二つ目の夢を見た。


 京都抗争を終え、山吹乙女を取り戻したものの、鯉伴は、行方知らずだった妻と子を失った。

 若菜は既に数年前に亡くなっていた。
 リクオは花霞大将として、表向きは羽衣狐の配下、裏では花開院陰陽師の役目を果たし、抗争の中、鏖地蔵との戦いの末、命を落とした。

 鯉伴の悲しみは深かったが、取り戻した山吹乙女が彼を支え、再び奴良組の奥方としておさまったので、次第に彼の心の傷は癒された。
 数十年もすると、二人の間に新たな和子が生まれ、奴良屋敷は歓喜に包まれた。
 かつて失った和子さまが帰ってきて下さったような気がして、皆が祝福した。

 生まれた子の守役をどうしようかとなったところで、あの抗争の後は富士の雪屋敷へ帰っている、雪女の氷麗を呼び戻そうと鯉伴は考えた。
 あの抗争で初めての守子を失った彼女とは、彼女が傷心を癒すために実家の雪屋敷へ帰ったきりだったが、奴良屋敷と富士の縁が切れたわけではない。
 しかし、いざ鯉伴が富士へ連絡を取ってみると、件の氷麗は、一度は富士へ帰ってきたものの、すぐに富士と縁を切って飛び出したきりだ、などと言う。

 雪麗御前にとっても可愛い一人娘なので、なにかと様子を探ってはいるが、詳しいことはわからない。
 今は京都にいて、元気にしているらしいところまでは、確からしい。
 リクオが守っていた伏目に、今も住んでいると聞いて、驚いた鯉伴はどういうことかと、単身、京都へ赴いた。

 そこで鯉伴が見たものは、数十年前に失ったはずのリクオが、あの頃の姿のまま、白百合のように美しい女と、姉弟のように手を繋いで笑い合い、伏目の山奥を散策している姿だった。
 鯉伴は二人の前に姿を現し、どういうことかと問うた。
 しかし、リクオは何も言わない。
 守られ愛されることしか知らない幼子が、突然知らないひとを目にしたときのように、興味深々の眼差しで鯉伴を見つめてくるが、そこには父への感情など、なにもなかった。
 それだけではない、リクオの体は透けて、向こう側の竹林が見えている。

 気づいた鯉伴に、氷麗が追い打ちをかけた。

「生きておられるのではありません。螺旋封印の一部として、この伏目に魂を繋ぎとめられているのです。生前のことなど、ほとんど覚えてはおりませんよ。いいえ、昨日のことさえ、今日のリクオさまは覚えていないかもしれない。なにせ同じ幽鬼と呼ぶには、山吹乙女さまのような強い思念を持たない、魂に祈りや意思の残滓が残っているだけの、この場所を守る、ということ以外には、まるで興味がないものなのですから。
 お知らせする必要が、何故ありましたでしょう?リクオさまが亡くなったことに、変わりはないのです。
 奴良の若様として跡目を継ぐこともできなければ、この場所を離れることもできない。
 それどころか、陰陽師たちには、封印の要石のような、道具のように扱われている、憐れな幽鬼です。仮にも奴良の若君だった方が、妖力を抑える封印の要になっているなどと知れたら、この方の魂を壊そうとやってくる者があるかもしれない。
 それならいっそ、何もかも忘れた幼子として、この山奥で楽しく遊び暮らしていた方が、どれだけ幸せでしょうか!
 二代目、連れ帰るなどと仰せにならないで下さいませ。
 もしそんなことをなさるおつもりなら、私は、あなた様の前に立たなくてはなりません。
 どうか、ここで見たことは忘れ、新たな和子さまを大事になさってくださいな。
 この場所とこの子は、私がお守りします」

 リクオの手を握る氷麗は、幸せそうだった。
 数十年前にはまだまだ少女のような垢抜けなさがあったのに、今はすっかり、一人の女だ。

 氷麗の言うことはもっともだと、鯉伴は思った。
 リクオの魂が、彼女に守られ彼女に甘え、安らいでいるので、鯉伴は黙って京都を去った。

 しばらくはそれでよかった。
 人々が螺旋封印の大事を覚え、伏目に棲む妖怪たちを、畏れている間は。

 しかし、数百年もすると、陰陽師ですら、何かしら突拍子もないことを思いつく。
 過去の訓示を忘れ、現世利益のみ求めて、周囲のもの全てを利用しようとする。

 日ノ本の国の人間たちが、己等の力を誇示するため、大妖を兵器として利用しようと言い始めたのは、リクオが封印の要となってから、二百年ほど経った頃だ。
 自らの力で大妖を作り出し、御す。
 恐ろしい企てに、陰陽師たちが用いようとしたのは、リクオの魂だった。
 記録によれば、大妖の雛であったというし、菩薩に通じる慈悲の持ち主で、しかも花開院に従順。
 これほど好条件が揃ったものもあるまいと、人間たちは喜んで、伏目に乗り込んできた。

 その場から離れたがらぬリクオの魂を、術で縛り付け、屈伏させた。
 常に寄り添っている雪女のことも調べがついており、これを退けて調伏したのも、予定どおりだった。

 守子を必死に守っていた氷麗は、あわれ、陰陽師の術に弾かれて、リクオの前で氷塊と化した。
 そこから少し、予定と違うことが起こった。
 それまで、穏やかで無垢なだけだった幼子の魂が、声など出せぬと思われていた力なき幽鬼が、大声をあげて守役を呼んだのだ。

「 ――― つらら!……つらら、行かないで!行っちゃやだ、やだよ、一人にしないで!」

 悲痛な叫びに、山に隠れ住んでいた小物妖怪や獣たちは胸を痛め涙するも、陰陽師に立ち向かう力を持つ者などない。
 伏目の山に棲む者たちは、生前のリクオを慕って集った温和な者たちばかりだ。

 大声をあげて泣きだしたリクオに陰陽師たちは少し驚いたが、また何やらごにょごにょとやると、リクオの姿はすうっと消え、小さな蛍のような光になって、彼等が持っていた瓢箪に吸い込まれてしまった。

 以降、伏目には、螺旋封印の末席を担うために陰陽師が入るようになったが、その誰もが当然に、伏目に棲みついていた妖怪たちを邪険に扱い、執拗に払ったので、温和で愉快な妖怪たちの楽園は消え、集っていた者たちもあちこちへ逃げ去った。

 氷麗が変化した氷塊だけは、陰陽師たちがいくら退けようとしても、重くで持ち上がらない。
 炎であぶっても溶けやしない。
 どうせ弱い雪女が変化したものだからと、そのうち放っておかれるようになった。

 陰陽師に囚われたリクオの魂は、式神のように術式で縛られ、使役されることとなった。
 その魂に命令式を刻み込み、螺旋封印の中心、鵺ヶ池に奉じると、陰陽師たちは故意に螺旋封印を解除した。
 すると、それまで封じていた陰の気が、螺旋を逆流して鵺ヶ池に流れ込む。
 強大な妖力が器に入り込めば、彼等が望む、彼等の命令に従順な大妖が出来上がる算段 ――― の、はずだった。

 なるほど、生まれたのは大妖だった。
 しろがねの髪は内側から光を帯びているかのようであり、紅の瞳がちらと周囲を見やると、それだけで幻の花々が、光が、視認される。
 藍の狩衣に水晶の数珠をかけた、堂々たる男君の姿は、書物にある伏目明王の姿、そのままだった。

 陰陽師たちは実験の成功を喜び、己等の敵を排除せよと、その大妖に命じた。
 大妖は夢から醒めたばかりのようにぼんやりとしていたが、

「けれど ――― 相手は、人間じゃあないか。人を傷つけることはできない」

 少し困ったように首をかしげた。

「いいや、伏目明王よ、人の姿をしていながら、既に悪鬼羅刹に堕ちた者というのはあるのです。救い難き者どもを、どうか救ってくださいませ」

 命令の術を合わせて、このように祝詞申し上げると、明王は少し考え込み、痛ましそうにつうと一筋涙を流した後、頷いて彼等の言う通りにした。
 それが、彼等の思惑の内ではなかったとしても、彼等の言う通りに従った。

 すなわち、人の姿をしていながら悪鬼羅刹に堕ちた者、救い難きと判断された彼等自身に、刃を向けたのだ。
 暴走したと判断された明王は、囲んでいた大勢の陰陽師たちに術をかけられ、魂の消去を命じられたが、たかが人間どもの小細工などより、大自然の力と、より多くの人々の念で編まれた明王の力の方が何枚も上だった。

 その場で花開院は壊滅し、また、彼等が味方と思っていた日ノ本の人間のほとんどが調伏された。
 彼等が敵として滅ぼしたがっていた人間も、また同じだ。

 途中、彼を主と崇める魑魅魍魎どもが後に続くようになり、我が物顔で現世を闊歩していた人間どもの粛清が続いた。
 リクオの名を知っていた者も、知らぬ者も、いつしか彼を、《鵺》と呼ぶようになった。

 生き残った花開院陰陽師たちが、指をくわえて見ているはずはなかったが、《破軍》は当主の呼び出しにすら応じなくなった。
 道具として式神を使うようになりつつあった陰陽師たちは、今更のように困惑したが、花霞リクオが数代前の当主にとって孫のような存在であったり、弟のような存在であったりしたことを考えれば、当然のことだったろう。
 己等だけで対処しきれなくなった陰陽師たちは、数百年前に、羽衣狐という脅威に対し、関東の妖怪勢が花開院に味方したと知って、藁にもすがる気持ちで奴良組の門を叩いたが、逆に這う這うの体で逃げ帰るはめになった。

 当然だ。二代目総大将奴良鯉伴は、まだまだ現役であったのだから。

 陰陽師たちを叩きだした後、鯉伴は沈黙を守った。
 リクオが《鵺》として目覚めた後、争い合う人間どもを等しく駆逐していると聞いても、あの優しい魂がそれを望むなら、それが人間どもにとっての最上の選択なのだと思われたし、無秩序な破壊ではなく、心正しき人間どもには目もくれていないらしいと知れば、手出しする必要もなかった。

 粛清は長きに渡って続けられ、また日ノ本に留まらず世界に及び、全世界の人間の数は、最盛期に比べて百分の一まで落ち込んだ。

 それで終わったかと思うと、違う。

 人にも妖にも、量が減ったなら減ったところで、やはりいがみ合い争い合う者どもがあった。
 いくら減らしてもきりがない。
 己では救えない。そう思い当たると、リクオは胸を掻き毟らんばかりに哀しんだ。
 いいや、命じられた通りに調伏してきたものの、そこでリクオの魂は、悲鳴を上げたのだ。

 相手を討つことで、滅することで、争い合うことで、救い難きを救うなどできやしないと、本当は誰よりもリクオ自身が知っていることだった。
 それまで何年もの間、調伏し続けてきたのは、花開院の陰陽師どもがかけた呪の力に他ならなかった。

 命令式と、己の魂の叫びとの間で、リクオは悶え苦しんだ。
 屠ってきた悪人どもの呪詛を被って穢れを負ったため、生み出されたときには輝くばかりに美しい大妖であったのが、血に沈むかのような黒い瘴気を帯びるようにもなった。
 そうなってから初めて、リクオは百鬼の群れを離れて一人、あの、伏目の森に帰った。
 そこへ行ってはならないような気がして、これまでは、陰陽師どもを滅ぼしたのちも、流浪の旅を続けるばかりで伏目には帰らなかったのだ。

 そこには氷麗が居た。
 氷塊と化してしばらく眠りについていたのだが、リクオの悲痛な泣き声を聞いて目を覚まし、当然のようにするりと、以前と同じ女の姿を取った。

「リクオ様、お帰りなさいませ。 ――― まあ、こんなに泥だらけに汚れて、さぞかしお疲れになったでしょう。後のことは、氷麗にお任せくださいな」

 変わり果てた姿のリクオに、氷麗は変わらぬ優しい笑顔を向け、リクオは糸の切れた操り人形のように、氷の腕の中に倒れ込み、眠りについた。
 人の哀れを目にし、救い難きを調伏し続け、涙が乾く暇のなかった頬を優しく撫でられて、握りしめていた錆びた刀をするりと落とすと、久方ぶりに安堵の表情で瞼を閉じたのである。

 目を閉じたリクオは、そのまま霜に覆われ永遠の眠りについた。
 力を蓄えれば、またかつて陰陽師たちが刷り込んだ命令式に従って、世界を巡らないとも限らない。そう考えた氷麗が、自ら作り出した氷の棺に、彼を魂ごと封じたのである。
 それだけならば、人にとって長い絶望の終わり ――― と言えたろうが、生憎、氷麗はリクオほど、人間たちに慈悲深くはなかった。

 守子を力づくで奪った陰陽師たちを憎みこそすれ、許してやるいわれもない。
 リクオを封じたのは、リクオがこれ以上悲しい想いをせずにすむように気を回したのであって、人間どもの都合など、これっぽっちも考えなかった。

 それよりも、リクオがこれほどくたくたになるまで動き回っても救いきれない人間とやら、世界とやら、必要だろうかと疑問に思い ――― いいえ、と、すぐに答えを出した。
 これが、リクオが伏目から遠ざかっていた理由だった。
 リクオはわかっていた。
 己が《鵺》と呼ばれても、真に《鵺》ではないことを。
 《鵺》とは、絶望から生まれ来る。けれど、リクオは絶望などしきれなかった。

 だからこそ、己の魂を伏目に捧げ、封印の一つとなって守り続けていた。
 人に絶望しきれず、人が暮らす街を、守りたかったために。
 陰陽師に魂を利用され、人を調伏し続けてきたこれまでも、人を根絶やしにとは考えなかった。
 百人の中にたった一人でも、心根の正しい者がいれば百人を生かした。
 そのために、裏切られ続けることになっても、リクオは信じることを、やめられなかった。

 けれども、氷麗は違う。

 氷麗は人に飽いていた。
 人が、可愛い守子を死してからも封印に縛り付けただけでなく、己等の都合で浚っていったときに、彼女は心を決めてしまった。
 あんなふうに、一人にしないでと泣かせてしまったのは、己に力がないからだと絶望し、力のない己を赦さなかった。
 同時に、なまじリクオが人を守ろうとするから、人どもが期待するのだと考えた。

 氷塊の中で深く眠り、力を蓄えた氷麗が、リクオの声で目を覚ますと、もうどこへも行かぬように棺に眠らせるのは当然だったろうし、また守子の邪魔にならぬよう、人どもを全て排除しようと考えたのも、また当然だったろう。

 彼女がもたらした絶望は緩慢で、そして美しかった。

 全世界を同時に雪雲が覆うと、ふわりふわりと真綿のような雪が降り始めた。
 はしゃぐ子供たちの上にも、調伏の時が去ってほっとした大人の上にも、何の前触れとも感じさせぬ優しさで、しかし決して、止むことなく降り続けた。
 やがて人々が、これはおかしいと気づいても、後の祭りである。
 もはや、改心したから助けてくれといくら嘆いても、雪を降らせているのは、既に信じるのに飽いた、絶望の雪姫なのだから。

 しんしんと雪が降り続くのを、鯉伴は東京で煙管をふかしながら、ぼんやりと見つめていた。
 人はやがて死に絶え、そうなれば《畏》を失って、妖怪たちも死に絶えるだろうと思われる。

 緩慢に、しかし確実に訪れる世界の終わりを、止める術はしかし、誰にもなかった。

 氷麗は子守唄を歌っているだけだ。
 リクオを眠らせただけだ。あの優しい魂が憂うことなく、安らかである世界を望んだだけだ。

 世界がある限り安らぎはないと、世界の誰もが彼等にそう思わせてしまったのだ。

 やがてその世界は凍りつき、永遠に春が巡ってくることは、なかった。



 こういう綺麗な終わり方はいいな、と、鯉伴は笑った。



 これが、二つ目の夢だ。



+++



 三つ目の夢。


 羽衣狐を完全に滅し、山吹乙女を取り戻した末に、京都抗争で大怪我を負ったリクオも、氷麗の健診的な看病で一命をとりとめた。

 奴良屋敷に戻った山吹乙女を、リクオは母上と呼び、何かと気を使って慰めたので、一度は屋敷を出た身が、迷惑をかけた上にまた戻ってくるとは……と、遠慮がちだった山吹乙女も次第に元気を取り戻した。
 鯉伴と山吹乙女、それにリクオの三人で過ごしていると、まるで何年も前からそうしていたようなしたしげな様子である。

 もう何の心配もなくなったのが良かったのか、まもなくして、山吹乙女が男児を産んだ。
 屋敷をあげて誕生を喜び、リクオも祝福して、弟の面倒をよく見て、両親を助けた。

 ところが、弟の初節句が終わった頃、リクオが氷麗を伴って、父母のもとに改まってやってきた。

「和子さまも無事、節句を終えるまでになりましたし、そろそろオレは伏目に帰ることにします。そこでお願いがあるのですが、この氷麗を、妻として迎えたい。連れて行くこと、お許し願えますでしょうか」
「なにを言うのですリクオ、いいえ、氷麗さんとの御縁はなによりと思いますが、そんな、京都に帰るなどと!あなたはこの家の長男ではありせんか!」

 誰より驚いたのは、山吹乙女だ。
 頼りない身の彼女を慰め、庇い、時には父を叱咤してまで彼女の味方をしてくれたリクオを、山吹乙女はいじらしく愛しく感じており、我が子に恵まれた今でも嫌味なく、奴良屋敷の跡取として考えていたのだから。

 当然、鯉伴も、屋敷の誰もが引き止め、必死に説得しようとしたが、リクオの決意はかたく、また、ただ一人、初代だけはリクオの言わんとすることを理解して、リクオの味方をした。

「やいやいおめーら、リクオにあとどんだけ甘えりゃ気が済むんでえ。
 リクオは別に、リクオこそ長男、跡取だと言うお前らの気持ちを疑ってもなけりゃ、リクオが乙女さんを母と慕う気持ちに偽りがあるわけでもあるめえ。ただよ、リクオの都合も考えてみろよ。ここまで長いこと付き合ってくれたが、陰陽師の勤めや京都で待つ一家を放り出すわけにゃ、いかねぇだろうが。あっちにゃ、若菜さんの墓だってあるんだしよ。
 それに、ワシ等や本家の連中はいいとして、幹部連中は今やすっかり、おめぇさんたちの子の方を後継にと考えてるみてえだぞ。人の血は、少しでも少ない方がいいとよ。そんなところが、居心地いいはずもあるめぇ。いい加減、リクオを解放してやれ。
 それでも、リクオや、おめぇはワシの孫で、この二代目と乙女さんの大事な息子だ。それをどうか、忘れてくれるなよ」

 幼い頃に行方知れずになった後、母を失い、陰陽師に身をやつしても生き抜いてきたリクオが初代にはいじらしく健気に思えて、本当は、身代を倅に譲りその倅も落ち着いた今となっては、リクオの方について行ってやりたい気持ちがあるのだが、今そうすれば、幹部どもがまたあらぬ噂をたてないとも限らない。
 リクオが折角、奴良組での山吹乙女の立場を確固たるものにしたというのに、「初代がリクオ様について京都へ行ったということは、もしや初代と二代目との間で、跡目を誰にするか争われているのでは」などと噂がたっては、せっかくの努力が水の泡だ。

 初代に一喝された二代目夫婦も、本家の妖たちも、初代の仰せはもっともだと納得し、引き下がることにした。

 にしても、憂いは少ないように思えた。
 羽衣狐は魂まで滅され、此の世に二度と生まれこない。
 安倍晴明は母体を失い、今度こそ地獄で輪廻に任せるしかないだろう。
 京都は螺旋封印を敷き直して安らかであり、リクオが住む伏目には、リクオに心酔し、帰りを待つ護法たちがいる。

 憂いは無いはずだと何度も自分に言い聞かせ、彼等はリクオと氷麗を見送った。

 その後しばらく、リクオを見送ったときの不安は考え過ぎだったのだと思うほど、幸せな時が続いた。

 鯉伴と山吹乙女には、さらに女児が恵まれ、兄と妹が二人仲良く庭で遊ぶようになると、リクオが去ってしまった寂しさもいくらか紛れたし、リクオも弟と妹を可愛がって、頻繁に奴良屋敷を訪れた。
 弟と妹も、父と母から兄が次の総大将だと聞いていたので、素直に信じ、また、なんでも知っている兄を尊敬して大変に懐いていた。
 もしかすると、弟の方などは父よりも兄の方の言うことを、よく聞いていたかもしれない。

 さらには、リクオの妻となった氷麗が、男児を産んだ。
 こちらは金色の毛並な上、幼い頃から息をするようにいくつも術を使ったので、初代の血筋だともてはやされた。

 リクオの子は、春明 ――― はるあきら、と名付けられた。

 春明は生まれながらの天才だった。
 父から教えられた妖怪の業を、陰陽師の術を、綿のように次々と己のものとし、幼い頃から花開院家でも評判となるほどだった。
 だが、それが性格なのか、たまに奴良屋敷を訪れることがあっても、たいてい、つまらなさそうに一人本を読んで過ごしている。初代や二代目が構おうとしても、必要以上の挨拶は決してしなかった。

 初代や二代目だけではない、実の両親であるリクオや氷麗へも同じだ。
 品行方正ではあるが、決して本心を見せないでいるのは、いっそ不気味ですらあった。

 だが、リクオと氷麗は一人息子に、心から愛情を注いで育てた。
 最期のときまで、それは変わらなかった。

 春明は成人し、花開院の陰陽師となると、めきめきと頭角を現して、瞬く間に己の派閥を作り上げるに至った。
 若く血気盛んな陰陽師たちを束ね、己の出自である伏目鎮護を、護法と称して妖を抱え込む異端であると、激しく糾弾するようになったのだ。
 リクオは何度も話し合いを求め、春明を諭したが、春明は本心からそうしていると言うより、もっと根深いところに理由があって、その恨みを晴らそうとでもしているかのようなのだ。自ら伏目屋敷には寄り付かなくなり、とある分家を頼って、リクオの言うことに耳を貸さず、糾弾した次には、異端を実力で排除するよう呼びかけまで始めた。

 羽衣狐との京都抗争において、どれだけ伏目屋敷の者どもに助けられたかなど忘れて、花開院家のほとんどの陰陽師たちが、リクオたちを追い出すという思想に取りつかれたのは、春明の巧みな論述によるものだった。

 リクオと氷麗は相談の末、伏目を捨てて、氷麗の実家である富士山麓の雪女の里を頼ることにした。

 陰陽師たちのほとんどはそれを聞いて、京都もいよいよ妖を追い出して、本当の平らかで安らかな場所になるぞと喜んだが、春明の熱心な信奉者たちを中心とした一部のものたちは、生易しい、と断じた。

 逃がすなど生易しい。
 全て討ち滅ぼし、花霞リクオについては、螺旋封印の要として利用すべきだ、と。

 そこで、陰陽師たちの多くは気づいた。それは何かおかしい。何か、間違っている。

 ところが、陰陽師たちが春明を止めようとしたときには、既に別の手が打たれていた。
 それまで、妖怪や神仏の存在など忘れていた人間たちが、ひょんなことから妖怪たちの姿を認め、混乱をきたして、また妖怪たちを討つべき敵として認定したのだ。
 人間と妖怪が互いに睨み合い滅し合う混乱は日ノ本全土に及び、陰陽師たちは春明の指示のもと、あちこちへ飛んで妖怪たちを討った。また、己に従う妖怪については、絶対忠誠の命令式を与えて飼うこととし、その力に、人々は驚き賞賛した。

 もちろん、螺旋封印を担っていたリクオの義兄たちが、黙っていたはずはない。
 人間と同じように、妖怪の全てが悪ではないと声を枯らして叫んだが、その教義は花開院の中でもまだ新しく、論議されていた途中のものであり、ほとんどの陰陽師たちにとってはまだ、妖怪は黒で、人間は白。
 妖怪たちへの嫌悪の念、憎悪、疑心、恐怖は、逆に春明に対する信仰となり、春明は大いなる《畏》を得て、人間たちを総べるほどになった。
 強大な権力を握った春明を、リクオの義兄たちが止められるはずはなく、花開院は分裂。
 春明を見限った者たちは、リクオを守るように、伏目に集った。

 逃げ惑う妖怪たちを庇い、懐に匿うリクオは、人間たちの敵として断定された。
 関東では、奴良組もまた多くの人間たちから、弱い妖怪たちを庇っていたが、春明はそちらよりも、伏目に籠城する花霞リクオを、敵の大将として名指ししたのだ。
 こうなっては、リクオも富士に引っ込むどころではなくなった。

 人と妖怪の睨み合いは、数年に及んだ。

 その頃日ノ本の上空に渦巻いていた、黒く淀んで今にも零れ落ちてきそうなほどに重苦しい念を、人々は見ていたろうか。
 殺せ、殺せと手を突き上げて叫ぶ己等の醜さに、気づいていたろうか。
 彼等の後ろで、さも正しい道を指示しているかのような美青年が、にたりと満足げに笑んだのを、知る者があったろうか。

 中には、見て、気づき、知った者たちがあった。
 彼等はそれまで排除の対象としていたリクオを頼って、そこで本当の、《畏》を知った。
 リクオは、息子に牙をむかれた後も、変わらず凛としてそこに在った。
 まるで、こうなることを最初から予見していたかのようだった。

 リクオは数年に渡り、伏目で祈りを続けてきた。
 準備のためだと護法たちは知っており、また人々もそう知らされていたが、何の準備かまでは、護法たちまでしか知らなかった。
 けれども、その準備というものを、他ならぬ春明が怖れており、準備が整う前にと、人々を使った波状攻撃を、何度もしかけてくる。

 伏目でこれだけの奮戦をしているのに、初代や鯉伴が黙って見ていただけのはずがない。
 あちらも、関東の人間どもとの戦で疲労困憊していたが、一区切りついたところでまず初代と鯉伴が、幹部連中と息子たちに後を任せて、少数精鋭を率い、伏目にかけつけた。

 伏目には、妖怪たちが籠城のために築いた城があった。
 そこを中心にして、人が、折り重なるようにして倒れ伏している。
 森は無残に焼き払われ、水源は枯れ、あちこちに怨嗟の念が漂っており只事ではない。

 けれども、城はそこに残っていた。
 人間たちに囲まれたその場所で、ただ一人の男が、門前に立ち、城を守っていた。

 鬼童丸だった。

 くわと開いた厳しいまなざしで、周囲を囲む生き残った人間たちをぎらりと睨み付け、決して寄せ付けない。
 無謀にも切りかかった人間たちは、死んだことさえ知らぬまま昇天したのだろう、首の無い死体がいくつも、彼の足元にかかっていた。
 この男の姿を認め、また門が閉ざされているのを見て、初代と鯉伴は安堵した。
 彼が守っていたのなら、リクオは無事だ。そう思えたからだ。

 鬼童丸に近づけぬ人間たちの間をゆうゆうと歩み、二人は鬼童丸の肩をぽんと叩いたが、そこで、気づいてしまった。

 お疲れさん、敵さんがやる気ないうちに、とっとと城の中に引っ込もうぜ、などと言って、鬼童丸に肩を貸し、門の脇の隙間の向こうから見張り番に声をかけて中へ入り ―――― そこで鬼童丸を、地に下ろした。
 外の人間たちは気づかなかったらしい。
 鬼童丸はすでに、死んでいた。
 妖の最後は、その妖の性に合わせて、塵のようなものへ変化し消えるものと、そう言われていたのに、彼は、リクオの父を几帳面に続けてきた彼は、塵にも砂にも変わらず、只人のように、骸を残して死んでいた。

 立ったまま、後ろを守ろうとしたままで。

 戸板に横たわらせて城の中へ運び、一室へ横たわらせて目を瞑らせると、二度と、目を開くことはなかった。

 忠実な護法の一の死、それも、鬼から人へ変化したかのような死に様に、囲んでいた人々や妖怪たちは、言葉もなくすすり泣いてその死を悼んだが、リクオはどこへ居るのやら、師父と慕った者の死に顔を、確かめにくる気配もない。

「リクオは、一体どこで何をしていやがる?」
「 ――― リクオ様は、封印の要となる場所、地下の白木の杭の傍で、五十六億七千万の念を集めるための、瞑想をなさっておいでです」

 答えたのは、いつの間にやら二人の後ろに控えていた、氷麗だった。
 最後に会ったときよりも痩せ細り、二人に向けた微笑みは、そうなる前に唇がわなわなと震えて、涙がほろりと頬を伝い、二人が言葉もかけられずにいると、目の前でがばりと伏した。

「初代、二代目、申し訳ございません ――― 私は、私は、大変な子を産んでしまいました。春明は、なんと、あの安倍晴明の転生した姿であったのです。あやつは、羽衣狐を謀り己が治めるべき京都を掠め取ったリクオ様を恨んで、このような騒ぎを起こしたのです」
「なんじゃと?!それは、確かなのか?!」
「はい。このような戦となる前に、リクオ様とあやつめが、顔を合わせる機会が何度かございました。リクオ様は、あやつに言い聞かせ、諭そうと、やめさせようと、言葉を尽くしたのでございます。なのに、あやつめは、リクオ様と私に向かって、『お前を父などとは思っていない。また、その雪女を母と思ったこともない。私の母は、あの羽衣狐ただ一人だ』などと ―――― 」
「なんてこった……晴明の奴め、まーだ諦めてなかったのかよ」
「リクオ様は、いつからか気づいておられたようでした。そのため、そんな罰当たりな事を言われた後も、父親として、心を尽くしてあやつに語りかけておいででした。私にも、『例え前世がどうであれ、あの子の父と母は、お前とオレしかいないんだよ』と、そう仰せで ――― けれど、けれど、私 ――― 私が、あんな子を身ごもったから ――― 」
「 ――― そう泣くな、雪女。リクオはな、おそらく最初から気づいておったのじゃろう。じゃなけりゃ、春明だなんて名前を、つけるはずがない。気づかんか?晴明もまた、はるあきらと、読むじゃろうが。リクオが諦めていないのなら、どうしてワシ等が最初に諦めようか。さあ、リクオの元に案内しておくれ。何かできることがあるなら、この老いぼれの力など、ミイラになるまで吸い取ってもらって構わんからのう」

 泣き伏していた氷麗は、初代の言葉に我を取り戻し、しっかりと頷くと、二人を城の地下深くへと誘った。

 地下は、水源となっていた。
 螺旋封印の八は、その一と対になっており、つまり、鵺ヶ池とつながっている。
 澄んだ池の底では、月を映したような光がちらちらと、たゆたっていた。

 この池の先、鵺ヶ池の元には、春明がいるはずだった。
 長期化した争いの終結をはかるため、春明は螺旋の封印を利用し、弐条城から伏目に向かって、故意に封印を解き、忌み深き念を送り込もうとしていた。

 逆にリクオは、春明がいる鵺ヶ池へ向かって、瞑想の末の浄化の一撃を、送り込むつもりなのだそうだ。

 池の上に方陣を組み、座して瞑想を続けるリクオを、二人の副将を始め、多くの大物たちが囲んで守護していた。
 見れば、彼等もまた、外で戦っている妖怪たちや人間たちに負けず劣らず、満身創痍の有様である。
 二人の姿を認めると、リクオを囲んで立っていた彼等のうち、象牙色の大狸へ化生していた玉章が、姿を人の子のそれに変じて、肩をすくめてみせた。
 毛並はくたびれ、あちこちに泥や血がこびりついていたが、人の姿をとっても、それは同じだった。

「 ――― やっと、魑魅魍魎の主、初代と二代目のおでましかい。……良かった、正直、僕はもう限界だった。……こんな事、ボクに言われなくてもそのつもりだと思うけど、言わせておくれよ。どうかリクオくんを、守ってあげてほしいんだ。……ボクの、大切な友達なんだよ」

 言い終えると、答えを待たずにふらりと傾ぎ、水面にぶつかるより先に、ふわりと塵に姿を変えて、玉章は消えた。

「言いたいことだけ言ってさっさと消えやがって。疲れてんのは、てめーだけじゃねーっての。……初代、二代目、俺もここまでみたいっス。氷麗の姐さん、これこの通り、リクオはぴんぴんしてまさぁ。瞑想もそろそろ終わる頃ですよ。これまで、お疲れさんでした。……瞑想が終わった後、俺等のこと訊かれたら、一足先に休んでるって、伝えてください。嘘じゃねえから、それぐらいなら、言えるでしょ。お願いしますよ」

 直衣姿の大狒々、猩影。
 こちらも、立っているのが不思議なぐらい、あちこちの肉が抉られ、血だるまのような姿で立っていたが、父から譲られた女面を取ってにかりと笑むと、仰向けに倒れ、やはり塵になって消えた。

 二人を追うように、大物たちも次々と、一言二言、彼等に預けて消えて行く。

 やがて、初代、二代目と氷麗を残し、リクオを囲む者は、いなくなってしまった。

 ――― 静寂。

 だが、それも長くは続かなかった。
 消えて行った者たちが、何を相手にしていたのか、初代も二代目も、すぐに知ることとなる。
 鵺ヶ池から送られてくる怨嗟の念が、水底の明るい光を黒く塗り替えて、そこから、鋭い牙や爪をもった怪魚たちが、リクオの首を狙って飛び出して来たのだ。

 氷麗が瞬時に氷の壁をリクオの周囲に張り巡らせ、第一陣の怪魚は勢いのまま、壁に激突して果てたが、水面は泡立ち、水面そのものが怪魚の口と化して、リクオを飲み込もうと飛び掛かる。
 リクオは深い瞑想の中にあって、まるで無防備だ。
 初代や二代目が次々と怪魚を払い、襲いくる怨嗟の念を払うのだが、一匹の怪魚が小さいながら、千人分の憎悪怨嗟を抱えてやってくるので、薙ぎ払う程度では消えてくれない。明鏡止水の浄化の炎で払っても、炎の海を泳いでなおも噛みついてくるほどだ。

 三人はリクオを中心に守るようにして、そこから長い時間、怪魚を払い続けることになった。
 昏い地下水源で、どれほど戦ったろうか ――― 三人ともが、大妖と言えるほどの力の持ち主だが、その全員がぜいぜいと息が荒くなるのを隠せなくなった頃、リクオが、目を開いた。

「 ――― お爺ちゃん、それに、お父さん、来て、くれてたんだ」

 リクオが目を開いた瞬間、朝陽が昇ったかのように、辺りは淡い光に照らされて、あれほど執拗だった怪魚が、慌てたように水面に潜り帰って行った。
 どれほど長く瞑想に沈んでいたのだろうか、身を起こすと、纏った白装束がリクオの細身を滑るようにならったが、胸元のあわせから、浮いたあばらが見えている。

 金褐色の髪は背まで伸び、出した声は弱々しい。
 立ち上がったものの、氷麗が支えなければ、そのまま池の中へ倒れ込んでしまったろう。

「それに、氷麗 ――― ずいぶん、待たせてしまったね。……皆は?」
「………初代と二代目がいらしたときに、先に休ませてもらうと言って、下がりました」
「………そうか。無茶をさせちゃったな」

 それほど弱っているのに、どうしてか、初代も鯉伴も、今のリクオに視線で撫でられただけで、はっと息を呑んだ。
 内側から光に満ちたようなその姿に、例えようもない《畏》を感じ、声をかけがたく感じるほどだった。
 同時に、今を逃すと、言葉を交わす機会を失ってしまう気がして、リクオを失ってしまう気がして、何か言わなければ、今言わなければと、焦りが生じる。
 結果、ただ、リクオ、とその名を呼んだ鯉伴 ――― それ以上は、言葉が継げなかった。

 語るべき言葉は、もうなかった。
 リクオの微笑みが、こんなにまで打ちのめされた中でも尚、慈愛に満ちた視線が、全てを覚悟しているようで、もう何も、言えなかった。



 ただ、《また》間違えたのだ、とだけ、思った。
 己はどこかで、《また》何かを、選び間違えたのだ、と。



「きっとこれが、最期になると思うから、言っておきたいんだ」



 息子が父より先へ逝く、そんな場面など、何度も見ているはずがないだろうに、どうしてか、何度も見ているような気がする。
 こんな風に、リクオが笑って、これでいいと全部赦して、全部引き受けて、去って逝くところを、何度も見た気がする。



「ボクはこれから因果を祓う。だからね、どんな結果になったとしても、決して、復讐なんて考えないでほしいんだ。オトシマエつけるとか、そういうのは要らない。ううん、絶対に、考えてほしくない。
 復讐は復讐を生むだけだ。螺旋のように、絶え間ない死を生むだけだ。
 お互いにお互いを不幸にし合うだけだ。
 あの時は、斬らなくちゃならなかったのかもしれない。その時は、それ以外に方法がなかったのかもしれない。過去のことを責めているんじゃないんだ、これからのことを、言っているだけ」
「わからねェ ――― リクオ、お前が背負おうとしてるのは、何の因果だ。お前は、生れてきたてめぇの息子が、安倍晴明だってわかってて育てたのか?自分に牙を剥くことがわかってて、あんなふうに大事に育てたってのか?なんでそんな事をした。わかってたなら、芽のうちに摘んじまえば ――― 」
「春明はボクの息子だよ、父さん。他の誰の子でもない。前世がどうあれ、今はボクたちの息子だ。けれど、あの子は今、前世の因果に囚われている。そんなもの、全て忘れて現世に生まれてくれば楽だったろうに、苦しんで、苦しんで、苦しみの末に、こうして世界を巻き込んでいる。それをまた、羽衣狐にしたように滅すれば、それで全部片付くんだろうか。一度因縁が生まれたなら、それは、憎しみをぶつけ合うことでしか、終えられないんだろうか。
 ううん、そうじゃない ―――― 母さんが守ろうとした世界は、そうじゃないんだよ、父さん」



 《母上》と、心から山吹乙女を慕い尽くしたリクオが、《母さん》とそのひとを呼ぶのは、何年ぶりだったろうか。
 鯉伴さえ、若菜の存在を過去の痛みに数えはしても、最近ではリクオが母と呼べば、山吹乙女を連想するほどになっていたのに。



「もっと、良い方法があったのかもしれない。けど、今、この状況では、ボクには他の方法は考えつかなかった。正直、春明に申し訳ない気持ちもあるんだ。羽衣狐には、ボクも世話になっていた身分だし、裏切者と言われれば、そう、なんだよ」
「あんな女狐、滅されて当然だろうがよ!人間どもの生き胆を狩り、乱世を作り、怨嗟をまき散らし ――― 」
「でも、優しかったよ」
「 ――― 」
「たしかに、怖いひとだった。けど、それだけじゃなかった。人に裏切られ、貶められ、痛めつけられたひとだからか、打ち据えられたり、裏切られたり、貶められたり ――― 特に、そうされた子供には、とても優しかった。もう少し、お父さんがくるのが遅かったなら、ボクは、羽衣狐さまに下っていたかもしれない。
 怖いひとだった。でも、あたたかくて優しい母性が、その奥には息づいていた。晴明が何度でもこのひとから生まれてきたいと思うくらいだもの ――― その母を、ボク等は、奪ってしまったんだ」
「だから、お前がオトシマエつけるってのか。だから、お前が犠牲になるってのか。なんだ、そんな方法があるならおれに教えろ。そんな事ができるってんなら、おれが」



 リクオは、ゆっくりと首を横に振った。



「これは、ボクの役目だから」



 淡くたゆたっていた光が、リクオを中心にして強くなる。
 呼応するように、池全体が震え、天井から鍾乳石が崩れ池が波立ち、底からはこれまでより一際大きな怨嗟が水脈を辿って、唸りながらやってくる。
 怨嗟は巨大な闇色をしていたが、リクオの光はさらに強く、これを押しとどめるので、二つの大いなる力のせめぎ合いで、京都全体が震えだした。



「役目 ――― 」

 鯉伴は絶句した。
 ここに来てやっと、リクオがこれまでなしてきた事柄が、布石であったと思い至った。
 己と山吹乙女との仲をとりもつような真似をしたのは、奴良家を次代へ繋ぐため。羽衣狐や安倍晴明との因縁を持たぬ、綺麗な血筋として繋ぐために、リクオ自身は、影の役目を選んだに違いなかった。

 祖父ぬらりひょんから始まった、羽衣狐を巡る因果を、互いに滅し滅されるだけのものから、形を変えて、真心と理解で包み合うものへ、変化させようとしたに違いなかった。
 けれど、そうするには、羽衣狐という符号が足りない。
 彼女がせめて、輪廻を待つ魂としてだけでも存在していたならば、安倍晴明の魂は、ここまで怨みで凝り固まることも、なかったかもしれない。

 全てが後の祭りだ。
 羽衣狐の存在を滅したのは、鯉伴だ。
 因果は巡って、鯉伴は今、息子を失おうとしている。

 リクオは、晴明に母を失わせた代価として、己を支払おうとしている。

 なのにどうだ、リクオは泣き言一つ、恨み言一つ言わない。
 己自身が消えた後にも、鯉伴が現世に絶望しないよう、妻や子をきっちり用意して、ただ一人で逝こうとしている。

 ただ一人 ――― いいや、その手を、氷麗が握った。

「リクオ様、氷麗も参ります。あの子は、私の子でもありますから」
「 ――― ありがとう、氷麗。辛い想いをさせたね」
「いいえ!……いいえ、いいんです。幸せでしたから」
「うん。……ボクもだ。お前がいて、あの子がいて、幸せだったよ」



 光は強く ――― 地響きもまた、引きずられるように強く ――― 四肢が千切れそうになるほどに揺れは激しくなり ―――― 。









「 ――― オン・マイタレイヤ・ソワカ ――― 巡り来る未来に、幸多かりしことを」









 呟くような静かな真言が、光と闇の拮抗を破った。

 閃光。爆風。礫が容赦なく降り注ぎ、ぐわんぐわんと鼓膜を破らんとするほどの怨嗟が地の底から這い上がり ――― しかし、それさえ光は包み込み、やがて。









 京都を覆っていた、怨嗟の黒雲は、光に包まれ瞬く間に消えた。

 はたと、それまで武器を握っていた人間たちが、いつまでこんな事が続くのだろうかと、我に返った。
 小物妖怪たちが、目に涙をいっぱいためて、すみっこで一塊になってぶるぶる震えていたところへ、今まさに破魔の弾丸を浴びせかけようとしていた者も、これでいいのかと、踏みとどまった。
 小物たちを庇うために盾になった女怪に、破邪の刀を振り下ろそうとしていた者も、全身から血を流し、きっとこちらを睨み付けるその目に映る己を顧みて、まるで己の方が怪物のようだと、さっと青ざめた。

 きっかけはどうあれ、ほんの一瞬のためらいが、ありとあらゆる場所で、人々の中に生まれた。
 その隙に、妖怪たちは僅かな隙間にするりと入り込み、異界深くに逃げ込むことができた。

 陰陽師たちは、螺旋の封印を逆流するようにして、光の渦が伏目から弐条城へ流れ込むのを、はっきりと視認した。
 どんなに力の無い者であっても、陰陽師の修行をしていない、少し霊感があるという者でさえ、それをはっきりと見た。

 光の奔流が、闇の濁流をことごとく押し返し、弐条城を包み込むや空に向かって一直線の柱となったのを。
 その光の柱の中に、人々から押し出された怨嗟の念が寄り集まり、次々と昇華して消えていく。
 一際大きな、弐条城の影かと思われるような大きな念もまた、光の強さに耐えきれずにか、最後に炙り出されるように現れて、悶え苦しむような形をとりつつ、しかし最後には、ぱらぱらと小さな灰のごとく光の中で散じた。









 弐条城において、怨嗟の念を束ね伏目に放った張本人、花霞春明は、鵺ヶ池に居た。
 転生前、安倍晴明だった頃に、母が己を生んだ場所、鵺ヶ池。
 そこに淀んだ千年の憎悪を、憤怒を、怨嗟を、全て伏目に叩き込んだつもりだったが、逆流してきた光の束はそんなものなどものともせず、春明の予想をはるかに超えて、京都だけでなく、全世界に淀んでいたあらゆる負の感情を、祓ってしまったらしい。

 光の一撃を浴び、すっかり消滅を覚悟していた春明もまた、意識を取り戻したとき、それまで冷たい視線で辺りを一瞥していた凛としたたたずまいはどこへ消えたやら、腰を抜かして呆けたようにそこへ座り込んでおり、一瞬の後、はたと我に返った。
 弐条城の損害を確認すべく、すぐ傍に控えている陰陽師へ、厳しい一喝を ――― したのではない。

 どうしてこんな簡単な事を忘れていたのだろうと、ざわり、背筋が泡立った。
 光の柱に包まれた瞬間に思い出したのは、幼い頃、転生前と現世との記憶がぐるぐるとして曖昧だった頃に、父に背負われ、母に抱かれして過ごした、伏目での日々だった。

「 ――― 父さん ――― 母さん ――― 」

 腰を抜かし、立ち上がれぬ陰陽師たちが呆けているうちに、春明は立ち上がり、式神を喚んで弐条城から文字通り飛び立った。
 行く先は南東、伏目の森。

 安倍晴明として、羽衣狐を失った悲しみが癒えたのではない。
 ただ、花霞春明として、愛されていた記憶を、不意に思い出した。
 どうしてこんな簡単なことを忘れて、前世などという、馬鹿げた因果に身を任せてしまったのか、祓われた今となっては全くの不可思議。
 言えることは、つい先ほどまで、例えようもない憤怒が胸に沸き起こっており、何を言われても、どう触れられても、神経を逆なでされるばかりで何も耳に入ってこなかったのだ。

 式神で空を駆り、懐かしい伏目の森へ飛んだ春明は、愕然とする。

 緑濃く、水の気配溢れた神の森は、炎に焼かれ呪いに覆われ、今や木々は灰色に焦げ付き土は腐り、かつての面影など、まるでなかった。
 その中で、妖たちが築いた城を見つけ、その中へ舞い降りると、皆が同じように、光の四散に呆けている間を縫うようにして、幼い頃の記憶を頼りに、伏目封印の中心へ ―――― 地下水源へと駆ける。

 ほどなく入口は見つかり、地下へ、地下へとはやる気持ちを抑えきれず駆けた。

 石段はあちこち崩れかけ、壁も天井も、先ほどまで春明が放っていた怪魚のなせる業か、いくつも大きな穴が開いて道を塞いでいたが、大きなものの隙間を縫い、小さなものを飛び越えて、奥へ奥へと。
 やがて、春明は見つけた。

 リクオと氷麗は、二人手を繋いで、壁を背に、互いの肩に寄り掛かるようにして、目を瞑っていた。
 一度、光に押しやられるようにして絶えた水が、再び滾々と、二人の周囲から湧き出て、二人の足元を濡らしている。

 父さん、母さんと、再び叫んで、ほとんど転がるようにしながらその前に滑り込み、二人の頬へ触れる。
 まだ、あたたかかった。
 あたたかかったが ――― 応えは、なかった。

 あたたかさは、指先で、途端に冷えていく。



 はる、と。



 幼い頃の春明を呼ぶ父と母の声を、彼は不意に思い出した。



 あれは花、あれは月、あれは雲、あれは雪 ―――― 此の世のあらゆる者を、現世に生まれなおしたその時に、父母から教わり直した。
 今、春明が手繰っている言葉や、それにまつわる記憶は、転生前のものではない。
 転生前の記憶など、いざ思い出してみようとすれば、どろどろとした感情ばかりが先立っており、言葉のように形にはなっていなかった。

 それよりも、



 はる、桜が咲いたよ。うん、春が来たんだね。そうだよ、お前の名前の、春が来たんだよ。
 はる、ほらごらんなさい、お月さまが本当に綺麗だこと。 ――― え?かあさまのおめめと同じ?あらやだ、この子ったら、今からお上手だこと。ふふふ、ありがとう、はるあきら。
 はる、もみじだよ。はる、もうそろそろ寒いから、少しあったかい格好をなさい。ほら、襟巻をして。
 はる、こたつをだしたよ。はる、さむくはない? はる ――― はる ――― はる ―――



 どれだけ声をかけても、揺さぶっても応えぬ二人に、幼い頃に注がれた真心の方が、春明には今、よほど大きな光、よほど大きな影だった。



「私は ―――― どうして ―――― 」



 転生前の母を滅された魂の痛みが引き金となり、沸き起こった怒りに、為すすべなく流されていたと、今ならわかる。
 相手がすぐ傍に居る怒りなら、ここで春明は、その怒りのまま、受け継がれた力を全て放って、《鵺》にでもなっていたかもしれない。

 だが、ならなかった。

 冷静になったその時に、世界の外側で、彼が《鵺》となるのを、今か今かとほくそ笑みながら待っている何者かがあるのを、その才気ゆえに感じ取り ――― なるものか、と、目の前の父と母の亡骸へ、涙ながらに誓った。
 すると、その何者かの視線は、己から興味を失い、この世界から去って行ったようだった。
 そうなってから、春明は激しく哭いた。

 彼の周囲を、慰めるようかのように、蛍火のごとき光の粒がいくつも浮いては、消えた。









 この様子を見届けて、初代と鯉伴は、気配を消したままその場を去った。

 その後、京都でいかなる事変があり、春明が何を考えて行動を起こしたのか、詳しくは二人も知らない。
 乱れた関東を改めて平定するだけでも、奴良組にとっては大仕事であったし、春明の方から助けを求めてくるのであれば別として、一度は敵となり、リクオと氷麗を失う原因となった相手を、時間も置かずにすぐ許してやれるほど、初代にとっても鯉伴にとっても、失ったものは少なくなかった。

 何十年か経って、人間たちが妖怪どもとの折衷を覚え、互いに互いの境界線を犯さず暮らす方法を身に着けた頃、遠く風の噂に、花霞春明が花開院当主の座についたと聞き、またその数年後に、彼を恨む人間だか妖怪だかの残党の凶刃にたおれたと、伝わってきた。
 けれども、彼があの騒乱の後、父の遺志を継いで人間と妖怪との橋渡し役を始め、また後進を育ててもいたので、混乱は少なく、花開院は代替わりした、と。

 彼ほどの実力があれば、暗殺者ごときの手にかかって死ぬはずもあるまい。
 だからその話を聞いたとき、鯉伴は、己の孫が、死に場所を探していたのだと合点した。

 若菜の魂は天にも地獄にもなく、世界へ溶けて己等を見守っているという。
 リクオと氷麗も同じく、その魂はやはり、成仏して世界の一部となったらしい。

 春明もまた、鯉伴と同じように地獄や天界へ探りを入れられる身なれば、その事実を知っていたろう。
 この先どれほど生きても、己があの二人に再び出会うことはないと知って、己が抱えていた因果が二人に引導を渡したと知ってこれまで、どんな絶望の中でもがき生きてきたことだろう。



 そんな残酷な世界が、リクオや氷麗、そして春明、多くの人や妖、それぞれの生にも死にも、まるで頓着なく続いていく。
 山吹との間の兄妹はすくすくと成長し、兄の死や従兄の死を悼みながら、過去のものとして生きていく。
 当たり前の、続いていく、という、その事実に、ふと鯉伴は気が遠くなった。

 絶望とは別に、己の妻の死を知ったときに、我が子の亡骸を目の前にしたときに、孫の死を知ったときにすぐ訪れるものではない。
 全てが終わり、一度壊れたものが何事もなかったかのように再び形作って、なくなったものは以前からなかったかのように、そのまま綺麗な形になって続いていく。これを予感したときに、ぞっとしたものがこみ上げてくることがある。

 今の鯉伴のように、煙管をがじりと噛みながら、蒼い空を眺めて縁側で寝転がっているときに、不意に決めてしまうこともある。



 奴良屋敷には、再び平穏が訪れていた。
 山吹乙女が出奔したことなど、なかったかのように、彼女は妻として奥を仕切っていたし、彼女と己の血を引く兄妹が、次代の奴良家を受け継ぐものと、幹部たちは疑いもしていない。
 まるで、若菜が居たことなどなかったかのように、リクオがこの庭で遊んでいたことなどなかったかのように、傷は癒され、膿みもせず、馬鹿馬鹿しいほど穏やかな光が降り注いでいる。

 確かに、因果は祓われた。
 奴良家が、羽衣狐と安倍晴明の魂を贄にした分、若菜とリクオが彼等の贄にされた。
 二つの消滅を互いに交換し合ったことに思い至らず、今や何の憂いもないと、妖怪たちは毎日飽きもせず、馬鹿騒ぎを繰り返す。

 このままでは、ずうっとこれが続いていくのだろう、己が死んだ後も続いて行くのだろうと気づいてしまうと、もう鯉伴は、いてもたってもいられなくなった。

 若菜が居ない。
 リクオが居ない。

 彼等が一体、どんな悪行をしたと言う。

 彼等が払ったツケは、他人の分だ。

 無垢な魂を飲み込んで、世界は当たり前のような顔でそこに胡坐をかいている。

 世界は、どんな妖怪よりも悪食だ。
 無垢なる魂を、無造作にもぎ取ってしゃぶり尽くし、平気な顔をしている。
 因果を内包し、因業を許容し、時折当然のように無垢な魂を贄にして、乱れた因果因業を整える。



 何を間違った。どこでどう選べばよかった。
 若菜は間違えたのか。リクオは間違えたのか。己はもっと別のものを、選べばよかったか。

 否。

 こんな風に、ばくりばくりと無垢な魂を喰らい尽くす、世界の方が間違っているのだ。



 思い至ったときに、鯉伴は《鵺》となった。



 以降の世界の色は、あまり判然としない。
 誰を斬ったか、誰の悲鳴を聞いたか、誰の願いを踏みにじったか、そんなもの、数えようとも思わなかった。

 きっと壊しつくせば、世界に溶けたという若菜やリクオと会えるかと思ったが、最後までその姿形を見つけることはできなかった、それだけが残念でならなかった。



 誰より上手く世界を壊したはずなんだが、と我ながら思いつつ、星屑さえ残らないほど世界を壊しつくした果てに、カシャン、といよいよ内側から世界が壊れる音がしたのを足元に聞いて、鯉伴の意識は消えた。



 これが、三つ目の夢だ。



+++



 四つ、五つと夢を見る。
 鯉伴の意思に関わらず、次から次と、幻灯のごとくするすると、場面は変わる。
 六つ、七つ、……十、二十、百を超えた頃から、幾つ目か、数えるのをやめた。

 どこかの夢で死んだ者、滅んだ者が、どこかの夢では生きていたりする。
 同じような筋書きで、細かい順番だけが違うこともあった。

 まるでこの夢は、鯉伴が若菜を喪ってからこれまで思い描いてきた後悔を、そのまま形にしたかのようだった。
 あのときこうしていれば、ああしていれば。

 けれども、どれもこれも思うほどうまくはいかず、かえって、失ったものを取り戻そうとして、今あるものを失っていく方が、多いように思える。

 ふと、若菜とリクオが屋敷から追われぬ方法はあったのだろうか、そんな夢物語はあるのだろうかと、夢の合間に考えつくと、次に見た夢は、それまでとはがらりと違った。

 ある日、鯉伴はリクオを連れて散歩に出かけた。
 夢の中の鯉伴は、なんとなく、そうしたかったから、で済ませていたが、いくつも夢を見てきた鯉伴は………手を繋いで歩く父子を、空気のように辺りを漂いながら眺めている鯉伴は、知っている。
 その日は、若菜とリクオが追われた日だった。

 ところがその夢の中で、鯉伴がリクオの手をしっかと掴んではなさぬものだから、リクオを追い出そうと画策していた輩は、手を出せない。

 二人の前にその日、山吹乙女に瓜二つの少女があらわれ、その華奢な手に握られた刃が鯉伴を貫いたとき。
 リクオと若菜が追われる未来は、消えた。

 二代目が生きている間は、ただの人間の娘、妖力を魅せぬなりそこないの子供、そう陰口を叩かれていたのが、いざ二代目が死んでみると、他に奴良の血を引く者はないのだからと、今度は皆が、若様を、その御母堂をお守りせねばと考えるようになった。
 皮肉にも、鯉伴の死が、母子を守ったのだ。

 奴良の若様として育つリクオを夢見て、鯉伴はいくらか満足を覚えたものの、しかしこちらもこちらで、万事うまくいったものではない。
 奴良組は、鯉伴の死からものの数年で弱体化。
 リクオは妖力の目覚め遅く、元服の年にやっと本格的な血の目覚めを迎えたが早いか、時の余裕を持たぬまま、奴良組は、羽衣狐との抗争に巻き込まれていく。

 リクオが選んだ其れは、修羅の道。
 血で血を洗い、死屍累々と積み上がった人ども妖どもを踏みつけて、尚先へ進む姿は、果たして鯉伴が望むリクオの未来の姿であったかどうか。



 花霞リクオの夢。
 奴良リクオの夢。



 こちらで当たり前のように在る何かが、あちらではわれ。
 あちらで当たり前のように在る何かが、こちらではわれる。

 幾百の夢を見続けて、いい加減、飽きたなあと思った後で、ふと鯉伴は、とある考えに至った。
 今、己が生きている今このとき、この瞬間、なかなかどうして、失うものの少ない選択をしているのかもしれない、と。



 そういう世界へ、行きたいと思わない?



 何度かの夢で、やはり鯉伴は今と同じく、若菜を捜してどこぞの夢に紛れ、山ン本と睨み合う彼女を見つけては、彼女を助けるべく、山ン本を斬り伏せるのだが、どうしてか、それでは彼女を救えないのだった。
 ただ敵にして、斬って、滅するだけでは、駄目なのだ。
 誰かを斬られて、滅されて、それで悲しむ己があるように、相手にもまた、縁を紡いだ相手がある。
 どうしようもない悪人、外道、斬ってやらねば救われぬ者どもと、思っていた相手にも、いざ斬ってみると、その亡骸にすがりつく者がある。

 そやつの何が良いのだと、鯉伴は思うのだが、確かに気付いてみれば、鯉伴は手に残る彼奴どもの肉骨の感触以上に、彼奴どもを知らないのだった。



 ダメだ、と、途端に鯉伴は理解する。



 これまでの己と同じやり方では、駄目だ。
 では、どうすればいい。
 他のやり方とは、一体どんな ――――



 いつしか夢は消え、鯉伴は星さえ見えぬ闇に包まれて ―――



+++



「あ、気がついた!おじさん、大丈夫?」

 まばたき。
 何度かしているうちに、天井からぶら下がるカンテラと、先ほど助けた少年が、視界に入った。

「……今度は、どんな夢だい、こりゃ?」
「夢?おじさん、夢を見てたんスか?」

 幾百の夢の果て、鯉伴はどうやら、彼の現実に戻ってきたらしい。

 いくつもいくつも夢を潜り抜けてきたせいか、一週間ほどぶっ続けで活動写真を見続けてきたように、頭が重い。
 どんなに拒もうと眠らせてもらえずに、上下左右を無数のステレオに囲まれた椅子に縛り付けられて、これでもかこれでもかと、自分の周囲にまつわるあらゆる過去や未来を、見せられてきたようなものだ。

 正直、吐き気がした。
 目の前の少年の顔が、夢に落ちる間際に思ったように、やはり今ここで初めて見る顔であった事に安堵し、それでやっと堪えるものの、油断するとげえと吐いてしまいそうだった。

「……少年、おれぁ、どのくらい寝てた?ここは?」
「そんなに長い時間じゃないっスよ。まだ魔王軍が消えてからそれほど時間もたってない。ニュートラルタイムも終わってないくらいだから……外でどれくらいの時間経ってるかはわかんないけど」
「外だ中だ言ってたら、余計にワケわかんなくなるサ。こっちの尺度でいいよ」
「ええと、じゃあ……せいぜい、二、三時間くらいだと思う」
「そうかい。ありがとよ」
「 ――― ちょっと、気がついたんなら、さっさと行くよ!ぼやぼやしてたら、魔王軍とやらがこの辺に乗り込んでくるんだろう?!」

 笑み返した少年を追い立てるように、ヒステリックな女の声が鼓膜を貫いた。
 頭の芯のところにまだ鈍いような痛みを残す鯉伴には、追い打ちのような声だ。
 米神のところを揉みながら、上半身を起き上がらせて部屋をぐるりと見渡すと、捜すまでもなく、声の主はすぐ脇の、もう一つの寝台で見つかった。

 声の主は、木でできた枠組みに薄い布団を敷いただけの粗末な寝台から、自分の荷物なのか、まとめた毛布やら食料やら、細々したものを次々、手元の鞄に入れている。
 年の頃は、三十路過ぎたか過ぎないか。
 少年と同じような革鎧をつけており、なかなかの美人だが、表情が厳めしい。
 キツい美人は見慣れている鯉伴だが、こちらはキツいというより、厳めしい。ぎろりとこちらを睨む目は、痛めつけられ苛められ過ぎて、見るもの会うひと全部を信じられないと語っている。

「レオナさん、落ち着いて。まだまだ時間ならありますって。それより、もう少しこの人の回復待ってから連れて行った方が、道中安全だと思うし……」
「ハァ?そいつを連れていくゥ?!馬鹿言ってんじゃないよ、そんな奴、放っておきな!」
「放ってって……できるわけないでしょ。ゲームもやってないのにココに来ちゃったって言ってるんだし、そんな、初心者さんをこんなところになんて」
「だから足手まといだって言ってるんじゃないか」
「でも、ゲームやってなかったのに来ちゃったのも、初心者だったのも、レオナさんだって…・・・」
「昔の事を引っ張り出して、恩着せがましいね!そんなに私が足手まといだって言うなら、いいとも、ここでさよならにしようじゃないか。別にあたしは、アンタがいなくたってもう充分、ここに慣れてんだから。今日だって、金稼ぎの穴場だって言うから来ただけだし。目標額は稼がせてもらったから、もういいよ。そうやって次から次、目新しいモン見つけて拾って、こっちが用済みになったら捨てるんだろ。いいよ。わかったよ」
「レオナさん、そうじゃないってば。あーもー……」
「 ――― あー……よく話が見えねーけど、えーと。なんだい少年、おれの世話してる間、彼女を待たせちゃったって、そういうことかい?」

 驚愕にか、鯉伴の言葉への、二人の反応はすさまじかった。

「「誰が彼女ッッッ??!!」」
「あれ、違うの?」
「そ、そりゃねえっスよ、おじさん!俺、まだ中学生なんだけど!」
「あ、そうなんだ?ずいぶん背が高くてがっしりしてるから、高校生くらいかと思ってたー」
「いや、標準体型だし!」
「あ、そうなの?………おじさんの息子、中学生だけど、ずいぶん………発育遅いのかしら」
「ちょっと聞き捨てならないんだけど!あたしがなんでこんなチビとそういう風に見えるってのよ!迷惑なんだけど!」
「いやぁ、ねえさんも何か、少年に甘えて我儘言ってるように見えたからさー」
「我儘なんて言ってないし!自分で自分の身を守ろうとするなんて当然だろ!どこの馬の骨かもわかんないようなアンタを拾って、こっちが危ない目に合っちゃ目も当てられないじゃないか!」
「ふぅん、そうかい。そりゃあ世話ァかけちまって悪かったね。そんじゃ、行こうか」
「行くって……おじさん、大丈夫かい?」
「アンタも着いてくるっての?」
「ああ、歩く分には問題なさそうだし、それに話を聞いてりゃ、もうすぐこのあたり、危険な場所になっちまうんだろ?そうなる前に、場所を変えていくらか話も聞きてぇしさ」

 露骨に嫌な顔を見せた後、諦めたように溜息一つついた後、鯉伴から視線を逸らした女と、ほっとした顔を見せた少年。
 その様子を見るに、二人の力関係は四分六分くらいで、少年に少しばかり分があるらしい。
 女は、文句は言うものの、本気で少年から離れたがってはいないようだ。

「わかりました。でも、もう少し、休んだ方がいいっスよ、おじさん。さっき倒れたとき、もしかしたらペナルティくらってるかもしれないから。ステータスがどうなってるのか、わかんないし」
「ペナルティ?」
「敵と遭遇したり、トラップに引っかかったりして気絶した場合、いくらかペナルティがあるんスよ。ゲームで言うところの、レベルが下がる、っていうか」
「ふぅん……自分じゃ、よくわかんないけどねェ」
「そっか。もしかしたら、何もなかったのかもしれないし、だったらラッキーっスね!おじさん強いみたいだし、戦力になってくれたら嬉しいなぁ。あ、そこ、洗面所ありますから、顔とか洗ったら、気分良くなるかも。それからコレ、俺のお古ですけど使ってください。こっから街まで帰る途中、魔王軍のモンスターどもに合わないとは限らないから、革鎧でも無いよりはマシでしょ」
「何から何まで悪いねぇ」

 無数の夢をかいくぐってきたせいで、眩暈が止まらない。
 寝台から降りて床に足をつけると、ぐったりと疲れた体に気がついたが、不思議と思考はすっきりとしていたし ――― むしろ、この二人からいろいろと情報を得てからこれからの事を決めようか、だとか、意味深なあの夢は、もしかするとひょっとして、上にも下にも左右にも、幾重にも重複した世界の数々から己という存在を中心にして流れ込んできた、過去でもなく未来でもないあらゆる可能性の姿なのだろうか、だとか、若菜を取り戻すことだけを感情で決めていたけれど、実際に今それが叶うのだとしたらどうすればいいのかだとか、先ほどまで頭に血が昇って考えもつかなかった思案が、次から次と思い浮かぶ。

 リクオが普段、明王姿を「肉体労働用」、人の姿を「思案用」と使い分けているのをふと思い出したほどだったが、この通り、思考の回転は普段より調子が良いほどだったので、ペナルティがどうのと言われても、思い当たることはなかった。

 洗面台の、鏡を見るまでは。

 ばしゃばしゃと顔を洗い、タオルで顔を拭いて、鏡の中の己とご対面し、

「 ――― ん?」

 鏡の中の優男、きょとりと小首を傾げた。
 その所作や、男と呼ぶにはやや幼い気がする顔立ちも、息子のものに似ていたが。

「え?あれ?なに?」

 普段、鏡で見ているものとは、似ても似つかない。

 《畏》に満ち満ちた、艶めいた奴良組総大将の妖気はどこへやら。
 鏡の中の鯉伴は目を剥き、がばりと詰め寄ってくるも、妖気の欠片も感じられない。
 常は妖気に煽られている黒髪も、今は一つにくくられ、重力に従って長く背を這うだけ。
 手足の大きさこそ、いつもと変わらないように思えるが、妖気補正がなくなった分か、少し細身になったような。

 ぺたぺたと顔を触る。鼻をつまむ。
 鏡の中の優男は、しっかり鯉伴の所作を追う。

 ここで、鯉伴は理解に及ぶ。



「これ、おれええぇぇえぇッッッッッ??!!」



 鏡に映った鯉伴の姿は、しっかりはっきり、人間そのものだった。