「若菜、お願いだから、こんな女中部屋、もう使わないでくれ」

 リクオが生まれて、若菜が産屋に居た間に、二代目はわざわざ、若菜が使っていた四畳半から、陽当たりと風通りの良い座敷へ荷物を移したというのに、若菜は出産後三日もすると起き上がり、元の四畳半に戻って、移した荷物もすっかり自分で元に戻してしまった。
 元々少ない荷物であったし、布団と鏡台くらいしか部屋には無かったが、自分一人で荷を移そうとするのが見ていられなく、やむなく彼女を手伝った小物たちを、どうして二代目が叱れたろうか。
 一月は体を横たえていてほしいというのに、すぐにでも賄いに立とうとしたときには流石に、二代目は声を荒げて彼女を叱りつけ、引きずるようにして、彼女を部屋に連れ帰り、元の彼女の部屋に自ら布団を敷いて、無理矢理寝かせたほどだ。

「でも、この部屋、落ち着くのよ。納豆さんや豆腐さんが遊びに来てくれるし、たまに一緒に寝てくれるし」
「あいつ等………」
「怒らないで、鯉伴さん。私、賑やかな方がうれしいの。それに、ここなら賄いに近いから、仕事もしやすいし、部屋が狭い方が掃除もしやすいし」
「だからね、お前は賄いなんてしなくていいんだったら」
「だって、居候だもん」
「お前はおれのにょうぼ……」

 ペチン。

「そんな事、言っちゃダメ。約束でしょ?」
「……んなもん、ハラませたモン勝ちだと思ってたよ。なんだよー。納豆や豆腐はよくって、おれぁ一緒に寝ちゃいけねーのかよー」
「一緒に寝たくなったら、呼んでくれれば、私、鯉伴さんのところに行くわ」
「……それってやることやったら帰りますパターンじゃん。そういうのじゃなくてぇ」

 このように何度と繰り返された問答に決着がついたのは、ひょんなことからだった。

 若菜の賄いの仕事が終わった頃、いつものように、リクオを連れて若菜の部屋を訪れた二代目が去り難そうにしていると、二代目の腕の中からよちよちと這い出たリクオが、若菜に抱きつき、離れなかったのだ。
 まだ言葉も覚えていないのに、しっかり母親の顔は覚えていて、離れようとしないリクオに、若菜は弱り、二代目は「そうか、おれたちがここに残るって手があったなあ、リクオ。でかしたぞ!」と大いに喜んで、さっそく狭い四畳半に己の布団を運ぶと、その日から、若菜の部屋に居座ってしまった。

 若菜は最初こそ驚き、二代目を部屋に帰そうとしたものの、ぬらりくらりといつもの調子ではぐらかされた上、そのうち、リクオが一枚の布団を使って眠るようになると、流石に部屋が手狭になり、いつしか隣の六畳間と繋げて、三人で暮らすようになった。



 外堀をしっかり埋めたつもりで、二代目はそろそろ祝言でもなどと言いかけたが、それでも、首を縦に振る女ではなかった。
 いつもにこやかに笑んでいる、朗らかな娘なのに、芯の強いところがあって、頑として、己を二代目の妻と呼ぶことを、誰にも許さなかった。

 二代目に近づく女があれば、屋敷を訪れる貸元どもはたいてい、二代目の妻の座を狙っているのだろう、地位と富が目当てであろうと、妬む己のあさましさを棚に上げ、裏でこそこそ噂話のネタにすると言うのに、彼女については、子が生まれた後でも女房面をせず、女中として賄いにも立てば水場の掃除もしているし、生んだ息子が庶子ながらひとまず若君として育てられるようになってからも、不用意に母親面をせず、大幹部の前では息子にも母とは呼ばせないよう躾ているとは、なかなか分をわきまえた妾ではないかと、感心する声が高くなったばかり。
 そうしてその後、皆はこのように続けるのだ。
 これなら、いつ山吹乙女さまがお戻りになっても、いや、お戻りにならなかったとしても、あとは二代目がここぞというところの女を妻にさえすれば、何の問題も無かろう、と。
 その言葉がどれだけ、彼等が敬愛する二代目を、またできた女だと誉めているその相手自身も、それに、去っていった山吹乙女をも、傷つけているか、考えもせずに。

 一言、うんと言ってくれれば済む話なのに、それどころか、貸元衆の前では我が子に己を母と呼ぶことさえ許さないのは、やりすぎではないのか。
 やんわり言ってみても、けど、けじめは必要ですからと、やはり頑としてきかない。

 祝言をあげる以上のけじめは、無いはずなのに ――― 。
 思いかけて二代目は、引き留めるばかりで離縁するとさえ言ってやれなかった前妻との板挟みになり、それ以上の言葉が無い。
 前妻の思い出などは、全て捨て去ってくれと言うような女相手にならば、こんなに必死になったかどうか、わからない。前妻を重んじてくれるのは嬉しく、失ったときの己を思いやってくれるのはさらにありがたく、けれど、二代目とその息子として紋付き袴姿で屋敷を出入りするときに、賄いの女怪たちに混じって、若菜が自分とリクオに深く礼をしているのも、それに気づかぬはずもあるまいに、必死でそちらを見ないようにしている幼い息子の姿も、胸を痛くさせた。
 なるほど、山吹乙女の場所は守られていた。
 その代わりに、守られなければならないものが、蔑ろにされながら。



「そんじゃあこれは、おれのケジメのつもりだから、この指輪だけ、どうかもらっちゃくれないか」

 最近になって、西洋の風習が日ノ本にも根付き、夫婦が指輪を交換するのが当たり前になった。
 そういうわけで、二代目は久方ぶりにふらりと姿を消し、帰ってきたときには、若菜がふらふらと出歩いた二代目を箒で追いかけぶったたき、屋敷の皆にどれだけ心配をかけたことかと叱ったが、その後で、二代目は懐から小さな箱を取り出して、彼女に捧げた。

 人の世で暮らしたことのない若菜だったので、指輪を見て小首をかしげ、二代目は得意になって、西洋の指輪交換の風習についてを話した。
 若菜の性格では、奴良組の金を使ったところで、指輪を受け取るはずもない。
 姿を消していた間、二代目は身一つで指輪の金を稼いできたのだった。
 若菜の幼い頬が、ぽっと桜色に染まったのを見たとき、二代目はこんなにも嬉しいことがあるだろうかと胸が熱くもなったし、またすぐに若菜が己の歓喜に気づいて我に返り、今までみたことが無いほどに、悲しげに眉を寄せてうつむいてしまったのを見ては、きっと山吹乙女に後ろめたさを感じるほどに今、彼女は女として喜んでくれたのだろうと思えて、細い体を抱き寄せて安堵もした。
 迷うことなく、己は人でも妖でもないと言い放った娘が、人並みに家族の情を覚えてくれたのだ、三人で川の字になって眠り、互いの寝息を聞いてほっとすることを覚えてくれたのだ、きっときっと、いつか人として当たり前のものとして、己の気持ちを受け取ってくれるはずだと。
 百歩譲って、己で己を後妻と呼ぶのは、良くは無いが仕方ない。
 けれど妾である、生まれた子とすら身分が違うと言い張るのは、我慢がならなかったからだ。

 たしかに、二代目の考えている通りだった。
 若菜は屋敷に来た当初より、複雑な感情を覚えるようになった。
 人として当たり前の感情があっては贄にふさわしからぬと、幼い頃から削ぎ落とされてきたものが、二代目からは溢れんばかりに思いやられ、リクオからは他に比べようもない信頼を寄せられ、人として、女として、母としての、情が生まれた。
 神ならば、贄たるにふさわしからぬ堕落と鼻で笑ったことであろう、けれども、二代目にとっては、あと一息で己の腕の中に、愛しい女を捕まえられるかどうかという、瀬戸際だった。

 もっとも、何年も待ったのだ、答えを急ぐつもりもなく、指輪を薬指にはめてやっても戸惑うばかりで答えのない若菜を、咎めるなどとんでもないことだ。
 けれど若菜は、己の薬指にはめられたダイヤの指輪を、悲しそうに見つめて、自らはずし、ごめんなさいと顔を伏せた。

「ごめんなさい、鯉伴さん。私、受け取れない。私、鯉伴さんに、なにもお返しできないもの」
「何を言ってんだい。お前がいてくれる、それだけで、おれがどれだけ慰められたか。リクオを産んでくれた、それがどんだけの大仕事だったか」
「鯉伴さんは、この大きなお屋敷の主さまで、関東の総大将さんなんでしょう?奥方にするなら、もっとふさわしい女のひとがいいって」
「誰が言った、そんな事。どこでンな知恵つけた、若菜」
「一ツ目入道さんが」
「ほおぉ、一ツ目の小父貴かぁ。そうかぁ。それで、若菜ちゃんは何て言ったのかなーあ?」
「私もそう思いますって」
「ふうぅーん、二人で仲良くそんな話してたんだーぁ」

 一ツ目入道に悪意も害意もないのは、二代目にもすぐにわかった。
 わかったが、後で寝込みを襲って瞼にたっぷりハッカクリームでも塗ってやろうと、即座に決めた。
 誰相手にも、文句を言うならはっきりと真っ正面から啖呵を切るのが好きな男だから、若菜相手にも黙ってはおれず、二代目にまとわりついているだけの娘であれば、ちょいと脅してやろうかと思ったまでであろう。
 後々、一ツ目入道の方から二代目に直に申し開きがあり、若君を産ませた娘を妾でなく妻にしようと言うのなら、一度己の養女としてはどうか、と持ちかけたが、しかしそれを最初に言えばいいものを、「若君を産んだだけで、二代目の女を気取られては困る。生半可な覚悟で奴良組の姐御がつとまるとお思いなさんな」などと口にしたものだから、若菜の気持ちはさらにかたまってしまっていた。

「私は、鯉伴さんのそばに、いられるだけでいいの」

 明るく朗らかに笑う娘が、苦しげに微笑むようになったのを、なんと言い表せば良いのやら。
 うれしいのか。せつないのか。
 その微笑みを、二代目はいとしく、いとしく、後々も、思い出す。

 きっとこの娘は、もうすぐ人になる。
 もうすぐ、もうすぐ、一年か十年か、それとももう少しかかるのかわからないけれど、きっと百年もしないうちに。

 二代目は、指輪を握る若菜の手を、両手でそっと握り返した。

「そんなら、こういうのはどうだ。
 リクオがこのままでかくなって、立派な三代目になったなら、いよいよおれも用無しだ。こんな家に生まれて、ヤクザもん以外の生き方なんざこれまで考えてもこなかったけど、そうなったときは、おれカタギになって働くからさ、そうなったら一緒になろうぜ。
 一緒にこの屋敷なんて出て行って、だぁれもおれたちの事知らない土地に行ってさ、一緒に、暮らそう。
 いや、そんときにリクオが来たいって言うんなら、連れてきたっていいだろう?立派な三代目になった後、ちゃんとした大人の男になった後、てめぇでそう決めたんなら、後はおれたちがどうこう言うことじゃねぇや。家族三人で暮らせるんなら、それが一番いい!その後の家なんざ、継ぎたい奴が継ぐだろうさ。ここまで背負ってきたんだ、そうなった後のことまで、知ったこっちゃねぇっての。
 そん時、お前がしわくちゃのばーさんになってたって、構いやしねぇの。おれはね、ただ、そうなったときに、お前と一緒に居たいんだ。
 リクオの母親だから言ってるんじゃない。
 おまえが、おれが一緒にいたい女だから、言ってるんだ。
 その指輪は、それまでお前が仕舞っておいてくれよ。な?」

 出会った当初なら、きっと即座に首を横に振っていたであろうに、若菜は、迷い迷った末、指輪を握りしめたまま、こくりと、小さく頷いた。

 他にも様々、買い与えたものがあった。
 魔の者が寄ってくる娘だったので、魔除けの念珠を与えたり、およそ自分から何かをねだる女ではないので、何かあるたびに、着ないとわかっていても使わないと知っていても着物や化粧道具、部屋のものなども買い与えた。

 結局、彼女は着の身着のまま京都へ逃れたので、粗末な着物一枚と、天珠をあしらった念珠、赤い紐に通して胸元に隠した、あの指輪だけが、奴良屋敷から持ち出された。

 そのため、形見の品とされたものは少なく、その中に、指輪は見あたらなかった。



















...三千世界の鴉を殺せ...




















 祝え、祝え、我等の主の婚礼の時。
 歌え、歌え、今日言祝がずにいつ言祝ぐ。
 飲め、騒げ、雲など寄せるな、風など蹴散らせ。

 見上げれば抜けるような青空、どこを見ても雲一つ無く、風もない。
 雲も風もどちらも、伏目の護法たちが空に居て、少しでも京の空に雲や風ややじうま気取りの小精霊たちが足を踏み入れようものなら、ちょいちょいと捕まえて、本日この日は、我等が主、京都守護職花霞が、富士山麓の姫さまをお迎えいたす日なれば、どうか今日ばかりは融通をきかせてはいただけませぬかと、お願いして避けていただいているのだった。
 災害以来、まだ人の半分も戻ってきていない京の都は、人の暮らしは黄昏刻までにたいがい終わる。
 加えて、観光客の足も無いものだから、招待客たちは、黄昏の長い影に紛れて、ゆうゆうと下僕たちを連れ、伏目に入ることができた。

 外で遊んでいた子供等がうっかり転がした手鞠が、四辻にころころと来たのを、通りがかった三つ首ドクロが拾い、手渡したり。
 すっかり乾いた洗濯ものを取り込もうとした女が、ちょっと目を離した隙に、道に迷った水蛇がきょろきょろしながら物干し竿に尻尾をひっかけてしまったので、女が戻ってきたときには、洗濯ものだけがまたびっしょりと濡れていたり。
 不思議なことも続いたが、人の中でも知っている者は知っている。

「ああ、そう言えば、今日は伏目明王さんの結婚式やったっけ」
「きっとあっちこっちから、神さん仏さん名無しさんが集まりはってるんやろうなぁ」

 現代にあって新しき明王は、元々ここ数年前から人の口にのぼるようになっていたが、京都災害において逃げ遅れた人々にとっては真実そこにおわす御方として、すでに都市伝説を越え息づいていた。
 家内安全はもちろん悪霊退散に加えて最近は恋愛成就まで、幅広く願いを聞き届ける御方が、奥方を娶られるという話は、どこから広まったものか、日々の暮らしを営む者たちには周知の事実のようなもの。
 きっとこれから避難していた人々が戻ってきてその話を聞いたなら、馬鹿げた話だ集団妄想だと気にもしないに違いないが、京の地を去らずに今も暮らし続ける人々にとっては、人の少なくなった京都で、黄昏になれば風が通り抜けるだけの小道で笑う声の主は、子供等ではなく京都で愉快に暮らす、伏目の護法たちなのである。

 こうした人たちが、大安吉日の夕暮れ過ぎから、伏目明王の婚礼にあやかって、桜の枝に造りものの花びらをつけたのを、神棚や仏壇に備えてみたり、商店街では旗を用意して、御輿を出さぬまでも近所で寄り集まり酒を飲む言い訳にしてみたり、観光客の訪れぬ、あずましい京の夜を楽しんでいる頃。

 伏目稲荷の中腹から少し外れた、伏目屋敷では、招待客たちがいよいよ集い、皆が見守る中、新郎新婦は三三九度の誓いの盃を済ませて、それぞれから言祝ぎを受けている真っ最中だった。
 婚礼に招待されたことで、初めて花霞一家の御大将と顔を合わせた者たちは、目にした御大将の姿がまるで人の子、それも女童と見間違えでもしそうな華奢な男児であることにまず驚き、これに視線で撫でられると、なんとも心地よいのに二度驚き、次に、黄昏刻が過ぎて御大将がしろがねの明王姿に変じて見せれば驚き、もう驚くこともなかろうと思っているところへ、白無垢に身を包んだ花嫁の美しさと、雪女と聞いていたところに天女がやってきたことにまた驚きして、飽きるということがない。
 式が終わり宴になった後も、庭の枝垂れ桜の下に二人が立って写真におさめているのを、飽きず眺めて酒を飲み、誰もがすっかり上機嫌だった。

 魔京抗争で、新郎新婦が助けた子供等が、伏目稲荷を通して、桜に象った色付きの氷をいくつもおさめてくれたので、宴の最後は屋根の上から伏目の小物たちがこれを舞わせると、望月に秋の紅葉をのぞむ庭先に、氷ついた桜までがはらはらと散り、まこと、御大将の婚礼にふさわしい。
 この中で、互いを慈しみあいながら見つめ合う、二人が幸せそうに笑うと、招待客も酒の勢いを借り盛り上がって、この夜のうちに、人どもの目に花嫁行列を見せてやってはどうやろうかなどと騒ぎ始めた。
 この日ばかりは、先頭に誰が立つも何も、新郎新婦に決まっている話。
 いつもなら、お前より己の方が先頭に立つにふさわしいわいと喧嘩を始める者どもが、なるほど良い良い、ここ数百年、このような婚礼も無かったことだし、花霞大将よ、先頭を行かれてはどうか、人どももそこらの辻で、祝いをしておったようだぞなどと焚きつける。

 常なら、いや、自分は若輩なのでと遠慮を見せる御大将だったろうが、

「………氷麗」
「はい」
「体は、平気か?無理をしてはいないか」
「大丈夫、お供いたします」

 一呼吸考えてから、己の妻と二言三言かわすと、彼女を両手に抱え上げたものだ。

 おお、と誰もがどよめき、笑って、若い主の後ろへ続かんと、宴席の奥でまだ酒を煽っていただいだらぼっちまでが立ち上がり、ついでに天井を頭で突き破って、仔狸や仔猿たちがぱらぱらと屋根から落ちた。

「花霞よ、京の主よ。我等、お主に従って後ろを行くのだぞ。何か一声申せ」
「そうじゃそうじゃ。先頭を行く者の、かけ声なければ始まらんけんのう」
「これも縁や、俺は、こやつらのようにケチケチしたことは言わん。若いながらも音に聞く見事な大将ぶり、今日目にした美丈夫ぶり、かわせてもらいまひょ。今日だけなんぞとケチくさいこと、俺は言わへんで。この先、一声かけてもらえば、この俺も、俺が率いる男衆も、なんなら御輿も担いで馳せ参じる。約束するわ」
「何を偉そうに、貴様等など、何人束にかかってきたところで、蟻の軍隊のようなものではないか、一寸。抜け駆けなんぞさせはせんぞ。花霞、ワシも約束しよう。貴様になら命の二つや三つ、預けても良さそうじゃ」
「何を、妾もじゃ」
「俺も、俺もじゃ」

 御大将の周囲に集ったのは、護法たちばかりではない。
 招待客たちは次々に、伏目明王の周囲に我も我もと集い寄って、これにいちいち、花霞大将は礼を言って頭を下げ、そんなら宴の後でしっかり腰据えて話そうかと言うので、すっかり気をよくしてしまった。
 元々、京都と三国同盟を結んでいた、安芸は宮島の姫巫女などは、この渦中にあって、己を忘れられてしまうのではないかと不安を覚えた。結った長い黒髪を鈴で飾った姫巫女は、歴史こそ古く今も人に忘れられてはいないために姿を保っていられるが、元々荒ぶるものではない。瀬戸内の潮の満ち引きが示すように、ゆるゆるとしたさざなみがごときもの。戦いに向いた者ではないので、つい数年前には四国から押し寄せた軍勢を押し返す力もなく、花霞大将の方から膝をつき加勢を申し出てくれたから良いものの、そうでなければ四国の《畏》に飲み込まれていたことだろう。
 それでも、若輩の前に進み出て頭を下げるなど、性格からも彼女は決して言えない。
 気のないそぶりで、花霞大将を囲む輪の外から、ちらりちらりと視線をやるしかなく、内心悲しんでいたのだが、すぐに花霞大将が、「それでよろしいだろうか、姫巫女殿」と声をかけたので、忘れられていないと嬉しくなったのを隠して、幼い顔立ちでせいぜい偉そうにフムと頷き、招待客たちが、「流石は宮島の姫巫女殿、我等より先に花霞の力をお認めになっておられたとは、清盛を見出した予見の力は衰えておられぬ」などとほめそやすと、気を良くして、

「全ては、この姫巫女の予見通り。我々は今まで、東に昇ったままの陽を、ずいぶん遠きものであるよと見上げてばかりいたものだが、これこのような近くに、昼は太陽、夜は月、かくも立派な大将がおられるとは、嬉しきものであろう」

 などと、扇に口元を隠して、ころころと笑い、京の主を西の主と思うような、思わせぶりな事を言う。
 任せるにはまだ早かろうと思う者もあったが、この日ばかりは宴の席。思っても口に出す者はなく、やんやと騒いで今にも屋敷から飛び出しそうであった。

「お客人方、姫巫女に煽てられた新郎に、今日ばかりは花を持たせてくださる御厚情、ありがたくお受け取りいたしますゆえ。
 ………なれば、用意はいいか、おめェ等!」

 おぉ!と、伏目の護法等もまろびでて、客人も交えて拳を突き上げ声をあげる。

「花嫁行列のかわりの百鬼夜行や!俺と氷麗の背に、ついてこい!」

 花嫁がふうと吐いた氷の息吹を足がかりに、新郎がたちまち舞い上がり、桜色の霞を足下にまとわせ街を眼下に百鬼が往く。
 者どもが続く。
 まずは副将二人が続き、宮島の姫巫女が続き、招待客等が徳利や盃を持ったまま続き、やれ賑々しきことと笑いながら、十二単の裾を持ち上げ、衣吹が続く。
 最後に続いたのは、初代ぬらりひょん、その人だった。
 すっかり老いた爺の姿で、三本足の大烏と寄り添った初代は、目が疲れたふりで隠しながらそっと目尻に滲むものを拭い、寄り添う妻と、そっと語らった。

「覚えておるか、お珱。ワシ等の祝言のときもこうやって、者どもを率いて百鬼夜行をしたのぅ」
「ええ、覚えておりますよ、お前さま。江戸の空をこうやって、巡ったものでした」

 光の少ない京の空に舞い上がる、不可思議な者どもを、あちらこちらで祭をだしに飲み交わしていた人どもも、たまさかうっすらと目にとめて、もしや伏目明王さまの、お披露目であろうかと冗談のつもりで口に出し、これをまた理由に使って杯を重ねたところで、そこに飾ってあった桜の枝から、ぽろぽろと造りものの花が落ち、かわりに次々と、秋だというのに、手折った木だと言うのに、たちまち新芽が吹いて次ぎには目の前でふんわりと、桜の花を咲かせたものだから、あんぐりと口を開いてこの行列を見送った。
 壷庭の手水鉢に居た金魚も、妖の気に触れて、うっかり空を泳ぐ。
 賑わう商店街のあちこちに、不意に甘い春の香りがしたと思えば、どこからか桜吹雪が舞い落ちる。
 どこから来たかと花びらを追えば、風もないのに、すいと花びらは空を泳いで、その先に霞む雲に追いつく。
 目をこらすと、霞の中にはなにやら大勢がひしめいているようである。
 神か妖か、いずれにしろ、人でないものが空を駆けるその様子、百鬼夜行と言わずに何という。
 起こる怪異は、おもいがけないところから、おもいがけず嬉しい幻を見るようなもの。

 これでどうして、陰陽師たちが動いたろうか。
 なにせ、封印鎮護の陰陽師たちは、皆一様に動く様子を見せず、むしろこの霞が順番に己等のところへ赴いて花びらを散らしていくのを、楽しみにしている様子さえ見せるのだ、ついにリクオの義兄たちに首根っこを押さえられた分家衆など、おしてしるべし、である。
 花開院本家二十七代目当主さえ、この日は明かりをおさえ、供もつけずに本堂の外へ出ると、眩しいものを見るような目で、頷きながら、霞の軌跡をたどるのだ。

 賑やかに、華やかに、京の主と富士山麓の姫御前の婚礼は、執り行われた。



+++



「すっかり、立派な御大将じゃねぇか」

 霞の尻尾を見送って、明るい声をあげたはずが、賑々しさが去った後の座敷には、どこかしんみりと響く。
 一団が去った後に残っていたのは、関東からの客人達。
 他でもない、声の主は奴良組二代目。
 側に残っているのは、率いる妖怪たちだ。

「良いんですか、二代目。本当はついて行きたかったんでしょうに」

 己こそ残念そうに口にした首無が振り返るとそこには、

「え、何?なんか言った?」

 手酌で注いだ酒をすする、彼の主の姿があった。

「てめェはホントに、空気ってもんがわかってねぇよな」
「あはははは、首無、そんなに締めたら流石に痛いぞぉう、こいつめぇ」
「首にてるてる坊主みてぇなシワ寄せて強がってんじゃねぇ!このまんま逆さ吊りにして、ずうぼるてるてにしてやろうかてめーはッ!」
「こんなめでたい日までカリカリすんなってばー。いいんだよ、おれたちは見送りと留守番で」
「なんだ、聞いてんじゃないですか」

 宴会の席に残っているのは、奴良組の中でも二代目の周囲をかためる側近たち、それに他でもない、二代目その人だ。
 すっかり寂しくなってしまった座敷で、皆が揃って紋付き袴姿。

 宴が始まったばかりの頃は、関東の妖怪任侠たちがそこに姿を現しただけで、京妖怪たちも、西日本の妖怪たちも、威圧された様子で物々しい姿を見つめていたものだが、改まった挨拶以後は、二代目と花霞大将が実に親しげに言葉を交わしているし、二代目の方も機嫌良さそうに周囲の客達に笑みを見せるので、すっかり打ち解けていた。
 だから、せっかくの花嫁行列、新郎のお父上も行かれてはと気を使ってくれる者もあったので、取り残されてしまったわけではない。
 彼等は、二代目の一存で、ここに残ったのだ。

 まだ名残惜しそうに、縁側から空を見つめる首無を、二代目の側に円座になり、己の膳だか他人の膳だかわからぬものまで摘み、飲みながら、

「おおい首無よ、お預けをくらった犬コロのような顔をしてないで、こっちへ来たらどうだ。いくら下戸とは言え、今日くらい飲め」

 青田坊がガハハと笑って呼び寄せる。
 声が大きい男なので、寂しくなった座敷では、彼の存在はありがたかった。
 青田坊がちょいと退けたところに入った首無と、反対の毛倡妓とで、二代目を挟んで座るのは、ここ数百年変わらぬ席順だ。もちろん、出入りのときも同様である。
 普段は二代目を思いやってか、あまりリクオのことを口に出さぬ毛倡妓までも、首無につられたか、それとも式と宴の間に見せつけられた大将ぶりに、若様がすっかり手を離れてしまったのを寂しく思ったか、ふうと酒気を帯びた息を吐く。

「この席順、リクオさまが浮世絵町でお育ちだったら、ちょっとは変わったんですかね」
「そうかもなァ。あいつはちっこい頃、雪女と青田坊が遊び相手でもお気に入りだったし、どこに連れていくにも一緒だった。毛倡妓と首無のこたぁ、おれのお気に入りだって、ちゃあんとわかってやがったから」
「賢い御子でありんしたからねぇ。奴良屋敷にいらしたときだって、時々、子供だってことを忘れるくらい、どきっとさせられるような事をお言いでしたもの。子供なんですから、誉められたりちやほやされたらそこで舞い上がるもんでしょうに、一瞬、じっと考えるような様子をされたもんです。それから一言、ありがとうって」
「そうだなあ、若菜がそう育てちまったからなあー。あいつ、聞き分けねェんだもん。でも、それだってもうちょっと、口説く時間あったならなー」

 二代目がふと庭に視線を泳がせば、軒下に吊り下げられた行灯の明かりに、枝垂桜の葉がやわらかく照り返っている。
 言葉は軽く、声色も明るいが、側近たちが軽くとらえていないのは、リクオが東京から京都へ帰ってしまって以来、糸が切れた操り人形のように、ぱたりと動かなくなってしまった彼を知っているためだ。

 この十年、二代目には確たる目的があった。
 やらなければならぬと、奮い立つ目標があった。
 生き分かれた妻と息子を、何としても取り戻すという、怨念じみた執着があった。
 魔京抗争が終わってからも、今度はリクオを関東へ招くための地均しをするのだと意気込みがあったし、終われば終わったで、十年ぶりに我が子が屋敷に帰ってきた喜びがあった。
 それが、今は無い。

 泥だらけになって妻子を捜し求めたはもう、今は昔のこと。
 愛しい女房を取り戻すためならば、雨に濡れ泥にもまみれてもなにくそと歯を食いしばったし、可愛い息子のためならば、どれだけ格下の相手にも、膝をついて額をこすりつけもしたが、いざ終えてみれば、それ以上できることは無い。
 オニバンバ騒動に一応の収拾がついた後、リクオが帰ってしまってからは、女を抱く気にもならず、酒を飲む気にもならず、それどころか何かを食う気にもならず、妻が居た四畳半でひがな一日、空を見て過ごしているばかり。

 御母堂は残念であったが、せめて若様が無事に見つかって良かった、父と子が遠慮なく語らえるようになって良かったと喜んでいたのは己等ばかりで、二代目は今の結果をまるで喜んでいないのだと、側近達はいよいよ、思い知らされた。

 こういうとき、彼等は、いつもは忘れがちな一つの事実を思いやる。
 彼等と、彼等の主の決定的な違いだ。

 彼等の主は、妖怪たちを統べる主でありながら、とてつもなく、人間であるということ。
 これぞ最後と決めた女に去られたそのときに、妖怪であれば、なに、たかが四百年で唯一無二もあるまいと、あっけらかんとして前を向くものが、人間にとっては四百年とはずいぶん長い道のりであるので、ここから先、そんな女に巡り会えるとも思えず、また巡り会いたいとも思わず、むしろあの女以外には会いたくないとさえ思う始末でおられるのだろうと、察しはついた。
 雪羅御前が本家を訪れてくださらなければ、二代目ときたら、飲まず食わずのまま、干からびて消えてしまっていたのではなかろうか。

 今だって、盃に満たされた酒に、何も映らぬ水面の上に、何を見つけたか、ふと苦く笑った。

「若菜が今ここにいてくれたら、アイツ、今度こそ祝言あげる気になってくれたかなあ」

 結局、それこそ全ての元凶だった。
 薄々気がついてはいたが、いや、常に思い知らされ続けながらぬらりくらりとかわしていたのに、妻としたかった娘に妾のまま死に別れられては、ただ一人の嫡男のつもりでも、相手はすっかり庶子気取りだ。



+++



 祝言から時を少し遡り、十尾のハリセンをもってリクオが奴良組二代目を追い返した後の、ある日の午後。
 不意に初代が、こんな事を言った。

「のうリクオ、お前はしっかりした賢い子じゃからのう、あの馬鹿の相手をするだけで疲れるのかもしらんが、それでも鯉伴はお前の父じゃ。仲良うせい、仲良う」
「どうしたの、おじいちゃんまで。ボク、二代目のこと……お父さんのこと、嫌いになったことなんて無いよ。そりゃ、あんまり大げさな事をされると、困ることはあるけど」
「逆じゃ。嫌いになるときがあっていいんじゃよ。喧嘩をするときがあってもいい。じゃが、そういう気持ちを、はっきり伝えておやり。そうじゃなけりゃあ、あいつだって、なぁんでお前がてめぇを遠ざけようとするか、わからずじまいじゃろう」
「遠ざけようとなんて、そんな」
「してないと言うか?」
「うん、してない」
「もし本当にそうなら、あいつだってあんな風に、大げさに乗り込んで来ようとは、思わんかったんじゃねぇか?」

 初代が伏目におわすようになってからというもの、リクオは眠るとき以外は、ヤタガラスをその護衛という名目で喚びだしたままでいた。
 ヤタガラスの方でも、うれしそうに初代の側近くに侍っており、リクオが初代の部屋を訪ねてきたり、逆に初代がリクオと午後の茶の時間をともにしようと誘いをかけてくるときにも必ず供にあったが、この話を初代が始めたとき、側には彼女の姿がなく、雪女も少し午睡いたしますと部屋に下がっていた。
 誰もが気を使ったのは明白。リクオが気づかぬはずもない。
 縁側に座って二人、真夏の午後の日差しから避けるように縁側の陰りに並んで座り、氷菓子をしゃくしゃくやりながらの、暢気なお喋りであったが、結納すると二代目に話さず出立した一件について、衣吹からも一言あったことだし、リクオは自分では良いと思うことでも、周囲から見れば危なっかしいのだろうと感づいて、答えた後に、少し気落ちした様子を見せた。

「………やっぱりボク、やり過ぎたかなあ?夜のボクって、ちょっと短気みたいなんだ。あんな風に大きな音立てて、雲と雷連れてやってきちゃうもんだから、つい」
「いや、あれはあれでいい。何もな、お前を責めておるのではないんじゃ、そうしょげんでおくれ」

 かつて従えた百鬼のよしみで幹部相手はもちろんのこと、時には、己が開いた奴良組を二倍とも三倍とも言われるほど大きくした二代目相手にすら、老いて尚余りある気迫で一喝し黙らせることもある初代は、リクオ相手にはひたすら甘い。伏目屋敷においてリクオに甘くない妖怪など居ないのだが、それに輪をかけて甘い。
 この時も、妻の若き頃の面影が宿る愛孫に、ちょっとでもしょぼくれた顔をさせたのを早速後悔されたほどで、空になった器を脇に置くと、リクオの頭を撫でながら、話を続けようかどうか迷った様子すらある。

 結局、外庭の池に小鳥が戯れているのを眺めやるふりをして逡巡した後、初代は続けた。

「ワシが言っておるのはな、その前のことよ。なんでもお前、百年後には自分のことなど忘れるだろうと、そう言ったらしいな?そういう気持ちがあるなら、そういうことを、なんで素直に言ってやらねえ。浮世絵町じゃあ、ずいぶん仲良く遊んでいるように見えたし、ついこの前だって、ハリセンであいつを追い回してるお前は楽しそうじゃったがのう」
「うん。お父さんと遊ぶのは、楽しいよ。忘れられてなかったと思うと、嬉しいし………」

 でも、と、リクオは続けた。
 以前なら、初代が己等父子になにかしら不安を覚えたのなら、それについて申し訳ないと詫びた上で、己の落ち度として飲み込み、京都に戻ってきてからどことなく漂う二代目への遠慮がちな気配を、見事に消してしまったに違いない。
 リクオ自身が感じる違和感はそのまま、父や祖父が安堵するまで、良き息子、良き孫を演じていたことだろう。
 続きがあったのは、初代が伏目にやってきて以来、まるで去る様子なく馴染んでしまわれたので、当たり前の家族として接するうち、生まれた情の分だけの、控えめながら甘えだったに違いない。

「でも、それがいつまでも続いてくれるなんて、思えないっていうか………。ごめんね、お爺ちゃん。お爺ちゃんやお父さんがボクを大切に思ってくれるのは、嬉しいんだ。お父さんがああやって会いに来てくれるのも、すごく嬉しいんだよ。
 けど、逆に自分から連絡したり、会いに行くのは、離れている間に、ボクのことを忘れてしまってるんじゃないかって、ちょっと、不安で」

 きっと以前なら口にしなかっただろう、不安の形を借りた、不信だった。
 己の中の不信の種に、気づかぬリクオではない。
 不信がどこから来るのかも、少し考えれば、すぐ思い当たり、既に答えを出していた。

「本当に、本当にごめんなさい。お爺ちゃんやお父さんが、そんな風に薄情なひとたちだって、心底から思ってるわけじゃないんだ。ただ不安なんだ。信じてるつもりでも、どうしても、不安になるんだ。
 ボクが一番信じられないのはね、きっと、ボク自身だ。だってボク、お父さんやお爺ちゃんの顔や声、よく覚えていられなかったんだもの。ひどいよね。助けてほしいって、迎えにきて欲しいって思っていながら、そのひとたちの顔も、ちゃんと覚えていられなかったなんて」
「お前はまだ四つじゃった。そんなことを気に病む必要はなかろう。それほど長いこと時間をかけちまった、そっちの方が悪いと、言ってやりゃあいい」
「………ううん、そう考えてないと、きっとボク、お父さんにもっと酷いこと言っちゃう。ボクね、お父さんのこと好きだよ。強くて、優しくて。お母さんが大好きって、もう一回会いたいって、言ってたのがよくわかるよ。だから、そんな風に酷いこと、言いたくない」
「それよ。どうしてそう遠慮をする。言ってやれ言ってやれ。全部ぶつけてやりゃあいいだろうがよ」
「だって、お父さんは、お母さんを守れなかったボクを、許してくれたのに。ただの庶子、忘れられても仕方がないボクを、ちゃんと覚えててくれたのに。抗争の中でだって、本気で斬りかかったんだから斬られても文句は言えなかったのに、ちゃんとボクだってわかってくれた。
 それなのに、このまま馴れ合ってたら、これ以上甘えさせてもらってたら、酷いこと、言っちゃいそうなんだ。与えてもらえたものをありがたいなんて思わずに、当たり前のことだなんて思ってしまったら、失くしたもののことを、取り返しのつかないことを、今更突きつけて苦しめてしまいそうなんだ」
「………お母さんのことかい」
「………ボク、お父さんを苦しめたくなんかない。ボクを覚えててくれたことを、当然だなんて、思えない。毎日の様子を訊かれれば答えるし、季節毎にご挨拶もするよ。訪ねて来てもらえれば、すごく嬉しい。お爺ちゃんが伏目に来てくれたのも、すごく、すごく嬉しかったんだよ。けど、今のお父さんには、お爺ちゃんみたいなこと、できないでしょう?昔、ボクがまだ浮世絵町に居た頃だって、そうだったんだろうって、察しもつくもの」

 庶子ならば、お前が生まれてきたのは手違いだったと言われればそこまで。
 嫡男ではないのだからと、遠ざけられれば、それまで。
 名のある家となれば、跡目争いの憂いとして数えられることはあっても、我が子として迎えられるなど、期待はできない。

 家長と庶子はそういう関係であるから、二代目とリクオの関係は、世間から見れば甚だ良好と言えたろう。横たわる父子の心の溝も、家長と庶子のそれに数えれば、さしたる問題でも無いように思えたろう。
 一切の甘えが許されない、それが当然の仲なれば。

 しかし初代にとってみれば、庶子だ嫡男だと騒いでいるのは周囲ばかり。
 元々がヤクザ者の己と、酔狂で己のもとに集った妖怪たちの寄せ集めであるのに、集った者どもが小うるさく、初代だ若様だ二代目だ奥方だのと、人どもや神々がすなるようにいちいちしきたりじみた考え物言いをするようになった方こそ、虎の威を借る狐じみてあさましい。
 馬鹿だ馬鹿だと思いつつもやはりそこは親心として、息子が孫との縁を上手く結べずにいるのを、哀れにも感じる。
 数百年の後に恵まれた愛孫が、己の生まれに苦しみ、未だに母の死を咎として背負いながら、父が己を忘れる日を待つ様子には、胸が苦しくもなる。
 リクオが己で己を庶子と貶めるのも、どうしてわざわざそのようなと眉を寄せたくなる。

 どうにかしてやりたいと願いながら、今は何もできぬと判じれば、初代がリクオにしてやれるのは、柔らかな髪を撫でてやるくらいだ。
 今ここに、あの明るい娘が居て、倅とやり直すことができたなら、と、埒もないことを思いながら。

 現実は、あの娘は冷たくなって、この伏目の裏手の墓に眠っている。
 立場が妾となれば、当人たちは良くても周囲が、彼女の亡骸を奴良家のそれへ移すことさえ、良くは思うまい。

「………お母さんの菩提は、ボクが弔っていく。だからお父さんは安心して、先に進んでくれたらいい。寂しいけど、きっとそれは、正しいことだよ」

 元々が、リクオを言い負かす気など、なかった初代である。
 話を始めてから、もう何度も恐縮した様子で謝るリクオを見ている。これ以上、長引かせるつもりもなかった。
 先へ進むが正しいと知りながら、ここに留まって墓守を続ける覚悟の愛孫が、せめてもの道連れに伴侶を選んだことさえ、奇跡のようなものだから。

「お前の考えは、ようわかった。お前の良いように、望むようにするがいいじゃろう。リクオやい、元々お前が奴良組の若頭となり、三代目候補の名乗りをあげたのは、関東が乱れてこちらに飛び火するのを防ぐため。たしか、そうじゃったな。これから先、倅が正妻を迎えて、そこに孫が生まれたら、そのときはそちらが嫡男。そういう約束であったのを、ワシも憶えておるぞ」
「うん。今でも、その気持ちは変わらないよ。恨んでるわけじゃないんだ、お父さんにだってこの先、長い生を一緒に生きたいと思う伴侶が現れないとは、限らないでしょう?」
「今はそれでいい。じゃがなあ、爺の昔話だと思って聞いて欲しいんじゃがのう、リクオ。ワシは、お珱と死に別れた後から数百年、老いぼれた姿になるまで、一度たりとも、新たな妻を娶りたいと思うた事は無い。お珱と生きた輝かしい僅かな時間も、お珱を失った後の長く切ない日々も、どちらもワシにとっちゃ、いとしいものなのよ。
 言ってみりゃあ、お前の頑固はワシ譲りかもしらん。その爺が言うんじゃから、どうか一つだけ信じて欲しいんじゃが、この先、お前が言うように百年経って、お前が望むように奴良組の嫡男が生まれたとしよう。じゃがそれは、倅がでかくした奴良組でのこと。ワシにはかかわり合いの無い話。お前はこの爺の孫であることに違いない。ワシにとって、ぬらりひょんの孫はお前一人じゃ。老後の面倒見てくれと言うわけじゃねえ、ワシゃあポックリ逝くつもりじゃからなあ。ただただ、庶子だ嫡男だと、そんな後づけの話はワシにゃあ関係ねぇ、それだけ憶えておいてくれねぇかい。
 同じことを、きっと倅も思ってる。それを、たまーにでいい、思い出してやってくんねぇかい。優しいお前に、さらに無理を言うようで心苦しいが、これこの通り、頼む」
「や、やめてよ、お爺ちゃん、そんな、頭なんて下げないで」
「許してくれるかい」
「許すも何も、そんな事、気にしなくていいのに。子供の我侭って思えば、それでいいじゃない」
「ほう、なるほど、我侭を言うてくれるか。こりゃ嬉しいのう。それじゃあ是非に、その我侭、あのボンクラ倅にも言うてやってくれ。多少虐めても構わん」

 奴良本家を連れて宝船でやってきた二代目を、リクオはその場で追い返した。
 当然だ。土地神は揃って震え上がり、妖怪たちは奴良組の侵攻だと悲鳴をあげ、陰陽師たちは総員A級戦闘態勢に入りかけた。
 あれで追い返さずに迎え入れていたら、まるでリクオは極道の息子ではないか。
 折角ぬらりひょんなんだから、気がつかれぬよう入ってくればいいものを、あの男のこと、ただの考えなしなだけで鳴り物入りの出入りじみた訪問をしたわけではなく、誰にでもわかるように声を轟かせることで、リクオが己の血を引く唯一無二の息子だと、しらしめたいのだ。
 能天気の裏側で、どこか淡々と冷徹な計算をしているところがある男なので、このままではなし崩しに、奴良家の嫡男扱いされかねない。初代の言う通り、残酷に聞こえることでも、一度しっかり話してみた方が良いかと思いなおし、リクオはこくりと頷いた。

「わかった。お父さんには、祝言より一週間くらい前に、屋敷に来てもらおうと思ってる。そのときに、ちゃんと、話すよ。ボクの正直な気持ち」
「おう、やってやれ。立ち直れないくらい言ってやるがいいぞ」
 初代は、いつものように好々爺の表情でからからと笑い、扇子で己を扇いでいた。

 己の手を離れた奴良組を捨て、住み慣れた浮世絵町を離れ、こちらの規律に従って寝起きを共にしてくれているだけのことが、どれだけリクオの心を救ってくれたか、わからない。

 昔思い描いた夢を、後先考えずに口に出してしまえるだけの甘えを、リクオは初代には見せられるようになっていた。

「ボク、おじいちゃんやお父さんみたいな、魑魅魍魎の主になりたかった。なれてるかな」
「おうおう、立派なもんさ。ワシもなんだ、その護法っちゅーやつにしてもらいてぇくれぇだよ」
「あのね。今は、おじいちゃんみたいなおじいちゃんになりたいって、そう思うよ」
「ふわっはっはっは、そりゃあ、魑魅魍魎の主より難しいぞう。なにせ、ワシのような良い男になるには、素質、素養、品格、生まれながらのものはもちろん、粋と風情を解する心も必要じゃからな。さてさて、そんな良い男がこの世に二人とおるかのう。
 お、どうしたことじゃ、目の前にそうなりそうな男子がおる。珍しいことじゃなあ。なになに、ほほう、これがワシの孫か!流石じゃのうリクオぉ~、楽しみにしておるぞ」

 こんな些細な言葉からも倅の前途多難が慮られたが、リクオの頬を突っつき答えながら、おくびにも出さぬ初代は流石の貫禄であった。

 初代がリクオの遠慮を少しずつ崩してくれていたので、さらにその二ヶ月後、祝言前に伏目入りした二代目は、息子から「お話があります」と切り出されて、少し身構えたものの軽く応じ、二人は伏目屋敷の座敷に向かい合った。
 あらかじめ初代から、「リクオから文句を言われたとしても、手前の不始末を澄んだ鏡のように映してくれておるだけなんじゃから、言い返さずに拝聴するんじゃぞ」とも言い聞かされていた。
 親父から言われたことと思えば癪だが、辛い想いをさせた可愛い息子の話は、どんなことでも聞いておきたい。

夕暮れ時、まだ妖怪たちが動き出すには早い、屋敷が午睡の後の気だるい雰囲気に包まれた頃だった。

「あのね、お父さん」

 呼びかけてから、遠慮がちにきゅっと唇を引き締め、やがて思い切ったように、続ける。

「ボクはお父さんのこと好きだし、尊敬だってしてる。けど、この前の殴り込みみたいな真似、やめて下さい」
「ごめんなさい」
「反省してないでしょ」
「してる。すっげーしてるってぇ!でもパパ、リっくんに子供ができそうって聞いて!いや聞いたのが、結納の話が知らされてなかったのに落ち込んでたところだったから、もう喜びが倍倍二倍って感じで!」
「母上さまが、お知らせした方が良いっていうから、そうしたんだ」
「あ、そ、そうなんだ………」
「夏休みに約束したよね?ちゃんとお嫁さん見つけるように努力してくれるって」
「渋々ね………。パパには若菜ちゃん以上のお嫁さん、いなかったんだけどね………」
「……お母さんはもう、死んじゃってるの。もうとっくの昔に、お墓に入って、出てきてくれやしないんだよ。お父さんのお嫁さんにならないまま、死んじゃってるの。お墓、見たよね?」
「……キツ。リっくん、それキツ」
「ここは関東奴良屋敷じゃない、ボクの家だ。ボクはこの家を守る義務がある。さらにここは浮世絵町じゃない、捻眼山よりさらに西、奴良組の勢力が届かない、京の土地だ。ボクはここを守る責任がある。だから、残酷な話かもしれないけど、続けるよ。
 あんな風に大声あげて、いきなり船で乗り付けてきて、京の土地神さまも妖怪たちも、それに陰陽師たちも、びっくりしちゃってた」
「き、気をつけます。パパったらダメな子ね、あはは、本当、そういうとこ気がつかなくてさぁ。昔、お袋にゃあ、お袋の親父そっくりだってよく言われたんだよね」
「もっとも今回は、あんな大妖を退けてくれたんだし、その件はこれ以上言わないよ。感謝もしてるんだよ。本当に、ありがとうね」

 わきまえているというか、優しいというか、全くできた息子である。
 奴良屋敷で過ごした夏の間も、二代目は何度も思った。
 子供とはもう少し、馬鹿でも良いんじゃなかろうか。

 にっこりと笑った息子の笑顔に、恋女房の面影を追いながら、二代目はその後の言葉を待つ。
 恨んでくれたなら、責めてくれたならと思っても、一度口を挟めば最後、できた息子は何一つ不平不満を言ってくれなくなるに違いない。
 待っていると、やがてきりりと表情を引き締め、やはり言おうか言うまいか迷った後で、真っ直ぐに二代目の顔を見つめて、リクオは続けた。

「けど、ボクの留守中に、この屋敷に母上さまが居るって知って、母上さまにボクの結納の次第を聞いたり、泣きついたことは、許せない。母上さまに甘えるようなことは控えてもらいたいの。お父さんはそこで電話を切るべきだったと思うよ。離縁する、もう守らないと決めたひと相手に、いつまでも甘えていていいの?
 ねえお父さん、ボクは、母上さまと何がなんでもよりを戻せとは、言ってないよね。奴良組のみんなには、仲を取り持ってもらいたいとお願いしたけど、お父さんも母上さまとはよりを戻さないって言ってたし、母上さまに、その気が無いのもわかったから、それじゃあ、今度こそちゃんと、大事にできる奥さんと一緒になって、嫡男が生まれたら大事にしてあげてって、そう言いたい。ボクとの縁をつないでくれるのは嬉しいしけど、将来、生まれてくる御嫡男が、嫌な気持ちになるかもしれないことは、避けたいんだ。その子のためはもちろん、奴良家と花霞家が、良い親戚関係を続けていくためにも」
「あー………あのさぁ、リっくん、そろそろ夜なんだし、パパ、夜のリっくんとも腹割って話してみたいなァ。だめ?
 いや、今のリっくんが嫌いなんじゃないの、むしろ大好きなんだよ、かわいくって。でもなんかさ、ほら、他人行儀的なところ、あるじゃない。そりゃあこの前のことは悪かった、謝る。この通りだ。けど、そこまで頑なにされるとさぁ、パパは悲しい。嫡男だなんだのなんて、所詮極道モンの家のこと、難しく考える必要なんてこれっぽっちもねぇんだ。夜のリっくんならさぁ、それに対して、なんて答えてくれるのかなーぁ、なんて」
「夜のボクは元々肉体労働担当なの。短気だからダメ。いらないこと、言っちゃいそう」
「言ってみて、言ってみて。思ってること同じなんだから、言ってくれんなら、今のリっくんからでも、パパ大歓迎なのよ?」
「お父さんを苦しめたいわけじゃないんだよ。言えば苦しめることになるってわかってることを、言えるはずが無いじゃない」
「いいよ。それでも。言ってみ。おれは、お前が言いたいこと黙ってる方が嫌だ。ちょっとずつ言われた方が、まだ傷が浅そうだし」
「言っても、詮無いことなんだよ。仕方がないことなんだよ。どうしようもなかったって、わかってることなんだ」

 だからここで話はおしまい。
 そういう息子に食い下がり、後生だからと願ったのは、二代目の方だ。

 降りた夜の帳の中で、溜息一つつき、うっとりするようなしろがねの妖姿に身を解いたリクオに、咎はない。聞きたくないと思えばいくらでも、二代目は背けることができた事実なのだから。
 向かい合い座したまま、例のしろがねの明王姿となったリクオは、それでも、この先はやはりと口を閉ざしかけたが、さらに二代目が食い下がるので、重い口を開いた。
 何度も口にしたように、「アンタのことが嫌いなわけじゃないからな」と、前置きした上で。

「………オレな、爺様や親父みたいな、魑魅魍魎の主になるのが夢だった。憧れもあったけど、そうなったら、きっとお袋も親父と並んで歩けるようになるって、幹部の皆の前でも、オレはお袋をそう呼べるようになるって、思ったから。お袋も、きっとオレを誉めてくれるし、たまに屋敷に来る幹部連中に、妾風情なんて陰口叩かれて黙ってるようなことも、しなくてよくなるって思ったからな。
 気づいてたか?昔、総会のたびに、何か用事をつけてわざわざ、賄いをのぞきに来る連中があって、お袋に無理を言ったり、嫌味を言ったりしてたんだ。お袋はそれでもにこにこしてた。けどある日、悪口がアンタのことに及んだときは、お袋、許さなくてな。いつもの通りにこにこしてたけど、訂正してください、今の言葉は取り消してくださいって食い下がって、ちょっとした騒ぎになった。
 アンタや爺様が居ないときだったから、首無や毛倡妓がおさめてくれたけど、お袋、何度か打たれた。そいつに、非礼を詫びろって言われても謝らなかったからって。オレのせいやと思った。オレがまるで人間みたいだから、弱いから、いけないんだって。だからお袋を、その……《本当の奥さん》にしてくれないんだって。オレが悪いんだと、そう、思ってた。ガキの頃の話や。詮無いやろ?」

 話を切り上げたがるリクオに対し、二代目は珍しくじいと黙ったまま、聞きに徹した。
 すると、少し間があった後、きっとこれまで「言っても仕方がない」で済ませて葬ってきたことが、二人きりの場であることも手伝って、口をついて出てくる。

「親父のことは、本当に、嫌いじゃないし、尊敬もしてる。お袋を大切に思ってくれてたのも、知ってる。後からいろいろ聞いて、お袋の方から正妻を断ってた事情も、わかった。今も、恨む気持ちなんて無いんだ。
 ただ、思うのは。
 最後の時、ほんの一瞬で良かった。どうして、どうして、お父さんはお母さんに会いに来てくれなかったんだろう、って。
 ………頭では、わかってる。奴良組の中もいろいろごたついてたし、そちらからは京都に来れない事情もあった。気持ちももう、落ち着いてる。だからどうしようもないことって、あるんだ。
 そう、どうしようもない事なんだ。覆水盆に返らずの、どうしようもない事なんだ。どうしようもないことなんだけど………オレは、アンタみたいに強くなりたいとは思っても、アンタみたいに、女たちを苦しめる男にはなりたくない。
 一度ぶん殴ったこともあるから、今更オレから寄りを戻せ復縁しろと蒸し返す気もないが、母上と離縁されたなら、母上はオレが守る。お袋の菩提はオレが弔う。けど、この家はオレの家だ。親父が奴良組として縁を繋ごうとするのなら、オレも庶子の花霞家として縁を繋ぐだけ。総会にも応じるし、節目にもご挨拶するし、息子と見てもらえるのは嬉しいが、そこまでだ。
 二人の女を守れなかった男に、オレの妻が過ごす家を踏み荒らされたくない」

 そこで話は終わった。
 息子に腹を割らせて、残っているしこりを吐き出させた後、二代目の方から、「そうだよな、ごめんなリクオ」と謝ったので、息子は紅眼をはっと見張って二代目を見やり、ふるふると首を横に振った。
 数年間、リクオの心の奥底に仕舞われていただけに、言葉は研ぎ澄まされた刃のように二代目の胸をぐっさり突き刺したが、本当ならあの時、再会したときに、どうしてもっと早くに来てくれなかったかと息子は言いたかったのだろうと、己の胸の痛みを息子の胸の痛みとして感じ取れば、それ以上、何が言えただろう。

 それから祝言までは、二代目はせいぜい、忌まれる話題は避け、息子の妻となった娘を言祝ぎしながら、過ごすしかなかった。



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 人にも妖にも言祝がれた、息子の祝言の様子をきっちり見届けてから、翌日、二代目は百鬼を率い、関東に戻られた。
 傍目には、軽口を言い合うなどする二人の様子は兄弟のように睦まじく、十年の間父子を割いていた見えぬ壁は取り払われたのだと思ったことだろう。
 互いに父の、子の、重荷になるまいとするがため、今一歩踏み込めぬままであるのを、初代だけが察し、東に戻っていく宝船が見えなくなるまで、稲荷山の上から見送っていた。