裾に銀糸で六花模様があしらわれた黒留袖を纏い、片膝を立てしどけなく裾を割り。
 脇息に寄りかかり、氷の長煙管を吸ってふうと長く息をついた女は、目の前で平服する荒鷲のつむじを、見つめたまま何も言わない。
 視線の温度が計れたならば、彼女のそれは絶対零度であったろう。
 地下に溢れ返った地獄の炎を一薙ぎでおさめた《畏》は、霊峰富士を預かるにふさわしいものである上、こうしてただ黙っていられる時間を設ける胆力もある。
 奴良組初代総大将ぬらりひょんの側近を努めあげた女任侠、雪羅そのひとだ。

 紅い襦袢が、白い足を組み替えると、ちらりとのぞく。
 螺旋を描く金の瞳は、すうと細められると濡れた十六夜のよう。
 長い黒髪を頭の上でまとめ上げ、珊瑚のかんざしで括った姿など、男ならば思わずごくりと喉を鳴らす、あだめいた色気漂う女だ。

 彼女は大広間の上座に座り、荒鷲を前にしてから既に一刻は経とうというのに、一言も発しないでいる。
 もちろん荒鷲はその間、顔を上げることもなく、ひたすら額を畳にこすりつけて、だらだらと脂汗を首や額から流し続けていた。

 冷えきった視線を荒鷲に向けたと思えば、開けはなった障子窓の外を見やり、色づいてきた月に猫のように目を細めたかと思えば、また着物のシミを思い出してしまったとでも言うように、荒鷲に視線を戻す。

 こうしたことを続けていたところへ、雪婆が部屋の外から声をかけた。
 さすがに長いつきあいなので、雪羅が怒りのあまりについうっかり廊下にまで霜をおろしてしまっても、客室まで寒さが及ばないように、いつもより暖を多くするよう端女たちに命じるなど取り計らった上でのことだ。

「もし、雪羅さま。婿殿の湯浴みもお済みになりましてございますよ」
「膳を用意して熱燗をつけて、私を待ってる必要はないから、先に始めておいとくれ。わざわざこんな寒い里まで来てくれたんだ、それだけでももてなしてやんなきゃ」
「すぐにお会いになりませんので?」
「いや、すぐに行くよ。この馬鹿の手打ちを考えてから」
「お考えになるのはよろしゅうございますが、お早くなりませんと、夜が明けてしまいますよ。それまで、雪の中に埋めておいてもかまわないのでは」
「そうするべきか、一思いに首をはねてやるべきか、今まさに迷ってるところなんだ。それともいっそのこと、あの地下の竈に放り込んでやろうかね。雪婆、お前、どうしたらいいと思う?」
「よしてくださいませよ、婆にはそのような大それた事、決められませぬ。それこそ、姫さまにお任せになってはいかがです?」
「なるほど、そりゃあいい。それにもしかしたら、婿の顔を見たなら私もこいつと同じ気持ちになれるのかもしれないしねぇ。なんでも、あの男の若い頃そっくりらしいじゃないか、そのツラ見て、あの男そっくりの調子のイイ口上聞けば、そっちの方に腹が立ってこいつへの腹立たしさも少しはおさまるかもしれないってもんだ。よし、そうしよう」

 どこかとぼけたような二人の問答は、ひれ伏す男の意志など気にもかけずに締めくくられた。
 その上、雪羅はカツンと煙管を鳴らして煙草盆に、白い水蒸気をあげる花煙草の実を落とすと、荒鷲に何の声もかけずに、雪婆がそっと開けた襖へ向かった。
 振り返って何か一声かけるかと思われたが、それもない。
 怒りが冷えて固まり形になることがあったなら、まさにこの女の姿をしていたことだろう。

 普段、雪屋敷の娘たちに口うるさいと怖れられる雪婆ですら、今の雪羅の後ろに従って歩きながら、やれやれ荒鷲はえらいことをしてくれた、これはしばらく雪羅さまの機嫌は直らないだろうねぇと独り思い、整えられた庭や綺麗に磨かれた廊下が好きな主の機嫌を少しでもよくするために、今日の夜からでも男衆に仕事を命じるつもりであった。

 雪婆の主、雪羅は何より恥をかかされるのを嫌う。
 この場合の恥とは、己がないがしろにされた事を言うのではない、己が誰かをないがしろにしたことを指す。
 荒鷲は雪羅の《虜》の一人であり、信頼できる家臣だ。それが娘婿に失礼をしたとなれば、気の進まない縁であるからと言えど、信頼を最悪の形で裏切られたと思えて腹も立つ。
 しかも雪羅は、急用があってなどと言ったものの、その実、たいした用もなかった。実を言えば、娘から次第を電話越しに聞いた後、なんとも不可思議な心持ちに囚われ日々を過ごしており、そのままいざ明日ではないかとこの日を迎えてみるとどうしても落ち着かなくなって、この時まで、一人富士の樹海をそぞろ歩いていた。
 それがまた、彼女自身の後ろめたさにも繋がって、憤りは膨れ上がる。

 雪羅はかつて、奴良組初代総大将に、恋をした。
 かなわぬ恋であった。
 彼は人間の姫を娶り、その間に子をなした。

 最初は人間の女と侮っていた雪羅、やがて人と妖の隔てに女の方から去っていくだろうよと思っていたが、人も妖もへだてなく、傷を癒しほがらかに笑いかける彼女を、いつしか好きになっていた。
 不思議と、あの琥珀の瞳で見つめられほほえまれると、人も妖もなく、男も女もなく、もっと見つめてもらいたい、笑いかけてもらいたいと、力になってやりたいと思ってしまうようになるのだ。

 姫の方も、雪羅をやがて姉のように慕うようになり、そうなると雪羅はどうしても嫌いになれない。好いた男を取り合う相手だと頭ではわかっていても、どうしても、心で嫌いになれない。
 恋する男と、可愛い妹姫の間の子が大きくなっていくにつれ、それでも諦められぬ恋心。
 一度だけ、雪羅は初代の袖を引いたことがある。
 己の《虜》になれと、口吸いをねだったのでもなければ、魅了して精を奪ってやろうと《畏》を放ったのでもない、それこそ人の女のように、情に訴えてただ一度だけで良いのだと、すがろうとした。
 月のない、闇夜だった。
 もちろん、妖の目には星光で充分すぎるほど。初代の目にも雪羅の目にも、相手の姿はきっちり見えていた。
 それでも、人の目を盗むには充分なその夜に、雪羅はとある庵に初代を招き、ただ一夜の情けを請おうとした。  初代は怒るか、詰るか。控えめに考えても、卑しい女になり果ておったお前などどこへでも消えてしまえと言われるだろうと、思われた。
 いずれにせよこれ以上は、千々に乱れる心を抱えてはいられない。だから告げたなら、何を言われても本望だ、そのままどこへともなく消えてしまおうと、思い詰めた結果だった。

 初代はぽかんとしておられた。
 その上で、「雪羅よう、お主、ようやっとワシを見たなぁ」と、嬉しそうに大きく笑ったのである。
 怒りもなく、謗りもなく。
 初代は雪羅の心の内を、見抜いておられた。
 理想の《魑魅魍魎の主》でなく、ただ一人の夫、ただ一人の父となった初代を、初めて男と見たなぁと、そう笑ったのだ。言われてみて初めて、雪羅は己の恋の始まりが、強く雄々しい魑魅魍魎の主たらんとする男を我が《虜》にせんという、本能に近いところで働いていたことに気づいた。
 同時に、夫になり父になったこの男に、それまでとは違う所帯じみたところを見つけては幻滅し、しかし嫌いになれずに胸を焦がすようになった今こそ、確かに、ぬらりひょんという男自身を見るようになっていたことにも、思い至った。

 なぁんだと思うと、力が抜けて、笑ってしまった。
 彼女の恋は、初代が珱姫を娶ったときには始まってすらおらず、幸せそうに微笑み合う二人を見たときに胸焦がすようになったのは、つまり、そこで初めて男として初代を評価したからであったのだ。
 何代かけても奪ってくれるのじゃろうと初代は笑い、雪羅もまた、それまでの泣き濡れた弱々しい態度はどこへやら、おうともそうしてやろうと応じて、結局、その夜は何事もなく、多くの任侠どもがそうするように、ただ酒を交わして終わった。

 かつてはどうであったか知らぬが、すでにそのとき、初代の心は妻と子に注がれていたし、ただ一夜の慰み物として扱うには、彼にとって雪羅は大切に過ぎた。
 大事な同胞であり、仲間であり、それ以上の何かだった。

 やがて幼かった初代の息子が、立派な二代目となった頃に、雪羅は奴良組から出て富士山麓に戻ってきたが、それからは昔の恋をすっぱり諦め糧にして、これまで生きてきたつもりだった。

 ところがそこへ、その初代の孫から、己の娘と夫婦の契りをなすから挨拶に伺いたい、などと文が来た。
 口では「何代かけようと 落として見せよう ぬらりひょん(字余り)」などと言ってはいたが、本当のところ、数百年の時の涯てでまさかそのような事態になるとは思っていなかった。

 心の整理をしたつもりで今日を迎えてみたものの、いざ今朝を迎えてみると、再びおさめたつもりの心が泡立つような落ち着かなさが沸き起こったものだから、女任侠として一人立つ身であるのになんともあさましきことと己を恥入り、このままでは誰に顔を見せることもかなわぬと、花霞一家を迎え入れる準備が整ったのを見届けてから、散歩にでることにした。
 だというのに、戻ってみれば今日に限って地獄の窯が向こう側から大物にこじ開けられ、その上、地底から駆け戻ってきた荒鷲の話を聞けば、婿殿と愛娘がそこに居ると言うではないか。

 娘とは、地底へ向かう通路ですれ違い止めることかなわなかったと唇を噛んだ荒鷲に、では婿殿の方は何故そこにいるのだと問うと、その場で申し訳ありやせんでしたと土下座をした。
 雪羅が駆けつけるのがあともう少し遅ければ、リクオは、そして娘はどうなっていたことか。

 驚いたのは娘の方が、少し見ないうちに、ただ雪の化身の名のごとく白く美しいだけでなく、炎の中にさえ飛び込もうとする猛々しさを帯びていたことだけれど、それだって、地獄の炎を前にしてはいささか不利であった。

 にしても、賄いの小さな炎や汁物のの湯気にですら、ひいと情けない声を上げていたあの娘がねえ……、と、そこで雪羅は小さく笑う。
 地獄の門をこじ開けるほどの大物妖怪を、百鬼も率いず単身で送り返した男があったかと思えば、それを炎の中から引っ張りあげようとする雪娘があるのだから、それが夫婦になろうと言うのだから、お似合いというものではないか。

 あの男の孫で、あの二代目の息子だと言うからには、きっとまたろくでもない、タチの悪い男に違いないが、娘が選んだ相手であるし、溢れ返る亡者にも地獄の大物相手にも一歩も退かない肝の据わった男らしい。
 初代が訪ねてきたときは、娘を守役にという話であったはずだが、その後、一度行方不明になっていた若様を、奴良本家の若頭に迎えることになり、さらにその若頭が、守役としてではなく妻として娘を望んでいるというところまでは、雪羅も聞いていた。
 その孫が、初代の若い頃に似ているのだ、とも。

 では、この襖を開いて、あの男の若い頃そっくりの顔が、一仕事の後の一杯で機嫌良くなっていたとしても、多少は許してやろうかと覚悟を決め、いよいよ、雪羅は二人が待つという座敷の前に立った。

 予定より少し遅れたものの、これだけハプニングに見舞われておきながら、なんと予定していた時刻とは、一刻と誤差が無い。
 こういう強運は、初代や二代目よりも、初代の妻となったあの可愛い姫に似ているなとぼんやり思ったのだが、それまで噂だけであれこれ考えていた婿の像よりも、直感が連想させた印象の方が、まさに的を得ていたと、雪羅はこの後すぐに、知ることとなった。

 様々に思い悩んで座敷に顔を出した雪羅にとって、リクオはまさに危惧した通り、否、危惧した以上にろくでもない、タチの悪い男であった。

 なにせ可愛い。
 文句のつけようがないくらい可愛い婿だった。

 雪羅はすっかり、己が不在でも膳を前にして、一口くらいは酒を含んでいるだろうと思われたのに、娘婿の方は雪羅の遅参を、己の湯浴みの時間を雪羅に待ってもらっていたためと考えたらしい。
 酒も口にせず、雪麗が顔を出すまで座して待っていたのは、あてつけでもなんでもなく、遅参を責めるどころか、富士山麓の主の多忙を心からいたわり、むしろ恐縮した様子で、突然の訪問に応じた雪羅に謝辞を述べるのである。

 加えて雪羅がどきりとしたのは、地底の炎の海から己を助け出したのが娘の方ではなく、母の雪羅の方であったと聞いた娘婿が、背に浮かび上がった忌み文字や、幼き頃から受けた妖気封じの戒めの傷跡など、妖たちにとっては穢らわしいだろうものをさらしたことに、ひどく恥じ入った様子で、みっともないところをお見せしたと言うので、何が恥なものか、たった一人であれほどの大物を地獄に送り返した上、今はそれ等の古傷を癒して、なんとも立派な妖さまじゃないかと笑ってやったところ、少し顎を引いてはにかむように儚げに笑ったのが、まこと清らでいとしい様であったためだ。

 可愛い。これは可愛い。祖母の面影が僅かにある。
 少女のように、可憐とさえ言える、無垢な所作だ。

 だと言うのに、すっかり全身の傷を癒した婿殿は、表情とは裏腹、立ち上らせる妖気の大きさときたら絶大そのもの。少し気をゆるませた拍子に、どこからかはらはらと桜の花弁が時折落ちたり、座敷の氷行灯に、いつの間にか桜の枝が生えていて、見つめているとすうと消えていったりだとか慌ただしく、廊下で小物たちがきゃっと声をあげるところを見ると、妖気は部屋の外まで及んでいるようだ。

「これまで押さえてきたばかりですので、加減がわからぬのです。しばらくすれば、おさまるとは存じますが、それまで少し、騒がしいことで失礼いたします」
「何が騒がしいもんか、実に見事な夢幻の術じゃないか。風情がある。そんな風にかしこまることじゃないよ、ここは妖の里だ、人間どもにしていたような遠慮なんて、する必要はない」

 己の妖気の大きさを自慢しようと思ってのことではない、加減がわからぬのだと言う娘婿が幼き日に奴良組を母と共に追われたいきさつは、娘から聞いてもいたし、奴良組から報せも来ていた。
 奴良組の大幹部や側近衆は、こと二代目やその若様のこととなると、やや過保護になるところがあるので、これまでは話半分にしていた雪羅も、今はあの傷跡を実際に目で見てもいるので、肉を忌み文字で抉られた痛みや、妖気を外からおさえつけてきた息苦しさはこれまでどれほどだったろうと思いやれば、自然と言葉は柔らかくなる。

 もっとも、あくまで柔らかでいられるのは目の前の婿に対してであって、内心、ここに並ぶはずだったろう婿の父に対しては、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚えた。
 結納の席に、婿の父として現れるべきは奴良鯉伴であるだろうに、雪羅の向かいに黙して座しているのは、かつて雪羅が初代の百鬼夜行として京都に赴いた際、そこで敵対した京妖怪・鬼童丸。
 これも前もって聞いていたから良いものの、もし報せがなかったら、雪羅は襖を開いた瞬間に座敷ごと彼を冷凍していたかもしれない。

 ともかくここで彼等は、古きのしきたりに習って、幾久しく幾久しくと、それぞれの父と母として言葉を交わし、略式ながら結納品を取り交わしてから、話を続けた。
 膳を運ばせ酒を交わし、雪羅も銚子の半分をあけた頃になってようやっと目の前の、剣の鬼に話かけてやる気持ちになることができた。

「にしても、こんな風にあんたと再会することになるとはねぇ、鬼童丸。長生きはしてみるもんだ。こんなに良い息子を、いつの間に得たんだい」
「話せば長い」

 予想通り、答えは短い。
 だが、答え自体を期待していなかった雪羅が面白そうに見つめていると、くいと盃を干した後、

「今は割愛するが、必要ならばそのうち、話そう。この場所は本来、奴良組の二代目がおさまるべき場所ゆえに、不審に思うのも無理からぬこと。だが、こやつが父と呼んでくれるのでな、ならば似合う似合わぬはともかく、役目を果たすまでよ」

 やはりこれも予想通り、四角四面几帳面な返答がある。

 雪羅は笑った。
 その場が和む、朗らかな笑い声だった。

「なに、いいさ。敵だったのは昔の話。敵だった頃から嘘のなさそうな奴だって思ってた。敵にすると厄介な奴だってね。約束を破ることがないだろうから、妾等雪女にとって、嘘が無いってのは厄介な敵だよ。約束を破った途端に氷付けにしてやることすらできないんだから」
「もう、お母様、お言葉が過ぎます。お義父さまは、それはとても良い方なのですよ。ご近所の奥様たちにも人気ですし、リクオ様が通われている学校では、PTA会長までされているのですから」
「こ、これ。そういった事はここで言うでない」
「はははははっ、そりゃあいい。どうだい鬼童丸、千年前じゃ考えられなかったろう。いい時代になったもんだ。すっかり丸くなっちまって。
 お前もよかったね、氷麗、この若さで一家率いる大将で、オマケに奴良組の若様とは立派なモンじゃないか」
「いや、オレは奴良組との関わりは最小限にするつもりでおります。義母上の、そういった面での期待には、あまりお応えできないかもしれない」
「関わりは最小限って、それまた、何でだい。使えるものは使っておいたらいいのに。だいたいの話はカラス天狗の長男坊から聞いたけどさ、もう奴良組に戻ったっていいわけだろう?体の傷を見たよ。氷麗から話も聞いた。戦いで負った傷ばかりじゃないらしいね。そんな目に遭わせる奴等が居る京都花開院家に、いつまでもいてやる義理なんて、無いじゃないか」
「まさに耳に痛いところです。実は、ここに来る前に、初めて強気に出てみようかと考えました」

 と、リクオが出発前の騒動を面白く語ると、実際にはもっと逼迫した状況であったはずが、その場に居た者であっても笑みがこぼれる。
 実際にその場におらず聞いているだけならば、愛華流の女当主など、きゃんきゃんと小動物が吠えているだけのような錯覚を覚えたろう。事実、雪羅も、女当主が戦う相手を失ってぽつんと一人取り残されているところを想像すると、つい笑ってしまった。もしもリクオの祖父を知らなければ、事実おそるるに足らぬ相手、不安に思う必要もなしと、思わされていたかもしれない。
 けれども雪羅は初代の側近であった。認識をずらすぬらりひょんの術が、何も、敵と相対したときばかりの術と限らないとは、嫌というほど思い知らされている。

 目の前の婿にとって、今は乗り越えた相手だったとしても、幼き頃はどれだけおそろしく見えたろう、施された痛みに、何度悲鳴を上げ何度歯を食いしばり、それでも尚恨まず笑って許してやっているのだろうかと思えば、表向き笑ってはいても、なんだかふつふつと心の内に、冷えた怒りがわいてこようというもの。
 同時に、やはりそんな場所に返すべきではない、幸い一家ごと京都を出てきたのだから、ここから関東入りした方が良かろうと思い、かつておしめを代えてやった二代目の後押しをしてやるつもりで、「話はわかったけれど」と、元のところに戻すのである。

「面白い女もいたもんだ、からかうには都合が良さそうな奴だ。でも、長いこと顔をつきあわせていたい奴じゃないね。そこを忍んで京都にいてやる必要もないだろうに、なんでまた、奴良組との関わりは最小限になんて、寂しいこと言うんだい?」
「それはその、………オレ、庶子なんです。奴良組を継ぐ身分ではない」

 二代目の後押しをしてやろう、と思っていた雪羅だったが、言い難そうに一瞬押し黙り、その後決意して言い切ったリクオの、まだ幼さが僅かに残る面立ちを、凛とさせた健気な表情に、決めた。

 表向き、やんわりとリクオにほほえみ返しながら、

「そうだったのかい。ごめんよ、本家とは縁があることはあるんだが、あちらも詳しくは、話してこないものだから、言いにくいことを言わせてしまったね。正直に話してくれて、ありがとうよ」

 後で久しぶりに奴良屋敷に乗り込んで、二代目のケツを赤く腫れ上がるまでぶったたいてやろう、と。

「にしても、この茶碗蒸し、おいしいねぇ。賄いの奴、腕を上げたもんだ」
「ほんまに?!うれしい。それ、オレが作ったんや。荒鷲さんに、賄いの仕事に連れてってもらって……」
「あれ、そうだったのかい。お料理上手だねぇ。偉い。すごい。たいしたもんだよ、アンタ」

 そこで雪羅、忘れていた沙汰を、即座に決めた。
 荒鷲は後で(どこかを)切って捨てよう。

 あくまで表向き穏和な母のただならぬ様子に、ただ一人娘だけが、母の着物の裾が怒気をおびてかちこちに凍り付いているところから察し、しかし荒鷲については自業自得であるので、やはりそちらを心配するよりも、心底喜んでいるらしい夫君の、笑顔を堪能する方に忙しい。

 このように略式ながら、結納の席は滞りなく済んだ。



+++



 結納が滞りなく済んだところで、沙汰である。

「腐刑に処す ――― そう言い渡そうと思っていたのだけど。婿殿をないがしろにしたとあれば、花霞一家の意向も聞いておかねばなどと、常識ぶった考えをしたのがよくなかったかねぇ。婿殿はそういう沙汰がお嫌いだと、娘に叱られちまった。さっさとそのイチモツ、毟りとってやればよかったよ。それで副将殿、どういう沙汰なら大将殿はうんと言いそうかえ?」
「命を取る、傷を負わせるってのは、ウチの大将、嫌がるからな。そうだなァ、ここから先、百年ばかし褌一丁でいてもらうか?どう思う玉章」
「イイ考えだけど、ちょっとヌルイんじゃないかなぁ、猩影くん。この温泉街で褌姿の男衆なんて、珍しくもなんともないじゃないか」
「んじゃ、こういうのはどうだ。氷麗の姐さんが正式に伏目にくるにあたって、数人、世話係りをつけてくれるって言うんだろう?その中に、その荒鷲って奴をつける」
「なるほど。異界とは言え、京都で褌一丁は目立つ。それでいこう。ついでに上はセーラー服でも着てもらえれば、変態ぽくて辱めになるんじゃなかろうか。セーラー服で褌の変態と言えばすぐにわかるだろうから、御用聞きにはぴったりじゃないかな」
「玉章、お前、時々やんちゃだよな。いじめっ子だったってのがよくわかる。けど俺は訊きたいね。そんな変態に花霞一家の御用聞きなんざ任せて大丈夫なのか」
「猩影くん、君のその、時々常識的なところ、僕は嫌いじゃない。重んじているよ。それじゃあ外出するときは、セーラー服はやめてあげようか」
「褌一丁をやめるんじゃないんだ………」
「おや。下もセーラースカート(ミニ)にした方がよかったかな。もちろんその場合その下は、生で」
「褌一丁にしてやろうぜ、そうしよう。その方が男らしいよな」

 肝心の花霞大将は、荒鷲が嘘をついていたと知っても、まるで憤る様子を見せず、屋敷を案内してもらったことをかえって有り難がっていた。
 彼自身は既に元服を済ませた大人のつもりだが、荒鷲への懐き方は、子供が少し大きな兄貴分に引っ付くようなもので、いざ荒鷲の沙汰に話が及ぶと、あちこち案内してくれたのだし、男衆の仕事も教えてくれたのなら恩人だ、沙汰をするなんとんでもない、などと庇うような事を言う。

 当然、それで話が終わるわけがない。
 当の本人がよくても、その妻たる雪娘が、決して許さない。

 めでたい結納の席で、沙汰の話もなんですから、などと夫を安堵させるようなことを言っておいて、気づかれぬよう、ふうと小さく彼の目元に向かって息を吐きかけると、安部晴明と一騎打ちで疲れているところにいくらか酒が入り、加えて隣には頼れる師父、向かいには幼い頃から恋い焦がれて今は己の妻と言える女、そして柔らかな眼差しをくれる義母とあっては、どれだけ力の強い大妖とあっても、欠伸をかみ殺すのが精一杯。
 リクオは急に襲ってきた睡魔を、疲れと安堵のためだろうと、彼の妻にとっても義母にとっても都合よく解釈して、また義母が、それじゃあ沙汰の件は、花霞家の意向も聞いて行うことにしようと言うものだからすっかり信じて、雪娘と二人、寝室に下がってしまった。

 雪女の《雪山殺し》を受ければ、人間などひとたまりもない。
 妖怪だって大抵はころりと寝入ってしまうのに、妻に手伝われながらも寝間着に着替えて、自分で布団に入ったと言うから、流石は今の京の主であると雪羅は感心し、夫を寝かしつけた後で戻ってくる予定だった娘の寝間着の胸元をしっかと掴んで離さないために、娘もまたそのまま休むことになったと聞いては、やはりぬらりひょんの孫であると感じ入った。

 滅多につらいとも苦しいとも仰せにならない方だけれど、今日は膨れ面で寂しがる様子までお見せになったのだから、一度掴まれてしまえば、それでもう雪の娘は振り払いなどできやしない。それ以外はどんなに頼んでも、何を望んでくださることもない方なのだから。

 本当なら、荒鷲の沙汰を決めるところへ顔を出し、キツく灸を据えてやりたかった彼女も、雪婆を使いにやって、「お疲れの大将にかわって、花霞一家副将のお二人に、沙汰を決めていただいてはどうか」と母に伝えるのが精一杯だった。
 もちろん、後になって荒鷲が沙汰をされたとなれば夫が気に病むのを誰よりよくわかっているので、「くれぐれも、荒鷲の身に危害は加えられませぬよう。副将のお二人であれば、大将の好むと好まざるとを、よくご存じでしょう」と、雪婆に念を押すのは忘れなかったけれど。

 つまり婿殿が姫さまをお離しになりませぬ、と雪婆は袂で口元を覆い、ホホホホと笑った。
 若い二人を冷やかす、家族の情に溢れた笑みだった。  孫の顔を見るなら早いに限る。
 仲睦まじいのはそりゃあ良い事じゃないかと雪羅も軽く応じて、娘の言う通り、富士樹海の宿まで使いを出して、花霞一家の副将二人を呼び寄せ、今に至る。

 副将の二人は、大将が屋敷に入ったのを見届けた後、雪屋敷には入らず、同じ目的の配下の者どもを引き連れ、樹海の妖怪街の宿一つを貸し切り、大広間で飲めや歌えの大騒ぎの後、晴れ渡った空の下、露天風呂を楽しんでいた。
 あるかと思われた大天狗の襲撃もなく、白鶴丸では側から離さなかった己等の得物も、配下の者に預けてゆうるり、羽を伸ばした。

 サル♪ゴリラチンパンジー♪と、湯につかりながら「戦場にかける橋」の曲に合わせて機嫌よく歌っていた猩影も、露天の脇に立てられた東屋に浴衣姿で値転がりつつ、鼻歌で第九を口ずさみながら一杯干しては、「温泉と歌はいいねー♪日本文化の極みだよ。そうは思わないかい、猩影くん」などとやはり機嫌良さそうに言っていた玉章も、富士山麓一帯を襲った地響きにっすっかり酔いを醒まし、この土地に慣れているはずの宿の者たちが落ち着かない様子であるところから、さては雪屋敷で何事かあったかと感づいて、すぐに大将の元へ馳せ参じようと身支度もしていたので、二人が雪羅の前に顔を出すまで、それほど時間はかかっていない。

 副将二人、心得たもので、雪羅の前に出る前にあらかたの事情を雪婆から聞かされると、身体に危害を加えないことをまず前提条件として述べてきた。

「僕としては、どんな事情があれど、御大将に危害を加えようとした奴に、かける情けなどない。個人的には、雪羅御前の言うように腐刑に処すくらいやっても良いと思うんだけどね、御大将はとにかく、見知った者が傷を負うのを嫌がる。その意志は、僕個人の意見なんかよりも尊重される。これが花霞一家の決まり事さ」
「とか難しいこと言ってるけど、結局お前、リクオのしょぼん顔に弱いだけじゃん」
「他人のことを言えるのかい猩影くん。想像してみるといい。昼姿のリクオくんの目が見開かれて、あの大きい目にたっぷり涙がにじんで、溢れるのをこらえているところ。もっと悪ければ必殺《しばらく独りにしてもらっていいかな》攻撃だ」
「すみませんごめんなさい許してくださいていうか俺が悪かったですお願い一人で泣かないでここにいて」
「ということで雪羅御前、いかがだろうか。御大将が目覚められれば減刑をと望むことだろうが、これが減刑した結果だとして我等も申し上げることにする。荒鷲の身柄、花霞一家にお預け願えないか」

 一見、ふざけた会話の応酬だが、副将二人の顔は真剣そのものである。
 雪麗は得心した。
 なるほど、これが妖ではなく明王たらんとするものが率いる、百鬼でなく護法であろうとする者どもであるのかと、彼女もまた女任侠でありながら元々霊峰を預かる身であったがために、彼等を甘いとも否とも思わなかった。
 失われたものへの落とし前として命、金銭を望む者どもがあるとすれば、逆に得たものへの恩だけを感じ感謝を返す輩があり、此の世の誰も彼もがほとんど前者であるのに対して、花霞リクオは後者であるのだと、納得したまでである。

 奴良組のやり方とは違う。だが、それは咎めだてすることではない、彼等がそれで是とするならば良いことだし、大将が不在だとしてもその望むところを副将がきっちり抑えており、けれども大将の甘すぎるところには副将として一言もの申す土壌があるのなら、むしろ好まれる力関係が築かれていると見た。
 ならば良かろう、京都から遠ざけ関東へ戻すだけが娘とその婿の幸せでもあるまい、京都こそを終の棲家にするも、他の土地へ渡るも、彼等がそう決めたときにそうなることであろう。
 荒鷲は荒ぶる男衆を纏め上げるのに都合がよく、またあれでいて気が利くところがある。リクオのことを気に入らなかったわけではなさそうなので、ついて行かせれば、やがては信頼も生まれよう。そうなれば、この副将たちのように、大将自身が怒らずとも、大将への無礼を怒る先鋒も切るようになるに違いない。

 どうやらあの子には、そういう類の者が周囲に必要なようだから。

 そう思って、雪麗は頷いた。

「是非も無い。荒鷲にはそのように沙汰を伝えておくよ。なァに、嫌とは言わせない。こきつかっておくれ。そうそう、寝床が足りなきゃ布団なんて上等なモン必要ない、台所の大釜の中でかまわないから」



+++



「……花霞リクオ、か。妾の娘婿は、またずいぶんと百鬼に愛されちまってるんだねぇ」
「そりゃあ、ワシの孫じゃからのう」

 欄干に腰掛け月を見つめながら煙管をぷかりとやった雪羅の、誰へともない呟きに、背中の方から応えがあった。
 若衆の声だった。

「雪麗よう、酒でも付き合わんか。たまにゃ昔みてぇに、月光のような真っ白いお前と差し向かい、飲みたいもんだねぇ」

 今振り返れば、そこにあるのは、あの若き日の初代の姿であろうに、雪羅はそうしない。
 喪服であろうかと思われるような、漆黒の着物に帯だけを赤く締めた姿で、月を眺めやったまま、言う。

「ぬらりひょん、妾ゃ、アンタのそっちの姿との付き合いはやめたんだ。妾が次に白い着物を着るときは、アンタが死んだ後さ。《麗》の字を捨てたとき、そう決めた」
「おや、連れねぇな」
「馬鹿言ってんじゃないよ。妾の夢に染まらなかった夢幻の妖が、今更、妾にどんな夢を見せられるっての。アンタなんか、あの姫さんの夢に染まってしわしわのよぼよぼになってりゃいいんだわ。クソジジイ」
「手厳しいのう」

 今度こそ、応えた声は老人のもの。
 もちろん、後ろの暗がりからややおっくうそうに、畳をぺたぺた歩いて現れた姿も、すっかり毛並みも失って、深い皺を顔中に刻んだ、爺のものであった。

 そこでようやく雪羅は月から視線を外し、初代を上から下まで眺めやって、

「アンタ、まだくたばってなかったんだねぇ。氷麗を守役にやったときと、ぜんぜん変わっちゃいない。いつ命日の予定だい?」

 にこりともせず言いながら、しかし、初代がよっこいせと腰掛けたところで、己も欄干から畳に場所を移し、初代が手酌でやろうとしたのをやんわり止めて、白い手で徳利を受け取り、初代の盃を満たした。

「ワシゃあ、まだとんと死ぬ気がせんのじゃがのう。さっさとボケさせてでももらえたんなら、もうちと地獄とやらが近く思えるんじゃろうが、とんとそんな気がせんわ」
「そりゃあ良かった。婿殿の式神のこと、聞いたよ。姫さんの魂だったんでしょ?異なことだけど、よかったじゃん。今度こそ、いちにのさんで一緒にあの世に渡りなさい、アンタたち。今の姫さんには翼があるんでしょ、案外、アンタのことも極楽まで運んでくれるかもしれない。安心して往生しろ、ジジイ」
「………まこと、血も涙も凍り付いた女じゃな」
「ハハハ、氷酒がお好きなら素直にそう言いなよ、ぬらりひょん。ほーれ、雪羅特性シャリシャリ酒だ。飲みな」

 徳利の中身だけをシャーベット状にした上で、さらさらと盃に注ぐのを、初代は眉間に皺を寄せて見つめるが、過ぎた言葉は取り返せない。
 雪降りつもる氷点下の雪の里、その雪屋敷の女当主の部屋であるからには、彼女にとって過ごしやすくしつらえられている。
 すなわち、座る畳は霜でやわらかく編んだものに色をつけ、床の間の煙草盆もまた見事な万年氷に透かし彫りで花をあしらったものに、これまた氷の煙管。  良い香りのする花の実を、刻み煙草のかわりに瞬時に凍らせ、溶けるときにかもしだす煙を吸い込んで楽しむものだ。

 天井からはらはらと落ちるのは、六花のままの冷気。
 七色のカーテンがあちらこちらにゆらゆら揺れているように見えるのは、冷気と光でもってあしらわれた、霞である。

「ちったぁ、年寄りをいたわらんかい」
「はッ。ボケたら下の世話ぐらいしてやるよ」

 言う方も言われる方も、寒がっているように見せながら、嫌がらせをしているように見せながら、その実、ただのごっこ遊びだ。
 老いた姿をしているとしても、初代は人の身のように、寒さでどうにかなることはない。あるとすれば畏れを感じたときであろうが、初代はもともと雪羅の氷雪の術を恐怖してはいないので、寒さがどうのと問題になることはないし、雪羅もそれを知っている。
 長年の付き合いで、男女でありながら男女の仲にはならなかった、夫と妻ともまた違う、その関係性に名はつかない。

 こういう二人なので、雪羅はまるで手加減なく、己の部屋を己の心地よいように冷気で満たしながら、話を続けた。

「ところで例の話だけどサ」
「おう。考えてくれたかい」
「アンタが言いたいことはよくわかった。花霞リクオが率いる花霞一家、この富士山麓の雪羅が後ろ盾となろう。話を聞いたときは、氷麗を通して縁も結ばれることだし、わざわざそんな約定は必要なかろう、後ろ盾には鯉の坊がいるんだからと思っていたけれど、会ってみてわかったよ。あの子は目の前に魑魅魍魎の主の座が転がっていたとしても、いいや、自分の命を救う薬が自分の膝の上に転がってたって、決して自分で手をのばしはしないんだろうね。誰かが口に突っ込んでやんなきゃいけないんだろう。鯉の坊を後ろ盾とは、今も考えていない様子だ」
「倅はあの通り、誰に似たのか間の抜けた男じゃからのう。リクオにこれをやってほしいと言われりゃ喜んでやるんだろうが、リクオはそうはせん。そうはせぬと誓ってしているのではなく、それがもう当たり前になっちまってるのよ」
「庶子だから、奴良組を継ぐ身分じゃないと言ってたよ」
「そうかい」
「今度、東京でちいっとばかり騒ぎがあるかもしれないが」
「おう。リクオの耳には入らんようにしとくよ。ワシも何度か吊したが、効き目が無いようなら、あと二、三回ぐらい頼む」
「うん。あと京都の商店街の輩がごちゃごちゃ言ってるらしいね。京の主を誰にするかどうかって、どう考えたってあの子だろうに」
「羽衣狐が去ったとき、敗残処理はリクオが負った。じゃがな、あの土地はホレ、妖と言っても神仏かぶれが多いじゃろう。ぷらいどが高ぇのよ。白蛇の奴はすっかりリクオが主でいいと言ってるらしいんじゃが、なにせ商店街の寄り合い連中つーのは一筋縄でいかんらしくてな、年が若すぎる、人の血を引くのは、しかも昼は陰陽師だというのはどうかなどと文句をたれるらしい。
 本音はリクオを主だと認めておるくせに、己等からなってくれと言うのでは体裁が悪い。だから、リクオのほうから我こそはと名乗るのであれば渋々認めんでもないが、そうでないのならなにもわざわざ主を決めんでもよかろうと、こういう理屈だそうじゃ」
「馬鹿だねぇ。そんじゃ、こうしよう。あの婿殿は富士がもらう。元々、神に通じる場所でもあるし、誰かがおさめなきゃならない場所だ。将来は氷麗に継がせるつもりだから、その婿だっていつかはこの場所にこなけりゃならない。京の主でないのなら、花霞リクオがどこにいたって、京の連中は困らないはずだよね。氷麗に数人、世話役もつけるつもりだから、噂を広めておくよう、言っておこう」
「世話になるのう」
「アンタのためじゃないよ。婿殿のためだ。富士がもらいたいってのも、半分以上、本気。京都や鯉の坊がうかうかしてたら、いつのまにかあの子、富士山麓の主とかになってるかもね。妾は欲しいと思ったら手加減なんてしないよ。なりふりなんて構ってらんない。あんな理想の息子が手に入るとは思わなかったんだ、こっちの水の方が甘いって仕込んでおかなきゃ」

 どこかの土地の主が、他の違う土地でも主と呼ばれるのはままあることだ。
 しかし、その主が居をかまえた土地に住むものはやはり、《この土地こそが、この地方一円の主が住処であるぞ。本家のお膝元であるぞ》と、少しばかり鼻が高い。
 敬愛する主が、この土地を選んで下さった!という、お里自慢になるからだ。

 奴良組二代目が関東一円で主と呼ばれていながら、浮世絵町に居を構えていることで、浮世絵町の妖怪たちが、この町こそが本当の奴良組のお膝元であると安堵しているのと同じだ。
 今後、数年後か、十年後か、あるいは数百年の後か、花霞リクオが日ノ本の主になるだろうとは、一目見れば誰もが目を離せなくなる魅力でも、内側から沸き出すような妖気の大きさでも、つい手を貸したくなるような心根の形でも、疑いようがない。

 ならば早いもの勝ちだ。
 雪羅は先物買いが得意な女である。なにせ彼女が見込んだ若い妖は四百年前、瞬く間に一家を従え、八尾の女狐を倒して魑魅魍魎の主になった。

 やる気に溢れる雪羅に、初代は流石にやや気圧されて、まずは注がれたままの酒シャーベットで喉を潤し、何か言おうと思ったものの、

「………ま、お手柔らかにな」

 としか、言葉が出てこなかった。

 祖父としては、孫に頼もしい味方ができたのを嬉しく、父としては、息子にとって最大のライバルが生まれてしまったような不安を覚えて、素直に喜べない。

 二代目がなるべくリクオの意志を尊重して、無理に東京に呼ぼうとしないのとは裏腹、雪羅ときたら何かと理由をつけて、妻と一緒に、あるいは花霞一家ごと、呼びつけないとも限らない。
 それでいて、呼ばれた方がついくつろいでしまう空間を作るのが大得意なのが、雪女という生き物で、雪屋敷はそういう生き物が、束になった土地。

 未来の主が本家を構える場所は、果たして京都か、浮世絵町か、それとも富士山麓か。

「私だって、鯉の坊のおしめをかえたことがある。あの子のことも可愛く思ってるよ。鯉伴がリクオを浮世絵町に呼び戻したい気持ちもわかるから、それなりの手加減はするさ。最初はとりあえず、祝言の相談だ何だで週末ごとのお泊まりくらいしか計画しないってば。遠慮するんだよ、妾だって」

 今のところ、富士山麓がもっとも有力候補らしい。



<理想の義理息子/了>