空を覆っていた黒雲はすべて祓われ、冴えた空気が京都の空を覆い、これからの千代八千代を祝い清めるごとく、空の高いところを群なす鳥が行く。
 東の空を桃色に染め、陽が昇る。
 これまでの日々の、激しい争いの傷跡も、千年の昔から変わらず鎮座する神々の社や仏が眠る楼閣も、等しく照らし、包みながら。





 こんなに綺麗な世界の中で、どうして起きてと言えたろう。
 起きてと、目を開けてと、しっかりしてと、彼等の誰が叫べただろう。





 しろがねの大妖姿から、ただ一人の、まだ幼さ残す少年へ姿を変えた己等の大将を、花霞一家の者どもは、取り巻き見守るしかなかった。
 吸う息にも吐く息にも血の臭いをさせながら、苦しげに咳を繰り返す少年を囲んで、花霞一家は宝船の甲板に皆、集まっていた。風音を出すばかりの口元から、どうにか言葉を紡ごうとするのだが、どこもかしこも呪いに痛めつけられたからには喉すら例外でなく、せいぜい少年を支えた鬼童丸と、脇に控えた玉章や猩影だけが、唇の動きで読みとるぐらいだった。

「ああ。二代目も、山吹乙女も無事だよ。羽衣狐は去り、奴等の手勢は散って行った。君の京都は守護された。……皆、側にいる」

 無事など訪ねなくとも、己を囲む百鬼の向こうに、奴良組二代目の姿はあり、逃げも隠れもせずそこから彼を見つめているというのに、まるで判らぬ様子であった。
 人の姿になった途端、立っていられなくなり、声も出なくなってしまったのと同様、見えていないのだ。

 玉章が耳元で静かに囁けば、こくん、小さく頷いて、微笑んだ。
 その間も、こふりと血を吐いては、胸元を真っ赤に染めていく。





 何故言える。
 苦しげな息がようやく、少し小さくなって、微睡むように瞼を閉じた彼に、誰が言える。
 起きてと、目を開けてと、しっかりしてと。





 尚も苦しめと、どうして言える。





「………リクオ、リクオッ!」

 羽衣狐と京妖怪どもの怨念が作り上げた弐條城を、朝陽の力を借りて祓い終えたゆらが、城の足元へ式神の肩を借りて舞い降り、花霞の手勢をかき分けるようにして彼の元へ駆け寄ったが、彼女とて、名を呼んだ後は何を言えば良いやら、言葉に詰まって、ぽろぽろ涙をこぼすしかできなかった。
 九尾の狐を前にして、一歩も引かず戦い抜いた陰陽師の少女である。
 妖怪どもの中にあって、恐怖するどころか彼女の強い意志がこもった瞳の前では、何体もの妖怪どもがたじろぎ調伏されてきた。
 その少女が、ぽろぽろ、ぽろぽろと泣くのである。

「なに……なにを、あほなことしてはるん。欲張るなって、あれほど言うたやないの。どうして、どうしてこないなところまで来はったん。あほやわ。しょうもない、どあほや、あんたは」

 耳はまだ外の声を拾っていたのか、妹の声にくすり、と、目を瞑ったまま、困ったように小さく笑った。





 美しき夜明けの中で、雪女はただ一人、遠く闇の底に取り残されてしまった。

 彼女は、他の奴良組の者どもが多くそうするように、花霞一家が大将を取り巻くその向こうから、合間を縫うようにして見守っていた。
 細かな事情も、花霞大将の正体も知らされぬままではあっても、敵ながら見事な戦いを見せた若き百鬼夜行の主が、己等に知らされていない理由で息を引き取ろうとしているのを、奴良組の者どもも感じ取り、流石に騒ぎ立てる者はない。
 そんな連中に遮られ、ただ、後ろの方から見守るしかなかった雪女は、実は、彼女には己の前を阻む者どもも、力が抜けてへたりこんでしまいそうな己を、支えてくれている毛倡妓も目に入っておらず、とっぷりと沈んだ闇の底で、かつての守子の面影を色濃く残す少年と、再会していた。
 同時に、恋しいと想う気持ちを、雪女として初めて、恋かもしれないと想う相手を、失おうとも、していた。

 だから近づけないでいた。
 確かめたくなかった。
 死の香りも、気配も、全て遠ざけていれば、誰かが己を揺すって夢だと起こしてくれるのだ、そう思い込んでいたかった。



 けれどいよいよ、少年が血を吐く力すら失って。
 己で吐いた血の中に沈むように、四肢から力を失わせ。
 最後の一息を、ゆっくり、ゆっくり、吐いたとき。



「だめ」



 首を横に振った。
 駆けだした。
 己を支えていた者を払った気がする、前を阻んでいた者も押し退けた気がする、誰かが肩をつかんで止めようとした気がする、それを全て振り払い、掻い潜り、彼女の世界で唯一人の、男のところへ。



 守ると、約束した。二度と、戦場には出るな。頼むから。



 ――― どうしてあのときに、攫ってくださらなかったの。



 お前の顔、見に。



 ――― どうしてあのときに、私は気づけなかったの。
 ――― 微笑んだ表情が、どうしても重なったというのに。



 オレは雪の姫御前を守る家来なのよ。昔からな。
 昔、お前に恋をした。今も好きで、今も恋をしている。
 そんなお前に恋をして、進んでお前の《虜》になった。
 答えはいらない。応じる必要もない。ただオレが、お前を恋しいと、いとしいと、想うだけだ、つらら。



 ――― どうして。どうして。どうして答えてはいけないの。私は貴方を想ってはいけないの。



 お前の捜してる若様、オレも京都中捜してみたんだが。
 ここも、よく捜してみたんだが。
 もう、奴良の若様は、見つからなかった。





「いいの。《若様》じゃなくても。いいの。置いて行かないで。
 ……いいえ、置いて行くなんて赦さない。……貴方が私の《虜》だと言うのなら、私がいいと言うまで、その魂も、器も、私のもの。決して離れるなんて赦さない、ええ、赦さない、絶対に、赦さないッ」





 清らな雪の娘の声が、己の前から勝手に消え去ろうとする者への怒りで、闇の奥底から大きなものを引きずり出すかのような、低く冷酷で残忍な女の声にとってかわった。
 桜の季節さえ過ぎ去ったというのに、辺り一帯が一瞬のうちに雪と氷に閉ざされた。
 一点の穢れもない、白の世界。
 雪も氷も現のものではない、雪女の《畏》に、その場の誰もが呑まれた結果だ。

 誰もが動けず、誰もが声を上げられもしない。
 氷雪の中で等しく凍りつき、御伽草子をなぞるような目の前の光景を、ただ見つめるのみだ。



 雪女は、誰の目から見ても、美しい女であった。
 己で己を見失っていたのだとしても、逆に常の彼女のどこか初心な娘らしい所作や明るい笑みが失われたために、彼女の内側に常は隠れる冷徹な《畏》が、誰をも絡めとり、誰をも魅了した。



 ビョオビョオと吹きすさぶ風、舞い散る氷の花、太陽さえ凍りつく氷点下の楽園。
 その中に、すっくと立った雪女は、己の足元に倒れ、氷雪を肌にびっしり纏わせた一人の男を見て、なんとも妖艶に笑むのである。





「神にも仏にも渡してなるものか。可愛い子。愛しいひと。
 一度《虜》となったなら、魂すら凍らせて、お前は永久に、私の、腕の、中」





 爛々と金色の瞳を輝かせ、あやしの女は少年の脇にそっと膝をつき、冷たい唇を、寄せた。
 少年が最後についた小さな息を絡めとり、逆に、ふうと己の冷気と六花のつゆを、押し込む。
 紅い舌が、艶かしく一瞬覗いた。
 風はいっそう激しく強く鳴き、皆の目を氷雪が覆って二人の姿をすっぽり隠してしまったが、やがて、雪は止んだ。



 とさり。



 雪に埋もれた少年の胸元に、寄り添うようにして力を使い果たした雪女が倒れ伏すと、あたりはすぐに元の夜明けと化しており、雪や氷など一片の欠片も見当たらない。だと言うのに、今一度、息を引き取ろうとした少年の姿を見てみれば、眠りに落ちた表情のまま、髪の先までびっしりと、霜で覆われている。
 触れても溶けぬ氷の檻の中に、魂も、最後の一息も閉じ込めたまま。
 雪女が己の気に入りの《虜》をそうするように、氷の棺の中で、眠っている。
 つまりは。

「 ――― 時が、《凍って》いる」

 事の次第を理解した玉章は、呟いた後、先ほどまで己の毛並を覆っていた氷雪の冷たさに、ぶるりと身を震わせて冷気を払った。
 忌々しい、という顔をして見せたのは、己でこの非力な娘を《畏れた》自覚があったからだ。

「なにが ――― どうなったって?」

 もはや己の顔を面で隠すのも忘れた猩影が、おそるおそる、玉章に聞き返す。

「我等の大将が生きるも死ぬも、この雪娘の胸先三寸になったと、そういうことだよ。気に入れば愛で、飽きれば壊し、己の気の向くままに生きながらえさせ、死のうとしたところでこうして赦しはしない。《虜》というのは、そういうもの。だから雪女に会ったなら、男は決して心を赦してはならないんだ」
「そうは、見えねぇけど」
「うん………今のは小さな頃に聞いた、パパからの受け売りだし」





 それまで、大将の死を覚悟していた花霞一家の面々は、真冬の大嵐を乗り越えた獣が巣穴から顔を出すように恐る恐る、折り重なる二人を覗き込む。

 胸に愛しい女の重みを感じたのか、凍り付いて表情など変えられぬはずの大将が、ほんのり微笑んでいるようにも見えたし。
 大将の胸元を細い指でしっかと掴んでいる女ときたら、先ほどまでの《畏》や凄みはどこへ追いやってしまったやら、雪娘どころか雪童のように無垢な寝顔を見せているし。





「何やら幸せそうに、眠っておるな」





 霜が降りたリクオの体を、鬼童丸は今もまだ、膝の上に抱いていたからこそ、僅か、口元を緩めた。
 とくり、とくりと、氷の棺の中で、ほんの時折小さな体の奥から、心の臓の動きが感じられたのだ。
 生きている人間にしては遅すぎる、しかし、あのまま死の手に委ねていれば二度と感じられなかったろう、小さな鼓動であった。





 安らかな死の手から、他の誰が取り返せたろう。他の誰が願えたろう。





 安らかな死を赦さないのではない、ただ寄り添いたいだけ。
 もう少し、側に居たいだけ。
 恋を、始めたいだけ。
 他の誰が、そんな風に彼の袖を捕まえて、行ってくれるなと言えたろう。
 この地獄へ振り返らせることが、できたろう。

 涙に濡れていた花霞一家の者どもは、やがて気づく。やがて頷く。
 喜色がさざなみのように広がっていき、夜明けを見上げて美しき哉と唱えた。





 美しき哉、美しき哉。





 我等が守護する京の都は、嗚呼、こんなにも。





 妖怪どもばかりではない、駆けつけた陰陽師等も、リクオの側にしがみついていたゆらも、涙を見せていたとしても、今度こそ夜明けの美しさに流れるものに、違いなかった。





















ここに在るのは 花霞[はながすみ]リクオ
三千世界のいずれかで 若君として育てられなかった ぬらりひょんの孫

花開院より一文字賜り 姓を花霞と称す

一家を率いて京都守護職を名乗り
やがては東の奴良組 西の花霞と呼ばれるほどになるのだが

その花霞一家も今はまだ 京都の新興一家でしかない

大将と恋の相手は 出会ったばかり
この先二人を待ち受ける 紆余曲折や櫛風沐雨はさておき
羽衣狐と奴良組と 激しく争った京都抗争のあらまし



まずは ここまで















...三千世界の鴉を殺せ...

<羽衣狐編・了>