんばったなァ、よくがんばった。偉いぞ。全く、お前さんの我慢強さは、お珱によう、似ておるわ」

 我に返った分家当主等が数人、何を企んでいるかわからない兄弟たちを追ってきたのを、門前で待ち構えていた影があった。
 ざ、と雄々しく仁王立ちの華奢な影は、呼吸を整え、瞑想での集中を終え、背後に一台のワゴン車を庇うようにして、立っていた。

 その影をまわりこむようにして、秋房、雅次、リクオ等が門の外へ出ると、完全集中を終えた彼女は、半眼を開いた。

 す、と、その片腕を持ち上げると、駆け寄ってきた彼等は、等しく怯んだ。
 無理もない。
 片腕の先は、光を集め、今にも溢れんばかりだ。

「 ――― あんた等、うちの、可愛い弟に ――― 」

 その光を腕に宿す影は、人の身に過分な神力を帯びており、これに、耳を覆う程度の短い髪が、風もないのにふわふわと泳ぐ。
 カッ、と、半眼の瞳が、開いた。

「何してくれはるんや!!!!こんのすかんたこどもがあぁあぁッッ!!!!
 出でよ式神《破軍》!!!! ――― 黄泉送葬水包銃ゆらMAX ――― !!!!」

 まだ何もしていなかった分家当主等は、ここで半数が戦意を喪失した。



+++



 リクオを抱えて伏目屋敷に飛び込んできた、秋房、雅次、ゆらの剣幕に、雪女が驚かなかったはずは無い。
 初代も、ワゴンを運転してきた灰悟も、とにかくリクオを奥に隠すようにと雪女に託した後は前線に立つ三人に加わって門前の防備を固め始め詳しいことを言わないものだから、結局かくかくしかじかと説明したのは、ゆらが呼び出した《破軍》の一人、十三代目秀元であった。

「なんということを!……それで、リクオ様、お怪我は、お怪我はないのでしょうね?!」
「うん。怪我なんて、どこにもないよ、まだ術に触れる前だったし。みんな大袈裟なんだ」
「いいえ、リクオ様。お出かけの前にどうして氷麗に一言、相談してくださらなかったんです。それに、誰も供をつけないで赴くなんて、無茶にもほどがありますよ。初代がついていてくださったから良かったものの、蟲毒の術を身に受けてはきっと、ただで済むはずがありません。逆にリクオ様は、私が蟲の毒を身に受けたとしても、黙って受け入れてしまわれるのですか?いいえ、きっとお怒りになるに決まってます ――― そういう事です」

 まだどこも怪我などしていないのに、いや別に怪我を負わされようとしていたのではない、あちらはあちらで、リクオの妖気が己等に害を及ぼさないかが心配であっただけのことなのに、どうして周囲がそんな風にばたばたと騒がしいのか理解できなかった屋敷の主は、幼い頃のように雪女に抱きしめられ頬を寄せられながら、もしも蟲毒の術を受けていたのが我が身でなく目の前の妻だったならと考えて、ぶるり、と身震いした。
 この綺麗な白い肌が、灰色に腐って落ちて異臭を漂わせるなんて、考えられない。彼女自身が許しても、きっと己は許しはしない ――― 一瞬のうちにそう考えて、嗚呼そうか、そういうことであったかと、気落ちした様子まで見せた。
 今まで、他のために己が傷を負うのは当たり前だとばかり考えていたけれど、これからは、妻のために己を守る必要もあるのだと、初めて思い至った。

「そうか。……ごめん、氷麗。ちゃんと、先に相談すればよかったね」
「相談もなにも、されたところで私が、良しと言うとでもお思いですか?もう、いい加減わかってくださいませ。氷麗は自分のものと定めた殿御の指一本ですら、誰にもくれてやりはいたしませぬ。
 逃げていいのです。弱くなってくださいな。私は、全身全霊でお守り致します。
 ……でも。私はリクオ様の妻ですから、リクオ様にのっぴきならない事情がおありになって、それでどうしても負わなければならない痛みや苦しみや、傷があるのだとしたら、それを負うのをお決めになってしまわれたのだとしたら、致し方ない、そうも思います。次も同じようなことがあるかもしれません。ですからリクオ様、どうかその時は、お願いです、氷麗を連れて行ってくださいね。氷麗にも、リクオ様がお感じになった恐ろしさや、苦しさや、痛みを、ちゃんと分けてくださいませね」

 夏に心地良い氷細工の指先で、両の頬を軽く引張り上げられたのが、お叱りと言えばお叱りだった。
 それよりも、微笑んだ氷麗の目の端が、かすか滲んでいる方が、リクオにはよほど、こたえた。

「ごめんよ、氷麗。そうすれば安心してもらえると思ったんだ。今までも、あったことだから。今度から、ちゃんと先に氷麗に相談する。《約束》するから」
「では、はい、指きりです。……はあ、本当は、相談しなくてもちゃんと一人でお断りしてほしいものなんですけどね。今はそれでよろしいと申し上げておきましょう。その時は氷麗が、リクオ様の代わりにお断り申し上げることにします。さ、お風呂沸いていますから、先に軽く使ってしまってくださいな。今日の夜は祇園でバイトでしょう?」
「あ、うん。でもおじいちゃんや父さん、先に入らないのかな」
「お義父さまなら先ほど、お義兄さまたちと一緒に門前にいらっしゃいましたし、お義爺さまもリクオ様に先に使わせるようにという事でしたよ。氷麗もお夕飯の用意がありますから、お先にどうぞ、リクオ様」

 先ほどまであれほど殺伐とした場所に居たというのに、家に帰ってきてみれば心から自分の身を案じてくれる妻が居るというのは、どれほどリクオの心を慰めたことか。
 彼女の前に立つと、幼い頃にほんの僅かの間、守役として甘やかしてくれた甘酸っぱい想いも呼び起こされ、それで己が過分に甘えた態度になっていないかと己を省みようともするのだが、それより先に、雪女がリクオを甘やかしたがるので、ついつい流されてしまう。
 幼い頃に別れたきり、後はつい数ヶ月前に知り合ったばかりの夫婦だから、妻に負担はなかろうか、不満はなかろうかと慮るも、雪女の方はリクオを甘やかせればそれで幸せそうな顔をしていた。
 つまりは、屋敷に帰ってくると、これまであった様々な憂いも愁いも、まあいいか、という気分になる最近のリクオなので、氷麗に進められるまま、屋敷の小物どもと一緒に風呂を使い、つい湯船でうとうとしたついでに明王姿に変化して目を覚ましてみれば、屋敷の中はやけに静かなのに、どこからか閃光や稲妻や炎の光が、風呂の窓の外、宵闇の空をぴかりぴかりと照らしている。
 どうしたことだろうかと、のんびり湯から上がってみれば、屋敷の中が静かなのは、屋敷を覆うように張り巡らされた金屏風結界のためで、玄関先には土嚢が積まれ、この上では迷彩ヘルメットを被った宗旦狐が獣姿で勇ましく指揮をとっており、そのさらに向こう側では、空間が切り取られた狭間の中、情緒たっぷりの羅生門を背景にして、秋房とゆら、そして鬼童丸が、秋房の父や愛華流の女当主、そして雅次の父を相手に、術をぶつけ合っているのだ。

 戦いの合間にぶつけ合う言葉の数々は、「雅次ーッ!出てきておくれーッ!父さんと一緒に、夕飯を食べよう!」「秋房!貴様、当主になるんじゃなかったのか!当主になって父さんたちに楽させてくれるって、お前、ちっちゃい頃、言ってたじゃないか!」「ええい伏目の邪道な陰陽師め!私のパトちゃんをいつの間にたぶらかした!さては英国留学も貴様の入れ知恵か、パトちゃんを返せ、伏目明王ッッ!!」……あまり緊迫感のないものだったし、秋房やゆらはともかく、鬼童丸は技を繰り出すというより、前線の二人を守る方に徹していたので、リクオは最近、同じようなことを東京でやってきたので、思い当たった。

「……なんや、ただの親子喧嘩か」

 きっかけは何であれ、今はその様相である。
 自分が東京で派手にやってきたものなだけに、だったら、己が口を出すことではあるまいと判じた。
 腹が減れば、双方、引くだろう、と。

 けれども、賄い処を覗いてみれば、雪女が何だか嬉しそうに鼻歌を歌いながら、玄関先で戦う義兄たちやその親御の夕飯だろうか、外でも食べられるようにだろう、おむすびをこさえ、鍋からは良い匂いをさせている。
 気が利く嫁だが ――― リクオはちょっとだけ、背筋が寒くなった。
 腹が減ったならその場で握り飯を食い、戦い続けろと、言わんばかりだ。
 いや、そうさせるつもりなのだろう。彼女は、怒りを夫に向けぬだけで、夫に向けられた悪意を、決して許してはいないのだ。
 彼女の後姿から、自分に向けられた優しさではない、得体の知れない怒りが黒々とした《畏》となって立ち上っているのを見て、リクオはそっと、己の姿を空気に溶けさせ ――― 明鏡止水 ――― 雪女が、「あら、リクオ様?変ねぇ、気配がしたと思ったのに」と振り返ったのにも答えず、裸足のままぺたぺたと縁側にやってきて、初代と十三代目秀元を見つけたのだった。

 十三代目にはあまり期待せぬまま、しかし争いの種である自分が出て行っても逆効果に違いない。
 仕方なく、リクオは汗をとった浴衣から、シャツにデニム姿へ着替えると、勝手口から外へ出た。
 玄関の側の控えの間では、雅次が、「A.T.フィールドは心の壁、A.T.フィールドは心の壁、A.T.フィールドは心の壁、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ………」いつになく真剣な顔をして座禅を組み、額に脂汗を滲ませながら、ぶつぶつ呟いて精神統一をしていたので、長時間の結界展開の邪魔をしてはいかんだろうと、声をかけずに来た。
 正面に結界を集中させているらしいので、勝手口あたりは案の定、緩みが生じており、リクオはその揺らぎから外に出て、逃げるように祇園へ向かった次第である。



+++



「はっはっは、伏目明王様も奥方の剣幕にはかなわず、すごすごと家を出てきたってわけかい。ふっふっふっふ、面白いもんじゃのう」

 いつものようにカウンターの中、椅子の上の座布団にとぐろを巻いていた白蛇店長は、この顛末を聞いて大きく笑った。

 週末には混み合う異界祇園。
 しかし、この年の春に大きな抗争があったばかりで、一度避難した人間たちも完全には戻ってきていないため、客足はまばらだ。
 モダンバー《PlatinumSnake》も例外ではない。

 いつもなら秋の京都には、人も妖も海外からどっと押し寄せて観光を楽しむものだし、一昨年などは大陸から僵尸たちが大勢ツアーで訪れ、リクオ含めて年若い妖たちは初めて見る大陸の妖が珍しく、ついついちらちら見やってしまって、白蛇店長に後で小言を言われたこともあった。
 あまり多いことではないが、大陸の妖たちが、人間がするように海を渡って日本を見物に来ることだってある。
 白蛇店長ほどに年経た妖たちにとっては、慣れた光景だった。

 それが今年は、流石にあの抗争の後なので遠慮しているのか、客は皆、地元の人間ばかりで、それも週末だと言うのに、客足はまばらだ。

 注文も少ないので、リクオは白蛇店長がどっしり構える傍ら、カウンターの中で、棚に並べたグラスを磨きながらお喋りにつきあっている。
 実は今、うちの屋敷でかくかくしかじかで、と話したところ、店長が遠慮なく大声で笑ったので、そこには唇を尖らせて、拗ねるような顔をして見せた。

「何が面白いもんか、店長。ひどいいけず言いはるわ。きらいやし」
「いやいや、そう拗ねた顔するでないよリクオ。ワシも常々思っとったんじゃ。
 お前さんの縛りのこともそうじゃが、そうそれこそ宗旦狐殿のように、人間とうまくやっている妖もおるというのによ、最近の陰陽師どもときたら、お前さんが元服したあたりからかのう、特に高位の陰陽師どもがよ、融通がきかんというか、妖が出たと評判になるとすぐに飛んでくる。せっかく異界の入り口をこさえても、ほんの小さなものまで塞いでしまう。羽衣狐のことで敏感にもなっておるのじゃろうと、最初はそう思ったが、それが羽衣狐がいなくなっても変わらんのじゃ。おかげで息がつまって仕方ないわい。ワシ等とてたまには、丑の刻よりもう少し早く、外出したいときもあるんじゃから。
 しかし、京都の妖が悪さをすれば、お前さんに咎めが行くと思うとな、そう大きくは出られん。誰かその陰陽師どもの鼻っ柱をひねってやらんものかと思っておったんじゃ。ふっふっふ、いや、せいせいするわ。いっそこのままリクオの兄御たちが牛耳るようになってくれたなら、少しはワシらも息がしやすくなるのではないか?」
「そんな、簡単に行くモンやないわ。義兄さんたちの中にはまだ学生さんだっていてはる。ただでさえ封印入閣は結構な重荷やのに、そこに一門率いる重責もとなると、弟子に術教えて、説法して、才あるもん探して自分の流派に引き入れて、日本全国からの依頼をより分けて。他にもいろんな細々としたこと、全部、各流派の当主がやらはってるはずやもん、かなりの重責や。今まで正しいと思ってたことも、場合によっては曲げなくちゃならん。
 昔、オレが初めてこの姿になったときだって、あの人等、ちゃあんと迎えてくれた。まあ、そん時は、愛華流当主は先代のじっちゃんやったけど、きっとそん時も今も、みんながみんな、妖との共生を認めてくれてるわけやない。各流派の分家のお得意さんなり、修行中の陰陽師なりにも、人間中には妖が憎くて憎くてしゃあないって連中もいてはる。妖ん中に、どうしても人間がダメって奴がいてるのとおんなじでな。そっちも認めつつ、こっちも認めつつってのは、それぞれに少しずつ痛い目見てもらわんと、たちゆかん。封印の八からオレをはずして、別の奴に任せたいって話も、きっとあるんやろう。そいつ等に納得させるためには、オレがどこまで言うこと聞く道具かってのを、しらしめる必要がある。封じは一番てっとり早い方法や。猛獣がおっても檻ん中におれば、人間は安心するやろう?」
「お前さんがこんだけ働いておると言うのに、まだ四の五の言う奴がいるとはのう。人間とは欲深いもんじゃ。いなくなったなら、伏目の封印はどうなると思っとるんじゃ」
「そん時は、あの人等できっとどうにかするだろうさ。オレは弱い立場におるんやから、しゃあないわ。当主候補の話だって、何の冗談やと今でも思うし」
「そうかのう。………のうリクオ、ワシは商売のことしかわからんが、こういう言葉もあるんじゃぞ」
「なに?」
「押して駄目ならもっと押せ」
「…………店長、そないにええかげん言うもんやないよ」
「何が違うもんかい。お前さんにはそれぐらいがちょうどいいと思うときがある。何せお前さんは、立場が弱いんじゃない、押しが弱い。あれをしてくれ、これをしてくれと言う頼みごとを次々そうかと聞いているだけで、かわりにこれをせよと対価をを求めることをせん」
「そんなん、買いかぶりや。妖のみんなの方には、花開院から庇うかわりにオレだけじゃキツいときに護法になってもらう約束してるし、陰陽師の方にも、妖が少しばかり出歩いても、オレの戦力だからって目こぼししてもらう約束や。どっちだって、対価やないか」
「人が妖に、妖が人に、払うものという意味ならばそうじゃろう。だがリクオ、お前自身の懐に入るものという意味ではどうだ。お前の懐は、空っぽじゃないのかい」

 この夏に奴良組相手に渡り合い、見事、京都の安寧をもぎ取ってきたとは思えぬほど、リクオの態度はこれまでと変わらない。
 花霞童子と呼ばれていた頃からしていたように、妖たちが多く潜む花見小路で色々な用向きを聞いてきては、応じた品を白蛇店長のところから運び、対価を得て、これに手をつけるなど考えもせず、店長に代金を渡した中から、店長がより分けた分を給料として得るのである。

 中には男衆が必要だという用もあったりする。
 これには直接、伏目の護法たちを遣わせるのだが、この大将によく躾けられているせいか、護法たちは安心して仕事を任せられるので、たいそう評判が良い。
 次第に花霞童子ではない、花霞大将と誰もが呼ぶようになり、今では京都守護職の名に恥じぬ立派な大将であるとして、京に住む妖の誰もが認めているのに、本人は京都に帰ってくるや、では己がこれから京の主であると名乗りを上げるどころか、まずはこの店に顔を出し、事の顛末を話した後、真顔で、「しばらくお休みもろうてしもて、かんにんな、店長。オレ、また雇ってもらえるやろか」ときたものだ。

 少々拍子抜けしたのは、白蛇店長ばかりではない。
 特に、この界隈の年寄りたちは、口には出さぬがリクオの昼姿もちゃんと知っていて、陰陽師として封印を守る身でありながら、同じ陰陽師の中には彼を良く思わぬものがあるらしいという、微妙な均衡の上に立っているのを、あわれにも思っており、己等が後ろ盾になれたなら、少しは人間の中でのリクオの立場も、畏れられるものになるだろうか、ないがしろにされることはなくなるだろうかと考えていた。
 これほどの手柄をたてたのだ。
 身をもって京都を守って見せたのだ、さてそれでは今から己が京の主であると名乗るくらいは認めてやらねばなるまいなと、京の年経た温厚な妖たちが頷き合っていたというのに、本人はまるでその気が無いのだから、それは年寄りたちにしてみれば、可愛い孫のおねだりを今か今かと待っているのに、孫の方には何をねだるつもりもないと言うようなもの。
 京の主と名乗るのならば、年寄りたちは表向き、致し方ないなと渋い顔をして見せたとしても、リクオ相手ならば頷くに決まっている。

 なのにリクオは求めない。彼自身の懐に入るようなものを、何一つ求めない。
 本人は、からから笑ってこう言うだけだ。

「色即是空、空即是色というやないか。それでもそこには何かがある。見えないものでも、オレはちゃんともらっとるよ。そんなん、気にしてもらったらこっちが困る。これ以上よくどし求めたら、もらいすぎや」
「………お前さんの代は、それでいいかもしらんが」
「なんや、オレの代て」
「お前さんは自分で稼いでおるし、それで一家を食わせてもいけておる。京の妖からも陰陽師からも一目置かれて、そのどちらにもある程度、睨みをきかせられる」
「あははは、そのどっちからもごてくさ言われて聞き流しとるの間違いや」
「これ、茶々を入れるでない。………お前さんの代は、それでいいかもしれんがよ、お前さんの次の代もそれでやっていけるのかのう。代が変わればやり方も変わろう。その時に、いや京の主と京の妖や人の約束はこれこれこうであるからと、きちんとした取り決めがあればワシ等も安堵できるというものじゃないか。
 例えば、次の京の主が無茶をやろうとすれば、その約束事がたしなめる。人や妖が互いの境界線を侵そうとすれば、その約束事に従って京の主がこらしめる、そうしてそういう約束事の中には、約束の守護者へのねぎらいというか褒美というか、いくらか報酬をもって京の主に報いることも入れておく。そうすりゃあ、お前さんの次の代になっても、今の境界線は保てようし、お前さんのように陰陽師として稼がずとも、一家を食わせていくくらいの儲けは入るじゃろう?いや、今だって、少しくらい儲けを取った方が、素直にお前さんに頼れるのにっちゅうもんだってあるんじゃぞ」
「ん?何や、京の主って。え、もしかして、オレんことか?店長をさしおいて、そんな」
「これ。今更、逃げるようなことを言うでないよ」
「せやかて、そんな、誰が主とか何とか、どうでもええやないの。どうせ螺旋の封印があるんや、みんなたいした事はできん。高位の陰陽師どもがピリピリしとるんも、花開院の当主選び騒ぎがおさまれば、また元通りになるやろう。人間だって、そう長いことピリピリしとるんは疲れるはずやもん。
 一体どうしたん、店長。言ってることがまるで、あれや、奴良組のやり方と同じやで。そういうんが困るって、あれだけ言うてはったのに。せっかく奴良組の手が入らんのやから、羽衣狐が我が物顔になる前にしてたように、のんびり暮らしたらええやろう?」
「奴良組の若頭は襲名して、京の主を名乗るは拒むというんかい」
「あれ、そんな話、誰から聞きはったん?」
「みぃんな知っとるぞ。花霞大将が京都を捨てるんやないかと、不安がってもおる」
「んなわけあるかいな。奴良組の若頭は、そうしてた方が都合が良さそうやったからや。あちらさんに嫡男ができるまで、予備が居てた方がお家騒動も起きんやろうて、竜二兄が言うもんでな。
 オレが居なくても、それまでもそれなりに、京は安らかやったやないか。今更オレが一匹いなくなったからって、なんもない、なんもない。全部が全部変わらないまま続いていくこともないやろうけど、それなりに、続いていくんやと思うよ」
「若造のくせに、わかったような口をききおって。結局、先の事はなぁんも考えていないんじゃろう」
「うん。物心ついたときにはもう、羽衣狐って敵と戦うことしか考えてへんかったし。正直、ここまで長生きするとは思うてへんかったしなぁ」

 少し意地悪のつもりで言ってみた白蛇店長だが、グラスを拭き終えたリクオが、久しぶりに入った注文にシェイカーを振りながら言う言葉に、しばし、言葉を失った。

「………長生きと言うが、リクオ、お前さん、まだ人間一人分ほども生き終えておらんじゃろうが」
「羽衣狐相手に勝つ喧嘩をしようとしてたんや、オレかて何の代償も払わんで済むとは思ってへんかった。
 護法かて、ぎょうさん減った。今はすぐにあいつ等と同じところに行ってやれんで、なんや申し訳ないなと思うくらいやもの。だからな、これからどうなるとか、どうした方がいいとか、オレにはそんなの、ようわからん。主にはなりたいひとがなればええんとちゃう?」
「首無ライダーあたりが、ならば我こそはと名乗りを上げたらどうするつもりじゃい」
「そんな勘違い野郎はしばいたる。あいつじゃなくても、同じような乱暴モンなら、それもしばく。オレに勝てない程度の小物が、主を名乗るなんぞちゃんちゃら可笑しい。誰が主になろうとするも勝手やけど、オレも京都守護職としてこすいやつなど放っておきはせんから、安心してや、店長。
 オレはな、店長も、一路猫も、凛子も、祇園のみんなも、のんびり暮らしてる京が好きや。みんなが好きやから、ただ、みんながオレに親切にしてくれるように、オレも何かしたいって、それだけなんやわ。主になりたくてしてるんとちゃう」
「世の中には、玉座を掴もうとしても掴めぬ輩がごまんとおるが、お前さんは、玉座の方から勝手に転がり込んでくるタイプじゃのう。お前さんが否定しても、今、他の土地のモンに京都の主が誰かと聞かれたら、誰もが京都守護職・花霞の名を出すじゃろうよ、残念じゃったな。
 これまで考えられんかったのは仕方ないが、しかしな、これからは腰を据えて、ちっとは保身を考えんと、お前さん、陰陽師どもにも妖どもにも、食い物にされるだけじゃぞ。話は戻るが、その、例の陰陽師の当主たちには少し、お前さんの有り難みを思い知らせてやるべきじゃ」
「オレを食った奴はせいぜい、腹壊すだけやし。有り難みなんて……別に、ないと思うけど……?」
「その分家の当主たちとやらは、つまり、お前さんに甘えておる。お前さんが自分たちを見放すことはないと、頭から信じきっておるから、どんどん無茶を言ってくるんじゃ。時にはガツンと言って、己を押し通すことも必要じゃぞ、リクオ」
「はいはい。店長の説教は相変わらず長いなぁ」
「これ、リクオ!ワシはお前さんを心配してだな………ん、雨、か?」

 ぱらぱらと屋根に打ちつける音を耳にして、白蛇店長はうんと首をもたげた。
 ホールにはいつものように、落ち着いたピアノジャズの旋律が満ちているものの、いつしか雨足は強くなっていたらしく、見上げた先、三階まで吹き抜けになった建物の天窓は、雨で洗われていた。

「リクオ、お前さん、そろそろ上がるかい。伏目がそんな様子では、落ち着かんのではないか」
「え?いや、大丈夫やろう、あの調子なら。なんかあったら、誰かすぐ飛んでくるわ。どうせあと少しやし、最後までおるよ。なんで?」
「なんでも、何も………」

 雨が降る度、寂しそうな表情をする彼を思いやった店長だが、直接言うのもはばかられて、口ごもったついで、桃色の舌をちろちろ覗かせるばかり。
 かえってリクオの方がけろっとしている。
 そのうち、カランコロンと玄関の鈴が鳴ったので、いらっしゃい、と声をかけてから、姿を現した客人に救われたような心地になった。

「おいでやす………おや、雪女のお嬢ちゃん、旦那のお迎えかい」
「こんばんは、白蛇様。はい、リクオ様ったら、傘を持って行かれなかったようだったので。でもお迎えには少し、早かったかしらね?」
「ありがと、氷麗。雨降ったから、来てくれるやろうなって思った」
「今日の夜は雨よって言っておいたでしょうに、傘を持って行かないんですもん」

 なるほど、けろっとしていたのは、こういう理由だったらしい。
 大人びていたリクオの横顔が、彼女の姿を認めるとぱっと甘ったれたように綻んだのを見て、白蛇店長は合点した。

 リクオにとって、雨音はもう、切ない足音ではないのだ。

 十年前の互いを知っていたとしても、再会してから結婚にいたるまではほんの僅かな期間であったので、年寄りとしてはやや心配していたのだが、杞憂に過ぎなかったようだ。

「ほれリクオや、奥方さんも迎えに来てくれたことだし、この通り客足もまばらじゃ、あとはもういいから、今日は帰りなさい」
「うん………ほな、そうさせてもらうかな。おおきに、店長、ほんまありがたいわ。氷麗、奥だけ片づけて着替えてくるから、ちょっとだけ待っといてな」

 カウンターの席を自ら引いて氷麗を座らせ、冷たい林檎ジュースを用意した後、リクオはそそくさとエプロンを脱ぎ、奥へ引っ込んだ。

「あやつがあんな甘ったれな顔をするのは、珍しいのう。奥方さん、あんまりわがままが過ぎるようなら、叱ってやるんじゃぞ」
「叱らせてくれるようなわがまま、まだ聞かせていただいた事なんてないんです。少しは仰ってくださればいいのに。できることと言ったら、こんなことぐらいで」
「あやつのわがままは形が違うだけじゃ。普通の人や妖が、自分を愛するように他人を愛するのが難しくて難儀してるところ、全く真逆なだけなのよ。じゃからな。今回だって、もう少しで蟲毒にやられておったかもしれん。今も、伏目屋敷に押し掛けてきた義兄さんたちにお引き取りいただくこともできてないと聞いたぞ。さっそく苦労するのう、奥方さんや。あやつがあんまり弱気なようなら、尻を引っ叩いてやってもええんじゃぞ」
「本当は、今回のようなことがあったなら、きっと厳しく叱るつもりだったんです。でも、できませんでした。表に出さないだけで、リクオ様ご自身はどれほど怖い思いをされていたことだろうと思うと ――― 無事に帰って来て下さった、それだけでいいって思ってしまいました」

 本当はその場でしがみついて泣きついて、どうしてそんなところになど行ったのか、行く前に相談してくださらなかったのかと言ってやるつもりだったのが、帰ってきたリクオの顔を見ると、そんな気持ちは失せてしまったのだと、雪女ははにかんだ。
 表だっては恐怖を見せないリクオにだって、傷つけられる恐怖があろう。
 痛み、苦しみへの恐怖があろう。

 それをたった独りで乗り越えてくる方法しか、リクオはこれまで知らなかった。
 受け入れるしか、方法が無かった。
 今までは、守らねばならないものばかりが多すぎて、逃げるわけにいかなかった。
 耐えて耐えて耐え抜いてきた末に得てしまっただろう自身への傷への鈍感さを、雪女はどうしても責められなかった。

 事情を慮る雪女に、白蛇店長はうんうんと頷きながら、目を細めて微笑んだ。

「リクオは良い嫁を貰ったもんじゃ。結納の準備に焦っておるのもわかる」
「えぇ。私は、妖同士のことですからお気使いなくと、そう申し上げたんですけれど」
「いやいや、あやつにとっては、そういうわけにはいかんよ。これぞと思う相手を蔑ろにするような真似、お天道さんが許してもあやつは絶対に許さんよ。しかし、何だな、こういった騒ぎになってくると、なかなか家を空けると言い難いな」
「そうなんです。リクオ様はそろそろ本家へ赴かれて、私の実家への挨拶のために、また少し留守にするということをお話されると、そう仰っていたのですが ――― 」

 そこで奥からリクオが姿を現したので、白蛇店長と氷麗は口を閉ざし、氷麗は年若い夫に優しく笑んだ。
 リクオが傘を差し、雪女の肩を抱いて、二人仲良く一つの傘を差して帰っていく姿を戸口から見送り、白蛇店長は嘆息した。

「早いところ、花開院家の親子喧嘩とやら、終わってくれるといいんじゃがのう……」

 リクオは京の主にはならぬと言う。花見小路界隈に住む、古くからのはんなりとした京妖怪たちは、早いところそう名乗ってもらいたいのだが、リクオ自身が我こそはと名乗る機会は逸しただろう。ならば、白蛇店長が長を努める寄合の決議のように、この結婚を機会に熨斗をつけてその格を献上申し上げるしかない。
 一人では独善となることも、陰陽和合となりて夫婦二人となったなら、きっと互いを支え合って、二人で主の座を守ることができようから、それを思っての御二人への我等の言祝ぎであり、またお願いであると申し上げたなら、きっとあのリクオのこと、否とは言えないであろうし、雪女も承知することであろう。

 早いところそうなって欲しいのだが、リクオは雪女の実家、富士山麓にあるという雪屋敷へ、きちんとご挨拶をせねばならないと考えている。
 己の誕生日前後は陰陽師の役目も忙しくなることだからそれまでに、などと言っていた矢先にこの騒ぎだ。

 風に乗れば伏目などすぐにつくだろうに、幸せそうに寄り添いゆっくりと歩んで小さくなる二人の背を見つめながら、白蛇店長は二度、嘆息したのだった。