リクオが訪ねてみると、いつもは宿直を残して寝静まっている本家が、大晦日や正月のような賑わいを見せている。
 もっとも、言祝ぎの騒がしさではない。
 強大な妖が認められたときの、忌むべき騒がしさだ。

 深夜である。
 そこへ、車も使わず、裾も汚さずに不意にリクオの姿が現れると、誰もが一瞬、息を呑んだが、ままあることなので、「これは伏目殿」と廊下を行き交っていた者の一人が、目上への礼をとった。

「もしや、滋賀の件でおいでになりましたか」
「そうです。もう本家ではご存じでしたか」
「はい。三日前に報せが参りましたので、それからすぐゆら様が精進潔斎を行い、今は封じるに都合の良い日や方角、吉凶を占っているところでございます」
「どうして今回の件、ボクのところに話がこなかったのでしょう?いつも、大妖が出たときは、必ずお呼びがかかるのに」
「バランスを考えりゃ、そっちの方が異常だろうが」

 答えはリクオの後ろからあった。

 廊下を行き交っていた下男が一礼した相手は、着流し姿の竜二だ。
 下男が去ると、兄はリクオがやってくるのを見越していた様子で、己の部屋へと導いた。

 夜明け前なのに、既に布団はなく、座布団にリクオが座るとまもなく、下男が茶を持ってきた。

「三日前に報せが入った。地元の馬鹿な高校生が、封印を破っちまった、とな」
「竜二お兄ちゃん、それで、封じの土地では、どんな様子なの?」
「奴さん、今はまだ封印の御山にいるらしいが、外に出て暴れ始めるのも、時間の問題だな。大方、封印されていた間にどれだけ時間が経ったモンか、掴めてないせいで、自分を封じた奴等がすぐ外にいるんじゃないかと伺っているだけだろう。近所では、深夜は外出禁止令を出してるそうだ」
「ボクのところに来たのは、その、封印を解いてしまった高校生の、お母さんだったみたい。恥ずかしいことだけど、それでボク、初めて封印が破られたって知ったんだ。すぐ山向こうのことなのに、それまで全然、気づかなかった。そんなに大きな妖気だって、感じなかったよ。本家から報せだって、もらってなかったし………」
「本家から報せが行かなかったのは、今回の討伐はゆらが行うと決まっていたからだ」
「どうして、ゆらが?」
「お前とゆらと、二人で当主候補になるってのに、大妖退治の数じゃあお前が抜きんでてる。記録上、羽衣狐と相対して破軍をかましたのはゆらだが、それだって記録より記憶をたぐれば、事変中のお前の手柄を無視するわけにはいかん。となると、ゆらの大妖退治の数を稼がせる必要がある。そうしないと、他の奴等が納得せんのだ。
 次に、どうしてお前が妖気を察知できなかったか、だが、それも当然だ。大妖に分類はしているが、奴さんは、お前が相手にしてきたような、力技の大妖とはちょっと違う。
 そうだな………強力な呪いを帯びているというか………呪い、そのものというか………。だからな、封印が解かれたとしても、妖気だなんだと、発しはせんのだ。
 いずれにしろ、今回の件はお前が首を突っ込むことではない。お前のところに訪れた客というのも、本家が引き取ろう。朝には迎えを行かせるから………」
「でも、あのひとは、ボクを頼って来てくれたんや。ボクも一緒に行かせて、竜二お兄ちゃん」
「リクオ、お前は過労にもほどがある。夜が明ければゆらも出発する予定だから、今回は安心して任せておきなさい」

 当主候補にもれたとは言え、螺旋の封印の七を預かり、さらに本家長子である竜二の発言力は強い。
 冷静で的確な判断、膨大な知識量、皮肉屋でこそあるが冷徹ではなく、ある程度の情がうかがえる性格で、情を鑑みながらも答えを否と言われると、たいていの者たちは従うしかない。
 リクオも例外ではなく、竜二の答えが、翻らぬ本家の決定だとわかれば、諾と従うのが常だった。
 なにせ、竜二がリクオを害するような判断をするはずがなく、逆に弟をなるべく危険から遠ざけようとしているがためだと、わかってしまうがために。

 けれど、誰か他人の命がかかっているだとか、何かを誰かから頼まれている場合に、そちらとこちらと板挟みになって、リクオはなんとも幼い表情でしゅんと視線を落とし、そこから上目遣いに竜二を見上げ、

「………どうしても、ダメ?」

 自分でも子供じみているとわかってはいても、訊かずにはいられない。
 あまり他人に甘えを見せないリクオが、こうして甘えた声を出すのを、無碍に断れる兄ではない。承知すればリクオに無理を強いるとわかっているから、腕を組んで怖い顔をしてみせるのだが、目の前で線の細い弟が、恐縮した様子で尚ちらちらとこちらを伺い見て引く様子がないので、 結局今日もため息一つ。

「………お兄ちゃんはな、ゆらの補佐という形で加わることになっている。あれは知っての通り攻撃特化型だ、手綱が必要だからな。だから、リクオ、お前があくまで、そうした補佐という形で参加するというなら、認めよう」
「よかった!ありがとう、お兄ちゃん」
「ただし。今回の主役はあくまで、ゆらだ。決して、勝手な行動をするなよ」
「はい、心得ます」
「いつも返事は良いんだがなぁ」

 肩の力を抜いてリクオの頭にぽんと手を置いた竜二は、そう言って苦笑した。



+++



「なんでリクオがおるん」

 朝になって、三日三晩の清め祓いを終えたゆらが、閉じこもっていた部屋のお香に辟易としながら、烏骨鶏でTKGでも食ってやろうと企んで座敷に踏み入れたところで、リクオの姿を認めた。
 本家に出入りする兄妹たちが使う座敷は、朝夕に膳を使う場所である。
 リクオもまた、ゆらを待ちながら朝飯を食べていた。
 兄妹たちが使う座敷なのだから、咎められるいわれはないのだが、ゆらはまたしてもこの弟が、いらぬことに首を突っ込みに来たのだなと察して、こうして睨みつけるのだった。
 膳の前に行儀良く、ちょこんと座していたリクオは、隣に用意されてい座布団の上に、どっかりとあぐらをかいて座ったゆらに、細い眉を寄せる。

「お行儀悪いよ、ゆら。女の子なんだから、もっとお行儀よくしなよ」
「うちは嫁に行かんで、婿をとるからええんや。あんたかて相変わらず、嫁はんもろたとは思えん食の細さやないの。それ、もう済んだんやろ?またそないにお残しして、背ぇ伸びひんよ」

 自分の前に膳が出されるのを待ちきれず、リクオの前に残っていた膳をたぐりよせて、残りものをかっこみ始めた。
 およそ、少女とは思えぬ所作である。
 幼い頃から、ゆらとリクオ、二人はそれぞれ男女を間違われて来たものだが、とりかえばやもここまで来れば潔い。

「滋賀のこと、聞いたんか」
「うん。巻き込まれちゃった人のお母さんて人がね、ボクんところに来たんだ」
「巻き込まれた?蜂の巣つついたの間違いやろ。ホンマ、素人さんは勇気の使いどころにツッコミどころが多すぎてかなん」
「………そないないけず、言わんといて、ゆら。なんやボク、悲しゅうなるわ」
「あんたは、あっちこっちに情けをかけすぎや。食い物にされてるあんたを見てる方が、うちはよっぽど悲しいねんけどな。で、そのお母はんにほだされて、ここに顔出したっちゅーわけやね?」
「竜二お兄ちゃんにお願いして、ゆらの補佐につかせてもらうことになったよ」
「それなら、まあ、ええわ。竜二ならリクオに無茶はさせへんやろ。ええか、補佐ならあんたはうちの後ろにおるんやで。うちのやり方に手出し無用や。ええな」
「お兄ちゃんをつけなあかんよ。……うん、邪魔はせぇへん」
「見てられへんかったら、目を閉じて、耳を塞ぐんやで。終わった後で、あれこれ悩むのもなしや。これはうちの仕事なんやから、失敗も成功もうちのもんや。あんたのしょぼくれた顔なんか、見たくないんやからな」
「うん。………おおきに」

 つんけんした受け答えをするゆらに、リクオへの悪意があるはずがない。
 リクオは、誰が受けた依頼でも、人の命が失われれば悲しむし、妖怪を調伏すればそれもまた悲しむし、ゆらにとっては昔から変わらぬ、優しすぎる弟だ。
 小学校の低学年までは一緒に風呂にも入っていたし、虐めっ子から庇ってやったこともあるし、二人で般若湯の飲み過ぎで新年から酔っぱらって竜二に正座で叱られたこともあるし、馬鹿もやってきた仲だからか、恋愛感情というものがない。
 かわりに、この弟だけは何としても守らなければという、信念めいたものが生まれた。

 ゆらは直感で物事を決めるタイプである。
 おおむねの場合、その直感は正しい方向を指している。
 ゆらの勘は、できれば、今回の件からはリクオを遠ざけるべきだと、そう告げていた。



+++



 リクオが残したものをあらかた食べ終え、人心地ついたゆらが、ここでようやっと出された膳に手をつけ、「それで」と続ける。

「あんたんところに来はったんは、封印を破った高校生の母親やって?何を見たとか、何を聞いたとか、わかったんか?」
「ううん、そこまでは。ただ、ほかに二人、同行していた友人がいたって。例の場所で、携帯で写真を撮り合ってたみたいだよ。その二人から話を聞いたんだって。話せるっていうことは、その二人は呪いにかかっていないんだと思うよ。二人の話は聞いた?」
「いや、初耳や。本家には、封印が地元高校生によって破られたからなんとかしてやーって、えらく適当な依頼が役場から来ただけやもん。あんたんとこには、誰からの紹介で来たんやろう?」
「光山寺の高山信徳和尚からの紹介だって言ってた」
「ふぅん。ならすぐにその二人、呼び出してもらうように手配せな。事情がわからんと、やりにくぅて」
「………ありがとう、ゆら」
「あんたんためとちゃうわ。自分のためや」

 照れ隠しにゆらは、たっぷり卵と出汁醤油をかけた白米を口一杯に頬張った。
 リクオと違い、彼女は、諸事情抜きで邪悪なものを清め祓う力に優れている。相対する者を全て清めるのだから、誰の話を聞いても聞かなくても、同じだ。わざわざ本家の名前を使って二人を呼び寄せようとするのも、リクオに持ち込まれた依頼のために、他ならなかった。

「けど、うちはあんたとちゃうからな、色々事情を聞いたところで手に負えんと思うたら、さっさと滅するしか能が無い。特に今回はな、相手が《アレ》かと思うと、ちょっと腹もたつんや。冷静でいられるか、自信ないわ」
「腹がたつって、どうして?」
「滋賀県K村の《アレ》の話は、あんたも知っとるんやろ?移動式結界で封じられてる、《アレ》のことや」
「うん。………うちに来た人の話を聞いて、ちょっと厄介な奴かもしれないって、そう思った。ボクの人としての声や話を聞いてくれるだろうか、それとも妖の夢や幻に心をゆだねるだけの余裕があるだろうか、どちらもかなわないなら、いったいどうしたら良いのか、考えても、ボク、わからなかった」
「滅するしかないやろ」
「………そうなのかな」
「なんでもかんでも抱え込もうとするんは、あんたの悪い癖や。そりゃ、あんたの護法たちは、そうやってあんたの仲間になってきたんやろうけど、中には、どうやったってあかんかったもんも、おるやろう?なんでかわかるか?」
「それは、ボクの力不足で………」
「ちゃう。あんたがどれだけ修行をつんだかて、絶対に仲間にできん種類のもんが、一つだけある。生きた死体どもや。奴等には、もう心なんてもんは、無い。あんたの言葉に耳を傾けるだけの、見せられる夢幻に目を奪われるだけの、そんな心なんて、体より先に、とうの昔に朽ち果てとるだけや。さっさと体の方も、後を追わせてやらんとな」
「《アレ》も、そうだって言うの?」
「せや。ミイラ取りがミイラになったちゅうんは、まさにこのことやろう。うちが相手になったる。それがせめてもの、手向けやわ。塵一つ残さず、消し飛ばしたる。話を聞いたときから、そう決めとるんや」
「助けられないのかな。絶対に、もう無理なんやろうか。思い残したことがあるから、こんなにも長く、苦しんでいるんとちゃうやろうか」
「脊髄反射で呪いをまき散らしてる輩に、苦しみもなにもあるかい。ほんま、同業者として腹たつわ」

 言い返そうとして、やめた。
 リクオにも、わかった。
 白飯を半分以上残したゆらが、言葉ほどに冷徹に、なりきれていないことを。



+++



 二十年前ほどからだろうか。
 滋賀県K村の小高い丘を、ぐるりとフェンスが囲んだ。
 毒蛇が大量に発生したため、立ち入り禁止とする旨の立て札も施され、フェンスの上には有刺鉄線までがほどこされた上、入り口と思われる場所には幾重にも鎖が巻かれて、南京錠が目に見えるだけでも三つという、念の入れようだった。

 実は、毒蛇というのは嘘で、数百年の昔から伝わる呪いの箱を、運び入れて封じているのだ ――― とは、地元の子供たちを中心にささやかれた、ひなびた田舎町の、ちょっとした刺激的噂話。
 子供たちが噂を放っておくはずがなく、いつしか、そのフェンスの中に《呪いの箱》があるとは、子供たちの中では周知の事実となった。

「だから、俺たち、三人でその箱を探してやろうって、そう思ったんです」

 肝試しの夜を過ごした後、仲間の一人がのたうち苦しんで生死の境をさまよっていると聞き、二人はすっかり怯えて、今はそれぞれ、あれほど帰りたがらなかった家に閉じこもっていたらしい。
 花開院の依頼を受けた役場が、一室に二人を呼び出すのに、そう時間はかからなかった。

 役場から連絡を受けても、外出したがらなかった二人だったが、仲間の生死に関わることだとまで言われ、両親に引きずられるようにして、ようやく、ゆらとリクオの前に姿を現した。
 早朝に京都を経ち、役場が開いてすぐにこうして二人を前にすることができ、まずは幸先が良い。

 高校生二人にしてみれば、あんな事があった後だし、目の前には狩衣姿の可憐な少女陰陽師(実は少年)と、狩衣の袖をまくりあげた上、ソファの上にあぐらをかいたやんちゃ少年陰陽師(実は少女)に加えて、目つきの悪い漆黒の着流しの男(老け顔だが実は同年代)という、非日常的な人物たちに囲まれているのだから、怖くないはずがない。
 三日前の寒中肝試し大会の様子を、事細かに語った。

「肝試し大会は、俺たちが企画しました。みんなを集めて、その中で、箱があるかどうか暴いてやろうって言って。けど、なんか、あの辺り、本気で気味が悪くて。歩いてると、俺たちの足音じゃなく、違う足音が遠くから聞こえてくるんです。最初は、俺たちの足音が反響してるのかなって思ったんですけど、違って、音が、なんか遠くからしてきて、それが少しずつ、近づいてくる。やけに近くなったな、流石に怖ぇなって思って、これ以上近くなったらヤバイなって、思い始めたとたんに、例のフェンスが見えました。
 俺たちみんな、足音に気づいてたんだと思います。ナオキの奴………呪いにかかっちまったあいつですけど、あいつも、たぶん。だって、途中からみんな無口になってたし、フェンスに気づいたとたん、なんかほっとして、そこからまたにぎやかになったんですよ」
「あの、俺も、確かに足音、気づいてました。二人より気づくの、遅かったかもしれない。俺が一番最後までしゃべってたし。けど、なんか二人ともリアクション小さくなって、なんだよおもしろくねぇなって思い始めたときに、例の、足音みたいなのに気づいちまって。確かに、反響かもしれないって最初は思いました。でもなんか、違うんです。人間のじゃなくて、ずる、ずる、って、なんか引きずるみたいな。思い出しても、ぞっとするんスけど、それが、ぱきぱきって遠くで小枝を踏みつけるような音をさせながら、こっちに。なんていうのかな、あれ……」
「………まるで、大きな蛇が、身を引きずるような声だった?」
「そ、そう、それだ」

 リクオが助け船を出すと、涼しげながら声が少年のものだったので、二人ははっとした顔をしたが、祓ってくれる有名なまじない師だと聞いていたので、それを指摘するような失礼はなかった。
 あれば、すぐ隣のゆらが輪ゴムピストルでも飛ばしていたろう。

「ずるり、ずるり、ぱきぱき、って。そんな音が、遠くから、少しずつ、少しずつ、近づいてきて。ああこのまま行くとやばいなって思ったから、俺たち、それとなく、まっすぐじゃなく、フェンスが見えてくる前に、フェンスに平行に横に歩いたりしたんス。そしたら、そのずるずるってのも、同じ遠さで、こっちについてくるような感じで。いつまでたっても前に進まないわけにはいかないから、進んだんスけど、そしたらやっぱり、ずるずる、ぱきぱきが、大きく聞こえる。もうヤバい、これ以上行ったら鉢合わせしちまうんじゃないかって思ったところで、懐中電灯がフェンスを照らしたんで、なんかほっとしちまった。ああ、あのずるずる、ぱきぱきは、フェンスの向こうにしかいねぇんだって」
「そう言えば、毒蛇の巣だって話だし、でかい蛇の一匹や二匹いるんだろうって、思いました。ナオキもそう思って安心したんだと思います。肝試しの蝋燭を看板の前に置いて、証拠写真を撮った後、ナオキが、中に入ろうって言い出しました。あいつ、最初からそのつもりだったのかも」
「最初から?墓を暴くような企み、最初から持ってたっちゅーんか。世話ないやっちゃな。救いようがないで、リクオ」
「ゆら。お友達の前で、そんな事、言わない」

 少年だと思っていた方が、今度は高い少女の声で話し始めたので、やはり二人はぎょっとしたが、それよりも今回は、冷たく諦められた友人の命の方が気がかりで、わなわなと握りしめた拳をふるわせ始めた。

「だって、ほんまやないか。……なあ、兄さんたち、あんた等、中に入ったらしいな。なにを見たん?その、ナオキって奴のお母はんがな、こいつに泣きすがったらしんやわ。助けてくれって。そん時に、言いはったらしいわ。なんや祠みたいなもんがあって、一斗缶があって、それが厳重に封をされてたって。それを解いたんやろ?」
「と、解いた。俺は止めたんだけど……」
「俺だって、止めたんスけど、ナオキの奴、いつになく強情で」
「ちょっと前に、親父と喧嘩したとか言ってました。もう親でもなければ子でもないって言われたとか、ガキ臭い理由で」
「なんだっけ、小遣い足りなくて、お袋に金をせびったら、叱られたとかで、むしゃくしゃしたから家のガラス全部割って脅してやったとか、ウケる事言っててさ。バカじゃね、そんな事やったら、さらに金なくなるし小遣い削られるべとか思って。案の定、そこに親父登場、そんで、そんなに此の世に怖いものがないと思うんなら、そのフェンスの中に入って暴いてこい、それを見たとき、うちに帰って来ようなんて思うな、って言われたって」
「振りでもいいから、一言手をついて謝れば良かったのにさぁ」
「なにもないこと証明してやるとか言って、中に入っちまったんス。けど………」
「封印はあって、そんで、ナオキってのが、それを解いた、か。封印がどういうもんやったか、覚えてるか、兄ちゃん等?」
「缶の中は、四隅に木でできた御札みたいなのがしっかり固定されてた。真ん中には、マッチの棒くらいのが、何本かあって、何かの形を作ってた」
「それに触ったんは、誰や。怒らんから、正直に言うた方が、身のためや」
「ゆらってば、そんな風に訊いたら、怖くて答えられないじゃないか。……あの、ご面倒でも答えてください。ナオキさんの命に関わることだし、あなた方の命に関わることでもある。その形に触れたのなら、それに応じた祓いをしないと、やがてナオキさんのようになってしまうかもしれないんです。今なら祓いが間に合うかもしれない、だから正直に。
 その形に、ナオキさんは、そしてあなた方は、触れましたか?」
「お、俺は触れてない」
「俺も、触ってない。気味が悪くて、触る気になんて………。けど、ナオキは、その形に触って、崩したんです。元の形に戻そうとしたみたいだけど、できなくて、その前に、なんか周囲がざわざわし始めて、例の、ずるずるって音が、すげぇ早く………だめだ、もう、思い出したくない!」

 二人が真っ青になって震え始めたとき、カツーン!と、大きく下駄の音が床を打った。
 二対二でソファに向かい合って座る彼等を、戸口の壁に寄りかかり、見守っていた竜二だった。
 眉間には、皺が深く刻まれている。

「甘えんな。義務教育を終えた身で、いつまで子供のつもりだ。怖いことがあったら、後はおうちでねんねしてれば通り過ぎるか?こいつらはお前等より年下だが、これからお前等の尻拭いをしに、もっと恐ろしい祟り場になったその場所へ行かねばならんのだ。頭抱えてる暇があったら、その後の事をさっさと話せ。どうやって帰ってきた。ナオキはいつから痛みを訴え始めたんだ」

 低くドスをきかせた声に、びくりと体をふるわせ、二人はもう半分泣きながら、話を続ける。

「例の変な足音、ずるずるって音が、ナオキが棒の形を崩しちまった後すぐに聞こえはじめて、一直線にこっちに向かって気始めたんス。やばいってんで、俺等、フェンスに向かって逃げました。フェンスはぐるって丸くここを囲んでるはずだから、どっちの方向に逃げても真っ直ぐ走れば逃げられる。そう考えて、元来た方とは違ったけど、元来た方から例の足音が聞こえてきたから、それと反対の方に。
 ナオキが一番遅れたけど、あいつ、足早いから、途中で俺、追い抜かされて、一番後ろを走ってました。そしたら、すぐ後ろから、もう、ずるずるずるずるって、すげぇ速さで音がついてくるんです。絶対振り返ったらヤバい、立ち止まったら食われるって思って………」
「ああ、良かったなぁ、兄ちゃん。守護霊さん、強くて。それ、守護霊さんが教えてくれたんやで。けど、今回のことで力使い果たしたから、今後すんげーたくさんがんばって拝まんと、もう守護防壁、紙っぺらやで。今までの分かて、親御さんが拝んでくれた分やもん。使い果たしてもうたなあ、親不孝モンが」
「ゆら、いちいちつっかからないの!でも、本当に危ないところでしたね。助かってよかった。振り返らなかったのも、立ち止まらなかったのも、正解です。それで、その先は?」
「そ、それで、もう今までにないくらい全速力で走って走って、フェンスが見えたって思った瞬間に、もう飛びつきました。飛びついて、がむしゃらに登って、登るのは俺が一番早かったんです。そしたら、後ろの足音は聞こえなくなりました」
「一番遅くなったのは?ナオキさんですか?」
「いや、俺だ」

 答えたのは、もう一人の高校生男子だった。
 青ざめてはいるが、隣の彼よりは少し肝が座っているらしい。ぐすと鼻を鳴らしてはいても、しっかりと深呼吸してから、話を続けた。

「俺、足がフェンスに引っかかっちまって、登るのは一番遅かったんだ。そしたら、すぐ後ろで、例の足音が聞こえた。ずるずる、がさがさ。それだけじゃない、冬なのに、なんかなま暖かい風が、首筋だけにかかって………。いや、風なんかじゃない、あれは、息だった。生暖かくて、そして、生臭い………。
 がむしゃらに足を動かしてたら、何かに引っかかってたのが取れて、それでいっきに駆け登った。フェンスの頂上の有刺鉄線を越えるときには、ナオキも、こいつも、もう向こう側に降り立ってて、早くこい、早くこいって言うから、有刺鉄線を越えたところで飛び降りようとして、そしたら、こいつ等、俺の方をみてぎょっとした顔をするんです。いや、俺を見てたんじゃなくて……。
 俺も、そこでなにがあるのかって、振り返っちまったから、見ました。ナオキも、こいつも、それを見て、ぎょっとした顔をして」
「何を、ご覧になりました?」
「女の、顔。白い服着て、長い髪をざんばらにした女が、自分の銅だけで、枝にぶらんって、ぶら下がってました。俺のすぐ、後ろの、枝に」
「みんな、同じモン見たんかな。そっちの兄ちゃんはどうやの」
「お、同じ………お、同じ、です。………っく、ひっく………ごめんなさい、すみません、お、俺、こんな、こんなことに、なるなんて、ひっく………、こいつの、後ろに、女が、虚ろな目ぇした、女が、俺たちを、じいって、見て………。俺、あの目が、もう、忘れらんなくて、ずうっと、夢に、出るんです!じいって、じいって、こっちを、見てるんです!」
「はぁ。阿呆くさ。たかが夢やろ?そんなん、ただのトラウマやって。呪われたわけちゃうわ。自分でやっといて、いざとなったら泣くとか、面倒くさ。つける薬ないで。
 とは言え、深刻なんは、事実やんなぁ。ナオキ兄ちゃんの方は、絶望的とちゃうんか、なあ、竜二?」
「ゆら、お兄ちゃんをつけなさい。最近お前、態度ますます悪いぞ。しかし、そうだな。事態は深刻だ。そこまではっきり、見てしまったとなると………」
「あの。………あれ、何なんですか?!何があの村に居るんですか?!なんでそんな危ないモン、置いておくんだよ?!そんな風に被害が出る前に、やっつけるとかなんとか、しちまえばいいのに、なんで………!」
「やっつける、ねぇ。じゃあてめぇでやってみろよ。人間の分際で、あやしの類を調伏するってのは、大儀なもんだぜ。プロだろうが何だろうが、できることとできねぇことってのはあるんだよ、凡人。
 とは言え、見たからには教えておく必要があるな。俺が話そう。
 お前たちが見たのはな、《姦姦蛇羅》と呼ばれる奴だ。上半身は腕の無い女、下半身は蛇。
 退治しろと言ったがな、まさにその女は昔、とある大妖を退治しに出向いたのさ。貧しい村の頼みを聞いて、たった一人でな。ところが、力及ばず、大妖の前に敗走しようとした。力をつけ、もう一度挑もうとして、その間は村人たちをどこかに逃がそうとした、が………」

 窓に、雨粒が落ち始めた。
 予報では晴れのはずだったが、竜二の言葉が悪しき魂を揺さぶっているかのように、にわかに黒雲がわき起こり、雨足はみるみるうちに、強くなった。

「………村人はな、その女を、力づくで捕まえ、それ以上術を練り上げられぬよう腕を切り落として、さらに縄で縛って、件の大妖に差し出したのさ。霊力のある女を供物として捧げ、蛇の大妖に願い出たんだ。ここから去ってくれ、とな」

 恐怖と不安のあまり語気を荒げていた高校生の、竜二を睨みつけていた視線が、次第に力を失って、下を向いた。

「哀れなもんだぜ。自分たちが救おうとした人間たちに裏切られ、敵への供物にされたんだから、その女の恨みたるや、ってなもんだ。恨みと怒りと、裏切りと、慈悲の裏返しの深い憎悪の末、女はめでたく大妖の蛇と相打ちとなった。………自らを食った蛇と、同化することによって。
 その村人たちがどうなったか、そんな事を俺は知らん。だが、大妖と女修験者が同化した後、どこぞの高僧の命と引き替えに封じられるまで、相当暴れたそうだ。そりゃ当然だろうな、人間として殺そうとすれば、同化した大妖の力が阻み、ならば妖ものとして封じるか滅するかしようとすれば、今度は人の特性が術を阻む上、同化した人間はただの人間ではなく、一人で大妖に挑もうとした霊力の高い人間だ、下手な経や術なんぞには耐性がある。
 結局、封じたものの扱いに、どこの寺でも社でももてあまして、当時の大名たちが暗黙の了解として取り交わしたのが、参勤交代ごとに別の土地にこれを預け渡すってことだ。江戸幕府が終わった後は明治政府が引き取り、戦前戦中戦後と、脈々と受け継がれてきて、今は日本国とうちで取り仕切ってるってわけだ。
 どうして退治できなかったかって……あのな、俺たちも人間で、しかも、その女と同業者だ。絡むのさ、情って奴が。一歩間違えば、自分もまた、こういう風になるのかもしれないという不安、恐怖、同情。高僧が封じるだけで命を使い果たしたくらいだ、今度だってどうなるか、わからんぜ。長く眠って寝ぼけていてくれてるのを、期待するばかりだ」
「………あんたが、やるのか?」
「いいや、俺は才能が無いんでね、やるのはこっちの、クソ生意気な妹だ。可愛げが無いからいっそ食われた方がせいせいするが、姦姦蛇羅と同じ、女にして陰陽師というところが符号一致する上、同情よりも怒りが先立つらしいんでな、残念ながら、祓うだけならうまくいきそうだ」
「同情がダメなのか」
「だめだな。今の話を聞いて、かわいそうだとか、何とかしてやれないかだとか、考えてしまったなら、もう例の丘には近づいてはいかん。同情を引いて、奴は人間を食う」
「何のために?」
「空腹と、恨みさ。放っておいても、人間が此の世からいなくなれば、勝手に恨みが晴れて成仏してくれるだろうな。そういう、粘着質で厄介な相手だ。固定された相手がいないってのは、厄介だぜ。人間平等に皆を怨んでる。いいや、人間ばかりじゃないな、原因となった妖をも、怨んで憎んでいるのさ。
 で、だ。この封印を解いた上、姿を頭からしっぽまで見てしまったナオキって奴は、残念ながら助からん。痛みは、姦姦蛇羅が味わった、腕を引きちぎられる痛みと、食われる痛みだ。耐えきれなくなって死を望むようになった頃、その枕元に姿をあらわし、百万遍懇願させた後、食らい殺すと言われているが………」
「ま、待ってくれ。姿を見たって言うけど、俺は、下半身が蛇なんて、今、初めて知った。本当にあれ、あんたが言う、その、か、かんかんだら?なのか?」
「………なに?下半身を見ていない?」
「お、俺もっス。俺も、下半身、見てない。暗かったせいもあるけど、なんか、木の枝にぶらさがってこっちを見てたのは、胸のところを木の枝にひっかけさせた、女だったんだ。………ナオキも、見てないんじゃないかな」
「ふむ………別の奴か?いや、それは考えにくい。人間の姿しか、見ていない、ということか。これは、どういう……」

 竜二が思案に沈んでから、秒針が一回りもした頃、リクオがするりと立ち上がった。

「お兄ちゃん、ボク、ナオキさんのところに行ってみる」
「別行動を許した覚えはないぞ」
「ナオキさんを助けるのは、ボクが受けた依頼だもの。姦姦蛇羅と戦うまでには、現地に行ってちゃんと補佐するから、ね、お願い。今の話を聞いてたら、もしかしたら、なんとかなるかもしれないでしょ。姿を見たって言っても、半分だけ。人の姿の方だけなんだもん」
「護法は連れているのか」
「ライターに閻羅童子がいるし、外の影には犬神を待たせてるよ。袖には小蛇と狛鼠がいる。付喪神たちもちらほら、ついてきたみたい。そこ等で今は寝ているよ」
「そりゃあ、にぎやかなこった。式神は。また伏目に出しっぱなしか?」
「ううん、おじいちゃんには悪いけど、ヤタにはついてきてもらった」
「戦力としては、まあまあか。副将どもはどうした。呼べるか」
「猩影くん、補修で学校。再テストなんだって。ふふっ、この前の英語、十三点だったの見ちゃった。玉章くんに教えてもらってたから、今度こそ良い点数、取れるといいんだけど」
「…………玉章は」
「玉章くん、今日は大事な取引先とのミーティングだって」
「…………鬼童丸とお前の爺は」
「父さんやお爺ちゃん、京の外でケガレに触れたりしたら、妖気が大きくなりすぎて、帰るときに螺旋の封印に弾かれちゃう」
「ままならんなぁ。いいか、今は《アレ》がどこに現れるかわからん。くれぐれも、単独で姦姦蛇羅と向き合おうなどと、考えるなよ。何かあれば、すぐに知らせろ。俺たちは、封じの御山で再封印の準備をするから、合流するように。知っての通り、情けをかければとって喰われる。つまり、お前とは相性が悪すぎる相手だ、洒落にならんぞ」
「はい、承知しております、竜二お兄ちゃん」

 にこりと笑う弟に、竜二の眉間に皺が一本、増えた。

「また、返事だけは大層好ましい」