なんとなく、目覚めた後の彼女の不在は、予想できていた。

 なにしろ、羽衣狐との抗争以来、意味深い夢を視るのは、決まって彼女が不在のときであったから。
 彼女は夢の中ですら、しっかりとリクオの魂の緒を握っているので、彼女と供寝をするようになってからこちら、リクオはおよそ悪夢というものを見たことがない。
 悪霊が救いを求めて手を伸ばしてくることはよくあったので、夢の中でも常にリクオは気を張って、迷える魂に手を差し伸べていたものだが、妻ときたら「夜はお休みになる時間です」と目尻をあげて叱るのだ。
 リクオにではない、相手の悪霊にだ。

 悪霊というのは、一筋縄ではいかない。普通の人間がいくら叱責したところで、逆に恨みを増して襲いかかり、ならば哀れみをもって語りかけたとしても、やはり逆に哀れまれたのを蔑まれたと思い込み、いっそう激しく牙を剥く。
 リクオの視線の前でこそ、光を見出し僅かに己を思い出すが、それでも浄化までには時間を要する。
 道理を説いても無駄な相手だ。
 だと言うのに、彼女はその相手に、とうとうと説く。
 曰く、「夜は休む時間で眠る時間です。子供にはなおのこと必要です。言うなれば今は店じまいの時間です。寄ってくるならば、この御方が目覚めているときになさい」とのことである。
 もちろん、聞き分ける悪霊ではない。
 ほんの僅か、霊は雪女の口上にあっけにとられた様子を見せるも、すぐに何を語りかけられたのかすらわからないまま、いっそう激しく叫び、嘆き、牙を見せて飛びかからんばかり。

 悪霊の嘆きの声が鼓膜を震わせ、リクオが目覚めようとするのを、雪女は許さず、腕の中に眠る夫の瞼にふうと息吹をかけて深い眠りに誘うと、いよいよ冷酷な眼差しを救い難き者に向け、諦めたようにちろりと睨むのだった。
 たったそれだけのことで、充分だった。
 氷の視線に晒されたそれだけのことで、飛びかかろうとした悪霊の痩せ細った両足は、飛び上がった形のまま、凍り付いて地表に縫い止められてしまった。
 近寄るなとは言わないわ、と、氷の女はにこりともせず告げる。
 ただ命じるだけだ。

 貴方もこの方がお目覚めになるときまで、ともにお眠りなさい。
 万物に等しく訪れる、雪の子守歌の中で。

 そうして夢の世界は、悪霊が持ち込んだ血と腐れた臭気も、騒がしかった無数の彷徨える魂たちの狂気も、凍てつき静まり返って、浅い眠りの中で己に助けを求める声を聞き、起きあがらなければとしていたリクオの耳には、真っ白な雪原にさらに降り積もる雪が、さわ、さわ、と互いに静かな衣擦れのような音をさせる、どこか懐かしいような音ばかりが届くようになり、その上、幼い日に聞いた子守歌を聞かせられては、昼も夜も働きづくめの気の使いづくめで疲れきった守子など、ひとたまりもない。
 優しく静まり返った雪原の中、魂まで無防備に眠りこむばかりだ。

 いつしかリクオは雪女がもたらす眠りを受け入れ、眠りのときは彼女に、文字通り魂まで任せてしまうようになった。
 彼女は何人たりとも、リクオの眠りを妨げるものを許さない。
 おかげで、秋房に言われたように夢判じをと思っても、雪女はリクオのそばをなかなか離れないので、思うようにいかないほどだ。

 けれど、今日の夢はまた判じに良い材料になりそうなものだったのを喜ぶより、目覚めたリクオは、まず、どうして彼女が自分の側にいないのだろうと、それが気になった。
 夢から浮き上がるときに、なんとなく不在を覚悟はしていた。
 なのに思った。どうして、ここに、彼女はいないんだろう?
 理屈に合わない感情が、ぽっかり開いた胸の虚ろに生まれて、そこには、どうしてだろう、なぜだろうと、疑問ばかりがある。いくら理屈で、きっと何か用事があってこの場を少し離れたのだろうと、彼女の膝の代わりに差し込まれていた枕と、着せかけられていた羽織から察しても、胸のぽっかりはおさまらない。
 この気持ちには痛いほど覚えがあったリクオは、ばつが悪そうに頭を掻きながら起きあがった。

 そこに、声がかかった。

「ようやくお目覚めかい。うちの雪姫さまの《虜》さんは、ずいぶん甘やかされてやがんのなァ」

 声をかけられるまで気づかなかったのは、殺気が全く無かったからだ。

 リクオは部屋の窓際、ちょうど、障子を通して差し込む日差しがぽかぽかとあたためる畳の上に身を横たえていたのだが、障子と向かい合わせの壁、リクオが首を曲げればすぐ視界に入る場所に、行儀悪く足を投げ出して座っていたのは、明るい茶金の髪に捻り鉢巻、裾をからげて引き締まった太股までさらした上に法被を纏った男衆。
 そう、先程、船着き場からの階段で、リクオを睨みつけ笑った、あの目つきの鋭い男である。

「………氷麗は?」
「そこに書き付けがあるだろう。雪羅様のご不在となりゃ、色々やることも多いんだよ、姫さんは」

 顎をしゃくって男が示した先、リクオのすぐ脇には、一筆箋に細い文字で、「用を足して参ります、すぐに戻りますので御用の際にはお涼にお申し付けを」と書かれている。
 が、肝心のお涼の姿は無い。

「で、そのお涼もちいと小用でな、留守を頼まれたのが、俺ってワケだ。わかったかい、新入り」
「リクオだ。花霞リクオ」
「ああ、聞いてるよ。俺ぁ、荒鷲ってモンだ。荒鷲一家の頭目よ。雪羅姐さんが率いる男衆をまとめるのが、荒鷲一家。つまりここの男どものまとめ役、みてぇなモンよ。おめぇもよォ、雪姫さんの初めての、とは言えど、つまりは俺たちと同じ、雪女の男衆だ。これからしっかりきっちり、この富士山麓においての男の役割ってモンを教えてやるから、そのつもりでな。
 姫さん捕まえて逆玉に乗ったつもりで、のほほんと遊興三昧のつもりで来たんだったら、当てが外れて残念だったなァ」
「ほんならよろしゅうたのんます」
「そぉれ見たことか、よろしゅうたのんますなぞと、今更あてがはずれたと慌てても……、って、何?よろしゅうっておまえ………」

 てっきり、馬鹿を言うな俺はここにそんなつもりで来たわけではないなどと、怒りを露わにするに違いないと構えていた荒鷲、筋骨隆々の腕を組んで鼻で笑いかけたが、リクオの口上を自分で今一度繰り返して、我に返る。

「なんだ………怒んねーのか?」
「怒る?何を?」
「よ、よぅし、なかなか物わかりのいい坊やじゃねェか。そんなら話は早ぇ。さっさと着替えて支度しな。雪羅さんが帰ってくる前に一通り、ここでの仕事を覚えてもらわねーとなァ」

 放り投げられたのは、荒鷲一家が纏う、男衆の装束である。

 花霞リクオは、確かに雪女の《虜》であるが、富士山麓は雪屋敷の総領娘を娶りにきたのであって、別に下りに来たのではない。一方的な《虜》ではなく、彼女にとっては生涯の夫となるべきはずである。

 それは荒鷲もわかっていた。
 もちろん、荒鷲が率いる男衆も承知している。

 否、この雪屋敷で、リクオをただの《虜》扱いする者などいるまい。魅了されて傀儡扱いされるのが似合いのうつけなのか、それとも真に器量を買われて我がものになりなさいと欲された侠気溢れる仁なのか、この富士山麓の男たちは敏感に感じ取る。
 男に対する、雪女の扱い方こそ、この場所では何よりの評価だ。
 ただの道具なのか、頼れる仲間なのか、誇れる家臣であるのか。
 この点において、リクオは破格の、夫として扱われる身であるのだから、他の男衆とは比べものにならないのは誰にでもわかる。それも、ただの雪女の夫ではない、富士山麓を預かる雪女、その総領娘の、夫だ。
 富士山麓の常識に通じていない者だったとしても、それくらいはわかりそうなものだ。いや、わからないはずが無い道理だ。仮に、連れてこられたのが妖怪たちの常識を全く知らない人間の男だったとしても、荒鷲の言い分が無礼であることに、言いがかりであることに、気づかないはずはなかったろう。
 怒ってそれを指摘すれば、やれやれ婿殿は気の短ぇお方だねぇと笑い、雪屋敷の姫様を浚っていく罪深い男を、部屋の外に隠れている男衆が総出でかついでわっしょいして、てやんでぇ馬鹿野郎俺たちの姫さんに手をだしやがってともみくちゃにして、洗礼はそれで終わるはずだった。

 ここはとにかく、荒鷲にとって、相手が悪かった。
 相手は花霞リクオだったのである。
 外からの評価で自分を計るよりも縁側で花と月を眺めながら猫を撫でている方を好み、自己評価が低いというより、誰かからこれをせよと言われれば、そういうものなのだろうとすんなり受け取ってしまう。
 投げ渡された法被や鉢巻も、冗談の一つであったはずなのに、すんなり受け取って着替えた上で、

「火を使う仕事だったっけ?で、どこへ行けばいい?」

 はっと見惚れるような男衆姿で言うものだから、もう荒鷲も、後には引けなかった。

「おう。そんじゃ、行くとするかねぇ。仕事は山ほどあるぜ。まず賄いだろう、掃除洗濯は女たちがやってくれるが、湯殿の洗いは俺たちだし、この馬鹿でかい屋敷の人足だって俺たちがやるんだ。一通り教えてやるから、音を上げるんじゃねーぞ、新入り」

 嘘を嘘だと打ち明ける機会を失ったまま、せいぜい胸を張って外に連れだし、荒鷲の合図を待っていた男衆たちに、これが例の新入りだと親指で指した後、ぽかんと口を開けて見送る男衆たちの視線を背に、大股で去っていくしか、なかった。
 嘘を打ち明ける機会を失ったので、荒鷲に桐の箱に閉じこめられて床下に放り込まれたままのお涼は、しくしくと自分の小ささを恨みつつ、主の帰還を待つのだった。



+++



 荒鷲が企んだのは、つまり婿イビリである。
 かと言え、荒鷲にも本気で男衆の仕事を覚え込ませる気などなかった。
 炊事をさせてみて包丁さばきのまずさに笑い、出汁の取り方も満足に知らんのかと笑い、人足をさせてみて荷の扱いのまずさに笑い、一通りやらせてみて笑った後で、いやいやすまなかった、実はお前をからかってたんだと種明かしたついでに、座敷で言いそびれた詫びを入れるつもりだった。

 のだが。

 婿は実に、イビリがいの無い婿だった。

 包丁さばきは堂に入ったもの、出汁の取り方は心得たもの。
 荒鷲は、船着き場に同行した数人の側近たち以外には、リクオが姫君の婿殿であるとは伏せていたので、雪女に使われる小物たちや、賄いをするような位の低い女たちは、リクオをただの新入りとして扱ったけれど、何をやらせても器用でそつが無い上に、何かと気が利いて愛想もよいので、すぐに打ち解けてしまった。
 化猫屋弐号店でもあったことだが、たいそう名のある血筋の大妖であろうと思われても、そういった者たちにあるような近寄り難い《畏》を感じず、いつの間にかするりと心の中に入り込まれているのだ。

 実はそれこそ、ぬらりひょんの《畏》に他ならないのだけれど、賄いの連中ときたら全く気づかない。
 ここに来て初日であるのに、鰻をさばかせても大根を桂剥きにさせても、するするとよくこなすので、「あれあれ、どこで習ったんだい、上手いもんだよ」と感心し、「ガキの頃からバイトしてたから、賄いはたいていやったなぁ。味付けは関西風になるけど」と答えがあれば、これにもまた感心する。

 また、リクオが京都の育ちで、異界祇園のとある店でバイトをしているという話になると、年嵩の女が、「なら、銀蛇亭って知ってるかい?あたしゃ昔、そこで女中をやってたんだよ」と言うので、「へぇ、その店、オレのバイト先の店長がやってる別の店や。同じ店長がな、今はモダンバー開いてて、オレ、そこで世話になってる」と話も弾む。
 リクオを連れてきた荒鷲は、蚊帳の外である。

 なんだか面白くないので賄い所はもう良かろうと、男衆女衆問わずなじんできたところで無理矢理連れ出し、今度は力仕事で勝負とばかり、人足の仕事をさせてみれば、荒鷲一家の中でも一番力のある大力坊主に引けをとらぬほどよく働く。
 屋敷と地下の階段を、何度往復させても文句一つ言わない。いや、大力坊主が負けるまいぞと、顔を真っ赤にしながらひいふういつもの倍働いている脇を、さっさかさっさか通り抜け、涼しい顔をしているのだ。
 荒鷲一家は小物でこそないが、特にこれという妖力を持たぬ、半人半妖である者が多い。雪女に《虜》とされて初めて妖になる者がほとんどのためだ。
 けれど、目の前の妖が何か力を使えばそれはわかるので、荒鷲はリクオの足が、多くの生粋の妖がするように風を捕まえ、同じように風が荷の方も軽くしてやっているのを目にし理解した。
 人だけでなく風にまで好かれるのかと、さらに面白くない。

 大力坊主がついに頭から煙を噴いて、動けなくなってしまったところで、もうこれは良かろうと、次の場所へ行くことにした。
 この頃には、荒鷲はもう、どうにかしてこの生意気な婿殿に、参ったと言わせてやる、ぎゃふんと言わせてやる、すみませんでしたと言わせてやると、意固地になっていた。

 次に向かったのは、雪屋敷の湯殿だ。
 事情を知らぬ者には雪女の屋敷に湯殿、と思われることだろうが、何しろ雪屋敷は、丘が一つ、屋丸ごと敷。麓の樹海にも数多く、日本全国からやってくる遊蕩の場があり、旅籠があるが、中でも一番に格上の旅館と言えば、この雪屋敷に他ならない。
 丘の下の方にある建物の数々は、それぞれ趣を異にした宿であり、丘の上へ行けば行くほど、格が高くなるというわけだ。

 なにせ雪女という妖怪は、どれだけ蓮っ葉を装っている者でも、結局は世話焼き、世話好き、おせっかい。
 奴良組初代に従って、四百年前に羽衣狐の一派と対峙した女傑・雪羅も、己を袖にした初代を恨むこともできなければ、家事などしたこともない姫君であった珱姫を呪うこともできず、最初こそ怒鳴り散らしておのれぬらりひょんおのれ女とヒステリーを起こしていたものの、せいぜい二人の着物の裾を凍らせるぐらいで、元々氷の属性のとおり冷静な女であるから、我に返った後は江戸の奴良屋敷で、家事に慣れない珱姫に、これはこう、あれはあれと、手取り足取り教えてやった始末。

 卷属の頂点に立とうという者からしてそうなのだ、他の者たちなど言わずもがな。
 この癖さえなければ雪女という種属も、もう少し強いものとして扱われるだろうにと揶揄する者もあるが、生まれ持った性ばかりはどうしようもない。
 彼女等は、富士山麓を訪れる客たちに、宿を提供してやって、見返りに少しばかり金子をもらったり、《畏》を得たりしているわけだ。

 人里離れた妖怪ばかりの街で、いかにして人の《畏》を得るのかと思われるかもしれないが、なにも妖怪の街を訪れる術は、てくてく現実の足で歩いていくだけが方法ではない。
 例えば、日ノ本の国のどこにいたとしても、人なら等しく夢を見る。
 疲れきって床についたその夜に、夢の橋を渡ってたどり着き、目覚めるまでの日帰り入浴をする者が多い。そうした者たちは、目覚めてから不思議に体の調子がよくなっていたりするのを、夢の中の女たちの仕業であろうかと首をかしげつつ、こっそり朝陽に手を合わせたりする。
 これが、雪女たち、富士山麓の女たちの力の源である。

 このようにして、日本全国から人も妖も集う土地であるから、湯殿は大きい。
 毎日の掃除は必要であるが、なにしろ広いし力仕事だし、それに雪女たちにさせるのは酷であるから、男の仕事だ。
 とは言え、人の垢をこすり落とす汚れ仕事だし、場所柄、嫌われ者のあかなめと一緒に仕事をせねばならないから、荒鷲一家の中でも新入りの仕事だ。
 姫様の婿に選ばれるような育ちのいい男には耐えられまい、流石に音を上げるだろうと高を括っていた荒鷲だが、これも裏切られた。

 あかなめは、いつもはおとなしいばかりが美徳で、話を聞いているのか聞いていないのかわからぬぼんやりとした者どもだ。
 小さな子供のような体躯で、言葉を理解しているのかしていないのかわからず、男衆が怒鳴って用事を言いつけても、まるで堪えた様子なくぼんやりしているような輩。
 毒にならぬがせめてもの利点、薬になんて決してならない、畳の上のワラジムシぐらいの扱いをされて、放っておかれるのが常の者たちだ。

 荒鷲は意地悪のつもりで、彼等がたむろする掃除時間の風呂場に、「後で戻ってくるから、こいつらと一緒に綺麗にしておけよ」と、リクオを湯殿に一人残した。
 有象無象といるあかなめだが、好き勝手に垢を嘗めるだけなので、およそ掃除をする風情ではない。
 本当は荒鷲の手勢を数人残して、あかなめどもを追いやりながら、本来の掃除をしていくので、きっと戻ってくる頃には、好き勝手にあっちこっちで垢を嘗める汚らわしい者どもにリクオも辟易としていることだろう、泣きついてくることだろうと思っていたのに、全く当てがはずれた。

 性はおとなしいが、人にはただ汚いからと嫌われ、無口で弱いために妖にも、面白味のない奴よ役立たずよと馬鹿にされるあかなめは、どうしたことかものの一刻もしないうち、すっかりリクオに懐いて、きびきびと働き始めたのである。
 半刻ほどで戻ってきた荒鷲は、湯殿の戸を開いた瞬間、目の前に広がったまばゆい光に、慌てて目を庇わねばならぬほどだった。
 何か得体の知れない術を使われたかと腕で目元を庇い、目を瞬かせながらおそるおそる湯殿を見ると、なんと。

 床板は張り替えたかのようにぴかぴか。
 普段は手の届かぬ天井板も同じようにぴかぴか。
 桧風呂はたった今、山から運んできたかのようなかぐわしい芳香を放ち。
 排水口も、少し錆が浮いていた蛇口やシャワーヘッドもぴっかぴか。

 非の打ち所がない。
 荒鷲一家が総出で掃除に当たる年の暮れですら、これほど綺麗にできるものかどうか。

 このようにしたのはいったい、どんな術を使ってかと、呆然と立ち尽くす荒鷲の耳に、大勢で歌う、風呂洗いの歌が届く。
 幼い子供等が、キイキイとはしゃぐような声だ。
 混じって、リクオの声もする。

 声のする方へ向かってみれば、広い湯殿の一番奥、打たせ湯のあたりはちょうど掃除の最中らしく、モップで床をこするリクオの後ろ姿と、天井や壁に張り付いて、舌で綺麗に垢を嘗めとった後、手や足で握ったスポンジでがしがしと風呂を掃除するあかなめの大群が見えた。

 近づく荒鷲に気づくと、リクオは振り返って額の汗を拭い、「やあ、湯殿の掃除って大変な仕事やなあ、こいつ等がいなかったらかなわんかったわ。すっかり世話になってしもうた」と、足下に懐くあかなめたちを嫌がりもせず、小さな頭を撫でてやっている。
 撫でられるあかなめどもも全く嫌がらず、目を細めて喜んでいるようであった。

 不可解な事態に、いったいどうやってこいつ等を手なづけたのか問うてみれば、「懐かせるもなにも、よろしゅう頼むって言うただけやけど………」と、リクオこそ不可解だと言った様子で首をかしげている。
 あかなめどもにわざわざ挨拶をするなど、聞いたことがない。

 荒鷲はむっとして、「そのような汚らしい輩を撫で回すもんじゃねぇ、年中風呂場の桶にたまった垢を嘗めているような奴等だぞ、まとわりつかれたらせっかくの服も体も汚れちまうだろうが」とリクオを叱ったし、リクオにまとわりつくあかなめたちを蹴るような真似までしたが、それまで常にやんわりとした物腰だったリクオが、この時ばかりは荒鷲の前に立ちはだかった。
 怯えて荒鷲から距離をとったあかなめどもと、荒鷲の前に立ちはだかり、こう言う。

「けど、そのあかなめ達に湯殿を任せているのは、男衆ではなく、この屋敷の雪女たちだろう。だから荒鷲さん、あんたがそんなに毛嫌いしてるのに追い出せない、違うのかい。だったら、そんな風に邪険に扱うもんじゃねーだろ。汚れわしいだの、近寄るなだの、言われる方は悲しい。辛い。苦しい。そんな事ばかり言われちゃ、言う奴の顔を見たくなくなるのだって当然だ。
 こいつ等はたいしたもんだよ。なにせここの湯殿ときたら、あっちもこっちも因果と業で真っ黒け。只人の垢と疲れを落とすだけじゃない、夢を渡るほどに疲れはてた人の業だの、土地神や妖たちの背や肩にずっしりかかった念だの、そういうもので満ちてやがる。こいつ等が綺麗に嘗めてくんなきゃ、いくら擦ったって汚れなんか落ちやしないさ。
 触れられたら汚れる?仕方ないだろう、汚れ仕事してるんだから。着物なんて、仕事をしたら汚れるもんだ。手は汚れたら洗えばいい。人の生き肝抉った血より、汗水たらして働いたこいつらの垢なんざ、よほど簡単に洗い落とせるだろうよ」

 冗談なのか本気なのか、飄々としている上に、うっすら微笑まで浮かべているので、わかったものではない。
 荒鷲はほんの少しだけ、薄ら寒くなった。
 リクオは笑みを浮かべたままなのに、ちろり流された紅瑪瑙の瞳が、一瞬、ほの昏くなったような気がしたのだ。

 ところが当のリクオときたら、荒鷲が言い返せないでいるうちに、遠巻きになったあかなめたちにぺこりと頭を下げて、

「………すまんなぁ、驚かせた。その上、嫌な気持ちをさせたろう。かんにんなぁ」

 荒鷲の態度を、代わりに謝っていたりする。
 まるで堅物扱いなのも腹がたったが、古株の男衆たちが何を言っても馬耳東風のあかなめたちが、リクオの言うことにはしっかり耳をたてて、うんうんと頷き、気にするなとばかり、ふるふると首を横に振って良い子ぶっているのも腹が立つ。

 リクオに一瞬気圧されたことへの腹立たしさも手伝って、もう荒鷲は、我慢ならなくなり、今度こそぐうの音を出させてやると腹に決め、引きずるようにして湯殿を後にした。

 荒鷲が次にリクオを引きずって最後に赴いたのは、雪屋敷の中でも最下層。

 屋敷の女たちは滅多に近寄らぬ、地獄の亡者どもが働く地の底だ。
 そこには、大きなたたら場があり、亡者たちは昼となく夜となく、汗水たらしてたたらを踏む。炎は富士のすぐ下を流れる、地獄の炎である。
 雪女でなくても、ゴウと噴き上がる炎の柱には誰しもひるむし、時折たたら場に噴きかかる燃えたぎった土や泥の飛沫には恐れをなす。

 亡者たちは、溶岩が噴きかかる中で、苦しみに耐えながら必死にふいごに風を送っているのだ。
 もちろん、肌や肉は焼けただれるが、亡者であるので、放っておけば直に癒える。

 妖ですら滅多に近づかぬこの場所に、一体どんな仕事があるのかとリクオが怪訝な顔をしていると、先導する荒鷲は、亡者達を見下ろす岩の上から、眼下の奥を指さした。

「見えるかい、奥でぐつぐつ煮えたってるのがよ」
「ああ。あれが音に聞く、富士山麓の窯ってやつか」
「そうよ。黙ってたら、あの炎が沸騰して山が火を噴いちまうからな、こうやって亡者どもを使いふいごを使って熱を逃がし、逃がした熱で湯を沸かし鉄を鍛える。この富士山麓になくてはならねぇもんだが、工夫したのは富士に住む雪女とその婿たちだ。とは言え、こうも暑くちゃ俺たちも仕事がままならなくてなァ、見ての通り、地獄の炎を浴びて働くのは、地獄の亡者ども。刑期をもう少しで終える野郎どもだからな、地獄よりはよほどこっちがマシだってんで、俺たちがちょいと見回りする程度でせっせと働いてくれんのさ。けど、俺たちが目を離したところでサボられちゃたまんねぇ。いや、ちょいとサボるだけならいいんだけどな、ずっとサボされちゃたまんねーだろ。だからこうやって見回りをするのと」

 富士山麓の最下層、吸う空気そのものが炎のようだ。
 岩肌を噴き上がってくる炎の風に、荒鷲は一瞬顔をしかめて、その後、続けた。

「なにせ、地獄へ続く門だからな、あの窯は。ああやって紅く燃えている間はいいが、あれが蒼く輝くといけねぇ。たまによ、地獄の中でも大物って奴等は脱獄を企てる。この地上に続く門に手をかけて、無理矢理こじ開けようとするのさ。そういうときに、あの窯の中に渦巻く炎が、蒼く輝くってわけだ。もしもそうなったら、上の雪女達に知らせるのが、俺たちのもっとも大事な役目なのよ」

 ここまでは本当だった。
 亡者達が汗水垂らして働く広い地平は、リクオの眼下に広がり、ここが山の中だとは思えぬほど。巨人が扱いそうなふいごを、数千数万の亡者たちが必死に動かしている。
 ふうんと感心したように頷いて、荒鷲と並び、ごつごつとした岩山の頂上から見下ろしていたリクオに、荒鷲は一つ嘘をついた。

「それで、一日一度はあの窯の様子を間近まで見に行くのが、雪女の《虜》の大事な仕事ってわけだ。遠目から見て赤く思えても、近くに寄ってのぞき込んでみたなら、蒼く光る点が見えるかもしれねぇ。早めに見つけるのが何よりだろう?姫さんの婿殿なら、まず一番大切な仕事になるだろうよ」

 一日一度は嘘である。
 窯の様子を見に行くのは、彼岸が近づく春と秋。
 それすら時折忘れられることがあるので、暮れの大掃除のときについでに、この岩山の上から見下ろすのが関の山だ。
 窯の側ときたら、ひっきりなしに溶岩が噴きあがり、地表も赤く熱されて、巻き込まれでもすればただではすまないだろう。

 妖の身とは言え、地獄の炎に巻き込まれれば、相応に傷を負う。
 しかし、男衆が度胸比べに、あの窯まで近づけるかどうかを競り合うのは、ままあることだった。
 荒鷲自身、男衆たちの中で一番に、あの窯の近くまで寄った男だ。
 とは言え、近くに寄れば寄るほど地獄の臭気と熱風が体を苛む。
 せいぜいが、亡者たちより十歩先まで近づいただけだ。
 窯をのぞき込むなど、到底無理だと誰もが思っていた。

 どうだい、恐ろしい場所だろうと、得意になって腕を組み、並ぶリクオに視線をやった荒鷲だが、そこで慌てた。
 既にリクオの姿はそこになく、軽々と岩肌を滑り降りて、亡者たちが働く間を縫うように、窯へ走り出していたのである。

「あ、あの馬鹿、本気にしやがって……!」

 妖なればこそ、流石に地獄の風や熱には気後れし、どのように近づけばいいのだとか、どこまで近づけばいいのかなどと訊いてくるだろう、賄いの女衆や、湯殿のあかなめたちに気に入られてしまうほどの女々しいやつだから、せいぜいへっぴり腰を蹴りとばしながら近づいて行こうと思っていたのに、まるで当てが外れた。
 慌ててリクオを追った荒鷲の前で、亡者を苛む溶岩が地表から吹きあがり、荒鷲は足を止めたが、リクオはわき目もふらずにまっすぐに走るので、小鳥を乱暴に掴む手のように広がった溶岩が、リクオに降り懸かった。

 あっと荒鷲が叫んだ目の前で、リクオは降り注ぐ地獄の炎の中へ、悲鳴をあげる間もなく沈むかと思われた。
 もちろん、そうはならない。
 荒鷲がリクオに抱いた印象のようなお坊っちゃん然とした生活を、リクオはしてこなかった。荒行として燃え盛る炎が周囲を囲む中で瞑想を続けたこともあれば、真冬の滝に半日打たれていたこともあるし、異界との付き合いの中で地獄の入り口までなら赴いたこともある。度胸と好奇心はぬらりひょんの性であるし、何よりぬらりひょんときたら、とらえたと思われても次の瞬間にはひらりと交わしている。
 ここでも、荒鷲の目の前で炎に飲み込まれたはずのリクオは、いつの間にか全く違う、組み立てられた櫓の上を跳ねていた。

「お、おい、勝手に先へ行くな!」
「あの窯の中をのぞいてくりゃあいいんだろう?足には少し自信があるんだ、おやすいご用。荒鷲さん、あんたぁ、ここで待ってなよ」
「って、おい、こら、待て!行かなくていい!」

 かつがれたとまだわからないらしいリクオに、荒鷲の方こそ、いよいよ慌てた。
 リクオは雪屋敷の大事な婿殿だ。
 もしも万が一のことがあってはと冷や汗をかいて、荒鷲もリクオの背を再び追おうとしたが、そこでまた、地表から炎が吹きあがった。

 追い立てられるように、もといた岩山の上まで後退を余儀なくされた荒鷲は、はたと気づいた。
 今まで、リクオにどうにかしてぎゃふんと言わせることが目的で、周囲をよく見ていなかったのだが、今日の炎はなんだかいつもよりも乱暴だ。
 おまけに、亡者たちもいつもより、怪我をしている者が多い。

 彼岸が近いためかとも一瞬思ったが、嫌な予感がした。
 これは的中した。
 炎をかいくぐって窯の側までたどり着いたリクオが、大声で叫んだのだ。

「荒鷲さん!」
「な、なんだ!」
「窯の中が、蒼い!」
「な、なんだってぇ?!」



+++



 何やら騒ぎが起こりそうなこのときに、雪女が一体どこへ行方を眩ましているのか。誰より何より我が夫大事や、守子可愛やの彼女が、一体全体どうして、一人、姿を消してしまったのか。

 理由は、まさにリクオが目にしている、地獄の窯にあった。

 元々、富士は地獄と現世を繋ぐ場所。
 荒鷲が言うように、定期的に地の底へもぐって、窯の様子を伺う必要もある。けれど実際に目で見て確かめるのは、儀礼的な意味を大きく含んでおり、本当のところは、雪女たちが里を覆う微妙な妖気の変化を感じ取ったり、雪屋敷のあちこちにはりめぐらせたからくりが知らせる約束になっている。男衆が地の底へ赴くのは、亡者たちに姿を見せて、お前たちは見張られているぞと思わせるのが本当のところだ。
 実は、雪屋敷のからくりの様子がおかしいというので、本当ならそのような時には屋敷の主が屋敷を見て回るところ、霊峰富士を預かる雪羅御前は出かけており、その娘である氷麗に、お鉢が回ってきたのである。

 一度二度で頷く彼女ではなかった。
 のっぴきならないほどに妖気が漂えば、どこにいてもわかるだろうし、何より己の膝で、腕の中で、幼子のように眠りについてしまったひとを放って出ていけるものではない。
 けれども雪婆の方も、「膝が痛んでいけません。……こんな時は嫌な予感がするのです」と、いつになく怯えるような様子まで見せるので、いたしかたなく、彼女はリクオを一人部屋に残し、ほんの少しの間だけのつもりで、お涼に後を任せた。
 少しでも魘されているようなら、すぐに起こすようにと言付けて。
 彼女が部屋を離れた時間は、小半刻もなかったはずだ。
 雪婆を従えて屋敷のあちらこちらを見回ってみて、確かに、ほんの僅かであるが、饐えた臭いがするようにも思えて、本格的に漂ってくる源を探してみようと母の側近達と話し合い、そうなってはいよいよリクオに断る必要があったので、すぐに戻った。
 なのに、部屋に戻ってみると、いない。

 ガランとした部屋には、リクオが着ていた黒い着流しが衣紋かけにきちんとかけられており、では風呂でも使っているのかと、部屋に続いた内風呂や、露天を覗いてみても、いない。

 心配になっておろおろとする彼女の耳に、床下でがたごとと何者かが暴れるような音が聞こえてきたので、はっと気づいて床下をのぞくと、桐の箱に閉じこめられていたお涼の姿があった。
 ご丁寧に金魚帯でぎゅうと自由を封じられ、その上、小さな猿ぐつわまで噛まされた上、閉じこめられた桐の箱も縄で縛られた有様だった。

「荒鷲です!荒鷲の奴、リクオ様を連れ出して、無体をするつもりなんです!」

 猿ぐつわをほどくや、お涼は主の幼い頃に良く似た優しげな目をきりりとつり上げて、事情をまくし立てたが、閉じこめられた小さな彼女の怒りもさることながら、事情を聞いた雪女の怒りのほども、すさまじいものがあった。
 きりりと眦をつり上げ、怒りのあまりに彼女を形作る氷片まで僅かに溶けては、白い煙と変じるほど。
 お涼や雪婆、そして母の側近衆を引き連れ屋敷の廊下を滑るように進み行く様は既に、一家を預かる姐御の風格。

 この様子で睨まれれば、荒鷲には誰にも己等の行方は漏らすなと命じられていた荒鷲の手下たちも、しらを切り通すわけにはいかず、屋敷の総領娘の足下にはいつくばって冷たい視線にぶるぶると身をふるわせながら、己等の企みを吐くしかない。
 いつもは荒鷲の側近として、屋敷ではそれなりに兄貴分を吹かせ、男衆たちの中でも恐れられているがたいの良い男達なのだが、屋敷の中なのにオーロラを背負って登場した姫御前を前にしては形無しで、己等の親分の行く先を簡単に吐いた後、申し訳ございませぬ、ほんの出来心で、と、額を床に擦りつけて謝るほど。

 背後に七色の冷気を顕現させるほどに怒っていた彼女は、男衆に礼を言うどころか、用が済むと彼らを木石ほどにも思わなくなったようで、すいと視線を逸らすや先を急いだ。
 残された男たちは、彼女の姿が見えなくなるまで、冷たい汗をかきながら、ついに頭をあげられなかった。

 さて、お涼に加えて雪婆や側仕えの女たちも加えて、雪女が向かう先はまず賄い所だ。
 きっと化猫屋でそうであったように、あれこれと言いつけられてもにこにこと請け負って、袖をたくしあげ器用にこなしているのだろうと思われたが、予想に反して、既にそこにリクオの姿はない。
 女衆たちは、口うるさい雪婆だけではなく、雪羅のお側仕えの官女たちを従えた、雪姫さま直々のお出ましに面食らった様子で、何か不届きがございましたでしょうかと腰を低くしてお伺いする。
 これに、実はかくかくしかじかでと、ため息混じりに雪姫さまがお答えすると、あれさっきの色男が婿様だったかと皆が面くらった。

「も、申し訳ございません、姫様。私たち、荒鷲が新入りだと紹介しておりましたし、婿殿も全く否定なさらなかったので、てっきりそうだとばっかり。ああ、どうしましょう。私たちったら、なんて失礼を」
「仕方がないわ、そう詳しく知らせる前だったんだから、貴方たちには非がないもの」
「でも、でも姫様、あの方、雪羅様がお戻りになられた後に姫様たちの今夜の膳につけようと思っていた茶碗蒸しの仕込みや、お客様たちにお出ししようと思っていた酢の物のこしらえをされた上、明日以降の保存食にしようと思っていた鮭の糠漬けを二樽ばかしこさえられて、その上渡したちの賄いまでお作りになっていかれちゃって。わ、私たち、ああ、ど、どうやって謝ったら………!」
「………そう。申し訳ないけど、流石に茶碗蒸しは後で私が作り直しにくるわね。あの方に作らせたなんて知られたら、お母様がなんて言って怒るか」
「ですよねぇ!いいえ、いいえ、いいんです、私たち、すぐ作り直しますから!ああ、もう、本当にもったいないことで……!」
「ううん、かえってお手間をかけるわね。あの方が一言名乗れば済むことだったでしょうに、どうせそれもしなかったんでしょう」
「え、ええ、荒鷲がいつもの調子で偉そうに、新入りの名前なんざ覚える必要はねえし、お前も一通り仕事を覚えてから名乗れ、なんて言うもんですから。私たちもすっかりそのつもりで用を頼んじまって……。本当に、申し訳ないことをいたしました。なんてお詫びをしたら………。でも、私たちだって、ちょっとでも婿殿がご自分への仕打ちに、そういうものなのかと仰せだったなら………、あるいはちょっとでも、不機嫌そうなお顔を見せていただけたなら………、決してそのような事はいたしませんでしたのに」

 女衆たちが、やや恨めしく思うのも当然だった。
 こんな大きな屋敷の姫様を妻にしようというひとなら、下男のような扱われ方をすれば怒るものではないのか。怒らずとも、疑問に思うだろう。
 一言でも、自分が考えていたのと様子が違うと言ってくれたなら、という想いは雪女もわかったし、名乗りをあげてくれていたならという歯がゆさは、リクオとは知らずに花霞大将へ恋をした後、正体を知らされたときに何度も想ったことだから、ごめんなさいね、と素直に詫びた。

「あのひと、そういうところ、本当に世間知らずなのよ。自分の力もたいしたものではないって思ってるし、だから別の場所でどのように扱われても、そういうものかって思ってしまうらしいの。だからここで機嫌良さそうにしてたんなら、きっと皆に優しくしてもらってうれしかったのね。まだそういうところは、てんで子供なのよ」
「子供って。立派な大妖ではありませんか。お噂にしかまだ聞いておりませんけれども、なんでも、ぬらりひょん様の隠し子でいらっしゃるとか?でしたら、二代目ほどとは言わなくても、二百年かそこらは生きていらっしゃるのでしょう?」

 そうでなければ、あんな立派な大妖とはなるまい、と、言うのである。
 雪女は、ため息をついた。

「何だかまだ色々誤解があるらしいのはよくわかったわ。奴良組から、報せは来ていないのかしら?」
「さあ、雪羅さまや婆さまにはあったのかもしれませんけど、ここにはさっぱり………」
「やっぱりね。あのひと、今度の誕生日で十五になるばかりなのよ。悪気があって貴方たちを騙そうとしたわけじゃないから、許してあげてね」

 これには賄い連中も驚くが、妖気の大きさの割に、これを頼むあれをお願いとやったときの素直な受け答えや、どこか無垢な様子も、まだ元服したばかりの子供なのだと言われてみれば納得もできる。

「元服したばかりとなれば、なるほど、区切りとして一人前と呼ぶとは言え、まだまだ子供ですな」
「姫さまの元服の頃なんか、そりゃあ雛人形のようにお可愛らしくて」
「おれぁ自分の元服の頃なんて、覚えてねぇですなぁ。あんなふうにはっきり物を話せたかなぁ」
「事情はわかりましたよ、姫様。でもそうすると、ちょっと困ったことが。いえ、あのお方、雪羅さまにお出しするもんだよって言ったら、そりゃもう嬉しそうに茶碗蒸し作ってたんですよ。見てるこっちも嬉しくなるくらい上機嫌で。ほら子供って、親に食べてもらうのを楽しみにしたりするでしょう。自分が作った茶碗蒸しが膳につかなかったら、あのお方、がっかりなさるかも………」
「……………わかったわ、茶碗蒸しはそのままつけて」

 愛しいひとがしょぼくれた顔をするのを見るより、母に叱られる方がいくらかマシだ。
 なにせリクオは、一つ我慢させれば十も耐えるようになってしまう。雪女としてはもう、あの顔に痛みをこらえるような表情をさせたくない。本人が耐えているつもりが無いのが、なお悪い。

 お前はダンナに何をさせてるんだいと母に叱られるのを覚悟で、彼女は夫の笑顔を選んだ。
 母の雪羅は心得たひとだし、幼子には甘いので、夫の前で彼女を叱りはしないだろうから、夫が気に病むこともあるまい。そこまで考えて。

 それに、元はと言えば荒鷲が悪い。
 この時、雪女には既に、彼を庇う気が無かった。
 最後に、恐縮する賄いの男衆女衆たちにねぎらいの言葉をかけて、雪女は賄い所を後にした。

 その後しばらく、賄い所の女中や板前の中で、「逆紫の上計画」という言葉が流行したのだが、それはまた、別の話である。

 賄い所の次に雪女が訪れたのは、賄い衆が示した荒鷲の次なる行き先、地下の船着場であるが、こちらにもリクオの姿は無い。
 滅多に間近で顔を見ることのない姫様のおでましに、地下で働く男たちは一度驚き、先ほどの銀髪の美丈夫が婿様だと知らされて、二度驚いた。

 ここでもリクオは、頼もしいと認められる働きぶりであったらしい。
 雪女は頭が痛くなってきた。げに力仕事は男子の仕事なれど、わざわざ屋敷についた日に、それも人足と一緒に扱うなどなんたることかと、気に入りの氷の煙管で苛々と手の平を打つ母の姿が、目に見えるようである。
 人足の男たちも、賄い所と同様で、荒鷲からは新入りだと紹介されていたと言い大変な慌てよう。まとめ役の男など、雪羅姐さんに申し訳がたたぬと、その場でエンコ詰めに及ぼうとするほどだった。

 ようように詫びる男衆どもを宥めてから、今度は彼等が示した荒鷲の次なる行き先、湯殿を訪れてみたものの、誰の姿も無い。従えていた雪婆や雪羅の側近たちが目を丸くしてしばらく動きを止めていたのは、客が入る前の湯殿が、数百年ぶりにぴっかぴかのきっらきらだったからだ。
 雪女は、綺麗好きのあかなめ達を幼稚園児のように従えて、保父さんのように仕切る夫の姿が目に見えるようだったので、ここでも一つ、溜息をついた。
 こんなところをここまで掃除をさせたとなると、もう母からは小言では済むまい。正座でお叱り三時間コースだ。お前がしっかり捕まえてないから、変な男に騙されるんでしょ!しっかりなさい!十五なんてまだよちよち歩きの子供じゃないか、お前はそんな子をくたびれるまで働かせていいと思ってんのかい!等々、叱る内容は容易に想像できる。やっぱり、可哀相だが起こしておくべきだった。一度声をかけて起きないのはわかっていたことなんだから、もう一度接吻の雨でも降らせて起こしておくべきだった。

 ともかく湯殿にもおらず、一体どこへ ――― と思っていると、いつもより早く掃除が終わって上機嫌らしい、年老いたあかなめが一匹、脱衣所に残ってフルーツ牛乳を飲んでいたところからてくてくやってきて、雪女の前に立ち止まり、くんくんと匂いをかぐと、そこにリクオの気配でも感じ取って彼女が誰を探しているのか判じたのか、くいくいと手招く。
 案内をするつもりらしいと思いついて行くと、なんと彼(彼女?)が一行を案内した先は、さらに地下へと続く階段室、その下だ。
 関係者以外立入禁止の札がぶら下がった紐で封じられた、その先を、ちょいちょいと指差すのである。

「ま、まさか、荒鷲の奴め、婿殿を地の底へ……、亡者たちが群れなす、地獄の窯の側へ連れて行ったと申すのか!」
「なんということ……」
「もはやこれは冗談では済まされませぬ。婆様、私、雪羅さまへ知らせを出します!」

 あかなめがこくりと頷くと、雪婆はむうと難しい顔をして黙り、娘たちは顔を上気させて怒った。
 雪女も、この先がどういう場所であるかを母から知らされているからこそ、彼女等を止めることもできず、どうしたものかと戸惑うばかり。そのうち、ふと、どうしてリクオを探しているのだったか思いなおして、はたと気づく。

「そ、そうだわ、その地獄の窯の様子がおかしいかもしれないって、ばあやは私を呼びに来たのよね?!」
「いや、窯ではないかもしれません。あくまで、雪屋敷の妖気が、ただならぬ様子であるような、というぐらいで。しかし、それを差し置いても、荒鷲の所業はもはや冗談ではすまされませぬ。姫様はここでお待ちくだされ。婆が下の様子を ――― 」

 言いかけた、そのときである。
 天井から、はらり、と埃が落ちてきたような気がしたと思うや、次の瞬間。

 ゴゴ……ゴゴゴゴゴゴゴ……… ――― !!
 地の底から沸き起こる地響きとともに、屋敷が大きく縦に揺れ出したのだ。

「な、何事!ま、まさか、窯に何か……!」

 雪婆が杖を握り締め、わなわなと震えている間に、雪女はすぐさま身を翻し、立入禁止の縄をひょいと飛び越えて、ふううと己で吹雪を起こし、器用に乗りこなして全速力、走り出す。

「い、いかん、姫様!お待ちください、姫様!」

 娘たちの慌てた声や雪婆の声など、もはや雪女の耳には届かない。
 この下にリクオが居ないかもしれない、とも、考えない。



 ぴり、と、約束を交わした小指が、痛んだ。
 かつてリクオもそう感じたように、彼女もまた、リクオの危機であることを、疑わなかった。



+++



 吐く。吐く。呪詛を吐く。生きとし生けるものへの呪詛を吐く。
 呪う。呪う。生を呪う。生きて蠢く全てを呪う。
 哂う。哂う。生きて蠢くものを呪う己をも、なんたる馬鹿げた有様かと哂う。

 最初は青、次に黄、そして赤。
 炎の色はリクオの前で目まぐるしく色を変えたかと思えば、避ける間もなく膨れ上がってたちまちどろりとあふれ出し、最初は押し寄せる波のようであったが、次には弾ける八つ首の竜へ変じ、逃げ惑う亡者たちすら飲み込んで、富士山麓の地底に作られたふいごの仕掛けの端から端まで、煮えたぎった血の色の湖として覆ってしまった。

 次々と亡者たちが、溢れる炎と怨嗟に飲み込まれていく中を、荒鷲は元来た道を引き返し、入り口がある岩山へと駆け上がって難を逃れたが、そこにリクオの姿は無い。
 つまらない意地の張り合いで、えらいことになってしまったと振り返り、リクオの姿を探すが、溢れかえっていた亡者たちも、炎を秘めた深紅の湖面に溺れ、たちまち髑髏となって沈んでいく。
 すさまじい熱風が叩きつけるように吹き荒れ、荒鷲もたまらず腕で顔を覆いながらリクオの姿を探し ――― 見つけた。

 奇跡のように、リクオは湖面の上に、立っていた。
 亡者たちがなす術なく沈んでいくと言うのに、溢れる溶岩の、それも地獄の怨嗟と呪詛に侵された炎の湖の上、先ほどまで窯があった場所、荒れ狂う波の中に、凪いだ場所を見つけたのだとでも言うかのように、立っているのだ。
 目を凝らせば、この大風の中でも、銀糸の髪は乱れる様子なく、己の妖気でのみ、ふわりと泳いでいる。
 足元を囲んでいるのは、守護方陣を作り上げた札であるが、この足元をこそ、リクオは睨んでいるのだった。

「おい、新入り!何やってる、早くそこから離れろ!」
「 ――― 荒鷲さん」
「なんだ、何がある!なんでもいいから、とっととこっちに来い!」

 リクオは遠めにも、涼しい顔をしているように、見えた。
 荒鷲が最初に見たときのまま、傲岸不遜で、涼しい顔をした、大妖であるように、見えた。

 違った。リクオは既に、窯の向こうからこちらに流れ込もうとしている何者かと、対峙していた。
 決して隙を見せられぬ、一瞬でも気圧された様子を見せればすぐさま首を刈りに次の術がやってくるだろう、視線の戦いが、始まっていたのである。
 本来は、物質や多少の呪いなど跳ね返すはずの守護方陣も、次第次第、足元の溶岩が焦げつかせ、じりじりと、リクオの足場を狭めて来る。

「上に知らせてくれ。奴さん、これだけじゃ済まないはずだ。無理矢理、扉をこじ開けた」
「な、な、何モンだそいつぁ?!」
「オレの守護方陣が一分と持たない。ただの呪いじゃない、これは、術を外から解いてるな。そんな事ができる地獄の住人の中で、最近の出来事にブチ切れてかんしゃく起こしてこっちに手を伸ばそうとする奴なんて、オレは一人しか心当たりがないよ。参ったな、ヤタは爺様のところだ、皆を呼べない。だから荒鷲さん、頼む。皆を呼んで来てくれ」
「馬鹿、お前も来るんだよ!」
「今は行けない。奴が来る。ここはオレが食い止める」
「だから、誰だ!そいつは!」

 つい、と、リクオの頬に汗が伝う。
 瞬きもせず、炎の湖面を挟んでにらみ合っていた相手の真名を、リクオは告げた。



「安倍晴明。《鵺》になりそこねた奴だ」



 刹那、富士の底を覆った炎の湖面に、五芒星が走る。
 ついにリクオの守護方陣も破れて、新たに術式を組み直すが、荒れ狂う風と、音を立てて逆巻く炎の竜が、簡単には許さない。
 襲い掛かる炎の竜の頭を踏みつけて、リクオは跳躍し、そこで風を捕まえて足場に替え、術を敷いて空に足場を敷いた。
 しかしこれも、じりじりと、またも札の端から焦げ付いて消えていく。
 術の癖が知れてしまったので、先ほどよりも解けるのが早い。

 炎の海と貸した眼下の光景に全く怯まぬリクオを、八つ首の炎の竜は面白くなしと判じたらしく、お互いの首を絡み合わせるようにして、まさに八方から囲み己の顔を体を叩きつけて、亡者たちと同じく炎の海に沈めてしまおうとするが、それよりも、リクオが独鈷杵の杖で、陣を立て直すのが早かった。
 左手で足場を支えて術式を組み替えると、僅かに札への侵食が遅くなり、右手で空へ向かって独鈷杵の杖をかざせば、杖に封じる術が強力な結界となって八つ首の炎を阻み、逆に妖力を吸い取られて気を失ったか、ばしゃりと横倒しになって湖面に消えた。

 すげえ、と呟く荒鷲は、遠く離れた岩山に、なおもかじりつくようにして見入っていたが、己の声にはたと我に返ると、慌てて、現世に戻る扉を潜り、人足で鍛えた手足に物を言わせて、急な階段を駆け上がるのだった。



 これを見届け、リクオは術式を自ら解くと足場を捨て、遠く離れた岩山へ、これまで荒鷲が居た場所へと降り立ち、現世への扉を背に立った。
 かつと音をたてて岩山の上に杖を立て、両手で印を組む。



「オン・エンマヤ・ソワカ ――― 閻魔天、虜囚が逃げるぞ!連れ戻し給え!」



 炎の湖面の色が ――― 五芒星の白線を残し、漆黒へと、変じるのと。
 リクオの呼び出しに応じ、湖面を覆うほどの五芒星と鏡合わせのごとく、中空にこちらも富士の地底を覆うほどの大きな扉が具象化して、ギギイと開くのとは、同時。

 二つの力がぶつかり合おうというその時に、リクオは、










 ――― フフフフフ ――― さあ、魅せて、おくれ ―――










 先刻の悪夢と、同じ声を、聞いた。