亡者たちを飲み込み礎として、自ら現世への扉をこじ開けたらしいその男は、長く地獄に居た間にどう変容したのか、金に変じた髪を長くなびかせ、まとわりつくような炎の羊水の中から、苦しみもがくように叫びながら生まれ出た。

 生まれたばかりであるはずが、肉体は若々しくも青年のように雄々しく、まさに百鬼夜行を率いる主の姿そのままであるのに、瞳には深い憎しみを両眼に宿しており、既に此の世の辛苦を嘗め尽くした老人のようである。
 然り、そのはずであった。
 平安の世で人と妖の間に生まれた子となれば、なまじ妖の存在が知られ信じられていたために、人からの謗りは半端なものではない。
 人より劣れば劣った分だけ、逆に頭角をあらわせばあらわすほどに、謗り詰る理由にする。末は、唯一の拠り所であった妖の母を、人の業によって惨殺され、幾世巡っても尚、昇華できぬ因果に囚われてしまった。

 ゆえに、地獄に幾年囚われていようと、身を焼かれる炎の中にいようと、身を砕くほどの氷雪にさらされていようと、安部晴明という一つの因果を作り上げたまま、ただの亡者になりきれぬ。どんな沙汰が下ろうと、己の身に下る沙汰にもっとふさわしき輩があるだろうにと、輪をかけて憎しみがつのり因果がからまる。
 だからこそ、鵺として母から生を受けずとも、直接地獄から舞い戻ったとしても、彼は安部晴明のままである。

 母の力を得られなくなったこと、地獄の底で感じ取ったのだろう。
 母の己への執着が遠のいたこと、地獄の底で感じ取ったのだろう。
 産声は呪詛であった。母の執着を断ち切った何者かへの、呪詛であった。

「貴様か。貴様なのか。おのれ、我が大望果たさんとするときに邪魔をする忌々しいぬらりひょんの一族めが。呪ってやる。呪ってやるぞ。私は呪う。母を奪った人間どもを呪い、母を守らなかった父を呪う。父の血が流れる我が身を呪い、母を守れなかった我が身を呪い、我にこれほどの深い憎しみを生ませた、愛しき母を呪う。
 その上、貴様、我が母を奪うというのか。あなや忌々しき、まことに忌々しき一族よ、ぬらりひょんと言う者どもは!」

 五芒星を道標とし、炎の羊水に身を焦がしながらもがいていた男は、咆哮を産声として、世にこれほどの悪意呪詛穢れがあったろうかと思うほどに、全てを否定しながら生まれてきた。
 生まれ出ずる先、上空には安倍晴明を向かえ討たんがため、リクオが呼び出した閻羅天が、巨大な扉をギギイとあちら側から開き、巨大な手をぬうと突き出しているというのに、全く畏れた様子は無い。むしろあろうことか、己を雀のように掴み取ろうと黒い腕が突き出てくるや、睨みつけるまでもなく、ついと指を一本、何かのついでのように持ち上げた、それだけで、黒い腕は壁にぶち当たったかのように、動けなくなってしまった。

 さらに男がにらみつけたのは、己に指一本を使わせるという労力を強いた者。
 炎で溢れかえった地底の中心に浮かび上がりながら、遥か向こう、真っ直ぐに現世へ続く岩山を、その上に立つ銀髪の少年を、視線で射抜いたのだ。
 視線を流された、それだけで、印を結ぶ少年の腕が震えた。
 強制的に腕が、指が、印を解こうとするのを感じながら、深く瞑想し真言を紡ぎ、見えぬ力のせめぎ合いに耐えつつ、男が力を強めれば強めるほど、さらに大きく術を展開しようとする。男がこれでは足りぬかと、初見で見繕った相手の力量が違っていたかと首をかしげ、指一本でいかぬとしてもこれで足りるだろうと片手全ての指を使って術返しを試してみれば、やはり黒い腕は砕け散らず、操る少年の方も、男の片手分の力をやんわりと受け止める。

 己の力の嵩が増せば、相対する邪魔者が、同じ分より少しだけ上を行くくらいの力を出して来る。
 どうせこれが全力であろうと侮って、もう少し力を増してみれば、今度はそれを少しだけ上回るくらいの力で、あろうことか拮抗してくる。
 それだけではない、男の指先で展開していた五芒星に、端からみしりと亀裂が入り、男は目を見開いた。
 次には、目の前で金剛石の壁にぶち当たったかのように男を掴み損ねていた黒い腕が、ばきりと五芒星を砕いて、男の腕を掴んだではないか。

 怒りもまた、畏れの内である。
 ここで男は、初めて、此の世の全ての者に対する平等な怒り憎しみだけではない、目の前に立ちふさがる邪魔者として、特別に少年を認識した。
 ぬらりひょんの一族に対する呪詛ではない、己の敵として、特別に。
 睨み付けた。すると、男と対峙していた少年もまた、瞑想の中でゆっくりと、半眼を開いた。

 何の冗談か、下男のように裾をからげた着物の上に、背中に大きく六花紋が入った半被姿。
 だと言うのに彼がまとうと不思議に、ここではそれが着物の正しい着こなし方であるように思われて、そのような姿で潔斎もなく真言を紡いだとしても、呼び出された者の方さえ、それが彼の正しいあり方なのだと認めるように、望まれるがまま、力を貸し与えている。
 すらりと伸びた手足は青年になりかけで、男の完成された器の形に比べれば、今少しの成長が待たれるところ。

 男は、少年と目を合わせ、此の世の全てに感ずる怒りを、憎しみを、それ以上をぶつける相手を、得たと感じた。
 然り、然り、そのはずであった。

 相対した少年は、まだ少年でありまさに百鬼夜行を率いる主であるはずなのに、瞳には深い哀哭と情愛を宿しており、相対する男にすら憐憫でもって腕を差し伸べているのであった。
 およそ執着が感じられず、まるで此の世の責苦を全て引き受け許してきた老人のようであり、それでいて瞳は生き生きと輝いている。
 平成の世で人と妖の間に生まれた子となれば、かつ陰陽師の大家で育てられたとなれば、人からの謗りは陰惨なものであった。
 人より劣れば劣った分だけ、逆に頭角をあらわせばあらわすほどに、謗り詰る理由にする。末は、心の拠り所であった人の母を、妖の業によって呪い殺され、だと言うのに、業を深くした者を憐れみこそすれ、一片の恨みも感じられない。

 彼岸で蓮花の上に立ち、祈りで満たされる世界を約束されているというのに、尚もこの現世に留まっているのは。
 泥を被り穢れを含みながら、生も死も同じ意味だと言うのにそれでもこの世に、花霞リクオとして留まっているのは。

 まさに、目の前の男のように、地獄に行っても尚、己という因果に苦しむ輩に手を差し伸べるためである。
 だからこそ、安倍晴明は花霞リクオを憎み、さらなる呪詛を吐いた。
 己と同じでありながら、己と真逆の太極の座に至ったものであるがため、陰陽が互いに互いを追い渦を描くものであるように、決して見て見ぬふりはできぬのだ。
 その呪詛こそ、恨みこそ、憎しみこそ、花霞リクオへの怖畏に他ならないと言うのに、気づきもせずに睨みつける。そうすることで、リクオが用意した舞台に、安倍晴明として囚われることになるというのに。

「貴方は死んだのだ、安部晴明。いかに地獄から此の世を《視》通す慧眼をお持ちであったとしても、よもや未来は判じることもできまい。貴方が手繰った因果の糸は切れた。このようなやぶれかぶれの八つ当たりは見苦しい。大人しく、次なる輪廻のため、己の業を手放されよ。貴方の身を焼く炎も、貴方を砕こうとする氷雪も、全ては貴方自身から生まれたもの。貴方は母を奪われたのでなければ、母に捨てられたのではない。貴方が母を道具として利用しようとしたときに、貴方は母を捨てていたのだ」
「おのれ ――― おのれ、このような体でなければ、すぐさま消し炭にしてやるものを!」
「耳を傾けられよ、晴明殿。貴方は利用されていたのだ。利用していたつもりで、利用されていたのだ。《鵺》となることを望まれていた。貴方を《鵺》にせんと望む者があった、そういうことなんだ。そんな因果に、わざわざ囚われてやる必要はない」
「煩い、貴様に何がわかろうか!」

 美しく整った顔を醜く歪めて、晴明は吼えた。
 おそらく、他の者が立ち塞がり同じ言葉をかけたとしても、歯牙にもかけなかったであろうに、リクオを認めていたからこそ、いきり立った。
 男は、己の腕をがっちりと掴んだ黒い腕を、逆の手を持ち上げて押し返した。
 憤怒の形相からは、炎を抜け出てきたときにあった余裕はすでになく、全身全霊でもって逆らうつもりであることは、此の場に誰か他の者があってもわかっただろう。

 黒い腕は晴明の片腕をがっちりと掴んでいたが、それ以上押すことはできず、晴明がもう片腕にも力を込めたことから、今度は逆に内側から膨れ上がり、血管を浮き出しびくりびくりと脈打って、今にも破裂しそうだ。
 その分だけ、リクオにも術は返る。黒い腕が晴明の力に耐え切れず、浮き出た血管を一つ破るたびに、リクオの腕からも血飛沫が上がった。

 にしても、両者の力はどこまでも、等しい。
 鏡あわせのように、陰陽のように、相手が押せば同じだけ押し、相手が引けば同じだけ引くのを、呼吸するようにリクオは心得ていた。
 だと言うのに、晴明がこれまでの術とは一変させ、黒く濁った瞳に凶暴な光を宿したそのとき、紡がれた咒に、リクオは一瞬だけ遅れた。



 ――― さぁてぇ、晴明よ、再びここで、《鵺》に、なるか? ―――



 己等の戦いを、どこか遠くから見下ろしている何者かがある、気配を感じ取っていたがために、術の展開がなされるまで、気づくことがかなわなかったのだ。



「我今后毎天、一日各一千人殺死」



 歌うように紡がれた、たったそれだけで術は完成であった。

 これまでは視線一つ指先一本を使わせたことにすら憤りを見せていた安倍晴明は、己の力を魅せることに、もはや何の躊躇もなかった。
 この咒一つで、並の妖怪どもならばことごとく吹き飛び、霧散し、灰になって消えていたろう。
 人間ならば、並大抵の陰陽師などは、印を結ぶ指も咒を紡ぐ喉も毒に潰され、はっきりと視認できる呪いに目もやられて、たちまち五臓六腑を腐らせ死に至っていたことだろう。

 事実、晴明が立つ炎や、晴明を掴む地獄の閻魔天の腕すらも、晴明が放った呪いに触れるや、己の形や色を忘れて、炎は周囲に渦巻きぽっかりと晴明の立つ場所を開け、黒い腕はぼろぼろと皮膚を腐らせていく。

 晴明の背後に、幾重にも己の身にくねる毒蛇をまとわせた、女の姿があった。
 半透明の大きな女は、晴明を守るように鼓舞するように嘲笑するように、半ば腐りかけた顔から蛆をわかせながら、にたり笑って、落ち窪んだ眼窩でリクオを見据える。

 一日千人の死をもたらす、黄泉津大神の咒であった。
 晴明は死の呪いをもって、リクオが呼び出した死の祝ぎを跳ね返そうとしたのだ。
 これはいけない、術の体系が違いすぎる。力の綱引きでもって、ここに皆がかけつけるまでの時間稼ぎをするつもりだったため、今の晴明が地獄の住人であることから地獄の番人の力を借りたものを、全く違うところから死にまつわる呪いが引っ張り出されたのだ、話にならない。

 晴明は術の展開と同時に、勝ち誇った笑みを浮かべた。
 当然だった。この術は展開すると同時に、千の死を約束している。
 千の死が、目を持たぬ無数の蛭蟲のごとく蠢きながらリクオの周囲を覆い、たちまち空を覆っていた黒い扉は霧散した。
 リクオの身に、無数の蛭蟲ががぶりと喰らいつく。喰らいつきもぐりこみ、体中の血管を通り抜けようと暴れ、すぐに片目を喰いちぎって外に出ようとする有様だった。

 晴明の勝利に、違いなかった。
 目の前の大岩ごとリクオを覆った千の死に、晴明が勝利を確信するのは当然も当然であったし、敗者をいつまでも見つめている趣味は晴明にもなかったので、たちまち興味を失い、やや無理矢理に地獄から出てきたために、ただ泥を捏ねて作り上げた肉では魂をよく定めていられないものだから、この富士山麓を手中に収めた後は、少しこの炎の中で身を休めようか、などと先のことを思いやるのもまた、当然のことである。
 けれども、晴明が踵を返そうとしたそのときに、ぞくりと、寒気を覚えたのだ。
 まさに、己が背を向けたその存在を《畏れて》いたことに、晴明はようやく気がついた。

 初めは気のせいだった。
 まさかと振り返ったそのときにも、気のせいであると信じていたかった。
 次に、蛭蟲が無数に取り付きすぎて、もはや一つの生命体のようにうねる一塊から、数は少ないがぼろり、ぼろりと、蛭蟲が剥がれ落ちては桜の花弁に変わっていくのを見ると、晴明は、ここで、相対する者が何であるのかという、疑問に至った。



 立ち上る呪詛、呪、毒、蟲、病、絶、喪、孤、寂、哀、全ては晴明が齎したものであるはずが。
 立ち上る言祝、祝、薬、羽、癒、陽、得、勢、想、愛へと姿を変じるのだ。
 これが触れると、蛭蟲はたちまち、ぼろぼろと力を失い、落ちていく。



 やがて蛹から蝶が孵るそのときのように、内側から溢れる光が、次々と蛭蟲たちを花に変える。



「如果那祥我人絶対不滅亡的那祥、一日使之生一千五百人」



 一日に千の死が襲いくるというのなら、一日に千五百の生でもってこれを迎え撃たんと、死を苗床にして花が咲く。
 花は蟲とともに散りゆき、しかし決して、そう、決して、絶えることはない。



 展開したはずの術に、正しい形で返しを受けた晴明は、逆に巻き起こった花吹雪に視界を薄紅色に奪われ、その上、死肉であった身に花弁を受けるや、灼熱を浴びたような苦痛となったものだから、たまらず唸った。
 両腕で身を庇い、母譲りの金色の毛並みで身を守ろうとするもならず、肌は焼けただれ、ぐうと唸った声も、やがて絶叫となった。
 その花吹雪もやがて去り、炎の湖面の上にがくりと膝をついた晴明だが、憎々しげに顔をあげにらみつけた先で、術を返してきた者もまた無傷ではないと知り、にやりと笑う。



「術の返し方は正しい。現代の日ノ本にも、なかなか優秀な陰陽師がいたものだ。だが、千の死を防ぎきれるものではない、お前が使った返しはあくまで、死を上回る数だけの生を生み出したもの。
 お前の身に浴びせた千の死、なかなかの味であったろう?」



 ぜい、ぜい、と。
 荒い息をしているのは、晴明ばかりではなかった。

 いまや、蛭蟲はほとんど花弁に姿を変えて、リクオは再び岩山の上に印を組み瞑目した姿をさらしているが、集中のために経を口にしていたのが不意に止まったと思うと、こちらも膝をついて吐いた。
 吐いた血の中には、びちゃびちゃと暴れまわる蛭蟲までがうねっている。
 荒く息をするリクオには、稀代の陰陽師を前に立ち上がる力はもう、残っていないようだった。
 顔を持ち上げ、晴明を睨みつけるのが、関の山だ。

 これ以上晴明を阻む力は、リクオには無い。
 じっと晴明を見つめるだけだ。

「お前は、奴良鯉伴の息子だな?ぬらりひょんの一族が陰陽術を使うとはな、中々驚いたぞ。良い余興だった」
「……貴方はどこでそれを知ったのだ。中途半端にこちらの知識があるようだが、地獄とは、気の向いたときにこちらを覗けるような、そんな都合の良い場所であったかな」
「こちら側に目玉を持っていた男と、知己になってな。途中までは上手くいった。だがどこからか邪魔が入った。奴良鯉伴を殺すはずがこれがならず、それ以降、忌々しいことばかり。だがそれもここまでだ。母上が ――― 羽衣狐が使えないならば、私は私の力のみで、此の世を闇へと染め替える」
「気づかないのか、安倍晴明殿」
「何?」
「貴方を《鵺》にしようとした何者かを」
「またそれか。私は人をやめ、妖となったそのときから《鵺》と呼ばれた。それでいい」
「違うよ。地獄から此の世を視ていたほどの貴方なのに、気づかぬのか。オレたちのこの戦いすら、そいつにとっては、それこそ余興に過ぎないんだ ――― 耳を澄ませてみてほしい、目を凝らしてみてほしい、さっきから、オレはそいつが怖ろしくて仕方が無いんだよ」
「何を馬鹿な。気でも狂ったか?ここには亡者どももない、私と貴様、それだけだ。貴様も妖であるなら、私に下れ。今ならば無礼も許してやろう。なかなか使えそうな男だ」
「考えてみてほしい、どうして貴方は此の世を闇へと堕とそうとする。どうしてそう思われるようになった。陰陽和合の調和こそ、貴方の望みであったはず、それがどうして」
「知れたこと、陰陽和合など所詮は理想であった。私は愚かであったのだ。愚か過ぎる人どもに、僅かでも期待した私がな。人はすぐに付け上がる、己の愚かさを認めず、権力を持てばすぐに弱者を虐げる。妖であると思えば何をしてもよいと勘違いをしている。人間どもには天敵が必要なのだ。上手く調和が取れるように、人間どもの数を減らす、人間どもを頭から喰う、妖という天敵がな」

 墓場近くの庵に独り、寂しく隠れ住んでいた化け狐。
 長く生きているその胆を食えば、不老不死になれるという噂を鵜呑みにした権力者は、それがどんな結果を生むのかもわからぬまま、部下に命じて庵に矢の雨を降らせた。

 あの日のことを省みて、晴明は僅かに、遠い目をした。
 晴明は気づいていなかった。その瞬間こそ、リクオが待ちに待っていたものであったことを。

「そうか、晴明殿。貴方は悟られたのだな、人は愚かだと、己の人の部分も含めて、そう絶望されてしまわれたのだな ――― 『母上殿のお屋敷を、守っておかなかった己の愚かさがゆえに、大事なものを失くしたと、思われたのだな?』」
「何を見てきたように愚かなことを。私が母上の屋敷に、術を敷かなかったわけが ――― 」

 鼻で笑い、否定しようとした晴明は、そこで、気づいた。

 あの日のことを省みて、心が陰から陽、妖ではなく人に近づいていたからこそ、リクオの言わんとすることを。

 はっと弾かれたように顔をあげ、その顔が、見る見るうちに憤怒に歪んだ。

「まさか ――― まさか、まさか、いやまさか、そんな事が! ――― 馬鹿な ――― いやしかし、辻褄が合う ――― いや、しかし、だが! ――― いいや、変わらぬ、だとすれば、人間とはやはり、救い難いほど愚かだということだ!」
「しかし晴明殿、『その者は、真に人であったのだろうか?』 ――― 全て仕組まれていたことだとしたら?貴方を《鵺》としたいがために、貴方が生まれてくるその前から、準備をしてきたのだとしたら?」

 安倍晴明と、花霞リクオ。
 両者の違いは、知ると知らずとにあると、鬼童丸は言った。

 安倍晴明は全てを知っている。術の何たるかや、陰陽の何たるか、太極のいかなるかを。
 而して、安倍晴明は百鬼夜行の主たりえた。
 百鬼の導き手として、最前列にあった。

 花霞リクオは知らぬと言う。
 術も、陰陽も、太極も、世界の色も空も因果も、解けば全ては無になるが、しかしそこには何かが在るらしい、不可思議でありいとおしいという。
 而して、花霞リクオは百鬼夜行の主である。
 百鬼とともに、何処からか来て、何処かへ去っていくために。

 二人の違いは、ここで明らかだった。
 安倍晴明は己の世界を完成させていた。
 己の世界もまた操られたものであることを、これまで考えてこなかった。
 介入する者の気配に、全く気づかなかった。

 花霞リクオは、己の世界を持っていなかった。
 世界とは、種から芽が伸び花が咲き実がなって、そこからまた種が生まれるように、何かしらの因果がなければ物事は起こらないということを、一つ一つなぞらえるようにしながら生きてきた。
 己の世界というものが無いために、夢は容易に世界を飛び越えて、あるいは世界を我が身を一体化させて、不意に彼岸に迷い込んでしまったりもする。介入者に気づいたのは、その上、彼自身もぬらりひょんの血を引く者であるからだろう。
 妖が元々、人に見えぬものであるというのに、ぬらりひょんはさらにその妖からも、目に見えぬようにする業を持つのだ。
 さらにその我等からも、姿を消してこっそり世界を見下ろしている者があるかもしれぬと、リクオは何も知らないがためにこそ、思い当たった。

 安倍晴明が動きを止めた、リクオには、それだけで答えとして充分だった。

「心当たりが、あるんだな」
「 ――― まさか。だとすれば、私、は ――― 」
「貴方の言う『私』とは、どの『私』なのかな、晴明殿」

 安倍晴明という存在は、千年の昔に陰陽師として京都で名を知られ、《鵺》と呼ばれるようになり、しかしそれも今は昔の話。
 庵を建てたとしても、やがて風雪にさらされて、全てが土に還るように、因果を解けばそこには風の音ばかりがある。安部晴明も同じである。死ねば骸になり、魂は地獄へ行き、全ての因果を清算して、魂は巡る。

 答えに窮し、立ち尽くす晴明の後ろから、ふうわりと、心地良い白い腕が伸び、ぎゅうと抱き寄せた。
 いつしか、彼自身が呼び出したはずの千の死は、リクオが呼び出した千五百の生によって、骸ではなく、一人の美しき女神に変じて彼を抱き締めていたのである。

「馬鹿な、これは、何を ――― !」
「地獄に戻られよ、安倍晴明殿。貴方が《鵺》となったのは、裏で糸引くそいつの思惑があってこそ。神妙にすりゃあ、閻魔もちょっとは気を利かせてくれるはずだ」

 言うが早いか、リクオは最後の力を振り絞って、地を蹴った。
 どんな亡者でも、地獄に戻るときには幾らか抵抗を見せるもの。
 晴明も例外でなく、己を抱き締める女神の腕に爪を立て、また思い出したように暴れ狂うものだから、溶岩が波立ち天井から岩が落ちる。

 次々落ちる岩を蹴って、一足飛び晴明に組み付くと、五芒星が今も浮かぶ湖面に晴明を押さえつけ、ずぶずぶと彼を地獄へ押し戻す。
 たちまち炎に包まれた幾百幾千の腕が現れ、晴明とリクオに組み付いて引張り降ろそうとする上、晴明の身は、美しき女神が後ろから抱いているがために、どんな術を叫んだとしても何も起こらない。
 対して、リクオの身に放たれた千の死の方は、そちらは死のまま、ぐずぐずと喰らいつかれた場所から肉を腐らせていくので、地獄の亡者たちはリクオの方も仲間だと思うのか、引っ張り込もうとする力に容赦が無い。

「やめろ、はなせ!私は ――― 私は、此の世を、闇の、世界に!」
「請け負った。闇と光の調和の世界、それはオレも、風情があっていいと思うよ、晴明殿。貴方の魂、確かに、この花霞リクオが請け負った」
「何を ――― 私は、私は、反魂でもって ――― 私は」
「永遠の調和はなされる。オレが死んだとしても、またそれを継ぐ者によって、必ずや。……反魂はなされたよ」
「なされた ――― ?」
「ああ」
「では、私は ――― 」
「…………」
「私は、誰、なのだ」
「…………なら、アンタ、誰になりたいんだい?安倍晴明という、不幸な稀代の陰陽師という業を、ずうっと繰り返していたいと、そう言うのかい?」

 憤怒の表情が、やがてくしゃりと歪んだ。
 そのときには、すっかり晴明の体は地獄の海に沈んで、湖面を挟んでリクオと相対しているぐらいのものだった。
 リクオの身の内に入り込んでいた蛭蟲が、地獄の妖気にあてられて暴れ、次々肉を食い破って自ら向こう側へ飛び込み、飛魚のように跳ねた。もちろん、リクオの身から血は流れ、片目を食い破られたおかげで視界もよくないが、リクオ自身は呻き声一つ上げない。

 炎の海の中で、女神に抱き締められたまま沈む晴明は、もはや身動き一つできぬまま、少年の姿で顔を歪めて泣いていた。
 大声を上げて、生前の因果に泣いていた。
 己の身の不幸に、守れなかった者へのすまなさに、捨ててきた者への愛惜に。

 リクオは自ら炎の海に腕を潜らせ、肉がたちまち削げ落ちていくのも気にせずに、幼い少年の頬を、笑って撫でてやった。



「なあ、母上は御子がほしいのだと思うよ。そういやオレも、弟が欲しいと思ってた。だからなあ、お前、面倒ごとは全部そっちに置いて、今度こそ本当に、生まれ変わってこいよ。面倒見てやるから」



 千の死を、千五百の生で術返ししたとして、では千の死がなくなるかと言うと、リクオを今も蝕み続けている。
 残る五百の生が行く先は、地獄に沈もうとしている少年である。
 泣けば泣くほどに浄化され、女神に守られるように抱かれたまま沈んでいき、その頬を撫でていたリクオの白い骨と化した腕すら届かぬほど、遠くへ行ってしまった。

 すると、あれほど荒ぶっていた地底は嘘のように静まり返り、五芒星が消えるや地獄への門は閉ざされ、湖はただの炎の海となった。
 揺れもおさまり、あとは炎が窯に消えていくのを待つだけであるし、例の窯が底の方で竜巻のように炎を吸い込んでいるので、直にここもおさまるだろう。

 リクオは風を借りて現世の扉に戻る、それだけでよかったのだが、なにせその力が出ない。
 相変わらず、千の死は体中を駆け巡り、呼応するのか、元服のときに刻まれた背の忌み文字が、焼き鏝を押し付けられたかのように熱く痛い。
 底に手を差し入れたまま、ぴくりとも動けないでいたリクオは、おや、面倒を見ると約束したが、もしやうっかり彼岸に近い方に足を踏み入れてしまったかもしれないなと、思った。

 いつもの事なので、いつもよりやや深いところに足を踏み入れているところまでは気づかず、もう一度だけ力を振り絞って体の向きを仰向けにし、ぷはあと息をついたが、そこまでだった。

 地獄の炎は、妖気と精神力を使った身には心地が良かった。
 そのまま、身を任せてしまいたいと、思うほどには。
 つい、うとうと、うとうととしてしまい、いけない、このままでは、沈んでしまうなと思うときにもがいて頭を炎から出すのだが、長くは続かない。

 いや、何もなければ、もうそのまま、疲れ果てた眠ってしまっていたろうが、今のリクオには、心残りが一つだけ、あった。
 沈もうとする体や心を叱咤して、もう少しだけ、生きていたいと、思わせる心残りが。

 けれども、底で竜巻のように炎を吸い込む窯の勢いは激しく、高波のように横薙ぎにされてしまうと、がぼりとしたたかに炎を飲み込んでしまった。
 肺まで炎を吸い込むと、逆に眠気が増して、いけないいけないと思うが、もう上下すらわからぬ。

 もう、いけないかもしれない。
 自分ではまだ大丈夫だろうと高を括っているうちに、うっかりと、彼岸へ足を踏み入れてしまったのかもしれない。
 思い当たると、途端にとてつもない後悔が胸のうちに沸き起こって、リクオは一声、呟いた。

「つらら ――― 」

 間違いなく、それがリクオの心残りの、すべてだった。

 吐き出した途端、窯が吸い込む激流に炎ごと巻き込まれて、彼もまた彼岸へ連れ去られるかと思われたが、突如巻き起こった吹雪が、リクオと激流の間にたちまち氷の壁を作り上げ、すると、流れの中で木の葉のように遊ばれていたリクオの身は、区切られた炎の中に、ぷかりと浮かんだ。
 浮かんだところで、堤防のようにせり出した氷の壁に捕まり、上に乗り上げ、げほりと咳をする。

 あれほど身を苛んでいた蛭蟲は、幸い、地獄の炎の中で浄化されたらしい。
 咳をしても、喉をやられたために血が出るばかりで、蟲の姿は見当たらなかった。

 よく見えぬ視界に無理を言わせ、ぜいぜいと荒く呼吸をしながら、炎を堰き止めるまでに格の違う吹雪と、氷の使い手を捜して、顔をめぐらせる。
 すると、居た。
 リクオの丁度上の方に、現世へといたる鳥居が乗った岩があり、その端から、こちらを見下ろす女が在る。

 靡く黒髪は絹糸そのもの、これほどの炎が吹き荒れていようと、まるで畏れた様子は無い。
 顔はよく見えぬが、周囲に綺羅綺羅と六花がそのままの形で踊っているのを、綺麗だなあと場違いにリクオは感心した。
 リクオが好む《畏》だった。
 《畏》が勝敗を決すると言うならば、この《畏》の前では、リクオは抵抗せず、ではオレの負けだと笑って言うことだろう。

 ああ、よかった、つららが居た。
 すぐ側に居た。
 思うともう安心して、氷の堤防の上に上半身だけ乗り上げたまま、今度こそ、リクオは目を閉じた。

 視線の先に捕らえたその女性の着物が、黒一色であったことにも、すぐ脇から飛び出し、炎の上に氷の道を作って駆けてくる、それこそ彼の雪女であったことにも気づかぬまま、その後は揺さぶられようと名前を呼ばれようと返事もせずに、こてりと寝入ってしまった。



+++



 ふと目覚めれば、天井は変わらず、岩肌がむき出しの、あの地底の風景だ。

 ちゃぷりちゃぷりと、ぬるく心地よい湯の中に浮かんでいるようなのと、寝入る前には塞がっていた片目が、今は綺麗に画像を結んで、その中には己の顔を頭の方からのぞき込んでいる彼の雪女がいたのとで、リクオは無条件に安堵し、ほうと息をついた。
 先ほどまでのあの炎の海が、今は氷の堤防に包まれた一部を、妖気が満ちる急ごしらえの温泉に姿を変えたらしい。傷を負った妖が養生するには、格好の場所である。
 他人の気配はなく、彼女と己だけのようだ。

 何度か瞬きをしていると、額にはりついた髪を、氷の手が優しく撫でてきて、これが火照った額に心地よい。
 他の誰の気配もしなかったので、リクオは彼女の顔を見つめたまま、ぼんやりした様子でおはようさんと声を出した。ついでにふわあとあくびをすると、リクオを見つめていた雪女の方もつめていた息をほうとはいて、拍子に、涼風がリクオの額のあたりを心地よく撫でていった。

「おはよう、じゃないわよ、もう。部屋に戻ったら姿が無いんだもの。どうしてそう落ち着きが無いんでしょう」
「荒鷲さんが、男衆の仕事教えてくれるて」
「嘘に決まってるでしょ、そんなの。陰陽師の仕事をしてるから嘘を見破るのは得意、なんて、誰かさんがいつだったか言ってたけど」
「嘘?え、でも、みんなちゃんと、誰かしら雪女の姐さんの、《虜》だって言って………」
「アンタはそれ以上に、私の旦那様でしょう?!もう、常識で考えなさいよ、常識で」

 そうか、すまん、と。
 いつもだったらありそうな物だったが、寝起きだったせいかリクオはそれには答えず、何やら考え込むようについと天井を見つめて、ぷいと顔を逸らした。
 心なし、いや、確実に、唇が尖っている。

「………んなもん、知らんがな。オレは悪ぅないもん。目ぇ覚ましたら、おらへんかったつららが悪い」
「それは、ちゃんと書き付けを………」
「書き付けあったけど、でも寂しかった。ちゃんと起こしてくれてたら、寂しくなかった。事情だってきっとわかった。今度から、ちゃんと起こしてくんなきゃヤだ」

 子供のように頬を膨らませて怒るなど、リクオにはもう何年ぶりのことかわからなかった。
 本当なら、こんな事を言うつもりはなかった。
 部屋で一人起きることなど、彼女が京都にやってくる前はよくあったことだし、彼女と寝入るようになってから眠りが深くなったのは有り難いこととは言え、二人とも意識してそうなろうとしたわけではない。彼女に文句を言えることではないし、実家ならば、しかもこのような大所帯を預かる主の娘ならば、いくらでも主の留守の際には用事があろう、しかも花霞は一家まるごと邪魔になっている身なのだから、なおさらに世話をかけてすまないと思いこそすれ、出歩くなら起こしていけなどと、子供じみたかんしゃくに他ならない。

 言ってしまってから我に返り、呆れられたろうかと雪女を見上げて、

「………すまん。何言ってんやろ、オレ。ガキみたいや」

 とたんに頬に熱を上げて、片手で目元を覆うのだった。

 口元を指先でおさえて、ぷっと笑ったのは雪女の方である。

「まあまあ、それはつららが気がつかないことで、申し訳ございませんでした、リクオ様」
「いや、オレこそすまん。聞かなかったことに………」
「ふふふっ、若様は昔、ちょっぴりわがままさんでしたものね。すっかり大人になってしまわれたけど、そういうわがままを仰せのときの癖、昔のまんまでした。ふふふふっ。唇尖らせちゃって、やーだ、かーわいーい」
「か、からかうなってば。あーもう、そろそろ起きるっ」
「あらやだ、いいじゃないの。もう少しゆっくりなさいよ。ちょうどよい湯加減でしょ?お母様が、せっかくだから背中の邪魔な忌み文字の傷も癒しちゃいなさいって」
「湯加減……は、悪くない……けど」

 ぼんやりしていたところに、雪女の吐息が心地良く目を覚ましてくれたので、リクオはそこで、自分が温泉の浅瀬などに寝そべっているのではなく、後ろから雪女に抱えられるようにして、湯の中にいるのだとわかった。
 やわらかな寝床にいるものだとばかり思っていたのが、薄紅色の濁り湯の中であり、背にあたる心地良い感触が、己を抱いていてくれる彼女の身体だとわかると、もう湯加減どころではない。びくりと震えて力を入れ、飛びのいて脇に退けようとしたところでがぼりとしたたかに湯を飲んで溺れかけた。

「ちょ、ちょっと!暴れないの!深いんだから!」
「だ、ちょ、え、つらら、それはヤバイ、まずい、困る」
「何が困るの。ほらもう、大人しくしなさいな。あのね、今のアンタは妖気を使い果たして、上手く風にも乗れなきゃ、水にだってあんまり浮かべないの。私が支えててあげるから、ちゃんとここで妖気を吸い込んで、しゃきっとなるまでもう一眠りなさい。アンタがここで気を失ってから、まだ小半時くらいしか経ってないんだから」

 足がつかないほどに湯は深く、リクオがもがいても浮かばないのは、この湯も妖気で満ちたものであるからだ。人ならば深く沈むだけ、妖ならばここで鋭気を養うもできるだろう。事実、あたたかな湯に身を包まれ、雪女に抱かれているだけで、あれほどの術を身に受けたというのに、痛むどころか、まるで疲れを感じない。
 けれども、一人で水に浮かぶのには少し苦労しそうな程度には、気だるいような疲れが身に残っており、雪女に支えられていなければ、どんなに暴れても沈んでしまいそうだ。生粋の妖怪たちは深い手傷を負っても、妖気の濃い場所で養生すれば癒えるものだし、伏目屋敷の小物たちなどは、元々が小さな器であるから身に帯びておける妖気も少ないので、怪我をしても小半時もしないうちにすぐ癒える。逆に、リクオは一度大怪我をすれば、癒えるのに時間がかかった。
 なまじ大妖であるがために、妖気を受け取る器が大きいがために養生にも時間がかかり、人の血を多く引くために、器を満たすための妖気を受け入れるのに、生粋の妖の倍以上時間がかかる。
 人と妖の血、二つの血を引くことを因果と思いこそすれ、今はもう恨むこともなくなったリクオだが、今日ばかりは呪った。

 なにせ、気だるいが、疲れてはおらず、なのに一人では満足に湯にも浮かべない。
 自然、雪女の腕に抱かれているしかなく、しかも暴れてしまったがために今度はしっかりと雪女に後ろから腕をまわされ捕まえられてしまったのだ。するりと伸びた白い腕、常は着物にしっかりと隠れている腕が、今は光輝くような肌を惜しげもなくさらして、リクオの肩や胸のあたりへ、そっと湯をかける。
 しかも先ほどよりもしっかりと身体がふれあったために、背には確かな存在感。
 一人では立てない。浮かべない。わかってはいても、リクオはもう一度暴れた。
 馬鹿なことだとはわかっている。わかっているが黙ってはいられない。

 つまり、彼も、思春期だ。

「こら!一体どうしたのよ、もー!」
「ど、どうしたもこうしたもあるかあッッ!眠れるか!眠れるわけがあるかああああッッ!!!むしろ(体が)起きるわあああッッ!!!」
「わけわからないこと言うんじゃありません!ああもう、そんなに離れたらほら、沈んで……」
「がぼっごぼがぼがはっ」
「ほら、言わんこっちゃない。だから言ったのに。手間のかかる子ねぇ」

 哀れ、リクオはしたたかに湯を飲んだ上で、雪女に引張り上げられ、今度は上半身を湯の上に浮かした雪女に、向かい合う姿勢で首のあたりをぎゅうと抑えられてしまった。流石は女任侠、どんな大型の動物でも、首を抑えられれば動けないと知っているのだ。
 もっともこの場合、リクオにとっては絶体絶命の窮地であった。
 背中に彼女の感触が触れるだけでも暴れるにいたったのに、今はもう逃げられないようにしっかり首根っこを押さえつけられた状態で、向かい合っているがために、それはもうしっかりと、彼女の胸に顔を埋める結果になってしまったわけだ。暴れることもならず、逃げることもできず、もうさめざめと泣くしかない。

「………せめて湯浴み着とか、着てくれたらよかったのに。背中流してくれるとき、いつも着てるやん」
「そんな事をしたら、私の妖気が篭っちゃうでしょ。アンタ、私の気があると良い気をよく取り込むらしいって、鴆さまが仰せだったもの」

 余計なことを、とは、リクオは思わなかった。
 いやむしろこの場合、後でよく言ってくれたとしっかり誉めてやらなければとちらり思って、はたと一体自分は何を考えているのかと恥じ入り、ちらと見上げた雪女の顔が、彼女自身の物言いほど今の状況をなんとも思っていないわけではなく、むしろ唇を噛んで恥ずかしげに目を伏せているので、なるほど彼女も必死に癒そうとしてくれているのだなと判ずれば、自分だけが子供のようにあやされているのではないと、少しほっとした。羞恥を感じているのがお互い様となると、逆に少し落ち着くものだ。

 ほっとしたのはいいが、今度は恥じ入る彼女の顔から目を離せなくなる。視線に気づいた彼女が俯き加減についと横を向き、視線から逃げようとする様がいじらしく、リクオは導かれるようにその顎に手をのばして、つかまえた。

「……重ぅないかな」

 妖気に満ちた湯の中など、妖の女にとっては、それも炎すら凍てつかせるほどの妖の女には愚問であるのに、リクオはこんなときにも過分ないたわりを示す。恥じ入っていた雪女が、思わずくすりと笑みをもらすほどだ。

「大丈夫よ。アンタこそ、背の傷は痛まない?古傷から、ずいぶんと血を流していたようだけど」
「平気や。平気やけど ――― すまん、氷麗」
「え?」
「嫌やったら、オレんこと、沈めてええから」

 え、と、もう一度訊き返そうとした雪女の唇に、リクオの唇が触れた。
 あの日のように、花弁として消えることはなく、熱に浮かされた男が女を求めるものに他ならず、突然のことに身を強張らせて驚いた雪女もまた、男の熱をいとおしいものと感じて次第に体の力を抜いた。