葬式のようである。

 黒と白の幕で囲われた大広間に、多くの弔問客が並び、うなだれている。
 時折誰かが顔を上げては、立派にしつらえられた祭壇に視線を送り、まさかそんな、何かの間違いではないのか、信じられぬと呟くのが繰り返された。

 部屋の中が霞むほどくゆらせた線香の煙の向こうで、ゆらぐ弔問客の影は、どこかおかしい。
 人に近いものでも、角が生えていたり、耳が尖っていたり、目が一つしかなかったり、三つもあったり、腕が多かったり、足が異様に長かったり、尻尾が生えていたりする。
 そうでないものは、元々が人の姿でなく、蛇であったり百足であったり、器物であったり獣であったりする。

 伏目屋敷ではおなじみの妖怪たちであるので、リクオは別に、驚かなかった。
 ただ、ここはどこであろう、誰の葬式であろうかと、夢によくあるおぼつかなさ、足下がふわふわとするような心持ちに、たよりなさを感じたばかりだ。

 弔問客たちは、座敷の真ん中に突っ立っているリクオにはまるで気づかず、ひそひそと何やら小声で噂しあっていた。
 気づかぬどころか、リクオの背後からやってきた何者かは、リクオの体をすり抜けて、祭壇の前へと足を進めたほどだ。






 リクオが驚いたのは、己がその場で幽霊のような存在であるらしい、そのことにではない。
 己の体をすり抜けていったその人の背にこそ、はっとしたのだ。






 黒い喪服を纏った、少女のような細身。
 毅然と前を向いたその人の、後ろ姿であっても、間違えるものか。






( ――― 母さん?!)






 祭壇の前までするすると歩み、焼香を行った後に振り返ったその顔は、たしかに、母の若菜である。

 ならば誰だ。
 あの祭壇は、この葬式は、誰のものか。

 リクオの視線の先、白い菊に囲まれた遺影は、光に照り返って見えていなかったが、目をこらした瞬間、蝋燭が風に煽られてゆらぎ、像を結びなおした。












 目を開く。












 遺影は、奴良鯉伴のものだった。












(なんだ、いったい何がどうして。ここは、何だ?!)












 ぐるりとあたりを見回せば、そこはたしかに奴良屋敷。
 参列の面々は、鯉伴の側近たちや、奴良組幹部。
 そして、座敷の入り口から、大きな瞳に祭壇を映しているその子供を見たとき、リクオは雷に打たれたように呼吸も忘れて、見入ってしまった。

 柔らかそうな褐色の髪に、大きな琥珀の瞳。
 幼い子供は、どうしてこんなに大勢が、祭壇の前に集まっているのかよくわからない、そういった様子で、座敷に入るのをためらっているようだった。
 その肩に、後ろからそっと両手を乗せているのは、いつも白い振袖姿でいるのを、今日は喪服に纏い変え、涙をたたえた、雪女。

 間違いない、この子供は。












(《奴良リクオ》 ――― ?)











 考える暇もない。
 舞台は目まぐるしく変わる。



「あははははッ!引っかかった引っかかった!雪女、お前は相変わらずドジだなァ〜」

 先程の子供が、少し成長した姿で、奴良屋敷の庭で遊んでいる。
 年の頃は八つかそこらだ。
 リクオであるが、花霞リクオではない。
 何故なら、花霞リクオはちょうど同じ年の頃、既に京都で血の滲むような陰陽師の修行を行っていた。
 奴良屋敷には、いなかったのだから。

 戸惑う花霞リクオの前で、奴良リクオは成長していく。
 庭で遊んでいたかと思えば、己を甘やかす祖父にくっついて街に行き、その昔話に耳を傾けて、「じいちゃんみたいな、妖怪の主になる」とはしゃいでは祖父を喜ばせる。

 屋敷の大物たちからも、若、若、と甘やかされ、そう呼ばれる誉れを当然のことと享受して疑わない子供を庭に認めながら、ちょっとした暗がりで、幹部たちが話すことも知らぬまま。

「リクオさまも御年八つ。未だにこれといった妖力をお見せにならぬ」
「仕方がなかろうよ、リクオさまは四分の一しか、妖の血を引いてはおらぬのだ」

 ここまでは、花霞リクオも四つまで奴良屋敷で過ごした身、聞き覚えのあることだったが。

「………しかし、二代目亡き今となっては、やり直しはきかぬ。今となっては、若しか、人と妖の世を背負える三代目はおらぬ。二代目はこう仰せであった。若様が元服となる年までは、人と妖、どちらになるのか答えを保留にしておこうと。若様ご自身に、その時には選んでいただかなくてはならぬ」
「不思議なものよ。二代目が生きておられれば、逆に若様と御母堂は、生粋の妖怪の若様を欲しがる者どもにとっては邪魔者として始末されていたかもしれぬのに、二代目がお亡くなりになられたからこそ、守られているとは」
「二代目の死こそが、若と、御母堂を、お守りしている。皮肉なものよな………」

 こうしたことは、もちろん、初めて、耳にする。












 どこか違う世界のリクオは、奴良組の若さまだったかもしれない。
 その代わり、何か別のものを、失っていたかもしれない。












 母が亡くなる少し前に、口にした不思議な言葉。
 あの目は一体、どこまで、何を、《視て》いたのだろう。
 ここはそういう世界だ。
 母が死に、父が残る花霞リクオの世界ではない。
 父が死に、母が残る奴良リクオの世界なのだ。












こ れ は 奴 良 リ ク オ の 物 語 な の だ 。













 理解に至った花霞リクオの前で、奴良リクオは成長する。

 己に流れる妖の血に悩みつつ、人を捨てるも妖を捨てるもかなわず、やがて覚悟を決め自ずから、修羅の道を進む。
 多くの妖怪たちと盃をかわし、信頼で結ばれ、花霞リクオとは違う道行きながら、己の百鬼夜行を背負うにいたり。

 奴良組へ攻め入ってきた四国妖怪と戦い。
 地固めの末に、京都抗争へと赴き。
 父の敵の羽衣狐、それが生み出す《鵺》。

 たどり着くまでの道は違えど、やはり、《鵺》に行き着くのだ。



 奴良リクオは、《鵺》・安部晴明と対峙した。












 《鵺》が、生まれる ――― 。



 その瞬間。
 花霞リクオは、背後に気配を感じた。












「おぉ、やはり晴明は《鵺》に申し分なき器。さあさあ、大きな鴉になってくれよ、晴明。フフフ………フフフフフ…………」












 若い青年。いや、女?

 リクオは、ゆっくりと振り返ったが、しかしそこに居た人影は、ぼんやりと霞んでいて、よく見えない。
 空気がそこだけ歪んでいる。
 向こう側の景色が他の部分と違い、濃く歪んでいる場所が、人の形をかろうじて取っているぐらいだ。

 リクオがそれに気づいたとき、向こうも、リクオに、気づいたらしい。



「………ほう。客人か?私以外に、ここを空観する者があるか。姿を見せてみよ」

 やんわりとした誘いのようであって、命令であった。
 言葉が刃を持つ風のように、リクオの周囲に吹き荒れて、それまでこの世の空気であったはずのリクオが、隠れていた霞をはぎ取られ、姿がさらされるかと思われた。

 ならない、この存在に、己をさらせば終わりだ。
 ひやりとしたリクオは、とっさに、



 ―――――― 明鏡止水 ――――――



 ざわつく風の中、空気の中、その風にこそ溶け込んだ。

 そうなると、どれだけ相手が格上の相手でも、リクオを探し出すことはできない。
 ましてや、人の姿でも妖と渡り合えるように、幼い頃から心の鍛錬を欠かしていないリクオは、どんな危機的な状況でも、それこそそのまま首を落とされるとしても、心に波風を立てない。

 相手がいくらかできるとわかってか、リクオの目の前のそれは、霞の向こうで再び、笑ったらしい。
 己の姿は一切明かさないままのくせに、リクオの存在を暴いてやろうとしたその存在、己の術が破れたとしても、まるで気にした様子は無い。

「フフフ、あらがうか。可愛いことをする。まあよい、《鵺》によるものにしろ、そうでないものにしろ、どこの世界にも死は訪れるのだ。お前にもな。姿を見せたにせよ見せぬにせよ、私を知られたからには、そのまま帰す道理もない」
「………何故、《鵺》は生まれる?」
「ほう。私に問い返すか。その勇気に敬意を表して応えてやろう。簡単なこと、私が《鵺》を孵しているからだ」
「………何故、《鵺》を孵す?」
「それは面白い問題だな。この世に生まれてくる輩に、お前はどうして生まれてきたのだと、問うようなものではないかな。私にとっては《鵺》を孵すことが命題であって、理由はあったのかもしれないが、今となっては永劫の彼方。させぬと言うなら、阻んでみるがいい。今ここで消える貴様に、できるのなら」

 いかに姿を見せぬようにしていても、そこに居ると知られていては、術を防ぐ術は無い。

 相手が印を組んだのか、袖を振ったのか、それとも何事か呪を紡いだのかはわからない。
 とにかくリクオの周囲にあったはずの世界が、相手が何事かしたと思われたそのときに、突如、失われた。

 音もなく、前触れもなく、鏡が割れるように失われ、沸き起こった黒い穴に手を足を、次々喰い破られて目を見開く。
 声を上げる間もなく、リクオの魂は失われる。
 あまりに大きな力の差を前に、そうなるはずだった。

 相手と、リクオの間に、第三の手が入らなければ。
 あらがう暇も、あらがいが通じず絶望する暇もなく、どことも知れぬ次元の狭間で、花霞リクオの魂はついえるかと思われた。
 リクオの前に、人一人分の歪みとしてあるその者が、まさにとどめとばかり、ぬっと大きな手の歪みを背から出したそのとき、しかし、一条の光が空から降りおろされて、リクオは九死に一生を得たのである。

 十字を描いたその光が二人の間を切り裂き、リクオをとらえようとしていた大きな手は、ざくりと斬られて空に消えた。

「ほぉう………何者だ、貴様。どこの世のものだ。姿を見せい」

 二人の間に光として立ちはだかったその者は、しかし、リクオほど隠形に長けていないのか、あるいは己を隠そうとしなかったのか。
 誰何された途端、光ははがれ落ち、長い青銀の髪と、白い甲冑に身を包んだ青年の姿がさらされた。

「我が主の命により、この御方をお守りする。貴様には指一本、触れさせぬ」

 言うが早いか、リクオを庇った青年は、十字を象った両刃の剣に一度祈りを捧げ、背後のリクオに呟いた。

「お前ではまだかなわぬ。私が時間を稼ぐ隙に、行け」
「しかし」
「目覚めるのだ。現への糸を思い出せ。今のお前にはあるのだろう、現にとどまるための拠り所が」

 リクオからは顔が見えない。その青年の声しか聞こえないが、その声は、つい最近、どこかで聞いたもののような気がした。
 どこで聞いたものであったのか、思いだすより先に、騎士然とした青年は歪んだ存在に踊りかかり、二人はリクオの前で、死の舞踏を始める。
 次元の狭間で、既にどことも知れぬ黒と灰がどこまでも続く世界で、二つの存在は激突した。

 騎士の言葉に、リクオは己の現を振り返り、それまで瞑想するような半分現のような、半分夢のような意識であったところへ、彼女を思いだした。
 彼女のところへ。
 雪女の、氷麗のところへ。
 ここではない。












花 霞 リ ク オ の 物 語 へ 。













 帰らなければ。
 強く念じたその瞬間、花霞リクオは、どことも知れぬ次元の狭間から、存在を消していた。

 否、この太極の座に届かぬほどに、矮小化したのだ。
 ただ一つの存在に、ただ一つの世界にとらわれる存在へと、再び舞い戻ったのである。


 彼が消えた世界で、尚、戦いを続けていた、姿の見えぬなにがしかと、白い騎士。
 騎士は不利であった。
 一合、二合と、剣を合わせるたびに、鎧ははがれ落ち、傷を負い、それでも尚、忠義のために祈りを込めて剣をとる。

「見上げた騎士道精神だな。貴様、私にかなうと思っているわけではあるまい。先程のあれを庇うためだけに、ここへ命を捨てにきたのか」
「我が主に剣を捧げたそのときから、私の命など既に無い」
「ふむ。主か。お前のような下僕を持てるほどの格のもの、どこかにいたかな。はてどこであったろうか。お前の主となれば、さぞかし良い《鵺》になるだろうに」
「ほざけ!我が主は、貴様のような下郎の手駒に加わるようなお方ではない!貴様を見通し、貴様の企みを知り、しかし動けぬお方。宇宙の頂点に立ったつもりでいる貴様などに、推し量れるお方ではない!」
「は!まるで神のようだな、その御方とやらは」
「然り!よくわかっているではないか」
「ほほう。ではどこに居る。その神とやらは、どこに居てどのように私を罰してくださるというのかな。おらぬよ。どれほど高見を目指しても、観てきた私が言うのだ、間違いない、神などいない。貴様の神とやらは所詮、まがい物。しかし、まがい物とは言え、貴様ほどの下僕を生み出すほどの力、興味があるな。さて、どこの世界から飛んできた者か、探らせてもらおうか」

 勝敗は決した。
 青年騎士の白い甲冑が吹き飛び、巨大な質量にぶつかってそのままはねとばされたように、放物線を描いて次元の底へと落ちていくのを、その存在はせせら笑いながら追う。
 落ちた先の世界で、新たな《鵺》が生まれるのを、見届けるつもりだった。
 なにせ世界と言うのは多すぎて、彼がいくら高いところから、多くを観ていたとしても、輝きを放つ世界でなければ、目をつけるほどでもないと捨て置いてしまうのだ。
 しかし、彼と同じ《座》までたどり着く者を生み出すほどの世界を、彼はこれまで、見つけられなかった。

 初めてのことに恐れを抱くどころか、楽しみさえ覚えて、落ちていく青年騎士を追った彼は、しかし、次元の狭間から己の世界へと逃げ帰る青年騎士に追いつくどころか。



 ―――― ぞくり。



 寒気すら覚えて、一瞬、怯みさえした。

 そうするうちに、落ちた青年騎士は、何者かの手にそっと受け取られたように身を横たえ、すうと消えてしまったのである。
 どこの世界へ帰ったものか、判別がつかぬうちに。

 ふむ、と、一人残った彼の存在は、は思案した。

 まがい物の神とは言え、ずいぶんな力を持ったらしい。
 どこの世界の者か、尻尾をつかませぬためだろう、あの騎士は決して名乗らず、主の名を出しもしなかったが、しかし、騎士の口上から、彼の存在は、一つの可能性に思い当たった。



「もしかするともしかして。いや、しかしフィクションだぞ。いや、虚構はときに現実を凌駕する。神仏という存在もそうだ。信仰さえ集めれば良い。ふむ」



 にやり、笑って。



「あの女神の名、ロス・マリヌスと言ったか。だとすると、そうか、先程の、この《座》に届いた気配の主は」



 得たり。
 姿は風に溶けていたとしても、唇が弧を描くのを、中天に浮かぶ月は、太陽は、観ていたことだろう。



「花霞リクオ、か」