狐の夢、紅い夢、囚われの夢、咎人の夢。 この二、三年、眠りにつく度に見た夢だ。 目は見えなくとも、己の手首足首に絡みつく鎖の感触で、耳に届く乾いた風の音で、湿った墓場の臭いで、これがその夢だなどとすぐにわかる。 腹の中はあらかた喰われたし、四肢にいたってはまともに残っている場所などない。 そうなってからは、あの狐ども、痛かろう辛かろう悲しかろう憎かろうと口々にけらけら笑って己の周囲を巡り回るのみとなり、やがてそれにも飽きたらしく、夢にも出てこなくなった。 「此奴の体はあらかた喰ろうた」 「やはり喰うなら子供のうちに限る」 「柔らかくてンマイ贄であった。満腹じゃ」 「喉を最後まで残しておかなかったのは、失敗じゃったな。悲鳴だの呻きだの、もっと可愛い鳴き声を上げさせておけば、面白かったかもしれぬ」 「いやしかし、こやつは真言を使う」 「左様。こやつの言葉や声はちと眩しすぎる」 「せめて耳は最後に残してやろう。ククク………己が喰われる音を聞きながら、絶望に染まっていく心が楽しみじゃ」 「おお、おお、それは楽しみ」 「絶望で心が染めあげられたなら、果実のようにもいで喰らってやろう。涙で熟れた心はまた格別であろうぞ」 こんな風に仔狐たちが相談してからは、夢そのものもあまり見なくなっていたので、久方ぶりに嗅いだ墓場の空気に、さては親玉を退治され、新たな封印を施されたので、いよいよ腹いせに己の全てを、声を聞く耳も、何かを感じる心も、喰らってしまうつもりなのだなと覚悟をした。 羽衣狐は転生妖怪。 退治をしようとも、また次の羽衣を纏い現れる大妖怪だ、一度妖力を失い封印されたとしても、また新たな羽衣を探して現れる。 だから、呪いは晴れぬ。 だから、呪いは尽きぬ。 そうであろうと思って、自らが望んだこと。 ならばせめて、仔狐どもが好むような実にだけはなってやるまいと、むしろ仔狐どもが他のところで悪さをせぬように、改心するくらいの不味い実になってやろうかと笑いながら、やがて聞こえてくるだろう、仔狐どもの声を待ったのだが。 さくさくと軽やかな足音は、仔狐のものではなかった。 獣ではなく、人のもの。 だが、それが誰なのか、どういう者なのか、判別するにも、目玉は喰われて失われていた。 「……狐は消えたよ。よく耐えたね」 己の目の前で立ち止まったのは、人か、妖か。 とにかく、二本の足で歩く者のようだが、どういう姿かは判らない。 声は若い男のものだ。子供の域は抜けている。 ねぎらうような静かな声が、辺りをはばかるようにそう言うので、首を傾げた。 消えたとは、どういうことだろう。 呪いは失われたということか。 羽衣狐そのものが、消えたということなのか。 あの狐の無念は、晴れたと言うのか。 そしてそれを、この人は何故こんな風に、誰かを気にするように囁き声で言うのだろう。 「そう、無念は晴れた。少しいびつだが、以前よりはよほど正しい形で、羽衣狐は生まれ変わったんだ」 声は出していないのに、思考を読みとって、彼のひとは答え、続けた。 「だが、鵺を産みだそうとする者は、消えていない」 鵺を、産みだそうと画策したもの。 どういうことか。 鵺とは、羽衣狐の息子であり陰陽師であった安部晴明が、化生してそう呼ばれるようになったのではないか。 「まだ名は呼べない。呼べばあいつは、私に気づいてしまうから。君よ、目を開き、すべからく見よ。そうすれば気づく」 目を開けよと、目玉を喰われた己へ言う、この人を笑う気にも、厭う気にもなれなかった。 逆に、そうだ、ここは己の夢の中、己の《世界》であるはずなのに、何故目が見えないのかと、疑問が生じた。 疑問は焦りに、焦りは怒りに、容易に矛先を変える。 己の心の波を静かにおさめるのが、精一杯であった。 ここは呪いの夢であり呪い夢だから、そこで贄となりて果てるも当然であろうと思われていたのが、ただ一つの言葉だけで揺らぐ。 夢ならば夢なりてゆめゆめ夢以外のものではなかろうに。 それでは何故、この夢の中で目は、開かないのか。 「目が開いていないのではない、これが、無明なんだ」 ――― 無明。 「明かりを、見つけてごらん、花霞リクオ」 そこで、目が、覚めた。 ...三千世界の鴉を殺せ...
見慣れた、伏目屋敷の天井。 屋敷ができあがったその日のうちに、まだ新しい天井板に可愛らしい足跡をつけたのは、一家のネコマタたちだ。 今はその天井にも天井裏にも、小物たちの気配は無い。 ともすれば、再び眠りに落ちてしまいそうな重い頭を巡らせると、枝垂れ桜の若木が視界に入った。 花の季節を終え、緑の葉を生い茂らせた桜が、夜風に気持ちよさそうに揺れている。 帰ってきたのだ。 そう、思った。 頭の芯の方は、まだ眠りの底にいるかのように重く、だから逆に、己の胸にかかる重みを、リクオはむしろ自然に冷静に、見つめ返せたのだろう。 目を落とせば、そこには雪女が、脇にしゃんと座っていたのが次第に頭を深く深く落としてしまった、と言ったような姿勢で、己の胸元めがけて突っ伏しているのだった。 斜めに姿勢が崩れた雪女は、しっかり帯を結んでいるにも関わらず、すやすやと熟睡している。 眠った横顔は、あどけない。 目元は赤く、泣き腫れていた。 そっと頬を撫でてやっても、まだすうすうと寝息をたてている。 眠るなら、客間にでも下がって身を横たえれば良いだろうに、気丈な彼女のこと、拒んでこうして己の側にいてくれるのだろう。 身を起こし、彼女の上帯だけを解いて楽にさせてやると、素直に倒れ込んできた。 己の眠っている場所を譲ってやれば、仔猫のようにころりと身を横たえる。 その寝顔を、しばらく見つめた。 誰か呼んで、客間を用意させようかとも思ったが、起こすのも可哀相だし、起きれば下がらぬと言いそうだ。 疲れているのだろう、としか思わないのは、彼自身もまた、警戒心が無いと副将たちから事あるごとに言われてしまうくらい、まだ幼い部分があるからだった。 明王姿ならば立派な青年に見えるとは言え、それでも妖怪の世界では元服してようやく二年。 人間の姿ではまだ義務教育も終えていない。 唇を奪ってやろうとすら考えず、ただ互いの場所を交換した後、しばらく彼はその場で、彼女の寝顔をぼんやり見つめていたが、ふと気恥ずかしくなり、やがて一陣の風が、ざざりと森を渡った拍子、屋敷の者どもの気配を運んできたのを機に、席を立った。 屋敷の中には、いつもより妖怪たちの数が少ないようである。 顔を洗って着替えている間も、誰に出くわすこともなく、気配は専ら、離れの台所に満ちているので、そこを覗くまで、己の手首に元通りおさまっている紅瑪瑙の数珠の理由も、己の部屋にいた雪女の理由も、はてまた今があれからどれくらい経った宵なのかも訪ねられずにいた。 台所には茶釜狸を賄い筆頭に、猫や猿や狸や、付喪神や童子姿の小物たちが集まって、愛らしい姿に鉢巻を締め、この戦で散らかった屋敷の後始末に追われている様子である。 カッターシャツにデニムをはいただけのラフな姿では緊張感に欠けて、悪い気がしたが、水を一杯飲みたかったので、戸口から顔だけ見せた。 「いいかお前たち、大将のお部屋周りはばたばたするんじゃないぞ。お休み中なんだから……って、た、た、た、大将おぉおおぉッッ?!」 「ええッ?!」 「大将!大将!」 「リクオさま、もう大丈夫なの?!」 「お、お、俺、猩影さま呼んでくるっ」 茶釜狸が一番に気づいて声を上げるや、台所の小物たちが一斉に戸口を振り返って騒ぎになった。 相変わらずのにぎやかぶりに、小さく笑みが漏れる。 母が儚くなってから、この賑やかさに、どれだけ心が救われてきたろうか。 「平気だよ。ずいぶん寝た気がするし、呪いの重たさももう感じない。妖気が吹き込んでくるのを感じる。今日、何日だい」 「今日は日曜日。大将、あれから丸七日、眠ってたんですよ」 「七日か………冷蔵庫ん中の豆腐、あといなり寿司、さすがにダメだろうな。食い意地張った誰かさんが腹こわす前に、ほっかっとこ」 「………大将」 「………ううん、大将のそういうトコも、僕たち、大好きだけど」 「目が覚めたと思ったら、いきなり所帯じみるなよ、リクオ」 台所の小物たちに代わって、彼等の心持ちを言い表したのは、小物の一人に呼ばれて姿を現した猩影だった。 こちらもいくらかは、人の血が流れている。 あの大立ち回りの際に見せていた、深灰の大猿ではなく、今は上背のある人の青年の姿で、戸口に立っていた。衣服も、能役者のようなそれからは改め、大きめの赤いパーカーにデニムを履いた姿である。 短い頭髪が、ところどころ朱色に染まった深灰であるのと、デニムから覗いた大きな素足が器用そうに床を掴んでいるのが、らしいと言えば、らしい。 「そういうの、こいつらにやらせとけばいいから。こいつらだって、せっかくの仕事取られちゃたまんねぇよ」 「賄いは元々オレの仕事だろ」 「そりゃ、平時はな。今の仕事は休むこと。水を飲むなら飲むで、さっさと寝床に戻ってくれねぇと、後からオレが玉章に怒られちまうよ。あいつがいない間、お前を見張ってろって言われてんだから」 「その寝床なんだが、猩影」 冷蔵庫の扉を閉めて、茶釜狸が差し出した白湯を含み、仔猿たちが運んできた椅子に腰掛けながら、 「なんで奴良組の雪女が、侍ってるんだ?」 誰の差し金か、訊かなくてもわかるような気はしたが、あえて訊いた。 猩影も反対はしなかったのだろう、にやりとした。 この二人は犬猿の仲のように見えて、実は無二の親友ではないのかと疑いたくなるところがある。 「手ぇ、出したか」 「出すかよ」 「なんだよ、据え膳食わぬは男の恥だろう」 「何がどうしてそうなったか判らないうちに手が出せるか。君子危うきに近寄らずだ」 「流されるままに二代目作戦、ダメか」 「二人して、そんなてんご言わんといて、阿呆らし」 「そう怒るなって」 「男の寝床に女一人侍らせるなんざ、えげつない噂がたったら可哀想や。今度そんなことぬかしたら、承知せんで」 「でも、一人でいいって言い張ったのは、つららの姐さんの方だぜ」 「なに?」 「この一週間、ずっと一人でお前のこと看病して、側についてたんだ。お小さい頃にしてあげられなかった分だとか何だとか」 「お小さい頃って……参るな。いつまで若様だと思われてるんだ、オレ」 「そればかりじゃないだろうけどさ、口実にゃもってこいだろ。それに、お前を若様だと思ってないのは、どうやらお前だけだ。お前が命を取り留めたってんで奴良組の奴等、いやその一部のお前の小さい頃を知ってる奴らがな、お前の人の姿を見てお前に気づいて、お前を東京に連れて帰るって躍起になってた。本家のほら、青のアニキと黒のアニキ。お前、愛されてんのな。 お前ときたら昼は凍り付いてるし、夜に氷が溶けたかと思えばその姿で熱を出したりするし、容態が落ち着かないうちにそんな長旅させるわけにいかねえって、二代目が言ってようやく落ち着いたんだ。そん時に、その数珠、お前の手に預けていった。 今は花開院本家で、玉章と、首無のアニキが話を詰めてるよ。お前の事だけじゃなくて、京都の被害の事とか、花霞一家の立場とか、そういう小難しい話をしているんだと。んで、その間だけでもって、つららの姐さんがこっちに来た。 話し合いにゃ、人間のお偉いさんも混じってるって、言ってたかな。報道発表をする前に色々隠さなきゃならないことがあるとかで、打ち合わせするんだそうだ。ちなみにもう、自衛隊は入ってるんだが、夜の間は動けねぇってんで、ウチの奴等が相変わらず借り出されて、屋敷の中はガランとした有様さ」 「ああ、人間の事情もあったな。まあ、玉章に任せておけば間違いないだろ。伏目に自衛隊が入ってきても、ここら一帯は、隠してるんだよな?」 「玉章が木の葉の《畏》で」 「ならいい。オレもちょっと辺りの様子、見てくる。つららの奴、寝かせておいてやってくれ」 「やめろって言ったって聞きやしないだろうから止めねぇけど、さっさと戻ってきてくれよ」 「夜明け前までには、戻る」 いつも、空っぽのオイルライターの中に入って大将のお供をする閻羅童子が、この時もガスコンロの中からいそいそと火の玉の姿で現れたが、リクオはライターを取り出しもしない。 「おい、供の一人くらい連れて行け」 「おおきに、ありがとさん」 「リクオ」 「ええて。何かあれば、式、飛ばす」 「……あんまり遠く、行くなよ」 「おかんか、お前は」 茶釜狸が、それこそ世話焼き母さんのように、せめて何か食べていけと煩かったが、腹の中が重苦しいのはまだ変わらなかったので断った。 すると今度は、飴玉をいくつか無理矢理ポケットにねじ込んできたので、逃げるようにそこを後にした。 賑やかなのはいい。 いいのだが、一人になりたいときに、少し、困る。 贅沢な話は百も承知なので、何よりも己の心の混乱や波風を、己の中でおさめられない凡愚ぶりに困っている。ねじ込まれた飴玉を、一つ口に放り込んでみれば、甘さは等しく彼等が己を甘やかそうとする程度に想えて、守ろうとしているつもりが逆に守られている事実に、さらに困るばかり。 台所に詰めていた小物どもが減っていたのは、外の片付けや見回りに借り出されているばかりでなく、もうあの場所へ帰ってこないものもあるからだろう。 守ると決めて、守れなかったものがある。 一つ、二つ、三つ、零れ落ちていったものがある。 どうして同胞を守ってくれなかったと、それでも彼等は決して、決して、言わないのだ。 向かう先は、母が眠る墓地だ。 明かりが消え、闇に沈んだ京都の街で、星明りだけを頼りに動き回るなど、妖の者にしかかなうまい。 その点、明王と呼ばれてはいても、リクオは確かに妖の者であった。 封印が破られてから、新たな封印が施されるまでの間、続く地鳴りや広がる火の手に、外の街から助けに入ろうにも人間の手などまるで無力。京都から外へ出ようにも、羽衣狐一派の者の前に、逃げられず絡め取られた人間もあり、そういった者は生餌として捕らえられ、弐條城や他の根城へ閉じ込められた。 今になってようやく、人の手が再びこの街へ入るらしいが、一度は故郷を捨てた人間でも、災いが過ぎ去れば必ず帰ってくる。 そこが故郷だからだ。家だからだ。 リクオが預かっている伏目の稲荷山には、封印の要となった稲荷大社を囲むように、いくつか寺があり、自然、檀家の墓などもひっそりと裏手に建てられて、彼岸会や盆などには多くの人が訪ねて手を合わせている。 平成の世になり、妖はもちろん、神仏への畏敬の念すら人は忘れていると言われることが多くなっているようだが、少なくともこの伏目稲荷は商売繁盛の稲荷が祭られて、観光スポットにもなっているためか、檀家以外にも多くの人が寺社に手を合わせていく。 人々が帰ってきたときに、続いた揺れだの大妖が暴れた挙句のとばっちりだので、墓地が荒れたままではたまるまい、一人になりついでに、少し片付けておこうか、と、思って、足を向けたのだ。 己が母を気にするように、多くの人の母や父がここに眠っているのだから。 ところが向かった先には星明りだけでなく、鬼火人魂がふわふわ浮いて、真昼のように辺りを照らしていた。 その中で、手洗鬼やおっかむろなど力自慢の妖怪どもが鉢巻姿で、土台から転がり落ちた墓石を元通り戻し、欠けた石を拾い集めて鈎針女がするすると縫いつけているではないか。 「あれ大将、もういいんですか?」 「おお、気がつきなすったか!」 「無理しなすったら、まぁた玉章さまがウルサイですぜ」 「あ、わかった、お母さまのお墓ですね。大丈夫、無事ですよ」 「ついでに他の人間の墓だのも、直しておきましたから。いつ人間どもが帰ってきても、伏目の明王様の噂は本当だったって畏れ敬われこそすれ、伏目のご利益が無いなんて、思われないはずですわ、リクオ様。ですからあとは、胸を張ってお休みくださいな」 「そうそう、大将御自ら後始末だなんて、わし等が働いてないみたいで体裁が悪い。猿でも狸でも使いをやってくださったら、この辺の事なんて全部お報せしますんで」 矢継ぎ早に報されるあれこれに目を瞬かせているうちに、今度は花霞家の墓の方へ背中を押され、鬼火に先導されて導かれてみると、やはり袖を襷にまくりあげた鬼童丸が、母一人が眠る墓の前に線香を焚き、両手を合わせ瞑目していた。 あの戦いの最中、常に腰に帯びていた刀は、既に無い。 代わりに携えているのは、合わせた両手に絡んだ、水晶の数珠だ。 「お前が京都を守ったことは、報告しておいた」 「……オレの仕事、みんな先回りして取っちまう。かなわんなぁ」 「手足になるのが兵、兵を動かし泰山のごとく己は動かず静観するのが将。お前は少し、動きすぎる」 「オヤジさんは、そりゃあ立派な将の器だからな。拙い大将で申し訳ないね」 「そういう事は、舌を出しながら言うものではないぞ」 ほれ、と場所を譲られ、己もまた線香をたてて手を合わせると、ようやく呼吸を思い出したような気がした。 外はどうなっているやらと、軽い見回りのつもりで屋敷を出てきたつもりだったが、いざここへ立ってみると、無我ではなくただ呆然としている己が在り、そこで初めて様子を見に来たのではなく、己の足が何故ここに向いたのかを理解した。 これでは、我侭を言いに来ただけだ。 守りたいと思った、守れないものがあった、哀しかったと、泣きつきに来ただけだ。 己の手から零れて壊され尽くした京都の街に、力が抜けただけだ。 己を守り抜き、力尽きて眠りについた人を、さらに頼りに来ただけだ。 「弱いな、オレは。力もそうだが、心が弱い。……アンタにも酷いことを言った。すまなかった、鬼童丸」 「何のことだ」 「死んでくれと言った。説き伏せるべきだった。アンタがまた、執着に迷わないように。それじゃあ執着の先を、鵺からオレに変えただけだって事、ちゃんと言って聞かせるべきだったのに」 過ぎた執着は悪だ。 万物は流転し定まらない。 人や妖の死、滅びもまた流転。 流れに逆らい遡ろうとすれば、あるいは流されてしまったものを呼び戻そうなどとすれば、必ず歪みが生じて波紋を起こす。 波紋は他のものを押し退け、飲み込み、涅槃から遠ざける。 鬼童丸を千年苦しめたのも、宿願への執着に他ならず、あの日々が二度と戻らぬ悲哀を受け入れぬまま鵺の復活だけを求めていたなら、そうしてそれを叶えてしまっていたなら、帰らぬ日々が何故尊かったのかを理解できず、執着のままに現世をさまよう業を背負っていただろう。 帰ってきたように見えても、手に入れたものはかつてのものとは魂や心の形を似せただけの形代だ。 反魂の術が古来から試され続けていながら、一度としてかなった試しがないのは、術という形式を取っていながらあれは、生あるものへの訓戒でしかないからだ。 お前が取り戻そうとしているものは、取り戻したとしても、やはり手からこぼれていくのだと。 だというのに、リクオは執着を捨てられなかった。 まずいことをしたものだと首を振るが、逆に鬼童丸は含んだように笑う。 「さぁて、お前に十を説かれても一もわからん無明なワシのこと、時間が劫ほどもあればワシもそれで根負けしたかもしれんが、あの雪娘の操は散らされておったろうなぁ。憶えておるか、あの時のお前の暴れ方ときたら、花開院本家がそのまま崩れてしまいそうだった。なんとも、怒り狂ったものよ。 ワシは嬉しかったぞ。五年……そろそろ六年になるか、お主を見ているが、あのような我侭を言われたのは初めてだった」 「アンタに被虐趣味があったとは知らなかった」 「とぼけおって」 「鬼童丸、刀は社か?」 「《鶯丸》ともども、陰陽師どもが封をした。それでいいのだろう」 「会ったときは抱いて眠ってたのに、簡単に手放すようになったもんだ」 「最初は落ち着かなかったがな、最近は要らぬところで持っていても肩が凝るばかりだ」 「奴良組二代目の首も、もう要らないのかい」 「要らんなぁ。そんなものより、さっさと花霞二代目が抱きたい」 「お前等、みんなそれだ。オレはまだ十四だと言っているのに」 「千年前ならもう立派な男君だぞ。通う先が一つや二つあってもよかろうに」 「それは今じゃ非常識って言うんだぜ」 「非常識であろうが、お前を此の世に繋ぎとめる楔になればそれで良い。お前は彼岸に近すぎる」 「………似たようなこと、玉章にも言われたな」 執着の無さは危ういと。 その時は黙って流したリクオ、今日も答えられるような言葉は見つけられない。 彼にとって、執着は悪だ。守護は善だ。 守護とは心と体の守りに他ならず、誰かがたった一人で暗い淵を覗き込んでいるのなら、手を引いて光差す道へ導くことこそを指す。倒すとは相手を駆逐することではなく、相手の救いと涅槃への道連れを目的とした破邪を指す。 一家を構えたのも、己を慕ってくる妖怪どもが道に迷って情を忘れた業魔とならぬよう、己の側から離れても道を見つけられるようになるまで、側にいて見ているだけのつもりだった。 その守護の間は、いかなる神にも仏にも、いたずらに彼等の道を閉ざされては困る。 道を歩み始めた妖怪どもは、どんな影の濃い場所から生まれた者でも、己の光をきちんと見出すものだ。 そうなってから、リクオの元を去った者もあったし、そういった者を追ったことは無い。 さらなる道を歩みたいと言う者に、さらに教え導くほどの心得をリクオは持っていないし、彼自身、学びの最中。 だから、執着せよというのもある意味、己がこれまで悪だとしていたことの中にも多面的な部分があって、その中の良いものを、そう説かれているのかもしれない、というところまでは理解できるのだが。 執着はどうしても、哀しい記憶と後悔に繋がる。 今はまだ、捨てていた方が、よさそうだった。 鏖地蔵に入り込まれた一瞬の隙も、守れなかった後悔や喪失の哀しみから生まれたのだから。 守れなかったものへの執着から、生まれたのだから。 守護を目的にして妖怪どもを調伏してきたとは言え、守れなかったものの方が、圧倒的に多い。 打ちのめされ、呆然とし、空を仰いで、そんな時に、リクオはここへ来る。 執着を、葬るために。 ここは、花霞リクオの執着の墓でもある。 後悔が恨みとならぬよう、哀しみが妬みとならぬよう。 今一度、御影の墓石を見つめてから、何かを思い出したようにふらりと歩み出した。 自分自身で、足元が定まっていないなあと首を傾げたので、呼び止められたのは当然であった。 「どこへ行く、リクオ」 「市街」 「偵察ならば、小物を使えと言うのに」 「大事なバイト先くらい、顔出ださねーと」 「聞き分けの無い奴だ」 言いつつ、リクオの横を鬼童丸が当然のように歩むので、 「オヤジさん、ここに居てくれていいんだぜ」 暗に、一人になりたいのだと含みを持たせたが、拒まれた。 「今のお前は迷子の足取りだ。一人にするとどこまでいくか、わからん」 それもそうだとリクオは思い直した。 道を失い、無明である。 これが迷子でなくて、何だろう。 明かりを、見つけてごらん、花霞リクオ。 忘れていた夢の尻尾が、不意に目の前をよぎった。 +++
難しいことは一切溶けて、雪女はたゆたっていた。 好いた男の香りの中で、たゆたっていた。 目を覚ましていた間は、あれは違うこれは駄目だとあれこれ多く思い悩んでいたような気もするが、こうしてたゆたっていると一切の憂いを忘れて安堵を覚える。 そのまま、もっと深い眠りに引き込まれてしまうかと思われたが、すぐ側で、こそこそと話し声がするので、つい聞き耳をたててしまった。 「あのひとが大将のお嫁さん?綺麗な人だねぇ」 「あんまりジロジロ見るなよ、エロ狸」 「しーッ、静かにしろよ、起きちゃうよ」 「そうだよ。大将が、寝かせておいてやれって言ってたよ。疲れてるんだよ」 「うん。ずうっと看病してくれてたもん」 「………でも、それだけかな」 「………それだけにしては、着物、はだけてない?」 「………おつとめ、したのかな」 「滅多なこと言うなよ。大将に怒られるぞ」 「でもさ」 「だってさ」 可愛い小物の声に耳をそばだてているうち、雪女の意識はたゆたっていた場所から次第に現へ引き戻されて、はたと目を覚ました拍子、己が布団に寝かされているとわかって、がばりと身を起こした。 それが大変によくなかった。 かたい帯は外されていたので、雪女の肩を、襦袢がしどけなく、するり、と滑り。 乱れた黒髪が、絹のようになめらかにこれを追って白い肩や胸元を覆った。 お、おおおぉぉ……………。 襖を小さく開けて部屋をのぞき込んでいた仔狸や仔猿たちは、律儀に自らの手で自らの両目を覆ったが、小さな指の隙間から、ぱっちりとした大きな目がさらに大きく見開かれ、思わぬ眼福にへらりと口元が上向きに歪んで静かな歓声があがった。 次の瞬間、襖の隙間から吹き荒れた絶対零度の大嵐に、彼等が氷のオブジェと化したのは、言うまでも無い。 さて、雪女は、このように目を覚ました。 これまで布団も敷かず、休む部屋を与えられても踏み入りもせず、寝ずの看病を続けていた雪女が、花霞一家で初めて貪った眠りからの目覚めであった。 |