前には、万全の金屏風結界を張って、待ちかまえる花開院。
 後ろから、反旗を翻した花霞勢。

 花霞大将が陰陽師どもを斬り伏せるところを目にしたからと、すっかり背中を任せていたこと、さらには花霞大将が裏切ったときには、あれほど入れ込んでいた鬼童丸を揶揄してけしかけてやれば良いなどと、この数百年で当たり前になっていた腐れ縁と信頼を取り違えたのが、しょうけらの仇になった。
 他ならぬ、その鬼童丸の気合い一発でしょうけらは吹き飛び、さらに花霞大将の一太刀を浴び、そこでようやく、彼は花霞大将が握っていた妖刀が、《祢々切丸》と同じく、人間を斬れない類のものだと気づいたのである。

 西方願寺で斬られた陰陽師どもも、いつから花霞大将と手を組んでいたやら、承知の上で臭い芝居をしていたに違いない。

 袈裟がけにばっさりと身を斬られ、塵に還る間際、しょうけらは花霞の肩に最期の力を振り絞って爪を立てた。
 まるで理解ができぬ、という表情で。

 何故、闇の世界を喜ばぬ。
 貴様とて夜の匂いを纏う、闇の者ではないか。
 貴様とて百鬼を従える、妖の主ではないか。
 貴様も貴様の百鬼も、何故、人間などとなれ合っている。
 何故人間を庇う。
 鬼童丸を、あの頑固者を、どうやって籠絡した。
 何故、妖を裏切る。
 何故。
 何故、何故、何故。

 想いが幾重にも重なって、

「貴様は、何だ」

 誰何になった。
 迷わぬ応えは、即座にあった。

「伏目鎮護を預かる陰陽師にして、京都守護職花霞が大将、花霞リクオ。
 毘沙門さまに会うことがあったら、よろしく言っておいてくれ、虫けらさんよ」

 ざざあと、しょうけらが砂に還ったのが、襲撃者どもの最後だった。

 本家を守りきった陰陽師等と、しょうけらの手勢をことごとくほふった花霞の手勢から、割れるような歓声が起こる。
 まだ羽衣狐と、螺旋の封印も残っている。
 当主がそう言って宥めても、羽衣狐の下僕の筆頭格をこうして己等で下し、己等の場所を己等で守った歓喜ははちきれんばかり。人も妖もなく肩を抱き合い喜び合い、勝てる、きっと勝てると励まし合う。
 彼等の背を押すように、あれほど暗雲垂れ込めていた京都の空は、西半分はもはや澄み渡り、清廉な空気が辺りを包み込んでいる。

 人の身ならば歓喜し、陽の光を浴びて目を細め、また、北の方向で立ち上っていた黒雲がまた一つ失われたのを目にしては歓声を上げるのも当然であろう。
 当主はもちろん、秋房、雅次に破戸、皆の無事な姿を見て、歓喜の声を聞いて、リクオは目を細めた。
 ほっとしたせいだろうか、刀を鞘に納める間もなく、急速に体から力が抜けていく。

 鬼童丸に支えられたとわかったところで、今度こそ、意識を手放した。





 ね、約束。
 ゆびきり、げんまん。

 守りたいものを、正しくみつけられるように。
 強くて優しい、総大将に。





 約束は、それだけ。
 小指を結んだ先で、雪の娘はいつも優しく笑っている。

 総大将の御孫、二代目の実子とは言えリクオ様は、まるで人間そのものでいらっしゃる。
 そうじゃな、アレでは三代目は無理だろうよ。

 屋敷でかくれんぼをしていたときに、こっそり聞いたひそひそ声。
 聞いてはいけないものだろうと判じて、そうっとそうっと引き返し、かくれんぼの鬼役の娘を逆に探して抱きつくと、理由も訊かず、優しく抱きしめ返してくれた。
 お前のように優しく、ボクはなれたろうか。





 小指で結んだ先の母、どこでもやはり笑っていた。

 伏目の山で過ごした、僅かな平和の日々。
 祖父に頼んで匿っている小物妖怪どもを紹介すると、「あらあら、可愛い百鬼ねえ。やっぱりお父さんの血筋かしら」と、大袈裟に喜び誉めそやしてくれた。
 呪いに痛めつけられた体は軋んでそれどころではなかったろうに、家では台所に立っていた母の記憶しかない。
 恨み、辛み、妬み、嫉み、何一つ口にはせず、父のことをしきりに語っては誉めた。
 優しくて、強くて、かっこいい魑魅魍魎の主だと。

 記憶の中にあった頼もしい父の背を否定されなかったからこそ、父を嫌わずに済んだ。

 なるならそうおなりなさいと、言ってくれた貴女のように強く、オレはなれたろうか。





 狐の夢は、見なかった。






「首無、リクオ様の様子はどう?」
「まだ、眠っておられるみたいだ」
「咳は」
「夜が来てからはもう酷いのは、していないよ」
「ああ、よかった。もし起きていらっしゃるならと思って、重湯をお持ちしたんだけど、冷めちゃうわね。起きられたら呼んで、あたためなおすから」

 夢の続きだろうかと思ったのは、届いた声が大変に懐かしいものだったからだ。
 幼い頃に熱を出したとき、雪女とともに代わる代わる己の側に侍った優しい声。

 ところが目を開けてみれば、部屋は暗く、四方には窓がない。
 これでもかと言うほど呪符を張り付け、ただ一つの入り口は格子戸になっていて、ぼんやりとした明かりはそこから漏れていた。
 嫌というほど覚えがある。ここは、花開院本家で、己が呪い封じに使った部屋だ。

 己の手を見る。
 赤い爪が鋭く伸びていた。
 身を起こし、脇を見れば、己の動きを追って銀の髪が長く揺れる。
 暗闇でも、己の瞳は違わず、すぐ側の得物を判じた。
 《鶯丸》の柄飾りの色まで、しっかり判別できる。
 夜目もきく。どうやら、明王姿の方であるらしい。
 いよいよ首を傾げた。
 まだ夢の中にいるのだろうか、と思いつつ、

「そこに居るのは、誰だ」

 誰何すると、格子戸のすぐ向こうに座っていたらしい男が、がばりと身を起こしてこちらをのぞき込んだ。
 立ち去ろうとしていた女もまた、慌てて膝をつき、手にした盆を脇によけ、たおやかに指をつく。

「お目覚めですか!」
「ああ、よかった。お気づきになられたのですね」
「お前等は………」
「お忘れですか、首無です。こちらは毛倡妓」
「……奴良組二代目の、側近」

 話が見えなくてそう応じたところ、二人が困ったように顔を見合わせて、何だか気落ちした様子まで見せるので、申し訳ないような気持ちになり、

「……憶えてるよ。首無の頭だけ連れて遊んだことも、木登りして降りられなくなった枝の先から、毛倡妓の髪に抱かれて降ろしてもらったことも」
「その後、リクオ様ったら私じゃなくて、下で待ってた雪女に抱きついたんですよ。あの子、下でおろおろしていただけなのに」

 忘れたわけではないと知らせてやれば、二人は安堵したのとこちらの緊張を解こうとしてか、次々にあの時はこの時はなどと、懐かしい話を持ち出してくる。
 楽しくないはずはなかった、そのままいつまでだって、懐かしい記憶に身を委ねていられればどんなに良かったろう、しかし悲しいかな今は戦時下で、リクオはあの頃より少しばかり大人になった。
 それで、と、続けた声が、思い出話にそぐわない温度であるのを自覚しつつ、今に話を戻した。

「それで、どうしてあんた達がここにいる?二代目は、羽衣狐は、戦況は」
「……落ち着け、リクオ。今はようやく陽が落ちたばかり。あれから半日とたってはおらん、二代目率いる奴良組は、相剋寺で土蜘蛛と相対していると玉章から知らせが入った。いかに土蜘蛛とは言え、二代目ならばあるいは、下すかもしれん。
 報告を聞く気があるなら、重湯でも口にしてはどうだ、口を動かしながらでも、耳は使えよう」

 姿は見えないが、戸口のすぐ脇に座していたらしい、鬼童丸の落ち着いた声が逸るリクオを宥め、毛倡妓の脇の盆を、戸の下の隙間から滑り込ませた。

「囚人のようであるから戸を開けろなどと、駄々をこねてくれるなよ。陰陽師どもが言うには、お前の妖気をなるべくそこへ溜めておいて、祟り場に近くするために、夜の内、そこは封じておかねばならんのだそうだ。朝になれば世話をするため戸を開けようが、今のお前は封じられた妖と同じよ。中からこの戸を開くことはかなうまい。
 昼間、倒れたのは覚えておるか。螺旋の封印の半分以上が施された今、京都は一部を除いて元通り。おかげでしょうけらを調伏した後にお前は人間に戻りかけ、ずいぶん血を吐いた。そのままにしていれば、間もなく息絶えたろう。だがここは、お前が呪い封じに使っていた忌み深い部屋のためか、妖気が濃い。運び込んだところ、完全に妖とはならなかったが、完全な人間にも戻らなかった。目をつけた陰陽師どもは、この部屋にお前の妖気をくゆらせようとしている。窮屈だが、我慢しろ、いいな」
「猩影と玉章は」
「陰陽師の娘を連れ、弐條城へ入った。あまり早く入りすぎても羽衣狐の餌食になるからと、奴良組に追いつかれた振りをしながら、結局入り込んだのはつい先ほどらしい。あとは狐と狸の化かし合いだ、玉章のことなら、出産間際で気が立っている女狐を宥めすかし、奴良組到着までの時間、陰陽師の娘を守りながら潜伏もできよう。
 奴良組のほとんどの者は、お前が若君だとは知らぬ。知っているのは二代目と、この二人の側近だけだそうだ。
 この芝居の主役は奴良鯉伴だと、お前は以前、そう言っていたな。お前自身はあくまで端役だと。ならば、お前の出番は終わった。このまま行けば、羽衣狐と二代目の決着、夜明けまでにはつくだろう。あとは休め。猩影も言っていただろう、欲張るなと。
 敵方の端役など、舞台の上にずるずると居座り続けるものではない」
「あらかた、理解した。犠牲は」
「これまでの戦いで、塵に還った者は花霞の手勢に十数名、花開院でも命を落とした者が二十余り」
「多いな」
「お前の多い少ないは、あてにならん。ただの一人だとしても、多いの大きいのと言うのだろうが」
「……ああ」
「お前についてここへ来た手勢は、ワシを覗き弐條城へ向かわせておいた。ワシはしょうけらとともに、調伏されたことになっておる」
「それでいい」
「他に、懸念は」
「ない」
「安堵したならば、休め。その部屋でも夜が明けた後、お前がどれくらい人間に近くなるやらはかれぬ。今のうちに眠っておけ」

 リクオが従える僕でありながら、剣の師と一家の相談役も兼ねる老剣客である。
 尋ねたいことは速やかに報され、どうやら手詰めにはなっていないらしいと知り、リクオは今度こそ心の底から安らかに息をついた。
 吐いた息の中に、それまで四肢を動かしていた命の灯でも混じっていたか、急に全身が重く怠くなり、身を起こしていられなくなって、今一度、床に体を横たえた。

 ずきりと胸のあたりが痛み、腹の奥の方がぐずぐずとおさまらない。
 差し出された重湯を、唇を湿らせる程度にすすったが、あとは口に含む気にならなかった。
 この姿でも誤魔化しがきかなくなるくらい、呪いは進んでいるらしい。
 進んで死にたいわけではない、死にたがりなどもっての他だ。一家を率いる大将ならば、尚のこと。
 ただ、己で成さねばならない使命があって、他に手段がないからこうしたまでである。どうやらもう戦場へ赴いても役に立たなさそうだと思えば、皆が生かそうとしてくれているらしいこの命、成り行きに任せてみようかという気にもなった。
 と言うより、そろそろ考えるのも億劫で、本当のところ、瞼が重くて仕方がない。

「首無、毛倡妓」

 眠りに落ちる間際、先ほど言葉を遮ってしまったままになっていた、懐かしい二人の名を呼んだ。

「ここに」
「おります、若」
「お前等、いいのかい。二代目のところに、行きたいんだろう。オレならこの通り、後は大人しくしているし、鬼童丸がいる。心配ねぇよ」

 百鬼の主に近い者なら近い者ほど、遠ざけられれば不安にもなるし心細くもなる。鬼とは妖とはそういうもの、頑固で情深く業深く、哀れで悲しく愛しい生き物なのだから。
 しかし二人は即座に、首を横に振った。
 首無も器用に、そう見える所作をした。

 二人とも、部屋の外にどっしりと控える鬼童丸に安堵するどころか、あからさまに敵意を剥き出しにして、

「その二代目に、リクオ様の御身を守るよう、仰せつかりました。奴良組は今や、京都のほとんどを勢力下においております。多くの者に、花霞一家が敵として認識されている以上、何かの間違いでここに奴良勢が来て貴方様のお命を狙わないとも限らない。誤解を解き、真実をつまびらかにするまで、リクオ様をお守りするのが、私どもの使命です」
「身の回りのお世話もございましょう。昔のように、何なりと仰せつけ下さいませな。重湯が進まないようなら、ほら、昔お好きだった、ホットミルクに蜂蜜を混ぜてお持ちしましょうか。ね、若様、そういたしましょ」

 あれこれと理由をつけて、居座りたがる。

 命云々の話はなるようになるところなので、自ら捨てはしないにしろ、此の世に留まるも旅立つもどちらでもよかったが、誤解を解くのは一家のために考えておかねばならないので、素直に、では頼むとだけ言うと、あちらはあからさまにほっとした様子だった。
 ほとんど口をつけられなかった重湯の盆を戸の向こうに滑らせると、毛倡妓は二言三言首無と何やらこそこそ交わし、下がった。
 蜂蜜入りのホットミルクでも、作りに行ったのかもしれない。
 どうせ口に入れられないから要らないと言えなかったのは、口を利くのがそろそろ億劫だったからばかりではなく、幼い頃に含んだあたたかい飲み物が、なんだか懐かしく思えて断れなかったためだ。

 もっとも、その毛倡妓が再び姿を現したとき、リクオは己の妖気で満ちた部屋の中で、少しずつ体の中や外の傷を癒しながら、小さく寝息をたてていたのだが。










 夜は静かに過ぎ行くかと、思われた。
 相剋寺の封印が少々乱暴にほどこされた際には、地響きが花開院本家にまで伝わってきたが、以降、弐條城へ火の手が上がり、妖怪同士の喧騒が遠く聞こえるようになった他は、決着の夜明けを迎えるまで、座して待てば良いかと、思われた。

 ところが、縦に揺れる地響きの間も目を覚まさなかったリクオが、真夜中に差し掛かる頃、むくりと、身を起こした。
 己の小指の先を見つめ、目を瞬かせる。

「 ――― リクオ様、お目覚めですか。白湯を含まれますか」

 眠る前と変わらぬ場所に控えていた首無が、気配に気づいて声をかけるが、これには首を横に振る。

「奴良組の、宝船とやら。後方の奴等は、今、どこにいる」
「今も洛東の、銀閣寺のあたりに。あのあたりが一番、関東からの支援も受けやすく、後ろの憂いが無いですから。それが、何か」
「無事、なんだよな?」
「はい、護衛程度ではありますが手勢を残してありますし、何かあればすぐに知らせが来るはずです。若のことは伏せた上で、私が二代目の命で花開院の本家に身を寄せたことは、伝えてあります」
「……なら、いいんだが」
「若、何か」
「いや、それならいいんだ、それなら。ただ少し、胸騒ぎというか。……前と同じで、約束の指が」

 首無は、怪訝な顔をするばかりである。
 杞憂か。己が東から追われたので、東を背にしているのが安堵の理由にならず、余計な考えをおこさせるのだろう。
 埒も無いことでわずらうこともあるまいと、今一度、身を横たえようとしたとき。

「首無 ――― ちょっと、首無」
「 ――― 失礼」

 廊下の向こうから、わざわざ手招く毛倡妓の声がした。
 首無が戸口を離れ、毛倡妓としばらく何事かをこそこそと話した後、彼は「すぐに行く」と力強く応じ、やや足早に戻ってきて口を開こうとしたところで、まず息を呑んだ。

 リクオは既に床から起き上がり、寝巻きを脱いで桔梗の生絹を既に纏い、その上に纏うものを捜してがさごそやっていたのである。

「若、何のおつもりです」
「オレの着流しと袴、どこにやったんだい」
「昼に見たときに、血で汚れておりました。お寝巻きならば替えを用意いたします」
「替えなら外出着を頼むよ。何かあったんだろう、宝船に」
「それを何故 ――― いや、ともかく、若はここでお休みください。中からはこの戸は開きませんよ」
「ずいぶん焦ってるじゃねえか。そんなに酷いのかい」
「若を煩わせるような事では、ございません」
「そらないわ。下手に隠し事をしはる方が、かなん」
「 ――――― 関東勢の支援を装い、羽衣狐に恭順の意を示さんとする者が、東から宝船を襲ったと。誰の指図か、まだそこまでは。若、どうかお休みください」

 外出着をもらえぬとわかると、今度は話の間に箪笥から、桜模様の入った二藍の狩衣を引っ張り出して被り、下は動きやすい馬乗袴という乱暴な姿を整え、腰に《鶯丸》を差す。
 お休みくださらないのは、明らかな様子で、格子戸の前に立った。
 内側から手をかける。ぴくりともしない。
 ガタガタ鳴らす。やはり同じだ。
 体当たりをする。びくともせぬ。
 懐の鉄扇に炎を燈らせ投げつけたが、炎は木戸を焦がしたのみで、すぐに消えた。
 しまいには《鶯丸》を抜き放ち、斬りつけた。それでもだめだ。

 ここまで騒げば、花開院の陰陽師たちも聞きつけ、何事かと集い、兄たちや当主までもが姿を現して宥めるのだが、リクオは聞く耳など持たない。

 まさに荒れ狂う一匹の妖、一体の明王と化して暴れ狂うものだから、部屋の中の床板は捲れ上がり壁には皹が入り、《鶯丸》を振るうたびに屋敷全体がずしん、ずしんと、でいだらぼっちが暴れでもしたかのように震えて梁からぱらぱら埃が落ちてくる。

「リクオくん、奴良組の事にまで首を突っ込むものじゃない。何でもかんでもは無理だ」
「奴良組じゃない、つららだ、つららはそこに居るんだな、首無!」
「はあ、確かに、賄いにおりますが ――― 」
「だったら開けろ、今すぐ、開けろ!それは、オレの、オレの大切な……秋房義兄、じじい、誰でもいい、ここを開けろッ!」
「 ――― リクオ」

 そこまで言われて、事情を察せぬ者は誰一人無い。
 皆が顔を見合わせ、答えに窮したが、その中で口を開いたのは、今まで黙ってやはり戸口に座したままでいた、鬼童丸だった。

「お前が守るものに序列を作らぬのは理解しているが、その《つらら》とやらも、そうだと言うか」
「そうだ」
「ならば、そこは開けるわけにはいかん」
「なんでだよ、オヤジさん!おい開けろ!アンタ、オレの僕だろう!」
「そうだ。お前が守るものの内の一つ。ワシを百鬼に加える際に、そう言ったのを、確かに聞いた。
 お前の百鬼はことごとく、お前に守られるもので、お前を守るものでもある。お前を失えば、我等は瓦解する。この数年で紡ぎかけた人との縁も、文字通り霞となって消え去ろう。お前が序列を作らぬのならば、お前の懐の中に入った鬼どもは、必要以上の庇護をお前に求めるわけにはいかぬのよ。降りかかる火の粉は己で払わねば、余計な手間で主を煩わせよう。その分、他の者を救うはずの手が失われるであろうからな。
 序列を作らぬとは、そういうこと。しかもお前が行こうとしているのは、奴良組の船。あちらはあちらで主が居る、お前がしゃしゃり出ては、逆にあちらの百鬼夜行に失礼だろう」
「それでも、つららは ――― つららは、失いたくない」
「守るのと、失いたくないのとは、違う。お前のそれは、守護ではなく執着だ」
「 ――― ッ」
「ここを出て、部屋の妖気が霧散すれば、お前は夜明けとともに人間に戻ろう。加えて、京都全土が払われたその時に、この戸が開いていれば、封印の勢いでそこすら祓われてしまうのは必定。戻る場所は、無くなるぞ。お前は懐に入れた者を捨てるか」

 ガリ。戸に爪を立てた。
 ガリ。ガリガリガリガリ。座り込んだ。

「あいつの危機になると、小指が痺れるんだ。あいつを守ると約束した、指先が痺れるんだ」



 今までならば、妖の体で大立ち回りをしても息一つ乱さなかったというのに、たかだか部屋の中で暴れただけで、大声を上げただけで、息が上がっていた。
 整えながら、祈るように目を閉じて、強かった母を想う。



「オレが無くしたものは大きくて、代わりに守れた何かがあったとしても、それぞれは別のものだから、比べられやしないし、埋められやしないんだ。だからせめて、守りたいと思った。すべてを。神にも仏にも鬼にも外道どもにもくれてやらねえ、オレが懐に抱え込んだものはオレが守るべきもの、花開院も、京都も、そこに住む者も、オレを頼って伏目に来るものも、すべてだ。
 でも、違う。つららは、違う。序列じゃない、そう、小指の分だけ」



 ボクが、つららを守る。
 強くて優しい、総大将になってくださいね。



 約束をした、小指の分だけ。



「小指の分だけ、オレはあいつのものなんだ。
 花霞大将じゃなくて、奴良の若様でもなくて、あいつのものなんだ」



 恋や愛より、狂おしく、匂わしく。

 言い切った後、リクオは再び立ち上がる。
 またも戸をガタガタ言わせ、体当たりし、決して引かない。

 だが今度は違った。鬼童丸が、戸の脇から立ち上がり、顎をさすりながらぬうと大きな体で、戸を挟んだ向こう側に立ちふさがった。

 ガツリ、と戸を掴んで、封じていた札を己の妖気で破き砕きながら、戸を開ける。
 呪符の力が鬼童丸自身の腕を逆巻き苛んだが、顔色一つ変えず、充分に戸を開けてしまうと、ひんやりとした妖気が部屋から廊下へ溢れ返るのだった。



「行こうか、リクオ。賑やか好きのお前には、少々寂しい百鬼夜行かもしれんが、供をしよう。
 序列無き者どもの危急ならば、その者どもで勝手にいたせと言うところだが、お前の小指の持ち主ならば、それもまたワシの主たりうるのだろう」
「ああ。……悪いな、憎まれ役をさせる」
「お前はワシの最後の主だ。元よりお前が死ねば追い腹を切るつもり、黙って憎まれ役をしながら生き残ってやりはせんぞ」
「生きて一家を支えろって言ったって、どうせ聞きやしねぇんだろ。
 いいさ、鬼童丸。そん時は、許す。オレと死んでくれ」
「御意」



 足元に広がり立ち込める、妖気は霧のようにひそやかに、進む主は華のごとく艶やかに。
 従えた僕は一鬼のみ、いや、慌てて追った首無と毛倡妓を含めて僅か三鬼、風のように軽やかな身のこなしで颯爽と夜の影を縫い、瞬く間に行ってしまった。



+++



 東の方より黒雲が宝船を覆ったのは、二代目率いる奴良勢が、土蜘蛛ごと相剋寺に螺旋の封印を乱暴に施し、いよいよ弐條城へ入ったそのときであった。
 羽衣狐を目前にした二代目が、もはや引き返すことがないと踏み、これまで日和見を決め込んでいた者どもが、羽衣狐に洛東の宝船を手土産に取り入らんとしたのだ。軍勢の中には、奴良組に名を連ねていながら寝返った者もあり、京都抗争の激しさと影響の大きさを浮き彫りにしていた。

 大勢力である奴良組の、思わぬ内憂が露見した瞬間でもあったが、とどのつまり、宝船に留まっていた後方部隊にっては寝耳に水の騒ぎである。
 武闘派妖怪どもは出払っており、護衛として残っていたるのは、手傷を負って前線を下がったか、老いて前線には出られなかったかした者で、力の弱い者を庇いながら戦える余裕のある者は、誰一人としていなかった。
 さらには、敵方が幾人もの将を戴いて攻め込んでくるのに対し、宝船に残っていた奴良勢に将はなく、傷ついた者を癒す場所としてしか働いていない。それぞれが任された場所を一所懸命に守るばかりで、相手に打ち勝つような軍配の振り方を知る者はなかった。

 雪女もその一人で、甲板で氷の薙刀を奮い、凍てつく吹雪で襲い来る者どもを振り払いしていたが、やがてじりじりと追い立てられ、はっと我に返ったときには周囲に味方の一人もなく、舳先まで追いつめられていたのである。

 周囲を見回したときに、少し向こうで刀を奮う牛頭丸と目が合い、あちらも雪女の危機を気づいてすぐさま駆けつけようとしたが、武闘派牛鬼組の若頭とは言え、片目片足を酷くやられて、ここへ下がってきた身だ、駆けつけようにもすぐにまた新たな手勢に囲まれ、行く手を阻まれた。

 助けはない。
 在るのは怪我人や、戦うよりも細々とした世話を好む小物どもばかりである。
 戦意なき者どもを、敵は次々と、逃げる者すら追って斬り伏せ笑っている。
 弱い雪女ではとてもではないが、足元にしがみつく小物たちを守るので精一杯だ。
 それすら力及ばず、女と見て卑しい笑みを浮かべて這いよってくる者どもから、じり、じり、と下がる今である。



 圧倒的に不利であるが、雪女はどこかで確信していた。
 きっと、助けに来てくれる。
 必ず。絶対に。



「若い雪女がおるぞ。ついこの前まで雪童だったような、初心な顔をしておる」
「生け捕って皆で可愛がってやろうか」
「雪女のほとは味わったことがない、そこも雪と同じく冷たいのかのう」
「クックック、試してみるがええ、気をやるときにうっかりすると大事なところを氷塊にされるかもしらんぞ」

 聞いているだけで肌が泡立つような、汚らわしい忌み言葉で雪女を囲み、ヒヒヒクククと喉の奥で笑いながら、じゅるりと長い舌で口の周りを舐めながら。
 じり、じり、じり。と。

 やがて背後の余裕は無くなって、雪女は覚悟を決め、一番最初に手を伸ばしてきた奴から斬り裂いてやろうと薙刀を構え直し、威嚇の氷をふううと吐いた。
 激しい吹雪を吹いてやれば、前列に居た者どもはたちまち氷の像と化す。
 そこまでは良かったは、荒い息づかいの中で大きな業を使ったので、雪女に大きな隙が生まれた。
 けほりと咳込んだところで、背後から宝船の壁を伝い、そうっと忍び寄っていた蜥蜴男に、華奢な体を両腕で絡めとられたのである。

「や、何ッ、放して、放しなさいッ!」
「おおぉ、やわらけー。夏場の抱き心地最高じゃんこれー」
「おっ、やったな蜥蜴大蛇、そのまま生け捕りじゃ」

 わらわらと群がる敵勢に、命の危険ではなく、ようやくそこで初めて、女としての危機を感じ、雪女はヒッと息をのんだ。
 両手足を絡め取られ甲板に乱暴に引き倒されて、長い髪を踏みつけにされ、ぐいと胸元を両脇に引っ張られたあげくに、びりと衣が彼女より先に悲鳴を上げた。

「い、いやっ、いや、やめて、いやッッ」
「たまんねーな、こりゃ」
「おうおう、まだ吹雪を出すぞ」
「なに、そのうち可愛い声を出すようになるさ」
「さてさて、美味しく剥かせていただきましょうかねぇ、へへへ」
「いや、やめなさい、いや、いや、いやッ」



 助けて、助けて、助けて。
 助けて、花霞大将。



 月明かりに冴え冴えとする潔白の着物から、さらに蒼く見えるほどの白い両足がのぞく。
 ばたつかせて抵抗するのも、男どもの群の中では空しいもの。

 哀れ、雪女は狼藉者どもの手に堕ち果てるか、悔し涙を流しながら、舌を噛んで死ぬか、と思われたが。

「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前ッ」

 月すら燃え上がらせるほどの怒気が籠もったこの声が、誰の者か確かめる暇もなく、雪女を組み敷いていた狼藉者どもは突如として陰の中から現れた骸の兵たちに貫かれ、塵となり、舞い上がってしまった。
 この一手を逃れた者も、陰陽師の術であるとは判じられたものの、どこだ、何奴だと、囲んでいた女を忘れて身構えているうちに、一人は空から襲いかかった三本足の大きな鴉に目玉を啄まれ、次の者はこの鴉の背から降り注いだ呪符の一枚に焼かれて飛び散り、最後の一人は同じく空から降り注いだ一閃が誰の手によるものか、わからぬまま顔の形を左と右とにずらしていき、絶えた。

 雪女には、周囲の狼藉者どもが一瞬にしてかき消えたようにしか思えず、はだけた前をかき合わせるのも忘れ、業の主を見定める。
 探すまでもなく、空からふわりと舞い降りた彼は、居合い一閃させた《鶯丸》を鞘に納め、雪女の脇に片膝をつき、彼女の肩を抱いて起こした。

 いつまでも触れていたい白檀の香が、今日は先日より少し強い。
 だが気にはならない。己の身に彼の香りが、そのまま移って消えなければいいのにと思った。

「ギリギリ大丈夫か。大丈夫だな」
「だ、大丈夫………じゃない!全然ッ、大丈夫なんかじゃない!遅いのよ!トラウマになった、トラウマになっちゃったんだから!助けに来るならもっと早く助けに来なさいよ、私のこと好きなら、もっと早く来なさいよ、全然、大丈夫じゃ、ないんだからぁッ。………っく、ひっく………待ってたんだからぁ……」
「そりゃあ……悪かった。ちょっと、立て込んでて」
「ふぅええええぇぇぇ……待ってたんだからぁ……ッ」
「そうか、嬉しい」

 たくましい胸元に頬を寄せ、涙をこすりつけていると、優しい手が少し遠慮がちに、雪女の髪を撫でてくれる。
 つい先日、出会ったばかりなのに。
 恋をしていると、自覚したばかりなのに。
 狼藉者どもの指が這った場所すべてに、口づけを落として清めてもらいたかった。

 だと言うのに、雪女の恋慕の相手は少しばかり無骨なのか、せっせとはだけた前を合わせてくれるばかりで、彼女の肌に触れようともしない。
 少し文句をつけてやろうかと思ったが、睨みつけた視線の先で、紅瑪瑙の瞳が何とも穏やかに雪女を見つめ返し、月の下で彼女の視線を受けて嬉しそうに微笑む様子など、それこそ月下美人がぽっと咲いたかのようで、とてもではないが、文句のつけどころがない。
 しろがねの髪など、今夜の風情ある月とともに、髪の毛一本ずつが内側から輝いているかのようだ。

 にしても、唇とは言わないから、頬か額くらいに口づけしてくれてもかまわぬだろうに、触れてくる手さえぎこちないのはどういう理屈だろうかと、雪女は気づかれぬようほんの少しだけ、唇を尖らせるのだった。
 その不興も、彼の指が宥めるように雪女の髪を梳いているうち、溶けて消えてしまった。
 真摯さが、優しさが、どうしても、守子となるはずだったあの少年に重なって、一度可愛らしいと思ってしまうと嫌えるはずも無かった。

「もう少しこうしていたいが、そういうわけにもいかないだろうな。故あって、奴良組に加勢する。とは言え、こっちも手勢のほとんどは使いきっちまった。時間がかかれば負けちまう。だから、大将首を狙う。ここを襲った奴らの大将は、どこに居る」
「何人か居るみたい。私、ずいぶん追い立てられて、皆とはぐれちゃったし、誰がどこに居るのかも、もう」
「上から見通しても、ひどい乱戦でどこが中心か、わからなかった。敵はどういう奴だ」
「それも、わからないの。何人か、奴良組に名を連ねている連中はいたみたいだけど」
「それが、羽衣狐と二代目のガチ勝負に合わせて、いっせいに攻め込んでくるとはどういう了見だ。まぁいい、ヤマタノオロチに頭が八つあるんなら、その八つともを片っ端から叩き落せば済む話。まとめて調伏してやろう」

 話しているのは、ほんの僅かな時間だったが、なにせ乱戦の最中である。
 花霞大将の周囲、傾いた舳先にぽっかり空いた隙間に、上空から見下ろしていた空妖が気づいた。

「奴良組の奴等だ、舳先にどうやら大将首が居るぞ!」
「討ち取れ!」
「八つ裂きにして、見せしめにしろ!」

 船を囲むように舞い、逃げるも進むも許さぬと宝船を足止めしていた空妖が、先頭に全身を鱗に覆わせた天魔を戴き、妖気ただならぬ花霞大将めがけて、大口を開けて幾重にも生え揃った刃を見せて飛び込んできた。
 そのままでは、舳先に大きな穴が開く。
 首無や毛倡妓がそれぞれ身構えたが、鬼童丸が、二人の前に腕をかざして止めた。

 何故止める ――― 二人が声も出すよりも、一度刀を鞘におさめて、踏み込むように上体を沈ませた花霞大将が、神速の居合いを放つのが先だった。

「討ち取れ、討ち取れ、大将首だ!」
「なんだぁそりゃあ、何かのマジナイかぁ?」
「八つ裂きに♪、八つ裂きに♪、八つ裂………へぁ?」

 白刃の一閃が、一瞬ぴかりと煌めいたようにしか目に映らず、者どもはしばらくそのまま飛んで向かってきたが、やがて、正面の天魔の顔にぴしりと亀裂が入った。
 天魔だけではない、周囲に群がるように飛んでいた、空妖どもがことごとく、異変を感じた途端に体のズレを感じた。

 花霞大将が、何事もなかったかのように《鶯丸》をカチリと鞘に収めた音が、彼等の断末魔となった。

「 ――― 奥義《楠》、そろそろオレの十八番だと思うんだが、どうして毎度突っ込んできてくれるのかね」
「その十八番とやらを、喰らわせて生かしておいた試しが無いから広まらんのだろうが。しぃえむという奴が足りんのよ。それはそうと、今ので空妖どもが騒ぎ始めたぞ。どうやらあの天魔、大将首の一つであったらしい」
「そりゃ、都合がいい。ここらで名乗ってみるか。総元締を、おびき出せるかもしれん」

 名のある天魔を下した居合い一閃、首無や毛倡妓は呆気に取られて言葉も無い。
 その業を、二代目の側近中の側近である彼等は、長きに渡って繰り広げてきた鬼童丸との争いで、何度も目にしてきたのだから。
 それが、若き日の奴良組初代総大将に瓜二つの若君の手から、研ぎ澄まされた一撃として放たれるのだ、呆然の次には、これまでどれほどの研鑽を積み、修羅場を潜り抜けてこられたのかと、ただ一人生き抜いてこられた若君に、目頭を熱くするばかり。

 その若君が、けほりとまた一つ咳をして、ぐいと口元を拭ったのを見て、定められた覚悟を感じぬはずもない。

 二人は最後まで見届けようと、互いに頷き合い、若君に並んだ。
 常は二代目の脇を固めるように、一歩下がったところで、彼の背を守るように。
 雪女を腕に抱き、首無と毛倡妓、そして一番最後に鬼童丸を従えれば、既に立派な百鬼夜行の主である。

 しろがねの髪を長くなびかせ、瞳はあやしの紅瑪瑙。
 二藍の狩衣に、桔梗合わせの生絹と馬乗袴、首には水晶の数珠をかけ、しかし《陰陽師》だと呼ぶ者は誰もない。

「天魔がやられたぞ!」
「そんな奴がおったか」
「誰ぞ」
「誰ぞ、誰ぞ、あの見事な大妖は誰ぞ」
「あの百鬼夜行の《主》は、誰ぞ」
「あの若造、花霞じゃ」
「あやつ、奴良組と羽衣狐との間で日和見していたのではなかったか」
「いいや、奴良を裏切って羽衣についたと聞いたぞ」
「初代の落胤だとか、いや、まさか、しかし」
「それが何のつもりじゃ」
「どちらの敵か。どちらの味方か」

 迂闊に間合いに入れば、天魔やその手勢がそうされたように、見えぬ斬撃の的にされようと、あれほど猛っていた者どもが、今度は逆に花霞大将から充分な間合いを取りたがり、舳先どころか甲板に溢れていた者どもは、ちろりと視線を流されただけで、おおと驚き一歩下がる。
 ふわりと地を蹴り舞い上がれば、おお、おおと畏れて三歩下がる。

 舳先から、吹いたそよ風を足がかりに、花弁のように舞い上がった花霞大将は、宝船の巨大な帆けたに危なげなく舞い降りて、ぐるりと辺りを見回し、新たに現れた敵勢と、奴良組と、それぞれ相争っていた者どもが、等しく己を見つめているのを確かめた。

「奴良組どもよ、京都と関東の大将が、ようやく決着をつけようってこの時に、仲違いの上相打ちするってのは少し風情がないんじゃねえのかい。後ろに下がってるなら下がっているで、大人しく主の帰りを待ったらどうだ。女ァ小物ばかりを狙って狼藉三枚たァ、ちぃと、おイタが過ぎる」
「 ――― う、うるさいぞ!貴様も羽衣狐様の僕ならば、我等に加勢してしかるべきであろう!」
「そうじゃ、そうじゃ!それを貴様、天魔を、味方を一刀両断とは、どういう了見じゃ!」
「黙れえぇッ!どういう了見かとは、こちらが訊きたい!
 貴様等の顔など、羽衣狐の下で走っていた間、ただの一度も見たことはなく、ただの一度も報せを受けたことは無い。
 そんな野郎どもが、互いの大将がようやく顔合わせした最後の大一番に、水を差すとはどういう了見か!無礼千万も甚だしい、どちらの主にも礼を失し不興も買おう。それが何故わからん、一体誰の差し金か!
 京都守護職花霞、大将のオレがそいつの首を直々にはねてやる、前に出ろ!前だ!」

 花霞など、最近京都で少しばかり名が知られるようになった、たかだか弱小一家の大将に過ぎぬ。
 そう軽んじていた者は、奴良組もそうでない者も、ことごとくこの一喝で腰を抜かした。

「誰の ――― ワシはお主から誘われたぞ」
「いや俺は、あいつから」
「いやいや馬鹿を言うな、小生は皆が、跡継ぎの無い奴良組よりも跡継ぎに憂い無い羽衣狐についた方が、この先恵まれるからと。奴良組は先細りになろうから、と」
「そ、そうよ。それは俺も聞いた。この宝船を乗っ取り、弐條城で奴良組の背後をつけば、羽衣狐の勝利は間違いなくなると」
「いや待て、しかし我等が奴良組の味方をしたらどうなる。羽衣狐が負ければ、やはり奴良組の傘下であった方が」
「それではまるで、ワシ等が羽衣の奴に、利用されたようではないか」

 誰の差し金だと改めて問われ、烈火のごとき怒りの前に身をさらされてはかなわんとばかり、俺ではない、ワシではないと責を擦り付け合い、首を横に振る。
 その内、奴良勢へ襲いかかった者どもも、一体誰が自分たちに命令を下したのか、妙な噂を誰が流したのか、わからなくなってしまった。

「一体」
「誰が」
「そんなことを?」

 主の居ない百鬼夜行など、御為にと掲げるもののない軍勢など、己の役割に疑問を抱いた大将など、長くは続かない。
 花霞大将の、筋の通った口上と朗々と響く声に、怒気は払われ互いの顔を見合わせた。

「お前等を騙し、《記憶》を操った誰かが居る。噂の元を辿っても、噂はお前等の中で輪になって、決して答えは出てこないぜ。 ――― そうだよな」

 花霞大将は、軍勢がざわざわとする間も、何かを求めるように視線をさまよわせていたが、それを見つけて、にいと、笑った。
 軍勢の一人、しかも奴良組の手勢の一に化け、被害者を装っていたそれ。
 名もなき妖怪の一人の首筋で、ぎょろりと目玉が瞬きしたのを、見逃す彼ではない。



「鏖地蔵さんよ」



 刀を握っておろおろしていた、一匹の鬼。
 その首筋に浮き出た目玉が、ぱちぱちと瞬きしたかと思えば、にゅるりと、柔らかなところてんのように、そこから一体の妖が飛び出した。

「花霞、それに鬼童丸か。しょうけらとともに、花開院本家で調伏されたなどと、謀りおって。今少しで奴良鯉伴を仕留められようという時に、邪魔をするでない」

 飛び出した勢いのまま、空高く飛び上がった鏖地蔵は、花霞大将と相対すべく、千年杉の巨木でこしらえられた、宝船の帆けたの向こう端へ着地するや、あちらも流石は羽衣狐の側近筆頭格、しゃがれていながらも腹から力の入る年季の入った能役者のような声で、「気圧されるでない」と、これまで奴良勢を押していた者どもを鼓舞するのである。

「皆の者よ、こやつの言葉になど、耳を貸すでない!噂の出所がどうであれ、貴様等はそれを望んだではないか、羽衣狐様と鵺による新たな世界の創造、闇による支配を望んだではないか!
 四百年、跡目に恵まれぬ奴良組を見限り、新たな主を生み出そうとする羽衣狐様の勝利を、望んだではないか!それがもうすぐじゃ、もうすぐ、この宝船ごと弐條城へ攻め入り奴良鯉伴を討てば、それが叶う!今更怖気づき、引き返そうとしたとて、とうに貴様等の主は奴良鯉伴ではない、羽衣狐様と鵺になっていることが何故わからぬ!
 引き返したとして、この裏切りを奴良組が許すと思うてか!
 引き返したとして、貴様等をただ生かしておく奴良鯉伴と思うてか!
 貴様等の戻る場所など、もう、とうに失われておるのだッ!」

 響く鏖地蔵の口上に誘われたか、それまで空妖に押さえつけられ目を回していた宝船が、ぐぐり、と身を起こして宙に浮いた。
 何だどうしたと訝る奴良勢を尻目に、鏖地蔵の哄笑が尚、響く。

「フェッ、フェッ、フェッ、図体がでかいばかりで、《記憶》を弄ってやるなど他愛もなかったわ。宝船よ、このまま弐條城へ乗り込み、軍勢を奴良鯉伴の背後にぶつけてやるぞ。飛べ!」

 何ということか。
 宙に浮いた宝船は、己の二本の腕で団扇を仰ぎ、たちまち弐條城目がけて泳ぎ始めたのだ。
 多くの、敵勢を乗せたまま。

「く ――― こうなっては、まさに乗りかかった船!」
「ええい、ままよ。奴良鯉伴を討て!奴良組を斬れ!」
「裏切り者、日和見の花霞を討ち取れ、羽衣狐様に首を捧げろ!」
「そうとも、奴良組に未来は無い、二代目も半妖だ、いずれは老いる」
「羽衣狐様のご出産を、新たな主の誕生を言祝げ、言祝げ!」
「ククククク……残念じゃったのぅ、花霞大将よ。羽衣狐様を廃した後、京都を乗っ取ろうとでも言う気だったのじゃろうが、そうはいかん。あの街は、怨念渦巻く闇の都として、この先千年呪われ、我等のものとなるのじゃ。喧嘩を売った相手が、悪かった。
 お前が裏でこそこそしているのを、知らぬワシとでも思ったか。
 中々力のある良い駒であったから、使ってやっていたまで。後顧の憂いを断つために、今ここで、闇に沈むがいい!」

 鏖地蔵の周囲を取り囲んだ空妖が、再び大将首を狙って、決意も新たに攻め込んでくる。
 これは《鶯丸》を抜く前に、首無の綾糸が払いのけ締め上げた散らしたが、群れなした空妖どもが消えてみると、向こうに居たはずの鏖地蔵は、既に姿を消し、遥か下の甲板をどこぞへと駆け抜けていた。
 花霞大将、それを見て吐き捨てた。
 羽衣狐よりも、その下につくどの筆頭格どもよりも、あの目玉の化け物が、一番の敵に見えた。

「こそこそと這い回る、卑しい奴めが。虫唾が走る」

 再び暴れ出した軍勢の前に、奴良勢は今度こそ駄目かと背を向ける者が多く、弐條城は目の前に迫ってくる。
 そう、遥か東の地平を、ほんの少しあたため始めた、夜明けと共に。

 もはや、一刻の猶予も無い。

「主、どうする」
「鬼童丸、守ってやってくれ。どいつもこいつも昔、どっかで見た顔だ。オレは鏖地蔵を斬る」
「御意」

 帆けたから、蟻のように敵勢がむらがる場所めがけてまっしぐら、飛び降りた鬼童丸、着地するついでのように二本の刀を抜いた、その所作だけで周囲五十体の妖怪どもが舞い飛び散った。
 どういう理由か知らないが、こうなっても花霞は奴良の味方をしてくれる。
 そう気づいた奴良組は、一度は背を向けかけた者も踏みとどまって、小さな付喪神までもがえいやと刀を振り回し、どうにか抗い始めた。
 中には先ほどの騒ぎの合間に、頭を冷やした者もあった。
 それまで敵勢として戦っていた者が、小細工に踊らされてたまるかと考えを改め、奴良勢に加わったのだ。

 騒ぎの合間を掻い潜り、鏖地蔵は逃げる、逃げる。
 己の手勢に加えた者どもに囲まれるまで逃げると、ようやく花霞を振り返った。
 あとは高みの見物を、決め込むつもりらしい。

 敵勢から奴良組に加わった者は多く、あちらとこちら、丁度勢力は半々というあたりだろう。

「オレの声じゃ、加えられる味方はこんなモンだ。二代目のようにはいかねえな」
「いいえ、お見事です」

 空妖を払いのけていた首無が、さらに、続けた。

「 ――― 若、リクオ様、どうか奴良組跡目としての名乗りをお上げ下さい。それだけで、今の貴方を三代目と認める者は多いはず。こんな騒ぎなど」
「そうです、あちらの者どもが、奴良の跡目が無いことを理由に見限ろうなどと言うのなら、そんな理屈は通らないと、知らしめてやれば良いのです」

 雪女が目を見開くようなことを、首無も、毛倡妓も、彼の背中を守りながら、言うのだ。
 花霞大将は ――― リクオは静かに、首を横に振った。

「後の事を考えろよ、首無、毛倡妓。二代目がかつての妻を取り戻し、それが和子さまをお生みになった後のことを。跡目が二人居て、どうする。それこそ抗争の種だ。知る者は少なければ少ないほどいい、その事実は伏せろ。今後一切、口にすることは許さねぇ」
「しかし」
「くどい。名乗ったからとて、あちらさんは開き直るよ。弐條城がもうすぐそこだ。夜明けも近い。鏖地蔵を斬れば、宝船も正気に戻るだろうし、あちらさんも撤退するだろう。そこまではやってやる、後はお前等、奴良組でケジメつけな」
「………承知、しました」

 とてもではないが、承知したようには見えぬ憤怒の表情で、いや、目の端に輝いたものを袖で拭い、唇をかみ締めて、首無はそれ以降、リクオを見なかった。
 毛倡妓と並び、心の内で暴れるものを吐き出してしまうかのように、襲い来る者どもを殲滅せんと、それまでに無く激しい綾糸を奮う。

 リクオは、傍らの雪女が、大きな満月の瞳で己を見つめているのを、いつまでも見つめ返していたい気分だったが、そうもいかない。
 そう、夜明けが近いのだ。
 弐條城の天守閣が近づいてくる。激しく争う九尾と、奴良勢を纏い争う二代目の姿が、小さく見える。
 両者、拮抗。
 いや。
 ――― 羽衣狐が、黒い鎖のようなものに動きを取られている。
 陰陽師の鎖、それも式神《破軍》による強固な鎖が纏わりつき、一太刀すら上手く出せないでいる。

 ゆらの姿を見つけた。その側に、猩影が、玉章が。
 どうやら上手くやってくれたらしいと判れば、端役は去るのみだ。
 この抗争の主役は、関東奴良組二代目・奴良鯉伴。
 追われ廃嫡されたかつての若様が、いつまでも出ていて良い舞台ではない。

「つらら」
「若様 ――― リクオ、様」
「悪いな、お前の捜してる若様、オレも京都中捜してみたんだが」

 抱き寄せて、こつんと額を合わせる。
 もう会うまいと思っていたその女が、腕の中にあることを、守れたことを嬉しく思った。
 同時に、女が呼ぶ、女が捜すその守子を、捜し当ててやれなかったのを、申し訳なく思った。



「ここも、よく捜してみたんだが」



 リクオは己の胸をぽんぽんと叩いて。



「もう、奴良の若様は、見つからなかった。捜してくれていたのに、ごめんな」
「そんな ――― そんなの ――― 」



 嘘。まさか。ううん、でも。

 あの守子の少年と、目の前の美丈夫と、似ていないと思っても重ねてしまう自分に、今ようやく納得できた雪女、騙されていたよりも、捜しても見つからなかったと、本人の口から語られたのが胸をしめつけて仕方なかった。

「ここに、居るのに」
「ああ」
「目の前に、居るのに?」
「ああ、それでも連れてきてやれなかった、ごめんな。だけとつらら、《若》じゃなくても、オレはお前が好きだよ。会えて嬉しかった。
 どこにも居ない奴を捜すのはやめて、さっさと好い男でもつくれよ。……じゃあな」

 絡められたのは、小指一本。
 恋を語るなら、指の全てを絡め取って、握ってくだされば良いものを、やはり若君によく似た微笑を浮かべ美丈夫は、それ以上を雪女に求めない。

 だが雪女が思いだすには、それで充分。



 ボクはつららを守れるくらい強くなる。
 ボクが例え《若》じゃなくなっても。
 ボクは、つららが好き。



 ほんの一瞬、掠めるように唇が触れあい、次の瞬間、リクオの姿は無数の花弁となって、消えた。
 雪女が辺りを慌てて見回せば、既に姿は遠く、鬼童丸を引き連れた大将は鏖地蔵目がけ、駆け抜けていた。

「 ――― 私も、貴方が」

 雪女の返答を聞かぬまま。知らぬまま。求めぬまま。

 はらりと、知らぬうちに涙が頬を伝った。
 リクオの口付けは、血の味がした。病の、死の、味がした。