京都守護職・花霞一家。

 つい百年前には影も形も見あたらなかった者どもだと言うのに、ここ十年足らずでその名は京都にあれば知らぬ者は無くなった。
 新参者よ余所者よと、最初は笑っていた者どもも、今では何か大事があれば必ず、「なれば伏目の花霞に知らせると良い」などと、頼りにする様子を見せる。
 妖どもだけではない、この世で最も賢く強い生き物は己等であると信じている可哀想な生き物、人間どもにすら、一家の主は伏目におわす明王さまと呼ばれ、信心を集めているほどだ。

 その御大将はこの半年足らずで、関東奴良組にあっては二代目のおぼえめでたく若頭としておさまり、富士山麓にあっては数百年の昔から霊峰富士を預かる雪羅御前が自ら主の座を明け渡したほどの大妖らしいぞとは、日ノ本の北から南までの妖の里に噂として瞬く間に広がった。
 今や日ノ本に住まう妖なれば誰もが知る、押しも押されもせぬ大妖である。

 加えて、一目見ればはっと魅了されるような美丈夫であると聞こえては、日ノ本の誰もが、一度はお目にかかりたいものよと考えもする。

 まだ一度も花霞大将と会ったことのない、少しは名の知れた年経た者どもが、噂だけを聞いて鼻持ちならぬ若造よ、日ノ本を統べるつもりならば何故、我のところへ挨拶にこぬのかなどと僻んだところへ、側仕えの血気盛んな者どもが、ならばこちらから勝負に赴いてみましょうぞと鼻息荒く赴いてみればみたで、ほろ酔い加減で帰ってきて、いやいやあの御仁はなかなか話のわかる御方でしたぞ、奥方もたいそうお綺麗な方でなどと浮ついた様子で物申し、大将直筆の書状を携えて戻ってきて、書状には挨拶が遅れたことへの陳謝と、使いをいただいたことへの御礼と、これを機会に是非とも御縁を結ばせていただきたい旨が、たいそう洗練された気持ちの良い筆使いで記されている上、結びに、この冬に祝言を挙げる予定であるので是非にお越しくださいなどとあれば、悪い気がするはずもない。

 人間どもから省みられなくなって久しく力を失いかけた社の者も、鉄の刃で追いやられて山奥に隠れ棲むようになって久しく僻んだ気持ちで居た妖の者も、若造ながら、なかなか心得ているではないかと機嫌を直し、文の向こうからでも伝わってくるようないたわりを少なからず受け取って、素直に祝う気持ちがわき起こってくると、今度は一言でも言祝ぎを申さねばなどと思い直して、文の一通に神木の枝を添えたり、山奥に湧く霊水を樽に詰めて使わすなど、心を尽くすのだった。
 もちろん、力ある妖と今のうちに縁を結んでおこうという打算が、少なからずあるには違いないが、それにしても、奴良組を戴く関東に比べて、これまでそれぞれの地域で大将と呼ばれてはいても人に追いやられるしかなかった関西の妖たちの、新たに生まれた京の主への熱狂ぶりときたらなかった。

 新しい風が吹いてきたなあと思われると、数百年前からの因縁は横へ置いて、そうだ隣のあいつは京の花霞とやらをどう思っているのだろうかと思い立ち、土地の主が自ら、隣のシマへ顔を出しに赴いたりする。
 すると、顔を出された方も、数百年前からの因縁を棚上げすれば数百年来の知り合いには違いないので、「おうとも京の花霞であろう、使いを出してみればほれ、すぐに丁寧な文を寄越してきてな、以来、俗に言う文通友達という奴になったわ」と自慢も兼ねて、「音には聞こえていたが、年若くも立派な奴よ。己の分をわきまえておって教えを請いたいと言うから、こちらの地方のことを教えてやっておるのだ」と、昔ながらの筆でしたためられた書状を見せたりするから、では我も試してみようかと訪ねた方も思い立つ。

 こういったことが繰り返されて、祝言の招待状を送る時期になると、これまで花霞の文使いと言えば、年経た鶯が直々に赴いていたのが、とてもではないがまかなえなくなり、一家の山鳩や仔猿など、足に自信のあるものまでかり出され、御大将直筆の招待状を携えて、日ノ本のあちこちへ赴かなければならぬほど、目の回るような忙しさだった。

 日頃から多忙の御大将が、さらに些事を抱えるのは、妻たる女にとってはよろしからぬ。
 けれども、現代の人間たちのように法と律とやらで夫婦の仲が認められぬ妖の世のことなれば、周囲の妖どもの前で、これにて我等は夫婦となりましたと、認められる必要があるのがならい。
 思えばこそ、彼女は少しでも夫の荷が軽くなればと、前にも増してよく尽くし、日ノ本各地から送られ既に部屋を二つ三つ埋めている祝いの品に目を通して目録にしたため、誰からなにが送られてきたかを、屋敷に届いた順番に記しておいて、ほんの少しの時間で夫が返事を書けるように取り計らいもするし、彼女と縁がある家には、自らも筆をとって礼状を返したりもした。

 賑々しいのはいつものことなれど、まるで今はお祭り騒ぎ。
 大将の誕生日だ、大妖を下した凱旋だと、ことあるごとに祝ってきた、大将が幼い頃から付き従っていた護法どもでさえ、かつてない目まぐるしさに朝も夜もなく駆け回ったついで、廊下の曲がり角で出会い頭にごっつんことやってしまうほど。

 やれやれ忙しいことだと文句の一つも出ようものだが、誰も彼もが嬉しそうで笑いが絶えないのは、戦の準備でもなければ、心底慕う御大将の寂寥を慰めるための空騒ぎでもなく、伏目屋敷にかつてなかった祝い事であるからだ。
 その上、我等が御大将を、各地の名のある長たちが言祝ぐとあれば、どうして邪険にできようか。

 伏目屋敷の貴賓室、《隙間》の一室ではない、現世の風が吹きぬける貴重な離れの一室をあてがわれた衣吹もそのうちの一人で、彼女を慕う狂骨娘を従え、今日も文机に向かって、招待状を楽しそうに綴っている。
 もっとも、彼女に付き従う狂骨娘は、その限りではないが。

「私が何故、花霞の祝言の手伝いなどを!……あ、あ、お姉さま、指から血が!」
「あらまあ、私としたことが、紙で指を切ってしまいました、不調法だこと」
「お、おのれ花霞、下っ端の分際で京の主を名乗り、お姉さまを顎で使った挙げ句、端女のような真似をさせ、このような大怪我を負わせるとは!許すまじ!許すまじ花霞めぇぇぇぇッ!!」
「これ、狂骨や。女の子がそのように、握り拳を作って仁王立ちなどするものではありませんよ。このお手伝いだって、私がさせて欲しいと無理にお願いしているんですから、滅多なことを言うものではありません。もし飽きたのなら、カナさんに遊んでもらいなさい」
「えー。カナはすぐに怒るから嫌ですぅー」
「それも、お前が大事な本を、投げたりするからじゃありませんか」
「だってぇ、あの本たちが足にかみついてきたんですもん」
「本は積み上げて踏み台にするものではありませんよ。そんなことをすれば、いくら躾られて大人しくなった本だって、びっくりしてお前の本を噛みますとも」
「うー。……それに、それに、カナは私がちょっと悪ふざけをすると、すぐにあの本たちをけしかけてくるんです!」
「あらまあ、そんな事までできるようになりましたか。たのもしきこと。私がここへ来たばかりの頃は、《おすわり》もさせられなかったのに、ちょっと教えただけで、すぐコツをつかみましたねぇ」
「あいつはお姉さまの言うことなら何でも聞きます。でも、私といるときはまるで自分の方が年上の娘のような顔をして、私にあれこれ指図をしようとするから、嫌いです!」
「おやまあ、そうでしたか。なら、そう伝えておくことにいたしましょう。カナの朗読の時間には、お前も伏目の妖怪たちに混じり聞き入っていたようだったので、てっきりお前がカナを気に入っているのだと勘違いしていました。そういうことなら、金輪際、カナがお前に近づかないようにいたしましょうとも。のう狂骨や、それで良いのかえ?」
「う、ううぅ……、お姉さま、意地悪を仰らないでください。狂骨はちょっと疲れたのですぅ……」
「ほほほほほ、そうそう、女は素直が一番。なれば少し、一休みいたしましょうか。そうですね、紅茶でも淹れて………」
「私、賄いから茶菓子を貰って参ります!」

 ふくれっ面が一変、大好きなお姉さまとお茶の時間を楽しめるとあって、狂骨娘の機嫌はすぐに良くなった。

 まだ幼い狂骨娘は、幼いがために、元々《鵺》という目的よりも、羽衣狐とその依代の美しさに魅了され、ついてきたようなところがある。二人の魂が柔らかく解け合い、一人となった衣吹はまさに、彼女にとって女神のようなもの。
 母のように慕い、神のように己を信奉するので、衣吹はやや頭を痛めていたが、かつて己もまた盲目的に《鵺》を産むことを信じきっていたことを思えば、ただ言葉でそれはよからぬことと言ったとしても、狂骨娘が理解せぬのは明白だった。
 結果、遠野に行くのも、京へ戻ってくるのも共にしていたが、そうなると、我が娘のようで可愛らしい。
 教えているつもりが、支えようと決めたつもりが、逆に教えられ支えられているようである。

 可愛い足音がとてとてと去っていくのもまた、衣吹の耳には心地よい。
 葛の葉と名乗った化け狐が、一人の人間の男に恋をして男児をもうけたばかりの頃、やはりこんな風に京の都で、いずこかの屋敷にて、その男児を遊ばせていた。
 男児が初めて立ち上がり、一歩二歩と歩いたかと思えば、すぐに屋敷を駆けるようになって、彼女を喜ばせたものだ。

 招待状を書いたところまで、住所録に付箋をはりつけ、衣吹が窓の外を眺めやり、遠い記憶に目を細めていると、部屋を訪ねた者があった。
 狂骨娘が閉じるのを忘れて行った襖の向こうに、律儀に膝をついて、「母上さま」と声をかけてきたのは、彼女が遠くに見ていた我が子とは違う。
 違う上に、血のつながりも無い。
 だと言うのに、何の憂いもなく彼女が微笑んだのは、羽衣狐であったときにもその童子をなかなかに愛らしいと感じ、山吹乙女としてもかつての夫の面影を感じさせる彼を他人とは思えず、加えてその少年が、我が身を母上母上と慕ってもくれるので、なんとしても応えてやらねばと、思われるためだ。

「母上さま、リクオです。ボク、お仕事の帰りに美味しい洋菓子を買って来たんです。紅茶を淹れて参りました。入ってもよろしいでしょうか」
「あら、ちょうど狂骨とすれ違いでしたねぇ。お入りなさいな、リクオ」
「失礼いたします」

 夕暮れ刻である。
 橙色の西日、夏の力強さをやや弱めた太陽が、町並みを照らして沈もうとしている。
 同じように部屋の中も、金色に染め上げられて、衣吹の漆黒の髪は綺羅と艶めき、天の川のごとく。加えて、姿を現したリクオを見つめて優しく細められた瞳にも、恨み憎しみに沈んでいた頃にはなかった光が、たしかに息づいていた。
 そこに映した一人の少年は、今年の冬には夫となると言うのに、まだ面立ちは少女のように柔らかく、どこか儚げにすら見えたが、それだって、以前と比べれば少し背も伸びたし、衣吹を見つめてくる視線にも、しかとした強さがあった。

 脇に一度置いたティートレーには、茶器が三つ。
 狂骨娘の分まで考えていたらしいが、部屋の中に彼女の姿が無いことで、リクオはあからさまにほっとした様子を見せた。
 なにせ、狂骨娘ときたら、一にお姉さま、二にお姉さま。
 三、四はもとより、五までお姉さまといった具合に、衣吹にべったりとしていて離れない。
 リクオが何かしら衣吹に伝えたいことがあったとしても、なかなか取り次いでもらえず、こうして部屋を訪ねても、リクオが何か口を開けば必ず邪魔をする。

 おかげで、リクオは富士山麓から帰ってきてから、一番伝えたいと思っていたことを、衣吹に伝えられぬままになっている。
 今日こそはと思って衣吹の部屋に赴いてみても、狂骨娘が瞳を縦長にして、喉の奥からしゅうしゅうと音をたて威嚇してくるのでは、ゆっくりと話もできやしない。そうこうするうち、リクオの誕生日が近くなると衣吹の方から祝いの宴をしようと張り切り、リクオは宴の主役なのだからと賄いに入ることも許されぬようになったところで、計ったように日ノ本の西側のあちらこちらの名のある主から、「京都守護職花霞殿のお住まいはこちらか」と使者がやってきて慌ただしくなり、その後リクオの誕生日の宴を終えた後、今に至る。

 今日は、精力的に祝言の手伝いをしてくださる母上へ、一息入れてもらうつもりで、カナに教えてもらった銘柄の紅茶と洋菓子を揃えた。
 狂骨娘に追い立てられるように離れを去るのに慣れていたリクオは、思いがけず訪れた二人きりの時間に戸惑いながらも、すすめられて、衣吹と向かい合わせに座った。

「招待状は、八割方、書きおえておりますよ。狐文字など使っておりませぬから、安心なさってくださいな、リクオ」
「まさか、そのような事、元より案じてなどおりません。母上さまはボクの留守中、しっかりと伏目を守って下さいましたし、京に睨みをきかせても下さった。本当は週末だけで帰ってくるつもりだったのに、養生含めて一週間も不在にしてしまいましたが、帰ってきたとき、あの首無ライダーたちがやけに行儀良くなっていたのには驚きました。ボクがどれだけ言っても、何をやってもダメだったのに、いったいどんな術を使われたのです?」
「ほほほ、いえ、特に何も」
「何もしないで、あのように大人しくなる輩ではありませんよ」
「ふふふ、狐のよしみでご近所伏目稲荷様とお茶会をするようになったのですがね、たまたまその帰り道、あのやんちゃな子等が、空と言わず陸と言わず、駆け回っているのを見まして。空から轟音がするもんですから、ここらの子供等が怖がって泣くのですよ。それほど《畏》を感じぬ輩だったので、これまで私が知らなかったのも仕方ないのでしょうが、ほんに、風情ある京にはふさわしからぬと思いました。
 しかし、私の独断で何をどうするのも躊躇われましたので、くだんの伏目稲荷様と、白蛇様に相談しまして」
「………なるほど、お二方は人間の信頼も厚い、たしかな方々です」
「お二人曰く、あ奴等は、花霞大将は絶対に命まで取らぬと知っており、だから中途半端な悪さを繰り返しているのだと。人間で言うところの、反抗期であると言うので」
「はい。ボクも困っているんです。ボクが止めているせいで人の命まで取っていないのか、それともボクが止めなくても、結局決定的な悪さをしないのか、それがわからなくて」
「花霞童子や、奴等はのう、結局、お前にかまってもらいたいのよ。悪さをしようとすれば、お前の目はあちらに向こう。悪さをして逃げれば、お前は奴等を追いかけよう。見てほしい、追いかけてほしい。つまりな、奴等はお前の、護法たちが羨ましいのじゃ。わかるか?」
「ボクの護法になりたいと、そういうことですか?側にいてくれようとするなら、そう言ってくれればいいのに」
「そこが難しいところ。誰もがお前のように、素直で思いやりにあふれていたなら、此の世は苦界などと呼ばれず、誰も神仏に手を合わせなどするまいよ。
 ともかく、彼等が迷惑なのは確かなので、私、ちょっと生活指導をいたしました」
「…………生活指導、ですか」
「はい。私これでも、昔は寺子屋で子供たちにものを教えていたことがあるものですから」

 にっこりと笑った美しいひとは、そこで紅茶を含み、その後ろでは機嫌良さそうにゆらゆらと揺れていた柔らかそうな尻尾が、ぴしり、畳を打ったのだった。

 リクオからは、衣吹が恥ずかしそうにほんのり頬を染める後ろで、尻尾が雄弁に語っている様がくっきり見えるものだから、ははははは、と笑いながら冷や汗をかくしかない。
 身をもって尻尾の威力を思い知らされてきた身としては、やや首無ライダーたちに同情も覚えたが、久方ぶりに見かけたと思ったら、祇園界隈でゴミ拾いをしていた姿だったとあらば、しかも、彼らが現れて驚かせる相手が、法定速度を遙かに超えて走る迷惑な輩に限られたとあっては、流石は母上と畏れ入ることはあっても、文句など言えようか。
 素直に口にした賞賛は、実のところ、初めて感じ入ったのではなく、花霞童子として羽衣狐に仕えていた頃から、下僕たちを使い躾る手際には感心していたために、出てきたものだ。

「流石は、母上さまです。ボクも甘やかしているつもりは無かったのですが、見抜かれてしまうものなんですね」
「リクオや、あなたは赦すことを前提にして、妖の者と向き合っていますね。菩薩行はそういうものでしょうし、そうされることであなたを慕う者たちもある。玉章や猩影、それに鬼童丸も、そうなのでしょう。けれど、ひとつ、覚えておきなさい。我こそが主という気構えには、時として、間違いを犯す覚悟も必要なのです。間違った道にですら引き込むような、大きな引力が必要になることも、あるのですよ」
「それは、今はなんとなくですけど、わかるような気がします。母上さまとお会いするたび、ボクは、ひどい間違いを犯しているんじゃないかと思ったものでした。京都を守る、人間を守る、そんな目的が霞んでしまって、本当は、母上さまに従うことこそが、正しい道なんじゃないか、と。
 ボクは母上さまを畏れていました。善悪、人と妖、使命と願いそして祈り、そんなものが母上さまの前に出るとどうでもよくなってしまうから。心底から、この御方の喜ぶことができるようになったなら、どんなに楽だろう、どんなに嬉しいだろう、そしてそんな自分になったなら、きっと母上さまは喜んで迎えてくださるに違いないって思えたから。そうなったならきっと、母上さまはボクに言い聞かせるために折檻などしなくてすむし、ボクだって母上さまにとって良い子でいられるに違いないのにって。
 ああ、本当に母上さまは、正しく京の主であらせられました。ボクなどは、足下にも及びつかない」
「皮肉なことを仰せになって、あまり母を虐めないでくださいな。
 一つわかってほしいのは、花霞童子よ、妾はな、お前を可愛いと思うた。幼子のお前が、必死に力を尽くして何かを守ろうとし、妾やその手下どもに刃向かおうとする様が、かわゆうて仕方なかった。己の母のために何かを尽くそうとするお前の姿が、遙けき時の向こうの我が子と重なってのう、人間どもに囚われ、飼われているお前が不憫にもなった。我が子がまさにそうであったから、さっさと目を覚まさせて、人間を狩り、飼う側になればお前は心の板挟みに苦しまずともよくなろうと」
「存じております。皮肉なんかじゃない、ボクは本当に、母上さまをお慕いしておりましたよ。最初にお会いしたときに下さった御衣は、今も大事に行李の中にしまってあります」
「なんと、可愛いことを言う。だが、お主のおねだりでも、聞けることと聞けないことがあるぞ。何を企んでおるのか、言うてみよ。
 いえ、まず最初に言っておきますが、リクオ、京の主に返り咲けなどとは、絶対に頷けない話ですよ」
「確かに以前のボクなら、それをお願いしていたかもしれない。でも、そうじゃないんです。それに、おねだりというより、ご報告に近いかと」

 我が身一つどうなろうとも、所詮、一生など浮き世に生じた一瞬の夢。
 夢なれば、霞と消えても残り香に、誰が涙し悲嘆にくれても、いずれは悲嘆も霞のごとく消え果つる。

 そうとばかり思っていたリクオに訪れた、ほんの少しの、変化。

 妖気は押さえつけられて当然と思っていた。
 覚える息苦しさは、妖の血など引いて生まれてきた己に課せられた咎であるのだと。
 妖の血を引く己だから、疎まれても当然、何かを求めることすら罪悪なのだと、思っていた。
 周囲に多く集い離れないでいる護法たちすら、時折無性に寂しさを感じる己に吸い込まれて動けなくしてしまった者どもである、とも。

 これまで思いこんできた認識を、少し改めようかと思うようになったのは。
 望みを持つことは悪ではない、ほんの少し手をのばして、欲するものを掴んでみても良いのだと思うようになったのは。
 手を伸ばしたところへ、あちらからも手を伸ばして手を握り返した、雪女の存在があったからに他ならない。

「ボクは、京の主をやってみようと思います。母上さまが愛された京の都で、母上さまとはやや違う方法かもしれませんが、母上さまがされていたように、きっちりと目を光らせて余所者から守り、増長した人間たちから妖たちの住まいを守り、増長した妖たちから人間たちを守りして、光と闇の調和を求めてみたいのです」
「それは………よう言うた。よく言いましたね、リクオ。そう、それで良いのです。しかし、光と闇の調和とは、まるで」
「富士山麓にて、お会いしました。実は、地獄の窯からこちらへ扉をこじ開けてやってこようとした亡者とは、晴明殿だったのです。戻ってきてから、何度もお話しようとしたのですが、なかなか機会に恵まれず、失礼いたしました」
「なんと。………なんと、あの子が。………ああ、そうであったか。さぞかし、この母を恨んでいたことであろう、晴明ェ………」
「いいえ、母上さま。そもそも晴明殿が《鵺》となったのは、貴女さまへの思慕がため。だからこそ、陰陽和合の道を、捨ててしまったのでしょう。
 晴明殿は、立派な青年の姿で現れ、しかし去るときには、きっと母上さまに甘えていらしたときのような、幼子の姿で彼岸に戻られましたよ。きっと今度こそ、御自身の因果を全て清められ、母上さまの前に生まれ変わってこられることでしょう。
 ボクは、晴明殿にお約束をいたしました。晴明殿がなそうとされた、陰陽和合の志を継ぐと。光と闇が織りなす美しき世を、きっと守ると。これにて反魂はなされたと申し上げましたら、ご理解いただけた様子でした」
「そう、か。………そうか。ならば、花霞童子よ、確かにお前は、京の主でなければならぬ。我が子、晴明の志を継ぎ、さらには我の後を継ぐ、京の主でならねばならぬな」
「はい。きっと、そうなります」
「なんと、嬉しや。我が子が、我が子と我の意志を継いでくれると言う。しかし……。
 しかし、リクオや。貴方は、奴良家の血を引いている。また妙な義理だてをして、関東に帰りにくく思うようになってしまうのでは」
「ボクの家は、伏目のこの屋敷です。どこへ赴いたとしても、帰ってくるのは、ここです。それでは、いけませんか?」
「いけないということは、ありませんが」

 《鵺》復活への執着を捨てたとは言え、血の繋がった我が子が、彼岸でどう思っているやらと思っていた衣吹は、リクオの話に目を潤ませたが、その目尻をハンカチでそっと拭い、今度はきりと表情を引き締める。

「貴方は奴良組の、若頭でもある。総大将の次に、権威ある立場なのです。それだけではありません、貴方は私をこんなにも母と慕い、たててくださいますが、残念なことに、私とは血の繋がりが無い。逆に、貴方は奴良組二代目の実の息子なのですから、その血の繋がりに勝るものはないのですよ。それを、結納があることすら知らせぬとは、どういうことですか」
「あれ、どうしてご存じなのです?」
「鯉伴さ………二代目から屋敷に電話がありました。
 白蔵主や狂骨では話にならぬからのう、妾が相手をした。妾はてっきり、お主が二代目に話を通しておるとばかり思っていたが、聞けば、奴良屋敷にはまるで話をしておらぬとか。実の父に対して、あまりにむごい話とは思わぬか」
「むごい?そうかなあ。富士山麓行きは急に決まっちゃったから、言う暇もなかったんです。元々、結納や婚礼はお父さんにお願いするつもりだったし、二代目には婚儀の前に婚礼に招待すれば良いかという心づもりでしたから、特に相談もしていません。お爺ちゃんも、何も言ってなかったし」

 衣吹は戦慄した。

 目の前で純粋無垢に小首を傾げて、何か悪い点がございましたでしょうかと本気で考えているらしい息子は、果たして、己が言ったことの破壊力を、本気でわかっていないようなのだ。
 平安の頃、我が子が纏っていたような狩衣姿で、我が子の幼い頃を彷彿とするような見目麗しき童子姿であるから、言うことの残酷さがさらに際立つ。

 もう話をすることもあるまいと思っていた男が、受話器の向こうでべーべーと泣いていたものだから、さらには白蔵主や狂骨娘にくそみそに言われていたものだから、つい哀れになって電話を代わったときには、まさか礼節を重んじる花霞大将がと思ったが、思い直してみれば、なるほど、確かに、礼儀の部分は守られている。
 元々、雪女は奴良本家に仕えていたとはいえ、今はリクオが娶る前提で連れてきているのだし、婚礼には招待するつもりでいるというのだから、これが他人同士のことならば、それでいいのだ。

 これが、他人同士の、ことならば。

「リクオや。他人行儀にもほどがある」
「そうでしょうか?」
「貴方は、奴良鯉伴の一人息子なのですよ?」
「今はそうですけど、百年後にはそうじゃなくなっているんじゃないかと。そうなれば、庶子一人のことなんてきっと忘れてしまいますよ。
 母上こそ、どうなんです、久方ぶりにお話したのでしょう?懐かしくなられたのでは」
「懐かしいと言うより、ひたすら哀れでした。ええ、山吹の恋愛感情なんて思い出す余地もないほど。羽衣狐の憎悪が霞むくらい、哀れでしたよ。嗚呼、かわいそうな子だなぁ、と、心底、思いました」

 紅茶をすすりながら、その日の電話のことを思い出す、衣吹の視線は、遠い。

 初代がたてた奴良組を、さらに強く大きなものとして仕上げた、比類無き、まさに日ノ本最強の大妖が。
 魑魅魍魎の主が。
 睨まれれば視線だけで、誰もが震え上がるほどの畏れの持ち主が。

 声だけでもわかった。
 多分、顔中、涙と鼻水だらけなのだろうなあ、と。
 山吹乙女であった頃、頼もしい夫のそんな顔は、見たこともなければ、想像もつかなかった。
 羽衣狐であった頃、ふてぶてしい憎き敵のそんな顔は、見てみたいものだと口にはしても、やはり想像もつかなかった。

 呂律がまわらないほどに泣いているので、まるで幼子を宥めるようにしながら事情を聞いたときは、耳を疑ったものだ。
 まさか、継母にすら知らされていた富士山麓での結納の件が、実父の耳に入ったのが、事後であるなんて。
 それも、相手方の母君からのお叱りの電話で事実を知ったと言うから、救いようがない。完全に避けられていると思ったとしても、当然。いやむしろ、正しい認識だ。

 相手の母君を知っている衣吹としては、「きっと雪羅さん、今頃本家に乗り込んですごい剣幕だろうなあ」と、遠くを見てしまうというものではないか。
 二代目としては、夏休みでたっぷりと父子の絆を確かめあった気分でいたことだろう。
 これが計算であったなら、母子を守れなかった父への良い意趣返しであったろうが、衣吹がおそろしいと思うのは、視線を戻せば本気でわかっていないらしいリクオが、可愛く首を傾げているからだ。

「………リクオや。二代目のことを、忘れていたわけでは、ないのですよね?」
「はい」
「自分の父御であることも、理解はしているのですよね?」
「はい」
「ならばどうして、お話しなかったのです?」
「訊かれませんでしたから」
「訊かれたなら、お話しましたか?」
「はい。隠す道理もありませんから」
「………確かに。ならば、わかりました。母としては、お前の方が余分に可愛い。今回のことは、あらかじめ打診をしておかなかった二代目の手落ちとして、理解しておきましょう」
「手落ち?何がです?」
「お前は考えずともよろしいことです。ですが一つ、母と約束なさい。もしもこの先、氷麗さんが身ごもられたことがわかったら、訊かれなくても、すぐにお知らせするんですよ。産まれた後では遅すぎます。もちろん、お腹が大きくなった時期に、たまたま二代目が訪ねてこられて発覚するのもいけません。わかったら即、連絡。メールではいけません。手紙でもいかぬ。必ず電話なさい。よろしいですね。陣痛が始まった時も同じです。絶対に知らせること」

 真顔で言い渡されたが、事が事だけに、リクオはぽっと頬を赤らめて俯き、こくりと頷いた。
 気の早い話です、などと余裕をもった答えが無いことに、内心、衣吹は孫の顔は案外早いかもしれないと機嫌を良くして、また、顔を真っ赤にした少年陰陽師を前に、してやったりという気持ちもあって、唇が自然と弧を描いた。

「母上は、どうなんです。そのぅ………最近、体調に変化は?」
「妙なことを訊きますね。妾はもう、《鵺》は孕まぬぞ」
「でも、その、ボク、もう一つ、約束したんです。晴明殿に。産まれておいでって。《鵺》じゃなく、安部晴明でもなく、ただのやや子としてなら、ボク、弟がほしいから絶対に可愛がるからって。だから、きっと晴明殿は、今度は《鵺》じゃなく、ただのやや子になって、母上さまに宿るって思ってたのに」
「さて。晴明である因果を手放した魂なれば、わざわざ、この母の腹に宿る道理が無い。そちの思い違いであろう。リクオ、貴方が戻ってきてから二ヶ月経ちますが、そんな様子は露ほどもありません」

 おかしいなあ、と言うリクオの方が、よほどおかしいことを言っているだろうに、そういうところは、人間よりも妖に感性が近いらしい。

「ボク、母上さまからやや子が産まれたら、きっと可愛がって、勉強や術も教えて、陰陽和合の京の都を継いでもらおうと思ってたのに」
「これ。それが本音か。先ほど、自分で京の主をやってみると言ったばかりだと言うのに」
「主は立派なら立派なほど良いでしょう?ボク、自分が立派だとはとても思えないんですもん。守りたいものがあって、受け取った志があるから、やらなくちゃって思っただけなんです」
「それで良い。なに、まずは何もかも先のこと。二代目は不憫だが、それもまた因果応報の形なのだろう。
 ………おや、狂骨、戻ってきませんね。ケーキはあの子も大好物なのに」

 母と子、二人はんなり微笑みあって一区切りついたところで、時計の針をみやればゆうに小半刻は経つ。
 紅茶を淹れるにしても、遅い。
 どうしたのかと思っているところへ、噂の狂骨娘の声が、慌ただしい足音とともに聞こえてきた。

「お、お、お姉さま!お姉さま、お姉さま!大変大変大変です!花霞がいないんです!お姉さまァ!」
「どうしたのです、狂骨。リクオならば、ここにおりますよ」
「な、何ィッ?!貴様、いつの間に?!」
「ごめんよ、狂骨。お前のお姉さまは、すぐ返すよ。今ちょうど、話を終えたところだから」

 屋敷の奥からここまで駆け足で来たらしい、ぜいぜいと息を荒くして姿を現した狂骨娘は、リクオが衣吹としたしげに語らっているので、弓なりの眉をぴぴっと釣り上げた。
 そこまではいつものことだが、今日はリクオが親愛なるお姉さまに近づいていることへの怒りではなく、別種のものがあった。

「いや、そんなことはどうでもいいのだッ。貴様、こんなところでちんたらしている場合ではないッ、こんな大変なときに、どうして妻たる女の側にいてやらないかッ」
「そんなことって、お前らしくないなぁ。一体、なにをそんなに慌てているの?」
「雪女が、気分を悪くして今、奥の間で伏せっておる!」



+++



 朗らかに笑う娘だった。

 生まれと育ちがそうさせたか、奴良屋敷に連れてきても、妖怪どもを恐怖する様子を見せず、小物どもとはすぐに馴染んで一緒になって遊び始めた。
 隠居していた初代などはすぐに彼女を気に入り、となれば屋敷に住み着く大物どもが邪険にするはずもない。

 人に追われて、もうすぐ贄にされるところであったのを、たまたま通りがかった二代目が助け出した娘であったので、今更、人の世界に戻すのも躊躇われ、また彼女自身も奴良屋敷を好いていると答えたから、二代目としても無理に屋敷を追い出す必要もなしと判じ、住まわせることにした。
 元をただせば、それが間違いの始まり。
 彼女がいかに人の道から外れていたか、比べるべき人間がなかったために、発覚は遅れた。

 幼い頃から贄として、人知れず辺鄙な村の屋敷に閉じこめられいてたというのに、彼女は不幸のにおいを感じさせなかった。
 笑い声は明るく、歌う声は小鳥のように耳に優しく、二代目が彼女を愛するのに、そう時間はかからなかった。
 ために、間違いは間違いのまま、正されぬまま。

 二代目の姿を、娘は容易に見つけることができ、二代目の心の在処を、娘はたやすく捜し当てて寂しさを癒したが、彼女にはいくつか、理解できなかったことがある。
 己もまた愛されるに足る、存在であること。
 愛は与えるだけでなく、時に応えがあるものであること。
 愛されていることを理解できなければ、愛していたとしても、その感情は一方的に流れていくだけのものでしか、ないこと。

 彼女は二代目の心に触れ、二代目がいかに山吹乙女といいう妻を愛していたかや、子がなせなかったために出ていってしまった彼女への後悔に押しつぶされそうな心を優しく撫でた。
 そうか、このひとはそんなにも、出ていった妻のことを愛していて、子をなせなかったことで肩身の狭い想いをさせたことを悔やんでいて、今でも妻が戻ってくることを願ってやまないのだ、と、ここまでは二代目の心を、違わず読んだ。否、《視》た。
 そこで、愛したひとの力になりたいと願った彼女は、こう申し出る。
 なら、二人が育てる子を、自分が産んではどうだろうか、と。

「馬鹿を言え。おまえのような若い娘が、冗談でもそんな事を言うもんじゃない。産んだ子供はお前の子じゃないか。ほいほいと他人にやるなんて、そんな事、言うもんじゃねぇや。とりあげられたやや子の方だって迷惑な話だぜ」

 優しく叱る二代目の言葉を、彼女は理解できないようだった。
 首を傾げて曰く。

「でも私、今までに二人、子供を産んだことがあるよ?次の《若菜》になるかもしれないからって。同じ若菜なんだから、悲しくなんてないって、そう言われたよ。若菜じゃない子を産むのは初めてだけど、鯉伴さんと山吹さんが育ててくれるんなら、きっと良い子になるよね」

 価値観の相違と呼ぶには、完全に破綻した理屈を、二代目はすぐには理解できなかった。
 理解できなかったが、理解しようと努力した。

「ちょ、ちょっとまて。今のおじさんわかんなかった。いやぁ、最近の若い子の言葉ってむつかしーわー。次の《若菜》ってなに?」
「だからぁ、私の次の《若菜》だよ。鯉伴さんが倒しちゃったけど、あの神様はまた何年か何十年か後にも《若菜》を食べたいって思うかもしれなかったんだもん。増やしておかないと」
「増やしておかないとって、お前さんねぇ、そんな、野草や何かじゃないんだから。お前は、人間の娘で………」
「私は、若菜だよ」
「…………うん。知ってる」
「本当にわかってる?鯉伴さん、私、人間の娘なんかじゃないの。ただの、若菜なんだよ」

 明るく朗らかに笑う娘だった。
 二代目はここで初めて、彼女に名前が無いことを、彼女にとっては旧き神に食われるのも、二代目の手の中で生かされるのも、同じ意味なのだと、知った。
 互いに想い合っているのは、本当だった。
 二代目は、娘が溢れるほどに自分を想ってくれているのを感じていたし、娘が自分からもう一度子を産もうかと申し出てくれるのも、彼女なりの想いのかけ方であるとも、わかった。
 わかったが、いびつだった。
 明るく朗らかに笑う娘が、知らない生き物に見えて、人とも妖とも違う、別の生き物に見えて。

「………もしかしてお前、名前、ついてないのか」
「うん」
「なんでそれ、言わなかった」
「だって、訊かれなかったもの」

 江戸の頃から、人柱だ生贄だと、土に埋められ山に捨てられる人間たちを多くみてきた二代目であったが、贄となる者たちは、人として死んでいったがために、死ぬる覚悟があったり、殺される悲哀があったりもしたが、そのどれとも、彼女とは違った。
 彼女は生まれてからこちら、贄でなかったことが無い。

 神に捧げられることこそが幸福であったのところを、横から掻っ攫ったのは二代目だった。
 己で主を選べぬはずの供物が、この主こそはと想う男と出会って喰われようというのなら、彼女はたしかに幸せの絶頂にあったことだろう。
 やはりこのときも明るく、娘は笑った。



+++



 夕方から降り始めた雨は、止む気配が無い。

「鯉伴。りはーん。オイコラ魑魅魍魎の主、どこ行ったーー。メシだぞーー」
「雪羅姐さん、こっちにはいませんでした」
「押入の中も探したんですけど」
「ったく、飽きもせず今日もまた隠れん坊かい。世話が焼けるねぇ。あー、もういいよ、アンタ等はそろそろ自分のメシ喰っちまいな、片付かないから。妾ゃ、心あたりを探してみるからさ」

 姿の見えない二代目を、声の限り探した側近衆は、今日こそは己等で捜し当てて見せると思っていたのにと気落ちし、今日もまた、客人であるはずの雪羅御前に主を任せてしまうのを心苦しく思いつつ、他に方法もないし、不思議と雪羅御前一人になると二代目は姿を見せるらしいので、己等が残っていてはかえって邪魔になるのだろうと、悔しそうに一つ会釈をして、奥へ下がった。
 彼女一人に任せるのは心苦しいが、恥ずかしい話、そうした方が屋敷の主は見つかりやすいと、ここ数日でわかっている。

 今日もやはり、雲隠れした主を側近衆では探し出すことができず、雪麗御前一人になってみてふうと溜息をついた後、不意にすぐ傍の座敷の障子をからりと開けてみて、誰もいないと目で確かめつつも、

「……こら、鯉の坊。仮にもアンタは、百鬼夜行の主でしょうが。《畏れ》使いっぱなしで昼寝なんてしてるんじゃないよ、大人気ない」

 言い聞かせるように呟けば、雪麗の目の前、座敷の一角がぼんやり霞がかったように揺らぐや、几帳をするりと取り払ったように、突如、一人の男がこちらに背を向けた姿勢のまま、己の腕を枕にして寝転んでいた。
 誰あろう、この屋敷の主、関東奴良組二代目総大将・奴良鯉伴その人のはずなのだが ―――

 雪麗御前、屋敷を訪ねてから何度ついたかわからない溜息を、もう一度、ついた。

 その場所は先ほど、いいだけ納豆小僧や小鬼たちが踏んづけ、畳をべしべしと叩いていたはずなのに、うるさいとも痛いとも言わずにじっとしていたのなら、我慢強いを通り越して馬鹿のレベルだ。

「いつまでスネてんだい。そんな風にイジケてる暇があるんなら、得意の泣き落としで周囲の連中、困らせてやりゃあいいじゃないか。どうしてパパに報せてくれなかったんだとか、リクオに泣いてすがって困らせてやりゃあ、あの子だって悪かったって謝ってくれるよ、優しい子だから」
「………困らせたくなんか、ねーもん」
「おや、口のききかたは覚えてたかい。ついでにもう一つの口の使い方、思い出してくれるとありがたいんだけどねぇ。ほら、鶏そぼろ粥。あんた好きだろう。一口でもいいから、含んでおくれよ。じゃないといい加減、干からびて死んじまうよ」
「………妖怪がメシ喰わねぇくらいで、死んでたまるかよ。気持ちは嬉しいけど、ごめん雪羅さん、いらねェ………」
「体が死ななくても、心が死んじまうって言ってんのサ。まったく、普段は構ってもらいたがりの探してもらいたがりで、絶対に見つかるような場所にしか隠れないのに、こうしてスネるときにゃ絶対に《畏れ》を解かないでいるんだから。首無も毛倡妓も、困っちまってるじゃないか」
「………れでも、………は、見つけてくれたんだ」
「なに?何か、言ったかい?」
「それでも、若菜は、見つけてくれたんだよ。いの一番に。けど、もういないんだよなァ」

 若菜という娘が、内縁ながらも二代目の後妻となった話は、雪麗も富士で聞いていた。
 その娘が子を身ごもったときに、わざわざ初代は自ら彼女のもとへ、良い守役はいないだろうかと訪ねてこられ、和子とも姫ともわからぬうちから、雪麗は己の娘を本家へ赴かせた。
 娘から手紙や電話で聞く話では、たいそう若く明るく、良い人間の娘であったと言う。

 彼女は山吹乙女が使っていた離れではなく、賄いに近く狭苦しい、この四畳半で寝起きや着替えなどをしていた、とも。
 屋敷の主が何度も、もっと広い部屋を使うように言っても頑として聞かず、逆に山吹乙女の帰る場所を取るなと、夫を引っ叩いてでもたしなめていたそうだ。
 もっとも主が引っ叩かれるのはそれ以外にも、前触れ無く朝帰りをして酒のにおいをさせて帰ったときや、化猫横丁で両腕に猫娘を侍らせ大の字で寝ていたときなどにも、箒を振りかざして引っ叩き、挙句、「二代目は確かにお強く情け深い御仁なのだが、女相手にああもう薄情なのでは、商売女とは言え哀れなもの」という噂がたっていたのも、ほんの半年で聞かれなくなったほどだと言う。

 甘ったれ鯉の坊には、それぐらいの女傑が丁度良いと安堵していた雪麗、逆に言えば、二代目がそれほどに娘を気に入られたことを善き哉と思っていたので、今のように、娘を失って娘の部屋で一日を過ごす姿も当然であるかと考えた。
 山吹乙女が姿を消したときには、お互いに言うに言えぬことが積もっていたためか、二代目もどこか意地になっているようなところがあって、このように落ち込む姿を誰にも見せなかった。
 手勢を使って探した後も、いよいよ見つからぬとなったとき、心の傷として抱えはしたが、このように一日ごろごろと子供の頃のように、拗ねて見せるなどあるはずがなかった。
 だから雪麗御前は不思議である。

 そんなに取り戻したいのならば、取り戻せばいいのに。

「そりゃ、人間は死ぬもんだ。そんなに会いたいんなら、いつもやってるようにちょいと三途の川の手前まで散歩がてら、行ってみたらいいじゃないの。運が良けりゃ、会わせてもらえるかもしれない」
「もう、行ってみた」
「うんうん、なんだ、アンタもやることやってんじゃないの。そうだよ。あたしら妖怪任侠なんだ、黙って神様仏様の言いなりになってやる必要なんて、これっぽっちもないよ。で、何だい、それが失敗したのかい。だったら、今度はもうちょいと手勢を集めて、地獄だろうが天国だろうが乗り込んで行ったらいいじゃないのさ。リクオは度肝を抜くかもしれないけど、そこはそれ、明王さんと魑魅魍魎の主のやり方の違いってもんだろう?」
「いやぁ、失敗っていうか、いないんだ」
「え?」
「地獄の鬼さんに聞いてみたの。これこれこういう娘が十年ばかり前に、そちらに渡りませんでしたかって。おれってば悪の総大将だし、何も此の世の理屈に縛られる必要ないじゃんと思って、面会できたら幽霊でもなんでもいいから連れ出すつもりだったわけ。
 なのにさ、どこにも、いないんだって」
「そりゃ、一体、どういう」
「地獄の鬼さんも天国の住人たちも、成仏して輪廻から外れた魂までは、管理してません、だってさ」

 一瞬、言葉を失った雪麗御前である。
 人も妖も、地獄天国は必ず通る道。現世の傷を癒して、新たな輪廻を巡るために。
 あれだけ無垢な人柄だった珱姫ですら、魂は三途の川向こうに渡り、初盆には初代がわざわざ川のこちらまで迎えに行って、魂だけで現世に帰ってきたというのに。

「……………成仏とは、そりゃ、よく口上では聞くけど、本当にする人間って、いるもんなんだ」
「恨みも憎しみもねぇ。此の世への未練もねぇ。そういう奴が死んだとき、因果は解けて世界に溶けちまうんだと。わかんねぇなあ、おれには、恨みも憎しみも未練もねぇなんて、理解できねぇよ。未練たらったらだもん。いまだに、山吹のこと後悔してるし、若菜に会いたくて、たまらねぇもん。理解できねぇよ、したくねぇよ、どこに行ってももう会えないなんて。守れなかったこと、怒ってももらえねーなんて。もう、見つけてもらえないなんて。
 ああ、イイ女だったんだよ、若菜は。リクオにもいい母さんだったんだと思う。だからリクオの奴、怒ってんのかなぁ、おれのこと。母さんも守れなかったくせに父親面してんの、たしかにおかしいもんなー」
「鯉伴。あの子のせいにするんじゃないよ。怒ってもらいたいのは、アンタ自身だろ。残念だけどね、あの子もどっちかと言えばその点、母親似だ。あんたに未練が無いだけだ。恨み憎しみは、生まれていないだろうね」
「ひでェな。酷すぎる。父親として全く期待されてないにもほどがある。片思いすぎておれ、可哀想じゃん」
「言ってなさい。ぼら、さっさと食べちゃって」
「………それ、雪羅さんが作ったの?」
「そうだよ。何か文句あるの」
「ガキの頃、よく喰った奴じゃん。まずいよヤバイよ、おれ泣いちゃうかもしれない」
「泣きたいなら泣いちまいな。リクオの前で泣いてやりゃあいい。伏目に電話したときは、乙女ちゃん……じゃなかった、衣吹ちゃん相手にやってたじゃないか。べーべーと、見てるこっちが恥ずかしくなるぐらいに。けどね、その後はきっちりと立ち上がっておくれ。そうじゃなきゃ、ずうっとこのまんまだよ。
 アンタはたしかに、失敗した。そこんとこ、妾は庇えない。ホント、乙女ちゃんに逃げられるわ、今度の嫁さんにも逃げられるわで、甲斐性無いことこの上ないと思うね。だからアンタは坊やだってのさ、鯉の坊。
 けど、それでもアンタは、リクオの父親なんだからね。今回のこと、聞いてませんでしたじゃ済まされないよ。何故って、アンタの方から毎日でも連絡して、祝言はいつの予定だの、結納はいつにするんだだの、そういうところをきちっと話さなくちゃならなかったんだから。アンタが口を出さないから、リクオは全部一人でやろうとする。それじゃダメなんだよ。あの子はアンタと違って、自分から助けて欲しいなんて、言えやしないんだから。いいや、考え付きもしないんだから」
「………なんで雪羅さん、そんなにリクオに詳しいの」

 本家に乗り込んできたときは、長刀持って追い掛け回し張っ倒して踏んづけて、「一人息子の結納の席に顔も出さないたぁ、どういう了見だい、えぇ、知らないじゃすまされないからね、魑魅魍魎の主さんよ!」と怒鳴り散らしてやったものの、その後で子供のように泣かれた上、気落ちしてしまったらしい坊やの姿を見て、ちょっぴり同情していた雪麗御前、けれどもこの疑問は、彼女の怒りにもう一度火をつけた。

「一つ屋根の下で、一週間も顔をつきあわせてりゃあ、大概のことはわかる。もっとも、それだけじゃなくって、来いって言えば来るもんだからつい可愛くて、週末ごとに富士に呼びつけちまったから、ここんとこずっと顔合わせてるってのもあるんだけどね。あのねぇ鯉伴、詳しくなりたいって思うんなら、待ってちゃダメだよ、関わらなきゃ。付き纏えって言ってるんじゃないよ、待ってるからこっちに遊びに来ておくれとか、これこれを用意したから食べに来ておくれとか、用事のつけようはいくらでもあるじゃないの。
 ふふ、あの子ね、最初は他人行儀だったんだけど、最近おねだりしてくれるようになってねぇ。先週なんて自分からちゃんと、お義母さんの鯖の味噌煮が食べたいなんて言ってくれてさぁ。あー可愛い。………コホン。
 あの子の母親のことは知らないけど、引っ込み思案なところとか、にこにこ笑われるとなーんか力になりたくなってやりたくなるところなんかは、あの子、珱姫そっくり。アンタのお母さんってひともそうだったけど、優しさってのは良く働けば人を集わせるが、悪く働けば身内にさえ食い物にされちまうもんなんだ。あの子が悪いんじゃない、食い物にする方が悪いんだけどね。
 だからここの隠居爺がついていっちまったのもわかるし、聞いたときにゃあ過保護が過ぎるとも思ったけど、今は正しい選択だと思ってるよ。あの子は放っておいたら、食い物にされるばっかりだ。なまじ強いもんだから、助けてなんて一言も言わないまんま、気づいたら死んじまってるよ、きっと。アンタは助けを求められればすぐに行くつもりだったろうし、相談されれば駆けつけるつもりでもいたろうけどね、勘違いするんじゃないよ、あの子はアンタが気にかけてくれているのを心底ありがたいと思ってはいるものの、その縁を頼っていいものとは、これっぽっちも考えちゃいないんだ。
 ガキの頃から二代目よ和子さまよとでろでろに甘やかされて、泣けば誰かが助けてくれたどこぞのお屋敷の主さまとは、考え方が根底から違うんだから、アンタが縁をつないでおきたいと思うんなら、アンタの方が気をつけておやり。わかったら、ホラ、こんな風に拗ねてないで、しゃきっとおし!」

 こうまで言われては、いかに幼い頃に世話になった身とは言え、奴良組二代目たるものが黙っているはずはない
 すぐに肩越し、ぎらりと彼女を睨みつける ――― かと思われたが、他の大幹部相手はどうあれ、雪羅御前にはそうはならなかった。

「……わかってるよ。ったく、いつまでたっても口やかましいなぁ、雪羅さんは」

 相手が女人であるだけならまだしも、母と同じように、母亡き後も己を叱ってくれるひと相手に邪険な真似はできず、いい加減根が生えそうだった身を起こすと、二代目はのそのそと向き直った。
 ぶつぶつ文句を言いながらも、ぼりぼりと着崩れた胸元から手を突っ込み、脇腹のあたりをかきながら、もう片方の手で、目の前に出された粥に手をのばし、もそもそと食い始める。

 ほっとしたのは、目の前の雪羅御前ばかりではない。
 屋根裏からこっそり下を伺っていた小鬼どもも、我が主が久方ぶりにものを含んだのを見届けてほっと息をつくや、側近衆に知らせに走った。

 その足音がなにを思わせたか、二代目は二口、三口ほど粥をすすっただけで、二代目は匙を置いた。

「………鯉伴坊」
「やっぱり、なんか食欲ねーや。後で食べる」
「ハァ………だからさぁ、本気でしょげてんじゃないよ。だからアンタは坊やだってんだ。そんなに傷ついたんなら、直接リクオにお言いったら。どうして相談の一つもしてくれなかったんだって。こんな事なら、余裕あるふりしてまた京都に送り出すんじゃなかったって。どうせそう言いたいんだろ?」
「言いたいのはやまやまなんですが、あの無垢な顔で『なんで言わなあかんの?』って言われたら、おれ、いよいよ心折れるかもしれません」
「もしくは、ものすっごく気に病むかもしれないね」
「ですよね」
「父親としても二代目としても、てめェの不始末はてめェの中だけで始末つけな、と、言いたいね、妾は。こんな風に屋敷中を巻き込んだりしないで」
「わかってるもん」
「だったら、粥は残さず食って、ピンシャンとしな。いつまでもだらけてたら、そのうち、リクオの耳にだって入っちまうよ。馬鹿親父のところにだって、駆けつけてくるだろう。忙しいあの子を、さらに忙しくさせんのかい」
「わかってる。わかってるったら。けど、ホントに食欲ねーんだよ。今回の事だけじゃなくて、リクオが行っちまってから、なーんか、やる気が出ねぇって言うか。十年分の疲れがどっと出たって言うか。
 特にこんな風に、雨がしとしとしとしと、降ってるとさ、滅入っちまうの。そろそろ寿命かなぁ。試しに死んでみたら、そん時はおれの女房、迎えに来てくれっかなぁ。喝一発入れに来てくれたら、気合い入るかもなのに」
「さっきから、堂々巡りだよ。わかってるよね?」
「わかってる。もう、わかってるってば、そう虐めないでくれよ、雪羅さん。なにもかもわかってるんだってば。わかってるんだけど、考えずにはいられねーんだよ。
 あいつが生きてたら。いや、もっと遡って、若菜とリクオ、あいつらがもしもあのまま本家で暮らしてて、死ぬのがおれの方だったなら。この屋敷で、若菜もリクオも、守られて暮らせてたろうかって。もしそんな世界があったなら。おれは喜んで死んだろうにって、思わずにはいられねぇ」

 こりゃだめだと、雪羅御前、首を振った。

 内縁だと聞いており、祝言もなかったので、若菜という人間の娘がどういう妻だったのか、直接は知らない。
 正妻であれば、人の娘だったとしても祝言があり、関東一円の郎党に、これが奴良組の姐さんだとしらしめ、そこへ雪羅も赴き挨拶の一つもしたろうが、それが無かった。

 誰か幹部がめぼしい女を二代目にあてがったか、たまたま二代目の食指が動いて手をつけたのを、可哀想だから寿命を終えるまで囲おうとしているのだろうと考えていたし、そんな女と庶子となる子へせめて味方のつもりで、娘を赴かせた。
 ところが、目の前でどっぷりと陰気に沈んでいる二代目の落ち込みようは、愛妾が若い命を散らしたことへの、哀惜だけには見えない。

「………そうかい、そんなにイイ女だったかい」

 たった今、目の前でその女を失ったかのようにうなだれる二代目を前に、もう、叱ることもたしなめることもできず、雪羅御前はそうとだけ言った。

 うん、と、しばらくして、答えがあった。

「若菜は、おれのこと見つけるの上手なんだ。けど、おれは最後まであいつの心、見つけてやれなかった。今と同じ。好き合ってるってわかって有頂天で、あいつがおれになんかちっとも期待してないって、わかってなかった。後から、これって両想いじゃなくて両片思いじゃねーかって気づいてどうにかしようって思ったけど、結局………。
 ひでぇよなァ。あの世で待っててすらくれないなんて、地獄に落ちた後の楽しみ、無くなっちまった。這いあがってもあいつが居ないんじゃあなァ」

 リクオがいるじゃないか、などと軽はずみなことを、雪羅は決して言わなかった。

 あの可愛い婿が、これから塵界の汚れを吸って此の世への未練を覚えてくれれば別だが、二代目の妻のように、世界の全てに解けてしまわないとは、限らないのだから。

 たしなめるのも、宥めるのも、叱るのも、慰めも、言葉を尽くした雪羅御前、ついに何も言うことができなくなり、困った。
 その時、障子の向こうから、毛倡妓が声をかけてきたのを、正直、助かったと思うほどには、追いつめられていた。

「………あのぅ、お二人とも、お話中失礼いたします」
「毛倡妓かい。どうしたの、また首無が乱闘騒ぎでも起こしたかい?」
「あははっ、雪羅さんってば、何百年前の話ですか?あのひとはもう、そんな事いたしませんよう。界隈じゃ本家一番の温厚派って言われてるんですから」
「ええッ?!あの狂犬が?!常州の弦殺師が温厚派なら、妾なんか女神になれるよ。で、どうしたの」
「二代目に電話がありまして、お取り次ぎに参りました」
「へえ?誰から?こいつに、誰も取り次ぐなって言われてるんだろうに、よほどの大事かい?」
「若様から、二代目はおいでかと。お待ちいただいてますが、お忙しいようならば、後にしていただきましょうか?」

 毛倡妓が全て言い終わらぬうち、それまで世界を漂うくらげのようであったのが、突如解き放たれた矢のごとく、二代目は部屋を飛び出して行った。
 もちろん、件の電話のもとへである。

 呆気にとられた雪羅御前と毛倡妓は、二人して顔を見合わせ、二代目の後を追った。
 渡り廊下を面倒がって、行儀悪く真横に中庭を横切り電話にたどり着いた二代目は、黒電話を耳にこすりつけ、うんうんと今にも溶けてしまいそうな笑みを浮かべて頷いておられた。
 まったく、現金なものだ。

 と、その顔から一瞬笑みが消え、両目と口がかっぴらかれた。
 そのまま土偶になりそうな顔である。

 一瞬、間。
 直後、奇声がその口から放たれるや、主の陰気に引きずられて静かだった奴良屋敷に、他ならぬ主の万歳三唱が響きわたった。
 まるで事情がわからぬ妖怪どもを巻き込んで、やれ酒だやれ祝いだやれどこそこへ使いを出せなどと、まだ宵の口だというのに、酩酊したかのような上機嫌。

 いったい何事かと、ほっぽり投げられた受話器を拾った雪羅御前が、二代目へのぴしゃりとした口調はどこへやら、砂糖菓子のように甘い声色で語りかける。

「リクオかい?アンタのパパ、何やら壊れちまったんだけど、一体何を言ったんだい?」
「あれ、お義母さん、なんでそこに?めっちゃいいタイミングやわ。あんな、聞いて、ボクな」

 いつになく興奮しているのは、電話の向こうのリクオも同じらしい。
 二代目に放置された受話器が、ごつんごつんと壁に当たっていた音が響いていたろうに、まるで気にした様子もなく、多分、二代目へ話しかけたのと同じことを、雪羅御前にも告げた。
 すると、うんうんと聞いていた雪羅御前の目もやはりかっぴらかれ、唇が綺麗に上向きの弧を描き、

「んまああああぁぁぁぁぁ、そうかい、そうかい、そうだったのかぁい」

 でっろでろに溶けそうな声の糖度を、さらに上げた。

「すぐ、かあさんもそっちに行くからね、安心おしよ。ああ、氷麗には無理せず休むように、アンタのことだからもう言ってくれてるとは思うが、私もそう言ってたってね。
 そのかわり、荒鷲に今までの倍働くように………いや、これはアンタは言わないだろうから、私から直接言おうか。ともかく、良かった、本当に良かったねぇ。うんうん、いや、そんな事は心配しなくていいんだよ、そういうことは、大人に任せるもんさ。あんたは一家の大将なんだ、何を悪いことがある。
 うん、うん、そうだね、そういうところは、相談に乗るよ。大丈夫、大丈夫だから、かあさんに任せておいで、リクオ。そうだ、せっかくだから、何か美味いモン持って行くよ。何がいい?え、雪の蔵醸造の酒?あったりまえだ、そんなのは当然、樽で持って行くとも。あんたが食べたいものを聞いてるのさ。………うん、わかったよ、陸奥から取り寄せたのがあるはずだから、すーぐ持っていってやるよ、待っといで。ああ、長くなっちまってごめんねぇ。わかってるよ、二代目さんが百鬼夜行率いて京都乗り込むようなことはさせないから。《約束》するよ。アンタも、無理せず、ちゃんと休むんだよ、いいね」

 雪羅御前は二代目よりもずいぶんと長く若様と話し、その間、すぐ側で毛倡妓は耳を側立てたが、なにせ屋敷中が活気づいてしまって、受話器を耳に当てている雪羅御前ですら、もう一方の耳に手を当てて塞いでいる始末。
 聞こえるものも聞こえない。

 二人のやりとりが終わる頃には、二代目の騒ぎを聞きつけて、奥から首無や青田坊黒田坊、それに池から河童までが顔をだし、何だ何だと集まっていた。
 これへ、ぺかーと後光が指すほどの笑顔を浮かべた雪羅御前が、振り返る。
 あまり笑顔を見せない女任侠であるが、今のように天真爛漫に笑って見せると、なるほど、彼等の妹分と母子であった。

 それが、一体何を告げるかと、一同、固唾を飲んで、待った。
 待った。
 待ち続ける一度を見回し、彼女は、

「……………………ふふっ」

 もったいぶった。
 両手を隠した袖で、口元を覆う所作など、まるで少女のように悪戯に。

「雪羅さん!」
「一体なんですか?!あの馬鹿は一体何を聞いたんです?!」
「気になる!拙僧は気になります!」
「あー、なんか鯉伴がアレだし、雪羅さんがソレで、なんとなーく察するんだけど、でも、やっぱり確かめておきたいなー、僕」
「まさか、まさか、まさかですかい、雪羅姐さん?!」
「ふふふふふふッ。お前たち、リクオが何を言ってたか、教えてやろうかぁ」

 まだもったいぶる雪羅御前を、側近衆が囲み、うんうん、と頷いた。

 耳を寄せなと、ちょいちょい招く所作をして、雪羅は彼等が互いの頬と頬がくっつけあうほどに側に寄ったところで、リクオはこう言ってたんだよと、言葉そのまま、告げた。
 刹那、側近衆たちの目が見開かれ、口から出たはアビキョウカンならぬ狂喜、いや言葉にならぬ悲鳴、いや奇声。
 青田坊黒田坊などは、互いに抱き合い、腰が抜けたようにそこで座り込んだまま、おんおんと泣き始めてしまった。
 首無は即座に、無闇に騒ぐ主の首にくるりと縄を巻き付け手元に寄せたが、締めたと思ったリードが次の瞬間には柱に括りつけられていたりする。馬鹿みたいに騒いでないで、いろいろ準備があるだろうがと一括し、主を追いかけるのだが、その間に木魚達磨にカラス天狗など、重鎮たちに捕まってことの次第を問われる。
 河童はああやっぱりねぇと、いつものようにのんびりと頷き、けれど寝床には戻らずに、にわかに騒がしくなった屋敷の理由をはかりかねている小鬼たちに、淡々と次第を話してやった。
 これで、次第は瞬く間に奴良屋敷に広がる、賄いに届く、本家から関東一円に向けて烏たちが伝令に飛ぶ。

 最後に残った毛倡妓は、いそいそと帰り支度を始めた雪羅御前にすがらん勢いだった。

「ま、待って!待ってください、雪羅さん!雪羅さんが先に着いちゃったら、二代目ってばまたきっと面倒くさく落ち込むんですから、連れて行ってやってくださいよぅ!」
「はぁあ?アンタ等の主だろう、アンタ等で面倒みなよ!妾ゃ忙しいんだ!可愛い娘と、理想の息子が待ってる!」
「そう言わないでくださいよ!あんな面倒なひとでも、その理想の息子さんの父親なんですから!」
「話聞いてすぐに舞い上がって、酒飲み始める馬鹿なんざ、知らないね!あの息子にゃ鬼童丸って立派な父親がいたよ!結納で挨拶したが、嘘をつかないなかなかイイ男だ!ええい、袖をお離し、毛倡妓!」
「いいえ!いいえ離しませぬ!話を聞いてすぐに舞い上がって、酒飲み始める馬鹿な主ですが、アレでも私等の主でありんす!きっと、きっと首無がアレの首に縄をつけるゆえ、それまでしばし、しばし………!」
「三十秒で仕度しな!」



 奴良屋敷を、突如として狂喜で包んだ報せ。



 もちろん、リクオにとっても、無二の喜びであった。
 電話越しでも、らしくもなく興奮した様子であるのがわかった。
 息子の元へ今すぐにでもかけつけたい雪羅御前は、袖をぺしりと払って、まだ残暑厳しい中であるのにところかまわず吹雪を呼び、今にも富士へ駆けてしまいそうである。
 そんなにも急いでいるのに、逃げる二代目と追う首無に三十秒もくれてやる気になったのは、その三十秒で、可愛い義理息子の声を、もう一度、反芻するためであった。



「あんな、ボクな、家族が一人、増えるんやって」






+++



 祝言前ではあるけれど、一家同士、顔合わせは済ませている。
 御大将はともかく、花霞一家の二代目を、副将含めた護法たちは、待ち望んでいた。
 太陽がある間は人として、月がある間は妖として過ごす御大将は、人としてはまだ世の中で子供として扱われる身だけれど、ほんの千年前ならば、十五ともなれば立派な男君として働き、一人か二人、通う女もあったもの。時を忘れて生きる妖たちには、些細なことだ。
 さらに言うなら御大将自身も、一家の二代目と呼ぶかどうかは別として、妻に迎えようとした彼女との子ならばどうして望まないでかという興奮ぶり。
 妖の世界広しと言えど、こんなに望まれて生まれてくる子があったろうか。

 常識が無い、身の程を知れ、認めたわけではない、などと、口喧しくしてくると思われたのは、例のように花開院分家筋の当主たちだ。
 雪女の懐妊が知れた後、ひとしきり喜んだ後で、彼女自身がちらりと、身ごもるのは早かったろうか、自分が気を使うところであったろうにと自身を責めかけたが、予想に反して、分家衆からは嫌味一つ無かった。
 むしろ、封印鎮護の義兄弟たちから、丁寧な言祝ぎの言葉と、母となる身を気遣う品々などがすぐに届いた。
 どうした事かといぶかるのは、一家全員が同じ。
 その中で、留守を任せていた衣吹は、涼しい顔。
 狂骨娘が自分の手柄のように胸を張って曰く、

「ああ、あの無礼な奴等ならば、お姉さまが玄関口でハリセンを振るって追い出した。玄関前で一番威勢が良かった女が気を失ったから、もったいなくもお姉さまは屋敷の中で介抱されたというのに、気がつくや否や礼の一つもなかった。その後三日もしたろうか、逃げるように居なくなって、それきりだ」

 という事だそうだ。

「お姉さまは花霞が押しつけてきた留守役を七日間、しっかりつとめられた。流石は京の主。花霞の姦計なくば、今頃は奴良組など退け、日ノ本の主となられていた御方。いや、そんなものに興味はなくなられたとしても、流石はお姉さまだ。あの失礼な女どもを追い返しただけにとどまらず、本来ならば同じ屋根の下で寝泊まりなどするに値せぬ、花開院の若い陰陽師どもに手ずからお料理をされてもてなし、その上、花霞のもとへ次から次と舞い込んでくる陰陽師だかまじない師だかあやしい屋だかなんだかの仕事に、妖怪相手よりもわがままな依頼人どもに手を焼いているらしいのを、客への物言い、接し方にいたるまで、手ほどきされていた。
 花霞はまったく、とんだ見込み違いをしたものよ。あの男どもは陰陽師としてはそこそこ術を使えるようだが、客商売はてんで素人であったではないか。お姉さまがいなければ、あいつら、妖怪退治を請け負う前に、ものすごい剣幕で怒鳴る人間どもに、逆にこてんぱんにされていたことだろう」

 そのまま、秋房と雅次がいかに恥ずかしい様子だったかを暴露する勢いであった狂骨娘が、すんでのところで黙ったのは、目の前にほいと突き出された、綺麗なルビー色のロリポップのおかげだ。
 大きな目をさらに、瞳の瞳孔まで大きくして、キャンディに食らいついた狂骨娘の言葉をさらったのは、彼女の操縦については衣吹を別にして一番に上手くなった、雅次だ。

「秋房も俺も、術の腕は自信あったんやけどな。たしかに客商売だってことは失念してた。秋房はあの通りお坊っちゃんでプライドたっかいし、俺も引きこもりのオタクのコミュ障だし、いざいらっしゃいませ依頼人ってときに、お客はんが何言ってるかわからんの。いや、日本語はわかるんえ。わかるんやけど、俺等が使ってる日本語と、お客はん等が使ってる日本語に、温度差があるらしくてなァ。いやぁ、参ったわ。なんていうのああいうの。モンスターはどっちやねん、と思った」

 一般に、妖怪など信じられてはいない世の中で、陰陽師を頼ろうとする人間など、そうはいない。
 各分家と先祖代々繋がりの強い旧家があって、そこへ何かしら行事毎に、魔除けだの神降ろしだのへ向かうのが主な収入源だ。
 妖怪、幽霊、悪霊、怨霊の被害に苦しんでいるから助けてほしいなどという依頼は、来たとしても、その関わりある旧家から伝え聞かされ、そこで初めて、誰を向かわせようかという話が、分家衆の世話役たちの間で交わされる。もちろん、些末な内容であれば、当主や跡継ぎの耳に入れるまでもなく、済まされた。
 末席の者たちの手には負えぬ、大物の様子であるとなって、初めて当主の耳に入るので、そのときにはもう、客との謝礼交渉などは終わっており、目の前にいる人でない者どもを、祓うだけで良い。

 少なくとも、秋房や雅次が生まれ育ってきた実家は、そうだった。

 しかし、リクオは違う。
 本来、関わりのある旧家を通してしか依頼できぬ、一見さまお断りの花開院家の中で、伏目鎮護は異質だった。
 子供が一人で屋敷に住んでいるらしい、いや父親がいると聞くけれど、父親でなくその子供の方が陰陽師らしい。妖しげなる者どもで困り事があるのなら、まずはその子に相談してごらん、と、最初に噂し始めたのは、伏目の近所に住まう人間たちだ。
 人の口に戸はたてられぬ。
 しかも今は、情報など一瞬の後には地球の裏側にまで届く時代。
 弟子はいないが、花開院家の中でも鎮護として認められている上に、直に相談を受けてくれるとあって、謝礼金を旧家に納める金が無い者や、金があってもしきたりを嫌う新参者、金が入ってくるのは好きだが出すのは嫌いなケチん坊が、花霞一家の収入源である。
 玉章が元手を増やすようになってからは、花霞一家の台所事情は随分と裕福になったが、それまでは、リクオがまさしく大黒柱であった。あの小さな肩が、背が、全てを支えていたのだ。

 呪いに蝕まれていたとしても、決して受ける依頼はおろそかにしなかった花霞リクオが、春の魔京抗争、人の側からしてみれば京都災害以降、体調不良を理由に一度門を閉じたことが手伝い、再び門を開いたときの依頼の殺到ぶりはすさまじかった。
 そこへ、今回の伏目明王家出事件(命名・花開院竜二)である。
 家出をしたと言うより、追い出した色合いが強く、また追い出した方も、追い出した場所で本家名代の竜二にそう言い渡されてしまうとその場で否とは言えぬ上、自分たちで追い出したくせに、そんな展開になった後で罠であったかと疑うほど、竜二が分家衆に伝えた沙汰は迅速だった。

 つまり、伏目明王不在の間の鎮護の穴を、八十流、福寿流、愛華流の筆頭陰陽師で埋めること。
 秋房、雅次は沙汰を受けて伏目に入ったが、留学中の破戸の代わりは、女当主が埋めるしかない。

 女狐と寝食ともにするなどできぬと喚いていた彼女も、これ以上本家を軽んじてはお家存続が危うい。
 竜二の沙汰に従って、伏目に入ったが、三日もたなかった。

 衣吹や狂骨娘のためではない、舞い込んでくる依頼のためだ。
 女当主が妖を嫌うので、衣吹は気を使って、己についてきた妖たちを率い、伏目の奥の《隙間》部屋へ引っ込んだため、女当主は、最後には彼女等の存在すら忘れていたはずだ。

 生まれついての総領娘はこれまで、社会に出て働いたことがなかった。
 先生お願いしますと頭を下げられこそすれ、客を相手に頭を下げたことなどなかった。
 依頼を受けて、嫌々ながらも沙汰だからと赴いた先、妖の仕業ではなく、親戚の嫌がらせであったことを暴いたまでは良かったが、知らないままでいた方が良かったと泣き叫ばれた挙げ句に、そんな親戚とは縁を切った方がさっぱりするではないかと慰めたつもりが、塩をまかれて玄関から叩き出され。
 依頼を受けて、今度は何をされるのかとおっかなびっくり赴いた先、陰気な身の上話を、妻に失踪され子供を施設に取り上げられた無職の男からたっぷり三時間聞かされたあげく、こんな不幸をもたらした悪霊を祓ってくれと、どこにもそんなものはいないのに、目を血走らせて、居る、居る、と泣き叫ばれ。
 最後の客は役者のような顔立ちの、すっきりとした身をスーツに包んだ男で、金払いの良さそうな男であった。こっそり付け加えるならば、見合いで結婚した女当主の、少女のままの胸に火をつけるにふさわしい相手でもあったし、終始紳士であったのだが、ここでも求められたのは、陰陽師としての手腕と言うより、妖の名前を借りた事件の紐解きだった。あの小僧め、探偵の真似事までしていたかと内心唾を吐いた彼女は、あれに出来て自分にできぬはずが無いと、好みの男を前に奮起したが、可哀想に、己の未熟さを思い知らされるだけであった。前述の御家騒動程度ならまだしも、幾重にも張り巡らされたトリックを暴くには、妖だけを相手にしてきた彼女では、流石に手に余ったのである。この男、身分を隠してはいたが、警察のお偉方であったらしい。仕方ない、大阪か東京の高校生探偵に頼むかなと呟かれたときは、生まれ育った千年京へ、別の土地の子供探偵ごときに踏み込まれる悔しさに唇を噛んだ。けれど、それよりも彼女が悔しかったのは、目の前の男に「リクオくんが帰ってきたら、白鳥がよろしく言っていたと……」と愛想笑いで言われたことだ。

 これ等の世間攻撃を受け、女当主は三日にして、依頼先から直接、己の屋敷に帰ってしまい、以降、気鬱の病を理由にして、金子を伏目に届けることで、秋房と雅次に伏目鎮護の代理を任せてしまった。

「そっかあ。やっぱり、あんな風に出て行っちゃって、悪いことしたなぁ」
「リクオくん、そんな同情はいらないよ。リクオくんはきっちりとこなしていた仕事を、彼女はできなかった。それだけだ。第一、あの場面で君が出ていかず、雪女の里へいつまでも挨拶にいかなかったなら、そちらの方がよほど、氷麗さんに失礼だろう?」
「はははっ、秋房、えろう偉そうやん。自分かてお客はんにどつかれて怒鳴られて、涙目やったんに。ぼんぼんやさかいなー」
「………たしかに。たしかに、術を使わずに気力を使わされた依頼の数々は、毎日が勉強だったさ。私は、自分がいかに無知で世間知らずかを思い知らされた、その事実に打ちのめされていただけだ!だいたい、いいとこの坊ちゃんはお前だって同じはずなのになんだ、なんで何となくできちゃうんだお前は!むかつくんだよ!引きこもりのくせに!」
「いやぁ、マルサな才能って罪やわぁ」
「マルチだろ」
「あ、そうそれ。いやな、ほら俺、半分ヒッキーやん。嫌味は親戚筋からで慣れてるし、イベント行って自己表現してると、たまーにやけど、誹謗中傷荒らしパクリなんてところに出くわすことも、なくはないしなあ。いや、こんな風に役に立つとは思わんかったけど。………狂骨っちゃん、飽きたんなら、俺とまたモデルさんごっこしよか」

 リクオが不在の七日間でいったい何があったのか、雅次は狂骨娘を手懐けていた。

 今も、いくらすぐ側で衣吹がにこにこと笑んでいるとは言え、黙って縁側に座っているのが飽きたのか、足をぷらぷらとさせて庭の小石を蹴り始めたのを見て察し、お兄ちゃんと遊ぼうか、などと話しかけている。
 元々子供に好かれる性質で、リクオももっと幼い頃は親身に術を教えてもらったりなどしていたし、不思議は無い。
 無いが、「モデルさんごっこ」なる遊びには、自分がどこぞの電子歌姫のミニスカートコスチュームを突きつけられたときに困ったことを思い出し、見目は幼女でも中身はしっかり衣吹に次ぐ姉御料の狂骨娘ならば、雅次に容赦なく噛みつくのでは蛇を飛ばすのではと緊張したリクオ、

「あら、撮影会ね?ふふん、カワイイのならイイわよ♪」
「そこは大丈夫だ、問題ない。なにせ縫製師がプロやから」
「今日は何?」
「妖狐×僕SSから白鬼院さん妖Verコスか」
「私、元々が妖だもの。パス」
「荒川橋下からニノさんのジャージとか」
「あれはただのジャージじゃないの。却下」
「まどマギからまどかちゃんコスは」
「あれならお姫様っぽいからイイわよ」

 利害一致している様子で去っていく二人と、カメラ機材を背負ってついていく小さな護法たちを、複雑な気分で見送った。

 雪女が倒れたと聞いたときには皆が血相を変えたが、それも数時間前のこと。
 伏目屋敷に住まう半神の女医が、二ヶ月といったところだと見立てた後は、屋敷はもうお祭り騒ぎだった。
 雪女が横たわる布団の周囲で騒がしく万歳三唱した護法どもを衣吹がハリセンで黙らせ、リクオがぽいぽいといつになく乱暴に廊下に放り出し、猩影が風呂敷に受け取って物置に放り投げ、それでも雪女にまとわりつきたがって脱走をはかろうとする護法たちを、玉章の「伏せ」命令を受けた犬神が戸の外でぎろりと睨んだのでおさまったが、そうでもしなければ、人間の目につくことなど考えず、屋敷中の小物たちが、屋根の上と言わず門の上と言わず、乗りあがって騒がしくしていただろう。

 夫君がいるとかえって気を使うだろうから、私どもが側仕えをいたしますと女怪たちが言い、リクオは半ば追い出されるように部屋を後にした。
 心配で気もそぞろなリクオが、賄いに立ってもついつい芋の皮だけでなく己の手の皮までこそげ落としそうになったり、ぐらぐらと味噌汁が煮立っているのにも気づかずにお玉を持ったまま窓の外を眺めていたりするので、衣吹が優しく彼をうながして、カナと狂骨娘を従え、今日の夕飯を用意した。
 本日の献立は、簡単に吸い物といなり寿司、他、香の物とデザートの果物。
 急なことですからお祝いは改めてにしましょうねと、物静かに笑っていなり寿司を頬張った衣吹の後ろで、金色の尻尾が一本、ご機嫌を隠せなかったか、ふっさふっさと揺れていた。

 今は興奮もおさまって、雪女も寝室に休んでいる。

 夕餉を終えた後は、妻を心配して気もそぞろな御大将の元へ、誰からともなく一人、また一人と集まり、蚊取り線香をくゆらせた縁側に座って涼を取っていた一同。
 陰陽師がいて妖怪がいて、しかし不思議とどちらも相手が己に危害を加えるとは、全く思わぬ空間。
 それがここ、京都伏目区は伏目稲荷が膝元、伏目屋敷である。

 縁側に残ったのは、リクオを中心に、左手には月を愛でながら、今日は山吹色の小袖を纏って茶を飲む衣吹と、右手には浴衣姿で足を崩した秋房、あとは大将を慕ってお世話をしようついでに撫でてもらおうと付きまとう小物たち。
 さらには、衣吹の後ろで、彼女に従うように座している、カナだった。

「私は君に、謝らなくてはならないな、リクオくん。陰陽師の仕事を知ったつもりになっていたが、考えてみれば、陰陽師の仕事一つとっても、実際に客人から話を聞き取るのも、妖の仕業かそうでないのかを査定するのも、人のものだとすればどういう手口であるのかも、全て必要なことだ。雅次や私は、それを知らずに粋がって、知ったつもりになって声を荒げていただけだ。否、雅次はあれでなかなかどうして、上手くやっていたから、問題は私だな。これでは、父にいくら逆らっても、聞き入れてもらえるはずもない。力不足を、思い知らされたよ。全て自分でできる気になっていたが、自分のところに来る依頼は、あらゆる行程を経てふるいをかけられたものばかりだったと、今になって知った。子ども扱いされても、仕方が無いな」
「ううん、秋房義兄ちゃんや雅次義兄ちゃんがいてくれるって思ったから、ボクも安心して留守にできた。本当に、ありがとう。氷麗のことも、その、秋房義兄ちゃんがまだ早いって思ってるって、ボク、わかってるんだけど、その………」
「気に病まないでほしい。そりゃ、そういう事は世間一般の常識からは外れるし、私は竜二や雅次に言わせると、頭がカタいらしい。けど、今、喜んでいるのも本当のことだよ。もし、また分家衆が何か言うようなら、それは私が、いくら子ども扱いされようが、必ず抗う」
「ありがとう。……あんな、秋房義兄ちゃん、ううん、弐条殿に、申し上げたいのです」

 鎮護の土地で呼びかけられ、秋房も、群雲をまとわせた月からリクオに視線を戻して、応えた。

「なにかな、伏目殿」
「ボク、正式に、花開院当主選定の儀、受けようと思います」
「今更なことを申される。私ども封印鎮護はもとより、否定的な分家衆すら、花開院ゆら殿と、花霞リクオ殿こそが、当主候補と考えておりますのに」
「当主候補にならないかと、二十七代目からお話はいただきました。でも、ボク、それにゆらも、ずっと、弐条殿が次の当主におなりだと思ってたから、はっきりはお返事申し上げていないんです。来年から当主候補になるかもしれない、ぐらいにしか、今までも考えていませんでした。白蛇店長に、京の主はお前だと言われたときも同じ、ボクなんかにつとまるはずもないって、最初っからそう考えてたんだけど………」

 しばし考え、柔和な顔立ちながら、双眸にきりとした決意を漲らせ、封印入閣筆頭たるその人へ、申し上げる。

「やってみようって、やってみたいって、今は思うんです。ボクに生きる道をくれた花開院家だけど、その全てが善きもので、善き教えだとは思えない。ボクがこれまでされてきたような、縛りを受けるようなこと、同じことを生まれてくる子にさせたいかって思ったら、やっぱり違う。させたくない。あんな苦しくて、痛いことは、無い方がいいに決まってる。そりゃあ、おイタをしたら叱る必要はあるけど、全部悪いものじゃないってこと、わかってほしい。知ろうとしてほしいんです。
 妖全てを滅するんじゃない、追いやられた妖を理解して共に生きる道も、きっとあるはずなんだ。いきなりは難しいかもしれないけど、そういう考えもあるんだってこと、ほんの少しだけでも、皆に知ってもらいたいから」
「なるほど。伏目殿らしいお考えだ」

 くつろいだ浴衣で座布団の上に正座した、律儀な義弟に、秋房はくつりと一つ笑った。
 本人は真面目なつもりでも、甘えたがりの茶釜狸は、可愛らしく両眼をこすって、眠気のあまり今にもリクオの膝から転がり落ちそうである。この姿の方が、よほどの説得力だ。
 妖怪は黒、人間は白 ――― これは、やりすぎだという、リクオの主張の、裏づけだ。

「心のままに、お進みになるがよろしい、伏目殿。私は、いいや、私たち封印入閣の兄弟一同、全身全霊で、貴君等の後ろ盾となろう。もっとも、ゆらとどちらが当主になるのかは、神のみぞ知るところだがね」
「ボク、競争って苦手だけど、がんばってみます」
「そうだね。きっとその方が、ゆらも喜ぶ。いつも、『リクオは絶対に練習で本気ださへん』ってふくれてれてたから」
「そんな、それはゆらが酷いんだよ。目隠しで《破軍》の練習するから明王になれとか言うんだもん。妖気がないと的にあたらんって。ボク、そんな、的当てゲームみたいなのしたないって、そう言うただけやのに。ゆらはもうちょっと、おしとやかにならんと、お嫁さんになれへんと思う」
「あれ、リクオくんがゆらのお嫁さんになるんじゃなかったっけ」
「そ、それはすっごく小さい頃の話やん!ボク、もう奥さんおるんやし!」

 慌てるリクオに、ころころと笑った衣吹が、「まあそれは素敵なお婿さんまでいて、良かったですねリクオ」と応じ、場の誰もに笑いが伝染したところで、異変は、起こった。





「伝令!伝令です!御大将、西、西より……悪鬼が!」





 異変は、西方の空より齎された。

 もくもくと黒雲が訪れたかと思うや否や、ぴかりぴかりと稲妻が光って、ごろごろと雷が鳴った。先んじて、西から伝令の山鳩たちが伏目に、「西方より、悪鬼来る」の報せを齎したが、可哀相に、その羽は激しい雨に打たれただけでなく、稲妻もかすったのかわずかに焦げており、リクオの胸で、苦痛に顔をゆがめた。
 敵の襲来に、屋敷の護法全員がすぐさま目覚めた。
 リクオの膝でまどろんでいた茶釜狸など、ぱっちり目を覚まし、賄い処に駆けて己の組の仔狸どもを奮起させて、小さな戦装束に身を包み、長刀や刀を携えたものどもを率いて、たちまち戻ってきた。
 副将二名は既にそのとき、御大将の元へ馳せ参じ、御大将自身も姿をしろがねの明王へと変じている。

 身に刻まれた忌み文字を全て取り払い、妖気を全て放ったがため、纏う紫雲は視認できるほどに濃く、傍に寄った護法たちは皆が等しく、あまやかな春の香を胸いっぱいに吸い込み、不思議と恐怖を忘れた。

「一体何者か?!」
「に、西は関門海峡の向こう、九州を越えてさらに西方、大陸よりの敵と思われます!九州、中国を瞬く間に通り抜け、疾風迅雷のごとき有様にて、ここ、京都へ向かっております!」
「ったく、空気読まないお客様だね。それで、ここにたどり着かれるまでわからなかったってことは、西日本は全て傘下におかれたと、そういうことなのかい?!」
「いいえ玉章さま、奴等はどうやらこの夜のうちに、風にまぎれて通り抜けてきただけのようです。追っ手をかけようにも、その前に通り抜けられて他のものの陣地に入ってしまい手出しができず、それでここまでやってきてしまったという次第で。それでも、花霞家と縁を結んでくださった土地の神々や主たちが、可能な限り食い止めてくださったので、数はいくらか少なくなったとか」
「東に比べて、西はまだまだ、纏まりがねェな。んで、どういう奴だ、そいつは」
「それが、大将はすさまじく大きな奴で、通った後はぺんぺん草も生えない有様だとか。犬のような姿で毛むくじゃら、足は熊のようであり、狂ったように空を見て笑いながら飛んできているだけで、この土地が日ノ本であるかどうかも、わかっていないかもしれぬと」
「なんやそれ、白蛇店長に聞いたことがある。渾沌、だったか。えらい大物やないか……ったく、こんなときに。母上はカナを連れてどうか奥へ。猩影は屋敷を守れ。玉章、久しぶりにオレと前衛出てもらうぞ」
「やれやれ、仕方がないねぇ ――― おや、東からも何やら、大きな気配が来たんじゃないかい?」

 武器を手に、妖姿へ変じた花霞一家の者どもが、屋根から西へ向かって今まさに、風に乗ろうとしたところ。
 だと言うのに、今度は背後から、すさまじく巨大な妖気がせまってくる。
 こちらは、西のものに比べてさらに勢いがあり、伏目の妖怪たちは震え上がった。
 その妖気はまた、白雲をもくもくとさせ、こちらはまだ冬には早いというのに北風まで従えているのだった。

 しかし、その中で、花霞一家御大将、花霞リクオは冷静だった。





「 ――― なんや、嬉しいような懐かしいような安心するような……ウザイような、そんな、つい最近感じたような、身に覚えのある妖気やな……」





 屋根の上から見ていると、西から沸き起こった黒雲が瞬く間に空を覆い、おおんおおんと調子っぱずれの歌のような雷鳴が轟くや、どしゃぶりの雨が叩きつけるように降ってきた。
 これに、東から沸き起こった雲は、対抗するように ――― いいや、目の前に黒雲があったことなど全く気づいていないかのように沸き起こった。
 よく見れば、雲は船の形をしていた。

 巨大な船は、箒星のような速度で黒雲に衝突。
 あわれ、黒雲は弾かれて遥か彼方へ吹き飛ばされ、来たときと同じように唐突に、その一つの存在だけで軽く長編語れるようなラスボス級の大将格は、くるくると円を描きながら ――― お星様になった。





 だというのに白雲に乗った船は止まらず、減速もせぬまま急激にUターンして、こちらへ向かって来るではないか。





「………渾沌と言えば、結構名のある大陸の妖怪なんだけどね。パパが言ってた」
「………轢いたことにも気付いてないやろな、あの調子じゃ。あかん、四神がビビっとる」
「………どんだけ規格外なのよ、お前の親父さん」





 大将、副将、合わせて三人、軒下から空を見上げて呆然としていたが、





「り、リクオオオォオオォォッッッッ!!!!リっくーーーん!!!!!パパ、パパ、来ちゃったーーーーーーッッッ!!!!孫が、できたと、聞いてーーーーー!!!!!」





 船から京都全域に轟いた叫び声に、リクオの米神に、青筋が浮かんだ。

 凛々しい明王姿のまま、振り返って衣吹を見やる。





「母上、此度の敵は、この鶯丸では手に余る相手のようです。その十尾のハリセン、是非リクオにお貸し与えくださいませんか」





 その後、伏目の夜空に、全ての手にハリセンを携えた千手阿修羅が現れたとか、どうとか。





















安倍晴明から受け継ぎし 陰陽和合 光と闇が入り混じる桃源郷
夢に描き始めた花霞リクオ 十五の秋

妖の妻を娶り 一子をもうけ
富士山麓の女怪たちから主の座を明け渡され
ついでに大陸から襲来した渾沌という大妖を退けて

一家を率いて京都守護職を名乗り
東の奴良組に対して 西の花霞と
うたわれるようになったのは この頃からという話

花霞リクオの嫁取り騒動



まずはここまで















...三千世界の鴉を殺せ...

<伏目明王家出編・了>