とっぷりと、日が暮れた。

 人の夢にするりと入り込んで、都合の良い夢を見させたかと思えば悪夢に変える者もあるので、これはそうした者の悪戯だろうかと途中まで身構えていたものの、もしこれが夢ならば、所詮、己で思い出したり考えたりする範疇を出ることはないはずなのに、口にしたつみれ汁も、里芋の煮付も、舞茸と大根の漬物も、自分でこうだったと時折思い出していたより懐かしげな味がするとなれば、どうして抗えようか。

 この場所は二代目がまったく知らぬ、山奥の一軒家。
 二代目を謀ろうとする者ならば、わざわざ見知らぬ場所を見せて、警戒させるだろうか。
 なれば、はたしてどんな企みがあるものか。

 さてこの夢の中で、いつまで待っていたならあちらから仕掛けてくるだろうかと、膳を下げた後は椀によそった鍋をつまみに、燗酒をちびりちびり、かれこれ一刻はやっているが、若菜は ――― 若菜の姿をした何者かは、二代目の褞袍の引き攣れをなおしているばかり。

 お帰りですか、と、笑ってくれた。
 長旅で疲れたでしょう、と労ってくれた。

 つい先ほどまで、飯など食う気にならず奴良屋敷の畳の目を数えていたような気がするのに、すすめられるまま、茶碗に三杯たいらげた。

 たしかに、若菜の姿を見た瞬間、帰ってきたという気分になったし、この十年、彼女やリクオの姿を探し求めてくたびれていた。
 けれど、ここは奴良屋敷ではないし、二代目は、このように妻と二人きりになれる場所をこしらえた記憶など無い。

 そうしておけばよかった、周囲が妾扱いするならば、妾宅と称してこじんまりした屋敷を一つ別にこしらえ、家族だけで暮らしていればよかったとは、何度も考えたことだけれど、実際はそうするより先に、妻と息子は消えてしまった。

「なぁ、若菜」

 しびれを切らして、問いかけたのは、二代目の方からだった。

「旅の話とか、聞かないのかい?」
「鯉伴さんが話したいなら聞くし、そうじゃないなら聞かないわ。言いたくないことだって、あるでしょ?」
「まあ、そりゃあ、そうなんだけどよ。お前さん、いつも昔話とかねだってきてたからさ。今日は大人しいなと思って」
「ま、失礼ねぇ。私、鯉伴さんが疲れてるときは、ちゃんと静かにしてたでしょう」
「あー、うん。そりゃそうだ」
「それより、訊きたいことがあるのは、鯉伴さんの方なんじゃないの?さっきから、ちらちらこっちを見て、落ち着かないみたい。せっかく私のところに帰ってきたんだもの、夢でもなんでも、ゆっくりしちゃえばいいのに」
「やっぱり、これって夢なんかい?」
「それともこれは悪い妖怪の仕業で、私が偽物なんじゃないかって、そう思ってる?」
「そりゃあ、こういう展開なら、真っ先に疑うところだかんなァ ――― 第一、お前はもう死んでいて、どこにも居なくなっちまったんじゃ、ないのかい」

 馬鹿ね、ちゃんとここにいるじゃない、と答えるだろうか。
 それとも、これを告げた後、この場所は闇に閉ざされて、狐狸に化かされた人間のように、己は草原に放り投げだされるか。

 さてどちらかと思った二代目だったが、予想に反して、若菜はただ微笑んだままだった。
 妖の業ならば、この場が消えてしまうかと思われたが、囲炉裏の火は、赤々と燃えたまま。
 若菜の指は、丁寧に針を操り続ける。

 否定もせず、肯定もせず、怪訝な顔もせぬままに。

 それでいよいよ、二代目は一息に言いつのった。
 他の誰相手でも、こんな風に、むずがる子供のような真似などしなかっただろう。

「お前はもう魂も見当たらないって、天界にも地獄にもいないって、そう言われてたし。成仏しちまったなら、もうおれには追いかけられねぇ、もう会えねえって、そう思ってたのに。死んでも会えねえ、生き続けても会えねえんじゃ、この先なんにもねぇなって、おれ、そう思って ――― 」
「ははあ、それで鯉伴さん、この夢に渡ってきたのね」
「え?」
「どうせまた、あの時こうしてたら、もしもこうだったらって思いながら、うとうとしてたんでしょう。山吹さんのときもそうだけど、鯉伴さんてホントに甘えんぼなんだから。いつまで経っても四百歳児じゃ困るのよ、二代目さん」

 朗らかながら痛烈なお叱りは、他の誰でもない、妻のものに違いなかった。

「おれの夢のくせに、若菜が美化されてない気がする。すげぇ生々しい。死んだと思ってたから良いところしか思い出してなかったけど ――― そうだな、お前ってそう、おれのケツを叩くのが上手いっていうか」
「あらあら、そんなに褒められたら照れちゃう ――― あ、こら、鯉伴さん、針仕事してるときにじゃれたら危ないでしょう!」
「もういい。この際だ、とことん甘える。若菜の膝ァ、久しぶりだなー」
「んもう。幹部の皆さんや本家のみんなの前では、強がってへらへら笑ってるクセに、思ってた以上に甘えんぼさんなんだから。甘えたがりだけで、こんなところまで来ちゃうんだもの」
「ん?こんなところ?こんなところって、これ、夢じゃないのかい?」
「夢よ」

 やけにきっぱりとした、答えだった。
 叱るような、拒むような。

「ただの夢。それで、いいじゃない」
「夢かぁ。うん、そうだなあ。おれの願望そのままだもんなあ。やっぱり、夢かなあ、これ」
「願望?」
「若菜が、指輪してくれてる」

 妻から褞袍を奪い脇に押し退けて、かわりにその膝に己の頭を乗せた二代目は、針を道具箱へ仕舞った華奢な手を、手に取った。
 左手の薬指に、白金の細いリングがはめられている。

「 ――― リクオが育ったら、なんて悠長なこと考えてないで。あの時、お前とリクオだけ連れて、あの屋敷を出て行ってたらどうだったかなぁ、なんて。最近、そんなことばっかり考えてたんだよ。家族三人でさ、誰もおれたちのこと知らない土地に行って、ただ暮らしてたら、どうだったかなぁ。人に紛れてもいい、妖の里でもいい、もしもそうなってたら、どうだったかなぁ。
 若菜。お前は今でも、おれの傍に、いてくれたかなぁ ――― 」
「いつだって居るわ。いつでも、どこにでも。見えなくても。声が聞こえなくても」
「おれは若菜の姿を見たいんだよ。若菜の声を聴きたいんだよ。お前たちの行方を捜したこの十年、そりゃあ長かったんだ。おれが生きてきた四百年より、よほど長かったよ。お前が守ってくれたおかげで、リクオは無事だった。だけど。だけどさ。お前が居ないんじゃ、これからの月日、気が遠くなるようだ。もういっそのこと、この夢から醒めないまま、ずうっと居ようかな。な、いいだろ?お前がもしその手の妖なら、それこそ本望だろうしさ。奴良組の事は、幹部連中が何とかするだろ」
「皆さん、困るんじゃないかしら?」
「いいよ。ほっとけほっとけ、あんな奴等知るもんか」
「あらあら、拗ねちゃって。いけませんよ、鯉伴さん。夢はいつか、醒めるものでしょう」

 下から見上げると、彼女はにこりと太陽のように笑んでいて、二代目は ――― 否、ここまで来たなら、奴良組だの百鬼だのはもう、うっちゃって良いような気がした ――― 鯉伴は、愛息子の顔を思い出す。
 誰の企みか、謀りか、甘い罠か知らないが、伝える相手がないまま瘧のように胸の内に溜まっていたものを、今ここで吐き出さねば、一体いつ、どこで吐き出せるというのか。

 瞼から溢れそうになるものを堪えて、代わりに、むっつりと少年のようなふくれっ面で、さらに言い募った。

「……親父がさ、リクオのこと、おれのお袋そっくりだとかぬかしやがるんだ。あいつは、お前にこそそっくりだと思うんだけどな」
「そう?私は、鯉伴さんそっくりねって、思ってたわ」
「そうかい?毛並も性格も全然違うぜ?あいつ、おれなんかより、よっぽどしっかりしててさぁ。もうすっかり独り立ちしてて、おれの出る幕ないっていうか」
「泣き虫で、甘えんぼで、寂しがりで。あの子のまわりに集まった妖怪さんたちはね、それでついついあの子を慰めたくて、集まってくださった方々ばかりなの。ついつい放っておけなくて、面倒見ようと思ってくれるみたい」
「おれの目には、ずいぶん立派に主さんやってんなあって思ったけどなあ。学校でも優等生だって言うし。父親はなくとも子は育つっていうことかなあって思ったね。勉強も仕事も全力で頑張っちゃって、若菜にそっくりだ。
 なのに、親父の奴、若菜のことなかったことみたいに振る舞ってくれちゃってさ。そりゃあ、リクオに辛いことを思い出させるのはいやだし、リクオがお前のこと踏ん切りつけてるんだから、わざわざ若菜の名前を出す必要ねぇっていう、親父の気遣いかもしれんけど。けど、おれは嫌なんだ。おれにとっちゃ、お前を亡くしたのって、つい去年のことなんだぜ?それまで、ずうっとずうっと、捜しまくってたって言うのにさ、いきなり、もう若菜は死んでいて、墓は京都で魂はめでたく成仏しましたなんて言われても、納得いかねぇんだよ。
 お前をなかったことにして、リクオをうまい具合に三代目に据えようってハラの幹部どもも、とっとと過去にしちまって、今はリクオが大事って言う、正論だけどいけすかねぇこと言いやがる親父も、リクオはリクオで奴良組の三代目になんざならん、自分は庶子だの一点張りだしさ。
 誰も若菜のこと、考えてねーんだもん。もうみんな嫌になっちまいそうなんだ。けど、一番嫌なのはさ、お前を女房にしたいとか言っておいて、結局、お前を二の次にしちまったおれ自身なわけで。そう思うともう、誰にも文句は言えねーし。おれ、馬鹿だから、こんなに悩んだことないしさ」
「ふむふむ、なるほど。それで知恵熱が出ちゃったのね?」
「………オイ」
「ふふふっ。いつもの鯉伴さんね。おなか一杯になって、元気になった?」
「あー、まあ、そういえば、来たときより疲れが取れているような ――― 久しぶりに、いい気分で眠れそうな ――― 」
「そう。よかった。それじゃあ、大丈夫よね」
「大丈夫?」
「ねえ鯉伴さん。私、幸せだったのよ。鯉伴さんと会って、生贄になることしか知らなかったのに、助けてもらって、お屋敷から少しの間だったけど、学校にも通わせてもらって。恋をして、鯉伴さんに抱かれて、リクオを産んで。私、本当に幸せだったの。
 だから鯉伴さんもどうか、元気になって、みんなのところへ戻ってあげて。鯉伴さんがこの夢を見ている間、きっと鯉伴さんの現では、みんなが鯉伴さんを捜して心配しているはず。
 ここは、夢と現の狭間。あちらとは近いようでいて、とても遠い、違う宇宙。まだ地図の無い場所。摂理の無い場所。新しくできた場所だから、天界や地獄の理が届かないの。あちらから私が見えなかったように、鯉伴さんの《畏》も、ここからはあちらに届かないから。
 鯉伴さんは夢幻を司る《ぬらりひょん》の血を引いているから、ひょんなところから行き来できたけれど、誰もがそうとは限らないのよ」
「なあ、若菜」
「なあに、鯉伴さん」
「 ――― おれはお前を、ここから連れ帰りたい。神も仏も知ったこっちゃねえ。こちらの摂理がどういうもんか知らねぇし、どうしておれがここへたどり着けたかも知らねぇが、そんなことはどうでも良いことだ。
 幽霊でも、魂だけでも、構わねぇんだよ。おれは、お前が、傍に居てくれたら。妖怪の滑稽と罵られようが、人間の執着と笑われようが、おれは、お前と一緒に帰りたい。いや、同じ屋敷の中じゃなくたって、いいんだ。お前がもし天界なり ――― 万が一、地獄に行くんだとしても ――― 現世に居られるんじゃなくても、会えるのが年に一度だとしても、それでも、また会える場所にいてくれるなら、それで。
 ここは、なんだ?別の宇宙?地図の無い場所?あっちの理が届かない?
 そんな場所に、どうしてお前一人、居なくちゃならねぇ」
「死んだ魂の一部が、ここに捕まっちゃったのよ。本当なら、世界の一部になれるはずだったのに、失敗しちゃったみたい。私ったら、恥ずかしいわね」
「それの何が恥ずかしいんだよ。それがあったから、お前、一人でこんな牢獄に居るのか?いつまでここにいる。なんでここに居なくちゃならねぇ。おれが夢を渡って来たって言うんなら、おれは今度は、お前を連れてここから帰る。お前を一人ぼっちで、残しはしねぇよ」

 何かを考えるようだった。
 いつもの笑顔だったが、泣いているようにも、哀しんでいるようにも見えた。

 そうなればいいとも、そうはできないとも言わずに、ただ一言。

「うん。ありがとう、鯉伴さん」

 そうしてくださいでもなく、それはいけないでもなく、向けられた思いやりの言葉への謝辞ばかり。
 いつも、透明な娘の心は、鯉伴が何を言っても、どれだけ口説いても、何の波紋もたてず、穏やかに笑ってこう答えるだけだった。
 
「私、一人ぼっちなんかじゃ、ないんだよ。私からは、みんなが《視》えるの。私の目がいいのは、知ってるでしょう?鯉伴さんのことも、リクオのことも、こんなところからだけど、ちゃんと《視》ているから、だから、大丈夫、寂しくなんてないの」
「そうじゃない。そうじゃなくて ――― おれが、寂しいんだ。ああ、でもこれだと、なんだ、おればっかり、ああしてほしいだのこうしてほしいだの、前と一緒じゃねえか ――― そうじゃなくてだな ――― 」
「鯉伴さんの傷はいつか、癒えるわ。今まで四百年、生きてきたんでしょ?これから四百年、生きて行くうちに、また山吹さんと ――― 今は、衣吹さんだっけ ――― 一緒にいたくなるかもしれないし、他のひとに出会うかもしれない。それに、いつもお屋敷で、お祭り騒ぎをしていたでしょう。妖怪さんたちみんなで、なんでもない日の大宴会。鯉伴さん、好きでしょう?またやればいいのに。きっと楽しいし、寂しさなんて忘れちゃうわ」

 癒したい傷ではないのだと、忘れたい痛みではないのだと、この娘に言って伝わるだろうか。
 鯉伴よりも遠くを《視》る娘なので、もしやすると、この切ない痛みも、これまでの四百年に押し流されていった出会い別れと同じように、時が経つと忘れてしまうことがあるのだろうか、それが《視》えているのかと、不安にさえなる。

 むっつりと、鯉伴は黙った。
 若菜の膝から頭を上げて、座り直し、不機嫌そうにも見える表情で、ぱちぱちと音をたてる囲炉裏の炎を見つめた。

 若菜とは、いつも、こうだった。

 お前のためにこうしてやりたいんだがどうだ、と訊けば、礼を返してくる。
 ああ喜んでくれたと思って、早速、様々用意をしようと思ううち、あれこれ組の用事が立て込んでついつい後回しになってしまっても、その間、文句一つ言わない。
 その後で、遅くなっちまったがと詫びと一緒に約束を果たすと、初めて聞いたことのように喜んでくれるので、もしかして忘れていたかと、鯉伴の方が少し寂しくなったくらいだ。

 しかしそうではない、若菜は鯉伴のことで、何一つ忘れたことなどなかった。
 忘れられても、何一つ恨みに思わなかっただけで。
 それなら若菜にとっては、あってもなくてもどちらでも良いことだったのか、喜んでくれたと思ったのは錯覚だったかと、これまた切なくなった。

 自分が、野辺に咲く小さな花相手に、あれこれ心を悩ませているようだ。
 自分がそれを見て、可愛いの何だのと喜んでいるうちは良いのだが、自分が癒されているだけなら良いのだが、相手も心あるはずなのだから、きっと欲するものがあるはずだ、喜んでくれることがあるはずだ、と、せっせとその可憐な花に話しかけたり、贈り物を考えたりすると、相手は風にそよぐばかりで、言葉が通じないのだ。
 そんなもどかしさを、久方ぶりに味わった。

 本物なのだと確信に至った。
 夢幻でもなく、妖の謀りでもなく、目の前で笑う妻は、己が知る、あの妻なのだと。

 若菜は、鯉伴が円座の上に戻ってしまったので、また褞袍に手を伸ばして繕い上げ、鯉伴に着せ掛けた。
 それで終わりかと思っていると、針箱を仕舞い、鯉伴の隣に座ると、銚子を持ってそっと酌をしてくる。
 洗い物をしていたり、膳を運んでいたり、こうして針仕事をしたりと、休むことを知らない手だった。

 その手が、ふと、止まった。

 妻と息子を捜し出すことだけを考えてきたこの十年だったので、再び会えたときの口説き文句を、これ以上のものは全く考えておらず、鯉伴は顎を撫でながら思案していたのだが、遠くを見つめるようなその目が今まで見たことがないような剣呑なものだったので、どうした、と声をかけた。

「どうした、若菜。何か《視》えんのか」
「うん。ごめんね、鯉伴さん。もっとゆっくりしてもらいたかったんだけど、ここまでみたい。急ごしらえの場所だったから、すぐ見つかっちゃった」

 何がどうして、誰に何をと、訊き返す必要はなかった。

 瞬間、鯉伴も感じ取ったのだ。
 なつかしくも、忌々しい感覚 ―――― 妖気。それも、こちらへの敵意を孕んだものを。





 ―――― ギチ、リ。

 イた。いタぞ。ココにイた。

 ンまそうダ。ンまそうな、ニオひが、すル。





 ぎしぎしと屋根が軋む。かと思うや、瞬く間にばりばりと音をたてて引っぺがされた。
 落ちる屋根から妻を庇おうと、鯉伴が思わず若菜を抱き寄せるが、思ったほどに落ちてくるものは少なく、それは何奴と睨んだ先のそいつが、大きな口でばりばり屋根を平らげてしまったので、納得した。
 ただ、流石に鯉伴も、う、と嫌な顔をしたのは、小さな箱を覗きこみでもするように、はがれた屋根からこちらを見下ろしてきたのが、甲殻に身を覆い黒光りする、巨大な虫どもであったからだ。
 しかもその頭には、無数の顔がついている。

 老いたもの、若いもの。
 男、女。
 憎悪、嫉妬、辛苦。

 様々な表情をしたものが、出来物のように湧いていた。

「オニバンバそっくりだが ――― なんてサイズだい。虫篭覗くような真似するんじゃねぇや!おれたちゃ虫じゃねーぞ、てめぇらと違って!」
「オニバンバ。そうね、鯉伴さんたちがそう呼んでるのと、同じものよ、アレは。ここからあちらへ、出たり入ったりしているみたい」
「なぁにィ?ここんとこ、鴆の薬で撲滅とはいかんまでも、追っ払えたと思ってたが」

 妻を横抱きにして、風に乗り一つ跳び。

 やや小高い丘の上に降り立って見下ろしてみると、先ほどまで二人が穏やかな時間を過ごしていた小さな家は、無遠慮な訪問者たちにむしゃむしゃとやられているところだった。
 一匹二匹ならば、図体ばかりが大きな相手など、懐の長ドスで蹴散らしていた鯉伴だったろうが、砂糖に群がる蟻のごとき多さに、流石にううむと唸った。

 ここには己一人ばかり。下僕の百鬼は違う空の下に居る。

「 ――― まあ、いいか。とりあえず、考えるのは後だ。あいつらがここにいるってことは、なんだ、ここはおれたちがいた世界と全く関係がないわけじゃねぇんだろう?鴆が言ってたことにゃ、あいつ等はおれたちの世界の、電波だなんだのの世界に住んでるって言ってた。もっと細かいことを言うなら、ゼロとイチの間で蠢いているだの何だのと。
 つまり、ここは、そういう場所か?」
「そうみたい。もう少し、限定されてるみたいだけど」
「限定?もっと狭いってことか。ああ、まあ、いいや、そういう難しいこと、後で聞く。さっきも言ったが、おれぁお前を連れて帰るぞ。あんな物騒な奴等が闊歩してるんなら余計に、お前をここに置いていくわけにゃいかねーよ」
「でも ――― 」
「嫌か。もうこんな情けねえ亭主に、女房扱いされんのは御免か」
「違うわよ、もう、拗ねないでったら。……あのね、鯉伴さん、気持ちは嬉しいんだけど、多分、無理」
「無理かどうか、やってみねぇとわかんねーだろ?」

 夢のまにまに漂ってここへ流れ着いたとしても、己の妖の業がそうさせたのなら、今度は逆だってできるはず。
 妖ならば、自然と風に乗って空を舞うように、きっと帰ることだってできるだろう。
 これが己の夢なのだとしたら、妻の手を離さぬように、夢から醒めれば良いのだから。

 そう思って、鯉伴が今一度、不安げな顔の妻を片腕にぎゅっと抱きしめ、空を仰いで夢想する。

 来たときに思ったことは、もう一度、妻に会って、こじんまりした家でいいから、そこでゆっくりと過ごすことだ。家族だけで過ごす時間があったならどうだったろうと夢想した末に、この場所へたどり着いた。
 けれど、ここにはリクオが居ない。
 妻とリクオを会わせてやりたいし、これから生まれる孫にも、会わせてやりたい。

 組のことも気になるが、奴良屋敷に引き入れようとは思わない、今度こそ、二人でどこかへ引っ込んで、若菜が己を癒してくれたように、己が若菜に尽くしてやりたいと思う。

 そういう夢想をしていると ―――― ここへ来たときと同じように、眠りに、引き込まれるような感覚があった。

 いくつものしゃぼんに囲まれるように、今この場所が遠く遥かな出来事になって、今この場所こそが夢であるように、薄い膜の向こうに隠れて行き、眩暈を憶えた瞬間、目をつむる。
 鯉伴はしっかと妻の体を抱き寄せていたのだが、何故だか途中で、するりと腕が軽くなった。

「 ――― 若菜?」

 はたと目を見開くと、いつの間にか、腕の中に彼女はいない。
 しかも己の体は宙に浮き、全く自由がきかない。
 風に乗り損ねたときのように、真っ逆さまに堕ちて行く感覚がして、たまらず鯉伴は目を開いた。

 ぐるり、天地がひっくり返る。いや、上が地で、下が天なのか。
 暗黒の空に、真珠をばらまいたような星々と、脇には白い雲を纏って蒼く光る宝玉がある。

 広く昏い宇宙に、鯉伴は放り出されていた。

 若菜はいた。目の前にいた。
 いたが、鯉伴は彼女を抱きしめることができなかった。
 彼女は、急な流れに翻弄される鯉伴を、虚空に流されぬよう掌に受け取って、あんぐりと口を開けた彼の顔を、そっと覗きこみ笑っていた。
 抱きしめるには、若菜は少し大きすぎた。

「鯉伴さん、帰り道は、あっち」

 彼女が纏っていたのは、光をそのまま織り込んだような白いドレスだった。

 広くゆったりとした袖口が翻って、蒼く光る宝玉とは逆の、昏い宇宙の底を指した。
 目を凝らすと、そこにはぽっかり切り取られたような、小さな窓がある。
 鯉伴の体一つならば、するりとそこを通り抜けてあちらへ行けそうだが、

「出入り口はいくつかあるけど、鯉伴さんが入ってきたのはあそこのはずよ。たぶん、近い場所に出られると思う」

 今や、鯉伴を掌に乗せるほど大きくなった彼女には、とてもじゃないが、あんな小さな窓では指一本出せるかどうかだ。

「あれ以上、大きな窓にしちゃうと、さっきみたいな大きなものが、どんどんあちらに出て行っちゃう。そんなことになったら大変でしょう?だから、これ以上大きな窓にはできないのよ」
「若菜、お前 ――― 」
「鯉伴さん、会えて、嬉しかった」

 お前はいったい、何になってしまったのだと、問うより先に一方的な別れが告げられた。
 若菜がそっと両手をかざすと、鯉伴を包むように青白いシャボン玉が現れ、ふわりと虚空に浮く。
 虚空の中にある、すさまじい流れに逆らえなかった鯉伴の体は、それでやっと自由がきくようになった。

「お、おい、勝手を言うな、連れて帰ると言ったら帰る!帰るぞ!おい若菜、お前、何食ってそんなデカくなった!お前、もうちょっと抱きやすいサイズだったろうがよ!おい、若菜、若菜!」
「ぎゃあぎゃあと五月蝿い奴だ」
「なにィ ――― ?誰だ、イイところなんだから邪魔すんな、って ――― ?!お前 ――― ?!」
「ロス・マリヌス、魔王軍が攻め入って参りました!早々にお戻りください!」

 いつしか鯉伴のすぐ脇に迫っていた彼奴は、心底迷惑そうに鯉伴を睨み、かわって、若菜へ向き合っては途端に畏まった。

「ろす……なに?おい、何を馴れ馴れしくおれのオンナに声かけてんだ」
「わかりました。ショーンさん、その後、傷はどうですか?戦場に赴けますか?」
「って、若菜!お前もこんな勘違いコスプレ野郎に愛想なんてふりまくな!どこでこいつと知り合った!こいつはなぁ!」
「元々、たいした傷ではございませぬ。光の聖母よ、この身は貴女様の剣にして盾。貴女様の赴くところへは、いつ、いかなるところでも!」
「おい、若菜ッ!いつの間に、このしょうけら野郎を手懐けたァッ?!」

 つい先ほどまで、夢に描いたような一軒家で囲炉裏を囲み、久方ぶりに妻の膝で甘い匂いを嗅いでいたというのに、今は宇宙に放り出され、世界の端から端まで届きそうなほど大きくなってしまった妻と、知っているはずの男が互いに見知ったような口をきいている。
 それでも、この状況に動じず自分の我を通すのが、流石は魑魅魍魎の主だった。

 彼等の一言ずつに、合いの手がごとく文句をつけていると、あちらの方がしびれを切らして睨んできた。
 白銀の甲冑を纏い、その背からは一対の純白の翼が生えているその装いには覚えがないが、金色の髪に翡翠の瞳には、鯉伴は嫌というほど覚えがあった。

「てかしょうけら、てめー、今度はおれのオンナを聖母扱いとかやめろ気持ち悪ィ捻りつぶすぞ!」
「しょうけらではない。私は、ショーン・ケラーだ。ロス・マリヌスに洗脳を解いていただいてからは、彼女に仕える騎士」
「はぁ?洗脳?騎士ィ?……今度は何ごっこだよ。てめーの遊びにおれの若菜を付き合わせんな」
「何の遊びでもない。彼女に仕え、魔王軍を退け、人々を守るのが我が役目。これから、魔王軍と最大の戦があるのだ」
「戦だの何だの、そんなの若菜にゃ関係ねーよ。そいつはな、おれの……」
「お前の妾であった女は死んだのだぞ、奴良鯉伴。魂は解けてお前の世界へ還った。この御方は、同じ姿をしているが、その魂のただ一部。ありがたくもこの御方から、同じ説明があったのではないか?」
「一部だからなんだ、一部だろうが欠片だろうが、若菜は若菜、おれの女房に変わりはねぇよ!」
「では訊くが。その女房殿からの貴様へ、数多の施しがあったことと思う。それはまだ足りなかったか」
「ンなわけあるかい、こいつの笑顔に、おれがどれだけ癒されたか ――― あったかい気持ちになったか!もう充分すぎるくらいだよ」
「ならば、これ以上を求めようとするな」
「なにィ!いちいちつっかかる奴だな、おれはただ、こんな場所から若菜を助けだして、今度はただ一緒に居てほしいだけで ――― 」
「この御方は救いを与える存在であって、救いを求める存在ではない。第一、貴様、もう充分だと言っておきながら、なんだ、一緒に居ろだと?所有物のような扱いをする気か」
「違うって、そうじゃねぇよ!若菜が望むものがあるんなら、なんだって、それこそ蓬莱の玉の枝だろうが火鼠の皮衣だろうが持ってきてやりたいんだよ!苦労させたぶん、なんだってしてやりたいし ――― そのついでに、一緒に居てくれたら、御の字だって思う。それのどこがいけねぇってんだよ!」
「何も望まれぬならば、どうする」
「 ―――― え?」
「その御方が、何も望まれぬとき、貴様はどうする。無理に何かを望めと、今度はそう望むのか?」

 鯉伴が言葉を失うのも、仕方のないことだった。
 何かを望むのが人であり妖であり、此の世に生きるもの。
 心無きものでも生きるための糧を望み、心ある者ならば明日を望み、希望とも欲望とも呼ばれるものを抱く。

 半妖として生を受けてから四百年以上、日ノ本で生きてきたが、何かをしてやりたいと願うことさえ、己の欲望であるなどと、これまで考えもしなかった。
 今のしょうけらの言葉は、鯉伴の悪行をぴたりと言い当てたものだった。

 つい昨日まで、一目だけでも会えたなら、一言でいい、伝えたいことがあった。
 一度だけでいい、己を呼ぶ声を聞きたかった。
 だがどうだ、実際、目の前にしてみたなら、一目でなど足りぬ、一言でなど言い表せぬ。
 一度のみで、満足できるはずもない。

 しかし、生とはそういうものではないのか。
 いつからとも、いつまでとも知れぬ、連綿とした時が紡がれるのも、あるいは、そう望む意地の悪い何者かが、虚無から宇宙を掘り起こし、心ある者の悲喜こもごもを眺めたいという欲の末に生まれたものかもしれない。
 その中で、足掻かず、もがきもせず、ただ諦めの果てに沈んでいくのは、生まれてこなかったのと、どう違うのか。



「けど ――― それなら、若菜、お前の生は、ただ諦めばかりだったか?なーんにも楽しいこと、嬉しいこと、なかったか?これだけはと望むもの、何か一つだけでも、最期に一つだけでも、思い出さなかったかよ、おい、若菜!」



 そのとき既に、眼下の蒼い星を半眼に見つめ、その中で行われている戦場でも《視》ているのか、二人の喧々囂々としたやりとりにさえ気が付いていなかった彼女が、今一度、彼に名を呼ばれて、はたと我に返った。

 しょうけらが鯉伴を押し退けては「光の聖母を煩わせるな」と睨み付け、これの頬を押し退けて前へ行こうとした鯉伴が「お前こそおれの前を塞いでおれを煩わせるんじゃねぇ」と唾を飛ばしているのを、あらあら困った子たちねえとふふり、一つ笑って済ませる。
 次に、片手に携えていた杖をそっと一振りすると、鯉伴を包んでいたしゃぼんが、風に吹かれでもしたか、勝手にぐんぐんと高度を上げ、彼女等から遠ざかろうとするのだった。

 しゃぼんがなくとも、翼のあるしょうけらは、この虚空でも己で自由自在に滑空できるらしく、鯉伴が少し遠ざかったところで唾の飛んだ頬を拭い、若菜が差し出した手の甲に着地した。
 己もまたそちらへ向かおうとするが、普段はあれほどすんなりと風に乗ってあちらこちらへ行けるというのに、どうしてか全く、風に乗れない。

 もがいてあがいて手を伸ばす鯉伴だが、しゃぼんは殴っても蹴っても割れず、ぐんぐんと二人の姿は遠ざかる。

 虚空の中、無数に浮かぶ真珠のような星々を従わせ、裾の長い白いドレスを纏った若菜は、鯉伴がいつか着せたいと思い夢想していた白無垢のようで、それ以上に美しい。
 鯉伴を見送っていた彼女は、最後にあの、太陽のような笑顔を見せた。



「最期の願いはね ――― もう、叶っちゃった」



+++



 その笑顔の理由は、鯉伴の涙の理由でもあった。

 ただ一つ、会いたい、と、願う気持ちは二人、同じであったのだから。

 けれど、願いが叶ったと笑う若菜はもう振り返らず、一つ願いが叶うともう一つ二つを望んでしまう鯉伴は、大声を上げてがむしゃらに、己を包むしゃぼん玉を殴り蹴り暴れて吼える。
 みるみるうちに蒼い星は遠ざかり、若菜もまた、目の前で流星に姿を変えて、その星へと流れて行った。

「くそ ――― くそ、くそ、くそッ ――― 若菜!おれぁ全然満足してねーぞ!願いなんて、一個で足りるか!欲深で何が悪いかよ、欲がなくちゃ何も始まらんだろうが!お前とあれもしたい、これもしたい、そうしたら絶対楽しい、嬉しい、そう思う気持ちまでなくなっちまうだろうが!なくなっちまったら、そりゃもうただの死体なんだよ!仏なんぞになるのがそんなに嬉しいか、楽しいか、おれはお前をそんな干物にするつもりはこれっぽっちもないぞ!おれは、絶対に、お前を、連れて帰る!
 畜生、このしゃぼんめ、割れろ、割れろったら、こん畜生がッ!」

 殴っても蹴っても割れなかったしゃぼんだが、鯉伴が南無三と呟き一か八か、懐の祢々切丸を一閃させると、宝刀は待っていたかのように火花を散らしてしゃぼんを切り裂き、しかしやったと喜色が浮かんだのも一瞬。
 鯉伴はしゃぼんから虚空に投げ出され、足がかりとする風も掴めぬまま、真っ逆さまに落ちた。
 なにせ周囲には風が無い。
 こなくそと泳ごうとしても無駄である。
 そのうち、ぐんぐん落ちていく。
 落ちる先がどこか見定める暇すらなく、それどころか、周囲に散らばる星屑が、尾を引いた白い線に見えるほど。
 光さえ裂くようなすさまじい勢いの中、人間ならばとうに意識を失っていようし、並の妖怪ならばとっくに意識も体も塵に消えていただろう。
 鯉伴もまた、若菜を追いたい一心で、意識を保っているようなものだった。

 顔の肉がこそげ落ちそうなところ、震える瞼を叱咤して開いていた目に映ったのは、黒かった周囲がやがて青に変わり、白が混じり、緑、光、そして黒 ――――― 次の瞬間、強く殴られたような衝撃とともに、鯉伴の周囲はぶくぶくと溢れるしゃぼんでいっぱいになっていた。
 ぶくぶくぶく、ぶくぶくぶく。
 リクオの千手阿修羅の一撃を避け損ねたときのような、すさまじい衝撃に、流石にくらりと一瞬意識が飛びかけたが、息をしようとして肺に入ってきたのが水であったので、目が開いた。

 ―――― ぶくぶくぶく?! ぶく?! ―――― ぷはあァッ!げへッ!げほッ!

「な、なんだ……げふッ……ぇえほッ……今度は……水場かぁ……?……え、なになになに、今度はなに?!」

 もがいて足掻いて水底を見つけ、そこにしっかと立って重い体を起こす。
 ざばあと水面から出て前髪をかき上げ辺りを見回すと、そこがどういう場所か判じるより先に、目の前に誰かが転がり落ちてきた。

 うらあ!と掛け声一つとともに、さらにそれを追った何者かが、水に落ちた者へとどめを刺さんと長物を振り上げる。

 片や、ひいと情けない悲鳴を上げてばしゃばしゃ水音をさせながら、逃げ惑うのはリクオと同じ年頃の少年だ。
 ヒヨコのように黄色い短髪は、地毛ではなさそうだ。眉毛が黒い。瞳も黒い。顔ものっぺりとした東洋系。
 胸と肩を隠す皮鎧に、布の手甲と脛当て姿は、まるで戦支度だ。

 いや、まさにここは戦の渦中、そのままだった。

 涙と鼻水にまみれて逃げ惑っていた少年に鼻息も荒く襲いかかってきたのは、二足で立ち、両の腕と手を人間のように扱って槍を振り回す、豚のような巨体の男 ――― 否、豚そのものだった。
 それが、黒光りする、西洋式の立派な黒い甲冑で全身を覆っている。
 とっさの事だったので、両者の言い分など知れなかったが、鯉伴はこれまでの経験から正しい答えを選んだ。
 すなわち、殺されそうになっている方を助けたのだ。

 振り下ろされた長物を祢々切丸で叩き落とし、横跳びで少年を抱きかかえして跳躍すると、少年は目を白黒させていたが、この時、誰より目を白黒させていたのは、少年を助けた鯉伴の方だったろう。
 なにせ、ついさっきまで奴良屋敷の四畳半で寝転んでいたと思ったら野原に投げ出されており、少し歩くと己が望むような一軒家と、愛しい妻の姿があり、それが消えて虚空へ投げ出されたと思えば妻は神々しい存在へ姿を変え、夫である自分には引導を渡したくせに敵だったはずのしょうけらが当たり前のようにその傍仕えをしていて、その妻を追おうとしたら、虚空から地表に投げ出された。
 投げ出された先がどこかもわからぬまま、何の諍いかもわからずに争いに巻き込まれ、助けてみたものの、周囲から上がる鬨の声や大砲の轟音を聞く限り、十人二十人程度の諍いではあるまい。

 少年を俵担ぎに、鯉伴は目の前の豚の化物を蹴倒すと、とにかくここを見下ろせる場所を目指して風に乗った。
 今度こそそれは上手くいった。
 鯉伴が平原を囲むようにあった丘の一つへ降り立ち、眼下を見下ろすと、そこにあったのは、左右に分かれて争う者どもだった。
 ただ争っているだけならば、どこぞの組の抗争かと思われたが、向かって右の者どもが、見慣れた人間どもであるのに対して、左の者どもは、先ほどの豚の化物やら、巨大な黒虫やら、空を飛ぶもの地を這うもの、まさに百鬼夜行の有様だ。
 人どもと、妖怪どもが、相争っている。
 それも、大砲だの剣だの弓だの、百年か二百年ほど時代を巻き戻したような武具を使って。

「これあ……どういうこった?……ここは、どこだ」
「ウキヨ平原だよ。おじさん、最近ここに来たひとっスか?」

 自分で助けておきながら、鯉伴はすっかり担いでいた少年の存在を忘れていた。

 失念していたので、今になって少年を抱えて風に乗ったのを思い出し、人でないものと疑われるだろうかと冷や汗をかいたが、鯉伴の肩から降りた少年は、つい先ほど死に直面してまだ青ざめてはいたものの、戦場から離れたことでほっとしたのだろう、気丈に微笑んで見せた。
 悪戯小僧を思わせる八重歯が、ちらりとのぞく。

「あ、ああ。まあ、そうだな。ついさっき、ここに」
「へえ。ずいぶん強いんスね。助けてくれてありがとう。いやぁ、マジでヤバかった」
「お、おう」
「しっかし、今日も押されてますね、戦場。……ここんとこ、女神の加護が弱くなってるって聞いたけど、違うと思うな。相手が強くなってる。魔王の力が増してるっていうか。表の方では、どんどん強いモンスターが出て来てるって言うし、そのおかげか、ピエロもどんどん増えてるような気がするんスよ」
「え?なに?女神?魔王?ピエロ?」
「え?おじさん、まさかFQオンライン経由で来たんじゃないの?あっちからこっちに、たまにそういう人がいるって聞くけど……」
「FQオンライン?って、なに、最近人気のあのネトゲ?」
「そうそう。え、じゃあ本当に、そこ経由で来たんじゃないんスか?!うわぁ、びっくりしたぁ。俺、そういう人に会うの、これで二度目っスよ〜。そういう人って、なんか妙に強いんスよねぇ。さっきのもアレでしょ、風乗りスキルっしょ?本当は聖騎士クラスしか使えないってのに、優遇されてんのかなあ」

 ふむ、と鯉伴は顎を撫でた。
 懐から煙管を取り出してがちりと噛む。

 行きがかりで助けた少年だが、言葉尻から察するに、ここを良く知っているようだ。
 道案内を頼むにちょうど良いかもしれないと考え、話を合わせることにした。

「いや、俺もさあ、家でちょっと落ち込むことがあって日干しみたいになってたらさあ、なんか知らんけど目を覚ましたときに、こっちにいたわけ。そのゲームの事はまあ、撫でた程度なら知ってるよー。おじさん、ジャンプもサンデーも毎週読むしラノベも好きだし漫画は聖書だから、ネカフェよく行くし。貼ってたポスターでFQオンラインのことも知ってたけどさ。え、なに、これそういう夢なの?どこのラノベ設定?」
「夢だったらいいんスけどねぇ。ま、そのうち実感湧くっスよ。……俺だって、何度、ほっぺたつねったことか。……目ぇ、覚めへんかったけど」
「あれ、関西弁。少年は家、どこよ?」

 送っていくよー、とでも言いそうな軽いノリで訊いてみると、にかりと笑って、「京都の伏目区や」と答えがあった。
 その後、ぐ、と言葉につまり、顔を真っ赤にして、ぽろぽろと涙がこぼれる。

「もう本当、帰りたい。帰りたい。俺、阿呆みたいや。何を怖がってたんやろう。ここに比べれば、あんな金持ちなだけの乱暴モン、全然こわないことやのに。あいつにちゃんとごめんって謝るのだって、全然こわないことやのに。今度は自分が苛められるんやないかとか、あいつが許してくれへんかったらどうしようだとか ――― その前は、あいつが死んでまうんやないかって、びくびくしてたってのに、生きてるってわかったら、そんな風に勝手に悩んで。こんなことなら、さっさとあの乱暴モンと縁切って、あいつに謝っておくんやった。めっちゃ心残りやわ……」
「ま、まあまあ少年、そう泣くない。詳しい事情は知らんが、こっちに来た道があるんなら、あっちに帰る道もあるだろうさ」
「帰るには、魔王を倒して、自分の欠片を取り戻さないと。そうじゃないと、大事なモンを忘れちまうんだって。そうなると、帰っても植物状態かもしれねえって。……実際、それでもいいからって帰った奴も大勢いるけど……」
「少年は、それができなかったと。なかなか漢じゃねえの」
「本当にそうだったら、最初っからゲームになんて逃げてないっす。……あ、そろそろ今日の戦場、終わりっすよ。魔王と女神がそれぞれ出てきたら、終了の合図なんス。……ハア、なんとか今日も生き延びた……」
「 ――― 魔王、ねぇ」
「女神ロス・マリヌス。優しそうなひとっすよねぇ」

 あたかも、人の世の中世時代を模したような戦場、その人々の陣営の真後ろに、幻影が立ち上がる。
 鯉伴の想像通り、そこには先刻別れた妻が、先刻見た通りの白いドレス姿で、世界を覆うようにすっくと立っていた。
 己の袖で、己を仰いで戦った人々を守るように囲うと、先ほどの少年のように、槍に貫かれそうになっていた者や、背中から斬りつけられそうになっていた者が、中へ招かれ、黒い軍団はそれ以降、どれほど剣をふるっても矢を射かけても、はたまた大砲を放っても、袖は全てを水面のごとく波紋をたてるばかりで受け流す。



 ああ、と、鯉伴は知らず、溜息をついて魅入っていた。
 お前はいったい、どういうものになっちまったんだろうか。
 そう思わずには、おれなかった。



 そうして、もう片方。
 魔王軍と呼ばれる、異形の百鬼夜行は、女神の眼差しに触れると、ぎゃあと悲鳴を上げてその場の土を掘り潜る始末。
 さらには、地面がぼろぼろと砂のように崩れ落ち、そこから女神を睨み返す巨大な顔がぬうっと姿を現した。

 ぎょろぎょろとした目玉を囲む顔は肥え太り、残る地面を掴んだ指もまた、飽食の末か肥大しており、己の陣営のものどもだろうに、落ちてくるものを掬うどころか、まだ無事なものさえ、己が下から這い上がるための肥やしにせんとして、指に引っかかるものをかたっぱしからばくりばくりと口に運んでいる。
 守るというより、こちらの陣営の全ての者どもは、この巨大な存在の手足であり、贄であり、糧であるのだろう。

 その顔を、鯉伴は知っていた。

 己で背負うつもりもないくせに、数多の呪いを、数多の妖を生み出し、自ら魔王と名乗った、その男。



「 ―――― 《百物語組》の後ろで、やっぱり糸を引いてやがったかい、山ン本五郎左衛門さんよ」



+++



 相手がどれほど巨大に見えても、臆する奴良鯉伴ではない。
 一度は下した相手だ。
 現の世ではない、このような場所に隠れ潜んでいる相手を、鯉伴がどうして畏れただろう。

 すぐに風に乗って太刀を鞘走らせながら、マグマ吹き出す大地の割れ目まで一っ跳び、山ン本の眉間から首まで一息に掻き切ってやろう ――― その場に少年を残し、行こうとした鯉伴だったが、



 ――― 不意に襲われた既視感に、何故か踏みとどまった。



 この場所に、己は来たことがあった気がする。
 いいや、初めて来た場所なのだが、前にもこんな事が、あったような気がする。
 いいやいいや、己が生きている間に、こんな事は一度もなかったのだが、何故か、こういう場面を己は見たことがあるような気がする。
 そうして ――― ここで踏み込み、山ン本を一太刀のもとに切り伏せ、彼奴の身から湧き出た《百物語組》の連中もことごとく討ち滅ぼし、そうして彼女を己の腕の中に取り戻した、のはいいが。
 若菜はそこで消えるのだ。

(私は、あのひとを滅ぼしたかったのではないのよ、鯉伴さん)
(魔王山ン本を倒す。それは、滅ぼそうという意思を挫きたい、ということだったの。そういう世界へ、行きたいと思わない?)

 悲しく笑って、世界とともに消えた。



 ――― これは、いつの記憶だ?



 幾度も幾度も、こんな事があったような気がする。
 なのに、それがいつだったか思い出せない。
 思い出すどころか、こんな場面に差し掛かるのは初めてなのに、どうしてか、そうではない、よく考えろ、本当に大切なものを取り戻すために、本当に彼女を解放するために、どうすれば良いかよく考えろと、頭の奥底、心の裏側から語りかける、鯉伴の首根っこを掴んで離さない何かがある。





 強い眩暈がした。

 幾百、幾千にも、風景が重なって見える。声が重なって聞こえる。
 何を見ているのかも、何を聞いているのかも、判別できないほどに数多く。
 世界中の全ての声が、急に耳に届いたかのようだった。

 それも全部知っている。どれもこれも覚えがある。
 なのに、今生の中では一度たりとも、どれもこれも見たことなどない。聞いたこともない。





「ちょ、ちょっと、おじさん!おじさん、しっかりしてよ、ちょっと!」





 その少年の声が現のものかどうか判じる前に、鯉伴はその場に仰向けに倒れた。
 先程助けた少年が、彼の傍に膝をつき、顔を覗き込んでいる。
 この少年は知らない。間違いなく初めて見る顔だ。それにどうしてか安堵し、そのまま、気を失った。









 なので、ここからは、現実のことではない。
 あくまで、夢の話だ。



+++



 一つ目の夢。


 慎重に抱き上げたリクオの体は、全身が水でできているかのように、少し力を込めただけで、ぐずりと指が沈んでしまった。
 ひやり、鯉伴の背筋に冷たいものが走る。
 可愛い我が子にこのような仕打ちをした、花開院の陰陽師どもめ、人間どもめと、内心呪いながらも、表面上はリクオを怯えさせぬように微笑みさえ浮かべて、優しい声を出すよう努めた。

「……よーしよし、よく頑張ったなリクオ。父さんがすぐに治してやるぞ」
「とう、さん……?」

 声をかけられて、やっとリクオは目を開けた。
 ぱちぱちと瞬きをするが、片方の目にまで腐りは進行しており、難儀そうだった。
 鯉伴は天癒の力でリクオを包むが、腕に彫られた忌み文字や、この部屋の封印が強すぎて、リクオの傷は再び広がってしまう。

 そう、リクオだった。
 四つのときに見失い、三年ぶりに見つけた、リクオだった。

 あの頃は、妖力など欠片も感じられなかったのに、目の前のリクオは小柄ながら、しろがねの髪に紅瑪瑙の瞳が美しい、立派な妖ぶりである。
 それが災いして、施された戒めが、小さな体を蝕んでいた。
 幼い顔をひきつらせ、我慢強く歯を食いしばって耐えているが、相当の痛みらしい。

「わかるか、リクオ?おれのこと、忘れちまったか?お前の父さんだぞ。よしよし、よく頑張ったなァ、ひでぇことしやがるなァ、全部治してやるからな」
「父さん、どう、して……?」
「どうしてって、ずうっと捜してたんだ。母さんのことも心配するな。ちゃあんと治して、連れてきた」
「……捜して、くれてた?ずっと?今まで?……どうして?」
「当たり前だろう、お前はおれの子で、母さんはおれの女房なんだから。どこにも代わりなんてない、かけがえのない家族なんだから、当然だろう。ああ、痛かったろう、リクオ。こんなにたくさん傷こさえて、一度じゃ癒しきれねぇや。どこか別の場所で、ちゃんと傷を治そうな」

 妻と息子が消えれば、捜すのが当たり前だろうに、夢でも見ているようにぼんやりうつろな目で鯉伴を見上げているリクオが、たまらない。
 《自分の意思で協力を申し出ている》などと、花開院の陰陽師たちに思い込まされ、身を差し出して術の実験台になっていたリクオを、少しでも安堵させようと、隣で息を呑んで立ちつくしていた若菜の姿を見せる。

 リクオは目を見開いた。
 母が立っているのを見て、理解するより先に、ぼろぼろと大きな目から涙が零れた。

「か、あさん?……とう、さん?……オレ、もう、痛いの、我慢、しなくて、いいの?」
「おお、ここまで頑張ったんだ。もう誰にも、お前を傷つけさせるもんか」
「ごめんね、ごめんね、リクオ。痛かったでしょう。ごめんね、本当に、ごめんね」

 若菜も我に返って息子にすがる。
 強く抱きしめてやりたいのだろうが、リクオの傷があちこちに広がり、それが赤黒く脈動しているので、そこに触れても痛いのだろうと思えば、不用意に触れられないようだった。

 そんな彼女を促し、鯉伴はその部屋を後にした。

 入ってきたときに業火で焼き尽くした、鉄の扉を踏みつけ、なぎ倒した花開院の陰陽師たちには一瞥もくれず、妻と子だけを連れて風に乗り、西へ赴くことにした。
 すでに奴良組は捨て、単身で乗り込んできた結果だった。

 落ち着いた先は、人里から遠く離れた、とある湖のほとりだった。

 半妖の里。
 そう呼ばれる里では、鯉伴も、若菜も、そしてリクオも、人々から出自を問われずに迎えられた。
 人と妖が結ばれ、逃げ込むように里を訪れるのは、ままある話だったからだ。

 そこでなら、奴良組二代目と妾とその子供ではない、夫婦とその子として生きられる。
 希望に似た諦めを抱いて訪れた二代目だったが、三人の暮らしは、そう長く続かなかった。

「呪いはすっかり消えている。病でもない。だがこれは ――― 長くないだろう」

 里で暮らし始めて三ヶ月。
 リクオの傷や呪いは鯉伴がすべて治したが、リクオは立ち上がることも、己で食事をとることもできなくなった。
 里の医師にお願いすると、医師はリクオの脈を診たり、体のあちこちを触ってたしかめたり、リクオとずいぶん長く語り合った挙句、そんな事を言った。

「なんでだよ?!呪いでもない、病でもない、なのにどうして?!」
「その子は己で己の命の期限を、そう定めていたのだろうよ。父が迎えに来て、母をたすけてくれるまで、何をしてでも生き延びる。そうやって無理に命の灯を激しく燃やせば ――― わかるだろう?疲れるのだよ。もう少し成長していれば、疲れを癒すまで体がもったかもしれないが、この幼さでは ――― 。
 その時がくるまで、たくさん、甘やかしておやんなさい」

 そう言われても、鯉伴も若菜も、決してあきらめず、必死に看病したのだが、甲斐なく、リクオは七つの幼さで此の世を去った。

 最後まで、愛しい子だった。

 迎えに来てくれた父に向って、力の入らぬ声で、何度も何度も、ありがとうと礼を言った。
 母さんと父さんと三人で一緒に暮らせて、うれしいと、微笑んだ。
 何かほしいものはないか、食いたいものはないかと尋ねると、恥ずかしそうに、だっこしてほしいとねだるので、助け出したときよりも軽くなった体を、そっと抱きしめた。リクオは声を出す力も持たぬまま、嬉しそうに笑った。
 最期は、水も粥も受け付けないようになり、眠るように、逝った。

 リクオを看取った後、若菜もまたすぐに、命を絶った。
 鯉伴が外に出て目を離したほんの僅かな隙に、首をくくったのだ。

 残された手紙には、感謝と、謝罪が綴られ、そして、二人を葬った後は奴良組へお戻りくださいと、結ばれていた。

 手紙を棺桶に入れ、二人を葬った後、鯉伴は里に留まることにした。
 遺言など、どうでもよかった。奴良組など、どうでもよかった。

 己も後を追おうかと思ったが、結局、妻には祝言もあげてやれなかったままだったのを思い出した。
 子は、最後まで遠慮したような笑みを浮かべたままだった。
 何が「ありがとう」だ、違うだろう。「どうしてもっと早く来なかった」と、父を詰るくらいの気概があれば、きっとあの子は生き延びたろうに。

 里へ来て、家族の暮らしができると思っていたが、結局、何も守れなかった己には、あの女の夫である、あの子の父であるなどと、名乗る資格がないことに思い当たった。
 きっと、己が逝っても邪魔だろう。また気を使わせるだろう。
 だったら、と、そのまま里で日々を過ごすことにした。

 気がのれば畑仕事をし、狩りもするが、何もしたくないときには一日中仰向けに寝転んで、天井の梁を蜘蛛が行き来して巣を作っている様をじいと見つめていたりする、気ままな生活だった。

 やがて、世間が騒がしくなってきたらしいと、里の者たちが騒ぎはじめ、同時に、奴良組から使者が何度か来たが、鯉伴は相手にしなかった。
 お戻りください、このままでは奴良組が、と、すがってくる者もあったが、その奴良組が自分たち家族に何をしてくれたんだと問うと、相手は引き下がるしかなかった。
 祢々切丸だけは、押し付けるようにして組に返した。
 太刀を握る理由はもうなかった。守るものも、立ち向かうべきものもない。

 鯉伴は、失い過ぎた。

 やがて、京が焼かれたという話が伝わってきた。
 人一人生きていられぬ、呪いの土地となって、魑魅魍魎どもが闊歩していると。
 羽衣狐が無事出産しただとか、安倍晴明が甦り、乱れた日ノ本に清浄の裁きを下しているとか、そんな話が伝わってきても、鯉伴は何の感慨も持たなかった。

 唐突に、鯉伴もまた、生を終えた。
 安倍晴明の計画により、半妖の里は星一つ落とされて壊滅したのだ。
 天から迫りくる炎の塊を見たとき、鯉伴は妻と子を失ってから初めて、笑った。
 口を歪めるような皮肉な笑みを浮かべ、一言、

「 ――― 生ぬるいなァ。《終わらせる》ってんなら、もっと ―――― 」

 続きは何を言おうとしたやら、一瞬の後、里とともに、妻と子の墓とともに、灰すら残らず光の中へ、鯉伴は消えた。



 これが、一つ目の夢の話だ。