詮無いことだ、やはり言わぬ方が良かったか。
 黙りこくったまま、自然と父が離れていくのを待っている方が良かったか。

 もしそうしていたなら、もし父がこの調子のやりとりを繰り返していたとき、やがてリクオの妻はどう言われていただろう。幼い頃は庶子の守役、長じてからは妻におさまったとなれば、また陰口をたたく輩も現れよう。気にするなと父は言うだろうし、現に気にしない性格なのだから、放っておくのだろう。
 己一人であればいくらでも、人に近づかれようと離れられようと、そういうものかと思えば諦めもつく。執着を捨て俗世から離れたところに己を保つというのは、息を吸って吐いていたとしても、死んでいるのと同じことだ。死んでいる人間は、自ら何かを望むことはしない。相手が望むことだけを、この場合は二代目が望むように、どれだけの時間になるかはわからないが、父と息子の関係を保っていればいい。
 リクオ自身、己がどう陰口を叩かれようと気にしたことはないが、しかし、妻に悪意害意が向けられるようなことは、ひいては生まれくる子が心細くなるようなことは、可能性から排除しておきたい。

 あちらをたてればこちらがたたず、執着を一つ思い出しただけで、俗世とは息のし難いことである。
 何が大事で、何が好きかという物差しを一つ持っただけで、尺度に入りきらなかったものを、それ以外と定める必要があるのだから。

 思い悩むときには御堂で経を上げ、祈りを捧げるリクオであったが、ふとした日常の合間、例えば放課後からの陰陽師の仕事を片づけて夕餉をとった後、不意に降ってわいた穏やかな時間に、冷たい大気に浮かぶ月を眺めながら、ガラス越しのあたたかな部屋で膝にうたた寝する猫ならぬ茶釜狸を抱いて同じことを思い返しているところへ、他ならぬ身重の妻が綿入れをふわりと着せかけてくれると、そこまで近づかれるまで気づかぬほど考えに没頭していのがばつ悪く、また微笑む妻が、すべて見通しているかのようなので、妻が、命を一つ産みだそうとしていることに比べて、過ぎ去ったことにくよくよしていることこそ詮無いと思い直し、笑み返して、隣に座ろうとする妻のため、座布団や脇息を集めて、席をしつらえてやった。

 妻は、来年の夏には、子を生むという。
 今も、まだそれほど腹は目立たないが、最初の頃はつわりがひどく、祝言の頃には落ち着いたが、リクオは妻を心配するあまり、仕事も学業も、ほとんど手につかなかった。
 屋敷の護法たち、それに衣吹や雪羅御前の助けに頭が下がり、こういうとき、本当に男は無力だと思い知らされた。
 それでも、妻が今こうして、笑顔で隣に居てくれるだけで、リクオは救われる想いだ。

「祝言が終わるや、すっかり屋敷の中も静かになってしまいましたねぇ、リクオ様。お義母上さまには、留まっていただけずに残念でしたこと」
「うん。そうなるだろうなとは、思っていたんだけどね。元々、ボクが留守の間だけ、手を貸してくれるっていう約束で、お願いしたんだし。返ってきた後、バタバタしちゃってたのを手伝わせて、かえって悪いことしちゃったかな」
「遠野におられることは、わかっているんですもの。今度、あらためて御礼に伺いましょう。それにまたご招待すれば、きっと来て下さいますよ」
「そうだね。そう言えば、遠野には日帰りで乗り込んできただけで、たいした挨拶もできていないし、氷麗の身が落ち着いたら、そうしようか。氷麗はまず、無事に元気な子供を産むことだけ、考えてくれたらいいんだよ。奥向きのことだって、ボク、ずっとやってきたんだし、全部氷麗がやる必要なんてないんだから」
「リクオ様にお任せすると、それこそご無理をされてしまいそうで、怖いです」

 リクオの肩に、わずかな重み。
 月を眺めやりながら、氷麗が夫の肩に、そっと己の頬を寄せたのだ。

 これを認めると、リクオの方でも、ふわりと心地の良い妖気を解き、姿を立派な男君のそれへ変じて、命を一つ余分に抱えているとは思えぬほど華奢な妻の肩を、抱き寄せた。

「信用ないな。それほど無茶はしねぇよ」
「本当かしら。陰陽師に大将に異界祇園のバイトだけでも結構なのに、年明けからは当主候補もされるんでしょう?だって言うのに、花開院分家の方々からの頼まれごとも、やすやすと引き受けてしまわれるんですもの。女が口出しするところではないのかもしれませんが、私、リクオさまの身が心配で」
「頼まれごとと言っても、些細なことだろう。オレがやってた新規顧客の取り方だの、客とのやりとりの仕方だの、そういうのを実地で教えるって、それだけなんだ。おまけに謝礼も貰えるんだぞ。こんなにぼろくていいのかと思うくらいだ」

 花霞一家の門前で、あれほどの騒ぎを起こした分家の当主たちに対する本家からの沙汰は、表向き、竜二を通して下されたもののみだった。
 妖の血を引く子供を十年に及び虐げてきたのに対し、払わなければならない犠牲は少なく、まるで分家衆の勝ち逃げのように思われたが、あくまであの沙汰は、本家から分家に対する沙汰だ。
 ついに本家から沙汰を受けた分家の当主たちに対し、流派に属する陰陽師たち、特に当主たちから捨て駒のようにないがしろにされ続けてきた一般陰陽師たちの態度は一変し、これまでも、どこの組織にもあることと捨ておかれた上層部と一般陰陽師たちの確執は、いよいよ深くなった。これによって分家衆が受けた打撃の方が、大きなもので、御家存亡にかかわるものと言えたろう。

 リクオが富士山麓から帰ってきたと聞くや、「もうこの流派では我慢できぬ。以前より、前線で妖との戦い方をお教え下さったのは、我が当主ではない、花霞リクオさまだ。命危ういとき、お助け下さったのも、花霞さまだ」との声が高くなり、以前は花霞家では弟子を取っていなかったので押し掛けるのもはばかられたが、今はカナがリクオに教えられて、少しずつ、妖たちを調伏するのではない、手懐ける術を学んでいると聞き、「ならば、我も花開院花霞流の陰陽師となりたい」と願う陰陽師たちが、伏目屋敷に殺到せんとしたのでは、家として瓦解し始めたのを、他人の目からごまかせない。

 本来なら、一般陰陽師たちを宥める役割を担う、高位の陰陽師たちがあるはずだが、他でもない、その彼等も我慢の限界を感じていたので、派閥や流派の垣根を越えて相談しあい、「全員が押し掛けるのも失礼であるし、無理を強いることになろうから、伏目殿に師事したいと思う者等で連判状をしたため、己等でまずお伺いをしてはどうか」などと、提案して皆をまとめあげた。
 今の己の地位を守りたいならば、部下たちを押さえつけろと半ば脅しじみた命を受けていた彼等も、これまでは我が身の保身を人並みに考え、その通りにしてきたが、この時ばかりは違った。
 少し気概がある者なら、「もし花霞流というものができるなら、そうしてあの花霞リクオが秘術を教えてくれるというのなら、今この場にあるよりも良いかもしれぬ、地位を捨てるだけの価値はあるかもしれぬ」と思えたし、保身のみを考える輩であっても、「当主候補の流派なれば、先行投資の分だけ見返りがありそうだ」と考えて、己の当主の命令を受け流したのだ。

 リクオ自身が次第を知ったのは、実際に彼等が伏目屋敷を訪ね、各流派の陰陽師たちの連判状を出されてからだ。
 京都にあるだけでも、流派の数二十は下らない。
 各流派から一名ずつ、高位の陰陽師が集うだけでも、結構なな数だった。それがそれぞれ、さらに百名を上回る弟子入り希望者の名を携えてきたのだから、リクオの驚きはおして知るべしである。

 分家に残ったのは、当主とその周囲の親戚筋、あとは右も左もわからぬ、来たばかりの新参者か、なにが起こっているのかもわからず呆けていた者かだ。
 当然、分家衆は、己の家の恥を外に漏らすはずがない。
 ないが、封印鎮護についていたリクオの義兄たちは、ゆゆしきと判じて二十七代目当主に内密に次第を知らせ、そこへ、やはりゆゆしきと判じてリクオがやってきたので、明るみになった。

 沙汰は、リクオに任せられた。
 封印鎮護についた時点で、リクオに流派を開く権利はある。門下生が学びたいというのなら、彼等に教えるのを、当主が止める必要はどこにもない。

 戸惑うリクオに、「こういうのは、どうやろうか」と提案をしたのは雅次だった。
 これまで、妖怪を滅する能しか磨いてこなかった自分たちも、リクオがどのようにお得意さまを得て、利益をあげてきたのかわからぬところがあった。まずそういったところを学んでみたいが、己の家では学ばせてくれない。学びたいという気持ちは、己にも秋房にもあるのだから、そういったところを、是非ご一緒させてもらいたい。
 見返りとして、多忙なリクオにかわり、まだ未熟な陰陽師への術式教授などは、己等が花霞流の門下生として請け負う。

 分家の次期家長等であるから、やがてはそれぞれの流派に戻るだろうが、それまで門下生として己等が名を連ねるとなれば、一度はそれぞれの分家を見放してリクオにつこうとした陰陽師たちも、兄たちが家を継ぐタイミングで、元の流派に帰る選択肢も生まれるであろう、と。
 生涯、弟子など取らずに護法たちと寄り添って生きるつもりだったリクオも、術式あれこれではなく、まずはそうした、人と人とのやりとりからであればと、ほっとして頷き、承知した。

 もっとも、後々あらためて提出された門下生のリストに、あの愛華流女当主、花開院愛華の名があったことには、戸惑いを隠せなかったが。

「つまり、セミナーの講師をやれってことよね。そんなお願い、断ってしまってもよかったのに。本当、うちの旦那様は苦労がお好きだこと」
「大妖退治を月一でやれというわけやなし、のんびりやるよ。学費のこと心配しなくてよくなったから、なんか手持ち無沙汰やし」

 これ以上学校になど行かずとも良いのではないか、と、生粋の妖怪である初代には理解できない事だったようだが、リクオは来年から高校へ進学する。
 これまで貯めてきた金では、妻を抱える身で心許なかったので、少し仕事を増やそうかと思っていたのに、祝言が終わってしばらくした頃、竜二からリクオ名義の通帳が渡された。二代目が預けていったものだと言う。
 東京を訪ねたときに押しつけるようにして渡された、十年分の小遣いとお年玉の名目での大金にも恐縮していたリクオは、さらなる思いもかけぬことに目を丸くして固辞しようとしたが、竜二にとっては、「当然の義務だ」そうで、「祝儀はあったらしいが、リクオ、祝言の負担金はお前の懐から出したんだろう。だったら、少ないくらいじゃないのか?世の中には二十歳を過ぎても親の臑をかじって子供面している奴がいるんだし、お前の父親はちょっとくらいカジられてもへっちゃらな頑丈な臑をしてるんだからな、食いちぎるくらいのつもりでいても構わんのだぞ」と思われる程度のことらしいから、リクオも無理に返そうとはせず、すぐに奴良屋敷に電話をかけて、父に礼を言うことにした。

 血を分けた父親相手ですら、つい最近までは父に対するものというより、家長に対するもので、あたりさわりの無いところを撫でるだけの会話をしたり兄弟のようにじゃれるだけであったのが、迷惑なものは迷惑で、好きだという感情とは別に、どうやっても片づかぬわだかまりが今はあるのだと示した頃から、リクオの二代目への態度は、家長に失礼の無いようにと言うよりも、失礼があったならあったで良いが、それよりも父に、家族に、思ったところを伝えたいというように、方向を変えた。
 祝言の後、少し寂しげにしていた二代目も、元来陽気なの上に根が明るいので、リクオから電話が来たとなればそれだけで上機嫌だったし、リクオが過ぎた物言いを詫びる素振りを見せようとすれば、そちらの方をこそ、また距離を取られるような気がして嫌だなどと、あっけらかんと言い放ち、「ゆっくりでいいからさ、また家族になっていければいいって、そう思ってる。おれは気がきかない方だからな、嫌な想いをすることがあるなら、言ってくれた方がいいや」と、リクオを思いやった一言まであった。
 そこでやめておけばいいのに、ついでに、今度は年明けに行くぞと懲りない一言があったので、リクオはまたぴしゃり、「あのねえパパ、前触れがあれば騒がしくしていいってもんじゃないんだからね。氷麗は身重なんだから、考えてよ」と応じるほどであった。
 もちろん、それで全てのわだかまりがとけたわけではなかろうが、遠慮ばかりが先立っていたリクオが、幼い頃にだっこをねだっていた心境に、少しずつ近づいているのは確かだった。ちなみに電話を終えた後、初めて「パパ」と呼ばれた二代目が、奴良屋敷で何らかの騒ぎを起こしたらしいが、それはまた別の話だ。

 これまで、伏目屋敷の護法たちを養っていたのは、リクオの稼ぎと玉章のマネートレードと、護法たちの日銭稼ぎであった。しかし祝言を境に、リクオが京の主にして日ノ本西の主と認められると、あちこちの妖たちから、米だ酒だ味噌だのと納められている。
 リクオのこれからの活躍に期待し縁を結んでおこうとするのはもちろん、これまでに慈悲をかけて目こぼししてやった者や、陰陽師から守ってやった者、他ならぬ奴良組から西へ逃げた者が実はどこぞの土地神の縁者でありその礼であったりと、理由は様々だ。
 おかげで伏目屋敷の賄い処はてんやわんやだが、リクオにとっては、実入りが増えている割に仕事の量が減り、己は人心地つく時間が増えたというのに屋敷の護法たちは忙しそうにしているので、何だか座りが悪い心地さえするのだった。

「働き病ね、うちの旦那さまは」
「氷麗だって、ひとの事言えないだろう。頼むから、賄いで踏み台になんて上がらないでくれ。オレを呼んでくれていいんだから」
「おまけに心配性だこと。……あらまあ、もうこんな時間。明日は例のセミナーとやらなんでしょう?そろそろお休みになりませんと。……クス、今日は茶釜狸を抱えて寝るのかしら?」
「せえへんよ、子供やなし。茶釜狸も賄いやないと、よう寝られへんらしいわ」
「あらあら、父親になるからって、いきなり全部大人にならなくってもいいのよ。お義父さまから聞いたけど、寒い夜は茶釜狸を抱えて、よくお義父さまの布団に潜り込んでたんでしょ?」
「……あのオヤジ、ぺらぺらと。そんなの、小学校の頃までやって」

 こんな風に落ち着いた日々を、己が享受してよいのだろうか。
 また詮無い想いにとらわれそうになるリクオに、妻の指は優しく宥めるように声をかけ、そっと背中を撫でて寝床へ促すのだった。



+++



「色々と思い悩むところがあるのはわかるが、リクオ、実戦の前は集中しろよ」

 自身はそのつもりであっても、兄は見抜いてしまったらしい。
 手甲の紐が緩んでいるのを直された上、ぽむと宥めるように頭の上に手を置かれてしまうなど、まるで子供扱いだ。

 しっかりせねばと思うほど、手落ちのところが多くなっている気がして、余計にやるせなさがつのった。
 もっとも、兄には弟のそんな想いすら、お見通しだ。

「何か役目を与えられると、それに応じて背伸びしようとするのが、お前の悪い癖だ。当主候補だ京の主だ花霞流の当主だと、色々降ってわいてきたのに目を白黒させているのかもしらんが、お前は今のお前のままでいい。どうせそれ以上のものにはなれん。お兄ちゃんにとっては、お前が肥だめに落ちてた頃と今と、そんなに変わらんしな。またぴいぴい泣くんじゃないかと気が気じゃねぇぜ」
「ボク、もうそんなに泣かへんもん」
「そうやってふくれっ面をしてるうちは、まだマシだな。さて、やるか。気を抜くなよ、リクオ」
「はい!」

 激動の一年を経て、花霞リクオの日常が、戻ってこようとしていた。





 事は、師走の慌ただしさの最中、遠い縁を頼って伏見鎮護の花霞家の門を、女が一人、叩いたことに始まる。



 ほとんど、着の身、着のままだった。
 《黄昏刻以降、関係者以外立入禁止》の札を越え門を潜ったた先に、戸口にぶら下がった《黄昏刻以降、人間お断り》の札を見つけたとき、女は最初、戸惑ったように立ち止まる。
 けれども、玄関の擦りガラスの向こうに、行灯か何かがゆらゆら揺れる明かりが見えたし、子供たちの笑い声のようなものがひっきりなしに聞こえてくるので、脅かすような札の口上は冷やかしの客を断るためだったのだと、ほっとしてしまった。

 息も正さぬうちに、玄関ブザーを押した。
 ブー、ブー、と屋敷の中でブザーがなる音がした。
 どきりとしたのは、その後だ。

 擦りガラスの向こうの明かりが、ゆらゆら揺れていたと思われたのがふっと消え、子供たちの笑い声が、ぴたり、止んだのだ。

 屋敷は恐ろしいほどの静寂と、闇に包まれてしまった。
 擦りガラスの向こうに明かりはなく、女を照らしているのは、真上の常夜灯ばかり。
 山中のどこからか、ギャアギャアと烏が鳴く声が届く。
 背筋に冷たい汗が伝った。

 《黄昏刻以降、人間お断り》の意味に女が気づき、同時に、ここに来る迄に「この時間に行くんなら」と言い聞かされていたことをはたと思い出して、その場に膝をついた。

「こ、こ、このような時刻に、恐れ入りましてございます。人づてに、き、聞きまして、お、お噂を聞きまして、助けを求めにやって参りました。わ、私、滋賀県からやって参りました。ど、どうか私の、私の息子を、私の息子をおたすけください!一刻を争うと聞きました。明日の朝にも冷たくなっているかもしれないと聞きました。今このときにも、もしかしたら………!とってもじゃない、朝まで待ってはいられませんでした。この先なにを見ても、決して吹聴しないとお約束いたします。ですから、ですからどうか、花霞リクオさまに、お目通りを………!」

 焦っていたので、口上のほとんどを忘れてしまっていたが、「あなたの息子を助ける方法が、一つだけ、あるかもしれない」と言った地元の僧侶が、口上を忘れてしまっても、とにかく、《のっぴきならない事情がある》と前置きすること、《その理由》と《そこで何を見ても吹聴しないと誓うこと》をきちんと話すのが約束だそうだと言っていたのは覚えていたので、その通りにした。
 すると、真っ暗だった擦りガラスの向こうに、明かりが点いた。

 今度は、ゆらゆらと不自然に揺れる明かりではない。
 パチンと音がして、少し向こうの方に電灯の明かりがつき、次にパタパタと足音がした。
 ガラス越しに、玄関に電灯が点ったのがわかった。

「はぁい、ただいま」

 若い女性の声だった。
 怪しむ様子も、こんな夜中にと訝りもおそれもせず、すぐにチェーンを解いて、姿を見せる。

 横開きの戸はからりと軽い音をたてて開き、姿を見せたのは、パジャマの上にカーディガンを羽織った、高校生ぐらいの少女だった。
 この家の子だろうか、用件を伝えても良いものだろうか、何から言ったものか言葉を探る訪問客を前に、彼女は逆に申し訳なさそうに、羽織ったカーディガンの前をかきあわせた。

「こんな格好ですみません。もう休んでいたものですから。お困りの方ですね?どなたかの紹介状はお持ちでしょうか?」
「はい、光山寺の高山信徳和尚から、こちらのお話を聞きました。下まで車で、さっき、ようやく着いたばかりなんです」
「わかりました。御師さまが、お会いになります。どうぞお上がり下さい」

 会ってもらえる。
 まずはほっとして、少女の招きに従い中に入った彼女は、一歩玄関に入った瞬間に、ざわりと鳥肌がたつのを感じた。
 寒いのではない。
 車から降りてここまでの道のりは、師走の京都の寒々しさがあったが、玄関に一歩入るとそこは、春のようにほんのりとあたたかかった。
 ぶるりと震えてから、温度差だろうかと思ったが、何か違う。
 首筋がピリピリとするし、あちこちから、誰かの視線を感じた。
 コソコソと誰かが話す声がする。
 足下を何かがかすめたような気がする。

 ぎくりとした女に気づいて、少女は宥めるように言った。

「ちょっと悪戯をしでかすものは居ますけど、大丈夫ですよ。悪意ある子たちじゃありませんから、お気になさらないでください。本当ならこの子たちの時間なので、夕方以降は本当はご遠慮していただいてるんです」
「すみません、でも、私………」
「いいんですよ、命に関わることならば、致し方ないことなんですって。でも、私が言う約束になっている、三つの約束事があるんですけど」
「は、はい、何でしょうか」

 間隔をあけて足下を照らす行灯の炎だけが、ゆらゆらと二人の影を浮き上がらせる長い廊下を進む途中、少女は不意に立ち止まって、振り返った。
 人差し指を立て、

「一つ目、事情をお話いただくときは、正直に、知っていることすべてをなるべく正確に、お話してください。嘘をついたり、知っていることを話さなかったりした場合、決してお力にはなれません」

 次に中指を立て、

「二つ目、御師さまにも、できることとできないことがあります。事情をどんなに正確にお話いただいても、場合によっては、諦めていただく必要があるんです」
「そ、そんな、でも私、ここならって………、他に、頼れるところが無いんです。お金なら、い、いくらだって用意します!時間はかかるかもしれませんけど、きっときっと、お支払いしますから………!」
「お金の話では無いんです。どんなにお金を積まれても、人の命を取り戻すことはできない。それと同じで、どうしても手段がないときというのは、あるんです。あるいはそういった巡り合わせが。御師さま自身もそれで、お母様を亡くされています」
「…………」

 本当か、納得させるための方便かは知らぬが、そこまで言われては食い下がることもできず、唇を噛んで、女は小さく頷く。
 すると、三本目、少女は薬指を立て、

「最後の三つ目です。決して、御師さまに、危害を加えようとなさらないでください。一つ目と二つ目の約束は、あなたの心を守るためのものですが、三つ目の約束は、あなたの身を守るためのものです。この三つ目の約束を破ったとき、あなたの命は保証いたしかねます。よろしいでしょうか」

 恐ろしいことを言うが、二つ目ほど納得し難い約束ではなかった。
 当然のことだとも思った。
 これから助けを求めようとしている人を相手に、まさか危害を加えようとする者があるとも思わない。深く考えもせず、こくりと頷いた。

「では、こちらにお入り下さい。中で御師さまがお待ちです」

 どうやら、目的の場所にはすでについていたらしい。
 外から見るとそれほど大きくもない屋敷のはずが、ずいぶん歩かされたような気がしていた。

 少女はその場で膝をつくと、己の後ろの襖に手をかける。
 何ともあっけなく襖は開き、中には何の変哲もない、座敷があった。
 仏間である。
 廊下もそうだったが、ここも行灯の明かりだけだった。天井を見ると、蛍光灯のたぐいが一切見あたらない。電気プラグのたぐいも見あたらなかった。
 この部屋だけなのかもしれないが、ずいぶん徹底している。  仏壇を背にして、小さな人影があった。
 花霞リクオの名前を聞いてはいても、どんな人であるのかを知らされていなかったので、女は部屋に一歩入ったまま、戸惑ったように振り返った。
 この方がそうでしょうかと訊きたかったが、もう襖は閉じられていた。

「どうぞ。遠いところから、お疲れさまでございました。初めまして、ボクが、花霞リクオです」

 言って微笑んだのは、小柄な少年である。
 ハーフだろうか、髪は金褐色だし、瞳の色も薄い。
 見目も整っていて、少女に見間違えそうなほど。声をかけられて、やっと少年なのだとわかった。とてもではないが、化け物退治、悪霊退散を生業にしているようには見えない。
 だいたい、さきほどの少女が「御師さま」と大層な呼び方をしていたのに対し、こちらの少年は、あの少女よりももっと年下に見えた。

 女が黙っていると、彼は自分と向かい合わせに敷かれた座布団を差し、どうぞと進めた上で、

「さっそくですが、お話をお聞かせ願えますか。今このときにも、事態は悪い方向へ進んでいないとも限らない」

 女を促すのだが、その所作が堂に入っている。
 常ではないが、ままあることのような ――― 女は、問題の息子がまだ幼い頃、熱を出して嘔吐が止まらず、真夜中に病院に付き添ったとき、医師を前にしたときのような、奇妙な安心感を抱いて、不思議に落ち着きを取り戻した。

 同時に、座布団に座ると、傍らにことりと茶が置かれたようだが、そちらを見ても誰の姿も無い。よく磨かれた、年代ものの茶釜があるばかりだ。
 きっと茶は最初から用意されていたのだろう。
 そう思っても、不思議なおそろしさに、もう一度、女はぶるりと身を震わせた。
 畏怖。今まで、語彙だけでしか知らなかった言葉が、脳裏に浮かんで消えた。
 あたたかいはずなのに、まだ肌は泡立っており、視線はあちこちから感じているが、ここで話さねば、その息子はついに、もう駄目かもしれないと思って、話し始める。

「実は、息子が、呪いにかかったようなのです」
「かかった《ようだ》、というのは?」
「最初は病気ではないかと疑いました。私が見たときは、全身を突っ張らせて、痛い痛いと泣き叫んでいました」
「それは、ご自宅で突然そうなったんですか?」
「いいえ、それがその………わかるかしら、うちの息子、あんまり出来が良くなくて、学校でも不良の部類で。家に帰ってこない日もあるもんだから、あの時だってどこへ行っていたやら、わかったもんじゃなくて………」
「ボクもこう見えて来年から高校生ですし、同級生にも何人か、そういう人がいるってことは、知ってますよ。どうぞ、続きを」
「で、でも、その日は、もう三日も前のことだけど、何だか村が騒がしくなったの。入っちゃいけない場所に息子たちが………二人、同じタイプの子が友達に居てね、それでいつも三人でバカやってるみたいなんだけど、その子等が、村の山のフェンスの中に、入っちゃったんだって」
「山のフェンスの中?」
「私も、二年前に別の街から主人の転勤でそこに行ったから、よく知らないんだけど。二十年前から、フェンスで囲われたらしいの。すごく厳重で、大人でも乗り越えるのが苦労するような高いフェンスに、さらにその上に有棘鉄線とかまでしてるほどの念の入れようでね。危険、毒蛇大量発生地区、なんて手書きの看板が掲げられてるから、そうかと思ってたんだけど」
「ははあ。滋賀県から来たと仰せでしたね。もしかしてK村ですか」
「そ、そうです。どうして」
「そういうことを知っておくのは、仕事の一部なんです。それで、三人はどうしてフェンスの中に?」
「バカな子たちです。年末の肝試し大会だとかで、他にもずいぶんクラスの子たちが集まったらしいんです。そのフェンスの周囲をぐるっと回って、正面の看板の前に蝋燭を置いて戻ってくるはずだったとか。だけど………」
「もしかして、三人はそれだけじゃつまらないから、中へ入った?」
「写真を撮ってたんです。携帯で。うちの子が真っ先にフェンスをよじ登ってる写真、それからフェンス越しに一枚、そして二人も続いて中に入って、しばらく散策したみたいです」
「そこで、何かを見つけませんでしたか?」
「それも写真に納められてました。懐中電灯で照らし出された、小さな祠みたいなもの。その手前に、一斗缶があって、鍵とお札で封がされてあったそうです」
「封を、解いた?」
「はい。………残った二人の話では、うちの子が札をはがして、蓋を、開けたそうです」
「……………三日前か。それじゃあ、きっと本家にももう、連絡が行ってるな」

 少し長い思考の後、呟かれたのは、やや重苦しい言葉だった。
 常に微笑んでいた少年が、話を聞いているうちに、どこかぴんと張りつめた空気を醸しだし、最初は「うちの息子よりも年下の男の子」と思って、安堵したような、不安に思うような気持ちだった女も、だんだん、恐ろしくなってきた。

「あの………うちの子は、いったい、どうなってしまうんでしょう」

 己の存在を思い出してほしくて声を出しても、ちらりと少年は彼女を見た後、また俯いてしまう。
 それから二呼吸ほど間を置いて、ようやく、口を開いた。
 女には、それが何時間にも感じた。

「封を開けて、もし触れていたとしたら、残念ですが………」

 言われた瞬間、女の精神はついに決壊した。
 一人息子の反抗期、子育てにも家事にも協力的でない夫、息子の態度についての舅姑からの嫌味、教師からのクレーム、昼はパート夜は家事で息つく暇の無い毎日で、既に限界を超えに超えていた我慢が、怒りと涙になってあふれでた。
 自分でもわけがわからないうちに、目の前の少年に向かって飛びかかり、その細い首を締めていた。

「なんとかなるかもしれないって!だから!だからここに来たのに!私、私は………ッ!私なんか、私だから、だからバカにしてるんでしょ!そうなんでしょッ!」

 医者に見せても原因不明、レントゲンにも何も映らず、神経の病かもしれないと言われて鎮静剤を打っても効果がない。
 どんな難病かもわからず、そこへ幽霊だ妖怪だのと、半信半疑ながら藁をもすがる思いで来たというのに、馬鹿にされた、そんな気分だった。

 少年の体に乗り上がり、首を締めてやると、実にあっけなく首に食い込んだ指に、少年は息もできないようである。
 その少年の苦しげな表情に、少しは息子の気持ちを思い知ればいいんだと、さらに指に力を込めようとしたその瞬間、少年の胸元から白い鼠が飛び出て、女の鼻に噛みついた。

 ひゃあとひっくり返った女の下から、少年が這い出て噎せ込む。
 その間、女は白い鼠を払おうとするのだが、これがすばしっこい。払っても払ってもまとわりつき、あちこちがぶりがぶりとやってくる。

 それだけではない、いつの間にやら、女の脇腹あたりには小蛇がとぐろを巻いており、なぜか口輪をしているのだが、じいと女を睨みつけてくる。

「や、やだ、こないでっ、こないでったら!」

 恐慌をきたした女は、そこで思い出す。
 座敷に来るまでに少女と交わした、約束事、その三つ目を。

 御師さまに、危害を加えようとなさらないでください。
 命の保証は、いたしかねます ――――

「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「だ、駄目ッ、父さん、それは駄目ッ」

 女が顔を青ざめさせ、その場にがばと伏して少年に謝るのと、少年が噎せ込みながらも、どうにか声を出したのは、同時だった。

 ぶわり、不思議な圧力が、女のすぐ脇を通っていき、何かがぱさりと畳に落ちた。
 女の髪が肩から一房、すっぱりと、落ちていた。
 斬られたのだ。何か、すさまじく鋭いもので。

 おそるおそる平服していたところから顔を上げかけると、それまで二人きりだったはずの座敷なのに、自分は多くの人に囲まれているようだった。
 畳から十センチ程度のところまで顔を上げたが、それ以上あげられなかったのは、目だけで周囲を探ると、まだ噎せ込む少年以外に、足がいくつか。
 何人、と数えるべきかどうか、迷った。
 どう見ても、獣の足、蛇や百足の尻尾と思われるものすら、あったから。

 襖を開けた様子もないのに、女はずいぶんと多くの気配に、囲まれているのだった。
 いや、最初から、気配はあった。
 今、すべての気配が、女の前から姿を消しておく遠慮を、失っただけの話に違いない。

「なんじゃ。寸止めか。お主も丸くなったもんじゃのう、鬼童丸。脅しだけで終わらせるんかい」
「お、おじいちゃんまで、駄目だよ、そんな事言って、父さんを煽んないで」
「約束事を破ったんじゃ、しかもこれ、こんなに痕が残るほど締めおって。よしよし、苦しかったじゃろうリクオ。こんな凶暴な鬼婆、追い出してやろう、のう」
「駄目だったら!お願い、お爺ちゃん、許してあげて?みんなも、ボクはこの通り、大丈夫だから」

 やれやれ、リクオさまは本当にお優しすぎる。見ている我等は冷や冷やものよ。
 主さま、どうかご無理はされませぬように。
 そうそう、人の子など、また放っておいても増えますもの。しかし我等には、主さまは一人しかおわしませぬ。

 女を迷惑に思っているのをあからさまに示しながら、諦めたような溜息を残し、女を囲んでいた足が、一つ、また一つと、薄ぼんやりとして消えていく。

 いつしか女は、ガタガタ震えが止まらなくなっていた。
 完全に恐慌をきたしており、目の前が真っ暗になるような、一人だけで孤独の闇に取り残されてしまったような、重苦しい気持ちで、目からぽろぽろ涙がこぼれた。
 土下座をしたまま動けずにいたところに、肩にそっと手を置かれてびくりと跳ね上がるが、目の前に居るのが例の少年で、全てを見透かすような目でこちらを見ている。
 子供がする目ではなかった。静か過ぎる。
 女はいよいよ嗚咽した。
 たすけてください、どうかたすけてくださいと、わあわあ泣きながら、少年にすがりつく。

「た、たすけて、ごめんなさい、でもどうか、もう私、私は、どうしたらいいか、ああ………」
「できる限りのことは、いたします。たすけられる方法があるなら、どんな事でも試してみましょう」

 必ず助ける、と、常のリクオなら言っていたろうが、女が差異に気づくはずもない。
 女はその一言で安堵し、それを聞いた瞬間、泣き崩れた。
 首に指の痕を残しながら、彼女を慰める少年自身は、ついさっき殺されかけたことなど、まるで忘れてしまったかのようである。

「すぐにでも動きたい。けれど、色々な準備をしなければなりません。お辛いとは思いますが、部屋を用意いたしますので、少し、お休みになっていてください」

 他に頼れるものはなく、藁にもすがるつもりであったので、女はそこで頷くと、そのまま気を失ってしまった。





「鬼童丸、ほれ、お主がビビらせるから、気ィ失ってしもうたわ。面倒なことをするのう。殺生はやめたんじゃねーのかい、リクオの護法が聞いて呆れるぜ」
「………フン。本当に斬るつもりがあったなら、とうに腕ごと落としておる。リクオ、大事無いな」
「うん、ボクはなんともない」

 細い首にはしっかりと、女の指の痕が残っているのだが、リクオは気にもとめない。
 それよりも、何事かが気になるらしく、小物たちに言いつけて隣の部屋に布団を敷かせると女を休ませ、まだ外は真っ暗だと言うのに、外出の準備を始めた。

「どこへ行くんじゃ、リクオ」

 訊いたのは初代である。
 鬼童丸にとっては慣れたことらしく、こちらはリクオが支度をしている間、どかりとそこに座り込んで黙っていた。

「花開院本家だよ。もしかしたらすれ違いで、本家に何か知らせが届いてるかもしれない。封印を解いてしまったんなら、必ず連絡がくるはずだから。夜中だし、当主やお兄ちゃんたちは休んでるかもしれないけど、必ず誰かは起きてる決まりだから、直接行って確かめてみる」
「ほぉう。で、何の封印じゃ。お前らしくなく、ずいぶん慎重な受け答えをしておったようじゃが」

 初代が伏目屋敷にぬらりと入り込み、居座るようになってから早四ヶ月。
 その間にも、結納や祝言の準備と平行して、ちらほらと、リクオが《急患》と呼ぶ人々が戸を叩いてやってきたものだが、これまでどんな話をされても、リクオはにっこり笑って、彼等の憂いを取り除いてきた。
 中には、何もこんなところまで出向いてこなくても、地元の寺社で祈祷の一つでもあげれば事たりると思われたものにまで、丁寧に耳を傾ける。
 陽が沈んだ後の伏目屋敷は、妖の時間であるとは、近所に住む人間たちとの約束のようなもので、彼等は伏目鎮護に敬意を表し、決して夕方以降、立て札のこちら側へ入ってこようとはしない。
 どうしても急用の場合はまず電話で連絡が入った。
 心霊スポットがどうのとはしゃぐ悪ガキたちには、あそこだけはやめておけと釘をさしてくれたし、それでも悪戯を決行する輩には、鬼童丸や副将たちが、がやや手荒く灸を据えた。
 伏目屋敷はいわば、文明の光すら届かぬ、優しき闇夜が約束されている。
 そこへ踏み込む人間たちは、皆一様によほどの決意をして、立て札を越えてくるのだ。

 しかし、彼等にとってよほどのことであっても、陰陽師でありながら闇の世界では京の主とも呼ばれる花霞リクオが、頼ってきた者を前にして、一瞬でも返答を窮するのは、珍しいことだ。

「まだ彼女の話を聞いただけだから、違うかもしれないけど、もしかしたら、厄介な相手かもしれない」

 顔を見合わせる初代と鬼童丸に言い残し、リクオが歩み去ったのは、妻が残る閨の方である。
 彼女はリクオの護法でないがため、この場に来るのも来ないのも自由であるが、逆にリクオに害をなす者を許してやるほど寛容ではないので、自らを知っている彼女は、決してリクオの勤めの場に来ない。
 先ほどだって、彼女が来ていたなら、あの女は既に氷の棺の中で息絶えていたろう。
 彼女はリクオの護法ではないのだから、殺されても殺してはならぬなどと、妖の方に分の悪い戒律を、馬鹿正直に守っている必要がない。

 部屋に戻ると、彼女は布団の上にはおらず、行灯に明かりを入れて、リクオが本家へあがる際の着物を、盆に揃えていた。

「休んだままでいてくれて、良かったんだよ。起きてる必要なんて無いんだから、気を使わないでおくれね」
「お見送りした後、休ませていただきますね。お出かけでしょう?」
「聞いていたの?」
「聞こえてきたんです。ずいぶんな騒ぎだったようで」

 彼女がつとめて平静を装っているのは、すぐにわかった。
 つんと済まし顔でリクオの着替えを手伝った後、しっかりと痕になった首筋をそっと指先で撫で、リクオのおとがいをついと指先で上向かせたと思えば、

「………アンタに害意を持って触れた者を、一瞬で凍らせる呪いなんて、かけられないものかしらね」

 物騒な事を言う。
 リクオがぞくりとしたのは、何も恐怖のためではない。
 女の半眼の視線が下から上へ、色めいて這いあがってくると、男を自覚したばかりの無防備な少年などひとたまりもない。
 薄暗がりの中で、頬を染めた幼さを残す夫が、ごくりと喉を鳴らしたのを悟ったか、妻はくすりと一笑し、その場に伏した。

「行ってらっしゃいませ、旦那様」