伏目での騒ぎをよそに、花霞一家は宇治川に折鶴の船を浮かべて、大空に咲く大輪の火花を、甲板や船室の窓から思い思い、眺めやっていた。
 船は、リクオが懇意にしている白蛇店長を中心とした、東山の古い妖怪たちが使う客船を一隻、借り受けたものだ。
 その名も、白鶴丸、という。

 見た目は白い折鶴だ。
 人からは、誰かが手慰みに折った鶴が、するすると水面を滑っていくようにしか見えない。

 その実、優しく翼を広げた折鶴は、一家全員が乗り込んでもまだ広く感じるほどに、あらかじめ部屋の数も多く作られている。見た目も良いが、中はちょっとした料亭のような作りで、広間から小部屋までがあるだけではなく、露天風呂や、能や歌舞伎の舞台、賭場、散策のための庭など、およそ遊興にふけるためのものが一通り、揃っている。
 商売の神とも呼ばれる白蛇店長や、まつわる土地神たちが、己等を厚く信仰する人間たちに応じて、その人間の商売相手を夢で招いて手厚くもてなすための豪華客船であるから、奴良組の宝船と比べると、やや華奢に過ぎるものの、彼等の旅は争いのためではない、大将の嫁取りのため、大将御自ら妻となる女の故郷へご挨拶申し上げるためのものなのだ、蜜月にはげにふさわしき船であった。

 船の中でも、一番に立派なしつらえの貴賓室では、窓を開け放ち、甲板で遊ぶ一家の者どもの明るい声や、まるで一面の花畑のように川面に映る花火にうっとりと目を細める大将夫婦が、肩を寄せ合いくつろいでいる。

 最初は誰かしらが二人の周囲に集って、酒肴だを揃えたり、涼風が満ちるようにしかけを動かしたりと、過ごしやすいようにしていただくためのお世話に余念がなかった。
 お二人は仲睦まじく、側にいると、いつくしみや思いやりの気持ちが皆の心の内にまでわき起こるほど。
 これまでは、どんなに大将が頼もしくおわしても、どこかいぶせしけしきがあるように思われてならなかったのが、お二人揃っておわすと、げにおぼつかぬものは、このお二人が別々のところで、一人ずつであったからなのだ、それがこれからは、ちゃんとお二人揃って、手を携えて行けるのだから、いよいよ何も心配はないのだと思われる。

 やがて、二人の邪魔をしてはなるまいと、誰からか他に用を見つけるふりをして部屋を去った後は、二人はどこか浮き立ったような顔持ちで、少年少女のように笑い合ったり、互いに盃に酌をして酒を含んだり、不意に訪れた二人きりの時間を、大いに楽しんでいるのだった。

 リクオは昼と夜いずれの姿でも、以前己で言ったように食への意欲は薄く、伏目屋敷で賄いに立つのも、護法たちの腹を満たすためであって己のためではないので、今のように出先で誰かしら別のものが賄いをするとなると、膳が用意されても箸をつける様子も無いし、屋敷でも、特に夕餉の時間などは、陰陽師の仕事と異界祇園の仕事の合間になることが多く、時間も許さないから自然と何も含まずにいることが多い。
 雪女を迎えてからは、帰りが遅くなるならなるで、夜食に差し障りの無い一品が用意されており、含んでから床につくことが多くなったものの、今日のように出先でとなると、妻が作ったものでないとわかるためか食指が動かないらしい。

 ところがこんな時でも、素直で真面目な雪女は妻としての役目とばかり、にっこり笑って「はい、あーんして」と来る。
 リクオの食が細いのを知ってから、雪女は暇を見つけて彼の側に侍り、人前であろうとなかろうとこのように世話をしようとするので、以前化猫屋で、嫌な気持ちはしないしむしろ嬉しいと伝えたは伝えたものの、こうも毎日のようだと照れ臭くもなる。

 今日は良い機会だったから、「そんな風にオレのことばかり気にせずに、自分の食べたいモン、食べたらええのに」とやんわり言ってみると、雪女はとんでもないこと、と、きりり顔を引き締めて、「いいえ、竜二お義兄さまに、リクオ様にはちゃんとこうして物を含ませるよう、言い聞かせられておりますから」と返してきた。

「竜二兄に?」
「はい。リクオ様は人の身でありながら如来、妖の身でありながら明王として信仰を集める御方。なれば、自然と塵界の食物は口に合わなくなるのだろう、人が神仏の御前に捧げたとしても神仏が直接祭壇の向こうから手を伸ばして物を食するわけではないが、神仏にとっては捧げられる行為こそ、つまり《畏》こそが力の源になるのだから、こうしたことは必要なのだと」

 竜二はつまり、「はい、あーん」がリクオにとっては必要不可欠なのだと、この雪女に説いたらしい。
 リクオには容易に想像がついた。
 人を疑うことを知らぬ、嘘が嫌いな雪女、しかも人の嘘に身をさらされたことのないこの雪娘が、竜二の言霊に容易に絡められる様子が。
 しかし、いやそれは、兄が真面目な顔でお前をからかったんだよと言うのもここでは憚られ、リクオは今一度、「はい、あーんしてくださいね、リクオ様」と迫られて、口を開けるしかなかったのである。

 その間にも、船は下る。
 このまま船が宇治川を下れば、やがて大阪湾に出る。
 富士山麓へは、駿河湾から川を遡り、途中、地下に潜って水脈を辿れば、樹海の船着き場へつくのだそうだ。
 人の身では考えられない道行きであろうが、彼等は人ならざるものなのである。夜のうちに異界に入ってさえしまえば、リクオも妖気満ちる場所では妖の姿のままでいられるので、旅に不自由は無い。

 船の手配から航路の見定め、船着き場への前触れや先方への使者などは、副将たちが分担し、さらに配下へ任せたので、これにはリクオは考えを述べただけで、自分では全く動いていなかった。
 副将二人に言わせると、大将に任せるといざというところでやはり分家当主等に遠慮したり、京都を留守にするのをためらったりするであろうから、後戻りできないところまでの準備は、己等の仕事なのだそうだ。
 己自身の保身を考えぬ大将に対して、ある一面では全く信用していない副将たちであった。

 もっともそのおかげで、計画から三日とたたぬうちに出発できた。
 己の孫の、常に遠慮がちで受け身な物腰、度を超した、責め苦に近い要望にすら逆らわぬ様子に、危機を覚えつつも本人を叱るわけにもいかずその気もない初代としては、実に幸先の良い展開に思われた。

 酒が入ったこともあってついつい口元を綻ばせ、

「さぁて、今頃伏目じゃあ、あの分家の姉ちゃんが羽衣狐を前に、白目をむいてる頃かねぇ」

 孫が、それだけが心配だと最後まで気に病んでいたとは知りつつも、逆にそうなって欲しいと思っているのを隠しきれなくなり、酒で唇を湿らせたついで、喉の奥でくくりと笑うのだった。

「滅多なことを言うな。ぬらりひょんよ、お主、リクオ相手には調子の良いことを言って、後押ししていたではないか」
「あの姉さんも陰陽師なんだ、勝てない相手を見極めるぐらいはするだろうって、そりゃあ、本心から言ったさ。もっとも、あの姉さんがわしの予想を超えて、てめぇの実力とやらを過信していたり、傲慢であったり、了見が狭かったりする場合は、その限りじゃねぇがなぁ。
 第一あそこでそうとでも言ってなきゃ、リクオの奴ぁこの船旅、寸前でやはりやめようとでも言いそうだったじゃねェか。わしゃあリクオが可愛い。あの姉さんが少しばかり痛い目見ても、良心なんぞ痛まんよ。どうせお前さんも同じじゃろうが、鬼童丸」
「……………フン」
「にしてもよ、山吹乙女と融け合ったとは言え、よくも承知してくれたもんじゃのう。羽衣狐にとっちゃ、リクオはワシの孫ってだけじゃねぇ、内応者、裏切者に変わりないじゃろうに」
「羽衣狐様を甘く見るなよ、ぬらりひょん。あの方は、リクオが奴良鯉伴の息子であることなど、見抜いておられた」
「なんじゃと?」
「その上で、真実、己の陣営に引き込もうとしていた。それほどに、あの花霞童子を気に入っていたのよ。晴明様がお生まれになったときには、弟として仕えさせるつもりであったのだろう。生まれも、育ちも、よく似ているゆえに。
 あの方がリクオにあれをなせ、これをなせと無理難題を押しつけ、その魂を闇に堕とそうとしたは、母が子を躾るのと同じこと。立つ場所さえ同じになれば、あのお方がリクオを庇護せぬ道理は無い。本心から母上と呼ばれて頼られて、応じぬはずがない。あのお方は、ただ母であろうとして、千年を生きる大妖となった、そういう妖であるのだ。
 ぬらりひょん、貴様が夢や幻の化身であるのと同じ、羽衣狐様は、母であろうとする、獣の母性の塊であるのよ」
「なるほどねぇ。千年、羽衣狐の側近やってた奴の言葉ってのは、重みが違うわい。案外、お前さんの方がリクオより、この世界をてっぺんからのぞいてる奴ってぇのに、心当たりがあるかもしれねぇな。羽衣狐をそれだけ知ってるんだ、あいつを狙う奴にも、心当たりがあるんじゃないのかい」
「ワシは考えるのが、リクオほど上手くない。だが、言われてみれば、リクオの言う通りだと、そう思う。その程度だ。あの方は、味方は多いが敵も多い、誰に狙われているかなど、心当たりが多すぎて、これとは言えん」

 ぬらりひょんと鬼童丸は、小物等や若い者等が騒ぐ大座敷の、窓辺にしつらえられた、濡れ縁のようなところへ膳と碁盤を移し、脇息でくつろぎながら、花火に目を細めていた。
 その合間に、相手の盃が空になった頃を見計らって酒を注いでやるなど、四百年前では互いに考えられなかったことであろう。

 一家が賑やかに浮き足立った空気をともに享受しつつ、しかし乱世と呼ばれる時代を何度も互いの立場で潜り抜けてきた二人であるので、ただそれだけではいられない。

 二人が思い出すのは、リクオが伏目屋敷を義兄妹だけではない、羽衣狐であり山吹乙女でもある彼女に任せることにしたと、二人に報せてきたときのことだ。
 彼等は、リクオが屋敷の主であると知りつつも、まさかと思って、思いとどまるようにと言わずにはおれなかった。
 いかに、彼女が羽衣狐だけではなくなったと言え、逆に言えば、羽衣狐でもあるのだし、伏目明王の留守を狙って、再び京都を支配下に置こうと考えないとも限らない。まだあの戦いは記憶に新しく、陰陽師たちは警戒し、中には彼女を滅しようとする者もあるだろう。災いの種を呼び寄せるようなものだと、若すぎる主に、己の経験と知恵から進言したつもりだった。

 彼等の言葉を、祖父と師父からの薫陶として受け止めたリクオには、身一つ、一代で己が一家を興した者にありがちな、やや横暴とも取れる頑なさなど、もちろん、全く無かった。
 むしろ、二人に相談すべきであったのに、そうしなかったのは己の落ち度だと詫びた上で、実は、と、口を開き、いつになくたどたどしく、話し始めたのである。

「………実は、ちょっと、怖いなって、思ってるんだ」

 きっとこれまでなら、彼の中でまだ整理しきれていない事柄など、胸の内におさめたままであったのだろう。
 リクオ自身、言葉を探しながら話している様子だった。
 朝方のことであったので、姿は小さな少年のもの。
 加えてそのときは、大人顔負けの言葉をたぐり、慈しみ深く微笑む常の姿からはかけはなれて、何かに怯える様子を見せていた。
 分家当主等に囲まれて、己の血肉を腐らせる蟲毒を浴びよと迫られていたときですら、やわらかに寛容に構えていたというのに、恐怖にだろうか、ふるりと小さく震えた様子など、痛々しくすらあった。

「怖畏あるときには、空観せよ。そうしたいものだって思うのに、まだ全然整理がつかない。だから、上手く言えるかどうかわからないんだけど………。
 ボクが捻眼山で襲われた話は、したよね。大天狗が仕掛けてきた。理由は、ボクが持ってた鶯丸。大天狗は、それを神器だって言ってた。鵺を産みだそうとするために必要な、神器だって。牛鬼の話と併せて聞くと、何でも、《鵺》というのは安部晴明のことではなくて、何か別のものの事を言うらしい。
 《鵺》としての安部晴明は、生まれなかった。けど、《鵺》を生み出そうとする者は、去っていない。夢の中で、ボクにそう語りかけてきたひとがいるんだ。竜二お兄ちゃんは気にするなって言ってくれたけど、ボクは、怖い。
 《鵺》を産みだそうとする者がまだ居るんなら、《鵺》の母胎として千年、期待され続けてきたのは、あの羽衣狐だよね。だったら、《鵺》を産みだそうとする者って、羽衣狐に《鵺》を産む意志が無くなったからって、ただ捨て置くんだろうか。大天狗は、神器の在処すらあればいい、そう言ってた。鶯丸だけが狙われてるのなら、それでいいんだけど、ボクには、それだけだとは、思えないんだよ。
 誰かが、ボクたちが住むこの世界を、遠く遠く、月よりも太陽よりも遠く、須弥山すら眼下に見下ろすような遙かなところから、残酷に見下ろして、どこかへ導こうとしているような、そんな怖さを感じるんだ。空観しようと瞑想すればするほど、その存在の目の前に引きずり出されるような気がして、ボク、すごく怖い。
 まだ、誰がとか、どうやってとか、そういうのは全然わからないんだけど、羽衣狐をこのまま捨て置く、そいつじゃないと思う。今までは、そいつの操り糸が羽衣狐を気づかぬところから動かしていて、今回のことでその糸が切れてしまったのだとしても、今度は無理矢理、ねじ伏せて言うことをきかせるかもしれない。
 そうならないようにするためには、母上には京都に居てもらった方がいい、そんな気がするんだよ。螺旋の封印を張り直したおかげなのか、この中は、ちょっとだけ安全なような、そんな気がするから」

 未だに少女のように優しい面立ちのリクオを前に、二人は黙った。
 花開院家の陰陽師たちだけではない、京都中の妖も、奴良組の妖怪たちも、羽衣狐の驚異が去ったとばかり思って高鼾しているに違いないのに、リクオは、既に何かしらの予兆を感じ取っている。
 取り越し苦労とは、思えなかった。
 捻眼山に大天狗が現れたのは事実であり、《鵺》が安部晴明だけを指すものではないらしいとは、確かに牛鬼からも報告があがっていた。

 半年先か、一年先か、あるいは十年後なのか。
 わからないが、リクオの言う通り、何者かが今も《鵺》を此の世に産み落とすため蠢いているのは、事実だ。

「………とは言え、大天狗の一味が襲撃したところで、遠野も強者揃いだ、ただでは済まぬだろう。もし遠野が襲撃されたなどと聞けば、それこそ、奴良鯉伴も黙ってはおるまい。リクオ、大天狗をそれほど怖れる必要もないのではないか」
「ううん、違う、違うよ、父さん。ああ、本当にごめん、まだ上手く言えないんだ。ボクが怖いって思ってるのは、あの大天狗じゃないんだよ。百物語組はきっと、《鵺を産みだそうとする者》の言うことに耳を貸して、下準備をしているに、違いないんだ。大天狗も、それと同じで、準備のために奔走しているに、違いないんだ。
 ボクはいつか、遠いところでボク等を見下ろしているそいつと、戦わなくちゃ、ならない。
 怖いんだ。ボク、その予感が、すごく、怖い。
 大天狗は、鶯丸を追ってボクの方に来るだろう。
 百物語組は、どこかへ潜伏した。
 じゃあ次は、どこで、何が、どうやって、狙われるのか。どこで、どうやってはわからあないけど、何が、のところには、羽衣狐が入ると思う」
「そいつは、お前の勘かい、リクオ。いや、それならそれでいいんだが、理由があるんなら、聞いておきたくてな」

 鬼童丸と初代は、リクオを宥めるように、落ち着いた声色で語りかけたり、問うたりするのだが、考えれば考えるほど恐怖が心の内からあふれるのか、リクオの顔色は紙のように真っ白であった。
 だが、初代の問いかけには、何やら確信めいたものがあるのか、きゅっと唇を噛み。

「………神器。大天狗は、そう言ってた。神器と言われて連想するのは、剣、勾玉、鏡。なのに、大天狗は鶯丸を見て、神器だって、そう言ってた。勾玉でも、鏡でも良いはずなのに、鶯丸っていう刀を見て、そうだって言ったんだ。
 大天狗は、刀を用意する役目だったんじゃ、ないのかな」
「ほほう。………なら、あとの二つは、別の奴の当番だというわけかい?」
「百物語組は、鏡だった」
「あん?そうだったかい?何やら、けったいな虫をばらまきおったようにしか、思えなかったが」
「圓潮は言ってたよ。《この世界は狭くて、住みにくくなった。だから、まだ人間に地図を作られていない世界へ行く》って。携帯電話だとか、テレビだとか、電波に通じるものに住み着いたように見えた。《もう一つの世界》、これは、《鏡》の向こう側のことじゃないかな。鏡のこちらは現の世界、向こう側は妖の世界。
 だったら、最後の一つは、勾玉。
 ボクにはこれ、陰陽の欠片のことかと思えて。陰陽和合の末に産まれ来るのが赤子だとしたら、必要なのは、《母》。
 判じはボクの役目じゃないし、自分勝手な解釈かもしれない。けど、こんなこと、お兄ちゃんたちにも話す気に、なれなくて。お兄ちゃんたちに話せば、ちゃんと判じようとしてくれるんだけど、その分、花開院の人たちが知ろうとすれば、知れてしまうところに話が転がってしまう」
「リクオ、するってぇと、何かい。花開院の中に、黒幕がいるってぇのかい」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないんだ。そうじゃなくて………ごめん、まだ上手く、説明できないみたい。
 とにかく、母上を守るためには、母上には京都にいてもらった方が、いいと思うんだ。伏目屋敷のためだけじゃない、来るべき戦いを、少しでも有利に進めるために」

 真っ青な顔をしながら、しかし、リクオは毅然と言った。
 屋敷の者どもが皆、大将の嫁取りだと浮かれている中、花霞大将はどこまでも、一家の主であった。
 彼は既に、他の誰もがまだ気づかぬ敵の気配を察知し、屋敷の者どもに気づかれぬうち、既に一石、打っていたのである。

 リクオの本心を聞いて、鬼童丸は師父ではない、主を前にした一鬼として伏したし、初代もまた、己の孫がいまだいとけない外見からは想像もつかぬほど深く物を考えているのに感心して、顎を撫でながらにやりと笑い、「そういうことならわかった。あの怖ぇ九尾の狐が来たんなら、今は外で騒がしくしている花開院家の連中も、いくらか素直にならァな」と応じたのだった。

 時を今、場所を白鶴丸の上に戻して、一際大きな花火が空に咲いたところで、鬼童丸はぐいと酒を呷った。

「千年。長い時であった。晴明さまに見出され、帰る家というものを知り、陰陽が和合する世に理想を見た。人と妖、互いに互いの領分を守り、互いに少しだけ関わりを持ちながら生きる、あの頃の京の都こそが理想だとばかり、思っていた。
 千年。長い時が流れた。その長い時の中、ワシはただ、失ったものを取り戻そうともがいておった。ワシはワシのしたいようにやっているとばかり、思っておった。晴明さまが《鵺》と呼ばれるようになり、陰陽が調和した世ではない、陰が陽を塗りつぶす世界こそが真理であると仰せになってからも、晴明さまがそう仰せならがそうなのだろうと、従うことしか考えてはおらんかった。
 貴様のようにぬらりくらりとしている輩には理解しがたいやもしれんがな、とある関わりの中にあると、その外にあるものに、不思議と目が行かなくなるのだ。その関わりが全てになる。それが広い世界の全てであると、思い込んでしまう。千年の時の末、リクオはワシをその関わりの外へ引っ張り出した。すると、これまで居た関わりがつまり、閉じた箱の中であったと気がつく。あるいは晴明さまも、あの箱の中に、おられたのかもしれぬ。己で気づかぬうちに、それが己の意志であると思い込んだまま、誰かの意のままに操られて、《鵺》となり、陰陽和合を捨てられたのやも、しれぬ。
 リクオがワシと違うのは、ワシは抜け出してきた箱に気づいただけであるが、リクオは既に、己を囲む箱の存在に気づいている、そういうことだ」
「そりゃあ、ワシの孫じゃからのう。生まれつき、お主とはおつむのデキが違うのよ」
「ぬかせ。四百年前にたいした策もないまま力技で乗り込んできたどこぞのヤクザ者の血など、全く感じぬわ」
「あやつは婆さん似じゃからのう。婆さんも人間じゃったが、よう難しいことを考えておったわ。夢と思えば夢、夢と思わざるも夢、現と思うたものも気づけば夢、なれば色というものは、見るものの夢に染まるもの、などとも言っておった。
 安倍晴明、お主の前の主は、不幸にも何者かが見た夢の色に、染まってしまったのやもしれぬな。ワシ等がせせこましく暮らしておるこの世を、遠く遥かなる場所から見下ろしておる輩の、夢の色に。どうだい、リクオは安倍晴明と違って、それを避けられると思うかい」
「わからぬ。わかっていることは、リクオは晴明さまよりも、陰陽師としても、妖としても、弱いということだ。あの御方は、他の追随を許さぬほどにお強かった。晴明さまからはついぞ、『怖い』という言葉を、聞いたことが無い。それでも、《鵺》となった。
 違いがあるとすれば、そこだ。リクオは、晴明さまよりも臆病で弱い。だから我等が暮らすこの箱を見下ろす視線に、気づいたのだろう。力の無さは罪ではない。力のみで劣るなら、その分、数を増やせばよいだけのこと、護法が強くなれば良いだけのこと。今はまだ、この箱の外に出られぬワシ等であるのだから、その箱の中へ何者かが指をねじ込んで来たときに、その指を切り落としてやればよいのであろう。
 そう思えば、羽衣狐様を伏目屋敷に招いたのは、良策かもしれん。京妖怪の残党どもの馬鹿な真似も、あの御方ならば抑えてくださるだろう」
「指を切り落とすか。なぁるほど、そりゃあいい、奴さんの指が無くなるまで繰り返して、この箱にゃ手を出しちゃいかんと思い知らせてやりゃあいいわけじゃな。そうと決まりゃ、とりあえずワシ等はこの箱の中を住み良くするとしようか。酒がのうなったが、まだ飲むじゃろう、鬼童丸。リクオの祝言の前祝いじゃ」
「うむ ――― 」

 初代の合図で増えた膳を前に頷き、鬼童丸が空になった盃を、初代が傾ける銚子の前に差し出したところ、その手の様子が先ほどと変わっているように思えたので、手から腕へ、それが繋がる肩へ、胴へ、顔へと手繰っていったところで、ぶふりと酒を噴きそうになった。
 鬼童丸と目が合い、にやりと笑ったのは、四百年前に彼と刃を交わした大妖の、若き日の姿であったから。

「何を驚いておるんじゃい。妖同士は化かし合い。お主、ワシの《畏》にそうも簡単に飲まれて、箱の外の敵の指を喰いちぎることなんぞできんのかい」
「何のつもりだ、貴様。一体どっちが本当の ――― 」
「夢幻に本当も嘘もねぇ。夢と思えば夢、夢と思わざるも夢、現と思うたものも気づけば夢」

 はらりひらりとどこからか、桜の花弁が舞い降りて、膳の上の盃に、薄紅色の一枚が落ちた。
 このように大きな力を魅せているというのに、大座敷で騒ぐ輩は全く気づかないらしい。

「化かし合いはこの通り、ワシゃあ大の得意じゃからな、せいぜい大暴れさせてもらうとしようか。いやもう、お珱と背中合わせでらぶらぶ出入りができると思うだけでわしゃあわくてかする」
「日本語を話せ馬鹿モン。リクオが妙なことを言い出したと思ったが、そうか、それか」

 伏目屋敷の門前騒ぎが起こった日、リクオは狐につままれたような顔で、「お爺ちゃんって、父さんと会ったときは、どんな姿だった?」と、鬼童丸に問うてきた。
 負け戦の記憶は苦かったが、お前の祖父は金色の毛並みで、いくつか刺青を施している他は、明王姿のお前と瓜二つであったぞと教えてやったところ、仔兎のように首を傾げて黙ってしまったのだ。

 この男を前にして、真面目に姿がどうのこうのと突き詰めたところで、はぐらかされるに決まっている。
 鬼童丸は腹を吸えて、目の前でゆったり脇息に寄りかかる男を前に、再び、盃を乾した。
 そこを問題にしても致し方ない、そう思うと、今度は次なる疑問が泡沫のように沸き起こる。

「夢幻の妖よ。貴様はいかな夢に身を染めて、爺の姿になったと言うのだ」
「そんな野暮、わざわざ訊かんでもわかるじゃろう、今のお主にならば」

 闇夜に大きく火花が咲く。
 人を焼き尽くす業火でなく、星空を背景に咲き誇る火の花にこそ、鬼童丸は目を細めた。

「 ――― 変わらず続くのではない。巡り来て再び訪れる。これこそ、永続と言えるのやもしれぬ。やれ、平成の世の京都もなかなか、風情があって良いもんじゃのう。これもきっと、また失われ、変わっていくのやもしれんが、それもまた、楽しみがあって良いもんじゃ。
 《鵺》を生み出そうとする輩、これを全て壊そうと言うのじゃから、風情のなんたるかを知らん奴よ。そうは思わんか」

 なるほど、今の鬼童丸にはわかった。
 目の前の妖は、夢を見たのだ。
 人と交わり、子をなして、その子がまた子をなして、続いていく。
 己はやがて伴侶とともに年老い、力を失っても子や孫に、隠居、家族と扱われ、茶を啜りながら家でくつろいでいる、そんな夢を。

 鬼童丸が空の花火から、また膳の向こうに目を移せば、そこには再び、ちんまりと座る爺がいた。



 不吉な兆しは皆無にして、船旅は順風満帆。
 御大将の怖畏を、師父と祖父は知らされ、また知らされずとも副将二人は自ずから感じて、大将が捻眼山でさらされたという大天狗の襲撃か、あるいは別の者の手出しが再びあるのではないかと、酒を含みながらも己の得物は決して離さずにいたが、まったく、これは杞憂であった。

 白鶴丸は滑るように川から海へ出ると、翼に風を受けて、まさに鶴のように飛翔した。
 おかげで、朝日が上る前という予定より早くに、富士山麓へと続く地下水の流れへ潜り込むことができた。

 ぼんやりと青白い光で満たされた、ひんやりと涼しい鍾乳洞の洞窟の中で、雪女が懐かしい故郷の空気をいち早く感じ取った様子で、

「リクオ様、里の結界に、今入りましたよ。雪女の里と聞くと、万年雪、氷点下の里とお考えになるでしょうけれど、心配なさらないでくださいね。霊峰富士は火を噴く山です。日ノ本で一番の大きさですから、そう頻繁に火を噴かれては困りますので、私たち雪女が地脈を宥めているだけなんです。そんな土地ですから、里にも来客用に温泉を引いてあります。お体を冷やさないように、お部屋をあたためて行火も用意いたしますからね」
「雪女の手に火を扱わせるのは、何だかしのびないな。そう気を使わないでくれ。今日はお前を娶るための挨拶に来たんだから、お前の手を煩わせるつもりもないし、かと言って、他の雪女に火を扱わせるのもためらわれる。身の回りの世話は、うちの護法たちに頼むつもりだから」
「お優しい方ですこと。ご安心を。私もお世話はいたしますけど、里で火を扱うのは、男衆の仕事と決まっています」
「男衆?雪女の里に、男衆がいるのか」
「おりますよ。里の雪女たちの、《虜》が」
「ああ、なるほど」
「それに、霊峰富士は特別な場所。現世で犯した罪を償う亡者たちの中でも、比較的軽い刑の男たちが、火を扱う場所で働いております。そういった者たちを、《虜》に頼んで監視してもらっているのです。ですから、火を扱うと言っても、そう気になさらないでくださいね。
 ちょうどこの頃は、彼岸が近くなる分、富士の地下で渦巻く火の勢いも強まります。リクオさまには、幾らか過ごしやすい季節でございましょう」

 このようにはしゃぐので、妻の少女のような仕草や声色に、リクオも笑み返す。

 七色に光る鍾乳石と、川の底に敷かれた玉砂利の間を飛び交う人魂の乱舞が、白鶴丸を静かに船着き場へと導く。
 富士から幾重にも、縦横無尽に日ノ本のあちこちへと続く地下水路の一つであるが、船着き場についたところで、一家の者どもは初めて、己等が通ってきた地下水路と思っていたものがその実、霊峰の地下に張り巡らされた地下迷路の一つに過ぎず、ここが最下層ではなくさらに地下、それこそ奈落に続くような下があるのを目にするのだった。

 これまで、上と左右に鍾乳洞、下をゆるやかな流れの川と見ていた一行は、船着き場がいっそう大きな湖となっているのに、ほうとため息をついたが、次の瞬間にはさらに驚いた。
 地下水路はそこで終わりでなく、湖は鏡のように天井の鍾乳石や、船着き場の篝火を映して煌めいている。
 しかし、光すら届かぬのか、湖の端の方がやけに暗い、いや、何だかその向こう側、境界線はぼんやりと明るいようだが明かりを灯しているのだろうかと目を凝らすと ――― 違う、湖は、どうやら桟橋のように宙に浮いていて、これの下には、真っ赤に燃える溶岩の滝や、これを宥める氷の滝が、幾重にも交互に重なり合いながら、どこまでも深く深く、続いているのだった。ぼんやりと湖の端が光っているのは、遥か下に渦巻く溶岩の熱が、ここまで届いているからに他ならない。さらに湖の端からは、滾々と溢れる水が、下へ向かって滝のように落ちているというのに、湖の水は減るどころか、白鶴丸がするすると滑って岸についた波紋があるくらいで、全く静かなものだ。
 さらには、船着き場はこの一つだけでは無いらしい。
 船着き場だけは吹き抜けのようになっていて、白鶴丸がたどり着いた湖と同じように、上にも下にも桟橋状になった地底湖がいくつも浮いて、多くの妖たちが大きな船で出入りしている様子だった。
 支えているのは、中心を上から下まで貫く、世界樹のごとき石柱であった。これに湖の受け皿として、すり鉢状の岩が、世界樹の枝葉のようにいくつも折り重なっていた。

 見下ろせば、最も深いと思われるところには、赤を通り越して金色に光を放つ溶岩が、ぐつぐつ煮えたっているらしいのが、ここからだと、針の先ほどの大きさに見える。
 霊峰を守護する雪女の《畏》のためか、灼熱の流れがすぐ真下にあると言うのに、どれほど飛沫をあげている様子でも、まるで熱さを感じず、また底では血肉腐れた亡者たちが刑に服していると言うのに、吹き上がってくる風はどこで熱を失い、どこで色を失うのか、吸い込んでも、リクオが妻の膝に甘えたときに彼女からほのかに香るような、冷涼とした気配と、ほんの僅かな花の香りしかしない。
 風一つ取っても、女性らしい細やかないたわりとねぎらいの《畏》で満ちている。

 この山を一つ預かり、治めている雪女。
 それが妻の母だと聞いてはいたし、霊峰富士を預かるとなれば、さぞかし格のある御方だろうと覚悟はしていたリクオ、船着き場に降り立った一家の者たちが例外無く、すっかり呆気にとられ、上や下を見て言葉を失っているのを見て、己の判断が間違いなかったことに、まず安堵した。

 リクオが娶ろうとする女は、妖同士で結納だ祝言だなどと気遣う必要は無いから、文一通程度で良いなどと言うし、謙遜ではなく素直にそう信じている様子であるが、彼女の指先まで気を使った物腰や、時々うっかりと底が抜けたようにドジを踏んでしまうもそれも誰かに助けてもらえるだろうと信じきっている無垢なところは、幼い頃と違い、家柄やそれによる育ち方とはどういうものかと学んでしまったリクオには、実に高い身分の人のように見受けられたのだ。
 いや、そうでなかったとしても、リクオはきちんと順番を踏んで祝言にこぎ着けたろう。
 そういった打算は、リクオには無かった。
 無かったにしても、己の選択が間違いでなかったことを、安堵する瞬間はあるものだ。

 白鶴丸で到着すること、また駿河湾から潜り込むことを予め使者をやって伝えておいたので、まもなく、出迎えがあった。

 船着き場でせっせと働く男衆たちとは違う。
 遙か上から続く細長い岩の足場に穿った螺旋階段を降りてきた、こちらは白い着物を纏った女たちと、その周囲を飛び回る小さな少女たちだ。
 白い着物の数名は雪女、小さな少女たちは、付き従う付喪神のようである。

 彼等は地底湖の岸辺に並ぶと、違わず大将夫婦の前に並んで、恭しく礼をして見せた。
 続いて筆頭の、老婆姿の雪女が、顔中の皺をさらに増やして笑顔を見せ、ご挨拶を申し上げる。

「お待ちしておりました、花霞大将御一行様ですな」
「いかにも、オレが京都守護職花霞。この白鶴丸に乗り合わせてるのは、全員オレの護法たちだ。長く生きておられるとどうしても、一度は敵味方に分かれて戦った相手などがいると思うが、どうかここは免じてほしい」
「ええ、ええ、わかっておりますとも。いやそれにしても、聞きしに勝る美丈夫であらせられますこと。氷麗さまも里を出られたときに輪をかけて美しくなられたご様子で。
 ………おや、いけませんな、婆はどうにも話が長くなる癖がございます。ささ、皆様、まずはこちらへ。あいにく主は外せぬ用事で今は留守にしておりますが、今宵、戻ってくる予定でおります。それまで雪屋敷にてごゆるりとくつろいでいただけるよう、お部屋のご用意もいたしております。もちろん、樹海の宿がよろしければ、そちらもすぐに手配いたしますゆえ」

 雪屋敷の奥を仕切る雪婆と、見目麗しい雪女たちに先導され、一行は石柱に穿たれた、螺旋階段を昇る。
 雪婆や従う娘たち、付喪神たちがしきりにかしましく、一行にあれこれ話しかけてくるのとは反対に、法被鉢巻姿の男衆は、船に乗せていた手荷物や行李を軽々と抱えて、黙々と一行の後に続く。これが先程聞いた、雪女の《虜》たちだろう。
 はだけた前から引き締まった胸板をさらし、裾をからげてこちらもしなやかな脚をさらして、えっほえっほと互いに合いの手を入れながら、二つ三つとまとめて行李を担ぐ彼等からは、女に虐げられていじけている様子など、まるで見られない。かえって、女子供にできぬ力仕事で、女たちを守ってやっているのだ、己たちにしかできぬ仕事で、霊峰富士を守護するのだという気概のようなものが感じられた。

 石柱の螺旋階段を昇りながら、ちらと一行の後ろを振り返ったリクオは、彼等を素直にたいしたものだと感じてそうしたものの、甘そうな真紅の瞳が投げかける視線はいつも内緒ごとには向かず、視線の先に映った男衆の先頭に立つ目つきの鋭い男はすぐに気づいて、挑戦的にふんと笑って睨み返してきた。
 そういうつもりじゃなかったんだが、と肩をすくめたリクオの腕に、雪女が手を絡めて先の出口の注意を促したために、そこではそれきりになった。



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「姫さまが、こうも早く婿殿をお連れなさるとは」
「富士の外に行かれると聞いたときには、もうお戻りにはならぬものと、皆で覚悟しましたものを」
「奴良家にお仕えになると聞いて、よもや昔話のように人に恋して雪に消えることだけはなかろうと、安心はしていましたけど、でも、まさかそこの若様をつれでおいでだなんて、流石です、氷麗姐さん!」
「もう、お涼ったら!恥ずかしいからそんな事、言わないでよ!」
「そうじゃぞ、お涼。それではまるで姫さまが、守子に手をつけたアバズレのように聞こえてしまうではないか。そのような甲斐性があれば全く心配などなかったが、姫様は本当に、何の手練手管もお知りにならぬうちに守役のお声がかかってしまった。本家と言えども、何も知らぬ雪娘には狼の巣も同然。婆は姫様がヤクザ者どもの中で心細い想いをされているのではないか、無茶を強いられて涙されているようなことはないのかと、文をいただくたびに、痛ましく思っていたものよ」
「ちょ、ちょっとばあやまで、適当なこと言わないでったら。リクオ様のお世話は私がするから、他のみんなのお世話をお願い」
「おぉこれは、婆としたことがついうっかり、長居いたしましたな。静麗、流麗、お客様たちのお世話に参るぞ。お涼や、姫さまと婿殿のお世話を頼む。
 花霞殿、姫様、何かございましたらお涼にお申し付けを。付喪神のお涼は身軽ゆえ、雪屋敷のどこへでも飛んでいけますからな、足りぬものがあってもすぐに届けさせるよう、手配できますゆえ。しからば、ごゆるりとお過ごしくださいませ」

 花霞一家は全員が、富士山麓・雪屋敷の客人として迎えられた。
 霊峰富士に守られるように、あるいは富士を守るように、山の中にぽっかりと開いた洞穴の中は、山の中であるはずなのに、ぼんやりと空には太陽や月が浮かんで、朝もあれば夜もある。
 晴れや曇りといった違いは無く、常に雪が降り続くので、いつも白い幕がかかっているような景色だ。
 洞穴の真ん中に、小高い丘があった。
 丘にはとぐろを巻きながら空へ向かう蛇のように、雪屋敷の回廊が張り巡らされ、遠目から見ると瘤にも似た東屋がある。

 東屋は一つが花開院本家もかくやの大屋敷で、丘の上に行けば行くほど、屋敷の規模は大きくなる。
 唐風の色合いと模様に彩られた屋敷のてっぺん、まさに蛇のおとがいにあたる部分に、リクオと雪女が通された屋敷はあった。
 雪がしんしんと降りつもる里、地平の果てまで銀景色が広がるのを、丘の頂上の屋敷からはよく見渡せる。

 リクオが通された座敷は、伏目屋敷で書室として使っている十畳間より、少し広い程度の客間だった。
 床の間があり、茶の湯をたてる畳がある、とりあえずは来賓用の部屋だが、薬鴆堂で使えと言われたような大広間でないのが、リクオには嬉しかった。
 一人でぽつんと取り残されるのは好きではないリクオは、広い部屋に一人残されるのを、さらに好まないのだ。
 ここで一人になることもなかろうが、それでも部屋は、大の字になって寝そべったときに、視線だけで部屋の端から端まで計れる程度がちょうど良い。

「ばあやの言うこと、気になさらないでくださいね、リクオ様。私が生まれたときから知っているので、あまり遠慮してくれないの。今日もまたあんな風にからかって」
「氷麗が帰ってきたのが、嬉しくてはしゃいでるんだろう。大目に見てやれよ」

 座布団の上に腰を落ち着け、氷麗が淹れたあたたかな茶をすすって一息つくと、リクオの前によちよちと小さな足で寄ってきたのは、頭の上に硝子の器を乗っけた小さな少女である。
 付喪神と言うより、絵本で見る西方の妖精のような愛らしさだ。
 名を、お涼と言う。
 お涼の頭の上の器には、よく冷えた果実が盛り合わせてあり、お涼はリクオに取りやすいよう頭を傾けながら、好奇心に満ちた大きな目を向けてくるのだった。

「リクオ様は、お優しいのですね。若様で、京の主であらせられると聞いていたので、もっと偉そうにしておられる方かと思ってました!」
「こら、お涼!滅多なことを言わないの!」
「氷麗、えーから。お涼って言ったかい。そいつは期待に応えられなかったみたいで、すまねぇな」
「ううん、違うんです。雪羅さまが、いつもぬらりひょん様の事をお話しになるとき、《自信に満ちあふれてるくせにその自信はいっつも根拠なんてなく、でも不思議に魅力があってどうにかなるんじゃないかって思わせられるタチ悪い男》って仰せですし、二代目のことも、《甘ったれでわがままで何でもかんでもほしがって、しまいに欲しがられた方からあの子のものになりたくなって、結果なんでもかんでも自分のものにしちゃうからタチが悪い坊や》って仰せですから、リクオ様はどんな風にタチが悪いんだろうって思ってたんです!でも、ぜんぜん偉そうじゃないから、不思議だなって。けど、お涼はリクオ様のことを気に入りました!」
「お、お涼!」
「あはははっ、気に入ってくれたかい、そりゃあ嬉しい。オレもさっきから、何て言う器なんやろう、綺麗なもんやなって思ってた。よろしゅうな、お涼」
「わぁ、本当ですかぁ?お涼は大正時代に作られた、硝子の器なんですよ!大正浪漫硝子のお涼と呼んでくださいませ!本当は、かき氷を乗せる器なんですが、ここではこうやって、お客様のお相手をさせていただいてます。氷麗姐さんは物心ついたときから、私がいなくちゃおやつのかき氷も味が半減するからって、ずうっとお側に仕えさせてくれてたんですよ。眠るときも一緒でした!」
「へぇ、そうかい。妬ける話だねぇ」
「もう、お涼もアンタも、あんまりからかわないでったら!」

 他愛もない話でくつろいだためだろう、緊張が緩んで、リクオはふわあと一つあくびをした。
 週末で学校もない日の午前中は、いつもなら朝の勤めを終えて、まだ守役癖の抜けない雪女に誘われ、もう一度布団の中に戻り陰陽師の依頼の時間まで、一眠りしている頃だ。

 誰もが認める美丈夫なのに、目をこする所作は幼く、雪女の微笑を誘った。

「少し、休まれたら?富士山麓は妖の里、どうせ午前中なんて、みんな眠るか休むかしているわ。今夜まで、お母様は帰ってこないのだし、一家の皆もきっとそれぞれ部屋でくつろいでるわよ」
「そうだな。……ほな、そうするわ。いや、布団はいいよ。船の中でも、少し休んでいたから、ちょっと横になるぐらいで」

 ならせめて枕だけでも出しましょうかと言う前に、ころりと畳の上に転がって膝に甘えられてしまったのでは、是も否もない。
 お涼が知ったかぶりで、「なるほど、今はリクオ様が氷麗姐さんと一緒に寝てるんですね?」などと言うのを、リクオは含み笑いで、雪女は顔を真っ赤にして、応じたのだった。