医者が施す痛み止めも、飲ませた薬もまるで効果が出ない。
 息子は今も、うんうんと唸っていた。
 高熱が続いている。
 脂汗が額に浮き、目をあけず、半開きの唇からは唾液が頬にだらしなく伝う。
 母親は、村に古くからある寺の和尚から言われたように、数珠を片手に、息子の額の汗を吹きながら慣れない経をあげたのだが、この三日、効き目など見られなかった。
 いったい、どうしてこんなことに。
 どうしてこんなに、辛い目ばかりに合うのだろうか。
 こんなことなら、どんなに暴力をふるわれたって、どんなに家のものを壊されたって抵抗せず、いっそのこと、暴力をふるわれたときにでも、死んでしまえたらよかった。息子が家のものを壊したときにでも、飛び散ったガラスの破片に喉を突かれて、死んでしまえたらよかった。
 いっそのこと、呪いにかかるのが、自分だったらよかった。
 そうすれば、動けなくなってうんうん苦しむだけの母親を見捨てるも、そこからおろおろとするも、息子の心一つで定まるだろうし、自分自身が見捨てられ痛みに苦しみ死んでしまったとしても、きっと自分はこれほど辛くはなかったろうにと、女は考える。

 息子を妙な場所へけしかけた彼女の伴侶は、息子がこうなってから、息子に対してと言うよりも、半狂乱になって息子にすがる彼女を支えようというつもりか、息子の看病を無言で続けていた。
 が、これまでほとんど家庭を顧みなかった上、息子が暴力をふるうようになってからも、あの日、息子が家でバットを持って暴れるようになるまで、一言ずつ注意をするぐらいだった彼に対して、彼女の信頼は薄かった。なにを今更、という気持ちが強い。子育てに決して協力的でなかった男だったから、きっと自分の子だと思ってないのだろう、だからあんな風に、子供を危険に対してけしかけるような事が、できてしまうのだろう、そう思えば、もう顔も見たいと思わなかった。

 京都へ赴いたのは、彼女の独断だ。
 もとより、夫の判断を仰ぐつもりはなかったし、彼も、妻の信頼を失ってしまっていることを、今回の件でよく理解したらしく、家へ帰ってきた彼女が、平安貴族のような衣装の子供を一人連れていても、眉を寄せはしたものの、口出しはせず、彼女の問いに答えるばかりだった。

「ナオキは」
「大丈夫。生きてる」
「……何が大丈夫なのよ。眠ってるわけじゃないんでしょう?」
「同じだよ。痛い痛いって、そればっかりで」
「どうぞ、お上がりください。散らかってますけど」

 この人なら息子を助けてくれるかもしれない、そう言われた相手は、いざ訪ねてみると、息子より年下の子供だった。
 これには女も度肝を抜かれたが、昨晩、この子供の家で見た、人でないものの世界に、これは本物だと確信もした。
 妻が霊感商法に引っかかったのではと心配し、胡散臭いものを見る目で少年を見つめて玄関から退けようとしない夫を押し退け、目上の大人にするように、スリッパを用意し、奥へと導く。
 おかまいなくと大人顔負けの一礼を見せた少年は、スリッパを使うことなく、足袋で家にあがった。
 息子が暴れて蹴りつけた壁には穴があき、障子はぼろぼろ、壁紙はいたるところがはがれて、廊下に放り出されたままのビニール袋には、スーパーの総菜のプラスチック塵が詰まっている。
 人を呼ぶにふさわしからぬ家に恥ずかしさを覚えた夫が、「何も、掃除も行き届いてないこんなときに、人を呼ばなくても……」と妻への不満を口の中で呟いたが、これにはどこからか、「掃除も行き届いてない、だってさ」「自分でしたことなんて、ないのにねぇ?」くすくす、くすくすと、笑い声に混じって声が届いた。
 ぎょっとして前を行く少年を見たが、声は壁や天井から届いたもので、少年のものでないのは男にもわかった。

 そこらの声は、まるで少年に教えるために、あれこれ囁くのである。

 京の主さま、リクオさま、この壁の穴は、つい一ヶ月前にあけられたものなんですよぅ。あのときは、ここの坊ちゃん、暴れに暴れましてねぇ。
 ありゃあ、本当にひどかった。ここのおかんがかわいそうやったなあ。
 この男、まるで我関せずやし。
 それでいて、自分はいつも女房の味方だと思いこんでるんが、世話ないっちゅーねん。息子をぶん殴ってやったこともないくせに。

 これ等の声は、ぎしぎし、みしみしと、三人が歩く音に併せて歌うように聞こえてくる。
 妻と来客の後を、所在なさげについて行く男が、気味の悪い、老人のような子供のようなそれ等の声の主を視線だけで探すと、声がくすくす笑ったところで、視線の端、通り過ぎた居間の、物置になっている床の間の隅っこに、黒い丸いものが二つ、二つの目をぱちぱちさせて互いを見やり、声に併せてくすくすと笑って目を細めたのに気づいた。
 黒く丸い、綿埃のような奴等である。
 やがてそれは、ころりと傾き、すうと消えた。

 夫の方は、信仰があるわけではないが、無神論者では無い。
 もともと、そういった気配には敏感だったが、目の前を歩く少年がきっかけで、この家の人ならざる者が騒ぎ始めたように思えてならず、おそろしさに身震いした。

 この村に《アレ》が封じられたというのも、人づてに聞いて恐ろしく感じたのだし、だからこそ、息子をけしかけたと思われても仕方がない真似をした。
 親を敬う心を失い、母に暴力をふるってへっちゃらな顔をしているような息子。
 これで、神をもおそれぬような子になっているのだったら、もう救いようはない。
 妻は母親だから、どんなときでも救おう、立ち直らせようとする。しかし、彼は父親として、子がどうしようもない悪人ならば、そこで斬り捨てる義務があった。少なくとも、そういう覚悟でのぞんできたつもりだ。

 自分は間違っていないと、今も言い聞かせながら、実は誰よりそう言ってもらいたいのは、男自身である。
 はたして、目の前を行く少年は、どう断じるのか。
 彼がどういう人物であるのか、まだ名乗りもしていないのに、男はそればかりが気になり始めた。

 そう広い家ではない。
 息子の部屋には、すぐについた。
 ううむ、ううむと唸っている声が、三日前に比べて小さくなったのは、痛いと訴えるほどの気力や体力すら、失われてきているせいだ。
 ろくに飲めず、食べられないのでは、それも当然のことだった。

 妻が障子を開いた先で、息子は布団の上、右にも向けず左にも向けないまま、体に触れば痛いと涙をながして悲鳴を上げるような有様で、横になっているはずだった。
 このとき、夫は初めて少年の横顔を見たが、誰かを断じ、何かを罰すると言うより、ともに悲しんでいるようにも、引き受けようと笑んでいるようにも見え、視線はまっすぐに、息子に向けられており、父を責めるわけでも、母を力づけるわけでもなく、ただ、そこに在った。
 息子の部屋は、呼気と暖房のあたたかみで、こもったような熱気があったはずだが、不思議に、少年がなにか足先を動かしてから一歩を踏み出すと、ふわり、かぐわしい風がわき起こって、窓を開けた後のように、空気が一新されている。

「ナオキさん、聞こえますか。苦しいですよね。全部は無理だけど、まずは半分、ボクがお引き受けしますから、あと半分だけ、がんばってくださいね」

 首にかけていた水晶の数珠をはずし、少年が息子の胸の上にこれを垂らして何事か口の中で唱えると、その場で腰を抜かしたように、少年は座り込んでしまった。

「ど、どうしました、花霞さま?!」

 妻の方があわてて少年を支えようとしたが、そこへ。

「………お、お母さん。………痛い。痛ぇよ、お母さぁん………」

 ぐすぐすと泣き声が混じった息子の声が、三日ぶりに、妻を呼んだ。
 クソババァ、ではなく、小さな頃のように、お母さん、と。

「な、ナオキ?!ナオキ、お前、気がついたの?!」

 やはり痛い痛いと言うには違いないが、これまで意識が混濁していたのが、目の前で、今や息子は瞬きをし、ぐすぐすと泣いて、動かせなかったはずの腕を、痛む場所を探すようにうろうろと伸ばすのだ。
 その上、目はぱっちりとあいている。

「す、すごい、医者の先生でもダメだったのに………。あ、ありがとう、ありがとうございます、本当にありがとうございます!」
「………いえ、今のはほんの、応急処置です。一人が受ける呪いを、半分に分けただけですから、なんの解決にもなりません。けど、意識を取り戻せば、食べたり飲んだりはできるでしょ?」
「い、痛ぇ、痛ぇよぉ、なんとか、してくれよぉ、なんでも、するから………、こんな、こんなんじゃ、何も、食ったり、飲んだり、できるわけねぇよぉ………、腹の下が全部ちぎれて無くなっちまったような、そんな捻れるような痛みがあるんだよぉ………、食えるかよぉ、こんなんでぇ」
「うん、ごめんね、本当は全部かわってあげたいんだけど、そうすると、ボクが動けなくなっちゃうから。封じがうまく行けば、体の痛みは全てとれます。それまで、もう少し、辛抱してください」
「痛ぇよ、痛ぇよ、痛ぇよォ!なんでもするから、だから、助けてくれよ、助けてくれよぉ!」

 泣いて許しを乞い、痛いと叫ぶ様は、母親からしてみれば見ていられない。
 どういうからくりで息子の痛みが消えたのか、わからぬ女だったので、礼を言ってから、さらにと望んでしまった。

「ど、どうか、助けてやってくださいませんか、花霞さま。半分でもこんなに痛がっているんじゃ、何かを食べさせようにも………」
「………それをしたいのは、やまやまなんですが………すみません、ボクの、力不足で」

 リクオが口ごもって言い難そうにしているので、女は重ねて言い募る。

「息子も、今度のことできっと反省したはずです。今度こそ、もう悪さはしないと誓わせます。ですからどうか、もう勘弁してやってください、この通りです」

 少年の前に膝を揃え、額をこすりつける妻の後ろで、夫もまた、嘘のような光景を前に、膝をそろえてうなだれる。己で招いたこととは言え、己の息子が三日三晩もうなされているのは、耐え難いものだった。

「謝礼ならば、たくさんお支払いします!必要なら、家も土地も売ります。ですから……」
「大将がいつ、金んことゆうたがじゃ。仕事やまった後も金勘定を、全部忘れちゅうような人だ。ほれとも何かい、おまんら、そげんこと言うっちゅーことは、ぜんぶ大将に押しつけて、結局元凶を退治できのうてもかまわんのか。結局、元の黙阿弥に他ならん。ええ大人が、わからんか」

 口ごもり、申し訳ないと繰り返すリクオと、それでも頭を下げれば、金を積めばどうにかなるのではと詰め寄る女。
 この構図がいつまで続くかと思われた頃、壁際からふいに声がした。

 妻と夫、二人ともぎょっとしてそちらを見ると、いつの間に上がり込んだのか、息子と同年代くらいの少年が、こちらはニットのセーターにジーンズという部屋着のような姿で、あぐらをかき、じと目で二人を見つめていた。

「大将、どうして言ってやらねぇ?半分ばあ痛みが消えたのは、別に、手品でもなんちゃーない、のたうちまっちゅうこいつとぶっちゅうくらいの痛みを、さっきから感じてるんだってことをよ」

 引き受ける。
 その意味が、言葉通りのことであるのだと、先程、少年がへたりと座り込んだところから思い当たり、二人は言葉を失った。
 確かに、見てみれば目の前の少年の顔は青ざめ、ふつりふつりと脂汗が浮かんでいる。

 言葉を失ったのは、二人ばかりではない。
 己が感じている痛みを、己よりも年下の少年もまた感じながら、背筋を伸ばして座っているので、息子の方もまたぎゅっと目を瞑って、悲鳴をぐうと堪え始めたのだ。

 心のどこかで、この手のプロなんだからと、特別な修行をしてこられた方で、ご高名な方なんだから、息子を助ける方法が何かあるに違いないと、こんなに辛い目に合っているのは自分たちの方なのだから、もっと同情してくれたって良いはずだと考えていた妻も、さらには妻が連れてきた少年にすがろうとしていた夫も、ここで初めて、これ以上望むのは求めすぎだと思い当たった。
 途端、ずっと年下の少年に、もっと何かないのか、もっと何か寄越せないのかと、求めるばかりの己等が恥ずかしくなった。

 もっとも、少年の方はかえって恐縮し、身を小さくする。
 無茶を言わないで下さいと、言ってしまえばその通りなのに、どれほど貪欲に求められても、応じられない方が悪いと感じているかのようだ。

「うちの者が失礼を申しまして、誠にあいすみません。できることならボクも、仰るように、全部の痛みを引き受けて差し上げたい。けど、それをしてしまったら、ボクも満足に動けなくなる。ここまでが、精一杯なんです。その代わり、きっと呪いを解いてきますから、ナオキさん、気をしっかり、持っていてくださいね」
「………どうして」
「え?」
「………どうして、こんな、痛いのに………笑って、られるんだ………あんた」

 声を発した、それだけでまた、横たわる息子の額からふつりと汗が流れた。
 一秒が長く感じるような激痛を、いたるところに感じ、気を失わずにいるのが、彼の限界だった。
 通っていた高校では、「あいつはキレさせたらヤバイ」、と陰で言われて得意になっていただけに、目の前の、まるで女のような顔をした少年がしゃっきりと座っているのに対し、自分の情けなさに、屈辱に、涙が出た。

「どうしてって………痛いとか、苦しいとか、言って泣いていても、どうにもならないもの。ボクのまわりにいるひとたちはね、すごく優しいから、ボクの痛みや苦しみに、すごく敏感なんだ。すごく心配してくれる。ボクはしてもらうばっかりで、そのひとたちに、まだ何もお返しできていないんだよ。だからせめて、そのひとたちに安心してもらうためにも、ボク、笑っていたい」
「…………」
「ナオキさん、大丈夫、きっと助けるから。ナオキさんのお母さんが、ボクを呼びに来てくれたんだもの、お母さんの目に、間違いがあるはずないよね?」

 小さな頃に熱を出しては、病院に連れて行かれ、咳をしては、手を額に当てられた記憶が、ふいに不良息子の脳裏に浮かび、痛みによるものではない涙が、一粒、落ちた。
 医者に説明するのも親だったし、医者に頭を下げるのも親だったので、自分から頭を下げるのは、初めてだった。

「………お願いします、たすけて、ください」

 床の上から、どうしても起きあがれぬままだったが、首を傾けるようにして、息子は頭を下げた。
 もちろん、と少年は受けた。
 彼が怒ることなどあるのだろうか、あのおそろしい化け物と対峙して、食われてしまわないだろうかと思われるような、優しげな笑みを浮かべて。

「もちろんです。ボクは、そのために来たんですから」



+++



 戦って、勝つ。
 それだけを考え、精神をこよりのように細くねじり尖らせて、ゆらは森の中で五感を高ぶらせながら、待っていた。

 リクオでは優しすぎてつけこまれる。だから、今度の敵だけは、彼女が倒さなければならない。その覚悟で望んだ敵だが、もう一つ、彼女には強い意志があった。

 妖に身を堕としたという、女修験者が、許せなかったのだ。
 人々の平穏のために。
 貧しい人々のために。
 妖から身を守る術のない、無力な人々のために。

 戦って、戦って、戦って、戦って。
 ―――― そして、敗れた。

 そこまでは良い。
 戦いに望むのだ、いつかは敗れることも、あるかもしれない。己だってそうだ。いつかは敗れ、敗れたならば、そこでどんな目に遭わされるか、知れたものではない。
 けれど、その後が駄目だ。いけない。
 我等は、人を呪うものに、なってはいけない。
 敗れたなら助けてもらえるとでも思っていたか、そんな中途半端な覚悟で臨むから、堕ちてしまうのだ。同じ女として、妖を葬る覚悟を持った者として、許してはおけない。

 戦いに臨む前に、不機嫌の理由を問われたので、リクオにはこの覚悟の在処を話した。
 彼はもの悲しそうな顔をしたけれど、最後にはうんと笑った。

「ボクのやり方とは違うけど、それは、とてもゆららしいと思うよ」

 やり方が違う。それはそうだ。
 リクオは逆に、誰がそうなったとしても、最後まで諦めず助けようとするのだろう。ゆらとはやり方が違うし、ゆらには理解できないところもあるが、ゆらがリクオだけは守りたいと思う理由は、そこにある。
 あの尊さは、守らなければならない。
 不浄のものに、触れさせてはならない。
 だから、この戦いはできるだけ早く、終わらせねば ――――

 立ち尽くしていたゆらの真上から、がさり、音がした。
 ずるりと身を引きずった何者かが、木の上から風を切って何かが迫る。
 ゆらは振り返り、既に手にしていた呪符をその目の前にかざしたのだが ――――





「……………リ、リクオぉッ?!な、なんで……?!」





 己に襲いかかってきたその姿に、ゆらは何の抵抗もできなかった。





 冷たい地面の感触が、頬に痛い。
 陽の光はさえぎられ、世界は暗い。
 呪符も真言も式神も、全く歯がたたかなかった。
 ゆらの手を足を、押さえているのは村の人々だった。
 彼の力は強く、ゆらの力をもってしても、封じることはかなわなかった。
 供に戦った者たちは死に絶え、妖の力を恐れた人々は、傷ついたゆらを癒そうとするどころか、恐慌にかられて捕まえ、贄に差しだそうと決めたのだ。

「それで、《アレ》は、今、どこに」
「いつものように、伏目の山だろう。今は、妖どもがうじゃうじゃと山道にあふれているそうだ」
「此の世は、いったい、どうなってしまうんじゃ……」

 ゆらを押さえつける人々の声を頭上に聞きながら、ゆらは混乱する頭をなだめよう、これはきっと幻術なのだと自分に言い聞かせて、深呼吸する。
 しかし、どう考えても、《アレ》は、リクオだった。
 しろがねの髪も、藍色の狩衣も、こびりついた返り血の黒に汚く染まっていたけれど、微笑みを忘れた顔は、いつもより青ざめていたけれど、なおも妖しく美しい、自慢の弟だった。
 だがあれではもう、明王とは呼べない。
 美しく立ち上っては紫雲のようにたなびいていた妖気は、病と腐りを生む障気に変じており、ゆらと一度、二度、合わせた刀には、すさまじい恨みと憎しみが籠められていた。

 ―――― どうして。どうして。どうして。

 一度そう考えてしまうと、ああ、そう言えば、と、ゆらの思考はさらに沈む。
 混乱から醒めようとして、さらに混濁に沈む。





 リクオが《忌み部屋》に閉じこめられるのは、よくあったことだ。
 窓の無い、出入り口に外から鍵のかかる格子戸がついた、まるで座敷牢のようなところだ。赤い格子戸には、呪符が何枚も張り付けられており、中にはずいぶん昔のものも混ざっていた。
 格子戸を挟むようにして、あちらとこちらには、重い鉄の扉も閉められるようになっており、中に誰かが居るときには、格子戸の向こうに鉄の扉が閉められているので、ゆらがこっそりこちらの扉を開けたとしても、何が行われているのかは、見られなかった。

 部屋の目的は一つ。
 捕らえた妖を、決して逃がさぬこと。

 妖怪は黒、だから滅するのみと、そう伝える花開院本家の屋敷に、どうして妖をとらえておく部屋があるのか。
 幼い頃、ゆらは祖父に尋ねたが、祖父は答えず、困ったように眩しいものを見るようにゆらを見つめ、ただ、頭を撫でただけだった。
 そこで何が行われているのか、決して、ゆらには教えられなかった。

 部屋から出てきたリクオは、別段いつもと変わらず、その後で時間があればゆらと遊んだし、食事もとった。
 だからゆらは、最初の頃は矛盾に籠められた花開院の傲慢に、気づけなかった。

 妖怪を滅するのが目的のはずの、花開院家が、なぜ、妖を閉じこめる部屋を、家の真ん中に持っているのか ――― 飼うためだ。痛みや縛りを与えて、使役するためだ。気が狂うまで、心が壊れるまで、死なせてくれ、滅してくれと自分から言うようになるまで、経文や呪符や忌み文字で縛りつけ、救いを求めて来たところへ、ならばこれよりこれこれの役目を与えるから、役目を果たせば滅してやろうと、結局最後は滅するしかないくせに、あたかも褒美のように輝かしく、滅びを告げるのだ。
 人はどこまで、残酷になれるのか。
 真実を知ったとき、ゆらは怒り狂った。
 どうしてこんな残酷なことを、平気で行えるのかと、弟の肌に刻まれた忌み文字の傷跡を見て、我が事のように泣いた。
 隣では、竜二もまた眉を寄せていた。兄は既に、知識ではそういった矛盾があると知っていたようだが、実際にこの現代で、しかも弟相手に行われているとは、知らなかったらしい。身近な存在が危険にさらされるまでの、己の無関心こそを、責めていたようだった。

 必要な縛りだと、封じだと、大人の陰陽師たちは言った。
 リクオが立ち上らせる、美しい紫色の妖気をも、いつ障りに変わるかわからぬと、忌々しそうに見やり、これを自分で押さえられぬうちは、周囲が手助けしてやらねばならぬなどと、わかったようなことを言っていた。

 泣くのはゆらだった。怒るのもゆらだった。
 リクオはいつも、笑って大丈夫だと、言うだけだった。
 朝になって妖気を解いた姿で、やわらかく笑い。
 夜になって妖気を押さえる癖がつくまでと施された、気味の悪い赤い忌み文字が刻まれた、布と鎖で繋がれていても、綺麗な紅い目は、ゆらを優しく見つめていた。
 小さな頃からしていたように、互いの額をくっつけて、頬をくっつけて、体温を分けあって。





 嗚呼、嗚呼、けれど、けれど、けれど。
 あんなことをされて、抑えつけられて、痛めつけられて、妖の血を引いてきたのが悪い、黒い存在だと決めつけられて。
 ゆらが庇えば、今度は本家の娘を取り込もうと妖術を使ったなどと責められて。
 あることないこと、全て罪のように指差されて、苦しまずにいられようか。

 苦しかったのだ、悲しかったのだ、つらかったのだ。

 彼をこうしてしまったのは、我等人間だ。
 弓の弦は目一杯引き絞られ、ついに現世に大妖が、放たれてしまった。





 嗚呼 ――― 駄目だ、私は、戦えない。
 他のものなら、いくらだって滅してやる、打ち砕いてやる。
 けれど駄目だ、あの子だけは。
 剽軽な護法たちに囲まれて、木漏れ日の光に包まれて、笑っているのが似合いなのだ。
 穢れをまとってしまったのだって、きっときっと、人間がまたも、彼の力を恐れて何か痛みを与えたのだ。
 それがついに、我慢の限界に触れただけ。

 これは報いだ。
 呪いでも、なんでもない。
 彼にこれほどの痛みを強いた、我等、人の業への報いなのだ。

 大丈夫だ、きっと、あの子は、報いを与える相手が全て消えたなら、きっと、またもとのあの子に、戻ってくれるはず。





 そのときに、ごめんな、リクオ、うちはもう、いてへんけど、もう守ってやれへんけど、泣きべそかくんやないで。綺麗な嫁はんもおるんやし、護法たちだってたくさんおるんやし、そん時は逆に、もう痛いことする人間なんか、一匹もおらんようになってんねんやろうから、せいせいするやろう?そうやろう?





 人々に押さえつけられていたゆらの腕に、斧が振りおろされる。
 ざしゅり。ざしゅり。
 さあ、これで術は使えなくなった。
 足は既に使いものにならない。
 術の使えぬ陰陽師など、お笑い草だ。
 妖どもの、餌でしかない。

 人々はやがて去り、その場に捨ておかれた彼女のもとへ、大妖が舞い戻ってくる。
 黒い桜吹雪を、従えて。





 血を流し、動けぬゆらの側で、とんと、軽い足音がした。
 首だけを巡らせて真上を見ると、やはり、見慣れた弟の顔だ。
 死人のように青く、笑み一つ浮かべずにいるのは、見慣れぬ表情ではあるが、彼女の弟の、夜姿に違いなかった。
 こちらの姿だと、今ではすっかり背丈を離されてしまったが、こちらの姿でだって、昔は一緒の布団で眠ったし、怖い夢を見たと夜中にぴいぴい泣かれて起こされたものだ。
 大丈夫や、うちが守ったる。
 人間からも、妖からも、うちが守ったる。
 言い聞かせて、ほっぺたをくっつけて、そうしてまた眠った。

 他のどんなものだったとしても、ゆらは迷わない。
 迷わず討てる。
 だが彼は。彼だけは ――― 。

 じり、じり、近づいてくる、彼の足音。
 携えている刀の細いシルエットが、濃い影としてゆらの視線の先に伸びてきた。





 このまま、ゆらはリクオの刀の錆にされるのか ―――





「あかんねん。リクオだけはな、幸せにならな、あかんねん。あんな、諦めたような顔で、笑ってたらあかんねん。雪女と二人、並んでるときみたく、嬉しそうに笑ってたら、姉ちゃん、安心やねん。
 あかんのや。リクオだけはな」





 ないはずの、足に力を込めて立ち上がる。
 向き合ったリクオは、表情を変えぬままだが、驚いた様子だった。





「あかんのや。その姿を象ることだけは、絶対に」





 ないはずの腕を真っ正面に向け、三日三晩分、練りに練った光の波動が、ゆらの華奢な腕に寄り集まる。





「そんな、ズタボロのあいつの姿なんざ見せおって!承知せん!承知せんで、縁起の悪い!絶対許さへんよ、姦姦蛇羅!
 塵一つ残さへん!!全式神、十二方位を囲んで我を加護せよ!悪しきをうち滅ぼせ!!!」





 瞬く間、喚び声に応じて、ゆらの周囲を十二神将が取り囲む。
 悪しき幻術は去り、弟の幻は黒い砂塵と消え、彼女の目の前に、よれた古布ような、黒い髪に覆われた女の顔が現れた。

 その女の顔が、驚愕に揺らいだ一瞬を捉え、ゆらは一息に、蓄えた光の波動を押し出した ――― !



+++



 長い間、一つ所に封じられた妖は、封印が破られた後も、長い間の住処としてその場所を認識している者が多い。
 いや、リクオに言わせれば、「外に出られないよう閉じこめられてたから仕方なく眠って居ただけの場所でも、いざ外に出られるようになってみたなら、辺りが自分が覚えてたものと全く違うものになってたら、一度、目が覚めた場所に戻ってみようと思うものでしょう?」ということだ。
 ゆらや竜二には理解し難い、妖の性質を、リクオは昔からよく理解し、また予想が外れたことはない。
 妖の血を引くからではない、リクオが幼い頃に過ごした奴良屋敷で、祖父や父から寝付くまでの物語に聞かされた、無数の妖たちに関する膨大な知識が、今のリクオの力になっていた。魑魅魍魎の主の血統に恥じぬ知識量だ。

 ゆらを中心に守るようにして、周囲を竜二とリクオ、それに護法たちで囲む。
 姦姦蛇羅が現れたなら、誰かしらが気づくであろう。
 そこでゆらに報せ、ゆらが練った光の鉄槌を、姿を現した姦姦蛇羅めがけて撃つ。
 単純だが、どこに隠れたか知れない者を待つには、封印のあった場所を中心に待つのが都合が良かった。

 ところが、一つ誤算があった。
 容赦なき呪いを放ち、長年鎮まる様子のない厄介な妖だと言うのに、姦姦蛇羅自体は、土地に縛られた薄っぺらい霊ほどの妖気も、持ち合わせていなかったのだ。

 異変に最初に気づいたのは、犬神だった。

「……大将、妙な気配がするぜよ」

 リクオの影から、本性の犬の顔だけをのぞかせて、獰猛な牙を覗かせた犬神は、しばらくひくひくと鼻を蠢かせていたが、やがて、ゆらが居るはずの方向に向かって、ぐるぐると唸り始めた。
 護法の立場でなければ、すぐにも影から飛び出してしまっていたろう。毛むくじゃらの前足を、影の縁にかけて身構えている。

「犬神、行け」

 主の命があるや、影に沈んでいた犬神の巨体は躍り出て、まっしぐら森の中心に向かって駆ける。
 犬神を、竜二とリクオが追った。
 まもなく、森の中の開けた場所に出る。そこで二人は目を見開いた。

「チッ、周囲を呪符で囲んだのも、意味がなかったってのかよ」
「おかしいよ、竜二お兄ちゃん。全く妖気を感じへんかった」
「……ゆら、おいゆら、返事をしろ!」

 二人の目の前にあったもの、それは。
 開けた森の中心地、そこにあったはずの祠は、網のように姿を変えた森の蔦に囲まれ、傍で集中していたはずのゆらも、鞠のようになった蔦の中に、囚われていた。
 二人はすぐに駆け寄り、蔦を払おうとした。
 だがどうだ、蔦弦はまるで意志を持った触手のように蠢き、二人を払おうとする。
 足を払われたリクオはふわりと跳んでかわし、鞭のように上から枝を振りおろされた竜二も、横に跳んでかわしたが、リクオを追ってゆらを助けだそうと駆け寄った小物たちは、何匹か薙払われた。
 重ねて何度か近づこうと試みるも、結果は同じ。
 犬神などは、馬鹿正直に突進を繰り返す小物たちを助けるため、蔦を食い破るのに終始し、辟易とした様子さえ見せ始めた。

 その間も、兄弟でゆらの名を呼ぶのだが、中にいる少女の姿は、絡みつく蔦に腕を捕まえられ吊り下げられた姿が透けて見えるものの、返事はない。

「おい、ゆら、暢気に寝ている場合か!」
「ゆら!ゆら、聞こえる?!目を覚まして、ゆら!」

 ぴくり。
 ゆらの腕が動いたと思うと、するすると少女を捕まえていた蔦が去り、二人の前に降り立った。
 いつの間にとらわれたのか、姦姦蛇羅はどこから来てどこへ行ったのか、二人が問うよりも先に、くるりと振り返った少女の目は、瞼のない、黄色い蛇の目をしていた。

 凡人ならば、妹の変化に気がついた瞬間、避けようのない邪視にさらされ、そのまま昏倒していたろう。
 ゆらの意志を感じない、大きく縦に裂けた瞳孔が見据えた瞬間、既に二人の前には護符の壁があった。
 ばちりと邪視を弾いた護符の結界から外れた、すぐ傍の小枝は瞬く間に緑から灰色へ、形あるものからぼろりと崩れて粉へ変わり、周囲の生は死へ。

 肌に触れぬ、花も揺らさぬ。なのに、視線にさらされたものは少女の中心から外側へ、ことごとくが死に触れていく。
 兄弟、二人の袖の端がこれに触れて、瞬く間にぼろ布と化した。



《死ね。滅べ。人は滅べ。妖も滅べ。皆滅べ》



 ぼそぼそと、口から漏れる言葉はすべて呪詛。



《慈悲は憎悪で報いられる。信頼は裏切りで報いられる。人の思いやりは、全て、人の嫉妬で、恨みで、報いられる。心あるところには心が報いる。喜びが生まれるのは、悲哀があるからだ。十の悲哀が生まれるのは、一の喜びを引き立たせるための布石だ。理不尽を、不公平を、愛する者だけが喜びに満ちる。喜びは美しいだけではない。自堕落も喜びになる。淫欲に溺れるも、他人を踏みつけるも、人を裏切るも、喜ぶ者には喜びになる。全ての因果は心による。ならば心をなくせばいい。心持つものをなくせばいい。心持つ人は滅べ。心持つ妖は滅べ。それが全ての救いなれば》



 蛇の瞳から流れるのは、血の涙。



「おい、ゆら!ミイラ取りがミイラとは、当主候補が泣くぜ」
「駄目だよ、お兄ちゃん。ゆらに聞こえていない!ここに居るのは」
「ああ、わかってる。……ったく、とんだ予定外だ。ゆらはこいつにだけは気を許さんと思っていたが」
「多分、逆だよ。ゆらは《彼女》に怒ってた。無関心でいられなかったのは、ボクと一緒だ。ボクは《彼女》を何とか救えないかと思った。人を救おうとして、人に裏切られて、妖と同化して呪いを放つ彼女は、生前すべての人を等しく救おうとしたから、今はすべての人を呪っている。お兄ちゃんたちは、ボクと《彼女》を重ねたのかもしれない。でも、ボクには《彼女》と、ゆらが重なって見えたよ」
「なに?」
「だって、生前の《彼女》は、妖を退治してまわって、人を助けていたんでしょう?人は白、妖は黒、そう定義づけて、それを正義と信じて戦って、戦って、戦った末に敗れた。ゆらはきっと思ったはずだよ。『自分も負けたら、こうなるんだろうか』って。だから怒ってたんだ。自分を重ねて、畏れていたんだ。
 ……だけど」



 ナウマク・サマンダ・ボダナン・アビラウンケン・ソハカ ――――



 護符がぼろぼろと崩れていくのも構わずに、リクオはゆらの体を乗っ取った姦姦蛇羅を前に半眼となり真言を紡ぐ。
 師走の、それも鬱蒼とした森の中のことであるから、正午までには森に入って姦姦蛇羅を待っていた三人であるが、正午を過ぎれば既に陽は傾き、その上祠の周囲は呼気が白くなるほどの冷気が漂っている。残照の加護すら望めぬその場所に、リクオが祈った刹那、眩しい光がどこからか差し込んだ。
 リクオの周囲を守っていた護符が千切れ飛び、呪詛の切っ先が喉元へ届くか、両眼を貫くかと思われたところに、ぴかりとやられて姦姦蛇羅の方こそ呻き声を上げ、目の前の敵を睨むのだが、視線の先には光を放つ如来の姿があるばかりで、リクオの姿など隠れて見えない。ぶるぶると首を振り、かしげ、畏れ、果てに恐慌をきたしてしゅうしゅうと蛇のような威嚇の声をあげた。

 呪いを放つはしから、光は浄化して天へと誘う。
 天に昇る間際、全ての呪いは祝いに姿を変えて、きらきらと梢をかすめる僅かな残照に、粉雪のように輝いた。
 たいていの妖ならば、同時に霧散して天に昇ってしまうだろうに、姦姦蛇羅はぶるりと身震いしたばかり。まるで、冷水を浴びせられたような驚愕を見せたが、妖がするような疲れを全く見せない。人の特性を持ったがゆえであり、竜二が姦姦蛇羅を、厄介もの扱いする理由である。
 精神力の出し惜しみか、少女陰陽師の体を借りた姦姦蛇羅は、両脚で地を踏みしめたまま、上体を蛇のようにくねらせて、今度は全身をばねにして飛び掛ってきた。刹那、竜二が組んだ印に従い、水が巻き起こってゆらを襲う。しかし、全身の骨組みも変わってしまったのか、奇妙に体を歪めてこれをかわし、姦姦蛇羅はかぱりと開けた大口で、リクオの喉元に喰らいつくかと思われた。
 真言を扱う法力ならまだしも、体術妖術では夜姿に劣る昼の姿では分が悪い。
 竜二は的にされた弟を守るべく、守護方陣を描いたが、こちらは姦姦蛇羅の妖の特性、触れたものを呪い腐らせる臭気が、べりべりと次から次と破ってしまう。

 リクオの周囲の小物どもも、姦姦蛇羅に喰らいついて阻もうとするが、身じろぎ一つで跳ね飛ばされる。
 閻羅童子が炎で焼こうとすれば、ゆらの指が式神を操って阻む。

 リクオの喉に今少しで、奇妙に伸びた爪が届き、肉を抉るか ――― 思われたとき、がちりと阻んだのは、リクオ自身の独鈷杵の杖だった。



「ねえ、ゆら、ボクはね、ゆらのやり方とは違うと思う。けど、一つだけ、同じことがあるよね?」



 妖の力をのせた姦姦蛇羅の腕力に拮抗するほどの力は、昼のリクオには無い。
 如来は祈り、護法を導き、そして護法たちに守られるのがこれまでのやり方だった。なのに、独鈷杵の杖を片手で構え、もう片手で印を組んだままでいながら、やすやすと普段の声を出す。
 そのリクオの髪が、色だけをしろがねに変じた。
 印を組んでいた片腕が、懐からふわりと何かを取り出し姦姦蛇羅の目の前を払うや、取り出されたそれはがうと一吼えして威嚇した後、くるりと一つその場で廻った、リクオの肩におさまった。



「やり方がどんなに違っても、ゆらはきっと、ボクがそうなってしまったら、きっと助けてくれる。それまでのやり方とどんなに違ったって、ゆらはそういうところ、我侭だもの。誰に何を言われたって、きっとボクを助けてくれる。昔、ボクが妖の血に、目覚めたときのように。
 人でも、妖でも、兄でも姉でも、弟でも妹でも、何でもいいや。けど、ボクたちは家族だ。
 その想いだけは、同じだよね。どんなに姿が変わっても、どんなに時が経っても、きっと、同じだよね?
 だから、ゆら、ボクも君のためなら、どんな手だって使う ――― どんな禁じ手だって」



 人の特性と、妖の特性とを、我が物にして操る難敵・姦姦蛇羅を前にして、姿を変えたリクオが、半眼だった目を開く。
 その眼は人の思慮深さを残した琥珀のまま、髪は妖のしろがねに変じ、肩にかかったのは初代から譲られた、三ツ眼狼の毛皮。人は白、妖は黒と言うのなら、この姿をなんと言うべきか。灰色と言うには神々しく、人と呼ぶにも妖と呼ぶにも相応しからぬ。姦姦蛇羅と同じ特性を持ちながら、似て否なるもの。
 執着を知り、抗いを知ったリクオの、その口元に、甘露を含んだような笑みが生まれた。



「時間ならボクが稼ぐ。ゆら、戦いを制して、早く戻っておいで ――― 早くしないと、後で湿布じゃ済まないぜ?」



 如来にあるまじき獰猛な視線が姦姦蛇羅をとらえ、慈悲に溢れたはずの腕が、独鈷杵の杖で姦姦蛇羅の横っ面を叩き飛ばした。