しんしんと雪が降り積もる、一面の銀世界。

 雪女にとって一番に落ち着く心象風景であるためか、夫の側に侍って自らも眠りにつくとき、無意識のうち、そうした風景で魂の周囲を、いわば結界のように囲うのが、ここ半年の常だった。
 魂が無防備にさらけ出される夢の中で、リクオに救いを求めて寄ってくる霊や妖のたぐいを、遠ざけるためだ。

 今日もまた、夜明けとともにやっと寝床にやってきたリクオに、身を横たえてはいたものの、夫の不在にまんじりともできずにいた雪女はすぐに身を起こして気遣い、「氷麗が休めたなら、これからすぐにも、電車で遠野へ行こうと思う」と言うのをたしなめ、「せめて仮眠でも良いですから、身を横たえてくださいませ」と懇願して、僅かな時間の眠りを守るために侍って、今に至る。

 ふ、と意識が浮上して、薄く目を開くと、己の腕の中で子猫のようにくうくうと眠る、少年の姿があった。
 雪女が夫であるが、今は昼の姿のため、まだ守子として扱いたくなるような愛らしさだ。
 本人は、伸び悩んでいる背丈や、少女と間違われることもある自身の面立ちに少し不満らしいが、雪女の過保護ぶりには困ったような顔をするものの、彼女の性分に諦めもあるのと、甘やかされて嫌な気持ちがするはずないのとで、こうして甘やかされるままだ。

 その目の前の夫の姿が、ただの昼の姿ではない、いつか見たような、人でありながら妖であるような、髪の長さはそのままに銀色に変じ、どこからかちらちらと桜の花弁を呼び込む妖気を纏わせているので、雪女はこの光景が、現のものでなく、たまさかあるように、意識の上だけの魂の世界、己の結界の中のものだと知った。
 こちらが真実の姿なのだろうが、夫が現でこのような、人離れした姿を形作ることはない。
 それが、人の中で、陰陽師たちの中で、異端に扱われると身を以て知っているために、己の本来の姿すら歪めているのだろう。
 雪女の結界の中でだけ、その眠りの中でだけ、こうして無防備に己をさらけ出しておられる。

 可愛い寝顔だこと、と一つ微笑んだ後、雪女は夫をさらに腕の中に囲い込み庇うようにしながら、己は上半身を起きあがらせて、あたりを伺った。

 何者かの気配が、あった。

 リクオの魂にすがらんとする、悪霊の類かと思うが、違う。
 現の座敷は、リクオのためにきっちりと雨戸を閉じ、ストーブを入れて暖をとれるようにしているが、こちらは雨戸を開け放ち、銀世界と化した外庭の向こうにも、現にはある塀がなく、どこまでもなだらかな白い丘が続いている。
 その下には、救いを求めリクオの魂に触れようとして氷漬けになった霊魂が転がっていることだろうが、雪女が察したのは、もっと別の何かだった。

「………何者です、姿を見せなさい。さもなくば、覗き見などと下卑た真似をする者は、我が夫に悪意ある者とみなして、すぐさま氷漬けにしてしまうわよ」
「それは怖い。覗き見ていたのは謝るから、ご勘弁願いたいな」

 予想に反して、答えはすぐにあった。

 さくさくと雪の上に足跡を残し、家屋の脇からやってきたのは、物腰柔らかな一人の青年である。
 稲穂色の髪は長く伸びて背に流され、銀縁眼鏡の向こうから優しげな瞳が、柔らかく雪女を見つめていた。

 雪女は驚いたが、青年が、薄く雪の積もった縁側を手で払って腰を下ろした以上は決して近づこうとしないのと、また、どこかで会ったような気がするのとで、動きを目で追ったのみ。
 青年がそれ以上近づこうともしないので、いつもならこの結界の中で動く魂を見かけたならすぐに氷漬けにしてやるものを、彼の存在を許してしまった。

「………何者なの?」
「少なくとも、敵ではないつもりだよ。そう警戒しないでほしい。名乗れば奴に見つかるから名を告げることはできないけど、私は、君たちに危害を加えようと思ってここに来たわけじゃないんだ」
「じゃあ、何をしに?」
「本当は、そちらの彼に話しておきたかったんだけど、いつも君が守ってるから、なかなか近づけなくて。君がいないときは、彼の方から私の近くまでやってきてくれるから、会うのは簡単だったんだ。
 けど今は、奴の視線が私から逸れたおかげで、少し動いても大丈夫そうだったから、結界を一部裂いて、お邪魔させてもらった。警告をしておきたかったから」
「警告?………あの、貴方は、リクオ様の夢にたびたび現れておられた方でしょうか?」
「うん。何度か、奴の目を盗んで会った。その子はすごいね、もう《畏》が太極の座へ届くほどになっている。おかげで、奴はその子を見つけてしまった」
「奴………?」
「この世界だけじゃない、何度も、いくつもの世界を巡って、己の欲望のままに滅ぼしている奴のことさ。君とその子が生きる世界も、そいつに目をつけられてしまった。
 これまで、並列する多くの世界と同様、ただ観測していただけのあいつだけど、これからは積極的に介入してくると思っていい」
「それは、《鵺を産み出そうとする者》のことでしょうか」
「そう。そいつはどんな手を使っても、この世界の何者かを依代にして、《鵺》を作りだそうとするはずだ。この世界では既に、安倍晴明が因果を手放しているけれど、《鵺》の依代にされそうな力の持ち主は、他にもいるだろう?
 その子自身が依代にされてしまうかもしれない。あるいはその子の縁者かもしれない。そいつは今までもそうしてきたように、誰にも気づかれないように世界に介入して、歴史を改竄し、千年単位の絶望を植え付けるだろう。
 君も、そしてお腹の子も、気をつけないといけないよ。奴は、自分の手で君たちに手を下すことは決してしない。君自身も、それが奴の手先だとは気づかないだろうし、操られた者たちだって、それを自分の意志だと思うに違いない。
 そういう奴なんだよ。そうやって、晴明は鵺にされたんだ。母を贄にされ、人を、弱者を憎むようにしたてあげられて、鵺という形に封じられた。
 くれぐれも、気をつけるように。君が命を落とすことがあれば ――― それも、何者かに命を奪われるようなことになったなら ――― 」
「私の旦那様を見損なわないで。例え私がどこで息絶えようと、この御方が晴明のように、暗闇だけの世界を欲するはずがないわ」
「買い被りすぎだよ。その子の一番怖いものを、君ならきっと、知っているだろうに」

 つららの居ない夜や朝や、明日。
 たしかに、リクオはそう言った。

 彼女を京都から連れ出すのを嫌がっていた。
 けれど、一度連れ出した今では、どうも奴良家に雪女だけを残すつもりはないようで、眠りにつく前に遠野へ行くと告げたときには、もうここへ置いて行くそぶりなど、微塵も見せなかった。
 京都の外に出たならば、己の傍ら以外に、安全な場所など無いと感じている様子だった。

 常は皆に平等に心を砕くリクオが、唯一無二、他の誰よりこちらが大事と振り返るのは、雪女だ。

「晴明は、世界の存続を願っただけ、《鵺》としてまだマシなくらいだよ」
「………わかった。気をつけるようにするわ。にしても、貴方は色々知っているようね。まるで、見てきたみたい」
「実際、見てきたんだ。これまでも、同じような世界を、いくつも、何度も。
 その子自身が《鵺》になった世界もあったし、その子の父親がそうなってしまった世界もあった。君が《鵺》になった世界も、君たちとは全く別の関わりを持つ妖が、《鵺》になったこともある」
「………幾年も、そんなものを、見てきたの?」
「そういう数え方をするのなら、幾劫も、と言うのかもしれない。
 見ているしかできなかった。私はもう、奴に一度負けた存在だから、せいぜい奴に見つからないようにしながら、こうして、私がいる場所に届いた者へ、警告するぐらいが関の山で。あはは、情けないね」
「………お可愛そうに」

 ふと口をついて出た言葉に、はっと雪女は気がついて己の口元を袖で覆った。
 自分の気持ちが、それもただの思いやりではない、腕の中で眠る夫だけに傾けるべき慈しみが、目の前の男へ向かおうとしたのに、気がついたためだ。

「ありがとう。気持ちだけで充分だよ、つらら」

 青年は穏やかに笑い、銀縁眼鏡を指で押し上げる所作をして、琥珀の目を細めた。
 己の名を呼ばれて、気を悪くするどころか、何故か悲しくなった。

 青年は、髪の色も瞳の色も、声も立ち振る舞いも、彼女の夫に、よく似ていたからだ。

「大丈夫。こう見えても、一人じゃないんだ。話し相手にはなれないけど、《ボク》を、《オレ》を、まだ守ってくれているから。
 じゃあ、そろそろ行くよ。その子が現で目覚める頃だ」

 彼が誰なのか思い当たる前に、青年は縁側から立ち上がり、去った。
 来たときのように歩いてではない、この雪の結界の中へ、どこからか、やはり氷の風がびょおと一陣吹いて、彼を連れ去ってしまった。

 雪女に笑いかけた横顔は優しく、どこか、物悲しかった。



 戸惑いに何度か瞬きをしたついで、ぱちりと現に目覚めた雪女が、腕の中に抱きしめていた夫のいとけない寝顔に視線を落とすと、リクオは、あの青年のような眼鏡などかけたことはなかったので、すぐにはわからなかったが、その横顔は先程、氷の風に消えた青年に、よく似ているのだった。





<<< >>>