まかしとき、などと言っていた十三代目だが、伏目屋敷を巻き込む花開院家の親子戦争の間に入る気はさらさら無い様子で、伏目屋敷門前の異界の中、羅城門の二階を桟敷のようにしつらえ、初代と一緒になってからから笑いながら、勝負の行方がどうなるのかと面白がってすらいるようだった。
 もっとも、時間無制限では疲労困憊もしようし、勝ち負けを決めるのが相手が意識を失ったときでは、怪我で済まないこともある。
 いくらかルールを定めたところ、これが彼等にすんなり受け入れられたのは、十三代目がやはり、式神でありながら花開院家にとって無視できぬ発言力を持つということなのだろう。

 二日三日で騒ぎもおさまろう、あとは成り行きを見守るしかないと、リクオも最初はいつものように、のんびりと構えていた。
 しかし、三日四日となり、五日六日となると、事情は変わってくる。
 一年前であれば、リクオはそれでものんびり構えていたかもしれないが、今は婚前の大事な時期。
 里への報告など事後で良いと笑う女房に、申し訳なさも募る。
 そこだけは、リクオにとって譲れない意地なのだ。
 万が一にでも、彼女が日陰者扱いされるような事があってはならないし、彼女こそ己にとって唯一無二の人なのだと、誰にでもわかるようにしたいと思う。

 というわけで、最初はぶるぶる震えていた小物どもまで、桟敷席で宴会騒ぎをするようになると、流石に困ったなあと思うようになった。

 事態を重く見たのは、玉章も同じだった。
 大将が言うのならと、状況を見守っていた彼だが、その夜、膳に箸を置いて口を開いた。

「リクオ君、いつまで静観しているつもりだい」
「静観もなんも、親子喧嘩に口だすわけにもいかん。小さいモンも怯えるようなことはなくなったし、おさまるまで待とう思てる。義兄さんたちみいんな、食費やなんやて気ィ使ってくれてはるんが逆に悪いなあ思うくらいや」
「その食費とやらも、君、結局受け取ってないじゃないか」
「ガキの頃から何遍も命を助けてくれたひとたちや。金なんぞ貰えるか」
「僕だって、これが普段のことなら、何も言わないよ。君の義兄上たちのことを悪く言うわけじゃないけど、嫁取りの準備で忙しいときなんだから、もう少し心配りをしてくれてもいいと思うけど。こういう事はぐずぐずしていたらいけない、今だと決めたときが結婚の時なんだよ。3つのingって言ってだね。フィーリング・ハプニング・タイミングという奴がある。君に足りないのは最後の一つだ」
「んな、ひとを甲斐性なしのように言わんといて。………でも、まあ、一理あるとは思う」
「だろう?だからわざわざ、この定例会を今夜にできないか、なんて言って来たんだろうなって思ってたよ」
「うん、まあ………」

 定例会とは一月に一度、大将と副将、三人が揃って夕食を取りながら、互いの近況を報告しあうものだ。
 とは言っても三者三様、それぞれに仕事も学業もある。
 集まるに集まれないときもある。
 それでもたまには決まり通りに、三人で盃を酌み交わそうかと、たいした議題もないまま集まってみれば、それぞれの主にぴったりくっついてなければ気が済まない妖怪たちもあるから、よほどの大事が迫っていない限り、三人がいくら真面目な顔を作っていても、結局途中から誰か彼かが襖を細く開け、副将二人がいくら厳しく睨んでも、大将が一言もうええやろうと笑えば、一匹二匹、小物どもがまろび出たのを合図に、三人四人と誰かしらが入り込んで、結局宴会が始まるのがほとんどだ。

 ところが今日は大将自ら、急なことだが定例会を今夜にできないかと、二人の副将に打診があったのである。
 己等の大将が、昼姿でいつもより長く御堂に籠もった後であるのを知っていたので、どちらの副将も、

(これは、くるな)

 と、身構えていた。
 二人を前にして、このように大将が畏まったような表情を見せるのは、そう多くない。
 あれば、それだけ事態がのっぴきならないと、そういうことだ。
 最近では、羽衣狐が侵攻を決めたと知ってすぐに、螺旋の封印を早期に放棄し、奴良組と敵対してでも欺き通すと決めたのが、良い例だ。

 玉章だけではない、猩影も腹を決めたつもりでいたので、なお言い淀むリクオにいささかしびれを切らして、かやくご飯をかき込んで茶碗を膳に戻すかどうかというところで、

「とにかく、黙ってたって始まんねぇ。昼の間にいいだけ悩んだ末に、今の明王姿ってことなんだろう?熟慮の末のことだろうから、今更お前が何を言い出したって驚きやしねぇさ。言ってみな、リクオ」

 せいぜい兄貴風を吹かせて、言ったものの、

「うん。実はオレ、氷麗と駆け落ちしようかと思ってな」

 決めたつもりの腹と一緒に、膳の上の茶碗や皿がいくらかひっくり返った。

「な、な、なんだって?!お前、帰ってきた早々、そりゃねーだろう!」
「猩影くん、落ち着いて。この大将が何か思いついたときの初めの一言は突拍子もないって、知ってるはずだろう?とは言え、君も穏やかじゃないね、リクオくん。いったい、どういうつもりだい。花霞一家を捨てるとでも言い出すんじゃないだろうね」
「ちゃうて。ちょいと、自分を試してみようと思うんや」

 焦る猩影、眦をきりと上げる玉章を順番に見つめ、リクオは続けた。

「駆け落ち言うても、お前たちを置いて行こうってわけやない。よく考えてみたんやけど、よくないことだとも、思うんやけど、オレな、あの分家の当主さんたちより、お前たちの方がほんの少しだけ、大事なんやわ。だから駆け落ちするって言うても、お前たちにもその道行き、一緒に来てほしいって、そう思ってる。
 今まで、オレは執着は悪やと思ってた。いや、今でもそれは変わらない。誰かを引き留めるのも、何かにこだわるのも、あの羽衣狐から京を守ることすら、悪なんやないかと思いながら、それでも戦った。迷いなんて無いふりしながら、その実、迷う時間が無いだけだったような気もしてる。迷う時間が無いから、執着だと思っていたものを、本当は必要な思いやりであったものをも、悪とみなして捨ててきたんじゃないか、と。
 これまで、羽衣狐が全部やった。物心ついたときから、そればっかりやった。けど、それが終わった後のことまで、よく考えたことは、実を言うとなかったのかもしれない。
 ………この前、白蛇店長と話しててな、冗談でぽろっと、こんなに長生きするつもりなかったって、自分で言ってた。冗談だったはずなのに、後からなんや引っかかってな、自分で、自分の本音だったのかもしれんなと、後から、考えた。
 オレは執着を捨てたのではなく、ただ、親しい者等をこれ以上失うのを、その痛みを、怖れていただけじゃないのか。伏目にも、京にも、自分の誇りとやらにも、命にも、執着の無いふりして、ただ興味が無かっただけじゃないのか。
 全ての物事には因果がある。今の事柄は、オレが招き寄せたことだ。花開院家の分家衆が伏目を軽んじる様子があるのは、オレが彼等を軽んじていたからかもしれない。オレが彼等を、いつでも執着を捨てられる相手と、無意識の奥底で軽んじているのだとすれば ――― オレはそんな己をこそ、捨て去りたい。お前たちを大事だと思うように、彼等も大事だと思える己になりたい。けど、今はそうなれないようだから」
「あー、お前の言うことが小難しいのは、いつものこととしてだ。つまり、なんだ、今まで陰陽師どもの言うことを全部鵜呑みにしてたのを、ちょいと見直す。そういうことで、いいんだな?」
「んー、猩影くんの言うことがざっくばらん過ぎるのは、いつものこととして、つまり、なんだい、専守防衛に徹するのはやめる、そう考えていいのかい、リクオ君」
「お前等、なんや、うれしそうやな。………反撃してよしと許すわけじゃないぞ。ただちょっと、あちらさんがそんなにオレの事を嫌いだと言うなら、ちょうど富士山麓に挨拶に行こうかと思ってたことだし、なんて言うのかな、その、ええと、お互い冷静になるのを待つ感じ?」
「………………間を置く?」
「あ、そうそれ。玉章はいっつも、これっていう言葉を思いつくのが上手いな。ちょうど、分家の義兄さんたちは家を出たいって思ってるみたいだから、その家出希望の間、伏目の封印を頼んでも大丈夫そうだし、カナもいるし、人間だけに任せるのも不安やなあとちょっとだけ考えたから、ダメ元で伏目屋敷を任せるのにちょうどいいと思えるひとに連絡してみたら快く引き受けてくれはったから、きっと人間と妖との均衡を保ってもくれると思うし。その間に、一家総出で嫁さんの実家に顔を出しに行こうかと思ったんだ。富士山麓には妖たちが住む街もあるって言うし、宿もぎょうさんあるんやて。氷麗に相談したら、いい宿を紹介するって言われたから、どうやろうか、そこに滞在するって言うんは」
「おお、それいいな」
「音に聞く、富士樹海のパラダイスにハイキングと言うわけか。いいねえ。実にいい考えだと思うよ、リクオくん」
「え、なに、なんでお前のほうがそんなに乗り気なの、玉章」
「だって猩影くん、富士樹海だよ、富士樹海。妖怪男子にとってはメッカじゃないか。四国に居た頃に、こっそり忍び込んだ兄貴たちの話をよく聞いて、羨ましく思っていたものだよ。リクオ君、そうと決まれば話は早い。さっそく行こう。今すぐにでも。いや………留守にするは、兄さんたちには話した方がいいのかな」
「うん、外に居る義兄さんたちと、竜二兄には話そうと思ってる。別に帰ってくるのが嫌だと思ってるわけやないし、元はといえば、竜二兄がオレを当主候補になんぞしたのが分家衆の不満に火をつけたんだから、それくらい無茶を言ったって許してくれるやろ。オレたちが帰ってくる頃には、ちょっとはあちらさんたちも、冷静になってるだろうさ」
「分家のおじちゃんおばちゃんたちにも言っていくつもりか?また四の五の理由つけて、お前をここに縛り付けようとするんじゃねえのかな。家出するときは、あんまり大人数に言うのはどうかと思うぜ」
「うん。猩影の言う通りだと思う。だから、家を出ることは、兄妹以外には言わないつもりだ。そうすると、一家全員で同時に留守にするのを怪しまれないように、何か理由をつくらなくちゃいけない。二人には、それを相談したい」
「なんだ、そんな事なら簡単だよ」

 玉章は悩む素振りすら見せず、身を乗り出して声を抑えた。
 リクオと猩影も従って身を乗り出し、以降はひそひそと、本格的な企み事が始まった。

 話が決まれば後は早い。
 人々と関わって暮らしていると言っても、花霞一家の誰もが立派な妖怪で、消えようかと視線で示し合わせばあら不思議、次にはどろんと夢のように幻のように、何も残さず消えてしまうことだってできる。

 伏目の護法たちは、屋敷を気に入り賑やかに暮らしていたけれど、何より大将大事の者ばかりだ。
 それは、住み良い屋敷を、気に入りの寝床を、離れるのは惜しいが、これまでただの一言も、どんなに親しくしていた護法が暇を求めたときだって、決して引き留めるような真似はしなかった大将に、お前たちと離れるのは寂しいから、一緒に来てくれるかいと、照れ臭そうに言われる方が、よほどに嬉しい。
 富士山麓の雪屋敷の主、雪羅とは昔、敵同士であった事から、渋面を作って唸った鬼童丸ですら、リクオに手を取られて、己の師として父として、きちんと紹介もしたいのだと請われると、口元を綻ばせるぐらいなのだから。

 護法たちはすぐに身の回りを整え、荷をまとめ、屋敷をすっかり掃き清めた。

 それも、外の人間たちには見えない話であったので、皆くすくすと笑いながら、悪戯を企むときのようにどこか浮ついた気持ちである。
 ではさて、人間たちが騒ぎに気づかなかったと言えば、ただの人間たちならせいぜい、いつもより風が強いようだとか、信心深い者でも、いつもより伏目の小物たちの笑い声が大きいようだとかを察した程度であったろうが、玄関口まで迫っているのは、見えぬものを視、聞けぬものを聴く、陰陽師たちである。

「奴等、騒がしいが何か始める気だろうか」
「伏目殿のことだから、まさか荒ぶられるようなことは、ないだろうが」

 たてこもった息子たちを連れ戻すため駆り出された、八十流、福寿流、そして何故か愛華流の陰陽師たちはもちろん気づき、不安がった。
 しかし、ためしに家を出入りする者たちに ――― 人間だと思われるのだが、只人ではないとも思われる。とかく伏目にはこういう者が多い。いや、こういう家人ばかりだ ――― たずねてみたところ、週末金曜日に花火大会があるから、それで皆浮かれているのだ、などと言う。
 宇治川で花火大会があるのは、たしかだ。
 今年は京都が羽衣狐から解放された年。その分、穏和な護法たちが平和を謳歌してはしゃぐのだと言われてみれば、そうかと思えた。

 伏目屋敷門前の戦いが始まってからも、屋敷の者たちは外の試合など関せずで、屋敷の主も昼の間は義務教育の身なので、学校にも行くし、陰陽師なので仕事にも行く。
 姿を明王へ変じてからは、妖たちが集う異界へ赴き、男衆向けの仕事をしたり、相談事も受けているらしい。
 戦いがあると言っても、出入りがあるのは当然だ。

 それに、格流派の当主たちに従う陰陽師とは言え、噂に聞いていた伏目鎮護の昼も夜もない働きぶりを実際に目にして感心する反面、子供ながらに遊ぶ時間も満足に持てないらしいのを痛ましくも感じていたので、屋敷連中と一緒に花火を見に行くのは、悪いことではないように思えた。

 こう言った経緯から、その、花火の夜。
 夕暮れ時になって、一匹、また一匹と。
 茶釜狸を筆頭にして小物たちが、風呂敷包みを背にとことこと勝手口から出ていく様子を目にしても、陰陽師たちは己の当主たちに報告などしなかった。
 当主たちは子供等を相手どった手前、何やら小難しい理屈を使い、因縁をつけているとしか思えぬ強硬な態度で伏目鎮護の非を唱えていたものの、彼等は当主たちよりやや己等を客観的に見ることができたので、玄関口を騒がせているのは己等の方であるのだから、せめて少しの息抜きぐらいは見逃すのが人情というものだろうと判じた。
 とっとことっとこ、一匹、二匹と闇夜に消えていく小物等の後に続くようにして、女怪たちや大物たち、副将等、最後に玄関口にとどまっていた鬼童丸すら、ゆらに一言後を頼むと言い添えて消えてしまったところで、やっと分家当主たちは事態に気づいた始末だ。

 やけに屋敷が静かだと思われたところで、陰陽師たちを阻んでいた金屏風結界がふわりと消え、また、当主たちが嫡男たちとの試合場所に使っていた異界も、幻のように消え去ってしまい、誰もが伏目門前で、夢から醒めたばかりのように、しばし、はたと立ち尽くす。

「何だ………妖気が消えた?」
「どうした。いったい、何があった?」
「伏目鎮護殿はどこに居る。当主候補となられるその前に、本当にその覚悟がおありなら、妖気封じの儀を受けられませ!」

 若武者のように髪を高く結い上げた、袴姿の女当主が、額の汗を拭いもせず声を張り上げると、彼等と同じく異界から門前に吐き出された秋房が、苦い溜息をついた。

「まだそんな事を仰せなのか。それらしく聞こえる言葉を選べば、どんなむごい仕打ちでも許されるとでも思っているのか?所詮あなた方がしようとしていることは、伏目鎮護殿に流派の後ろ盾がないのを良いことに、痛めつけようとしているだけではないか。己の流派以外の者が当主になるのが気に食わないか。お家がそんなに大事か。甘い汁がそんなに吸いたいか。その嫉妬も執着も欲望も全て、貴女が忌み嫌う妖の道に通ずるものだと言うのに。恥を知れ!」
「な………、秋房殿、封印鎮護の一を担う方とは言え、私は愛華流の当主であるぞ。礼をわきまえられるのはそちらだろう!」
「身分の上での礼儀だ何だと言う前に、己の行いが人間として恥ずかしくないのかと尋ねているのです。自分の息子とそれほど年の変わらない少年に、私情で折檻しようとしてるんだぞ、貴女は!」
「口が過ぎるぞ、秋房!」
「父さんも父さんだ!まだ八十流から当主を出そうなどと考えているのかい。そんなもの、これから先、いくらだってあるかもしれないじゃないか。こんなむごいことに手を貸してまで、当主の座が欲しいのか!」
「違う!私は、私はお前のためを思って!お前が血の滲むような努力をしてきたのを知っているから、せめてたった一度でもいい、当主に押し上げてやりたいのだ。父と母の心をわかれとは言わん、しかし後できっとわかるときがくる。秋房、今はわからずとも、きっと………」
「ああ、わからないな!私の努力とやらを、このように踏みにじる父には、私の気持ちなど決してわからないだろうよ!努力が報われる場所が当主か!当主にならなければ、報われたとは言えないのか!それ以外に努力が認められる場所はないというのなら、父さん、貴方と私が父子であるのは、これまでだ!私は、己が、未来の当主たちを守れる程度の力を備えるに至ったこと、誉れと思いこそすれ、決して無駄だったと思いはしないのだから!」
「秋房………」
「………あんなぁ、八十流のおっちゃん。リクオはな、ありがとうって、よく言うんよ。どんなちっちゃいことでも、ありがとう、ってな」

 四方八方、最大で十二の式神を従え一騎当千の活躍を見せていたゆらは、肩から荒く息をしていたのを、一度深呼吸しただけで整えると、意志の強そうな瞳で、物怖じせず大人の瞳を射抜く。

「だからうちもな、またあいつのために、何かしてやりたいって思うんや。守ってやりたいって思うんやわ。けどな、やりすぎると、リクオは困るって言う。こっちがよかれと思って棒きれ持っていじめっ子をいじめ返してやってもな、それはあかんって言いはる。おっちゃんがやってるんは、そういうこととちゃう?」
「やめとけ、ゆら。そんな正論、絶対通じへんて。あちらさんは俺等のこと、まだまだケツの青いガキやと思ってんやから。どんだけ言うたかて、ガキが何言うてるかと思われるだけや。耳素通りや。馬耳東風、柳に風、こんにゃくに斬鉄剣。子離れしてくれるまで、こっちは嵐が通り過ぎるのを待つしかない」

 疲労困憊した様子で玄関口から現れたのは、ここまで眠りながらでも金屏風結界を維持し続けた、雅次だった。
 当主陣の中で、一人おろおろとしていた福寿流当主は、息子の顔を見て青ざめ、まさに息子が言ったとおり、息子の言葉など全く聞こえていない様子であった。

「ま、ま、雅次!いったい何が不満だと言うんだ!どうして父さんたちの気持ちがわかってくれないんだい。こんなところで妖怪たちとその………ふ、ふ、ふ、不純異性交遊だと疑われでもしたら、どうするんだ!絶対にお前のためにならないよ、将来、絶対に後悔する日がくる!だから今は、父さんたちの言うことを聞いておきなさい。きっと、後から感謝するだろうから………。冷や酒と親の小言は後からきいてくると言ってだねぇ」
「父さん、俺は俺の人生を歩もうとしているだけであって、後悔しない人生を歩もうとしているわけじゃない。後悔たっぷりだけど、あれもあったしこれもあったな、なんて、爺さんになってからほら吹きやと思われるほどにエピソードたっぷりだった方が、ちょっと楽しそうだとも思うしな。老人ホームで若いお姉さんたちに大人気になるのも良さそうだし。だから、父さんが思い描く人生を歩むことはできない。育ててくれて、ありがとうな。それがわかるまで、父さんたちと俺は、ちょっと間を置いたほうがいいと思うんだ」
「間を置くって ――― どういうこと、だい?」

 妖気を失い、しんと静まりかえった屋敷。
 常なら夕暮れ時から、誰かがくすくすと笑う声、風もないのにちりんと鳴る風鈴、春でもないのに香る風、冬でもないのに幻視される六花、塵界にありながら桃源郷に迷いこんだような、心を浮き立たせるような、解かせるようなものがあるというのに、そしてそれを当主等は、妖の誘いであるとして、子供のようにはしゃぎたくなる心を封じるのに精一杯になるというのに、今日はそれがない。

 この屋敷は、《空》だった。いわば、《畏》を失っているのだ。
 当主等三人が感づいたとき、からん、ころん、と、門前への坂道を登ってくる人影があった。

「やれやれ、ついにやってしまいましたねぇ、八十流、愛華流、そして福寿流の御三方」

 花開院竜二、その人は、門前にたどり着くと、にやり、実に堂に入った悪人の笑みを浮かべた。

「京都は日本の中で最も妖に狙われやすい土地。螺旋の封印があろうとなかろうと、この土地が放つ力を求めて、ありとあらゆるあやしのものが集い寄る。それをうちの弟が ――― 失礼、花霞リクオが纏め上げ、人と妖の均衡を保っていたところへ、これこの通り、御三方がこのような騒ぎを門前で起こすものだから、この屋敷の妖怪たちもゆっくり休めなくなったらしい。既に屋敷はもぬけの殻だ。参りましたなー。しかも、花霞一家の行方はようとして知れぬときた」
「ば、馬鹿な。伏目殿が鎮護を投げ出したと言われるか?!そのような事が許されるか!!」
「花霞リクオ自身が逃げ出さずとも、あれを大事と思う護法どもが、大将を抱えて逃げ出したのかもしれませぬな。ほれ、良く言うでしょう」

 目を見開く女当主に向かって、竜二は笑んだまま、

「沈む船からは、鼠も逃げ出すと」

 真っ青になるようなことを言う。

「羽衣狐が居なくなったと思ったら、今度は内輪もめを始める花開院家。千年続く陰陽師の大家とは言え、内実は、護法たちの力や奴良組の力が無かったなら、羽衣狐に手も足も出なかっただろうほどに弱体化。そのくせ、護法たちに感謝するどころか、力が強まった大将を封じようとするのでは、いかに従順な護法たちとて、腹に据えかねた、というところでしょう。反撃とならなかったのは、せめてもの慈悲 ――― ではないですかな。良かったですな、お望み通り、伏目封印鎮護は消えた。しかし花開院家としては、困る。実に困る。この伏目は螺旋の封印で一番最初に狙われる場所。その上、これまでの当主は妖たちの情報にも通じ、羽衣狐との戦いの際は、彼奴等が攻め込むのを見計らい、こちらに情報を流して無益な争いを回避させることができたが、一体この中の誰が、同じように妖怪たちに内通することができるというのか。
 もっとも、無くなってしまったものを悔やんでも、致し方ない。御三方が追い出したのだから、御三方の流派からそれぞれ筆頭たる陰陽師を出していただこう。それでもって、伏目封印鎮護にあてる。いかがですかな」
「勝手なことを!本家と言えど、口が過ぎるぞ、私を誰だと思っているのだ、花開院竜二!……伏目が空になっただと?馬鹿な。あの花霞リクオが、他のどこに行くあてがあると言うのか ――― !」

 愛華流の女当主は、白いおもてを上気させるほどに怒った。
 しかし、この言葉は、その場の他の二人の当主、前に立ちふさがる兄妹たち、それに、深い事情を知らぬ陰陽師たちの中にも、彼女への不信の芽を抱かせるに充分だった。
 彼女の中でのリクオへの認識は、一年前までなら正しいものであったろうが、今はそうではないのである。

「お忘れかもしれないが、愛華流の。花霞リクオはその姓を捨て花開院家にあると言え、関東で魑魅魍魎の主として知られる奴良鯉伴の実の息子なのだ。これまで連絡を取り合う手段が無かったために確かめる術がなかったが、今ははっきりとわかっている事が、一つある。リクオを関東から追いやったのは、その奴良鯉伴ではなく、別の意志であり、さらにその別の意志とやらを、奴良鯉伴は駆逐し、リクオを関東奴良組の若頭として迎えるに至った。加えて、羽衣狐を廃したのが己であるにも関わらず、奴良組の息がかかっている大妖怪をこちらに寄越さず、リクオを返したのみだ。この話は、本家当主から各分家の方々へ、お伝えしたと思っていたが?それとも、この意味が、おわかりにならないか?
 リクオはいつでも、京都など捨てて東京へ帰れる。伏目鎮護の重圧も、京都守護職として妖と人との折衷などという面倒な役目も、いつでも、全て捨てられる。いや、あいつは元々、いつでも捨てられたのさ。こんな狭い町一つに閉じこもらず、東でも西でも海の向こうでも、やっていけるだけの度量のある奴だ。
 今までそれをしなかったあいつが、こうして消えた ――― あなた方が追い出したというのも、おこがましいかな。言うなれば、ついに見捨てられたのだ、あなた方は。愛華流の。貴方の愛息の命の恩人に、貴方は見捨てられたのだ」

 リクオが本家で語った東京でのあらましは、各分家へも確かに、書でもって伝わっていた。
 愛華流も例外ではなかったが、女当主は初めて、事態を理解したらしい。妖を軽んじるがために、妖の家の若頭がどうの、関東の勢力がどうのという部分には全く興味を示さず、よく読まずにいたのが失策だった。

 青ざめて、前に立ちふさがる兄妹たちを押しのけ、伏目屋敷に足を踏み入れた彼女は、下駄を脱ぐのもそこそこ、無遠慮に屋敷に上がって奥へ入り、あちこちの障子を開け放つも、どこにも屋敷の主の姿どころか、いつも彼にじゃれていた小物たちの影すら見当たらず、しんと静まり返っているのを見て、その場にへたりと座り込んでしまった。

 ついに追い出してやったぞと、常の彼女なら拳を天に突き上げて歓喜していたろうに、また、彼女も今がそうすべき時であると頭ではわかっていたはずなのに、何故だか、そうする気など、まるで起こらなかった。

 見捨てられた。
 追い出したのではない、《ついに》、見捨てられたのだ。

 竜二の言霊が、胸の内側にべったりと貼りついて、唾を飲むのも一苦労だった。

 沈む船からは、鼠も逃げ出す。

 次にこの言葉を思いだすと、しんと静まりかえり、明かりの消えた屋敷の底から、じわじわと恐怖が包み込むように思えて、ぞくりと体を震わせた。
 いざ、花霞リクオを失ったと思ってみれば、では次に京都近辺に大妖が出たならどうするのか、京都の妖たちが暴動でも起こしたならどうするのか、次々と悪い考えが浮かんでくるのだった。



+++



 それからどれくらい、呆然と座り込んでいたろうか。
 宵闇に飲み込まれた屋敷の中にも、どこからか、その歌声が届いた。



 まーるたーけえーべすーにおーしおーいけぇー。



 最初は小さく。次第に、大きくなって。



 あねさーんろっかく、たーこにーしきーぃ。



 手鞠歌である。
 竜二に脅されたせいではないだろうが、不気味に感じられた。
 歌はまるで空から降ってくるかのように、近づいてくるのだ。
 女当主が、悪い予感に為すすべなく、身をすくませていると、ずずん、と、大きな足がゆっくりと側に降り立ったような地響きがしたかと思えば、

「お姉さま、つきましたよ!あ、お足元、気をつけてくださいね!」
「ありがとう、狂骨。しかし………知っている顔が迎えてくれると聞いていましたが、《破軍》の使い手さん、ええと、お名前は………すみません、私としたことが、存じ上げないままでした。でも、きっと、貴女のことではありませんよね?」

 聞き覚えのある声、女当主の顔を今度こそ蒼白にするほどの、恐怖の記憶を呼び覚ます声が、玄関口から聞こえてくるではないか。
 女当主ばかりではない、玄関前の陰陽師等にとっても、その声は混乱をもたらすものであった。
 これはならないとすっくと立ち上がったものの、次々目まぐるしく変わるあれこれに、一瞬目の前が真っ暗になって、立ちすくんだ。

 彼女が、人っ子一人いない座敷でそうしている間に、来客に気がついたのだろう、屋敷の奥からぱたぱたと軽い足音をさせて、カナが座敷の前を通り過ぎ、「はいはい、ただいま参りますー!」明るい声を上げて玄関へ赴くではないか。
 女当主も、慌ててこれを追い、玄関口にたどり着いたところで、悪い予感が形となって訪れたのを目にした。

 これまで、分家の当主たちと息子たちがにらみ合っていた門前で、今度は、分家の当主等、それに手勢の陰陽師等、さらには、彼等と向かい合っていた分家の義兄弟たちまでが、降り立ったそれを遠巻きにして輪をつくり、恐れおののいていた。

 輪の中心にいるのは、漆黒の髪、漆黒の瞳、白い肌を漆黒のセーラー服に身を包み、そよぐ風にあおられた長い髪を、つと華奢な手でおさえた、少女。
 狂骨娘を傍らに、白蔵主を後ろに、まだ背骨や頭のあちこちに包帯を巻いたがしゃどくろから降り立ったのは。
 羽衣狐、そのひとだ。

 何故ここに。いったいどうして。
 誰もが思いながら声一つ出せずにいるうち、狂骨娘は周囲の人間たちに辟易として、不機嫌を隠しもせずに肩をすくめた。

「なんだなんだ、人間くさいのは覚悟していたが、人間ども、お姉さまをそのようにじろじろと見るな、無礼だぞ!家人を一人残してあると聞いていたが、そやつはどいつだ!」
「お待ちしておりました、狐さま、私です」
「おや………」

 立ちすくむ女当主の背から、意を決したように一歩前に出たカナを、羽衣狐は ――― いや、羽衣狐でもある山吹乙女は、懐かしむように目を細めて認めた。

「ヨウコ。………そう、貴女でしたか。リクオから話は聞いているのですね」
「はい。伏目明王さまがお留守の間、この屋敷を狐さまにお任せすること、伺っております。またその間の身の回りのお世話を、仰せつかりました。精一杯お仕えいたしますので、よろしく、お願いいたします」
「こちらこそ、よろしゅう頼みます。しかし、無理をする必要はありませんよ。貴女を殺そうとした私を、怖く思わないはずがないでしょう。伏目明王殿も酷なことをなさる………」
「いいえ、お願いしたのは、私なんです。狐さまと、それでももう一度お会いしたいと、そう願ったんです。狐さまの本も、全部お預かりしてましたし、それに、その………、狐さまにとってはままごとのようなものであったとしても、私にとっては、狐様にお屋敷に招かれて、お話をさせていただけた時間は、本当に大切な時間でした。例え、狐様にとっては、とるにたらないごっこ遊びだったのだとしても、その気まぐれに、私はきちんと感謝を言いたいと思っていたんです」
「ヨウコ………強うなるものですね。人間とは、本当、少し見ない間に、目まぐるしく変わっていく。羨ましいこと」
「狐様のように、強くなりたいと思いましたから。毅然と、凛としていたいと、思わせてくださいました。だから、その御恩返しのためにも、お世話をさせていただきます」

 カナよりも強いはずの陰陽師が誰も、恐怖と驚愕で動けないでいる中で、カナは、その場の誰よりも、毅然と立って、そして、笑っていた。
 常におどおどと、相手の顔色をうかがうかうような視線を相手に向けていたか、誰とも視線を合わせないように顔を伏せていたかしていたのに、少しの間、伏目の護法たちと過ごしていただけで、彼女は変わった。
 誰が変えたのでもない、彼女が自ら変わったのだ。
 屋敷に住むもの全員が家族として扱われる伏目屋敷で、彼女もまた家族として扱われる中で暮らし、ゆったりと時が流れる伏目屋敷で、静かに傷を癒しながら、過ごしてきたのである。

 以前までの彼女なら、いかに羽衣狐と山吹乙女が解け合い、もう人を傷つけることはないはずだとリクオに言われていたとしても、己の生き肝を抉ろうとした妖を前にして、毅然と顔を上げてはいられなかったろう。
 いや、強さを得たとしても、リクオ以外の陰陽師に師事していたなら、どうしてあんなことをしたのだ、どうして嘘をついたのだと責めもせず、

「そしてもしかなうなら、今度こそ私、狐様とちゃんとお友達になりたいんです」

 こんな事を言えはしなかったろう。

 彼女へどのように謝ろうか、どんな言葉で謝れば良いと言うのかと、視線を伏せていた羽衣狐、いや山吹乙女の方こそ、度肝を抜かれて、その黒目がちな瞳を、大きく見開いたほどだった。

「お、お姉さまに向かって、なれなれしいぞ、人間風情が!お前は黙ってお姉さまのお世話をしていればそれで ――― お姉さま?」
「いいのです、狂骨」
「でも……」
「いいのです」
「……………」

 間に入って我が主を庇おうとしていた狂骨娘の肩にそっと手を置き下がらせると、二人の少女は向かい合った。

「ヨウコ、私は貴女を、かつて騙していたのですよ」
「もちろん、それは酷いと思います」
「………すまなんだ。裏切りを繰り返す人間どもをあざ笑い真似ているうち、いつしか、己がそんな人間たちに毒されているのを、気づかぬままになっていたようです。こんな女を、まだ友と、呼んでくれるのですか、ヨウコ」
「カナです」
「え?」
「家長カナ、と言います。ナカジマヨウコはあだ名でしたよね?友達になるなら、まずは自己紹介から、だと思います」
「なるほど。なら、私は…………」

 羽衣狐であり、山吹乙女である彼女は、両手で鞄を持ちながら、ふと天を仰ぎ、

「羽衣狐、山吹乙女、どちらも私であって、私の前世であって、今の私ではないから…………」

 では己は何であろう、とさらに考え、うん、と頷いて微笑んだ。

「羽山衣吹。衣吹と、呼んでください。カナさん」
「はやま、いぶきさん。それが、狐様のお名前なんですね?よろしくお願いします、衣吹さん」
「こちらこそ、カナさん。しばらく、ご厄介になります」

 陰陽師たちが呆然としているうちに、話はまとまってしまった。
 その中で、一番に立ち直りが早かったのは、やはり若き次世代の陰陽師たちである。

「…………普通にありそうな名前になった」と、秋房。
「混ぜるな危険」と、雅次。
「化学反応とか、起きやしないだろうな。おいおい、妖怪側の留守役は力のある大妖に頼んであるとか言ってたが………これは聞いてねぇぞ、リクオ」と、竜二。

 花霞リクオが留守の間、伏目鎮護の役目は義兄弟に頼むとして、妖たちを抑える役目は信をおける大妖に頼むつもりだから、などと言っていた弟の涼しい顔を思い出し、義兄妹たちはお互い顔を見合わせて ―――

「 ――― 秋房義兄ちゃんと雅次義兄ちゃんは、これからあの羽山さんと一つ屋根の下でしばらく暮らすんやね。家出生活、頑張ってな」

 ゆらの言葉をとどめに、がくりと二人の義兄は項垂れた。

 陰陽師たちの戸惑いをよそに、羽衣狐または山吹乙女、改めて羽山衣吹は、カナと他愛ない話に微笑み、またカナも玄関口では何だからとにかく入ってくださいな、と、彼女に従う妖怪たちもろとも、屋敷に招き入れようとする。
 いかぬ、と、立ちはだかったのは、青い顔のままでも陰陽師としての矜持に背を押されたか、愛華流の女当主だった。

「何を ――― 何を、何を、勝手に話をまとめているのか!ここを何だと思っている!螺旋の封印が八、始まりの一つ。そこを空にしたと思ったら、今度は羽衣狐に明け渡すだと?!伏目殿は血迷われた!何をしている、皆、断固としてこの狐を屋敷に入れてはならぬぞ、陣を敷け!印を組め!」

 カナが招こうとした屋敷の玄関前に立ちふさがり、自ら、オォン、と印を組んだ女当主を前に、衣吹は困ったように首を傾げた。
 さらり、光を吸い込むような闇色の髪が、動きを追って細い体を撫ぜる。

「 ――― そうですよね。私はずいぶんとあなた達を痛めつけたし、あなた達の同朋の命を奪いも致しましたから、それを許していただけるとは思っておりません。私もかつて人間たちに裏切られ、心なきもののように殺められたこともあります。どうしてもそれを許せぬのと、同じことなのでしょう。
 じゃが、妾はあの坊やに、坊やの留守を頼まれておる。女、そうキイキイ鳴いて邪魔をするでない。妾はただこの屋敷の留守を預かりに来ただけじゃ。こうも綺麗に封印が敷き直されてしまった以上は、妾を含めた妖たちにとって、京の都はそれ自体が縛りに等しく、たいしたこともできぬし、する気ものうなったのだから、許さんでもいい、妾がお前達をそう思うように、目に映らぬもの、蠢くもの、ただそこに在るものとだけ思えばよいであろう」
「何を勝手なことをほざくか!妖の言うことを、誰が信じる!いつその力でもって我等に刃向かうか、わかったものではない!」
「刃向かう?これは異なことを申すものだのう。女、一つ教えておいてやろう。刃向かうと言うのはな、力なきものが、力あるものを倒そうと考え、力を使うことを言うのだ。妾が貴様等に刃向かう?何故その必要がある。妾が指一つ動かせば、たちまち潰れて消え去る貴様等に、何故妾が、刃向かわねばならぬのだ?」

 それでも尚、何か言い返そうとした女当主を、止めたのは八十流当主である。
 彼女ほどではないにしろ、忘れもしない仇敵を前に顔色を失った彼は、彼女の腕を引き、衣吹の前から立ち退かせた。

「ここは退こう、愛華流の」
「何を弱気になっておられる、八十流の!螺旋の封印の中ならば、この女狐を捕らえることぐらいできよう!我等が一丸となれば!」

 彼女が目の前から消えたことで、衣吹は剣呑な表情を消し、肩にかかった髪の毛を背に払うと、もう女当主のことなど忘れてしまったかのように、温和な物腰でカナに案内の続きを頼んでいる。
 そのまま見送っていれば、この後の喜劇 ――― 花開院にとっては惨劇 ――― は、生まれなかったろうが、

「伏目殿のように、封じ、縛りを与えて、花開院が護法として飼うぐらいのことはできるやもしれませんのに!」

 女当主が興奮気味に言ったものだから、屋敷の玄関に片足を入れていた衣吹は、女当主を思い出してしまった。

「飼う?……今、飼うと申したか?」
「そうとも!犬畜生に劣る妖が、人の世で生きていくためには我等に飼われるしか、なかろう?」
「……なれば、伏目明王は、お主に飼われている、と申すか?」
「そ、そうだ!この屋敷とて、花開院家が貸し与えているものに過ぎぬ!」
「ほほーう……」

 ざわり。
 衣吹を覆う宵闇が、人間の目にも、濃くなったように見えた。

 ざわり。
 あたりの木々の枝が、風も無いのに、興奮したように、さわさわと木の葉を揺らす。

「あの童子が常に忌み文字で、己の妖気を縛る不自由に身を置いていたのを、妾も不可思議に思っていたものよ。当人は強くなるためなどと濁しておったが、なにせあのような縛りは、我等にとって、常に肌を焼かれているのと、常に肉を刻まれているのと同じ。ほうほう、そうか、そうか、お主等はあの童子にそうやって言うことをきかせたつもりになっていたか ――― やれ、何やら腹が立ってきたのう。妾への無礼は下賤な人間どものなすこととして放免するとしても、あの坊やを、飼っている、などと言うたわけた物言いは、捨て置けぬなぁ。
 のう女、お主、子はあるか」
「そ、それがどうした!私の息子に手出しをするつもりか?!」
「ほう。あるのか。ならばわかろう」

 くるり、振り返った女は、これで封印の効果が本当にあるのかと誰もが疑うほど、濃い闇の空気を纏っている。
 それこそ、羽衣のように幾重にも。

 笑みを消した彼女は、闇の羽衣を纏わせたまま、ぞろり、足元に己の尻尾を出した。
 その数、十本。

 その場の誰もが息を呑み、しかしこれ以上刺激してはならぬと思えば下手に印も組めない。
 いや、考える以前に、彼女の《畏》を前にして、もう誰も、動けはしなかった。

 その十尾目についと手を伸ばし、彼女が白い手で取り出すのは、いかなる太刀か、扇か、槍か、はたまたどんな雷鳴が轟くのか ――― 過ぎた言葉を取り戻すことは出来ず、《畏》に飲まれた女当主は目を見開いたまま、その脳天に、



「よくもうちの子を、虐めてくれたな!」



 スパアァァァァァアアアアアンッッッ!!!



 十尾のハリセンの一撃を受け、緊張が切れたと同時、ふつりと意識を手放したのだった。



「衣吹さん、それは、一体?」
「十尾のハリセンです。最近の関西地方では必需品だと聞いていましたが、早速役にたちましたね」
「さすがです、お姉さま!」

 こうして、羽衣狐または山吹乙女、改め、羽山衣吹は、伏目屋敷に入った。
 伏目明王の留守を聞いた京都のチンピラ妖怪たちが、羽を伸ばせると笑っていたのも束の間、伏目明王よりもよほど怖ろしい先代の京の主の思わぬ返り咲きに、笑おうとして開けた口を、そのままあんぐりと開け放つしかなかったのだとか。



<花開院七日間戦争・了>