法力と妖力、二つの力が加わった杖の一撃を、姦姦蛇羅はうねる体でかわした。
 もちろん、顔を狙ったのも、それを計算した上でのこと。
 リクオとしては、嫁入り前の可愛い妹の顔に冗談でも傷をつけるつもりはない。むしろ、姦姦蛇羅が避けてのけぞったその刹那こそ、狙いだった。

 のけぞって隙が出来た懐に入り込み、五鈷杵と己の腕で、おさえつけたのだ。

 しかし、そこから先は、ゆらの体を人質に取られている以上、何もできない。体そのものから呪いを放つ姦姦蛇羅に触れ、リクオの指先が腐り落ちるのも時間の問題と思われた。



《馬鹿め、飛び込んで来おった。体術で勝つつもりであったか。死ぬるか。死ぬるか。お前から死ぬるか。お前はとても、死に親しくあったようだ。さぞ恋い慕っていたのだろう。よかろう、さあ、お前が望んだ死のもとへ、さあ………》



 ほくそ笑んだ姦姦蛇羅。
 だが、笑んだのは、リクオも同じだった。

「誰が、勝つつもりだと言ったよ?」

 瞳に昼の思慮深さをたたえながら、姦姦蛇羅ににやりと笑って見せた姿は明王にも似て、半ば威圧されかかっていた姦姦蛇羅は、リクオが庇うその姿に、気づかなかった。
 竜二の印が走る。
 姦姦蛇羅が気づいたときには、既に彼女は術中にあった。

「走れ、言言!」

 的を絞られ、今度こそ術を返すこともままならず、水の獣が大口をあけて姦姦蛇羅を飲み干し ――― 水の獣はその体内から、彼の者を拘束した。
 リクオが後ろに飛んで離れ、その場に姦姦蛇羅を縫い止める結界を張って竜二に加勢する。あとは、ゆらが自身で体内から、姦姦蛇羅を追い出すのを待つばかりだった。
 もしそれができなければ ――― リクオははたと思い当たった。
 この状況は、まるで、姦姦蛇羅となった女修験者が、負けた光景ではないか。

 思い当たったのは、リクオばかりではない。
 姦姦蛇羅もまた、体内から己を拘束する式神に苦悶しながら、喉奥で笑い始めた。

《これは。これは愉快。この娘、我と同じように妖を討たんとし、我と同じように人に、親しき者たちに討たれるのか。哀れ。哀れ。ほんに、此の世は等しく苦界よなぁ》
「いいや、違うよ、姦姦蛇羅。ゆらは戻ってくる。ボクたちも、ゆらを見捨てはしない」
《人は裏切るもの。妖は裏切るもの。心は心を裏切るもの。摂理ぞ。現に、我を封印から解き放った者どもがいたであろう。封じなければならぬという心さえ、人どもは好奇心で裏切る。そうであろう?そうであろう?》
「裏切りがあるのは、期待があるからだ。期待がなければ、そこに裏切りはない。どんな形であれ、心は、心に報いるものだ。期待通りであれば、己で満足できるものであれば、人は喜び、期待していたものでなければ、勝手に裏切られたと感じるだけだ。姦姦蛇羅、お前は敗けたそのときに、助けてもらいたかったのだろう。だから、裏切られたと感じた」
《助けて、欲しかった?………我が、そう、考えていた?》
「だから待っていたんだろう。妖と同化してまで、己を捨てずに、これまで待っていたんじゃないのかい」
《………そうとも。我は、助けて、欲しかった………。けれど、誰も………誰も………誰も………》
「なら、ボクのところに来い、全てを呪う者よ」
《………おまえの、ところ、へ?》
「伏目屋敷は妖怪屋敷。人を嫌う者も多くある。なに、人間など、妖が手を下すまでもなく、やがて互いに喰らい合って消えていく。お前が、全ての人どもが絶えなければ恨みが消えぬと言うのなら、それまで、そこで人どもを見届けぬか。………どことも知れぬ場所で、見捨てられた祠に封じられているよりは、さぞかし居心地も良いだろう。どうか」

 姦姦蛇羅は笑った。
 哄笑だった。

 血の涙が見開かれた少女の両目から流れだし、悶え苦しみながら、狂ったように笑い続けた。

《ならば!貴様は、貴様は、やがて全てを呪うようになると言うか!我とともに、全てを呪い、心あるを全て滅ぼしてくれるのか!そうではなかろうに。そうではなかろうに。嗚呼、忌々しい、忌々しい、淡やかな光よ。けれど、なんと、どうして、こんなにも、あたたかいのか》

 自分がそうでありたかった、そうであり続けられなかった、嫉妬、羨望、後悔、ないまぜになって、もはや体内で暴れ狂う式神にと言うよりも、己への失望で苦しみ続けているようだった。
 妖は人に仇なすものだ。仇なすのは、苦しいからだ、悔しいからだ、憎いからだ、無関心ではいられないからだ。心ある限り、心に因らず平然とはしていられないからだ。これまでリクオが護法としてきた数多くの妖たちと同様、姦姦蛇羅もまた、今、リクオの差し出した手に、己の手を重ねようとしていた。
 しかし。



《 ―――― ガッ?!グァ、うぅッ?!》



 今少しで、憎しみよりも後悔が大きくその心を満たそうという時、どこからか、黒い霧のようなものが現れて姦姦蛇羅を取り巻いたのだ。
 かと思えばその霧は、まるでここが舞台の上であるかのような朗々とした声で、










《さてさて、皆様 ―――― 》










 語り始めたのである。










《さてさて皆様、ここに在るのは哀れな話。かつてこの国の人々がまだ、夜の闇に怯えて暮らしていたころの話にございます。
 ある国の村人たちが、一匹の妖怪の仕業に困り果てておりました。その妖ときたら、作物を喰う、人を喰う、なんでも喰う、喰わぬは夫婦喧嘩のみという始末。村の近所の山に棲み着きましてね、腹がへると、ずるずるずるずる、体を引きずってやってくるのでございますよ。え、なんでずるずるかって?ううん、難しいですなあ、ではなんと言いましょうか。とことこ?ずしんずしん?いいや、やっぱり蛇とくりゃずるずるでしょう。え、蛇だなんて初めて聞いた?いやこれは失敬。今日のお客さん、細かいネ。
 そいつが作物をあらかた喰うから、村には年貢としておさめるものもない。けれどお上はいつだってねえ、ほら、お役所仕事ですから。納められないならそなたの首を切る!見せしめじゃ!なんて。ばっさり。首すぽーんと飛んだりなんかしてね。しょうがないから、自分たちの喰う分をおさめるから村はもう、からっから。翌年に蒔く種までなくなったのに、それでも足りない。
 毎日お上とあれこれしているうちに、夜は夜でその妖怪がやってきては、作物むしゃむしゃ、人間もむしゃむしゃ。
 ってなわけで、ばっさりすぽーん、むしゃむしゃっとやられて、人も作物も、次々減っていく。昼はばっさりすぽーん、夜はずるずるむしゃむしゃっとね。とろろ芋みたいだね。ばっさりすぽーん。ずるずるっむしゃむしゃっとね。
 そんな時にやってきたのが、諸国を行脚する女修験者ってわけです。祝言じゃありませんよ、修験です。妖怪を倒すすべをきっちり修めた人のことですよ。もちろん、退治してくれるってんだから、お金が必要です。けど、背に腹は代えられない、村の人たちできっちり相談して、なんとかお願いできないかと、その女修験者に持ちかけた。
 するとなんと、運がいいねえ、その女修験者は、「お金は要りません」と、こう言うんだ。けど、「その代わり」ときた。
「その代わり、どうか、信三郎さまとの婚儀を、認めてくださいませ……」
 蓑笠を取ったその姿を見て、村の庄屋さまがはっとする。
「お、おまえは、おヨシじゃないか。姿を見なくなったと思ったら、ええ、修験道に励んでいた?そりゃおめぇ、 偉いことだ、すげぇことだなあ。噂に聞く女修験者がおめぇだったとは、私たちも全く気づかなかった。
 信三郎、お前の見込んだ女はタダモンじゃなかったなあ、親父として私も鼻が高いや。え、私は反対していた?馬鹿を言え、そりゃあ昔の話だ。あん時は信三郎、お前だってまだ十三だったじゃねぇか。おヨシの親父は人柱になったばっかりだったしなあ。苦労したろう、おヨシ。よく帰ってきてくれた
 よしわかった、信三郎、おヨシ、例の奴を葬ったあかつきには、お前たちの結婚を認めてやろう」》



《や、や、やめて!語るな!《私》を、語るなッ!!》



《これで奮起した村の人たちとおヨシ、奮起して妖怪とついに対峙したわけです!ィヨッ!》



《やめて、やめて、やめてください、お願い、いや、思い出させないで、いやなの、いやなの、嗚呼、お願い、お願いです、どうか、許して………》










「何が、起こっている ――― ?!」
「どうやら外部からの干渉だ。リクオ、一度離れろ!俺もこれ以上、抑えられそうに、ない………ッ」
「外部から?」
「この黒い霧のようなもの、東京の例の奴を、思い出すぜ………」
「………東京の……オニバンバ………百物語組?!」

 頭を抱え込み、苦しむ姿で、姦姦蛇羅と、ゆらの体が重なって見え始めたとき、竜二の限界が訪れた。
 少女の体内で使役していた式神が、くしゃりと呪いに潰され消えてしまったのだ。
 自然、使役者の腕も同様に、ぐしゃり、と音がした。

「ぐ、ぅッ」
「竜二兄ちゃん!」
「馬鹿、リクオ、気を逸らすなッ」

 竜二の縛りをはねのけて、再び姦姦蛇羅が動き始める。
 リクオが差し伸べていた手の平を、少女とは思えぬような、握力のみで少女が握りつぶし、手の平から甲へ爪で貫いたまま、もう片手が、ゆっくりとリクオの鼻先へ、持ち上げられた。
 そこには、いつの間にかより集められた、ゆらの法力が、胎動している。

 やられる。
 リクオがそう、覚悟したときだった。

「………出ていけ。うちから、出ていけ、姦姦蛇羅あぁッ!」

 きっとリクオを真っ正面から見据えたのは、姦姦蛇羅ではなく、まばゆい光を瞳にたたえた、花開院ゆら、その人だった。
 己の胸元に、式神を融合させた腕の銃口をつきつけ、勢いよく放つ。
 誰が止める間もなかった。
 己で己を撃つ無謀な策に、少女の体は何の用意もないまま己で己の最大の技を受け、背後に吹き飛び木の幹に背をしたたかに打ちつけた。
 呼吸が止まり、噎せ込んだあげくにげえげえと吐いたが、それだけだ。
 駆け寄ったリクオの助けがなくても、己の口元を己で拭い、立ち上がった。

 もっとも、彼女の意識はどこかをさまよっていたらしく、己を抱き起こそうとしたリクオの姿、それも、昼と夜とが解け合った見慣れぬ姿を目にしてぎょっとした後、「大丈夫、ゆら?」と、優しく声をかけられて、それが弟だと気づいたらしい。

「な、なんや、リクオか。その姿、初めて見るわ。アンタは、本物、やな?」
「そうだよ、ゆら。お帰り」
「うちの獲物に、どんな手ぇだしたん」
「違う、ボクじゃない。あれは、もしかしたら………」

 ゆらから追い出された、姦姦蛇羅の思念を、黒い霧が取り巻いている。
 霧はよく見ると、黒く小さな羽蟲だった。
 顔の前で手を振り、蛇の尾をくねらせて、姦姦蛇羅は羽蟲を追い払おうとするも、ままならず、その間にも、羽蟲たちの囁きは彼女を苦しめる。

「………どこかで、見たような黒い蟲やな」
「ああ、気づいたか、二人とも。アレはどうやら、東京で会ったあいつのようだぜ」
「………百物語組、圓潮」










《ところがところが、男ってのは罪なモンでねぇ、おヨシが一途に信三郎との約束を守って修行に励んでいた間に、当の信三郎の方は、そんな約束なんざすっかり過去のものにしておりました。
 なにせ庄屋の息子ですから、女には困りません。そのうえ、おヨシは修行のために村を離れておりましたから、信三郎はおヨシをすっかり忘れ、村一番の美女と、既に将来の約束をしていたのです》
《いや、いや、いや、やめて、やめて、やめて、語るな、語らないで、ああ、お願い》
《おヨシが帰ってきたことで、ああ良かったこれで妖怪から村が救われる、そう思った多くの村人たちとは裏腹に、信三郎と、その美女は、やれ厄介なことになったぞと思ったわけですね。それで、こっそり相談したわけで。ええ、そりゃあ一石二鳥は望むところですから、こういう相談をしたわけです。
「信三郎様、あたくし、良いことを思いつきましたの」
「ん?なんだい、良いことって」
「妖怪も、あのおヨシという娘も、二人とも葬ってしまえばいいのですわ」
「な、なんだって?滅多なことを言うんじゃないよ。そんなことができるわけねぇじゃねえか」
「できますわ。あたくし、知ってますの。おヨシが持っているあの水晶の数珠が、力の源なんですって。妖怪と戦う前に、あの数珠を取り上げてしまえばいいのですわ。信三郎さまなら、それができるでしょう?」
「ふむ、なるほど、数珠を取り上げた上で戦わせれば、いくら無敵の女修験者さまでも、あの妖怪と五分五分というわけか」
「二人を戦わせてどちらが勝ったにしても、勝ち残った方はもうふらふらなことでしょう、そこを……」
「ふふふふふ、悪い女だなあ、おめぇは。よしわかった、それでやってみよう」
 ってわけで、信三郎は、戦いに赴く前に是非会っておきたいと涙ながらに甘いマスクでおヨシを呼び出し、一夜を供にしたところで、その水晶の数珠を取り上げてしまったのです!
 困った、水晶の数珠がない、そう思いながらも妖怪退治に赴いたおヨシ、長年の修行の成果で、数珠がなくとも妖怪相手にすさまじい立ち回りを見せたのですが………奮闘甲斐なく、あわれ、足をばくりっと、やられてしまったのでございます。ああ、哀れ、哀れなこと。
 いやそれでも、妖怪の方もかなりの手負いでございましたから、そこを村人たちが囲んで、えいやっとやってしまえば、それで終わったんでございますよ。最後におヨシの足をばくっとやったのだって、最後の力を振り絞ったようなもんでしたからね。ですから、夜中に二人の様子を見守っていた村人たちに、おヨシは助けを求めたのです。
「もし!もし、お願いいたします!あと一太刀で、この妖怪めは調伏されまする!私は足をやられて動けませぬゆえ、どなたか、どうか!」
 そこでやってきたのが………》
《やめて、やめてやめてやめてやめてえええええッッ》
《信三郎と、その手の者でございました》
《嗚呼、嗚呼、嗚呼あぁあぁぁぁ………》
《おヨシはほっといたしました。ああ、信三郎さまが来てくださった、もう大丈夫だ………。
「おヨシ、お前、けがをしたのか」
「はい、ここからもう一歩も動けません。ですが、妖怪の方も同じように、もう一歩も動けぬはずですから、信三郎さま、どうか……」
「そうかご苦労だった。………おヨシ、悪いが、お前はここで妖怪と相打ちになってもらうぜ」
「えッ?!」
 言うが早いか、信三郎は抜き放った太刀を、妖怪ではなく、おヨシにばさあッ………!っと………!》
《ああ、やめて、やめて、思い出したくない……嫌なの、嫌、もう嫌、嗚呼、私は、私は………許して、ああ、こんな醜い私を、どうか、どうか、もう、語らないで》










 霧のように集まった、無数の羽蟲の中で、息も絶え絶えになっていく姦姦蛇羅の涙声にむかって、ゆらが、改めて利き腕を構える。
 ゆらの一撃を受け、もはや誰かを呪うだけの力も持たず、世界の影法師のように、そこにたゆたっているだけのもの。それが、黒い羽蟲に喰われていくのが、哀れで見るに耐えなかった。

 より集めた光を矢にかえて、見えぬ弓を構えて弦を引く、それを放たんとしたときに、そっと、隣からリクオがゆらの腕をつかんで、首を振った。

「リクオ、この仕事はうちの仕事や。口出しせんとき」
「陰陽師としてはそうだけど、ボク、これでも京の妖の主やから。一度、ボクの手を取ろうとした妖が退治されるのを、黙って見ているわけにはいかない」
「………なら、どうするんや。アレを。呪う以外に能の無い妖怪なんぞ、護法にしてどないするんや」
「なに、能が無くてもいいのさ。共に来てくれるのなら、それで。魑魅魍魎の主ってのは、そういうもんでしょう?」
「質問を変えるで。呪うしか目的の無いモンを、どうやって護法にすんねん」
「それは違う。………呪うしか方法が無かっただけだよ。ねえ姦姦蛇羅……いや、お前に名を与えよう。古い衣を捨てて、ボクに下るといい。
 恨みも後悔も捨て、嫉妬や羨望も捨て、呪い殺してきた過去を背負い、ボクと共に来ないか。その黒蟲の渦の中よりかは、よほど、過ごしやすいと思うけれど、どうか」










《とも、に………?古い衣を、捨て、て……?》
「忘れるんじゃない、時折思い出したってかまわないさ。ただ、傷を癒すつもりで、これまでの己から、離れてごらん」
《………………あなた、さまは、いかなる、神仏であらせられるか………………?》

 何度払いのけても、傷つけても、血を流しながらリクオがさらに己に手を差し伸べるので、黒い羽蟲の群れの中、黒い塊のようになって姿など見えなくなってしまった姦姦蛇羅は、いよいよ決心したらしかった。
 ゆらと竜二が、またしてもリクオが抱え込もうとする一鬼に、複雑な視線を送る中で、ふわり、と。
 黒い羽蟲の中から、修験者の衣を纏った女の霊が、札で顔を隠した姿で、宙に舞い出てリクオの手にしがみついた。
 同時に、黒い羽蟲の中には、姦姦蛇羅の形が、そのまま、残った。

 いずこからか、朗々と響いていた圓潮の声が語る。
 過去を暴き、心を暴き、傷を暴いてその名を語り、形を作った。

 リクオの手を取ろうとした女の霊と、黒い羽蟲の群れの形は、細い銀色の糸で繋がっており、圓潮が朗々と語ると、この糸が巻き戻されるかのように、女修験者の霊も、引き寄せられる。
 崖から這い上がろうとするかのように必死に、女の霊はリクオの手に向かって、手を伸ばした。

「己で己を捨てないと、その糸は切れない。ボクの手にたどり着くまでの道のりは、手伝えはしない。でも、待ってるよ。おいで ――― おいで」
《古い、衣を、捨てて ――― 行きます。「私」は ――― 行きます。往きます》










《斬られたおヨシは息も絶え絶え。勝ち誇った笑みの新三郎に、隠れて見ていた美女が駆け寄り、今際の際でおヨシも悟りました。嗚呼、この人の心はすでに私のもとには、無いのだ。最初からこうするつもりで、昨晩、私を呼び出して数珠を取り上げたのだ。悟ったそのとき、これまで信三郎と結ばれたい一心で苦しい修行を乗り越えてきたおヨシの心が一転。暗黒に染まりあがりました。
 足をやられたおヨシは、腕だけで、ずるずる、ずるずると妖に近づき、血の涙を流しながら、大口をあけた蛇の妖怪の中に、えいやっ!と、自ら身を投げてしまったのであります。すると、不思議や不思議、もうぴくりとも動けずにいた蛇の化け物が、むくむくっと起き上がって、力を取り戻した。いいや、これまで以上の力をつけたのでございます!》










 圓潮の声が、噺の佳境に入るにつれて、黒い羽蟲の中の形は、力強く蠢いた。
 対して、リクオの手を取ろうとする女修験者の霊は、力を弱め、リクオに近づくにしても、のばしきった鎖の枷がこれ以上は届かないといった具合に、黒い羽蟲に繋がった糸が、びくりともしない。
 その様子をつぶさに観察する竜二は、一つの仮説にたどり着く。

 ――― 姦姦蛇羅という《形》を、《本質》を知り語ることによって、操ろうとしているのか ――― ?

 一つの話に一つの妖。百も集れば立派な百物語にして百鬼夜行。
 多くの人に知られれば、それだけ多くの《畏》を、信仰を生み出すことになる。
 名を知り、名で縛れば、名が持つ者は知らず知らずのうち、己を解放する術を忘れて、形に縛られ、語られる《形》の悪行を繰り返す地獄に落ちよう。

 ――― 圓潮が消えた先、携帯電話、電子機器 ――― もしや。

 目まぐるしく脳内で推理を繰り返した竜二がはたと思い当たったのは、己の懐の中にもある、現代の必需品、携帯電話だ。
 正確には、今時は携帯電話からつなげることができる、インターネットの海である。
 まだ地図のできていない世界。どこに何があるのか、正確に計ることなどできない世界。
 宇宙が正確な広さを計れて居ないように、眼に見えぬ世界には、どこに何が潜んでいることやら。そして、そこには花開院さえ野放しにしている、百物語が溢れているではないか。
 都市伝説。怖い話。心霊スポットの紹介。
 そこに集められた《話》は、興味さえあれば何時誰にでも、眼にすることができる ――― 眼にできる百鬼夜行。
 インスタントの《畏》は、操る者の力になる ――― 何処かへ消えた、あの圓潮の、だ。










 誰も手助けできぬ、黒と白の攻防は、ついに終局を迎えた。
 圓潮の声は、白い女修験者が抗い始めた頃から、さらに大きなものとなって、今や空を割るほどになっていたが、ついに。










《ああ、哀れなおヨシ!ついにその身を化け物に落とし、信三郎もその美女も、ばくりっ!一呑みにしてしまったのでございます!さらには村人たちをも、ばくりっ、ばくりっ、ばくりっ。次から次へと飲み干して、呪いに呪いまくったもんでございますから、人の名を失って ―――
 ――― 『姦姦蛇羅』、そう呼ばれる哀れな醜い妖となり果ててございます ――― 》










 語りつくされ名付けられた女修験者は、哀れ、銀色の糸に巻き戻されて、黒い羽蟲の中に沈むかと思われたが、ゆらは見た。
 ほんの僅か。手助けなどせぬと言ったはずのリクオが、ほんの僅かに己の手を前に伸ばして、それを女修験者が掴んだのだ。

 その刹那、だった。










「姦姦蛇羅、そう呼ばれていたお前を、お前は捨てた。今後はこの伏目明王が護法、《邪魅》、そう名乗るといい ――― 」










 ぷつり、と、銀色の糸が切れて、女修験者は倒れこむようにリクオの胸に飛び込んだが、その背後で、黒い塊ははっきりと、上半身は女、下半身は蛇、その《形》を、完成させていた。
 女修験者の霊、邪魅がこれに怯えながら見つめていると、やがて黒蟲どもは一つに交じり合い、ぎょろりと目玉まで生み出して、三人を睨むではないか。
 そのまま、にやりと笑い、すうと消えていくと思われたが、これはゆらが許さなかった。










「待ちや、忘れモンやで ――― ぎょうさん喰いなっせ!」

 今少しで、何処ともなく消え果てようと思われた姦姦蛇羅の抜け殻が、ゆらが放った光の矢の中に、消えた。










+++



 どれくらい、時間が経っただろうか。
 いつしかあたりは暗く、黄昏に包まれていた。
 あれほど痛かった全身から、嘘のように痛みが引いている。
 痛みに耐え続けた末、夢か現かわからぬ狭間を、とろとろと微睡むようにしていた彼は、はたと気がつき、次に不思議に思った。
 体が痛みに耐え続けたせいで疲れきっているにも関わらず、なぜか意識だけははっきりとしている。その上、これほど疲れきっているのに、どうしてかまるで眠れない。腕一本動かすことすらままならず、視線だけで周囲を探ると、両脇に両親を見つけたが、こちらは彼がどれだけ呼んでも、ぐっすりと寝入ってぴくりとも動かない。

 喉元過ぎれば、熱さなどすぐに忘れるもの。
 あれだけの痛みに耐えていた己が目覚めたというのに、すぐに気づいて水の一杯も寄越さないとは、体が動けるようになったなら、気の利かぬ母親を打ち据えて、また思い知らせてやらねばならぬ、などと思い始めた。

「………なぁんて事、考えてやがりますぜ、リクオ様。こいつ、頭っから自分のやり方が正しいって思いこんでる。自分がもう少しで死ぬところだったのも、自分が悪いなんてもう思ってねェや。どうする、俺様はいつでも燃やす準備ならあるけど」
「よせ、閻羅童子。ボクが話をする。そこで部屋を照らしておいで」
「へーい」

 ぎょっとした。
 無理もない。
 両親と己以外、誰もいないと思われた部屋だったのに、それ以外の誰かの声がしたのだから。それも、いつの間にか枕元に立っていたのは、痛みに魘されていたときに目にした、例の少年であった。
 纏った狩衣はあちこちが破れ、泥がつき、頬にも擦り傷がついている。
 まるで、山の中で獣と格闘でもしてきたかのようだ。
 その少年が、横たわる彼を、何とも言えぬ瞳で、見つめていた。
 口元に、あの優しげな微笑みは、今は無かった。

 ごくり。彼が喉を鳴らしたのは、少年が己を見定めるように、じいとのぞき込んで来たからだ。
 それも、一人で、ではない。
 少年は、何匹もの、人でないものを従えていた。
 筆頭は、その隣に居て、手の平で炎を弄んでいる、紅の胴着の青年だ。えんらどうじ、そう呼ばれた青年が弄ぶ炎の中には、目を凝らすと、文字のようなものや映像のようなものが浮かび上がっている。閻羅童子はそれを、少年に見やすいように捧げ持っていた。

 なんだ、これは。どういう夢だ。

「………夢ではありませんよ、ナオキさん」

 声にすらしていない思念に、少年から答えがあった。
 いや、少年は、ちらりと例の炎を見ていた。
 深紅の綺麗な炎の中に、浮かび上がった文字を読んで、それに答えたのだった。
 横たわったまま起きあがれず、ぐるりと妖怪たちに取り囲まれたナオキもまた、炎の中に、己のとりとめのない思念が生まれては消えるのを見て、悟った。
 あの炎は、己の心が、考えたことが、映し出される鏡のようなものなのだ。

「そう。貴方の思念は、閻羅童子の炎が映します。閻魔天の炎を預かる閻羅童子の前で、嘘はつけない。報酬のお話に嘘をつかれては困りますから、こういう手段をとらせていただいているんです。お気を悪くなさらないでくださいね。もちろん、考えるだけじゃなく、ちゃんと話して下さってかまわないんですよ。………それが、嘘でないのなら」

 言葉はやわらかく、声は優しいが、少年は相変わらず、にこりともしない。
 いや、この少年は、本当にあの少年なのだろうか。
 薄暗い場所であったので、よく見えなかったが、背が少し高いような気がする。髪の色も、初めてみたときは金に近い茶色の髪だったのに、今は透き通るような銀色だ。

「ほ、報酬?か、金なら、お袋や親父に言ってくれ。小遣いなんてたかが知れてんだ。毎日の生活にだって困ってるんだぜ、俺」
「生活に困っている?住むところがあって、食べるものがあるのに?とてもそうは見えません。それにね、ボクは貴方自身から頼まれたんです。助けてください、って。そうだったよね?」
「それは、そうだけど、でも、アンタを連れてきたのは、お袋だろ。そうさ、俺は頼んでないのに、お袋が勝手に連れてきたんだ。お袋に言えよ」
「ええ、貴方のお母さんを助けた分は、後からお母さんに別の分を、もらうことにします」
「暴利だな。お祓い師だかなんだか知らねーけど、ボロイ商売だぜ。俺にも紹介してくれよ、ったく」
「………やってみますか?」
「え?」
「十年。ボクは文字通り血を吐き血を流し、体中の血なんて全部入れ替わってしまったんじゃないかと思うほどの、修行をしてきた。だけど、それはボクだけじゃない。陰陽師となるのなら、皆が同じだけの修行を積み、苦労をしているんです。貴方も、本気なら、やってみますか?」
「ば、バカ言え、俺なんか、おまえ、できるわけねぇだろうが。お化けなんて見る才能なんざ、ねーんだし」
「やってみなくちゃわかりませんよ。そりゃ、才能で左右される点もありますが、多くの陰陽師は才能なんて無いまま、様々な事情を抱えて、努力で全てを補っている。やってみますか、彼等と一緒に」
「や、やらねぇよ、本気にすんなよ、バカだな……」
「では、貴方はこれから、なにをいたします?」
「え?」
「貴方は生きながらえた。本当ならここで死ぬはずだったところを、貴方のお母さんがボクに土下座までして頼んだから、貴方とボクには縁が生まれ、ボクは貴方を助けた。その命で、ボクと関わりが生まれたその命で、貴方は何を為しますか」
「何を、って………。そんなこと、今は考えられねェよ。まぁ、今まで通りなんじゃないの。報酬が必要って言うなら、俺、お袋と親父から金借りるからさ、その分を俺がお袋と親父に払う、って感じで、それでいいんじゃないの。ダメ?」
「わかってないみたいですね、ナオキさん。三途の川を渡るというときに、船賃を両親にお願いできますか?ボクの前で、貴方は身一つ。貴方の財産から、貴方が持っているものから、ボクは報酬が欲しい」
「な、何なんだよ!よくわかんねぇよ!財産とか、俺ぁそんなもん、持ってねぇっての!必要なモンなら、俺がそんな風に何か持ってるってんなら、何でも持って行けよ!」
「では遠慮なく。まず、貴方の心臓を貰い受けます」

 突然のことだった。
 少年の白い手がさしのべられて、ずぶりと彼の胸に沈むや、果実でももぎとるように、どくんどくんと脈打つものを取り出した。
 ――― 心臓だ。彼の、心臓だった。

 ヒッと息を呑み、その後絶叫した。
 恐怖で恐慌をきたし、布団の上で暴れようとするが、多くの妖怪たちが彼を押さえ込んでおり、逃げることさえままならない。
 その上、どんなに悲鳴をあげても、両親は彼の両脇で、棚や壁を背にして、眠りこけている。
 助けを呼んでも、誰にも声は届かない。

 そうこうするうち、少年は白い手で、赤い血が纏わりつく心臓を掴み、がぶりと喰らいつくと、二口三口で、たいらげてしまった。
 いいなあ主さま、おいらにも一口おくれよ、などと言う小さな妖怪には、気前良く、最後のひとかけらを与えてなどやっている。
 心臓をとられた彼自身が、涙でぐしゃぐしゃになりながら助けを求めていると言うのに、そちらには一瞥もくれず、懐いてくる気味の悪い妖怪たちの方にこそ、薄く笑んだ。

「……ウン、少し濃厚気味だ。胸焼けしそう」
「な、な、なんだよお前、そ、そ、そんなことしたら、お、おれ、俺は、もう、し、死ぬ、死んじまう……」
「生きてるじゃないですか」
「……………本当だ」
「いやだなあ、せっかく助けたんだもの、まだ殺したりはしませんよ。今のは、ただの味見。昔から、どれくらいかを計るのに、丁度いいんでね」
「ど、どれくらい、って…………?」
「その人間が、どれくらい性根が腐ってるのか、ってことを計るのに、丁度いいんだ。性根の腐った人間の生き胆ってのは、そりゃあ味が濃くて美味いんだぜ。ボクは人を喰う趣味は無いが、母上様が昔、好物でいらしてな。半ば無理矢理、ご相伴に預かったこともある。味がわかった方が、美味い不味いの判別をつけて集めるのもたやすかろう、と言われて ――― 母上様にとっては、ご厚情のつもりだったんだろうが ――― 無理矢理口に突っ込まれたのが始めて覚えた人の味だった。おかげで、美味いか不味いかぐらいの区別はつくようになったよ。アンタの生き胆は、なかなか美味い。もう少し悪行を重ねてくれれば、そうさなあ、アンタが二十を過ぎる頃には、妖怪たちの立派なディナーになることだろう。助けて良かったよ」
「お、お、俺を、い、い、いずれ、食うのか?!」
「放っておいたって、アンタのような人間は、いずれ今回と同じようなことをやらかして、取って喰われて死ぬさ。今回だって、ボクが助けなければ、失われていた命だ。それに、何でも持って行けと、アンタが言ったんじゃないか」
「で、で、でも、命は……命だけは…………!」
「何も、今すぐってわけじゃないし、心臓を取ったって生きながらえようと思えばいくらでも方法があるよ。妖になればいいんだ。人間をやめてしまえばいいんだよ。どうせこの家が気に食わないんだろう?気の利かない母親も、小遣いをくれない父親も、気に食わないんだろう?だったら人の生なんて捨てて、家も捨てて、妖になればいい。嫌いなものから解放もされるし、死ぬこともなくなる。良いことづくめじゃないか」
「そんな、勝手に決めないでくれよ!お、俺は、お、お前なんかと、お前等なんかと同じものには、なりたくなんかないッ」
「ならば死ぬ。それだけだ。アンタの心臓が美味くなった頃合に、取りに来るよ。それまでせいぜい、楽しく悪行を重ねるといい」
「ま、ま、待てよ、待てッ!」

 話を決めて、くるりと踵を返した少年に腹を立て、彼は寝転がったまま、その足首を掴んだ。
 途端、ぎろりと肩越しに睨まれ、竦む。
 物腰柔らかな少年の、視線は氷のように冷たかった。

「『待て』だァ?……オイコラ、畏れ多くも主様に、命令しようってのかこのガキゃあ」
「ま、待って。待って、下さい。おね、お、おねがい、お願いします」

 炎を捧げ持つ妖怪が、彼の腕を捻り上げ、ぽーんと布団から放り出す。
 投げ出された彼の体は、壁にぶち当たって床を転がった。
 そのまま、少年の足元に這い蹲るようにして、彼は額を畳にこすり付ける。

「ま、待って下さい。命は、どうか、どうか、助けてください。折角たすかったのに、また死ぬなんて、そんなの、そんなの……」
「わからない人だなあ、死ぬと決まったわけじゃない。死ぬのが嫌なだけならば、妖にでもおなりなさいと言ってるでしょう。貴方は何ももっていないという。何でも持って行ってよいというから、貴方がその身に帯びているもので価値ありそうなものを見繕って差し上げたのに、それをなんです、まるでボクを人殺しみたいに。人聞きの悪い」
「だって、だって、そんな、妖になれなんて……なり方なんて、わか、わかんね、わかんねぇし…………」

 くすり。

 少年が、初めて彼に向かって笑みを零した。
 こみ上げる笑いに耐えられなかったのか、袖で口元を隠してころころと笑い始めると、彼を取り囲む妖怪たちも、それぞれケタケタと笑い始めた。

「な、なにを、笑う、んですか」
「なり方がわからないなんて!そんな、貴方はいつも平然と、自然とやってきたんでしょう?それをそのままやっていれば、立派な悪鬼になれますよ。人間も言うんでしょう?『悪鬼のような所業』だとか、『この外道』だとか。素質充分だよ、アンタは。そのままそのまま、そのままでいい。そうすればアンタは立派な悪鬼外道になり、ボクは配下の妖怪たちにたまの馳走もほどこしてやれる」
「悪鬼、外道……」
「見たこと、ありませんか?
 地獄絵図などでほら、人の骨をしゃぶり、肉を取り合って喰らう、本能のままに生きてるアレですよ。決して癒えることのない喉の渇き、決して満たされることのない飢え。それを癒そうと血を飲み続け、それを満たそうとして腐乱した肉を喰い続ける。下等も下等の妖だ。下の下。でも、いないと困るんだよね。地獄にはたまに喚ばれて、書類の整理や裁判の手伝いをするんだけど、ああいう悪鬼も数が少なくなると、積み重なる肉や骨が多くなって、道が汚れていけない。いかな妖にも、与えられた生き方というものがあるものですよ。それがただ、死にたくないという理由だけで、妖になったものだとしてもね」
「 ―――― 」
「ナオキさん、これから貴方は何を為して往くのかと、ボクは尋ねた。貴方はこう答えた。今まで通りだと。暴力を奮って、嘘をついて、母親を泣かせて、見守る父親の心も考えないで、好奇心で墓を暴くような真似をして。これからも今まで通り、そういうことを繰り返していくんですよね?それが、今回ボクと関わって命を拾った末、さらに続けられるというのなら、ボクは貴方に虐げられる人々を、救えなかったことになるんです。なら、貴方は、ボクと関わってしまったがために、そういう妖になるだろう。あのまま痛みで死んでいれば、ただの亡者として地獄に招かれもしたでしょうが、もう、そうはならない。貴方はこのままの生活を続ければよろしい、ボクがどれだけ改めて下さいと申し上げたところで、きっと変えやしないのだから。
 そうして、そんな毎日を、ボクは『生きて』いるとは、認められません。貴方はもう既に、動いている死体だ。
 やがて時が来て、貴方の心臓を《本当に》貰い受けたとき、貴方は望むと望まざるとを別として、きっと悪鬼になるだろう。脳髄を腐らせた、ただ食うことだけを目的として動き回る悪鬼に。ボクと関わってしまったがため、ボクは、貴方を見過ごせない」
「な、な、何か、別の、別の、ものを ――― 」
「別のもの。貴方が持っているものはなんです?お金は持っていらっしゃらないんですよね?では、両親を差し出しますか?それとも友人?最初にそう仰せじゃなくて良かった。そんな事を言われていたなら、味見だけではない、ボクはその場で生き胆を抉っていたろうよ」
「 ―――― あ、あ、あ…………」
「くれぐれもお体、お大事に。立派な悪人になって、美味い生き胆になってくださいませ。それではこれにて、ごきげんよう」

 彼が何も言い返せないでいるうちに、しゃりんしゃりんと鈴の音がして、部屋の壁の一方が、春の宵のような、やわらかな闇へと変わった。
 少年は妖怪たちとそこへ身を躍らせ、遊歩のような足取りで、どんどん遠くへ行ってしまう ――― 行ってしまう ――― 見えなくなった。

 ああ、と、彼はその場で倒れ伏した。
 夢か現か、抉られた胸からどくどくと、血が噴出すように流れている。
 そこへ手をやって傷口を押さえようとするのだが、手触りが妙なので目を落としてみると、胸にぽっかり開いた穴から噴出しているのは、血ではなく泥で、中には蟲どもも混じっている。
 己の腕もまた、生気の無い土気色をしていた。



 貴方はもう既に、動いている死体だ。



 少年の厳しい声が、耳に蘇る。



 悪夢の中、立ち上がれずにいると、どこからか、ちらちらと舞い落ちる花弁がある。
 闇の中で自ら輝くような花弁に、幼い頃に母と見た、山の桜並木を思い出し、涙が浮かんだ。
 やがて甘い春の香りの中で、重くなる瞼には逆らえず、彼はその場に、倒れ伏した。