鏖地蔵はそもそも、武闘派とは言えない。
 小妖でこそないが、策を巡らせ裏から物事を操って計らうのが得意の妖である。
 戦うにしても、戦える力を持つ者にとり憑き、操って戦わせるのが関の山。

 だからこそ、多くの手勢の中に身をおき、花霞大将が近づいてこようものならばさらに奥に逃げ、手下どもを向かわせるのだが、逃げるよりも花霞が手勢どもを斬りさばき押し退け向かってくる方が早い。
 何としたことかと、ぎょろり、ぎょろり、頭の上の大目玉を巡らせてみれば、花霞大将は妖刀をふるうだけでなく、妖にあるまじき真言を紡ぎ、式神らしき三本足の大鴉を操り、後ろには鬼童丸と、彼等二人に続いて突破せんとする奴良組百鬼を従えているのだった。

「き、き、貴様ッ、何だその、術はッ!」
「妖怪だって信じてもらうために、こっちは自分で封じてたんだ。おかげで窮屈ったらなかったぜ」

 どこからか浴びせかけられた稲妻は、懐から投げつけた札がことごとく防ぐ。
 印を組み、唇を鳴らして裏返せばその札が、稲妻を跳ね返し周囲の妖怪どもを塵に返す。
 まるで陰陽師である。いや、陰陽師、そのものだ。

「貴様、貴様ッ、なんだ、何者だ、貴様はッ。陰陽師かッ」
「伏目稲荷鎮護、螺旋の封印の八を預かる陰陽師だ」
「そ、それが何故、妖などに?!解せぬ、何故だ、どうして人間などに下る!」
「鵺もそうだと言うじゃないか。陰陽師で、そして、半妖だった、そうだろう?オレが術を使っても、何の不思議も無い」
「半妖 ――― 人の血 ――― 初代の落胤ではないな、貴様 ――― 貴様、もしや、奴良鯉伴の」
「お喋りは嫌われるぜ。地蔵なら黙って路傍で手ぇ合わせてな」

 ついにリクオが鏖地蔵を間合いの内にとらえ、《鶯丸》を振りかざしたその時に。
 ずしんと音をたて、弐條城目がけて宝船が頭から突っ込んだからたまらない。
 リクオはたたらを踏み、今少しというところで、鏖地蔵を取り逃がしてしまった。

 宝船に乗り込んでいた手勢どもは、各々組み合ったまま弐條城の周囲に溢れ、城は傾き、天守閣で争い合っていた二つの勢力の大将同士もまた、揺れる足場にもつれ合い、しかし、女は男の、手を取った。
 ようやく目が覚めたかのように、己を支える男の、顔を見て。
 唇が、男の名の形に、動いた。
 男はくしゃりと顔を歪めて、一度は離れてしまったものを、ようやく腕に、抱き寄せた。





 鵺を産むには、時が足りなかった。
 二代目と奴良組、そして彼等と手を携えた花開院の前では、充分な時など稼げなかった。

 依代が、記憶を全て捨てるには、想い出が多すぎた。
 あたたかで優しい想い出が、殻を破って表に出ると、漆黒に彩られていた女もまた、殻を破るように瞳の色を着替えて、愛しい男を認めるや、信じられぬと目を見開き、続いてこちらも眉を寄せ、涙を流し。

 足元では喧騒が続く中、しかし決着は既についていた。

 鵺は生まれない。騒ぐ者どももやがて気づき、負けた者は去るだろう。

 何故なら羽衣狐は既に何処かへ去り、代わりに一人の女が、愛しい男の腕の中に戻った。





 東の空が、朝焼けに染まる中で、寄り添い、抱き合い。





 軍勢が宝船から零れて行く中、遠くまで見据える双眸で、リクオはこの様子を、しかと見た。
 望んだ光景だった。
 ほっとしていた。
 微笑みさえ浮かべて心から、祝福した。
 あまりに安堵したために、戦いの中であるのを忘れて、ふと。










 どうして今、あの男の隣に在るのが、己の母でないのだろうか、と。
 視線を、落とした。










「ククククク………お主の心の闇、見ぃ、つけ、たァ〜…………」
「え ―――― ぅあ ――― 」

 ほんの一時、抱いた妬み。
 闇を好む鏖地蔵にとって、充分な隙であった。

 背後から忍び寄っていた鏖地蔵は、リクオの一瞬の心の隙を見抜き、にたりと笑んで、潜り込む。
 首の根元をずぐりと貫き、血飛沫を吹きながら入り込んでくる鏖地蔵を、振り払おうとするも既に遅く。

「あ、ぐぅ、うああッ」
「フェッフェッフェッヒーハハハッ、ならば貴様をしばしの宿主とさせてもらうぞ、花霞 ――― リクオ、と言うたか、十年前に奴良家を追われた、奴良鯉伴の息子は。もっと早くに気づいていればのう、面白く使ってやれたものを、惜しいことをしたわ」
「クソッ、貴様………入ってくるな、出て、行けッ。貴様の居場所など」
「無いと言うか?ほれ、あるじゃろう。ん?なんだ貴様、病か?いや呪いだな?ヒヒヒヒヒ、夜明けまでの命で虚勢も何もないものじゃ。おうおう、可哀相にのう、そんな体を引きずって、あれほどの戦いを見せておったのか。ようしよし、可哀相に。ならば委ねよ、委ねて貴様はここで眠るがいい。
 さすれば、貴様の願いを叶えてやる。
 さすれば、楽になれるぞ。
 ほれほれ、遠慮するな。貴様の体ならば、そのくらいの事をしてからワシを遠くへ運ばせても、夜明けまでにはここを逃れられよう。その前払いじゃ、遠慮せず好意を受け取るがいい。
 ワシはお主の味方じゃ。のう、リクオ。ワシを受け入れてみよ。
 死ぬのは怖いじゃろう、可哀相に。生きている者を憎め。
 呪いを受け、あちこち食い破られた体は痛いじゃろう、可哀相に。花開院どもを憎め。
 母を失って、さぞかしつらかったじゃろう、可哀相に。母を追った者を憎め。
 秘する想いは苦しかろう、可哀相に。手に入らぬ女を憎め。
 お前をそのようにしたのは、誰ぞ。あの男じゃ。憎め。一太刀くらい浴びせてやれ。
 良いではないか、どうせ、夜明けまでの憎しみじゃ。それくらい、許されるではないか」

 ふるふるとリクオは首を横に振る。
 己の体に入ろうとする鏖地蔵を、万力のように力を込めて片手で掴み、もう片手で己の肩ごと抉り出そうと《鶯丸》を突き立てるも、己の身が傷つくばかりでかなわない。
 ようやく鬼童丸が追いつき、老剣客の剣が鏖地蔵の大目玉を貫こうとしたが、時既に遅く、するり、と、鏖地蔵はリクオの中へ入り込んでしまった。

 びくり、とリクオの体が大きく跳ねた。
 大きく目が見開かれ、飲み込んだ異物を吐き出すように、激しく嘔吐した。
 血も、胃液も、全てを吐いて、のた打ち回った。

 自らの意思に反して、刀が近づく者を何でもかんでも ――― 鬼童丸も、追ってきた首無や毛倡妓も、雪女すら、斬ろうとするので、脂汗を浮かべながら、《鶯丸》を遠くへ放り投げる。
 すかさず、その体を鬼童丸が押さえつけ、印を結ばぬように両手を頭の上で封じ、真言を紡げぬように口を塞いだ。
 鏖地蔵に操られたリクオが、その手を噛み千切ろうと歯をたてても、眉一つ動かさず、押さえ続けた。





 宝船の外では、小競り合いが収まり始めている。
 天守閣から舞い降りた、象牙色の大狸と、深灰の大猿が、静まれ静まれと、若く猛々しい声を上げ、勝利は奴良組のものとなったと、あちこちで叫び、皆がはっと弐條城の天守閣を見上げてみれば、陣羽織姿の奴良組二代目がにたりと笑って、眼下の者どもを睨んで見せた。
 二代目に付き従っていた青田坊や黒田坊も、抗争は終わった、無駄な争いはやめて羽衣狐一派は降伏せよと。





 その中で、飛び回っていた大狸と大猿は ――― 玉章と猩影、いずれも羽衣狐一派との大立ち回りでそれぞれの毛並みをあちこち緋色に染め、散々な有様であったが、宝船の端に己等の大将を認めると、疲れも忘れて文字通り飛んできた。
 弐條城でついに正体を現し、花開院の陰陽師等と息のあった連携を見せた花霞一家の手勢も、副将二人が向かう先に大将を見つけると、冷や汗を浮かべ泡を食って全速力で飛んだ。





「おい大将!何やってんだ、こんなトコで ――― 早く、祟り場へ」
「鬼童丸、貴方がついていながら何というザマだ。クソ、花開院がもうすぐ最後の封印を施す。それまでに、どこかへ」
「大将、苦しがってるぜよ、なんでじゃ?」
「大将、大将、置いてかれんの、俺様イヤだよ、なあ、なあってば」
「静かにしろ。リクオに、鏖地蔵が憑いた。戦いはいまだ、続いておる」

 獣のように唸り、瞳から理性の光を消して狂うリクオを抑えながら、鬼童丸が静かに言い放つ。

「そうとも、貴様の戦いが終わっても、ワシの息子の戦いは終わっておらぬ。邪魔をするでないぞ、奴良鯉伴。引っ込んでおれ」

 リクオを囲む花霞勢の向こう、鬼童丸の背後に降り立った奴良組二代目へ、視線も交わさないまま。

「 ――― 十年もそいつを放っておいた父親なんぞ、顔も見せるなってかい……」
「鏖地蔵の業を知っておろう。今、貴様を目に映せば、逆効果だ。苦しませるな。止めの一太刀をくれてやろうというなら、別だがな、できぬだろう。いや、させぬよ。こやつの戦いは、こやつのものだ。邪魔は、させぬ」





 カツ ――――― ン………。





 白木の杭を打ちつける音が、京都の黎明に響く。















+++















「おお、おぉ、お前の心の闇は深くどろりとしておって、心地良いのう。心地よい」

 鏖地蔵が見つけた、リクオの心の闇。
 幼い日、奴良組を追われた記憶。
 母に手を引かれてようやくたどり着いた京都。
 一度は妖怪一家の若君として育てられた身が、一転して陰陽師としての修行の日々。

 研鑽を積んで当主に誉められれば、裏では妖怪の血を引く異端と忌まれた記憶。
 母の病。看病の毎日。哀しみと喪失が絶望に心を染めていく。

 鏖地蔵にとって、闇が糸を引いてからみついてくるような心の中は、揺り篭のように心地よい。
 しばらくこれに身を任せて、これからこの依代の心の闇をどのように暴いていってやろうか、取り繕った表の顔との落差に、この依り代はどのような悲鳴を上げるのかと、喉の奥で笑いながら思案していたが、ふと、何だかおかしなことに気がついた。

 ヒヒヒヒと笑っている己の声はするのだが、心の闇の中から、この依代の過去の声はするのだが、それを暴かれて苦しむ今の声は、まるで聞こえてこない。
 ただ暗く広い空間に、過去の依代の声と、己の笑い声が響くのみ。
 己が笑うのをやめれば、虚ろに広い闇の中、過去の呪いや悲哀や切なさが、いつまでもこだましているばかり。





 誰。お母さんを苦しめたのは誰。呪いを放ったのは誰。憎い。憎い。憎い。
 ――― これは、過去の声。





 どうして。どうしてお父さんは助けに来てくれないの。どうして誰も、捜してくれないの。
 ――― これも、過去の声。





 どうしてボクに石を投げるの。どうしてボクに意地悪するの。ボクが、人間じゃないから?
 ――― これも、過去の声。





「何だ。……《今の》お前は何故、苦しまぬ。おまえの心はこれほど汚いのだぞ。穢れておる。鬱々としたものが、ヘドロのように溜まっておる。それを暴かれ、何故苦しまぬ。苦しめ、苦しめ、苦しまぬか。苦しみを見せよ、ええい、何故だ、何故、何故、何故、何故何故何故何故何故何故何故」

 焦りが生まれた。
 打ってもこだまが返るばかりで、新たな悲しみや苦しみは一切見出せず鏖地蔵を受け入れたものの、中からあれこれ操ってやるための、心の尻尾が見つからない。
 何故だ。
 何故。何故。何故。
 憎しみも、妬みも、恨みも、哀しみも、全て揃っているはずなのに。















 ――― だってそれも、ボクだもの。















 どこからか、声が響き、びくりと鏖地蔵は身を震わせた。
 あまりに怖ろしい、そう、彼にとってはあまりに怖ろしい声だった。
 恐怖のあまり、途端に歯の根が合わなくなったほど。















 ――― そう、ボクは恨んだ。
 ――― 追った者を恨んだ。石を投げた者を恨んだ。母を奪ったさだめも恨んだ。
 ――― 妬みもした。
 ――― 父がある者を妬んだ。母がある者を妬んだ。家族ある者を妬んだ。
 ――― けれど。















「ああ、ああ、ああ、よせ、よせ、よせ。その声を聞かせるな、よせ、やめろ、やめろ」



 鏖地蔵は、もう心の闇の流れに身を任せてはいない。
 入り込んだときのように、今度は心の闇の中からにゅるりと飛び出して脱出を試みるのだが、不思議なことに、飛んでも飛んでも出口が見えない。闇の中は彼の味方であるはずが、彼の世界であるはずが、いつしか囚われているのは彼自身のように、声はどこまでも追ってくる。
 彼にとっては恐怖以外の何物でもない、静謐で清らな声。
 全てを受け入れ、全てを照らす、あの忌々しい声。















 ――― 闇があるからこそ、光は、更に尊く輝ける。
 ――― 恨んだ分、ボクは新たな家族を愛した。新たな友を愛した。
 ――― 新たな光を、見出した。だからこの闇は、ボクの大事な、ボクの片割れ。
 ――― 苦しんだ記憶は、決して捨てない。
 ――― 生きながらえたとしても、これからも苦しみ、悩み続けるだろう。
 ――― けれどそれもまた、ボク自身の姿なんだ。















 闇ばかりであった世界に、陽が昇る。
 鏖地蔵は、逃れるように飛ぶ。飛ぶ。飛びながら、肩越しに振り返る。

「やはり、やはり、やはり、貴様、貴様、ああ、なんてことだ、貴様の中に、まさかそんな《もの》が。やめろ、やめろやめろやめろ、ああ、外だ、外へ、外へ、外へ。消えてしまう、ワシが消えてしまう、消えて消えて消えて消えてしまうううぅうううううぅぅぅぅぅぅ」

 鏖地蔵が入り込んだとばかり思っていた、心の闇。

 そこは、現とは違う、もう一つの世界であった。

 彼が好む、狭く淀んだ水溜りではなく、どこまでも広い雲海であった。

 この中に昇った陽は、金褐色の髪はもちろんのこと、身に纏った宝飾と薄衣、印を組んだ指先までもが輝きに溢れ、世界の果てを目指して飛ぶ鏖地蔵の爪先は、投げかけられた光線が僅かに触れただけで、音をたててとけてしまった。















 ――― オンバザラダドバン















「やめろ、やめろ、やめろ、照らすな、照らすな、溶けてしまうううぅううぅぅぅ」

 鏖地蔵の最後の悪あがきが功を奏したか、雲海の果てに、世界の終わりとおぼしき山が五つ、並んでいるのが見えた。
 あそこへ行けばとさらに飛び、どうにかこの山裾にたどりつき、ぜいぜいと息を切らす。
 光が追ってこないと、ようやく余裕も生まれて、今の今まで必死に逃げていたことなど忘れ、

「なんと……なんという広さ。何なのだ、いやいや、ワシの術にかからぬ人間など。ともかく、もう一度奴の心を暴いて ――― 」

 今一度、世界の果てから顔を出した太陽そのものを見てやろうと、振り返った。
 途端、鏖地蔵はもう、動けなくなった。

 世界の果てに置いて来たはずの、金褐色の髪の主が、彼の前でゆっくりと、琥珀の瞳を開いた。

 泣いているようにも、憂いているようにも、赦すようにも見える、穏やかな笑みを浮かべた《それ》に見つめられるや、足ががくがくと震え、たって居られなくなり、ついにヒィと声を上げて、鏖地蔵はその場に尻餅をついた。
 世界の果てと思えた五つの山も、彼が尻餅をついた山裾も、その存在の、手の平の上でしかなかったのだ。
 この手についに捕らえられ、小さな羽虫のようになった鏖地蔵は、光溢れる世界に引き出された。

「やめろ、やめろ、照らすな、照らすな、離せ離せ離せえええええええ」















 ――― あわれなり、救い難きものよ。















 光はやがて、黄金色からしろがねに。
 太陽は月に。夜明けは黄昏に。
 雲海は日暮れの海に。

 変じた世界で、鏖地蔵を掴んだ存在は、向かい合ったしろがねの髪の存在へ、これを手渡した。
 羽虫の身柄は優しい手つきの如来から、剣と縄を手に、烈火を纏った、厳しい表情の明王へ。















 ――― 任せたよ、夜のボク。
 ――― 任された、昼のオレ。















「やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろ、ああ、ああ、ああ、ああ、あ、ぁ、ァ、」















 ――― ノウマク・サマンダ・バザラダン・センダマカロ・シャダ・ソワタヤ・ウン・タラタ・カン・マン















 いつしか、世界は現に戻り、大日如来から不動明王へ手渡された、あまりに救い難き小さなものは、へたりとその場に座ったまま、はらり、と優雅に広げられた鉄扇から舞い上がる、青白い天上の炎に包まれた。

 しばらくは、ぎょろりと大きな目玉を動かしていた鏖地蔵は、意識が霞む間際、己を下した花霞大将を見た。





 美しい、夜明けが来ていた。
 そう、美しい、と、此の世に生まれ落ちて以来、初めて感じた。

 夜の闇を祓われ、人の姿になった花霞リクオは、大きな琥珀の瞳をじいと鏖地蔵に向けていた。
 髪は朝陽を受けて金褐色に輝き、王冠を戴くかのよう。
 鉄扇を取り落とし、合わせる両の手は小さく、幼ささえ残しており、四肢は細く華奢。
 寄りかかる鬼童丸が居なければ、そのまま倒れ伏してしまいそうなほど、弱々しい。

 だのに、これこそが、あの百鬼の主なのだと、鏖地蔵はその場で理解した。
 京都を守る百鬼の主の表情は、先ほどの闇の中で見た、如来によく似ていた。

 見ても、恨みは無かった。残念とも無念とも思わず、恨みも名残も未練も、何も無かった。
 煩悩すら全て絶たれて、鏖地蔵は浄化の炎の中に塵と消えた。